この世界に来てから、どれくらいの時間が経ったのだろう。地球とは違う空気の流れのせいか、夜が明けることもなく、常に星々が輝いている。この世界の時間の流れは、私の知るものとは違っているのかもしれない。

 幸輝と一緒にこの世界を歩くうちに、最初の不安や緊張は少しずつ和らいでいた。彼は明るくて、どこか掴みどころのない人だったけれど、話していると安心できる不思議な人だった。

「なあ、せっかく時間はたくさんあるんだし、ここに来たんだからさ、もうちょっと歩いてみようぜ」

 幸輝が笑いながら言った。私はこくりと頷く。

 二人で歩く夜の大地は、どこまでも広く、空には見たこともないほど無数の星が瞬いていた。まるで宝石を散りばめたような、そんな世界だった。

「なあ、星来はさ、地球で何か悩んでたのか?」

 ふいに幸輝が問いかける。

「……なんでそう思うの?」

「いや、俺もここに来る前、色々あってさ。だから、もしかして星来も何かあったのかなって」

 私は少しだけ迷ったけれど、幸輝の表情を見て、少しずつ口を開いた。

「……私は、学校で明るい自分を作ってた。一軍って言われるグループにいて、みんなと笑って過ごしてたけど、本当は無理してたの。家でも、お母さんとちゃんと話せなくて……気を抜ける場所がなかった」

 言葉にしてみると、ずっと抱えていたものが少し軽くなった気がした。幸輝は私の言葉を遮らず、ただ静かに聞いてくれていた。

「そっか……」

「幸輝は、なにがあったの?」

 聞かない方がいいのかもしれない。でも聞かずには入れなかった。

「……俺もさ、親父と喧嘩して家を飛び出したんだよ。『もう帰ってくるな!』って怒鳴られて……でも、なんか悔しくてさ。それで、気がついたら、ここにいたんだ」

「……喧嘩、してたんだ」

「まあな。でも、なんでここに来たのかは、正直わかんねぇんだよ」

 彼は笑っていたけれど、その目の奥にはどこか寂しげな光が宿っていた。

 私たちはそれ以上言葉を交わさず、ただ並んで星空を見上げた。

「なあ、せっかくだから、星をもっと近くで見てみようぜ」

 幸輝が私の手を引く。その手は、思っていたよりも冷たくて、少し驚いた。


「……どこまで行くの?」

「ほら、あっちの方に光ってる場所があるの見える? もしかしたら、何かあるかもしれない」

 私は幸輝の指さす方向を見た。確かに、地平線の向こうに小さく揺らめく光が見える。それは星の光とは少し違って、ゆらゆらと揺れていた。

「行ってみる?」

「おう!」

 私たちは並んで歩き出した。星の大地を踏みしめるたび、さらさらと砂が流れるような音がする。どこまでも続く夜の世界。こんな幻想的な場所が本当にあるなんて、夢を見ているみたいだった。


「……ん?」

——-ふと気づくと、幸輝の姿がない。

「幸輝?」

 あたりを見回す。確かに、さっきまで隣にいたはずなのに。胸がざわつく。

「幸輝!」

 私は少し焦って、辺りを探し始めた。風の音がするだけで、幸輝の声は聞こえない。

「……どこ行ったの?」

 さっきまでの穏やかな雰囲気が一変し、不安が胸を締め付けた。

 夜の世界は静かすぎるくらい静かで、どこを見ても同じような風景が広がっている。星の光は美しいけれど、それが逆に、私をひとりぼっちにしてしまうような気がした。

「……迷子になった?」

 自分の声が妙に小さく聞こえた。私は一歩踏み出す。どこかへ進めば、また幸輝に会えるかもしれない。

けれど——

「——っ!」

 突然、足元の感覚がなくなった。

 私は何かに引きずり込まれるように、闇の中へと落ちていった——。

「——っ!」

 次の瞬間、背中を強く打ちつけた。ずきんとした痛みが背中に広がる。


 意外と深い、穴のようなところ。

 辺りを見渡しても、自分を丸く高く囲む石の壁しかない。上を向いても夜空しか見えず、石壁は高くて外には出られない。
 夜空は手が届きそうなほど近いのに、地上は遠すぎる。慌てて立ち上がり、壁を登ろうとするも、土はもろく指先をかけるだけで崩れ落ちる。
 
「こ、こうき!」

 無意識に、息を大きく吸って叫んでいた。

「幸輝!助けて!」

 自分の声が響いて聞こえる。何回か幸輝の名前を呼んでも、返事はない。幸輝はどこにいるの?

「幸輝!」

 近くに幸輝がいてくれることを願って大きな声で、彼の名を叫び続ける。

「……」

 しばらく呼び続けたけど、人がいる気配もしない。私の身長じゃ、外が見えないから余計に怖くなる。怖い。不安。恐ろしい。ネガティブな気持ちに襲われる。外に出られたとしても、一人で幸輝がいなかったら、動けないよ……。

「幸輝……」


 今さらだけど、幸輝がいてくれて良かったことを実感する。もしも私、幸輝がいなかったらどうしてたんだろう。本当にどうしてたんだろう。怖くて、初めにここに来たあそこから、たぶん——動けなかったと思う。


 ———何も変わっていない。地球にいたときと。

 怖くて動けない。今も、幸輝に助けを呼んでた。勝手に頼ってた。学校でも家でも、明るい自分を演じて、嫌なことを嫌と言えなかった。友達や家族に合わせるしかなくて、周りに合わせないなんて絶対に出来ない、怖いと思ってた。

 でも、それじゃ、ダメなんだ。

 怖い、出来ない、そんな事を思ってても、何も変わることはできない。変わらずに落ちていくだけだ。
 自分から挑戦して、ダメだったらそれでもいい。別のことにチャレンジすればいい。

 美緒、唯、幸輝、そしてお母さん。

 ちゃんと彼らに向き合って、自分なりに接するんだ。透明な壁を作ってバリアを張っていたのは私だ。自分で、バリアを破らないと。ありのままの私で過ごしても、彼らは何も言わない。立場が変わることもない。大丈夫。

 私が、自ら、変わるんだ!


