卒業式前日は、本当にあっという間に終わってしまった。
午前中は、卒業式を全てとおしでのリハーサルが行われた。まだ前日なのに担任や一部の生徒は涙ぐみ、いつもの明るい空気にはどこか寂しさが入り混じっていた。
リハーサルも終わり、教室に戻ってから揺湖や咲優とくだらない話をした。毎日のように机に腰掛けながら「卒業式の髪型どうする?」なんて遠い未来のことで盛り上がってきたけれど、もう明日に迫っている。
中庭の桜は淡いピンクの花をいくつか咲かせている。昨日の雨が嘘のように穏やかな日差しに涼しいやわらかな風。道路にいくつか残っていた水たまりは、空の青を鮮やかに映し出していた。
塾の自習室ではブローチ作りの仕上げだ。花びらの貼り付け作業も慣れてくれば不思議なもので、不器用を自負するわたしでもかなり美しい花を咲かせることができた。おかげでブローチ作りも短時間で終了し、コンビニで買いこんだ大量のお菓子とジュースで小さな打ち上げバーティーをひらいた。平と過ごせた最後の時間は、あっという間に過ぎていった。
その日の夜、わたしは夢を見た。
平とはじめて出会った日の、夢。
息苦しかった日々から脱却するきっかけとなったあの出来事のことを。
――中学二年の三学期。
日差しはあたたかいのに冷たい風がビュウビュウと音を立てて吹くせいで微かに肌寒い、春より一歩手前の日だった。
その日は外で体育の授業があった。しかし、体操着を家に忘れてしまったわたしは、制服で見学となってしまった。
「璃乃さあ隣のクラスの北山って知ってる? あいつが昨日私にDMしてきて、好きな食べもの聞いてくんの。なにに使うんだよっての」
友人の日菜が、見学スペースにきて愚痴をこぼした。陸上のために切ったらしいショートヘアに、黒糖パン色の肌。どの季節でも、彼女のまわりだけは真夏みたいに見える。
授業中だというのに、皆に混じってサッカーをする気はゼロらしい。遠くに、ボールを手にしてこちらの様子を気にする揺湖の姿が見えた。
「その北山くん? は、日菜のこと気になってるんじゃない? わたしは、知らないひとだけど」
「北山はないわー、あいつブスだし。嫌われてるのに自覚してないんだよ」
日菜は言葉を暗くして吐き出す。
目を蛇のように細めるのは、彼女が誰かの悪口を言うときの癖のようなもの。同意を強制されている気がして、その目がわたしは苦手だった。
わたしは北山くんが誰かも分からない。だけれど、なにも知らない彼の悪口を日菜によって言わされそうになる。表情筋がぴくりとも動かない。感情がいっきに冷めてしまったみたいだ。
見学スペースの少し離れたところには隣のクラスの男子がいる。彼がもし北山くんの友人ならどうするのか。しかし、彼女は気にする様子もなく、流れるように愚痴だけを発展させていく。
息苦しさに相槌すらも打てなくなっていたとき、筋骨隆々な男性がこちらに近づいてきた。
「――おい日菜、サボんなよー」
ガタイの良い体育教師の太い大声に名指しされ、日菜は「うげえ」と顔をしかめた。
「サッカーだるぅ」
しぶしぶ腰をあげて日菜はため息をひとつ。続けて、「じゃあ戻るわ」とわたしに一言かけて、授業に帰っていく。
内心ほっとしながら、わたしはいつの間にか抱えていた両足をまっすぐ伸ばす。
日菜は悪いひとじゃない。悪口は多めだけれど、部活熱心で人当たりも良い。
それに、陰口なんて皆言っている。女子の会話なんてほとんどが陰口と愚痴で構成されている。
だから、過剰に反応してしまうわたしのほうが変なんだ。悪口だって、言わないといけない。……言えないといけない。
「なああんた、おはよ」
「……え」
声のほうに顔を向けると、見学スペースにいる男子がこちらを向いている。隣のクラスの男子だ、けれど、話したことはないはず。
彼も体操着を忘れたのか、制服姿で段に腰掛けている。強気な瞳は、怖さよりも目を逸らさなまっすぐさに見えた。
