六月の雨が窓を叩く音で、空は目を覚ました。鹿島の葬儀から一週間が経っていた。美術展の興奮も少しずつ落ち着き、日常が戻りつつあった。けれど、空の心にはまだ悲しみの影が残っていた。
空はベッドから起き上がり、窓の外を見た。灰色の空から滴る雨が、ガラスを伝って流れ落ちていく。鹿島がいない世界。それはまだ慣れない現実だった。
スケッチブックを手に取り、最近描いた絵を見返す。鹿島との思い出、灯台での時間、そして美術展で大賞を取った「光の道」。これらの絵には、空の成長の軌跡が刻まれていた。
「お姉ちゃん、起きた?」
ドアの外から星の声がした。
「うん、起きてるよ」
ドアが開き、星が顔を覗かせた。
「パパが呼んでる。なんか大事な話があるって」
「大事な話?」
「うん、二人に話したいことがあるって」
空は少し首をかしげたが、着替えて階下に降りた。リビングでは、父が真剣な表情で座っていた。テーブルの上には古いアルバムと、一通の封筒が置かれている。
「おはよう、空」
「おはよう……何かあったの?」
空はソファに座り、星も隣に座った。二人して父を見つめる。
「二人に話しておきたいことがあるんだ」
父の声は少し震えていた。
「お母さんのことなんだけど...」
その言葉に、空と星は息を呑んだ。父が自分から母の話をすることは少なかった。
「実は……お母さんがどうして亡くなったのか、全部は話してこなかった」
空の心臓が早く打ち始めた。星の手が、自分の手を握りしめているのを感じた。
「あの日、空の忘れ物を取りに行った時のことだ」
五年前の雨の日。空が図画工作の作品を学校に忘れてきた日。母が車で取りに行く途中で事故に遭った。それだけしか空は知らなかった。
「実は……お母さんは空を守るために命を落としたんだ」
「え……?」
父の言葉に、空は言葉を失った。
「その日、空も一緒に車に乗っていたんだよ」
「私が...?」
記憶にない。全く覚えていない。
「うん。忘れ物を取りに行くから、空も一緒に連れて行くと言って...」
父は言葉を切った。話すのが辛そうだった。
「交差点で、大型トラックが信号を無視して突っ込んできた。お母さんは咄嗟に空を守るために、自分の体で覆ったんだ」
空の視界が滲んだ。涙が勝手に溢れ出してくる。
「空は軽い怪我で済んだけど...お母さんは...」
父の目からも涙が流れていた。
「救急車の中で...お母さんは最後に『空を頼む』と言ったんだ。それが最期の言葉だった」
静寂がリビングを包んだ。ただ雨の音だけが窓を打ち続ける。
「私...全然覚えてない」
空は震える声で言った。
「ええ、医師によれば心的外傷による記憶喪失なんだって。あまりにショックが大きすぎて、脳が記憶を封印してしまったんだ」
星が小さく泣き始めた。
「お母さん...お姉ちゃんを守ったの?」
「うん、命と引き換えにね」
父は星を優しく抱きしめた。
「なんで...今まで言わなかったの?」
空の問いに、父は深く息を吐いた。
「空を守りたかったんだ。あの事故のこと思い出させるのが怖かった。そして...自分自身も思い出すのが辛かった」
空は黙って父の言葉を聞いていた。頭の中で様々な思いが渦巻いていた。母が自分を守るために命を落とした。その事実を、ずっと知らなかった。
「星が言ったことがあったね。お母さんが死んだのは空のせいだって」
父は静かに続けた。
「私がちゃんと説明しなかったから...星にも辛い思いをさせてしまった」
星は首を振った。
「私が悪いの...知らないのに、お姉ちゃんを責めて...」
空は星をぎゅっと抱きしめた。二人の涙が混ざり合う。
「誰のせいでもないよ」
父が二人を見つめて言った。
「事故はトラックの運転手が起こしたものだし、お母さんが空を守ったのは母親として当然の行動だった。後悔なんてしていない」
「でも...」
「空」
父は空の目をまっすぐ見つめた。
「お母さんはね、最期の最期まで母親だったんだよ。子供を守ることが何よりも大切だった。だから、空は罪悪感を持つ必要はないんだ」
その言葉が、空の心に深く沁みていった。
「それと、もう一つ話があるんだ」
父はテーブルの上の封筒を手に取った。
「先日、鹿島さんの葬儀の後、彼女のお母さんからこれを渡されたんだ。空あてだって」
空は驚いて封筒を見た。
「鹿島先輩から...?」
