「おはよー」


 教室に足を踏み入れてすぐのところで話していた女子ふたりに、いつもどおり声をかける。「おはよ」とふたりが返してくれるのを聞きながら、すぐ隣の自分の席に鞄をおろした。

 空が一回転してやってきた今日は、三月九日。卒業式まであと二日。降水はないものの空模様は怪しく、登校中は雨独特のにおいも感じられた。

 昨日は不器用なりに平とふたり奮闘したおかげで、ブローチ作りもかなり進めることができた。それでもすべて完成には程遠いので、今日も学校帰りに塾へ直行となる。
 平と話せる機会が増えるから、作業の長引きは正直なところ、嬉しいことだったりするのだけれど。

 放課後が楽しみだなあ、なんてひとりでにやついていると、隣にいた揺湖がくすくすと笑った。


「璃乃、なにか良いことでもあったの?」
「あったかもしれないー」


 おどけたように言いながら、持ちあがって戻らない口角をさり気なく手で隠す。
 なにそれ、と穏やかに笑う揺湖は、今日も数人の男子からの熱い視線を集めている。

 腰あたりまである彼女の黒髪が、どこからか吹いた風でさらりとなびいた。
 吸い込まれそうな漆黒に、重たいという印象を受けないのは、彼女の髪が細いことと少ない毛量のせいだろうか。

 大きな瞳を縁取る睫毛は深い影を落としていて、桜色の頬に形のよい唇と顔のすべてのパーツが整っている。
 いつも穏やかに笑っている彼女は、男子からかなりモテている。


「ねえ揺湖パイセン、璃ぃ乃のこの反応は、絶対男が絡んでるって」
「絡んでない絡んでない!」


 揺湖とさっきまで話していた咲優まで話に加わってくる。
 食い気味に否定すると、逆に怪しいなあ、と彼女は余計に疑いの目を強めた。やけにするどい言葉に冷や汗をかいてしまう。

 清楚系美少女の揺湖とは対照的な咲優は、外見はどちらかといえばギャルに近い。

 胸下あたりでナチュラルに巻かれたミルクティー色の髪は、受験が終わったその日に染めたらしい。登校してきて初めて見たときにはクラス全員が驚愕した。しかし、派手な色でも彼女にはよく似合っている。

 それの理由は咲優がもともと色白だからだろう。校則違反のメイクは少しだけしているらしいが、雪のように透き通った肌は、彼女のスキンケアの成果のはずだ。

 しばらく「相手は誰?」「ちがうちがう」などというやりとりを繰り返していると、ふいに揺湖が、


「そういえば、今日から卒業式練習だよね」


 とどこか寂しそうに呟いた。
 話題の転換にほっとしながら、そういえば、とわたしも思い出す。
 授業は昨日ですべて終わってしまったので、今日から卒業式までは式練習だと担任が話していた。

 先日まで受験の事ばかり考えていたため、もうすぐ卒業式だという事実は分かっていても実感はあまり湧かなかった。しかし、この学校に別れを告げるときは着実に迫ってきている。一年過ごしてきたこの教室もあと少し、なんてなんだか不思議だ。


「体育館寒いんだよねえ。パーカー着てったら怒られるか」
「そのまえに咲優はスカート丈を長くしたほうがいいんじゃない?」
「やだやだ、呼名で前に出ないといけないのに。あでも、礼するときにパンツみえないようにしないと。揺湖パイセンも気をつけなよ、男子釘づけになっちゃう」
「でもいちばん注目してくるのは咲優なんでしょ」
「あ、ばれちゃったか」


 冗談ぽく言う咲優に、わたしと揺湖は声をあげて笑う。
 中二のころから同じクラスで友人だった揺湖と、三年になって仲良くなった咲優、そしてわたしの三人は、性格は全然違うけれど一緒に行動することが多い。気が合うことは少ないけれど、ふたりと些細な会話で盛り上がっている時間が、わたしは好きだ。
 