口をぽっかり開けながら、わたしも「おはよ?」と首を傾げながら返す。
なぜ、挨拶? というわたしの疑問がわかりやすかったのか、彼はちょっと笑った。空気がふっと柔らかくなる。
その男子は立ち上がってわたしの隣に移動してくる。
なんだこのひと、と思っていると、彼は歯を見せて笑いながら話しかけてきた。
「なんかさ、『おはよ』って言うだけで、壁がちょっと薄まる気がしねえ?」
「壁?」
「こころの壁、みたいな。警戒とか緊張とかそういうの」
考えたこともなくて、ほお、と感心してしまう。
実際わたしは彼と自然に会話をできているのだから、その理論は正しいのかもしれない。
わたしはもともと、挨拶をあまりしないほうだ。理由はまあ、面倒だから、だけれど。そこまで挨拶に意義を感じていないからというのもある。
だけれど、その考え方はおもしろいなと素直に思った。
「挨拶したら距離縮まるし、そういうときに有効活用してる」
「じゃあ、わたしと距離縮めたかったの?」
「まあ見学暇だから」
ああ、と納得する。
彼はただ話し相手が欲しいのだろう。見当外れなことを言ってしまったみたいで顔が熱くなる。
春のようにあたたかな彼は、平桜成と名乗った。
「さっきの悪口女、矢渕の友達? 俺あいつ嫌い。聞こえてくる話だけで頭痛してくる」
「でも……いいひとだよ?」
「矢渕も悪口聞きながら、能面みたいな顔になってたのに?」
「……女子に能面みたいとか言わないでよ」
軽く睨めつけるけれど、平は気にする様子もない。体育の授業風景に目をやりながら、はははと笑っている。
話しやすいけれど、変なひとだ。
しかも、〝嫌い〟をばっさり言うタイプ。
なのに苦手と感じないのは、彼は裏表がない良いひとだと見えるからだろう。
わたしも平や日菜のように〝嫌い〟を言うことができたならよかったのだろうか。
そうすれば日菜の話にも笑顔で同意できて、能面のように表情が固まってしまうこともないのに。
だけれど、わたしはそれができない。〝嫌い〟よりも〝好き〟を大事にしたい。
「――誰かを〝嫌い〟になりたくないのは、悪いことなのかな」
なんとなく呟いて、一瞬置いてはっと我に返った。
今、話の脈絡もなにもかもをぶっ飛ばして、えらく重たいことを言わなかったか。
それも、出会ったばかりの男子の前で。
体温が急激に下がるのがわかった。青ざめるってこういう感じなのか、とどこか冷静に思う。
恐る恐る、横目で平の様子を伺う。
絶対に怪訝そうな顔をされている。そう思ったのに、彼は首を微かに傾けて「たしかに」とひとつ呟いた。
「〝嫌い〟って悪いことなのかも、よく分かんねえよな」
予想外のマジレスにぽっかりと口を開けてしまう。まさか真剣に考えてくれるとは思わなかったから。
驚きを隠せないわたしを見て、「なんだよその顔」と平が不満げに抗議してきた。さっきからわたしの顔に文句をつけすぎじゃないだろうか。
だけれど、平は笑わないひとなんだな、と少しだけ心があったまる。
ひとの悩みを「なにそれ暗ッ」と笑って流す日菜よりも、なんだか安心する。加えて、接点もなくこの先話す機会もない相手だ。もうどう思われたっていい。
「わたし、悪口苦手なんだよね」
わたしが言うと、平は「お?」とわたしの言葉に興味を示す。
その瞳にはからかうような笑みが含まれていなくてほっとする。
なんだか見つめ合いながら話すのはいやだったから、わたしは視線を空に向けた。
風で黒っぽい雲が流れていき、空の青が大きくなっていく。
「嫌いなものでも〝好き〟でいるほうが絶対楽だと思うんだよね。だからわたしは、好きなところを見つけて、そうなんだって思い込んできた」
そうやって、わたしはずうっと生きてきた。
〝嫌い〟を抱えるのはつらいから。弱いわたしは耐えられなかったから。
だから、わたしはいつも笑った。