「うん。彼女が亡くなる前に、空に渡してほしいと言っていたそうだ」
震える手で、空は封筒を受け取った。鹿島からの最後のメッセージ。心臓が早鐘を打つのを感じる。
封を開け、中から一枚の手紙と、古い写真が出てきた。写真には若い女性と少女が写っていた。女性は...母だった。そして少女は、明らかに幼い頃の鹿島だった。
「これ...」
「読んでみて」
父の促しに、空は手紙を広げた。鹿島の綺麗な字で書かれたそれは、最後の告白だった。
空へ
この手紙を読んでいるということは、私がもういないということだね。でも、悲しまないで。私は自分の人生に悔いはないから。
実は、私にはずっと隠していたことがあったの。私と桜井さんのお母さんは、実は知り合いだったんだ。
お母さんは私の中学時代の美術の先生だった。才能のない私に、絵の素晴らしさを教えてくれた恩人。「絵は技術じゃない、感情を表現するものなんだよ」って、いつも言っていたっけ。
先生が亡くなった後、私はずっとその言葉を胸に抱えていた。そして偶然、あなたが浜風高校に入学したと知った時、会いたくなった。先生の娘さんに。
灯台は、実は先生が私に教えてくれた特別な場所。「ここで描くと、心が開放される」って。だから私は、あなたにもその場所を知ってほしかった。
私があなたに伝えたかったのは、先生から教わったこと。「本当の気持ちを表現することの大切さ」。それを、先生の娘さんにも伝えたかった。
きっと桜井さんは、私以上の才能を持っている。先生譲りの、素晴らしい感性を。だから、もっと自由に、もっと大胆に表現してほしい。
最後に一つ。先生は最期の日、私に会いに来てくれたの。学校の帰り道、偶然すれ違って。その時こう言ったの。「奏ちゃん、私の娘・空も絵が好きなのよ。いつか二人で描く姿が見たいな」って。
その願いは叶わなかったけど、私たちは確かに一緒に描いたよね。灯台で。
さようなら、空。これからもたくさん描いて。私と先生は、きっとどこかで見守っているから。
鹿島 奏
手紙を読み終えた空の頬を、涙が伝っていた。胸の奥が熱く、痛いような、でも温かいような感覚に包まれていた。
「鹿島先輩……お母さんの教え子だったんだ」
「そうだったんだね」
父も驚いた様子だった。
「だから、私に近づいてくれたんだ……お母さんの娘だから」
空は写真を見つめた。母と幼い鹿島が笑顔で写っている。二人とも幸せそうな表情をしていた。
「お母さんの教えを、私に伝えたかったんだ」
空は手紙を胸に抱きしめた。鹿島との出会いは偶然ではなかった。彼女は母との約束を果たすために、空に近づいたのだ。
「鹿島先輩……ありがとう」
小さく呟いた言葉は、きっと天国の鹿島にも届いただろう。
星が静かに空の隣に座り、手紙を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、鹿島お姉さんが言ってること、わかる?」
「うん……少しずつね」
「何て書いてあるの?」
「お母さんが鹿島先輩に教えたこと。本当の気持ちを表現することの大切さ」
空はそう答えながら、自分自身の変化を感じていた。これまでの数ヶ月間、空はずっとその教えに導かれてきたのだ。鹿島を通して、実は母が空を導いてくれていた。
「パパ…….」
「なに?」
「お母さんのことを、もっと教えてくれる?」
その言葉に、父の表情が明るくなった。
「もちろん。何でも聞いておくれ」
父はアルバムを開き、そこに詰まった思い出話を始めた。初めて母と出会った時のこと、二人の結婚、空が生まれた日、星が生まれた日。一つ一つの思い出に、笑いあり涙ありの物語があった。
三人は雨の午後を、母の思い出に浸りながら過ごした。空は初めて、罪悪感なしに母のことを思い出せるようになった。母は空を守るために命を懸けた。それは責められることではなく、誇りに思うべきことなのだと。
その日の夕方、雨が上がった。空は灯台に行きたいという衝動に駆られた。鹿島からの手紙を読んだ今、その場所はさらに特別な意味を持っていた。
「ちょっと出てくる」
父と星に言って、空は家を出た。
湿った空気の中を歩きながら、空の頭の中は様々な思いで一杯だった。母の死の真相、鹿島との繋がり、全てが少しずつ腑に落ちていく感覚。長い間抱えていた重荷が、少しずつ軽くなっていくような。
