朝の光が窓から差し込んできた時、空はすでに目を覚ましていた。アラームが鳴る10分前。いつもの癖だ。静かに起き上がり、携帯のアラームをオフにする。まだ眠っている妹を起こさないように。
ベッドから抜け出した空の足が床を軽く踏む。カーテンを開けると、窓の向こうに広がる朝の海が目に飛び込んできた。水平線が朝日で赤く染まり、その上を薄い雲が流れている。一瞬だけ、胸に何かが広がるような感覚。でも、すぐに時計の針が目に入る。
――六時十五分。
空は髪を一度撫でつけ、廊下へと足を向けた。
「星、起きる時間よ」
空は妹の部屋のドアをノックし、静かに声をかけた。返事はない。いつもの事だった。もう一度ノックし、ドアを開ける。
「星、学校遅れるよ」
ベッドの中で丸まった小さな影が、ゆっくりと動き始めた。星の顔が毛布から覗く。まだ夢の中にいるような、焦点の定まらない瞳。
「うーん……もう朝?」
「朝ごはん、できてるから。制服もアイロンかけておいたよ」
星はゆっくりと起き上がり、背伸びをした。小学六年生とは思えないほど幼く見える妹の寝顔に、空は小さく微笑む。けれど、その表情はすぐに消えた。
「パパは?」
「まだ帰ってないみたい」
星の顔から笑顔が消える。空は何も言わず、部屋を出た。
朝食の準備は手際よく進む。白いご飯に味噌汁、卵焼き、少しのサラダ。冷蔵庫の中のおかずを効率よく使って、空は三人分の朝食を整える。ふと、台所の窓の外を見ると、隣家の庭でツバメが飛んでいるのが見えた。春の訪れを告げるように、軽やかに。
「おはよう」
制服に着替えた星が階段を降りてきた。髪は少し乱れている。
「おいで、後ろ向いて」
空は妹の背後に回り、ブラシで髪を整え始めた。こうして髪を梳かすのも、日課の一つ。五年前、母が亡くなってから始めた習慣だった。
「痛くない?」
「ううん」
指先に伝わる髪の感触。星の髪は母譲りの柔らかさで、少し癖がある。空自身の髪は父親似の真っ直ぐな黒髪だった。
「今日、学校で何かある?」
「うーん……算数のテスト返ってくる。多分良かったと思う」
空は黙って頷き、黒いリボンで星の髪を結んだ。
「完成」
星は手鏡を取り上げ、自分の後ろ姿を確認する。満足げな表情。
「お姉ちゃん、ありがとう」
空は軽く頷くだけだった。
朝食を食べ終え、食器を洗いながら、空は時折玄関に目をやる。父親はまだ帰ってこない。昨夜も設計の納期に追われて遅くなると連絡があった。最近はそんな日が増えていた。
「お弁当、出来てるよ」
星に小さな花柄のお弁当箱を渡す。空自身のお弁当箱は、シンプルな紺色だった。
「いってきます」
星が元気よく言う。空も「いってきます」と小さく返す。二人は家を出た。
春の風が頬を撫でる。桜の花びらがひらひらと舞い、道路に小さな淡いピンクの絨毯を作っていた。浜風町の高台から見下ろす海は、今朝よりも青く澄んでいる。空は深呼吸した。潮の香りと桜の甘い香りが混ざった、この町特有の春の匂い。
「お姉ちゃん、今日は美術部?」
「うん」
「じゃあ、わたし友達の家に行ってもいい?」
「何時に帰る?」
「えっと……六時ぐらい?」
「晩ご飯の準備があるから、五時半までには帰ってきて」
星は少し不満そうな顔をするが、すぐに「わかった」と答えた。二人は坂道を下っていく。やがて、星の小学校への分岐点に差し掛かった。
「じゃあね、お姉ちゃん」
手を振る星に、空も小さく手を振り返す。星の後ろ姿が小学校の門をくぐるまで見送った後、空は自分の学校へと向かった。
浜風高校の門をくぐると、すでに多くの生徒たちが登校していた。春の陽気に誘われて、あちこちで声高に会話が弾んでいる。空はまっすぐに校舎へと向かう。
「空ちゃーん!」
後ろから明るい声がした。振り返ると、美咲が駆け寄ってきた。小学校からの親友で、今は別のクラスだが、いつもこうして朝会うのが日課だった。
「おはよう」
「おはよう! ねえねえ、聞いた? 二年一組に転校生が来るんだって!」
「へえ」