笑って、〝嫌い〟をぺらりと裏返して、〝好き〟に変えてきた。苦手な子への〝嫌い〟を裏返して、その行為に対する〝嫌い〟も裏返して、自分への〝嫌い〟も裏返して。
「〝嫌い〟の良いところを見つけて、〝好き〟に変えてきた」
でも、〝嫌い〟に同調しなければならないこの現状が、ちょっとだけつらくなってきたのだ。上手く笑えない瞬間が増えてきた。
視線が地面に落下して、心を暗澹が支配していくのが分かった。
「――いいじゃん、それ。すげえな矢渕!」
興奮したような声が鼓膜を震わせた。
言葉の意味を理解すると同時に、目が大きく見開いていくのがわかった。
「……え」
「考えたこともなかったから。俺、嫌いなやつに笑いかけるの、嘘だったとしても無理だからさあ。〝嫌い〟を〝好き〟に変えるって、めっちゃいいじゃん」
平が瞳を輝かせながらまくし立てる。
「すげえ」を連呼しながら、彼はにかにか笑っていた。
――『いいじゃん』
その言葉がもう一度あたまのなかで響く。
〝好き〟を大事にするわたしのままで、いい。少なくとも、彼はそう思ってくれている。
「そっか」
思わず、目を細めて笑ってしまった。
目尻に浮かんだ涙の粒を拭い去る。ひゅう、と吹いた突風がわたしの髪を揺らして走っていく。
刹那、頬に冷たい水滴がぽとりと落ちた。
泪ではない、これは――。
「すげ、綺麗」
平の声が聞こえて、目線をまえに向けた。
視界いっぱいに広がった光景に息を呑む。
透き通るような白っぽい青空から、さらさらと細い雨が降る。太陽の光を反射したそれらは、まるで光の粒みたいに輝いて綺麗だ。
髪や制服が雨粒によって少しずつ水分を含んでいくけれど、まったく気にならない。むしろ浄化されているみたいで心地よい。
ふと隣を向くと、平も降り続く雨粒たちに目を奪われているようだった。
太陽の光を浴びながら笑う彼に釘付けになる。
微かに弧を描いた目がやさしげで、心臓がばくんと跳ねた。
恋に落ちる、音がした。
目が覚めて瞼を持ち上げると、見慣れた天井が映る。くあ、とあくびをしながら身体を起こす。机の上の時計は朝の五時を指している。
窓の外はまだ暗くて夜みたいだ。ぼうっと見つめていると、眠気はどこかに消えていってしまった。
「……もう、一年前なのか」
そう呟くと、あまりの距離に思わず笑ってしまった。受験勉強を言い訳に逃げた、一年間だから。
三年になってすぐ、平はわたしの通う塾に入塾してきた。加えて、夏頃からはわたしひとりだった自習室にも毎日来るようになった。
もう話すことはできないと思っていたから、接点ができて嬉しかった。だけれど、わたしは話しかける勇気を持ち合わせていなかった。彼もわたしには話しかけてこなかった。
――『いいじゃん、それ』
わたしはその一言に救われたのに。
日菜とはクラス替えによってほとんど話す機会はなくなった。
それでも、あの一言がなければ、わたしは自分の感情を全部殺す選択をしていたかもしれない。
「わたしは、平が、好き」
今日は卒業式。彼に会える、最後の日。
中学を卒業すれば、わたしたちは離れ離れになる。わたしは塾を三月いっぱいで辞める予定だ。だからわたしの片想いも、もう終わる。
その言葉を脳内で反芻させると、卒業というものの意味をようやく理解した気がした。
別れは、遠慮なくわたしたちをバラバラにさせる。
すうっと心が温度を失っていく。下唇をかみしめると、ぎゅうっとした痛みは、早鐘のように打つ心臓を余計に震わせた。
この感情は恐怖だ。このまま卒業しても、きっと後悔しか残らないだろう。不完全燃焼になってしまうだろう。それが今ようやくわかった。わかっているからこそ、卒業が、怖い。
「……いやだ」
闇に染まった部屋の隅、通学用鞄に目が留まる。
たしか、ブローチの材料はまだ残っていたはずだ。朝食まで、まだ時間もある。
わたしはベッドから立ち上がり、勉強机のデスクライトをつけた。