灯台に着くと、夕暮れの光が建物を赤く染めていた。扉を開け、らせん階段を上る。どこか懐かしい気持ちと共に。
展望室に着くと、そこには意外な人物がいた。葉山だった。
「葉山くん……」
「あ、桜井さん」
葉山は窓際に立っていた。少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「なんとなく来てみたんだ。桜井さんがよく来る場所だから……」
空は少し照れながらも、葉山の隣に立った。二人は窓から見える夕日を眺めた。
「今日、お母さんのことを知ったの」
空は静かに言った。
「お母さん?」
「うん……どうして亡くなったのか、本当のこと」
空は父から聞いたことを、葉山に話した。母が自分を守るために命を落としたこと、そして鹿島との意外な繋がり。全てを。
葉山は黙って聞いていた。時折、驚きの表情を見せながらも、最後まで静かに耳を傾けた。
「すごい……全部繋がってたんだね」
「うん、不思議だよね」
「でも、桜井さんは救われたんじゃない?」
葉山の問いに、空は少し考えてから頷いた。
「うん……長い間、自分のせいでお母さんが死んだって思ってた。星も言ってたし...」
「でも、それは違ったんだ」
「うん。お母さんは私を守るために……命を懸けてくれた」
空の声に力強さが宿った。
「それに、鹿島先輩との出会いも偶然じゃなかった。お母さんの教えを、私に伝えるために」
「まるで、お母さんが天国から桜井さんを見守ってるみたいだね」
葉山の言葉に、空は微笑んだ。
「そうかもしれない」
夕日が水平線に沈みかけていた。灯台の窓から見える光景は、いつも以上に美しく感じられた。
「明日から、また絵を描き始めるつもり」
空は決意を込めて言った。
「鹿島先輩の分も、お母さんの分も……そして私自身の分も」
「応援してるよ」
葉山の言葉に、空は心が温かくなるのを感じた。
「葉山くん……」
「なに?」
「ありがとう。ずっとそばにいてくれて」
葉山は少し顔を赤らめた。
「当たり前じゃない?大切な人だもの」
その言葉に、空も頬が熱くなるのを感じた。二人の間には、もう言葉では表現しきれない絆があった。
「帰ろうか」
葉山が差し出した手を、空は迷わず取った。温かい手。生きている実感がある。
灯台を後にする二人の背後で、最後の夕日が水平線に沈んでいった。でも、暗闇の中でも灯台の光は回り続ける。迷い込んだ魂を導くように。
家に戻る道すがら、空は星空を見上げた。一番明るい星が、まるで母の目のように瞬いている気がした。
(お母さん、大丈夫。私、頑張るから)
心の中でそう誓いながら、空は歩み続けた。もう後ろは振り返らない。前を向いて、一歩ずつ確かに進んでいく。それが、母と鹿島に恥じない生き方だと信じて。
翌朝、空は早起きして屋根裏部屋に上がった。長い間開けていなかった場所。母の形見の品々が眠る場所。
埃を被った箱の中から、母の画材を取り出す。絵筆、スケッチブック、パレット。全て母が使っていたもの。
一番下に、小さな木箱があった。開けると、中には母の描いた小さな絵が入っていた。灯台からの風景。鹿島が描いたものと同じ構図。でも、そこには幼い少女の姿も描かれていた。鹿島だろうか。
母の絵には、確かに感情が込められていた。愛情、希望、そして未来への願い。
箱の底に、一枚の紙切れがあった。そこには母の文字で短い言葉が書かれていた。
『絵は心の窓。閉ざすより、開けましょう』
空はその言葉を胸に刻んだ。
母の画材を持って、空は部屋に戻った。窓際に立ち、朝日に照らされる海を見つめる。新しい一日の始まり。新しい自分の始まり。
空はスケッチブックを開き、母の筆を手に取った。心の窓を開け、感情を解き放つ。それが母から鹿島へ、そして自分へと受け継がれた教え。
筆を動かし始めると、不思議と涙がこぼれてきた。でも、それは悲しみの涙ではなく、解放の涙だった。長い間閉ざしていた心の扉が、ようやく開かれたのだ。
絵には、母と鹿島と空自身が描かれていった。三人が灯台の展望室で、一緒に絵を描いている姿。決して現実には起こらなかったけれど、心の中では確かに存在する光景。
窓から差し込む朝日が、キャンバスを黄金色に染める。まるで祝福するかのように。
空は筆を置き、描き終えた絵を見つめた。これが、自分の本当の気持ち。もう隠さない、誤魔化さない、閉じ込めない。