 チャイムが教室に響いてそれぞれ自分の席に戻っていく。
 教卓の前に立った担任が連絡事項を伝えているのに耳を傾けながら、頬杖をついて、いつものように廊下越しに見える窓に目を向ける。
 中庭の真ん中で力強く枝を伸ばしている桜の樹は、開花まであと少し。煙色の空も風に吹かれて流れながら、桜の成長を応援しているように見えた。

 ホームルームもいつの間にか終わり、担任の指示に従いながら卒業式練習のために体育館へ移動する。
 入場の練習を済ませて並べられたパイプ椅子に腰を下ろすと、背中がムズムズするような特有の緊張を感じた。体育館内を忙しなく動き回る先生もどことなく張り詰めた空気を纏っている。

 隣の席だった揺湖と「なんか緊張するね」「やっぱり体育館寒い」など他愛もない話を交わしていると、あっという間に時間は過ぎていく。

 卒業式練習といっても、わたしは校歌斉唱の伴奏担当、などという役割も担っておらず特別な動きをするわけでもない。小学校で大体の動きは習ったため、新しく覚えることはほぼなく暇だ。

 呼名と卒業証書授与の練習もすぐに終わり、来賓紹介なども済ませていく。残すは卒業生代表の答辞と合唱練習のみ。

 ずっと座っているせいで、身体が動き回りたいと叫んでいる。他の皆も同じなのだろう、周囲のひとたちの雑談が入場直後よりもよく耳に届く。

 そんなとき、なぜか風音のようにすうっと聞こえてきた進行役の先生の言葉によって、周囲のひとたちの声が頭のなかから一瞬消えたように感じた。


「卒業生代表――三年五組、平桜成」
「はい!」


 凛と体育館のなかに響いた声はよく聞き馴染みのあるもので、意識を包みかけていたモヤが霧散して晴れていくのが分かった。
 咄嗟に後ろのほうのクラスを振り向くと、立ち上がった生徒がゆっくりとステージに向かって歩いていくのがみえる。
 目を凝らして見るけれど、明るい短髪にすらりとしたシルエット。間違いなく平だ。

 彼が答辞を担当するのかという驚きと同時に、そんなことをするタイプだっただろうかと疑問がわきあがってくる。


「卒業生代表、平くんなんだ。ちょっと意外かも」
「だよねえ!」


 予想外のところから得られた意見に全力で同意を示す。つい声量が上がってしまったせいで周囲から視線が集まり、首をすくめる。先生からの視線が痛い。

 そういえば揺湖は一年のときに平と同じクラスだったなと思い出した。
 特別目立つわけではないけれど、いつも自然と友達に囲まれている印象。初めて平と話した日の直後、彼について揺湖にそれとなく尋ねるとそんな答えが返ってきた。


「話したことはないけど、平くんは自分から目立ちに行くタイプじゃないと思ってた」
「それに平なら、もし頼まれても面倒くさいとか言いそうなのに」


 顔をしかめながらNOを言う姿は容易に想像できる。
 いったい、彼のなかでどういう心境の変化が起こったのか。
 ステージ上で動きの確認をしている彼は、真剣に先生の説明を聞いている。〝それなり〟に済ませようとしているふうには見えない。

 受験期、わたしと彼は口は利かなかったものの自習室で時間をともにしてきた。昨日だって話したばかりだ。
 とはいえ、わたしと平の間には絆と呼べるほどの繋がりは、きっとない。だから、わたしは彼の性格もなにも、深いところまでは知らないのだ。
 自席に戻っていく彼の奥の奥には、曇天からぽつりぽつりと水滴がいくつも落ちてくるのが見えた。


「あーあ、雨降ってきちゃったよ、あたし傘持ってきてないのに」


 合唱練習まえの休憩になり、体育館の中が休み時間のような騒がしさでいっきに包まれる。
 離れた席からこちらへ移動してきた咲優がぼやきながら、正面のパイプ椅子を後ろ向きに座った。背もたれのうえで腕を組んで外の雨粒に重い息をついている。


