お母さんがいてくれる事も、友達がいてくれる事も、嬉しいこと。当たり前ではない事——


 さぁぁぁ。涼しい風が髪を撫でる。気持ちいい。このままずっとこうしていたいなぁ……。

 静寂の中、私はゆっくりと目を開けた。視界に美しい夜空が広がっている。
 ぼんやりと視界が滲む。まるで夢の中にいるみたいだ。

 ――ここは、どこ?

 私は確か、公園のブランコに座って、夜空を見上げていたはずだった。でも、目の前に広がる景色は見慣れた公園とは違った。

 深い群青色の空に、無数の星が瞬いている。
 それらは、一つ一つが強く、そしてはっきりと光を放っていた。まるで手を伸ばせば届きそうなくらい、星々が近くに感じられる。遠くには淡い光を帯びた河がゆったりと流れている。

 私はそっと地面に手をつく。冷たく、さらさらとした砂が指の間をすり抜ける。白く輝く砂。まるで星屑みたいな……。


「……夢?」

 呟いた声が、驚くほどはっきりと夜に響いた。まるで静寂そのものに包まれているみたいに。

 立ち上がろうとすると、ふいに足元がふらついた。頭がぼんやりして、意識がどこか宙に浮いているような感覚がする。

 ――これは、本当に夢なの?

 そんな疑問が浮かび、私は立って辺りを見渡した。どこまでも続く白い砂浜、夜の海のような空、瞬く星々。そして、不思議なほど静かで、心が吸い込まれそうになるほどの美しい風景。

 だけど、どこにも人の気配はない。

 急に、心臓がざわついた。
 私はひとりぼっち?
 帰れないの?

 ここはどこ?

 不安に押しつぶされそうになったそのとき――。

「おーい!」

 遠くから、誰かの声が聞こえた。

 私は反射的に顔を上げる。暗闇の中から、ひとつの影がこちらへ向かってきていた。

 近づいてくると、それがひとりの少年だとわかった。年は私と同じくらい。黒髪はどこかあどけなさの残る顔立ち。だけど、その瞳は妙に落ち着いていて、不思議と引き込まれるような輝きを持っていた。

「……誰?」

 私は警戒しながら問いかける。

 すると少年はふっと笑い、軽く手を挙げた。

「ようこそ、不思議な星へ。迷子の女の子さん」

「……は?」

 なんなの、この人。

 私は思わず眉をひそめた。すると、少年はくすっと笑って、少し歩み寄る。

「そんなに警戒しなくても大丈夫。俺は幸輝(こうき)。ここの住人——ってわけじゃないけど、まあ、先輩みたいなもんかな」

 ……幸輝。

 私はその名前を頭の中で繰り返した。

「君の名前は?」

「星来。てゆうか、こ、幸輝……ここはどこなの?」

「うーん、名前はないんだけどさ。俺たちみたいに、行き場を失った人が迷い込む場所ってところかな。」

 私は彼の言葉を飲み込めなかった。行き場を失った?どういうこと?

「少なくとも、ここが地球じゃないってことは確かだね。」
 
 さらりと言われた言葉に私は思わず絶句した。
 幸輝はそんな私の困惑を気にすることなく、座り込んで、夜空を見上げる。

「……綺麗だろ?この星の夜空。」

 そう言われて、私もつられるように空を見上げた。

 何度も見てきたはずの星空。だけど、今見ているものは、まるで別世界のもののようだった。

「……うん」

 知らないうちに、私は小さく頷いていた。

「てゆうか、地球じゃないってどういうこと?」

「そのままの意味だよ。ここは地球とは違う、別の星。俺も最初はびっくりしたけど……。まあ、慣れればそんなに悪くないよ」

「いやいや、そんな簡単に——。地球じゃない星って何?意味わかんないし。……だって私、ただ公園にいて、それで……」

「流れ星を見たんでしょ?」

 幸輝の言葉に、私はハッとした。

 ——-私はあの時、流れ星を見て願ったんだ。

 『ここじゃない場所へ行きたい』って。


「……もしかして、そのせい?」

「かもね。俺も詳しいことは分からないけど……でも、ここに来た人って、だいたいそんな感じだったよ」

「……だいたい?」

 私は幸輝の言葉の意味を考えながら、彼をじっと見つめる。

「もしかして、幸輝も……?」

「うん。俺も——前は地球にいた」

「……」

 私は一瞬言葉を失った。

「すぐには信じられないよね。でも、俺は本当に地球にいたんだよ」

 幸輝はそう言って、空を見上げる。横顔にはどこか寂しげな影が落ちていた。

「いつからここに?」

「さあ、もうどれくらい経ったんだろうな。でも、そこまで長くはないと思う」

「そんな……」

 自分の身に起こったことが信じられず、私はふらりと後ずさった。でも、背中に冷たいものが当たり、はっとする。

 振り返ると、そこには大きな石があった。私はそっとそれに手をつくと、深く息を吐いた。

「……帰れるのかな」

 ぽつりと漏れた言葉に、幸輝は少しの間黙ったまま、やがてゆっくりと口を開いた。

「わかんない。でも、方法を探してみてもいいと思う」

 私はその言葉に、少しだけほっとした。

「……うん」

 とりあえず、この場所のことをもっと知らなきゃいけない。今すぐ帰る方法が分からないのなら、それを探すしかない。

「じゃあ、まずは歩いてみようか」

 幸輝がそう言って立ち上がる。

 私は少し迷ったが、じっとしていても状況が変わるわけじゃない。覚悟を決めて、彼の後を追った。





 空は美しく輝いていた。

 夜なのに不思議と暗さはなく、まるで淡い光が大気に溶け込んでいるようだった。星の光が降り注ぐ地面は柔らかく、歩くたびにほんのり沈む。まるで雲の上を歩いているみたいだ。

「この星、名前とかあるの?」

 歩きながら何気なく尋ねると、幸輝は肩をすくめた。

「さあ? 俺は『ここ』って呼んでるけど」

「え、そのまんま……?」

「だって、本当に名前がないんだもん」

 それもそうかもしれない。地球ではないとすれば、誰がこの星の名前を決めるんだろう?

