七月初旬の陽光が、空の部屋いっぱいに降り注いでいた。窓を開けると、初夏の風が心地よく頬を撫でる。空はベッドから起き上がり、壁に掛けられた絵を見つめた。
 母の筆で描いた、三人の女性の絵。母と鹿島と自分。現実には叶わなかった光景。でも、心の中では確かに存在する大切な風景。その絵が、毎朝空に微笑みかけている。
 スケッチブックを手に取り、窓際に立つ。浜風町の朝は、いつもより爽やかに感じられた。空が一枚の紙を開くと、そこには新しい計画が書かれていた。美術部の夏休み企画展「心の窓」。空が中心となって計画している展示会だ。
(鹿島先輩、見ていてください。私、頑張ります)
 心の中でそう呟きながら、空は階下へと降りた。
 リビングでは、父と星が朝食の準備をしていた。以前なら考えられなかった光景。今では、家事は三人で分担するのが当たり前になっていた。
「おはよう」
「おはよう、空」
 父が微笑みながら応えた。彼の表情には、昔のような疲労感はない。仕事のペースを見直し、家族との時間を大切にする生活に変わっていた。
「今日は葉山くんと美咲ちゃんが来るんだよね?」
 星が楽しそうに尋ねた。
「うん、企画展の打ち合わせで」
 星の表情が明るくなる。彼女は葉山と美咲を心から歓迎していた。家族の輪が少しずつ広がっていることが、星にとっても嬉しいことなのだろう。
 朝食を終え、食器を片付けながら、空は父に尋ねた。
「お父さん、屋根裏の写真、探してみてくれた?」
「ああ、昨日見つけたよ。そこに置いてあるよ」
 テーブルの上の封筒を指さす父。空はそれを手に取り、中身を確認した。母が美術教師だった頃の古い写真。中学生たちに囲まれ、笑顔を見せる母の姿。そして、その傍らには幼い鹿島の姿もあった。
「ありがとう。これも展示に使わせてもらうね」
「もちろん。お母さんも喜ぶと思うよ」
 父の言葉に、空は微笑んだ。母の話題が自然に出るようになったことが、何よりも大きな変化だった。

 昼過ぎ、葉山と美咲が家にやって来た。リビングのテーブルを囲み、三人は企画展の計画を練り始めた。
「『心の窓』か……いいタイトルだね」
 美咲が企画書を見ながら言った。
「うん、鹿島先輩のお母さんからいただいたノートに書いてあった言葉からもらったの」
 空は説明した。鹿島が亡くなった後、彼女の母親から渡されたノート。そこには鹿島が書き残していた言葉や、空の母から学んだ芸術論が記されていた。その中から、「心の窓を開く」というフレーズを展示のテーマにしたのだ。
「どんな作品を展示するの?」
 葉山が尋ねた。彼は東京の親戚の家から通学するようになって一ヶ月。少しずつ表情が明るくなり、肩の力が抜けてきていた。
「美術部のみんなの作品もあるけど、中心は……これ」
 空はスケッチブックを開き、構想図を見せた。大きなキャンバスに描かれる灯台の絵。そして、その周りを囲む小さな絵たち。母の絵、鹿島の絵、そして自分の絵。三世代の「心の窓」を表現する作品。
「すごい……」
 美咲の目が輝いた。
「私も手伝うよ。何ならすぐに始められる?」
「うん、材料は揃えてある。二階の部屋で作業しよう」
 三人は空の部屋へと向かった。かつては誰も入れなかった空の聖域。今では、親しい人たちを迎え入れる開かれた場所になっていた。
 部屋には大きなキャンバスが置かれ、絵の具やパレットが準備されていた。窓から差し込む光が、作業スペースを明るく照らしている。
「じゃあ、始めよう」
 空の合図で、三人は作業を開始した。葉山は背景を、美咲は細部の色付けを、そして空は中心となる灯台を描いていく。黙々と作業する時間もあれば、冗談を言って笑い合う時間もある。和やかな時間が流れていった。
 作業の合間に、美咲が小さな声で空に話しかけた。
「空、本当に変わったね」
「そう?」
「うん。昔の空は、こんな風に誰かと一緒に何かすることなんてなかった」
 美咲の言葉に、空は少し照れながらも頷いた。
「それに……」
 美咲は葉山の方をちらりと見て、小声で続けた。
「葉山くんとの関係も、進展してる?」
 その言葉に、空の頬が熱くなった。
「ま、まだ……はっきりとは...」
「もう、空ってば。いつまでもぐずぐずしてたら、取られちゃうよ」
 美咲はウインクして見せた。彼女自身、葉山への想いを乗り越え、新しい友情を築いていた。空にとって、美咲の存在はかけがえのないものだった。
「ありがとう、美咲」
「何が?」
「いつも……私のことを見ていてくれて」
 美咲は照れたように笑った。
「それが友達でしょ」
