朝の教室は、春の陽光で明るく照らされていた。ガラス窓から射し込む光が、机の上に四角い影を落としている。空は席に着き、静かに教科書を取り出した。周囲ではクラスメイトたちが、新学期の話題で賑わっていた。
「ねえねえ、転校生って今日来るの?」
「そうらしいよ。男子だってさ」
「どんな人かな?イケメンだといいな」
 女子たちの期待に満ちた声が飛び交う。空はそれらを遠くから聞いているような気分だった。窓の外に目をやると、朝の風に桜の花びらが舞っている。一つの花びらが風に乗って遠くへ飛んでいく様子を、空は静かに見つめた。
「おはようございます」
 高橋先生が教室に入ってきて、少しずつ教室が静かになる。
「今日は、皆さんに紹介したい人がいます」
 教室の空気が一気に引き締まった。女子たちが身を乗り出すようにして、教室の入り口に視線を向ける。空も何となく顔を上げた。
「葉山遥くん、入ってきなさい」
 ドアが開き、一人の男子生徒が入ってきた。背の高い、細身の体。少し長めの前髪が目元を隠している。制服の着こなしは少し乱れていて、第一ボタンが外されていた。彼が教室に入ると、途端に女子たちの間で小さなざわめきが起きた。
「葉山くんは東京から転校してきました。皆さん、よろしくお願いします」
 葉山は軽く会釈すると、意外なほど明るい声で自己紹介を始めた。
「葉山遥です。東京から来ました。趣味は音楽と、あとは……人間観察かな」
 最後の言葉に、クラスから小さな笑いが起きた。彼の唇が少し上がり、自信に満ちた笑顔を見せる。
「葉山くんは……そうですね、桜井さんの隣の席にしましょう」
 高橋先生の言葉に、空は一瞬だけ目を見開いた。自分の隣? 窓際の一番後ろの席。クラスの中で最も目立たない場所。そんな場所に来るのは、この転校生が初めてだった。
 葉山は空の席の方へと歩いてきた。女子たちの視線が彼を追い、そしてその視線が初めて空にも向けられる。羨望と好奇心の入り混じった視線。空は少し体を強張らせた。
「よろしく」
 葉山が席に着きながら、小さく言った。声の調子は軽いが、その瞳は空をじっと見つめていた。空は短く「よろしく」と返したが、目は合わせなかった。

 その日の授業中、空は隣の席の気配を強く意識していた。普段なら教室の喧騒も自分とは関係のない遠い世界のことのように感じるのに、今日は違う。葉山の存在が、空の周囲の空気を変えていた。
 数学の授業中、空はノートに問題を解いていた。数式が並ぶページの余白に、無意識に小さな鳥の絵を描き始める。細い線で描かれた鳥が、ノートの端から飛び立とうとしているように見えた。
「上手いな」
 突然、横から声がした。空は驚いて顔を上げた。葉山が空のノートを見ていた。
「美術部?」
 葉山は小さく尋ねた。空は少し目を伏せ、小さくうなずく。
「やっぱり。雰囲気出てるもんな」
 空は黙ったまま、再び問題に目を向けた。でも、隣の視線が自分から離れないことを感じていた。不思議と、その視線に嫌悪感はなかった。ただ、慣れない気配に少し落ち着かない気持ちになる。
 授業が終わりの鐘が鳴り、昼休みになった。空は静かに弁当を取り出した。いつものように美咲と食べるつもりで席を立とうとした時、突然葉山が声をかけてきた。
「屋上って行ってもいいの?この学校」
「え?」
 思いがけない質問に、空は言葉に詰まった。
「屋上。俺、前の学校では屋上でよく昼飯食ってたんだよね」
「……使えるけど、あまり人は行かないかな」
「そうなんだ。じゃあ、案内してくれない?」
 葉山の唐突な提案に、空は一瞬どう反応すべきか分からなかった。
「私、友達と約束があるから……」
「そっか、残念」
 葉山は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「また今度ね」
 空は小さく頷き、教室を出た。廊下に出ると、美咲が既に待っていた。
「空! 遅いよー」
「ごめん」
「ねえねえ、あの転校生、隣の席なんだって?どんな人?」
 美咲の好奇心に満ちた質問に、空は「普通の人」とだけ答えた。
 二人はいつもの場所、中庭の木陰のベンチに座った。桜の木の下で、舞い落ちる花びらが時折二人の弁当箱に落ちる。
「今日のお弁当、何?」
 美咲が空の弁当箱を覗き込む。
「卵焼きと鮭の塩焼き、あとひじきの煮物」
「わあ、いつも空のお弁当は綺麗だね。私のなんて見て」
 美咲が自分の弁当を開ける。色鮮やかだが、やや雑然と詰められた弁当。
「お母さんが朝寝坊しちゃって、急いで作ったんだって」
 美咲の言葉に、空は一瞬だけ手が止まった。母親が作ってくれる弁当。空にとっては、もう五年も前の記憶だ。
「でも美味しそう」
 空は静かに言った。二人は穏やかな春の日差しの中で、弁当を食べ始めた。けれど、空の心の中では、朝から続く微かな違和感が引っかかっていた。葉山遥という存在が、今日の空の日常に小さなさざ波を立てていた。