「男の子らしいよ。しかも、イケメンだって噂」
美咲は空の反応を期待して目を輝かせるが、空は特に興味を示さなかった。
「そういえば、クラス替えの結果見た? 私たち、また別々になっちゃったね」
「そうだね」
「でも安心して、お昼は絶対毎日一緒に食べに行くから!」
美咲の無邪気な笑顔に、空は小さく頷いた。美咲との友情は、空にとって貴重なものだった。小学校の頃から、美咲だけは空の静かな性格を受け入れてくれた。何も言わない時でも、側にいてくれる。そんな友達が他にいないことを、空は知っていた。
「あ、私、先生に呼ばれてるから先に行くね! また後で!」
美咲が駆け去った後、空は教室へと向かった。廊下は生徒たちであふれ、笑い声や話し声が響く。その中を、空は静かに歩いていく。まるで透明人間のように、誰も特に空に注目しない。それがいつもの日常だった。
「では、新学期にあたって、クラス委員を決めたいと思います」
担任の高橋先生が声を上げると、教室内がざわめいた。隣の席の女子が「やりたくないなあ」とため息をつく。空は窓の外を見ていた。春の陽射しが校庭の桜の木を照らし、淡いピンク色が一層鮮やかに見える。
「委員をやりたい人?」
数人が手を挙げる。空は静かに鉛筆で教科書の端をなぞっていた。
「桜井さん、美術委員をお願いできないかな?」
突然名前を呼ばれ、空は顔を上げた。教室の視線が一斉に空に集まる。喉が乾く感覚。
「……はい」
断る理由もなく、空は小さく頷いた。美術委員なら、特に人と関わることもない。静かに仕事をするだけ。それならできる。
「ありがとう。では他の委員も……」
先生の声が続く中、空はまた窓の外を見た。一羽の鳥が校庭の桜の枝に止まり、すぐに飛び立った。自由に飛んでいく鳥を見つめながら、空は軽いため息をついた。
午後の授業が終わり、教室が徐々に空いていく。部活のない生徒たちは急いで帰路につき、部活動の生徒たちは各々の活動場所へと向かう。空は静かにノートと教科書を鞄に入れていた。
「空!」
美咲が教室のドアから顔を覗かせる。
「一緒に美術室行こ?」
美咲も美術部だった。空と違って活発に活動し、部の中心的な存在だ。空が入部したのも、美咲に誘われたからだった。
「うん」
二人は美術室へと向かった。廊下の窓からは、校庭でのクラブ活動の様子が見える。陸上部の生徒たちが熱心に走り、野球部の声が遠くから聞こえてくる。
「ねえ、今日はどんな絵を描くの?」
「……まだ決めてない」
「そっか。私は春をテーマにした抽象画に挑戦してみようかな」
美咲は楽しそうに話す。空は黙って歩きながら、実は何も描きたいものが思い浮かばないことを考えていた。最近、筆を持つと手が止まってしまう。描きたいものがあるようでない。それとも、描けないだけなのか。
美術室に入ると、すでに何人かの部員が来ていた。窓からの柔らかな光が室内を明るく照らし、絵の具の匂いとターペンタインの香りが鼻をつく。いつもの安心する匂い。
「こんにちはー」
美咲が皆に元気よく挨拶し、空も小さく頭を下げる。誰も特に空に注目しないが、それが心地よかった。
イーゼルを準備し、キャンバスを立てる。空は筆を持ち、パレットに絵の具を出す。青、白、少しの黄色。春の空の色。筆を持った手が宙に浮いたまま、なかなかキャンバスに触れない。
(何を描けばいいんだろう……)
頭の中は空っぽのように感じる。でも、本当は違う。頭の中には色々な思いが渦を巻いている。ただ、それを形にする方法が分からない。伝えたい気持ちと、それを表現できないもどかしさ。
「あ、鹿島先輩だ」
美咲の声に、空は顔を上げた。美術室のドアに、3年生の鹿島奏が立っていた。美術部の中でも一際目立つ存在。去年の県展で優秀賞を取った才能ある先輩だ。細身の体に、少し長めの黒髪。どこか儚さを感じさせる雰囲気を持っていた。
鹿島は静かに部室に入り、皆に軽く会釈をする。そして、奥の自分の定位置へと向かった。彼女の絵を見たことがある部員たちは、一様に敬意の眼差しを向ける。空も密かに鹿島の絵に憧れていた。感情が直接伝わってくるような、力強くも繊細な表現力。自分には絶対に描けない世界。