「じゃあ、私たちで名前つけちゃう?」

 冗談半分で言ってみると、幸輝は「おっ」と面白そうな顔をした。

「いいね。じゃあ、なんて名前にする?」

「うーん……」

 辺りを見回す。どこまでも広がる夜空と、淡く光る草木。未知の世界。

「……『宙の庭』とか?」

 幸輝は少し考え、それから「悪くないね」と頷いた。

「じゃあ、俺たちは今『宙の庭』を冒険中ってことで」

「冒険……かあ」

 確かに、そんな感じがする。未知の世界を歩くのは、不安と同時に少しだけわくわくする気持ちもあった。

 しばらく歩くと、丘の上にたどり着いた。

 見下ろすと、地平線の向こうに青白い光を放つ湖が見える。風が吹き抜け、静かな波がゆっくりと広がっていた。奥の方には美しい河も流れていた。

「……綺麗」

 思わず声が漏れる。

「でしょ? 俺も最初に見たときは驚いたよ」

 幸輝は湖を見つめながら、どこか懐かしそうに呟く。

「ここって、他にも誰かいるの?」

「うーん……いたり、いなかったりかな」

「……どういうこと?」

「よく分かんないんだよね。気づいたら増えてたり、いつの間にかいなくなってたりするから」

 その言葉に、私は思わずゾクリとした。

「それって、どういう……」

「さあね。俺も全部分かってるわけじゃないし」
 
 幸輝はあっさりとそう言うと、「とにかく行ってみよう」と先に歩き出した。

 私は不安を覚えつつも、彼の後を追った。




 湖のほとりまで降りると、さらに驚いた。

 水面には無数の光が浮かび、ゆらゆらと揺れている。まるで星が湖に落ちてきたみたいだった。

「これ、なんだろう……?」

 そっと手を伸ばし、指先で水をすくう。冷たい。でも、その瞬間——

 キラッ。

 光が弾けるように広がり、小さな星屑が舞った。

「わっ!」

 思わず手を引っ込めると、幸輝が笑った。

「びっくりした?」

「なに、これ……」

「ここの水はね、不思議なんだよ。触ると光るし、たまに流れ星みたいに空へ昇ってくこともある」

 私はもう一度、水面に手をかざしてみた。すると、やっぱり光が波紋のように広がっていく。

「……これ、何か関係あるのかな」

「かもね」

 幸輝は湖を見つめながら、少しだけ真剣な顔になった。

「俺もまだ全部は分からない。でも、ここにはきっと何か意味がある気がする」

「……意味?」

「うん。もしかしたら、ここにいる理由とか、帰る方法とか……全部、この星が知ってるのかもしれない」

 私は彼の言葉を反芻する。

——この星が、知っている?

 それはただの勘なのか、それとも……

「とにかく、もう少し探索してみよう」

「……うん」

 私は湖を振り返りながら、小さく頷いた。




 周りを見渡しながら、私たちはしばらく黙っていた。

 そばにある河の波の音だけが静かに響いている。

——こんなに静かで落ち着く時間、いつぶりだろう。


「なあ、星来ってさ」

 不意に幸輝が、地面の砂をさらさらと触りながら、口を開く。

「うん?」

「好きな食べ物とか、ある?」

「え?」

 あまりに普通すぎる質問で、思わず笑ってしまった。

「……今、それ聞く?」

「だって、気になるじゃん」

 幸輝は肩をすくめながら、いたずらっぽく笑った。

「私の好きな食べ物……オムライスかな」

「へぇ、いいね。自分で作るの?」

「作るっていうか、お母さんが作ってくれるのが好き」

 言いながら、少しだけ胸がチクリとした。最近、まともに話せていないお母さん。だけど、小さい頃はよく一緒にキッチンに立ったっけ。

「そっか、オムライスか。……今すぐ食べられたらいいのにな」

 幸輝は流れる波を見ながらぼそっと呟く。

「ここには食べ物はないもんね……。幸輝の、好きな食べ物は?」

「俺? 俺はラーメン」

「ラーメン? なんか意外」

「そう? 俺、家の近くにあったラーメン屋がめちゃくちゃ好きだったんだよ。親父とよく行ってさ」

「あ……」

 彼の口から「親父」という言葉が出た瞬間、少し空気が変わった気がした。

 幸輝は、ふっと視線を落とす。

「まあ、今となっては行けないけどな」

「……」

 幸輝の言っている意味が、わかるようで、わからなかった。彼の横顔はどこか寂しそうで、少しだけ胸が締め付けられた。


「なあ、ここの砂、持っておかない?」

 場の空気を明るくするためか、幸輝はいつもより明るい口調で言った。

「え?」

「砂をポケットに入れて、地球に帰ったらそれを宝物にしよう」

 それを幸輝は本気で言っているのか、幼稚園児の気分で軽く言っているのか、わからない。でも、断る気はしなかった。

「いいよ、持って帰って大切に保管しよう」

 ポケットに砂をさらさらと入れると、少し変な感じがした。

「なんか、悪いことやってる気分なんだけど……」

「え?そう?俺、幼稚園の頃ポケットに、虫とか入れてよく怒られてたなあ」

「怒られるでしょ!」

 二人で吹き出して、周りは明るい空気に包まれた。