「星来っ……!」

 幸輝の声が遠くから、風にのって響いて聞こえた。

「幸輝!!」

 少し強く吹く風に負けないように、声を大きくして彼を呼ぶ。

「星来!?」

 走ってきてくれてるのだろう、砂のジャリジャリした音が速く聞こえてくる。

「星来!」

 頭上から、なにか懐かしい声がした。

「幸輝!」

 彼の顔が見えた瞬間、緊張が一気にほどけた。自分から変わるって決めたのに、ほっとしたら涙が溢れそうになる。

 手を外から差し伸べてくれる。その手を私はぎゅっと握った。そのまま私は地面から浮く。どちらかと言えば細い、彼の体に私を持ち上げる力はどこにあるのだろう。あっという間に地上の地面に腰を下ろしていた。

「っ……」

 彼の体はひどく汚れていた。どれだけ私を探し回ってくれたのだろう。

「ごめん!」

 私が謝らなくてはいけないのに、幸輝から謝罪の言葉が出た。

「え、なんで?謝らないといけないのは私でしょ?」

「光る場所が気になって、俺が勝手に先に進んで行ったから……」

 よほど後悔の気持ちなのだろう。

「だから、ごめん」

 顔を地面に付くくらいまで下げて、私に謝ってくれる。

「いや、私の方こそごめん!そんなぼろぼろになってまで心配させちゃって」

「これは俺が、転んだり草木の中入ったりしただけだから……。まって、星来、手。けがしてない!?」

 言われてみると、血が出ていた。でも、痛みは感じられなかった。

「あ、ほんとだ」

「早く、洗いに行こう!」

「どこに?」

「湖とかでもいい?」

 湖で手を洗ったことはないけど……。

「いいよ、湖行こう」

 幸輝の心配さに押されて、湖に行く事になった。

「ついでに、幸輝も服洗ったら?」

「いや、いいよ」

 湖に着くと幸輝は無言で私の手の血を洗ってくれる。幸輝は自分だって服が汚れてるのに。

「……ありがとう」




「……星来に、話さなくてはいけない事があるんだ」

 血を流した後、不意に幸輝が言った。彼は珍しく表情を曇らせている。

「……俺さ、前に言ったよな。親父と喧嘩して、家を出て……気づいたらこの星にいたって」

「うん」

 幸輝は少し口をつぐんだ。言いにくそうに、何かを迷っているような顔をしている。なにか悪い予感がした。

「実は……俺、本当は──」

 彼が言いかけた瞬間、ふわりと風が吹いた。湖面が揺れ、星の光がきらきらと水面に反射する。


「……死んでたんだ」

 時間が止まったような気がした。

「え……?」

「俺、思い出したんだ。喧嘩して家を飛び出した後のことを。……あの時、事故に遭ってたんだ」

その言葉に、心臓が痛くなるほど締め付けられる。

「うそ……」

「本当は最初から分かってたのかもしれない。でも、星来と一緒にいる時間が楽しくて……。希望を持ちたかったんだよ。俺も、もしかしたら帰れるんじゃないかって」

 彼の口からは聞きたくない事実が溢れ出てくる。

「やだ……そんなの、やだよ……!!」

 我慢できずに私の目からは涙が溢れ出した。
 どうして。どうして、そんな大事なことを――。


「ごめんな。言えなくて……でも、星来と一緒に過ごせて、楽しかった。」

 幸輝の声は優しくて、だけどどこか儚かった。

 
 気がつけば、私の体は光に包まれていた。

「何これ……!」

 星々が瞬くこの星の夜空が、ぼんやりと滲んでいく。体がふわりと軽くなり、現実へ引き戻される感覚がする。

「……やっと、星来は悩みを乗り越えられたんだよ。もうすぐ現実世界、地球に戻れる」

 幸輝はどこか遠くを見て言った。

「待って、幸輝……!」

 目の前には、まだ光に包まれない幸輝の姿があった。

「なんで……?幸輝の体は光らないの?幸輝はもう——-」

 不安と恐怖が胸を締めつける。
 私たちは一緒に帰るはずだった。

 それなのに——



「嫌だよ! 一緒に帰るんじゃないの!?」

 これからの幸輝の行方は私には分からないけれど、一緒に地球に帰れないことは分かった。幸輝の腕を掴もうとする。
 でも、指先が触れる前に、幸輝の姿がぼんやりと揺らいだ。

「……俺はここまでだ。でも、星来は戻れる。大丈夫。今の星来なら現実世界でもやっていける」

「嫌だ!!幸輝がいない世界なんて……!!」

 体の光が強くなっていく。
 もう、私だけが、地球へ戻るんだろう。

「ありがとう、星来」

 幸輝は、静かに微笑んだ。何度も叫んだけれどただ微笑んでいた。

「生きる意味を教えてくれて、本当に、ありがとう」

 目の前にいるはずの幸輝が、涙でぼやけて見えない。

「幸輝!!」

 叫んだ瞬間、私の視界は真っ白に染まった。