土曜日の朝、空は早くから目を覚ましていた。今日は家族で海に行く約束の日。空の心は期待と不安が入り混じっていた。父に本当の気持ちを伝えようと決意したが、いざその時が近づくと緊張が募る。
窓から差し込む朝日が、部屋に優しい光を投げかけていた。空は深呼吸して、ベッドから起き上がった。今日は特別な日になるはずだ。
下に降りると、既に父が朝食の準備をしていた。珍しい光景に、空は少し驚いた。
「おはよう、空」
「おはよう……朝から何してるの?」
「お弁当作ってるんだ。久しぶりの家族旅行だからね」
父の笑顔には、どこか若々しさが戻っていた。仕事に埋もれていた日々を忘れ、今日一日は家族のために時間を使おうという決意が感じられた。
「手伝おうか?」
いつもなら「一人でできる」と言っていた空だが、今日は違った。
「うん、ありがとう」
父の答えに、空は微かに微笑んだ。二人並んで台所に立ち、お弁当の準備を始める。久しぶりの共同作業。初めは少し気まずい沈黙があったが、徐々に自然な会話が生まれていった。
「お父さん、料理上手いんだね」
「まあ、昔はよくやってたからね。お母さんと一緒に」
母の話題が自然に出てきたことに、空は少し驚いた。父は母の話をあまりしなかったから。
「お母さんも料理上手だったよね」
「ああ、本当に。特に卵焼きは絶品だった」
父の目が遠くを見つめるように柔らかくなる。
「空の卵焼きは、お母さんに似てるよ」
その言葉に、空の胸が熱くなった。知らず知らずのうちに、母の技を受け継いでいたのだ。
「本当に?」
「うん、味も形も。きっとお母さんから教わったんだろうね、小さい頃」
父の優しい声に、空は言葉を失った。目に涙が浮かんでくる。それを見た父も、少し目を潤ませた。
「ごめんね、空。あまり母さんの話をしてこなかった」
「ううん……」
「辛くて……思い出すのが怖かったんだ」
父の正直な告白に、空は驚いた。父も自分と同じだったのだ。思い出すのが怖くて、母の話題を避けていた。
「私も……」
空は小さく呟いた。父は空の肩に手を置いた。
「でも、忘れちゃいけないね。母さんのこと」
「うん」
その時、星が階段を降りてきた。まだパジャマ姿で、髪はぼさぼさ。
「おはよー…….あれ? 二人とも何してるの?」
「おはよう、星。お弁当作ってるんだよ」
父が答えると、星は目を輝かせた。
「わあ! 手伝う!」
星も加わり、三人での朝の時間が始まった。笑い声が台所に溢れ、久しぶりの家族の温もりを感じる朝だった。
海は穏やかな波が続き、空は青く澄み渡っていた。浜風町から少し離れた、小さな入り江の砂浜。観光客も少なく、静かな場所だった。
「ここ、お母さんが好きだった場所なんだよ」
車を停めながら、父が言った。
「私たちが来たことある?」
星が尋ねた。
「うん、星がまだ赤ちゃんの頃ね。空は覚えてるかな?」
空は頭を振った。
「あまり……でも、なんとなく懐かしい気がする」
砂浜に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。波の音、カモメの鳴き声、全てが心地よい。
父はレジャーシートを広げ、持ってきた荷物を置いた。星はすぐに海に向かって走り出し、波と戯れ始めた。
「星、あまり遠くに行かないでね!」
空が声をかけると、星は手を振って返事をした。
空は父の隣に座り、広がる海を見つめた。言いたいことがあるのに、なかなか口に出せない。心の中で言葉を探す。
「きれいな海だね」
父の言葉に、空は我に返った。
「うん……」
「お母さんはね、ここでよく『光の道』を見るのが好きだったんだ」
「光の道?」
「太陽が海面に反射して、キラキラと光の道ができる現象さ。特に夕方、太陽が低くなる時にきれいに見えるんだ」
父は懐かしそうに笑った。
「お母さんはいつも言ってたよ。『あの光の道の先には、きっと素敵な世界があるんだろうね』って」
空は黙って父の言葉を聞いていた。母親のことを、こんなに詳しく聞くのは久しぶりだった。
「お父さん……」
勇気を出して口を開こうとした時、星が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、一緒に来て! 海、気持ちいいよ!」
空は少し残念に思ったが、微笑んで立ち上がった。今の瞬間が失われても、また機会はあるだろう。
「行ってきます」
父に言うと、彼は優しく頷いた。
「気をつけてね」
空と星は浅瀬で水遊びを始めた。冷たい波が足首を打ち、心地よい感覚が広がる。星の笑顔が眩しい。
「お姉ちゃん、ほら、あれ見て!」
星が指さす方向には、小さなカニが砂の上をサッと横切っていた。
「捕まえよう!」
二人でカニを追いかける。童心に返ったような時間。日常の悩みを忘れ、ただ今を楽しむ。そんな瞬間が、空にはとても貴重に感じられた。