鳥籠から飛び立った鳥のように、空の心は自由に羽ばたき始めていた。
空はベッドから起き上がり、窓の外を見た。灰色の空から滴る雨が、ガラスを伝って流れ落ちていく。鹿島がいない世界。それはまだ慣れない現実だった。
スケッチブックを手に取り、最近描いた絵を見返す。鹿島との思い出、灯台での時間、そして美術展で大賞を取った「光の道」。これらの絵には、空の成長の軌跡が刻まれていた。
「お姉ちゃん、起きた?」
ドアの外から星の声がした。
「うん、起きてるよ」
ドアが開き、星が顔を覗かせた。
「パパが呼んでる。なんか大事な話があるって」
「大事な話?」
「うん、二人に話したいことがあるって」
空は少し首をかしげたが、着替えて階下に降りた。リビングでは、父が真剣な表情で座っていた。テーブルの上には古いアルバムと、一通の封筒が置かれている。
「おはよう、空」
「おはよう……何かあったの?」
空はソファに座り、星も隣に座った。二人して父を見つめる。
「二人に話しておきたいことがあるんだ」
父の声は少し震えていた。
「お母さんのことなんだけど...」
その言葉に、空と星は息を呑んだ。父が自分から母の話をすることは少なかった。
「実は……お母さんがどうして亡くなったのか、全部は話してこなかった」
空の心臓が早く打ち始めた。星の手が、自分の手を握りしめているのを感じた。
「あの日、空の忘れ物を取りに行った時のことだ」
五年前の雨の日。空が図画工作の作品を学校に忘れてきた日。母が車で取りに行く途中で事故に遭った。それだけしか空は知らなかった。
「実は……お母さんは空を守るために命を落としたんだ」
「え……?」
父の言葉に、空は言葉を失った。
「その日、空も一緒に車に乗っていたんだよ」
「私が...?」
記憶にない。全く覚えていない。
「うん。忘れ物を取りに行くから、空も一緒に連れて行くと言って...」
父は言葉を切った。話すのが辛そうだった。
「交差点で、大型トラックが信号を無視して突っ込んできた。お母さんは咄嗟に空を守るために、自分の体で覆ったんだ」
空の視界が滲んだ。涙が勝手に溢れ出してくる。
「空は軽い怪我で済んだけど...お母さんは...」
父の目からも涙が流れていた。
「救急車の中で...お母さんは最後に『空を頼む』と言ったんだ。それが最期の言葉だった」
静寂がリビングを包んだ。ただ雨の音だけが窓を打ち続ける。
「私...全然覚えてない」
空は震える声で言った。
「ええ、医師によれば心的外傷による記憶喪失なんだって。あまりにショックが大きすぎて、脳が記憶を封印してしまったんだ」
星が小さく泣き始めた。
「お母さん...お姉ちゃんを守ったの?」
「うん、命と引き換えにね」
父は星を優しく抱きしめた。
「なんで...今まで言わなかったの?」
空の問いに、父は深く息を吐いた。
「空を守りたかったんだ。あの事故のこと思い出させるのが怖かった。そして...自分自身も思い出すのが辛かった」
空は黙って父の言葉を聞いていた。頭の中で様々な思いが渦巻いていた。母が自分を守るために命を落とした。その事実を、ずっと知らなかった。
「星が言ったことがあったね。お母さんが死んだのは空のせいだって」
父は静かに続けた。
「私がちゃんと説明しなかったから...星にも辛い思いをさせてしまった」
星は首を振った。
「私が悪いの...知らないのに、お姉ちゃんを責めて...」
空は星をぎゅっと抱きしめた。二人の涙が混ざり合う。
「誰のせいでもないよ」
父が二人を見つめて言った。
「事故はトラックの運転手が起こしたものだし、お母さんが空を守ったのは母親として当然の行動だった。後悔なんてしていない」
「でも...」
「空」
父は空の目をまっすぐ見つめた。
「お母さんはね、最期の最期まで母親だったんだよ。子供を守ることが何よりも大切だった。だから、空は罪悪感を持つ必要はないんだ」
その言葉が、空の心に深く沁みていった。
「それと、もう一つ話があるんだ」
父はテーブルの上の封筒を手に取った。
「先日、鹿島さんの葬儀の後、彼女のお母さんからこれを渡されたんだ。空あてだって」
空は驚いて封筒を見た。
「鹿島先輩から...?」
「うん。彼女が亡くなる前に、空に渡してほしいと言っていたそうだ」
