卒業式練習が終わり、まだお昼前だが三年生は下校となった。
 わたしが通う塾は学校から徒歩でおよそ五分くらいで着く場所にある。いつものように駆け足で塾に向かうけれど、今日も平には勝てなかった。

 雨から逃げるように塾へ駆け込むと、ちょうど靴を履き替えていた平と遭遇する。


「あ矢渕。おはよ」

 にっと笑いかけてきた彼に「おはよう」を返しながら、透明のビニール傘を折りたたむ。
 水を払わなかったせいで傘の先端から垂れ落ちた水滴が小さな水たまりをつくってしまった。

 塾長に怒られそうだな、と独りごちていると、ふいに平から向けられている視線を感じた。
 平のほうを向くと、彼の目はわたしの足もとに注がれている。

 つられてわたしも足もとに視線を落とす。すると、数分前にうっかり水たまりを踏んでしまったのが原因か、わたしの膝下あたりまでが水と含まれていた泥で大変な状態になっていた。

 やばいな、と思った次の瞬間、目を丸くしていたはずの彼は、顔をくしゃくしゃにして笑いはじめた。


「なにやってんの矢渕、びしょびしょじゃん。走ったの?」


 お腹を抱えて笑い続ける平にむっとしながら濡れたところをにタオルをあてて水分と泥を拭きとっていく。
 というか、なぜ走ったわたしよりも、その様子のない平のほうが早く塾に着いているのか。納得できない。

 そのことを平に訊くと「隠しルートがあるんだよ」と上機嫌に言われた。にやついているのは、わたしが悔しそうにするのが嬉しいかららしい。なんて悪趣味なのか。

 なんだか引き下がれず「隠しルート探すなんて小学生みたい」と煽ると、「勝手に勝負してる璃乃ちゃん子供みたい」と馬鹿にされる。言い返せなくなったわたしに気づいて平は余計にやにやしてきた。悔しい。

 デスクで作業をしていた塾長に挨拶をして、自習室のドアを開ける。

 いつも光を届けてくれる太陽が今日は不在だからか、室内は少しだけ薄暗い。加えて空っぽの座席たちが寂しさを引き立てているように思えた。

 窓際の席について、雑談もそこそこにブローチづくりを開始する。

 はじめはひとつずつ完成させる方式をとっていたが、平の提案からひとつの工程で全ブローチ分を一気に終わらながら進める方式に切り替えた。
 同じ作業を繰り返しているとだんだんコツを掴めるようになるため、はじめに作ったときよりも上手くなっている気がする。
 作業効率も間違いなく上がっている。


「そういえば、平って卒業式で答辞読むんだね。今日はじめて知ってびっくりした」


 印に沿ってハサミを動かしながら、訊きたかったことを思い出す。
 単純作業を続けていると、会話をする余裕が生まれてきた。
 

「あー、まあ……気まぐれ?」
「なにそれ。答辞って気まぐれにするものじゃないでしょ」
「するものかもしれねえし。それに答辞なんて誰も聞かねえだろ」
「卒業式だから皆さすがに聞くよ」


 答辞の内容にもよるけれど、卒業式は意外と集中しているものだ。
 ただ、永遠のように続く卒業証書授与のせいで、疲労がピークを迎えることはあるかもしれない。


「――じゃあ、矢渕は答辞、ちゃんと聞いとけよ」


 トーンが急に真剣味を帯びたものに変わった気がして、手もとに向けていた視線をあげる。
 こちらをじっと見つめている平と視線が絡み合う。彼の眼差しにまっすぐに射抜かれて身体が動かなくなる。

 全身を震わせるような大きな鼓動が駆けめぐる。
 一瞬が、宇宙のように長く感じる。


「…………う、ん」


 なんとか言葉を絞り出すと、平はふっと満足げに口もとを緩ませて視線をブローチのほうに戻した。それを合図に、微かに空気がほどける。
 無意識に全身に込めていた力をゆっくりと抜いていく。椅子の背に体を預けて、息を吐き出す。

 いったいなんだったのか。
 というか、わざわざ念を押さなくても、平の答辞なら絶対に聞くつもりだ。
 彼曰く誰も答辞を聞くひとがいないため、せめてわたしは聞けということなのか。
 平のせいで、思考もうぐっちゃぐちゃだ。

 切り替えるように再びフェルトとハサミを手にとる。
 会話はぷつりと途切れてしまった。
 さっきのような張り詰めるような緊張感はないのに、なんだか少し気まずい。

 沈黙に耐えられなくなってきて、「そういえば」と口を開く。
 

「ブローチ作りって、なんでわたしと平が頼まれたんだろうね」


 わたしと塾長はそれなりに親しいため、分からないでもない。しかし平は彼女にいつも敵意剥き出しだ。シンプルに相性が悪いらしい。それに宿題提出率の低い平は、よく小言を食らっている。


「自習室を使ってたのが俺らだけだからじゃねえ? ほかの奴ら、授業終わったらすぐ帰るし」
「あ、頼みやすかったのかな」
「頼める間もなく塾から飛び出してくから。受験が終わった三年は特に」


 もとの和やかな空気が戻ってきたのにほっとしつつ、平の言葉には苦い笑みを浮かんだ。

 この塾には学習意欲のある生徒が少なめだ。個別塾あるあるかもしれないが、授業中にスマホを使っている生徒もいるし、お菓子の持ち込みは黙認されている。そのためか、毎年自習室の利用者ほとんどいないらしい。

 そのおかげで、わたしは今日も平とふたりきりでいられるのだけれど。

 なんとなく頬杖をついて、視線を窓の外に放り投げた。
 雨は変わらず振り続けていて、窓ガラスは大量の水滴によって潤んでいる。
 そういえばあの日も雨だった、と不意に思い出した。晴れた空からまぶしい光の粒が降り注ぐ、澄んだ雨の日。


 ――『俺、嫌いなやつに笑いかけるの、嘘だったとしても無理だからさあ』


 あの日から、おそらく一年が経過した。

 何度も感謝を伝えようとしたけれど、勇気が出なかった。
 話しかける勇気すらも出なかった。
 後ろの席から彼の背中を見ているだけだった。
 今も、なにも言えない自分だ。

 ただひとこと、「あのときはありがとう」と口にするだけでいいのに。
 そう平に笑いかけるだけでいいのに……弱虫なわたしは、やっぱり何も言えない。