昼食は三人で浜辺のレジャーシートの上。父と二人で作ったお弁当を、星は大喜びで頬張った。
「美味しい!」
素直な褒め言葉に、空と父は顔を見合わせて笑った。
「明日から私も料理、手伝う!」
星の宣言に、空は微笑んだ。今まで一人で抱え込んでいた家事。それを少しずつ分担していく。それは家族としての新しい一歩だった。
食事を終え、少し休憩した後、三人で貝殻拾いを始めた。
「これ、きれい!」
星が小さな巻貝を見つけて声を上げる。
「こっちにも面白いのがあるよ」
父が二人を呼んだ。
時間が経つのも忘れて、三人は浜辺を歩き回った。時折、母の思い出話が父から語られ、空と星は静かに聞き入った。
夕方に近づき、太陽が徐々に低くなってきた。
「あれ、見て」
父が水平線の方を指さした。海面に、キラキラと光る一筋の道が現れていた。
「光の道だ」
空は思わず声を上げた。美しい光景に、三人とも言葉を失った。
「お母さんが好きだった景色……」
星が小さく呟いた。空は星の肩を抱き、父も二人の傍に立った。
「お母さんも、きっとどこかで見てるよ」
父の声には、悲しみよりも温かさが感じられた。
その時、空の中で何かが溢れ出した。
「お父さん……」
「なに?」
「私……ずっと言えなかったんだけど……」
空は深呼吸して、続けた。
「もっと一緒にいたい。家族で過ごす時間が欲しい。私も……甘えたい」
言葉にするのが恥ずかしくて、空は俯いた。でも、やっと言えた。長い間心の中に閉じ込めていた本当の気持ち。
静寂が流れた後、父の大きな手が空の頭に優しく置かれた。
「ごめんね、空」
父の声は震えていた。
「ずっと仕事ばかりで...家族のことを後回しにしていた」
空は顔を上げ、父を見た。父の目には涙が浮かんでいた。
「でも、これからは変わるよ。もっと家族の時間を大切にする。空が無理をしなくても済むように」
その言葉に、空の目からも涙が溢れた。星も泣き始め、三人は互いを抱きしめた。
「私たちは家族だからね」
父の言葉が、空の心に染みわたった。
翌日、空は朝から灯台に向かっていた。昨日の海での出来事、そして家族との時間。それらを全て絵に描きたいという強い衝動があった。
灯台の扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が高まる。これまで何度も訪れた場所だが、今日は特別な気持ちで来ていた。
展望室に着くと、朝の光が窓から差し込み、部屋を明るく照らしていた。空はキャンバスを設置し、絵の具を準備する。今日は油絵を描くつもりだった。鹿島から教わった技法を使って。
筆を取り、キャンバスに向かう。最初の一筆が置かれると、後は止まらなかった。心の奥底から湧き上がる感情と共に、色が重なり、形が生まれていく。
描いているのは昨日見た「光の道」。でも単なる風景ではなく、そこには様々な感情が込められていた。悲しみ、喜び、希望、そして何より大切な人への愛情。
時間の経過も忘れ、空は没頭して描き続けた。外の光が変わり、昼を過ぎ、午後へと移っていく。それでも、筆を置くことができなかった。
ようやく完成したと感じた時、空は一歩下がってキャンバスを見つめた。そこには、自分の全てを込めた一枚の絵があった。海に伸びる光の道、その両脇に小さな人影。そして、空の上には透明な女性の姿。守護者のように家族を見守る母の存在。
(これが私の気持ち)
言葉にできない思いを、全て絵に込めた。鹿島に教わった通り、感情を色と形にした。
キャンバスを見つめていると、階段から足音が聞こえてきた。振り返ると、葉山が立っていた。驚いた表情で、空を見つめている。
「桜井さん……」
「葉山くん、どうして?」
「なんとなく……ここにいるかなって」
葉山は空の絵に目を向け、言葉を失ったように立ち尽くした。
「これ……」
「今日描いたの」
葉山は絵の前に立ち、しばらく黙って見つめていた。
「すごい……こんな絵見たことない」
彼の言葉には、純粋な感動があった。
「伝わる? 私の気持ち」
「うん、すごく。悲しいけど、希望がある。寂しいけど、愛がある」
葉山の理解に、空は胸が熱くなった。彼には伝わるのだ。言葉にしなくても、絵を通して。
「昨日、家族で海に行ったんだ」
空は昨日のことを葉山に話し始めた。父との会話、星との時間、そして最後に伝えた本音のこと。
「やっと言えたんだね」
葉山の笑顔には、心からの喜びがあった。
「うん……まだ全部じゃないけど、少しずつ」
「それで十分だよ。一歩ずつ進めばいい」
二人は窓辺に腰掛け、外の景色を見つめた。穏やかな海、青い空、そして遠くに見える街並み。
「桜井さん」
葉山の声が、少し緊張したように聞こえた。
「なに?」
「実は……俺、決めたんだ」
「何を?」
「家を出ることに」
空は驚いて葉山を見た。
「え?どういうこと?」