 二人の会話を、葉山は気づいていないふりをしながらも、耳を傾けていた。彼の唇の端に、小さな笑みが浮かんでいる。

 夕方、作業が一段落し、空は葉山を駅まで送ることにした。美咲は先に帰り、二人きりになった。
 夕焼けに染まる海岸線を歩きながら、二人は並んで歩いた。
「今日は楽しかった」
 葉山が言った。
「うん、私も」
「桜井さんの家、いい雰囲気だね。前より明るくなった気がする」
「そうかな?」
「うん、確実に。皆の表情が違う」
 葉山の言葉に、空は嬉しくなった。家族の変化を、外からも感じ取れるほどになっていたのだ。
「葉山くんも、元気そうだね」
「うん、東京の家は居心地がいいよ。叔母さんも優しくて……」
 彼の表情に安堵の色が見えた。家庭内暴力の環境から脱出し、新しい生活を始めた葉山。彼もまた、一歩ずつ前に進んでいた。
 二人が灯台の前を通りかかった時、空は立ち止まった。
「ちょっと寄っていく?」
「うん」
 二人は灯台に入り、らせん階段を上った。夕暮れの展望室は、オレンジ色の光に包まれていた。
 窓際に立つ二人の間に、静かな空気が流れる。
「桜井さん」
「なに?」
「企画展、終わったら……一緒に東京行かない?」
 突然の誘いに、空は驚いて葉山を見た。
「俺の住んでる場所も見てほしいし、それに……美術館とか、いろいろ案内したいんだ」
 葉山の頬も赤くなっていた。それは明らかに友達以上の誘いだった。
「行きたい……」
 空の答えに、葉山の表情が明るくなった。
「本当?」
「うん。葉山くんの生活も見てみたいし……」
 言葉の奥に込められた気持ちが、互いに伝わっているようだった。まだ正式な告白はないけれど、二人の関係は確実に次の段階へと進んでいた。
「桜井さん……やっぱり空って呼んでもいい?」
 その言葉に、空の心臓が早鐘を打った。
「うん……いいよ」
「空」
 葉山が彼女の名前を呼ぶ。初めて呼ばれた一人称。それだけで、胸がいっぱいになった。
「私も……遥って呼んでもいい?」
「うん、もちろん」
 二人は恥ずかしそうに微笑み合った。変わる関係。新しい始まり。
 夕日が完全に沈むまで、二人は灯台の展望室で言葉少なに並んで立っていた。言葉にならない思いが、二人の間を行き交っていた。

 企画展「心の窓」は、夏休み中の学校で開催された。美術部の生徒たちによる力作が並ぶ中、中央に飾られたのは空たち三人で完成させた大作だった。
 灯台を中心に、様々な「窓」が描かれている。その一つ一つが、人の心を表現している。閉ざされた窓、少し開いた窓、大きく開かれた窓。そして、その周りには空の母の絵、鹿島の絵、空自身の過去の絵が配置されていた。
 さらに、写真やスケッチ、鹿島のノートの一部も展示され、「感情の表現」をテーマにした小さな美術館のようになっていた。
 開催日、空は緊張しながらも、来場者を迎えた。学校関係者だけでなく、地域の人々も多く訪れてくれた。そして、特別な訪問者もいた。
「空ちゃん、素晴らしいわ」
 鹿島の母が、静かに空に近づいてきた。
「鹿島さん……来てくださったんですね」
「ええ、来ないわけにはいかないでしょう。奏とあなたのお母さんの思いが詰まった展示だもの」
 鹿島の母は展示を見て回りながら、時折目元を拭っていた。娘の残した作品と言葉が、このように形になっていることが、彼女にとって大きな慰めになっているようだった。
「奏は、あなたのことをとても信頼していたのよ。最期まで、『空ちゃんなら大丈夫』って言ってた」
 その言葉に、空の胸が熱くなった。
「私はまだまだです……でも、鹿島先輩の思いを継いでいきたいです」
「ありがとう。それだけで、十分よ」
 鹿島の母は優しく微笑んだ。その横顔は、どこか鹿島に似ていた。
 展示会は大盛況だった。多くの人が足を止め、作品に見入っていた。中には涙ぐむ人もいて、空の表現が確かに人々の心に届いていることを実感した。
 日が暮れかけた頃、最後の来場者が帰った後、空は一人で展示室に残った。静かな空間で、自分の作品を見つめる。長い道のりだった。母の死、閉ざされた心、鹿島との出会い、そして様々な人との関わり。全てが今の自分を作り上げていた。
「空」
 後ろから声がした。振り返ると、父と星が立っていた。
「お父さん、星……もう終わったよ」
「いや、もう一度ゆっくり見たくて」
 父は展示を丁寧に見て回った。特に、空の母の写真の前で長く立ち止まっていた。
「お母さんも、きっと喜んでいるよ」
 父の声には、誇りと少しの悲しみが混じっていた。
「うん……そう思う」
「お姉ちゃん、すごいねえ」
 星が無邪気に感心する声。