 午後の授業が終わり、美術部の活動が始まった。空は今日こそ何か描きたいものを見つけようと、キャンバスの前に立っていた。白い布に向かうと、いつも頭が真っ白になる。描きたいものはあるはずなのに、それが何なのか、自分でも分からない。
「空ちゃん、具合悪いの?」
 美咲が心配そうに声をかけてきた。空は小さく首を振る。
「ちょっと、描くものを考えてるだけ」
「そっか。私今日は花を描くんだ。春だし」
 美咲は明るく言って、自分のイーゼルに向かった。空はふと、窓の外を見た。校庭では陸上部が練習している。走る生徒たち、応援する声、そして少し離れた場所で一人立っている人影。
 瞳を凝らすと、それが葉山だと分かった。彼は校舎を見上げている。見上げている先は……美術室のある窓。空と目が合った瞬間、葉山は軽く手を振った。空は慌てて視線を逸らした。
(なぜあそこに……?)
 心臓が少し早く打ち始める。見られているという感覚は、空にとって居心地が悪かった。筆を握る手に僅かな震えを感じる。
「空、どうしたの?顔色悪いよ?」
 再び美咲の声がした。空は首を振り、「大丈夫」と言った。筆をパレットの青に浸し、ゆっくりとキャンバスに線を引き始めた。
 空の絵が進むにつれ、それは窓の外の風景になっていった。校庭と、その奥に見える山々。そして、画面の隅に小さく、一人立つ人影。自分でも意識せずに描いた、葉山の姿。
「きれいな風景だね」
 背後で鹿島先輩の声がした。空は驚いて振り返った。鹿島奏が静かに空の絵を見つめている。
「あ……ありがとうございます」
「でも、何か足りないね」
 鹿島の言葉に、空は少し目を伏せた。自分でも感じていた虚しさを、鹿島は一目で見抜いたのだ。
「風景を描く時は、その場所に対する自分の感情も描くといい。ただ見たものを写すだけじゃない。見て、感じたものを描く」
 鹿島はそう言って、静かに歩き去った。空は鹿島の後ろ姿を見つめ、それから再び自分の絵に向き合った。
(感じたもの……)
 それが何なのか、空にはまだ分からなかった。

 美術部の活動が終わり、空は一人で帰路についた。美咲は生徒会の用事があると言って先に帰った。夕暮れの校舎は静けさに包まれ、空の足音だけが廊下に響く。
校門を出ようとした時、そこに立っていたのは葉山だった。彼は校門の柱に寄りかかり、何かを待っているような素振りだった。空を見つけると、彼は笑顔を見せた。
「お疲れ様」
 葉山が軽く手を振る。空は立ち止まり、困惑した表情を浮かべた。
「待っていたの?」
「うん、まあね」
 葉山は肩をすくめ、空の隣に歩み寄った。
「一緒に帰ろうと思って。どっち方面?」
「……高台の方」
「本当? 俺もそっち。一緒だね」
 葉山の顔に笑みが広がる。空は少し戸惑ったが、二人は並んで歩き始めた。
 道中、葉山は次々と話題を振ってきた。東京での生活のこと、転校してきた理由、好きな音楽のこと。空はほとんど聞き役だったが、葉山は空の短い返事にも満足げだった。
「ここから見える海、きれいだね」
 高台への坂道を上りながら、葉山が言った。夕日に染まった海が、オレンジ色に輝いている。
「うん」
「空って、名前も景色みたいだな」
 葉山の言葉に、空は一瞬だけ足を止めた。
「母が付けた名前」
 つい口にした言葉に、自分で驚く。普段なら決して話さないことだった。
「そうなんだ。いい名前だね」
 葉山の素直な言葉に、空は小さくうなずいた。二人はしばらく黙って歩き、やがて分かれ道に差し掛かった。
「俺はこっち。また明日」
 葉山が手を振り、別の道へと歩いていく。空はその後ろ姿を見送った後、自分の家への道を歩き始めた。
 何かが違う。今日は何かがいつもと違う。空の心に、小さな波紋が広がっていた。