「母さんの親戚が東京にいるんだ。そこに移ることになった」
「でも……」
「うん、学校はここに通う。だけど、生活の場所は変わる」
葉山の決断に、空は言葉を失った。彼の家庭環境を考えれば理解できる。それでも、突然のことに動揺した。
「いつから?」
「来週から」
「そんな急に……」
「ずっと考えてたんだ。そして先日、母さんの姉に連絡したら、すぐに来ていいって言ってくれて」
葉山の表情には、不安と希望が入り混じっていた。
「父さんには?」
「昨日、話した」
「どうだった?」
葉山は少し俯いた。
「最初は怒ったけど……最後には黙って頷いてくれた。多分、自分でも状況が良くないことは分かってたんだと思う」
空は葉山の手を取った。温かい手。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。怖いけど……でも、前に進むしかないから」
葉山の決意に、空は強く頷いた。
「学校には来るんだよね?」
「もちろん。毎日会えるよ」
その言葉に、空は少し安心した。完全に離れるわけではない。それでも、何か大きな変化が起きようとしていることは確かだった。
「桜井さん……この灯台、特別な場所だね」
葉山は話題を変えるように言った。
「うん、鹿島先輩と出会った場所だから」
「鹿島先輩、元気?」
空の表情が少し曇った。
「昨日、病院から連絡があって……」
「どうしたの?」
「また容態が悪化したって」
葉山は黙って空の肩に手を置いた。言葉は必要なかった。ただそばにいるだけで、十分な慰めになった。
「でも、この絵を見せに行くつもり」
空はキャンバスを見つめた。
「彼女に見てもらいたい。私がどれだけ成長したか」
「きっと喜ぶよ」
葉山の確信に満ちた言葉に、空は頷いた。
「それだけじゃないんだ」
「え?」
「学校の美術展、来月あるでしょ?」
「うん」
「この絵を出そうと思う」
葉山は驚いたように空を見た。
「本当に?」
「うん。今まで人に見せるのが怖かった。でも、もう隠したくない。私の気持ちを、もっと多くの人に伝えたい」
空の決意に、葉山は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしいよ、桜井さん。本当に変わったね」
「葉山くんのおかげ」
「違うよ。全部、桜井さんの力だよ」
二人は微笑み合った。窓から差し込む夕日が、二人の横顔を優しく照らしていた。
翌日、空は病院を訪れていた。キャンバスを持って、鹿島の病室に向かう。心臓が早く打っていた。
病室のドアをノックし、中に入る。ベッドの上の鹿島は、前回よりもやつれて見えた。顔色が悪く、呼吸も弱々しい。でも、空を見ると、彼女は微かに微笑んだ。
「桜井さん……来てくれたんだね」
「約束した絵を持ってきました」
空はキャンバスを見せた。鹿島はしばらくじっと絵を見つめ、やがて目に涙が浮かんだ。
「これは……」
「先輩に教わったように、自分の感情を全て込めました」
鹿島は震える手を伸ばし、キャンバスに触れた。
「素晴らしい……桜井さんの魂が見える」
その言葉に、空も涙が溢れた。
「先輩のおかげです」
「違う、全部桜井さん自身の力だよ」
鹿島は静かに言った。
「私は少し背中を押しただけ。才能も、感情も、全て桜井さんの中にあったもの」
空はベッドの横に座り、鹿島の手を握った。冷たい手。でも、確かな命の鼓動を感じた。
「この絵、学校の美術展に出すつもりです」
その言葉に、鹿島の顔に喜びが広がった。
「本当に?」
「はい。もう隠れたくないんです。自分の気持ちを、誰かに伝えたい」
鹿島は満足げに頷いた。
「それが大切なんだよ。表現することは、自分を解放すること。そして、誰かに伝えることで、新たな絆が生まれる」
その言葉は、鹿島からの最後の教えのように感じられた。
「先輩……」
「桜井さん、聞いて」
鹿島の声は弱かったが、意志の強さがあった。
「私の時間はもう長くない。でも、後悔はないよ」
その告白に、空は息を呑んだ。
「そんな……」
「大丈夫。私は絵を描いて、感情を表現して、そして桜井さんに出会えた。それだけで、人生は豊かだった」
鹿島の目には、透明な光があった。
「桜井さんは、まだ始まったばかり。これからもっと多くの絵を描いて、もっと多くの感情を表現して、そしてもっと多くの人と繋がっていく」
空は涙で言葉が出なかった。
「約束して。私の分も、たくさんの絵を描くって」
強く頷く空。
「絶対に……約束します」
鹿島は微笑んだ。
「もう一つ」
「なんですか?」
「あの灯台……桜井さんの場所にして」
「でも、先輩の場所……」
「今度は桜井さんの番だよ。あそこで、もっと多くの素晴らしい絵を描いて」
鹿島の願いに、空は強く頷いた。
「分かりました……絶対に」
二人は静かに見つめ合った。言葉にならない思いが、二人の間を行き交った。