震える手で、空は封筒を受け取った。鹿島からの最後のメッセージ。心臓が早鐘を打つのを感じる。
封を開け、中から一枚の手紙と、古い写真が出てきた。写真には若い女性と少女が写っていた。女性は...母だった。そして少女は、明らかに幼い頃の鹿島だった。
「これ...」
「読んでみて」
父の促しに、空は手紙を広げた。鹿島の綺麗な字で書かれたそれは、最後の告白だった。
空へ
この手紙を読んでいるということは、私がもういないということだね。でも、悲しまないで。私は自分の人生に悔いはないから。
実は、私にはずっと隠していたことがあったの。私と桜井さんのお母さんは、実は知り合いだったんだ。
お母さんは私の中学時代の美術の先生だった。才能のない私に、絵の素晴らしさを教えてくれた恩人。「絵は技術じゃない、感情を表現するものなんだよ」って、いつも言っていたっけ。
先生が亡くなった後、私はずっとその言葉を胸に抱えていた。そして偶然、あなたが浜風高校に入学したと知った時、会いたくなった。先生の娘さんに。
灯台は、実は先生が私に教えてくれた特別な場所。「ここで描くと、心が開放される」って。だから私は、あなたにもその場所を知ってほしかった。
私があなたに伝えたかったのは、先生から教わったこと。「本当の気持ちを表現することの大切さ」。それを、先生の娘さんにも伝えたかった。
きっと桜井さんは、私以上の才能を持っている。先生譲りの、素晴らしい感性を。だから、もっと自由に、もっと大胆に表現してほしい。
最後に一つ。先生は最期の日、私に会いに来てくれたの。学校の帰り道、偶然すれ違って。その時こう言ったの。「奏ちゃん、私の娘・空も絵が好きなのよ。いつか二人で描く姿が見たいな」って。
その願いは叶わなかったけど、私たちは確かに一緒に描いたよね。灯台で。
さようなら、空。これからもたくさん描いて。私と先生は、きっとどこかで見守っているから。
鹿島 奏
手紙を読み終えた空の頬を、涙が伝っていた。胸の奥が熱く、痛いような、でも温かいような感覚に包まれていた。
「鹿島先輩……お母さんの教え子だったんだ」
「そうだったんだね」
父も驚いた様子だった。
「だから、私に近づいてくれたんだ……お母さんの娘だから」
空は写真を見つめた。母と幼い鹿島が笑顔で写っている。二人とも幸せそうな表情をしていた。
「お母さんの教えを、私に伝えたかったんだ」
空は手紙を胸に抱きしめた。鹿島との出会いは偶然ではなかった。彼女は母との約束を果たすために、空に近づいたのだ。
「鹿島先輩……ありがとう」
小さく呟いた言葉は、きっと天国の鹿島にも届いただろう。
星が静かに空の隣に座り、手紙を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、鹿島お姉さんが言ってること、わかる?」
「うん……少しずつね」
「何て書いてあるの?」
「お母さんが鹿島先輩に教えたこと。本当の気持ちを表現することの大切さ」
空はそう答えながら、自分自身の変化を感じていた。これまでの数ヶ月間、空はずっとその教えに導かれてきたのだ。鹿島を通して、実は母が空を導いてくれていた。
「パパ…….」
「なに?」
「お母さんのことを、もっと教えてくれる?」
その言葉に、父の表情が明るくなった。
「もちろん。何でも聞いておくれ」
父はアルバムを開き、そこに詰まった思い出話を始めた。初めて母と出会った時のこと、二人の結婚、空が生まれた日、星が生まれた日。一つ一つの思い出に、笑いあり涙ありの物語があった。
三人は雨の午後を、母の思い出に浸りながら過ごした。空は初めて、罪悪感なしに母のことを思い出せるようになった。母は空を守るために命を懸けた。それは責められることではなく、誇りに思うべきことなのだと。
その日の夕方、雨が上がった。空は灯台に行きたいという衝動に駆られた。鹿島からの手紙を読んだ今、その場所はさらに特別な意味を持っていた。
「ちょっと出てくる」
父と星に言って、空は家を出た。
湿った空気の中を歩きながら、空の頭の中は様々な思いで一杯だった。母の死の真相、鹿島との繋がり、全てが少しずつ腑に落ちていく感覚。長い間抱えていた重荷が、少しずつ軽くなっていくような。
灯台に着くと、夕暮れの光が建物を赤く染めていた。扉を開け、らせん階段を上る。どこか懐かしい気持ちと共に。