午前中は、卒業式を全てとおしでのリハーサルが行われた。まだ前日なのに担任や一部の生徒は涙ぐみ、いつもの明るい空気にはどこか寂しさが入り混じっていた。
リハーサルも終わり、教室に戻ってから揺湖や咲優とくだらない話をした。毎日のように机に腰掛けながら「卒業式の髪型どうする?」なんて遠い未来のことで盛り上がってきたけれど、もう明日に迫っている。
中庭の桜は淡いピンクの花をいくつか咲かせている。昨日の雨が嘘のように穏やかな日差しに涼しいやわらかな風。道路にいくつか残っていた水たまりは、空の青を鮮やかに映し出していた。
塾の自習室ではブローチ作りの仕上げだ。花びらの貼り付け作業も慣れてくれば不思議なもので、不器用を自負するわたしでもかなり美しい花を咲かせることができた。おかげでブローチ作りも短時間で終了し、コンビニで買いこんだ大量のお菓子とジュースで小さな打ち上げバーティーをひらいた。平と過ごせた最後の時間は、あっという間に過ぎていった。
その日の夜、わたしは夢を見た。
平とはじめて出会った日の、夢。
息苦しかった日々から脱却するきっかけとなったあの出来事のことを。
――中学二年の三学期。
日差しはあたたかいのに冷たい風がビュウビュウと音を立てて吹くせいで微かに肌寒い、春より一歩手前の日だった。
その日は外で体育の授業があった。しかし、体操着を家に忘れてしまったわたしは、制服で見学となってしまった。
「璃乃さあ隣のクラスの北山って知ってる? あいつが昨日私にDMしてきて、好きな食べもの聞いてくんの。なにに使うんだよっての」
友人の日菜が、見学スペースにきて愚痴をこぼした。陸上のために切ったらしいショートヘアに、黒糖パン色の肌。どの季節でも、彼女のまわりだけは真夏みたいに見える。
授業中だというのに、皆に混じってサッカーをする気はゼロらしい。遠くに、ボールを手にしてこちらの様子を気にする揺湖の姿が見えた。
「その北山くん? は、日菜のこと気になってるんじゃない? わたしは、知らないひとだけど」
「北山はないわー、あいつブスだし。嫌われてるのに自覚してないんだよ」
日菜は言葉を暗くして吐き出す。
目を蛇のように細めるのは、彼女が誰かの悪口を言うときの癖のようなもの。同意を強制されている気がして、その目がわたしは苦手だった。
わたしは北山くんが誰かも分からない。だけれど、なにも知らない彼の悪口を日菜によって言わされそうになる。表情筋がぴくりとも動かない。感情がいっきに冷めてしまったみたいだ。
見学スペースの少し離れたところには隣のクラスの男子がいる。彼がもし北山くんの友人ならどうするのか。しかし、彼女は気にする様子もなく、流れるように愚痴だけを発展させていく。
息苦しさに相槌すらも打てなくなっていたとき、筋骨隆々な男性がこちらに近づいてきた。
「――おい日菜、サボんなよー」
ガタイの良い体育教師の太い大声に名指しされ、日菜は「うげえ」と顔をしかめた。
「サッカーだるぅ」
しぶしぶ腰をあげて日菜はため息をひとつ。続けて、「じゃあ戻るわ」とわたしに一言かけて、授業に帰っていく。
内心ほっとしながら、わたしはいつの間にか抱えていた両足をまっすぐ伸ばす。
日菜は悪いひとじゃない。悪口は多めだけれど、部活熱心で人当たりも良い。
それに、陰口なんて皆言っている。女子の会話なんてほとんどが陰口と愚痴で構成されている。
だから、過剰に反応してしまうわたしのほうが変なんだ。悪口だって、言わないといけない。……言えないといけない。
「なああんた、おはよ」
「……え」
声のほうに顔を向けると、見学スペースにいる男子がこちらを向いている。隣のクラスの男子だ、けれど、話したことはないはず。
彼も体操着を忘れたのか、制服姿で段に腰掛けている。強気な瞳は、怖さよりも目を逸らさなまっすぐさに見えた。