面会時間が終わり、空は病室を後にした。廊下で振り返ると、窓から差し込む夕日が鹿島のベッドを照らしていた。まるで彼女を天国へと導く光のように。
美術展の日がやってきた。学校の体育館は、生徒たちの作品で彩られていた。その中で、空の絵は中央に飾られていた。
「すごいね、空。一番目立つ場所だよ」
美咲が興奮した声で言った。
「先生が選んでくれたの」
空は少し恥ずかしそうに答えた。
「当然よ、この絵は特別だもの」
森田先生が近づいてきて言った。
「鹿島さんも、きっと喜んでるわ」
その言葉に、空の胸が痛んだ。鹿島は美術展を見ることができなかった。一週間前、静かに息を引き取ったのだ。
葬儀は小さく行われ、美術部の仲間たちと共に空も参列した。悲しかったが、同時に不思議な安らぎも感じた。鹿島は自分の人生を全うしたのだ。悔いなく、自分の感情を表現し尽くして。
「鹿島先輩、見てるかな」
「きっと見てるよ」
葉山が空の傍に立って言った。彼は約束通り、東京の親戚の家から通学していた。学校では変わらない日常だが、彼の表情には以前より安心感があった。
「皆さん、ご注目ください」
校長先生の声が体育館に響いた。
「今年の美術展大賞の発表です」
緊張感が高まる中、校長は続けた。
「大賞は……桜井空さん、『光の道』です!」
会場から拍手が湧き起こった。空は信じられない思いで、皆に促されながら壇上に上がった。
「おめでとう、桜井さん。素晴らしい作品です」
校長から賞状を受け取りながら、空は思わず涙ぐんだ。振り返ると、美咲が大きく手を振り、葉山は誇らしげに微笑んでいた。そして、後ろの方には父と星の姿もあった。
壇上から見る景色は、今までにない光景だった。多くの人々が自分の絵を見て、感動している。自分の感情が、確かに誰かに届いている。
(伝わったんだ、私の気持ち)
空は心の中で、鹿島に語りかけた。
(先輩、見てますか?私、変われました)
賞状を胸に抱きながら、空は美術展を歩き回った。様々な人から声をかけられ、絵についての感想を聞いた。初めは恥ずかしかったが、徐々に自分の思いを語ることができるようになっていった。
夕方、人々が少なくなった頃、空は自分の絵の前に立っていた。一人静かに、自分の作品と向き合う時間。
「空」
背後から父の声がした。振り返ると、父と星が立っていた。
「お父さん、星……来てくれたんだ」
「当たり前じゃない、お姉ちゃんの大切な日だもん」
星が元気良く言った。
「おめでとう、空。本当に素晴らしい絵だ」
父の目には、誇りと感動の色があった。
「これが、空の本当の気持ちなんだね」
「うん……」
「お母さんのことも、私たちのことも、全てが詰まってる」
父は絵をじっと見つめた。
「お母さんも、きっと誇りに思ってるよ」
その言葉に、空の目から涙がこぼれた。
「帰ろうか、うちで祝おう」
父の提案に、空は頷こうとした時、葉山が近づいてきた。
「あの、桜井さん……」
「あ、葉山くん」
空は葉山を父と星に紹介した。
「こちらが葉山くん。クラスメイトで、よく助けてもらってる」
葉山は深々と頭を下げた。
「はじめまして、葉山遥です」
父は葉山を見て微笑んだ。
「いつも空がお世話になってるようで、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
少し気まずい空気の中、星が明るく言った。
「葉山お兄ちゃんも、一緒にお祝いしない?」
その提案に、大人たちは驚いた表情を見せた。
「いいの?」
葉山が空を見た。空は父を見た。父は微笑んで頷いた。
「ぜひどうぞ。空の大切な日だし、大切な友達も一緒に祝いたい」
「ありがとうございます」
葬儀は小さく行われ、美術部の仲間たちと共に空も参列した。悲しかったが、同時に不思議な安らぎも感じた。鹿島は自分の人生を全うしたのだ。悔いなく、自分の感情を表現し尽くして。
四人は体育館を後にし、夕暮れの校庭を歩いた。空を中心に、大切な人たちが集まっている。かつては考えられなかった光景だった。
「屋上から見える夕日、きれいだよ」
葉山が突然言った。
「行ってみる?みんなで」
空の提案に、皆が頷いた。
屋上に上がると、夕日が水平線に沈みかけていた。オレンジ色の光が海面に反射し、まるで灯台の光のような道を作っている。
「あれ……光の道だ」
星が指差した。父も驚いたように見つめている。
「お母さんも見てるね」
父の言葉に、皆が静かに頷いた。
空は深く息を吸い込んだ。鹿島のいない世界は、確かに寂しい。でも、彼女から学んだことは、これからも空の中で生き続ける。
(先輩、約束します。これからもたくさんの絵を描きます。感情を表現し続けます。そして、大切な人たちと繋がり続けます)
空はそっと目を閉じた。温かな夕日が顔を照らす。風が髪を揺らす。