鹿島のキャンバスは他の部員からは見えない角度に配置されていて、制作過程を見せることは滅多になかった。でも、完成した作品は圧倒的な存在感を放つ。空はそっと自分のキャンバスに目を戻し、筆を動かし始めた。
夕暮れ時、空は美術室を出た。部活を終えた美咲とは校門で別れ、一人で帰路についた。
「今日もあまり描けなかったね」
別れ際、美咲はそう言った。心配そうな視線が空に向けられる。
「うん……また今度」
「何か悩みがあるなら、言ってくれてもいいんだよ?」
空は小さく微笑み、「大丈夫」と答えた。いつものように。
坂道を上りながら、空は今日描いた絵のことを考えていた。青い空と白い雲。ありきたりで、何の感情も表現できていない絵。鹿島先輩の絵には、見る人の心を揺さぶる力がある。自分の絵には、何もない。
(本当は、もっと違うものを描きたい)
でも、何を描きたいのか、自分でも分からない。心の奥底にある、言葉にできない何か。それを形にしたいのに、方法が分からない。
高台に差し掛かると、夕日に照らされた海が視界に広がった。オレンジ色に染まった水面が、まるで燃えているかのように輝いている。空は立ち止まり、しばらくその光景を見つめた。
(きれい……)
そう思うと同時に、胸が締め付けられるような感覚がある。この美しさを誰かと共有したい。でも、誰と? 父は忙しいし、星はまだ小さい。美咲には理解してもらえるだろうか。この言葉にできない感覚を。
結局、空は一人でその景色を心に焼き付け、再び歩き始めた。
家に帰ると、玄関に父の靴があった。珍しく早く帰ってきたようだ。リビングでは、父が資料を広げて仕事をしていた。建築家として、常に締め切りに追われている。
「ただいま」
「あ、空。おかえり」
父は一瞬顔を上げたが、すぐに資料に目を戻した。疲れた表情に、深いしわが刻まれている。
「晩ご飯、何にする?」
「何でもいいよ。ごめん、今日も少し仕事を片付けないといけなくて……」
「分かった」
特に会話も続かず、空は台所へと向かった。冷蔵庫を開け、今日の夕食の献立を考える。野菜炒め、味噌汁、昨日の残りの煮物。シンプルだが栄養バランスの取れた食事を手際よく準備し始めた。
料理をしながら、空は窓の外を見つめた。少しずつ暗くなっていく空。星が一つ、また一つと現れる。
(お母さんも、この窓から空を見ていたのかな……)
ふと、そんな考えが浮かぶ。母が亡くなってから5年。顔の細かな特徴は少しずつ記憶から薄れていくが、母が台所に立っていた後ろ姿だけは、鮮明に覚えている。
「ただいまー!」
元気な声と共に、玄関のドアが開く音がした。星が帰ってきた。
「お帰り」
空は包丁を置いて、手を拭いた。
「今日ね、友達の家でケーキ作ったの!これ、お姉ちゃんの分!」
星が小さな紙袋を差し出す。中には少し形の崩れたカップケーキが入っていた。
「ありがとう」
空は微笑み、星の頭を軽く撫でた。星は嬉しそうに笑う。
「パパもいるんだね!パパにも持ってく!」
星はリビングへと駆けていった。父の声と星の声が混ざり合う。父が仕事の手を止め、星のケーキを褒める声。久々に聞く、父の優しい声。
空は静かに料理を続けた。
夕食後、空は自分の部屋で宿題を終わらせていた。窓の外は完全に暗くなり、町の灯りが小さな星のように点在している。遠くに見える灯台の光が定期的に回る。
ノックの音がして、ドアが開いた。父が立っていた。
「空、ちょっといいかな」
「うん」
父が部屋に入ってくる。少し落ち着かない様子で、空の机の横に立った。
「明日から、また数日出張に行くことになったんだ。大阪のプロジェクトで」
「……そう」
「星のことを頼めるかな。いつものように」
空は黙って頷いた。
「すまないね、いつも負担をかけて」
「大丈夫だよ」
空は無表情に答えた。父の顔に一瞬、何かが過ぎったように見えたが、すぐに普段の表情に戻った。
「ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
父が部屋を出て行った後、空はしばらく動かなかった。胸の奥に、言いたいことがある。本当は言いたいことがたくさんある。
(本当は……)
でも、その言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。
空は立ち上がり、部屋の隅に置いてあるスケッチブックを手に取った。ページをめくると、様々な絵が描かれている。風景、花、時々人物。どれも技術的には悪くないのに、何かが足りないと感じる絵ばかり。
最後のページを開くと、未完成の一枚がある。家族の絵。父と星と自分。だが、どうしても完成させることができない。母を描き加えるべきか、このまま三人だけで完成させるべきか。どちらにしても、心のどこかが痛む。
スケッチブックを閉じ、空は窓際に立った。町の灯りの向こうに広がる暗い海。そして、その上に浮かぶ無数の星。
(言いたいことがあるのに、言えない)
空はそっと窓ガラスに手を当てた。冷たい感触。透明な壁の向こうに、広大な世界が広がっている。でも、その世界に踏み出すことができない。まるで、透明な鳥籠の中にいるかのように。
朝がやってきた。いつものように、アラームが鳴る前に目を覚ました空は、静かに起き上がる。新学期二日目。昨日と変わらない一日が始まる。
制服に着替え、髪を整える。鏡に映る自分の顔には、特に表情がない。クラスメイトたちが「表情が乏しい」と言うのも無理はない。
空は深呼吸して、部屋を出た。今日も家族のために朝食を作り、星の髪を結び、笑顔で「いってらっしゃい」と父を見送る。
(本当は、私も甘えたい)
(本当は、私も大切にされたいって言いたい)
(本当は、私も……)
そんな言葉は、すべて心の奥底に押し込められたまま、空の透明な日々が続いていく。
朝の光が窓から差し込み、空の透き通るような横顔を照らしていた。まるで、そこにいるのかいないのか分からないような、儚い存在のように。
ベッドから抜け出した空の足が床を軽く踏む。カーテンを開けると、窓の向こうに広がる朝の海が目に飛び込んできた。水平線が朝日で赤く染まり、その上を薄い雲が流れている。一瞬だけ、胸に何かが広がるような感覚。でも、すぐに時計の針が目に入る。
――六時十五分。
空は髪を一度撫でつけ、廊下へと足を向けた。
「星、起きる時間よ」
空は妹の部屋のドアをノックし、静かに声をかけた。返事はない。いつもの事だった。もう一度ノックし、ドアを開ける。
「星、学校遅れるよ」
ベッドの中で丸まった小さな影が、ゆっくりと動き始めた。星の顔が毛布から覗く。まだ夢の中にいるような、焦点の定まらない瞳。
「うーん……もう朝?」
「朝ごはん、できてるから。制服もアイロンかけておいたよ」
星はゆっくりと起き上がり、背伸びをした。小学六年生とは思えないほど幼く見える妹の寝顔に、空は小さく微笑む。けれど、その表情はすぐに消えた。
「パパは?」
「まだ帰ってないみたい」
星の顔から笑顔が消える。空は何も言わず、部屋を出た。
朝食の準備は手際よく進む。白いご飯に味噌汁、卵焼き、少しのサラダ。冷蔵庫の中のおかずを効率よく使って、空は三人分の朝食を整える。ふと、台所の窓の外を見ると、隣家の庭でツバメが飛んでいるのが見えた。春の訪れを告げるように、軽やかに。
「おはよう」
制服に着替えた星が階段を降りてきた。髪は少し乱れている。
「おいで、後ろ向いて」
空は妹の背後に回り、ブラシで髪を整え始めた。こうして髪を梳かすのも、日課の一つ。五年前、母が亡くなってから始めた習慣だった。
「痛くない?」
「ううん」
指先に伝わる髪の感触。星の髪は母譲りの柔らかさで、少し癖がある。空自身の髪は父親似の真っ直ぐな黒髪だった。
「今日、学校で何かある?」
「うーん……算数のテスト返ってくる。多分良かったと思う」