 家に帰ると、父は出張の準備をしていた。スーツケースに書類やネクタイを詰めている。
「ただいま」
「おかえり、空」
 父は忙しそうに荷物をまとめながら、空に短く微笑んだ。
「明日の朝早く出発するから、星のこと頼むね」
「分かった」
 空は静かに返事をし、台所へと向かった。冷蔵庫を開け、夕食の準備を始める。料理をしながら、ふと窓の外を見ると、夕焼けが空を染め上げていた。葉山と見た景色と同じ空。
「お姉ちゃん、ただいま!」
 星が元気よく帰ってきた。学校のカバンを放り出し、空に駆け寄ってくる。
「お帰り。手、洗ってきて」
「うん! あ、今日ね、学校で……」
 星は学校での出来事を楽しそうに話し始めた。友達との会話、算数のテスト、休み時間に見つけた蝶の話。空は「うん」「そう」と相槌を打ちながら、料理を続けた。
「……お姉ちゃん、聞いてる?」
 星の不満そうな声に、空は手を止めた。
「ごめん。もう一度言って?」
 星は少し膨れっ面をした。
「もういい」
 星がリビングに行こうとするのを、空は呼び止めた。
「ねえ、星。ごめんね」
 空は星の前にしゃがみ込み、妹の目を見た。
「お姉ちゃん、最近ぼーっとしてる。昨日の夜も、呼んだのに返事なかったし」
 星の言葉に、空は驚いた。昨日、星が呼んだ記憶はない。そんなに自分は周囲に注意を払っていなかったのだろうか。
「ごめんね。気をつける」
 空は星の頭を優しく撫でた。星は少し機嫌を直したようで、小さく笑った。
「パパ、また出張なの?」
「うん、明日から」
「えー、またぁ?」
 星の声には不満が混じっていた。空は妹の気持ちを理解していた。父が家にいる時間が少ないこと、母がいないこと。それでも、星の前では明るく振る舞わなければと思う。
「パパは仕事頑張ってるんだよ。私たちのために」
「でも……」
 星の言葉が途切れる。空は星を抱きしめ、「大丈夫だよ」と囁いた。いつもの言葉。でも今日は、その言葉が空自身の耳に少し空虚に響いた。
(本当に大丈夫なのかな……)

 夜、空は自分の部屋で窓際に立っていた。星はすでに眠り、父も早めに休んでいる。明日の早朝出発のためだ。
 窓の外には満天の星。月明かりが海面を照らし、銀色の道のように輝いている。空は深く息を吸い込んだ。
 部屋に戻り、スケッチブックを開く。今日、学校で描いた風景画。校庭と、そこに立つ葉山の姿。改めて見ると、なぜ彼を描いたのか自分でも分からなかった。
 鹿島先輩の言葉が思い出される。「見て、感じたものを描く」。
(私は何を感じていたんだろう)
 葉山と話したこと、一緒に帰ったこと。普段なら決して経験しないような出来事。それは空の日常に小さな亀裂を入れたように思えた。怖いような、でも少し心躍るような感覚。
 ふと、母のことを思い出す。母が亡くなった日のこと。あの日も、こんな星空だった。
(お母さん、私、これでいいのかな)
 問いかけは、当然ながら答えを返してはこない。空は静かにスケッチブックを閉じ、ベッドに横になった。
 閉じた瞳の裏に、今日の出来事が次々と浮かんでくる。葉山の笑顔、鹿島の言葉、星の不満げな顔、父の疲れた背中。そして、自分自身の中に生まれた小さな変化。
 明日からの父の不在。また日常が続く。でも、今日の終わりに空が感じたのは、なぜかいつもとは違う予感だった。

 翌朝、空が目を覚ますと、すでに父は出発した後だった。枕元に置かれたメモには、「行ってきます。三日後に帰ります。空、星を頼むね。」と書かれていた。
 いつもなら、父を見送れなかったことに少し寂しさを感じるはずだった。でも今朝は、それ以上に頭の中を占めていることがあった。学校へ行けば、また葉山と会う。その思いが、空の胸に微かな緊張感を生んでいた。
「お姉ちゃん、起きた?」
 星の声が聞こえてきた。空は急いで制服に着替え、部屋を出た。
「おはよう」
「パパ、もう行っちゃったね」
 星の表情に少しの寂しさが浮かぶ。空は星の髪を撫でながら、「うん、でもすぐ帰ってくるって」と微笑んだ。
 朝食の準備をし、星の髪を結い、いつも通りの朝の時間が過ぎていく。けれど、空の心の中では、何かが少しずつ変わり始めていた。
 学校への道を歩きながら、空は昨日見た夕日の海を思い出していた。あの時、葉山と並んで見た景色。今までずっと一人で見ていた景色を、誰かと共有したこと。それは小さな出来事だったかもしれない。でも、空の心に確かな痕跡を残していた。
(今日は、何が起こるんだろう)
 そんな期待と不安が入り混じった気持ちを抱きながら、空は学校の門をくぐった。