そして、心の中では灯台の光が静かに回り続けていた。迷い込んだ船を導く光。迷路の中の人々を導く光。その光は、これからも空の道を照らし続けるだろう。
窓から差し込む朝日が、部屋に優しい光を投げかけていた。空は深呼吸して、ベッドから起き上がった。今日は特別な日になるはずだ。
下に降りると、既に父が朝食の準備をしていた。珍しい光景に、空は少し驚いた。
「おはよう、空」
「おはよう……朝から何してるの?」
「お弁当作ってるんだ。久しぶりの家族旅行だからね」
父の笑顔には、どこか若々しさが戻っていた。仕事に埋もれていた日々を忘れ、今日一日は家族のために時間を使おうという決意が感じられた。
「手伝おうか?」
いつもなら「一人でできる」と言っていた空だが、今日は違った。
「うん、ありがとう」
父の答えに、空は微かに微笑んだ。二人並んで台所に立ち、お弁当の準備を始める。久しぶりの共同作業。初めは少し気まずい沈黙があったが、徐々に自然な会話が生まれていった。
「お父さん、料理上手いんだね」
「まあ、昔はよくやってたからね。お母さんと一緒に」
母の話題が自然に出てきたことに、空は少し驚いた。父は母の話をあまりしなかったから。
「お母さんも料理上手だったよね」
「ああ、本当に。特に卵焼きは絶品だった」
父の目が遠くを見つめるように柔らかくなる。
「空の卵焼きは、お母さんに似てるよ」
その言葉に、空の胸が熱くなった。知らず知らずのうちに、母の技を受け継いでいたのだ。
「本当に?」
「うん、味も形も。きっとお母さんから教わったんだろうね、小さい頃」
父の優しい声に、空は言葉を失った。目に涙が浮かんでくる。それを見た父も、少し目を潤ませた。
「ごめんね、空。あまり母さんの話をしてこなかった」
「ううん……」
「辛くて……思い出すのが怖かったんだ」
父の正直な告白に、空は驚いた。父も自分と同じだったのだ。思い出すのが怖くて、母の話題を避けていた。
「私も……」
空は小さく呟いた。父は空の肩に手を置いた。
「でも、忘れちゃいけないね。母さんのこと」
「うん」
その時、星が階段を降りてきた。まだパジャマ姿で、髪はぼさぼさ。
「おはよー…….あれ? 二人とも何してるの?」
「おはよう、星。お弁当作ってるんだよ」
父が答えると、星は目を輝かせた。
「わあ! 手伝う!」
星も加わり、三人での朝の時間が始まった。笑い声が台所に溢れ、久しぶりの家族の温もりを感じる朝だった。
海は穏やかな波が続き、空は青く澄み渡っていた。浜風町から少し離れた、小さな入り江の砂浜。観光客も少なく、静かな場所だった。
「ここ、お母さんが好きだった場所なんだよ」
車を停めながら、父が言った。
「私たちが来たことある?」
星が尋ねた。
「うん、星がまだ赤ちゃんの頃ね。空は覚えてるかな?」
空は頭を振った。
「あまり……でも、なんとなく懐かしい気がする」
砂浜に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。波の音、カモメの鳴き声、全てが心地よい。
父はレジャーシートを広げ、持ってきた荷物を置いた。星はすぐに海に向かって走り出し、波と戯れ始めた。
「星、あまり遠くに行かないでね!」
空が声をかけると、星は手を振って返事をした。
空は父の隣に座り、広がる海を見つめた。言いたいことがあるのに、なかなか口に出せない。心の中で言葉を探す。
「きれいな海だね」
父の言葉に、空は我に返った。
「うん……」
「お母さんはね、ここでよく『光の道』を見るのが好きだったんだ」
「光の道?」
「太陽が海面に反射して、キラキラと光の道ができる現象さ。特に夕方、太陽が低くなる時にきれいに見えるんだ」
父は懐かしそうに笑った。
「お母さんはいつも言ってたよ。『あの光の道の先には、きっと素敵な世界があるんだろうね』って」
空は黙って父の言葉を聞いていた。母親のことを、こんなに詳しく聞くのは久しぶりだった。
「お父さん……」
勇気を出して口を開こうとした時、星が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、一緒に来て! 海、気持ちいいよ!」
空は少し残念に思ったが、微笑んで立ち上がった。今の瞬間が失われても、また機会はあるだろう。
「行ってきます」
父に言うと、彼は優しく頷いた。
「気をつけてね」
空と星は浅瀬で水遊びを始めた。冷たい波が足首を打ち、心地よい感覚が広がる。星の笑顔が眩しい。
「お姉ちゃん、ほら、あれ見て!」
星が指さす方向には、小さなカニが砂の上をサッと横切っていた。
「捕まえよう!」
二人でカニを追いかける。童心に返ったような時間。日常の悩みを忘れ、ただ今を楽しむ。そんな瞬間が、空にはとても貴重に感じられた。
昼食は三人で浜辺のレジャーシートの上。父と二人で作ったお弁当を、星は大喜びで頬張った。