展望室に着くと、そこには意外な人物がいた。葉山だった。
「葉山くん……」
「あ、桜井さん」
葉山は窓際に立っていた。少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「なんとなく来てみたんだ。桜井さんがよく来る場所だから……」
空は少し照れながらも、葉山の隣に立った。二人は窓から見える夕日を眺めた。
「今日、お母さんのことを知ったの」
空は静かに言った。
「お母さん?」
「うん……どうして亡くなったのか、本当のこと」
空は父から聞いたことを、葉山に話した。母が自分を守るために命を落としたこと、そして鹿島との意外な繋がり。全てを。
葉山は黙って聞いていた。時折、驚きの表情を見せながらも、最後まで静かに耳を傾けた。
「すごい……全部繋がってたんだね」
「うん、不思議だよね」
「でも、桜井さんは救われたんじゃない?」
葉山の問いに、空は少し考えてから頷いた。
「うん……長い間、自分のせいでお母さんが死んだって思ってた。星も言ってたし...」
「でも、それは違ったんだ」
「うん。お母さんは私を守るために……命を懸けてくれた」
空の声に力強さが宿った。
「それに、鹿島先輩との出会いも偶然じゃなかった。お母さんの教えを、私に伝えるために」
「まるで、お母さんが天国から桜井さんを見守ってるみたいだね」
葉山の言葉に、空は微笑んだ。
「そうかもしれない」
夕日が水平線に沈みかけていた。灯台の窓から見える光景は、いつも以上に美しく感じられた。
「明日から、また絵を描き始めるつもり」
空は決意を込めて言った。
「鹿島先輩の分も、お母さんの分も……そして私自身の分も」
「応援してるよ」
葉山の言葉に、空は心が温かくなるのを感じた。
「葉山くん……」
「なに?」
「ありがとう。ずっとそばにいてくれて」
葉山は少し顔を赤らめた。
「当たり前じゃない?大切な人だもの」
その言葉に、空も頬が熱くなるのを感じた。二人の間には、もう言葉では表現しきれない絆があった。
「帰ろうか」
葉山が差し出した手を、空は迷わず取った。温かい手。生きている実感がある。
灯台を後にする二人の背後で、最後の夕日が水平線に沈んでいった。でも、暗闇の中でも灯台の光は回り続ける。迷い込んだ魂を導くように。
家に戻る道すがら、空は星空を見上げた。一番明るい星が、まるで母の目のように瞬いている気がした。
(お母さん、大丈夫。私、頑張るから)
心の中でそう誓いながら、空は歩み続けた。もう後ろは振り返らない。前を向いて、一歩ずつ確かに進んでいく。それが、母と鹿島に恥じない生き方だと信じて。
翌朝、空は早起きして屋根裏部屋に上がった。長い間開けていなかった場所。母の形見の品々が眠る場所。
埃を被った箱の中から、母の画材を取り出す。絵筆、スケッチブック、パレット。全て母が使っていたもの。
一番下に、小さな木箱があった。開けると、中には母の描いた小さな絵が入っていた。灯台からの風景。鹿島が描いたものと同じ構図。でも、そこには幼い少女の姿も描かれていた。鹿島だろうか。
母の絵には、確かに感情が込められていた。愛情、希望、そして未来への願い。
箱の底に、一枚の紙切れがあった。そこには母の文字で短い言葉が書かれていた。
『絵は心の窓。閉ざすより、開けましょう』
空はその言葉を胸に刻んだ。
母の画材を持って、空は部屋に戻った。窓際に立ち、朝日に照らされる海を見つめる。新しい一日の始まり。新しい自分の始まり。
空はスケッチブックを開き、母の筆を手に取った。心の窓を開け、感情を解き放つ。それが母から鹿島へ、そして自分へと受け継がれた教え。
筆を動かし始めると、不思議と涙がこぼれてきた。でも、それは悲しみの涙ではなく、解放の涙だった。長い間閉ざしていた心の扉が、ようやく開かれたのだ。
絵には、母と鹿島と空自身が描かれていった。三人が灯台の展望室で、一緒に絵を描いている姿。決して現実には起こらなかったけれど、心の中では確かに存在する光景。
窓から差し込む朝日が、キャンバスを黄金色に染める。まるで祝福するかのように。
空は筆を置き、描き終えた絵を見つめた。これが、自分の本当の気持ち。もう隠さない、誤魔化さない、閉じ込めない。
鳥籠から飛び立った鳥のように、空の心は自由に羽ばたき始めていた。



