ブローチのパーツ切り取り作業もひと段落ついて、机上に溜まったフェルトの切れ端たちを廊下のごみ箱に捨てに行く。
 ぱっぱと手をはらって自習室に戻ると、平はぐったりと机に体をくっつけていた。大きく伸びた腕は、わたしの机にまで遠慮ゼロで侵入している。やっぱり子供みたい。
 わたしが近づくと、彼は片腕を動かしてちらりとこちらを向いた。


「……矢渕コンビニ行かねえ? 腹減った」


 彼の言葉に前方の壁に掛けられた時計に目を移す。
 いつの間にか、時計の針は一時をまわっていた。わたしのお腹も空腹を訴えてくる。ちょうど作業もひと区切りついたタイミングなので、ちょうどいいかもしれない。
 じゃあ行こ、と頷いてわたしも鞄を持ち上げる。するとそのとたん、平は「先に行ってるな」と一瞬で自習室から出て行ってしまった。

 瞬く間のことにあっけにとられてしまう。
 置いていかれた惨めさに軽くむかつきながら玄関口に向かう。すると、平はドアを背に待ってくれていた。
 驚きながらも、なんだか気持ちがぽかぽかしてくる。我ながら単純なのかもしれない。


「海老マヨ売り切れたらどうするんだよ」
「そんなにすぐ売り切れないよ」
「矢渕はなに買う?」
「パンの気分かなあ」


 靴を履いて地面をつま先でトントンッと軽く叩く。
 水たまりを踏んだせいで濡れた靴の中はまだ湿っている。こればっかりは仕方がないことだけれど、歩くたび靴下が濡れていく感じは苦手だ。

 外は土砂降りで、雨粒がザーザーと音を立てて地面に跳ねている。
 道路の上はほとんどが水たまりのような状態だ。そのせいで、アスファルトの雨の匂いが朝よりも強い。

 ぱんっと雨水をはじきながら傘をひらけると、傘のなかへ素早く平が入ってくる。


「……どうしたの?」
「俺、傘持ってきてないし」
「――いやいやいや!」


 塾に来たとき、雨なのに全然濡れてなかったじゃないか。
 嘘がわかりやすすぎる。というか困る!
 このままでは相合い傘だ。コンビニに着く頃には、わたしは緊張と興奮で地面の水たまりの一部となってしまう!

 あわあわと傘を持つ手を震わせて立ち止まっていると、そんなわたしにしびれを切らしたのか、平は「貸して」と傘をわたしから取り上げた。


「行くぞ」
「え、いや、ちょっと待って……」


 平はわたしの傘をさして前進する。
 咄嗟に追いかけて傘にはいると、そのまま歩き続ける彼のせいで、塾から離れていってしまった。
 まわりが雨のせいで傘から出れず、まるで傘の檻に閉じ込められたような気分だ。

 隣を見ると、かつてないほど近くに平がいる。肩が当たりまえのように触れ合い、微かに彼の体温を感じる。なんだか申し訳なくて身体を離すと、その分を平がぐいぐい詰めてくる。

 そのせいで、雨が跳ねる音よりも遥かに大きい心臓の音が、どどどど、と勢いよく鳴り続けている。頭がふわふわする。これは、本当に現実なのだろうか。
 もしそうならば、わたしのまだまだ長いはずの人生、すべてが今この瞬間であってくれてもいい。もう永遠に続いてほしい。

 かつてないほどの幸福感に包まれながら傘のもとで歩を進める。


「――矢渕、二組の岩田って知ってる?」


 突然平がわたしに訊いてきた。

 ちらりと横目に平を確認すると、彼は平然とした表情で前を向いていた。なんだか、意識していた自分が馬鹿らしくなってきた。

 途端、頭が正常に起動をしはじめる。
 岩田くん、は名前のイメージ通り身体が大きくて屈強な、岩のような男子だ。太い眉はいつも吊り上がっているのが印象に残っている。


「二年のとき、委員会同じだったよ」
「ふうん。俺、あいつ嫌い」
「……え?」
「って本人に言ったら、すげえ睨まれた」
「は?」


 いったいなんの話なのか。
 困惑しながらすぐ隣を歩く平を見上げる。ばちりと視線が交わって、彼はちょっと笑った。


「俺、二年で同じクラスで、図書委員会のアンケートを出さなかったらすげえキレてきたんだよ。だから、俺は嫌い」
「それは、平が悪いでしょ……」


 前を向き直してボソッと呟く。
 学園通りに差し掛かり、道がすこし広くなった。すれ違うひと全員が相合い傘をするわたしたちを見ている気がする。
 平常心、と頭のなかで唱えながら必死で真顔をつくる。