「みんな、感動してたよ。私の友達も、涙ぐんでた子いたし」
 星の純粋な賞賛に、空は照れながらも嬉しさを感じた。
「星、来年は一緒に何か作らない?」
「え? 私も?」
「うん。星の感性も、きっと素敵な作品になるよ」
 星の目が輝いた。
「やる! 絶対やる!」
 父も笑顔で二人を見ていた。
「私も何か手伝えることあれば言ってね。建築の知識が役立つかもしれないし」
「本当? 嬉しい!」
 家族三人で何かを作り上げる。それは以前では考えられなかった光景。空の心は温かさで満たされていった。
「あのね、お父さん、星」
 空は少し緊張しながらも、言葉を紡いだ。
「私、ずっと言えなかったんだけど……本当はね、一人で何でもやろうとしてたのは、皆に心配かけたくなかったから。でも、本当は甘えたかった。頼りたかった」
 父と星は静かに空の言葉を聞いていた。
「私、強がってばかりだったけど……本当は弱くて。お母さんのことも、自分のせいだと思ってて……そのせいで、皆に距離を作っちゃってた」
 声が少し震える。でも、もう隠す必要はない。
「でも今は……皆に素直に甘えられるようになりたい。お父さんにも、星にも……みんなに」
 言い終えると、星が駆け寄って空を抱きしめた。
「お姉ちゃん! 私も甘えるから、お姉ちゃんも甘えてね!」
 父も近づき、二人を優しく腕に包んだ。
「空、ありがとう。正直に言ってくれて。私たちは家族だから、これからはもっと支え合っていこう」
 家族の温もりの中で、空は小さく頷いた。長い間言えなかった言葉。でも、今はもう怖くない。心の窓を開いて、自分の気持ちを伝えることができる。

 夏休みも終わりに近づいた八月の朝、空は一人で灯台に向かっていた。東京への旅行を前に、この特別な場所に別れを告げるためだった。
 らせん階段を上り、展望室に立つ。朝日が水平線から昇り、海を黄金色に染めている。美しい光景。
 空はスケッチブックを広げ、その風景を描き始めた。母の筆で、鹿島から学んだ技法を使って。
 描きながら、空は思い返していた。あの日、初めて鹿島と出会った時のこと。当時の自分は、何もかもを閉じ込めていた。感情も、言葉も、全てを。まるで鳥籠の中の鳥のように。
 でも今は違う。鳥籠の窓は開かれ、鳥は自由に飛び立つことができる。
 絵が完成すると、空は窓際に立ち、深呼吸した。潮の香り、朝の新鮮な空気。全てが生きている証だった。
「お母さん、鹿島先輩……見ていますか?」
 小さく呟く言葉は、きっと届いているだろう。
「私、もう大丈夫です。これからも時々立ち止まることはあるかもしれないけど、前に進みます」
 窓から見える町並み、海、そして遠くに広がる世界。それらは全て、空が歩むべき道の一部。
 灯台を後にする時、空の心は不思議な安らぎに包まれていた。悲しみは消えないかもしれない。でも、それと共に生きていくことはできる。そして、新しい喜びも見つけていける。
 外に出ると、予想外の人物が待っていた。遥だった。
「遥……どうして?」
「なんとなく、ここにいるかなって」
 遥はいつものように微笑んだ。
「東京の準備は?」
「ほとんど終わったよ。明日が楽しみで、朝早く起きちゃって」
 空も嬉しそうに頷いた。二人での東京旅行。それは新しい冒険の始まりだ。
「空」
「なに?」
「俺、言ってなかったけど……」
 遥の表情が少し真剣になった。
「空のこと、好きだ」
 突然の告白に、空の心臓が跳ねた。頬が熱くなる。
「俺、ずっと言えなかったんだ。でも、もう隠したくない」
 遥の素直な気持ちに、空も勇気をもらった。
「私も……遥のこと、好き」
 言葉にした瞬間、不思議な解放感があった。もう隠さない、誤魔化さない。自分の気持ちを、そのまま伝える。
 遥の顔に、明るい笑顔が広がった。彼は恥ずかしそうに、でも迷いなく空の手を取った。温かい手。生きている実感のある手。
「行こうか」
 遥の言葉に、空は頷いた。二人並んで歩き始める。
 灯台の光は、たとえ昼でも回り続けている。見えなくても、それは確かにそこにある。鹿島から空へ、そして今も続く光の系譜。
 空は最後に振り返り、灯台を見上げた。
(ありがとう、灯台さん。また来るね)
 心の中でそう呟き、空は前を向いた。遥と手をつなぎ、未来への一歩を踏み出す。
 鳥籠の窓から飛び立った鳥は、もう元の籠には戻らない。広い空の下、自由に羽ばたいていく。時に迷い、時に疲れても、それでも前へ。それが空の選んだ道。
 朝日が昇り続ける空の下、二人の若者が歩いていく。その背後で、灯台は静かに佇み、いつか帰ってくる人を待ちながら、光を放ち続けていた。