「美味しい!」
素直な褒め言葉に、空と父は顔を見合わせて笑った。
「明日から私も料理、手伝う!」
星の宣言に、空は微笑んだ。今まで一人で抱え込んでいた家事。それを少しずつ分担していく。それは家族としての新しい一歩だった。
食事を終え、少し休憩した後、三人で貝殻拾いを始めた。
「これ、きれい!」
星が小さな巻貝を見つけて声を上げる。
「こっちにも面白いのがあるよ」
父が二人を呼んだ。
時間が経つのも忘れて、三人は浜辺を歩き回った。時折、母の思い出話が父から語られ、空と星は静かに聞き入った。
夕方に近づき、太陽が徐々に低くなってきた。
「あれ、見て」
父が水平線の方を指さした。海面に、キラキラと光る一筋の道が現れていた。
「光の道だ」
空は思わず声を上げた。美しい光景に、三人とも言葉を失った。
「お母さんが好きだった景色……」
星が小さく呟いた。空は星の肩を抱き、父も二人の傍に立った。
「お母さんも、きっとどこかで見てるよ」
父の声には、悲しみよりも温かさが感じられた。
その時、空の中で何かが溢れ出した。
「お父さん……」
「なに?」
「私……ずっと言えなかったんだけど……」
空は深呼吸して、続けた。
「もっと一緒にいたい。家族で過ごす時間が欲しい。私も……甘えたい」
言葉にするのが恥ずかしくて、空は俯いた。でも、やっと言えた。長い間心の中に閉じ込めていた本当の気持ち。
静寂が流れた後、父の大きな手が空の頭に優しく置かれた。
「ごめんね、空」
父の声は震えていた。
「ずっと仕事ばかりで...家族のことを後回しにしていた」
空は顔を上げ、父を見た。父の目には涙が浮かんでいた。
「でも、これからは変わるよ。もっと家族の時間を大切にする。空が無理をしなくても済むように」
その言葉に、空の目からも涙が溢れた。星も泣き始め、三人は互いを抱きしめた。
「私たちは家族だからね」
父の言葉が、空の心に染みわたった。
翌日、空は朝から灯台に向かっていた。昨日の海での出来事、そして家族との時間。それらを全て絵に描きたいという強い衝動があった。
灯台の扉を開け、らせん階段を上る。心臓の鼓動が高まる。これまで何度も訪れた場所だが、今日は特別な気持ちで来ていた。
展望室に着くと、朝の光が窓から差し込み、部屋を明るく照らしていた。空はキャンバスを設置し、絵の具を準備する。今日は油絵を描くつもりだった。鹿島から教わった技法を使って。
筆を取り、キャンバスに向かう。最初の一筆が置かれると、後は止まらなかった。心の奥底から湧き上がる感情と共に、色が重なり、形が生まれていく。
描いているのは昨日見た「光の道」。でも単なる風景ではなく、そこには様々な感情が込められていた。悲しみ、喜び、希望、そして何より大切な人への愛情。
時間の経過も忘れ、空は没頭して描き続けた。外の光が変わり、昼を過ぎ、午後へと移っていく。それでも、筆を置くことができなかった。
ようやく完成したと感じた時、空は一歩下がってキャンバスを見つめた。そこには、自分の全てを込めた一枚の絵があった。海に伸びる光の道、その両脇に小さな人影。そして、空の上には透明な女性の姿。守護者のように家族を見守る母の存在。
(これが私の気持ち)
言葉にできない思いを、全て絵に込めた。鹿島に教わった通り、感情を色と形にした。
キャンバスを見つめていると、階段から足音が聞こえてきた。振り返ると、葉山が立っていた。驚いた表情で、空を見つめている。
「桜井さん……」
「葉山くん、どうして?」
「なんとなく……ここにいるかなって」
葉山は空の絵に目を向け、言葉を失ったように立ち尽くした。
「これ……」
「今日描いたの」
葉山は絵の前に立ち、しばらく黙って見つめていた。
「すごい……こんな絵見たことない」
彼の言葉には、純粋な感動があった。
「伝わる? 私の気持ち」
「うん、すごく。悲しいけど、希望がある。寂しいけど、愛がある」
葉山の理解に、空は胸が熱くなった。彼には伝わるのだ。言葉にしなくても、絵を通して。
「昨日、家族で海に行ったんだ」
空は昨日のことを葉山に話し始めた。父との会話、星との時間、そして最後に伝えた本音のこと。
「やっと言えたんだね」
葉山の笑顔には、心からの喜びがあった。
「うん……まだ全部じゃないけど、少しずつ」
「それで十分だよ。一歩ずつ進めばいい」
二人は窓辺に腰掛け、外の景色を見つめた。穏やかな海、青い空、そして遠くに見える街並み。
「桜井さん」
葉山の声が、少し緊張したように聞こえた。
「なに?」
「実は……俺、決めたんだ」
「何を?」
「家を出ることに」
空は驚いて葉山を見た。
「え?どういうこと?」
「母さんの親戚が東京にいるんだ。そこに移ることになった」
「でも……」
「うん、学校はここに通う。だけど、生活の場所は変わる」