「それに、確かそのアンケート、岩田くんの発案だったよ」


 平が言っているのはきっと、図書室利用についてのアンケートのことだ。

 当時図書委員長を務めていた彼は、図書室の利用者増加のために奮闘していた。自らアンケートを作り、ひとりで印刷から配布まで行っていた。
 あまりの熱量に、わたしを含める彼以外の図書委員たちは圧倒されたものだ。


「図書当番のとき話しかけてみたら、意外に本好きの面白いひとだったし。平に怒ったのは、自分が頑張って作ったアンケートだったからだと思う」


 もう話す機会はなくなってしまったが、強面なだけで本当は優しいひとだと、今でも思っている。簡単に怒りだすようなひとでは、絶対にない。

 わたしの言葉に、頭上で平が笑ったような気がした。


「やっぱり、矢渕はすげえな」


 嬉しそうな声は今日も本音から一直線。だからか、不思議な安心感がある。


「そんなこと、ないよ」
「いやすげえよ。だって俺は、できねえから」 


 小さく放たれた言葉が、雨と一緒に地面へ落ちる。
 水たまりをぱしゃぱしゃ踏む音が、雨音に混ざって消えていく。

 なんと言葉を返せばいいのか分からなくて黙っていると、平はさらに言葉を続けた。


「俺、嫌いなやつに繕って笑えねえんだよ。〝嫌い〟なとこしか見えなくなって、いつの間にかそれが露骨な態度になってる」


 はじめて話した日に聞いたことのある内容。心臓が締めつけられたように痛く悲しくなる。

 淡々とした口調から感情は読み取れない。だけれど、静かな声色が涙を堪えているように聞こえて、彼のほうを振り向けない。
 

「もし俺が、嘘でも笑えたら、無駄にひとを傷つけないで済んだかもな」
「……でも、わたしは平が、ちょっと羨ましい」


 ぽつりと呟くと、傘を手にしていた平は急に足を止めた。
 反応できずに歩き続けて傘から出てしまう。一瞬のうちに身体の前面と髪が、雨のしずくによって水分を含んでしまった。


「なんで?」


 乾いた声が聞こえて、頭のうえに傘が戻ってきた。彼が歩みにわたしも慌てて足を動かす。

 自動車が地面の水を蹴散らしながら、わたしたちの隣を通り過ぎていった。白く光ったライトによって染められた視界が眩しい。


「平は、まっすぐだから。わたしもそんなふうにはっきりと話せたら、きっと……友達とのあいだにも、勝手に線引きとか感じないだろうと、思うから」


 だから、わたしは平が羨ましい。
 〝嫌い〟な側面から目を逸らすわたしと違って、いつでも相手と真正面から向き合っている。その姿が、すごくかっこいいと思ってしまう。


「平は、わたしの憧れ、だから」
「……なんだそれ」


 声を泣きそうに揺らしながら、平は小さく吹き出す。
 目線だけで彼のほうを見やると、引き結ばれた唇の端がほんの少しだけ笑っているのが見えた。

 ゆっくりと瞬きをしてから前を向きなおす。

 わたしのこの気持ちは……〝嫌い〟な側面から、目を逸らさないでいたいという、理想は、紛れもない本音だ。――だけど、きっと、それだけじゃない。


「でもわたしはね、同時に、〝嫌い〟よりも〝好き〟を見れるひとでありたいんだよ」


 矛盾してるかなあ、とわたしも笑ってみる。目の奥が熱くなって、視界がぐにゃりと歪む。頬を水滴が伝っていく感触がする。多分、泣き笑いみたいになってしまった。

 嫌うことを否定するつもりはない。
 〝嫌い〟という感情がなければ、ひとは簡単に倒れてしまうだろう。

 それでも、わたしはきっと、ただなにかへの〝好き〟を見つけられる自分を好きでいたい。
 ……いや、すこし違った。〝好き〟に気づける自分が、わたしは好きだ。


「……べつに、いいんじゃねえ?」


 雨にかき消されそうなくらい儚いのに、なぜかはっきりと聞こえた声。
 頬を伝って顎まで流れ落ちた水滴が、ぽとりと雨になって、水たまりに混ざった。


「矛盾してても、なりたい自分がわかったらそれが自分の軸になる、ものじゃねえの」
「そう、かも。うん。だね」
「だろ」
 
 明るくも小さく揺れた声に目をやると、彼の顎からもわたしと同じ雨が、静かに数滴こぼれ落ちるのが見えた。

 すぐにわたしの視界も溢れて歪む。なんとなく拭うことはせずに、目を数回瞬かせる。

 ぼやける視界はなにかの光が淡く輝いている。止むことのない雨音と、微かな肌寒さ、肩から伝わるあたたかい体温。

 雨をぽろぽろこぼしながら、わたしたちは狭い景色のなかで〝嫌い〟について思い巡らせていた。