空は黙って頷き、黒いリボンで星の髪を結んだ。
「完成」
星は手鏡を取り上げ、自分の後ろ姿を確認する。満足げな表情。
「お姉ちゃん、ありがとう」
空は軽く頷くだけだった。
朝食を食べ終え、食器を洗いながら、空は時折玄関に目をやる。父親はまだ帰ってこない。昨夜も設計の納期に追われて遅くなると連絡があった。最近はそんな日が増えていた。
「お弁当、出来てるよ」
星に小さな花柄のお弁当箱を渡す。空自身のお弁当箱は、シンプルな紺色だった。
「いってきます」
星が元気よく言う。空も「いってきます」と小さく返す。二人は家を出た。
春の風が頬を撫でる。桜の花びらがひらひらと舞い、道路に小さな淡いピンクの絨毯を作っていた。浜風町の高台から見下ろす海は、今朝よりも青く澄んでいる。空は深呼吸した。潮の香りと桜の甘い香りが混ざった、この町特有の春の匂い。
「お姉ちゃん、今日は美術部?」
「うん」
「じゃあ、わたし友達の家に行ってもいい?」
「何時に帰る?」
「えっと……六時ぐらい?」
「晩ご飯の準備があるから、五時半までには帰ってきて」
星は少し不満そうな顔をするが、すぐに「わかった」と答えた。二人は坂道を下っていく。やがて、星の小学校への分岐点に差し掛かった。
「じゃあね、お姉ちゃん」
手を振る星に、空も小さく手を振り返す。星の後ろ姿が小学校の門をくぐるまで見送った後、空は自分の学校へと向かった。
浜風高校の門をくぐると、すでに多くの生徒たちが登校していた。春の陽気に誘われて、あちこちで声高に会話が弾んでいる。空はまっすぐに校舎へと向かう。
「空ちゃーん!」
後ろから明るい声がした。振り返ると、美咲が駆け寄ってきた。小学校からの親友で、今は別のクラスだが、いつもこうして朝会うのが日課だった。
「おはよう」
「おはよう! ねえねえ、聞いた? 二年一組に転校生が来るんだって!」
「へえ」
「男の子らしいよ。しかも、イケメンだって噂」
美咲は空の反応を期待して目を輝かせるが、空は特に興味を示さなかった。
「そういえば、クラス替えの結果見た? 私たち、また別々になっちゃったね」
「そうだね」
「でも安心して、お昼は絶対毎日一緒に食べに行くから!」
美咲の無邪気な笑顔に、空は小さく頷いた。美咲との友情は、空にとって貴重なものだった。小学校の頃から、美咲だけは空の静かな性格を受け入れてくれた。何も言わない時でも、側にいてくれる。そんな友達が他にいないことを、空は知っていた。
「あ、私、先生に呼ばれてるから先に行くね! また後で!」
美咲が駆け去った後、空は教室へと向かった。廊下は生徒たちであふれ、笑い声や話し声が響く。その中を、空は静かに歩いていく。まるで透明人間のように、誰も特に空に注目しない。それがいつもの日常だった。
「では、新学期にあたって、クラス委員を決めたいと思います」
担任の高橋先生が声を上げると、教室内がざわめいた。隣の席の女子が「やりたくないなあ」とため息をつく。空は窓の外を見ていた。春の陽射しが校庭の桜の木を照らし、淡いピンク色が一層鮮やかに見える。
「委員をやりたい人?」
数人が手を挙げる。空は静かに鉛筆で教科書の端をなぞっていた。
「桜井さん、美術委員をお願いできないかな?」
突然名前を呼ばれ、空は顔を上げた。教室の視線が一斉に空に集まる。喉が乾く感覚。
「……はい」
断る理由もなく、空は小さく頷いた。美術委員なら、特に人と関わることもない。静かに仕事をするだけ。それならできる。
「ありがとう。では他の委員も……」
先生の声が続く中、空はまた窓の外を見た。一羽の鳥が校庭の桜の枝に止まり、すぐに飛び立った。自由に飛んでいく鳥を見つめながら、空は軽いため息をついた。
午後の授業が終わり、教室が徐々に空いていく。部活のない生徒たちは急いで帰路につき、部活動の生徒たちは各々の活動場所へと向かう。空は静かにノートと教科書を鞄に入れていた。
「空!」
美咲が教室のドアから顔を覗かせる。
「一緒に美術室行こ?」