葉山の決断に、空は言葉を失った。彼の家庭環境を考えれば理解できる。それでも、突然のことに動揺した。
「いつから?」
「来週から」
「そんな急に……」
「ずっと考えてたんだ。そして先日、母さんの姉に連絡したら、すぐに来ていいって言ってくれて」
葉山の表情には、不安と希望が入り混じっていた。
「父さんには?」
「昨日、話した」
「どうだった?」
葉山は少し俯いた。
「最初は怒ったけど……最後には黙って頷いてくれた。多分、自分でも状況が良くないことは分かってたんだと思う」
空は葉山の手を取った。温かい手。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。怖いけど……でも、前に進むしかないから」
葉山の決意に、空は強く頷いた。
「学校には来るんだよね?」
「もちろん。毎日会えるよ」
その言葉に、空は少し安心した。完全に離れるわけではない。それでも、何か大きな変化が起きようとしていることは確かだった。
「桜井さん……この灯台、特別な場所だね」
葉山は話題を変えるように言った。
「うん、鹿島先輩と出会った場所だから」
「鹿島先輩、元気?」
空の表情が少し曇った。
「昨日、病院から連絡があって……」
「どうしたの?」
「また容態が悪化したって」
葉山は黙って空の肩に手を置いた。言葉は必要なかった。ただそばにいるだけで、十分な慰めになった。
「でも、この絵を見せに行くつもり」
空はキャンバスを見つめた。
「彼女に見てもらいたい。私がどれだけ成長したか」
「きっと喜ぶよ」
葉山の確信に満ちた言葉に、空は頷いた。
「それだけじゃないんだ」
「え?」
「学校の美術展、来月あるでしょ?」
「うん」
「この絵を出そうと思う」
葉山は驚いたように空を見た。
「本当に?」
「うん。今まで人に見せるのが怖かった。でも、もう隠したくない。私の気持ちを、もっと多くの人に伝えたい」
空の決意に、葉山は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしいよ、桜井さん。本当に変わったね」
「葉山くんのおかげ」
「違うよ。全部、桜井さんの力だよ」
二人は微笑み合った。窓から差し込む夕日が、二人の横顔を優しく照らしていた。
翌日、空は病院を訪れていた。キャンバスを持って、鹿島の病室に向かう。心臓が早く打っていた。
病室のドアをノックし、中に入る。ベッドの上の鹿島は、前回よりもやつれて見えた。顔色が悪く、呼吸も弱々しい。でも、空を見ると、彼女は微かに微笑んだ。
「桜井さん……来てくれたんだね」
「約束した絵を持ってきました」
空はキャンバスを見せた。鹿島はしばらくじっと絵を見つめ、やがて目に涙が浮かんだ。
「これは……」
「先輩に教わったように、自分の感情を全て込めました」
鹿島は震える手を伸ばし、キャンバスに触れた。
「素晴らしい……桜井さんの魂が見える」
その言葉に、空も涙が溢れた。
「先輩のおかげです」
「違う、全部桜井さん自身の力だよ」
鹿島は静かに言った。
「私は少し背中を押しただけ。才能も、感情も、全て桜井さんの中にあったもの」
空はベッドの横に座り、鹿島の手を握った。冷たい手。でも、確かな命の鼓動を感じた。
「この絵、学校の美術展に出すつもりです」
その言葉に、鹿島の顔に喜びが広がった。
「本当に?」
「はい。もう隠れたくないんです。自分の気持ちを、誰かに伝えたい」
鹿島は満足げに頷いた。
「それが大切なんだよ。表現することは、自分を解放すること。そして、誰かに伝えることで、新たな絆が生まれる」
その言葉は、鹿島からの最後の教えのように感じられた。
「先輩……」
「桜井さん、聞いて」
鹿島の声は弱かったが、意志の強さがあった。
「私の時間はもう長くない。でも、後悔はないよ」
その告白に、空は息を呑んだ。
「そんな……」
「大丈夫。私は絵を描いて、感情を表現して、そして桜井さんに出会えた。それだけで、人生は豊かだった」
鹿島の目には、透明な光があった。
「桜井さんは、まだ始まったばかり。これからもっと多くの絵を描いて、もっと多くの感情を表現して、そしてもっと多くの人と繋がっていく」
空は涙で言葉が出なかった。
「約束して。私の分も、たくさんの絵を描くって」
強く頷く空。
「絶対に……約束します」
鹿島は微笑んだ。
「もう一つ」
「なんですか?」
「あの灯台……桜井さんの場所にして」
「でも、先輩の場所……」
「今度は桜井さんの番だよ。あそこで、もっと多くの素晴らしい絵を描いて」
鹿島の願いに、空は強く頷いた。
「分かりました……絶対に」
二人は静かに見つめ合った。言葉にならない思いが、二人の間を行き交った。
面会時間が終わり、空は病室を後にした。廊下で振り返ると、窓から差し込む夕日が鹿島のベッドを照らしていた。まるで彼女を天国へと導く光のように。