口をぽっかり開けながら、わたしも「おはよ?」と首を傾げながら返す。
なぜ、挨拶? というわたしの疑問がわかりやすかったのか、彼はちょっと笑った。空気がふっと柔らかくなる。
その男子は立ち上がってわたしの隣に移動してくる。
なんだこのひと、と思っていると、彼は歯を見せて笑いながら話しかけてきた。
「なんかさ、『おはよ』って言うだけで、壁がちょっと薄まる気がしねえ?」
「壁?」
「こころの壁、みたいな。警戒とか緊張とかそういうの」
考えたこともなくて、ほお、と感心してしまう。
実際わたしは彼と自然に会話をできているのだから、その理論は正しいのかもしれない。
わたしはもともと、挨拶をあまりしないほうだ。理由はまあ、面倒だから、だけれど。そこまで挨拶に意義を感じていないからというのもある。
だけれど、その考え方はおもしろいなと素直に思った。
「挨拶したら距離縮まるし、そういうときに有効活用してる」
「じゃあ、わたしと距離縮めたかったの?」
「まあ見学暇だから」
ああ、と納得する。
彼はただ話し相手が欲しいのだろう。見当外れなことを言ってしまったみたいで顔が熱くなる。
春のようにあたたかな彼は、平桜成と名乗った。
「さっきの悪口女、矢渕の友達? 俺あいつ嫌い。聞こえてくる話だけで頭痛してくる」
「でも……いいひとだよ?」
「矢渕も悪口聞きながら、能面みたいな顔になってたのに?」
「……女子に能面みたいとか言わないでよ」
軽く睨めつけるけれど、平は気にする様子もない。体育の授業風景に目をやりながら、はははと笑っている。
話しやすいけれど、変なひとだ。
しかも、〝嫌い〟をばっさり言うタイプ。
なのに苦手と感じないのは、彼は裏表がない良いひとだと見えるからだろう。
わたしも平や日菜のように〝嫌い〟を言うことができたならよかったのだろうか。
そうすれば日菜の話にも笑顔で同意できて、能面のように表情が固まってしまうこともないのに。
だけれど、わたしはそれができない。〝嫌い〟よりも〝好き〟を大事にしたい。
「――誰かを〝嫌い〟になりたくないのは、悪いことなのかな」
なんとなく呟いて、一瞬置いてはっと我に返った。
今、話の脈絡もなにもかもをぶっ飛ばして、えらく重たいことを言わなかったか。
それも、出会ったばかりの男子の前で。
体温が急激に下がるのがわかった。青ざめるってこういう感じなのか、とどこか冷静に思う。
恐る恐る、横目で平の様子を伺う。
絶対に怪訝そうな顔をされている。そう思ったのに、彼は首を微かに傾けて「たしかに」とひとつ呟いた。
「〝嫌い〟って悪いことなのかも、よく分かんねえよな」
予想外のマジレスにぽっかりと口を開けてしまう。まさか真剣に考えてくれるとは思わなかったから。
驚きを隠せないわたしを見て、「なんだよその顔」と平が不満げに抗議してきた。さっきからわたしの顔に文句をつけすぎじゃないだろうか。
だけれど、平は笑わないひとなんだな、と少しだけ心があったまる。
ひとの悩みを「なにそれ暗ッ」と笑って流す日菜よりも、なんだか安心する。加えて、接点もなくこの先話す機会もない相手だ。もうどう思われたっていい。
「わたし、悪口苦手なんだよね」
わたしが言うと、平は「お?」とわたしの言葉に興味を示す。
その瞳にはからかうような笑みが含まれていなくてほっとする。
なんだか見つめ合いながら話すのはいやだったから、わたしは視線を空に向けた。
風で黒っぽい雲が流れていき、空の青が大きくなっていく。
「嫌いなものでも〝好き〟でいるほうが絶対楽だと思うんだよね。だからわたしは、好きなところを見つけて、そうなんだって思い込んできた」
そうやって、わたしはずうっと生きてきた。
〝嫌い〟を抱えるのはつらいから。弱いわたしは耐えられなかったから。
だから、わたしはいつも笑った。