「だったらわたしは天気予報、見てきて正解だったかも」
「いいなあ璃ぃ乃。帰り道傘入れてよ?」
「逆方向でしょ」


 それに合唱練のあいだに止むかもよ、と付け加える。するとその言葉によって咲優の表情があきらかに曇った。
 どうやらさっきからテンションが低かった理由は、雨でなくこちらが原因らしい。


「合唱練習やだなあ。どうせロクに練習してないしめんどいし」


 彼女が顎を腕に沈めた拍子に長い髪が頬にこぼれ落ちる。強い光がなくても彼女の髪は艶がでて、まるでシルバーリーフのような特別感がある。
 ぼんやり見つめていると、隣にいた揺湖がちらりとわたしに目をやるのがわかった。複雑そうに眉を下げるのが、視界の端に映る。


「受験前は、みんな合唱どころじゃなかったもんね」


 揺湖の言葉を受けて咲優は若干うなずく。
 そしてため息混じりに言葉を吐き出した。


「……ぶっちゃけ卒業式に合唱って必要なくない?」


 マイナス感情を多く含むその言葉に、たしかに、と同調することはできなかった。いつものように。

 しかし、合唱練習など意味がないんじゃないかとという考えも、わたしの中にはある。

 クラスメイトのなかでも歌詞さえまだ完璧でないひとは少なくない。今日と明日の行われるほんの少しの練習で、合唱の出来が劇的に良くなるとも思えない。

 でも、いやなことをいやだと思いながら行動するのは苦しいことだ。
 〝楽しい〟を抱きながら行動するほうが、ずっと楽な方法だとわたしは信じている。から。

 ――『ぺらり』。

 心のなかで、薄っぺらい一枚の紙をめくる音が聞こえた。その音がスイッチみたいになって、脳みそがくるりと回転する。
 無意識に視界から削除していた合唱練習のいいところを、できる限り多く探す。見つけたそれらを、合唱練習への印象として書き換えていく。

 わたしの心はすごく単純で、紙の裏表をひっくり返すように、自分が捉えるものを〝嫌い〟から〝好き〟へシフトさせてしまう。自分自身を納得させる、洗脳させる方法を、わたしは熟知しているのかもしれない。

 前を向き直して、咲優と揺湖に「だけど」と笑みを浮かべてみせる。
 
「合唱コンクールのときも楽しかったし、この学年で歌えるの嬉しいけどなあ」


 夏の文化祭でクラスの皆と一喜一憂したあの感動は忘れられない。だから最後に、この学年全員で歌えるなんて楽しみだ。
 合唱曲を決めたときに、わたしは確かにそう感じた。

 〝嫌い〟に埋まってしまっていたこれは、紛れもないわたしの本心である。

 わたしの言葉に咲優は「えー」と口を尖らせる。


「でも皆、合唱コンのときほど練習してないし、やる気ないでしょ」
「それでも合唱って、つまらない卒業式で親を泣かせられるポイントだよ! それに本番、自分たちも号泣したりして」


 わたしが言うと、咲優は「そうなのかあ」と固かった表情を崩して小さく笑った。だけれどその笑みは、平のようにまっすぐ一直線なものではない。
 あ、と今更ながらに思う。また面倒なことを言ってしまったな、と。

 咲優は優しい。だから、わたしの〝好き〟の押しつけにいつも反論しない。


「璃乃は純粋だねえ」


 そう言って別の話題に切り替えてくれる。変な色になってしまった空気をいちばんに払拭してくれる。
 そんな咲優は、わたしにはもったいないくらいに良い友達だ。

 でも、軽く放たれた『純粋』の言葉がわたしと咲優の間を線引いているようで、どこか少し、寂しい。

 弱かったはずの雨は気づけば強くなっている。雨粒は体育館の屋根に打ちつけられて、ザアザアと声をたてて泣いていた。