美術展の日がやってきた。学校の体育館は、生徒たちの作品で彩られていた。その中で、空の絵は中央に飾られていた。
「すごいね、空。一番目立つ場所だよ」
美咲が興奮した声で言った。
「先生が選んでくれたの」
空は少し恥ずかしそうに答えた。
「当然よ、この絵は特別だもの」
森田先生が近づいてきて言った。
「鹿島さんも、きっと喜んでるわ」
その言葉に、空の胸が痛んだ。鹿島は美術展を見ることができなかった。一週間前、静かに息を引き取ったのだ。
葬儀は小さく行われ、美術部の仲間たちと共に空も参列した。悲しかったが、同時に不思議な安らぎも感じた。鹿島は自分の人生を全うしたのだ。悔いなく、自分の感情を表現し尽くして。
「鹿島先輩、見てるかな」
「きっと見てるよ」
葉山が空の傍に立って言った。彼は約束通り、東京の親戚の家から通学していた。学校では変わらない日常だが、彼の表情には以前より安心感があった。
「皆さん、ご注目ください」
校長先生の声が体育館に響いた。
「今年の美術展大賞の発表です」
緊張感が高まる中、校長は続けた。
「大賞は……桜井空さん、『光の道』です!」
会場から拍手が湧き起こった。空は信じられない思いで、皆に促されながら壇上に上がった。
「おめでとう、桜井さん。素晴らしい作品です」
校長から賞状を受け取りながら、空は思わず涙ぐんだ。振り返ると、美咲が大きく手を振り、葉山は誇らしげに微笑んでいた。そして、後ろの方には父と星の姿もあった。
壇上から見る景色は、今までにない光景だった。多くの人々が自分の絵を見て、感動している。自分の感情が、確かに誰かに届いている。
(伝わったんだ、私の気持ち)
空は心の中で、鹿島に語りかけた。
(先輩、見てますか?私、変われました)
賞状を胸に抱きながら、空は美術展を歩き回った。様々な人から声をかけられ、絵についての感想を聞いた。初めは恥ずかしかったが、徐々に自分の思いを語ることができるようになっていった。
夕方、人々が少なくなった頃、空は自分の絵の前に立っていた。一人静かに、自分の作品と向き合う時間。
「空」
背後から父の声がした。振り返ると、父と星が立っていた。
「お父さん、星……来てくれたんだ」
「当たり前じゃない、お姉ちゃんの大切な日だもん」
星が元気良く言った。
「おめでとう、空。本当に素晴らしい絵だ」
父の目には、誇りと感動の色があった。
「これが、空の本当の気持ちなんだね」
「うん……」
「お母さんのことも、私たちのことも、全てが詰まってる」
父は絵をじっと見つめた。
「お母さんも、きっと誇りに思ってるよ」
その言葉に、空の目から涙がこぼれた。
「帰ろうか、うちで祝おう」
父の提案に、空は頷こうとした時、葉山が近づいてきた。
「あの、桜井さん……」
「あ、葉山くん」
空は葉山を父と星に紹介した。
「こちらが葉山くん。クラスメイトで、よく助けてもらってる」
葉山は深々と頭を下げた。
「はじめまして、葉山遥です」
父は葉山を見て微笑んだ。
「いつも空がお世話になってるようで、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
少し気まずい空気の中、星が明るく言った。
「葉山お兄ちゃんも、一緒にお祝いしない?」
その提案に、大人たちは驚いた表情を見せた。
「いいの?」
葉山が空を見た。空は父を見た。父は微笑んで頷いた。
「ぜひどうぞ。空の大切な日だし、大切な友達も一緒に祝いたい」
「ありがとうございます」
葬儀は小さく行われ、美術部の仲間たちと共に空も参列した。悲しかったが、同時に不思議な安らぎも感じた。鹿島は自分の人生を全うしたのだ。悔いなく、自分の感情を表現し尽くして。
四人は体育館を後にし、夕暮れの校庭を歩いた。空を中心に、大切な人たちが集まっている。かつては考えられなかった光景だった。
「屋上から見える夕日、きれいだよ」
葉山が突然言った。
「行ってみる?みんなで」
空の提案に、皆が頷いた。
屋上に上がると、夕日が水平線に沈みかけていた。オレンジ色の光が海面に反射し、まるで灯台の光のような道を作っている。
「あれ……光の道だ」
星が指差した。父も驚いたように見つめている。
「お母さんも見てるね」
父の言葉に、皆が静かに頷いた。
空は深く息を吸い込んだ。鹿島のいない世界は、確かに寂しい。でも、彼女から学んだことは、これからも空の中で生き続ける。
(先輩、約束します。これからもたくさんの絵を描きます。感情を表現し続けます。そして、大切な人たちと繋がり続けます)
空はそっと目を閉じた。温かな夕日が顔を照らす。風が髪を揺らす。
そして、心の中では灯台の光が静かに回り続けていた。迷い込んだ船を導く光。迷路の中の人々を導く光。その光は、これからも空の道を照らし続けるだろう。