笑って、〝嫌い〟をぺらりと裏返して、〝好き〟に変えてきた。苦手な子への〝嫌い〟を裏返して、その行為に対する〝嫌い〟も裏返して、自分への〝嫌い〟も裏返して。
「〝嫌い〟の良いところを見つけて、〝好き〟に変えてきた」
でも、〝嫌い〟に同調しなければならないこの現状が、ちょっとだけつらくなってきたのだ。上手く笑えない瞬間が増えてきた。
視線が地面に落下して、心を暗澹が支配していくのが分かった。
「――いいじゃん、それ。すげえな矢渕!」
興奮したような声が鼓膜を震わせた。
言葉の意味を理解すると同時に、目が大きく見開いていくのがわかった。
「……え」
「考えたこともなかったから。俺、嫌いなやつに笑いかけるの、嘘だったとしても無理だからさあ。〝嫌い〟を〝好き〟に変えるって、めっちゃいいじゃん」
平が瞳を輝かせながらまくし立てる。
「すげえ」を連呼しながら、彼はにかにか笑っていた。
――『いいじゃん』
その言葉がもう一度あたまのなかで響く。
〝好き〟を大事にするわたしのままで、いい。少なくとも、彼はそう思ってくれている。
「そっか」
思わず、目を細めて笑ってしまった。
目尻に浮かんだ涙の粒を拭い去る。ひゅう、と吹いた突風がわたしの髪を揺らして走っていく。
刹那、頬に冷たい水滴がぽとりと落ちた。
泪ではない、これは――。
「すげ、綺麗」
平の声が聞こえて、目線をまえに向けた。
視界いっぱいに広がった光景に息を呑む。
透き通るような白っぽい青空から、さらさらと細い雨が降る。太陽の光を反射したそれらは、まるで光の粒みたいに輝いて綺麗だ。
髪や制服が雨粒によって少しずつ水分を含んでいくけれど、まったく気にならない。むしろ浄化されているみたいで心地よい。
ふと隣を向くと、平も降り続く雨粒たちに目を奪われているようだった。
太陽の光を浴びながら笑う彼に釘付けになる。
微かに弧を描いた目がやさしげで、心臓がばくんと跳ねた。
恋に落ちる、音がした。
目が覚めて瞼を持ち上げると、見慣れた天井が映る。くあ、とあくびをしながら身体を起こす。机の上の時計は朝の五時を指している。
窓の外はまだ暗くて夜みたいだ。ぼうっと見つめていると、眠気はどこかに消えていってしまった。
「……もう、一年前なのか」
そう呟くと、あまりの距離に思わず笑ってしまった。受験勉強を言い訳に逃げた、一年間だから。
三年になってすぐ、平はわたしの通う塾に入塾してきた。加えて、夏頃からはわたしひとりだった自習室にも毎日来るようになった。
もう話すことはできないと思っていたから、接点ができて嬉しかった。だけれど、わたしは話しかける勇気を持ち合わせていなかった。彼もわたしには話しかけてこなかった。
――『いいじゃん、それ』
わたしはその一言に救われたのに。
日菜とはクラス替えによってほとんど話す機会はなくなった。
それでも、あの一言がなければ、わたしは自分の感情を全部殺す選択をしていたかもしれない。
「わたしは、平が、好き」
今日は卒業式。彼に会える、最後の日。
中学を卒業すれば、わたしたちは離れ離れになる。わたしは塾を三月いっぱいで辞める予定だ。だからわたしの片想いも、もう終わる。
その言葉を脳内で反芻させると、卒業というものの意味をようやく理解した気がした。
別れは、遠慮なくわたしたちをバラバラにさせる。
すうっと心が温度を失っていく。下唇をかみしめると、ぎゅうっとした痛みは、早鐘のように打つ心臓を余計に震わせた。
この感情は恐怖だ。このまま卒業しても、きっと後悔しか残らないだろう。不完全燃焼になってしまうだろう。それが今ようやくわかった。わかっているからこそ、卒業が、怖い。
「……いやだ」
闇に染まった部屋の隅、通学用鞄に目が留まる。
たしか、ブローチの材料はまだ残っていたはずだ。朝食まで、まだ時間もある。
わたしはベッドから立ち上がり、勉強机のデスクライトをつけた。