美咲も美術部だった。空と違って活発に活動し、部の中心的な存在だ。空が入部したのも、美咲に誘われたからだった。
「うん」
二人は美術室へと向かった。廊下の窓からは、校庭でのクラブ活動の様子が見える。陸上部の生徒たちが熱心に走り、野球部の声が遠くから聞こえてくる。
「ねえ、今日はどんな絵を描くの?」
「……まだ決めてない」
「そっか。私は春をテーマにした抽象画に挑戦してみようかな」
美咲は楽しそうに話す。空は黙って歩きながら、実は何も描きたいものが思い浮かばないことを考えていた。最近、筆を持つと手が止まってしまう。描きたいものがあるようでない。それとも、描けないだけなのか。
美術室に入ると、すでに何人かの部員が来ていた。窓からの柔らかな光が室内を明るく照らし、絵の具の匂いとターペンタインの香りが鼻をつく。いつもの安心する匂い。
「こんにちはー」
美咲が皆に元気よく挨拶し、空も小さく頭を下げる。誰も特に空に注目しないが、それが心地よかった。
イーゼルを準備し、キャンバスを立てる。空は筆を持ち、パレットに絵の具を出す。青、白、少しの黄色。春の空の色。筆を持った手が宙に浮いたまま、なかなかキャンバスに触れない。
(何を描けばいいんだろう……)
頭の中は空っぽのように感じる。でも、本当は違う。頭の中には色々な思いが渦を巻いている。ただ、それを形にする方法が分からない。伝えたい気持ちと、それを表現できないもどかしさ。
「あ、鹿島先輩だ」
美咲の声に、空は顔を上げた。美術室のドアに、3年生の鹿島奏が立っていた。美術部の中でも一際目立つ存在。去年の県展で優秀賞を取った才能ある先輩だ。細身の体に、少し長めの黒髪。どこか儚さを感じさせる雰囲気を持っていた。
鹿島は静かに部室に入り、皆に軽く会釈をする。そして、奥の自分の定位置へと向かった。彼女の絵を見たことがある部員たちは、一様に敬意の眼差しを向ける。空も密かに鹿島の絵に憧れていた。感情が直接伝わってくるような、力強くも繊細な表現力。自分には絶対に描けない世界。
鹿島のキャンバスは他の部員からは見えない角度に配置されていて、制作過程を見せることは滅多になかった。でも、完成した作品は圧倒的な存在感を放つ。空はそっと自分のキャンバスに目を戻し、筆を動かし始めた。
夕暮れ時、空は美術室を出た。部活を終えた美咲とは校門で別れ、一人で帰路についた。
「今日もあまり描けなかったね」
別れ際、美咲はそう言った。心配そうな視線が空に向けられる。
「うん……また今度」
「何か悩みがあるなら、言ってくれてもいいんだよ?」
空は小さく微笑み、「大丈夫」と答えた。いつものように。
坂道を上りながら、空は今日描いた絵のことを考えていた。青い空と白い雲。ありきたりで、何の感情も表現できていない絵。鹿島先輩の絵には、見る人の心を揺さぶる力がある。自分の絵には、何もない。
(本当は、もっと違うものを描きたい)
でも、何を描きたいのか、自分でも分からない。心の奥底にある、言葉にできない何か。それを形にしたいのに、方法が分からない。
高台に差し掛かると、夕日に照らされた海が視界に広がった。オレンジ色に染まった水面が、まるで燃えているかのように輝いている。空は立ち止まり、しばらくその光景を見つめた。
(きれい……)
そう思うと同時に、胸が締め付けられるような感覚がある。この美しさを誰かと共有したい。でも、誰と? 父は忙しいし、星はまだ小さい。美咲には理解してもらえるだろうか。この言葉にできない感覚を。
結局、空は一人でその景色を心に焼き付け、再び歩き始めた。
家に帰ると、玄関に父の靴があった。珍しく早く帰ってきたようだ。リビングでは、父が資料を広げて仕事をしていた。建築家として、常に締め切りに追われている。
「ただいま」
「あ、空。おかえり」
父は一瞬顔を上げたが、すぐに資料に目を戻した。疲れた表情に、深いしわが刻まれている。
「晩ご飯、何にする?」
「何でもいいよ。ごめん、今日も少し仕事を片付けないといけなくて……」
「分かった」
特に会話も続かず、空は台所へと向かった。冷蔵庫を開け、今日の夕食の献立を考える。野菜炒め、味噌汁、昨日の残りの煮物。シンプルだが栄養バランスの取れた食事を手際よく準備し始めた。
料理をしながら、空は窓の外を見つめた。少しずつ暗くなっていく空。星が一つ、また一つと現れる。
(お母さんも、この窓から空を見ていたのかな……)
ふと、そんな考えが浮かぶ。母が亡くなってから5年。顔の細かな特徴は少しずつ記憶から薄れていくが、母が台所に立っていた後ろ姿だけは、鮮明に覚えている。
「ただいまー!」
元気な声と共に、玄関のドアが開く音がした。星が帰ってきた。
「お帰り」
空は包丁を置いて、手を拭いた。
「今日ね、友達の家でケーキ作ったの!これ、お姉ちゃんの分!」
星が小さな紙袋を差し出す。中には少し形の崩れたカップケーキが入っていた。
「ありがとう」
空は微笑み、星の頭を軽く撫でた。星は嬉しそうに笑う。
「パパもいるんだね!パパにも持ってく!」
星はリビングへと駆けていった。父の声と星の声が混ざり合う。父が仕事の手を止め、星のケーキを褒める声。久々に聞く、父の優しい声。
空は静かに料理を続けた。
夕食後、空は自分の部屋で宿題を終わらせていた。窓の外は完全に暗くなり、町の灯りが小さな星のように点在している。遠くに見える灯台の光が定期的に回る。
ノックの音がして、ドアが開いた。父が立っていた。
「空、ちょっといいかな」
「うん」
父が部屋に入ってくる。少し落ち着かない様子で、空の机の横に立った。
「明日から、また数日出張に行くことになったんだ。大阪のプロジェクトで」
「……そう」
「星のことを頼めるかな。いつものように」
空は黙って頷いた。
「すまないね、いつも負担をかけて」
「大丈夫だよ」
空は無表情に答えた。父の顔に一瞬、何かが過ぎったように見えたが、すぐに普段の表情に戻った。
「ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
父が部屋を出て行った後、空はしばらく動かなかった。胸の奥に、言いたいことがある。本当は言いたいことがたくさんある。
(本当は……)
でも、その言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。
空は立ち上がり、部屋の隅に置いてあるスケッチブックを手に取った。ページをめくると、様々な絵が描かれている。風景、花、時々人物。どれも技術的には悪くないのに、何かが足りないと感じる絵ばかり。
最後のページを開くと、未完成の一枚がある。家族の絵。父と星と自分。だが、どうしても完成させることができない。母を描き加えるべきか、このまま三人だけで完成させるべきか。どちらにしても、心のどこかが痛む。
スケッチブックを閉じ、空は窓際に立った。町の灯りの向こうに広がる暗い海。そして、その上に浮かぶ無数の星。
(言いたいことがあるのに、言えない)
空はそっと窓ガラスに手を当てた。冷たい感触。透明な壁の向こうに、広大な世界が広がっている。でも、その世界に踏み出すことができない。まるで、透明な鳥籠の中にいるかのように。
朝がやってきた。いつものように、アラームが鳴る前に目を覚ました空は、静かに起き上がる。新学期二日目。昨日と変わらない一日が始まる。
制服に着替え、髪を整える。鏡に映る自分の顔には、特に表情がない。クラスメイトたちが「表情が乏しい」と言うのも無理はない。
空は深呼吸して、部屋を出た。今日も家族のために朝食を作り、星の髪を結び、笑顔で「いってらっしゃい」と父を見送る。
(本当は、私も甘えたい)
(本当は、私も大切にされたいって言いたい)
(本当は、私も……)
そんな言葉は、すべて心の奥底に押し込められたまま、空の透明な日々が続いていく。
朝の光が窓から差し込み、空の透き通るような横顔を照らしていた。まるで、そこにいるのかいないのか分からないような、儚い存在のように。



