最近は寒さもやわらいできて、気温も高く、心地よいあたたかさの日が続いている。卒業式までは、ついにあと三日だ。
すぐ隣の大きめな窓から外を覗くと、下校中の生徒たちの姿と、雲が溶けたように白い空、桜の樹の開き始めてきたつぼみ。やさしい風景にほっとする。
卒業式の日には満開だったりして。
先日ようやく公立高校入試を終えたこともあり、ようやく我慢が終わった、と同級生の皆は今日もこぞってどこかに遊びに行くことだろう。
わたしも友人の揺湖たちにショッピングモールへ行かないかと誘われた。
にもかかわらずその誘いを断り、わたしは受験期と変わらずこの自習室にいる。それは、昨日の塾長のとある頼みごとが原因だ。
――「実は、新中学一年生へのお祝いを、まだ作ってなくて……」
通常授業が終わるなり、なぜか平とわたしのふたりは塾長に自習室に呼ばれ、開口一番そう告げられた。
五十歳はゆうに超えていると思われる彼女は、厳しい性格と塾内では知れわたっている。
細渕メガネの奥にみえる切れ長の目は、いつも紫のアイシャドウが強い。髪は、胸あたりまであるわたしよりも、少しだけ長そうだ。
「毎年フェルトで花形のブローチ作ってるでしょ? それをうっかりわすれてたの」
はあ、と適当な声で返す。
隣に視線をやると、平は意味がわからないというように眉をしかめている。けれど、きっと彼女の言わんとしていることはわかっている。だるそうに机に腰掛けて脚を軽く組んでいるのは、彼なりの対抗なのだろう。
平のほうを意識すると心臓がざわめき始めるから、塾長の真っ赤な唇を凝視する。
そんなわたしたちの反応に、塾長はどこか楽しそうにしながら、机の横に置かれていた紙袋を持ち上げてみせた。
「材料と作り方はまとめておいたから、よろしくね」
なにを、どうすればいいのか、を言葉にしないあたりに彼女の性格がよく現れている。
有無を言わさぬ笑顔は、引き受けることしか選択肢がないことを物語っていた。
「せっかく受験おわったのになあ。めんどくさ」
頬杖をつきながらブローチの作り方説明書に目を通していた平は、そこそこの声量でそうぼやいた。
塾長のデスクは自習室のすぐ近くなので、聞こえるように言っているらしい。
「まさか、受験が終わってからも自習室に来ることになるとはね」
「それな。本当なら今頃ゲーム三昧なのになあ」
「へえ、なんのゲーム? やっぱり戦闘系?」
「当然。ストレス発散できるし」
余計ストレス溜まらない? と訊くと、そうでもない、と言葉が返ってくる。
適当に放った言葉でもちゃんと投げ返されてきて、話しやすいひとだな、と思う。
彼がわたしと初対面でないことを覚えているのかは不明だが、塾内での顔見知りではあるため、挨拶等もなく自然に話が広がっていった。
当たり障りのない会話ができるこの瞬間は、なんて幸せなのだろうか。
言葉にできないなにかあたたかいものが心に降り積もり、緊張が幸福感となって溶けていく。
――『いいじゃん、それ』
感激したような彼の瞳と、弾むような声がふと脳裏に蘇った。平とまともに言葉をかわすのは、あの日以来の、二度目。
あれは中学二年のおわり、わたしと平が初めて話した日。
絶望の真ん中にいたわたしに向けられたその言葉に、わたしはどうしようもないくらいに救われた。
その出来事がきっかけとなり、わたしは今日まで、平に対して進展のない片想いを続けてきた。
――が、これはチャンスかもしれない、と思う。卒業式までの放課後、毎日この場所で話すことができるじゃないか。これはわたしにとって、紛れもなき僥倖だ。
今のところ、告白をするつもりはない。
もしもこんな奇跡みたいな機会を得られていなかったら、わたしはきっと彼に話しかけることなく中学を卒業していただろうから。そんな選択をする弱虫な自分を、簡単には変えられないから。
でも偶然めぐりあえたこのチャンスを、いい思い出にして卒業する。それがきっと、与えられた理由だ。
がんばるぞ、と前を向く。
「ブローチづくり、まずはフェルトの型取りだよね。――え、材料おおくない? え、どうしたらいいのこれ」
机の上に乱雑に広げられた色とりどりのフェルトに頬が引き攣ってしまう。
赤、青、白、緑、黄……と色の種類はかなり豊富だ。
塾長には「卒業式までには」と言われてしまったし。今日を含めても、あと三日以内にすべて完成させなければならない。
どうしよう、と平のほうに顔を向けると、焦るわたしの表情が面白かったのか「ふは」と吹き出している。
それから、口もとを歪めながらなにかをこちらに差しだしてきた。
「しかも完成形のクオリティが高えんだよ」
ほら、と渡されたお手本用ブローチに「うわ」と思わず声を漏らしてしまった。
花びらの一枚一枚が立体的に貼り付けられており、整えられた形はやけにリアルだ。お手本はグレーや藍色などの落ち着いた色で作られているけれど、明るい色で作ったら絶対かわいい。わたしも欲しい。
「作り方見る限りだとそんなに難しくなさそうだし、意外と作れそうじゃねえ?」
「え、簡単なの、これ」
「ほら説明書。切って、ボンドで貼るだけ」
「――いやいや、簡単に言ってるけど!」
切ってできるパーツは、形が五種類くらいある。それに貼る工程だって布を折り曲げたり重ねたりしているじゃないか。
端折ると簡単に聞こえるが、それぞれの工程が複雑そうだ。
「まあ、なんとかなるだろ」
そう平は自信満々に定規を手に取り、白い歯を見せて笑った。
その様子に、平がだんだんと頼もしく見えてくる。
もしかしたら彼は手先が器用なタイプなのかもしれない。だとしたら、不器用なわたしからすればとても心強い。
焦りが安心に変わり、肩の力が抜けていく。
彼がいればなんとかなりそうだ、と完全に平任せなことを考える。完全に安心しきる。
――だけれど、現実はそう甘くはなかった。
「え、めっちゃむずくね?」
十数分後、苦い声を上げた彼の手には、お手本とは程遠い無残なブローチの姿があった。ボンドの接着が甘かったのか、花びらの一部はとれかかっている。
加えてオレンジと緑という配色のせいで、花というよりまるで……。
「ニンジン?」
「ひっでえー、一応ガーベラを想像してんのに」
「ガーベラ……お、おおお」
「なんだよその反応。――てか、矢渕もひとのこと言えねえし」
わたしの手もとにちらりと目をやった平が声をあげて軽快に笑った。
もう遅いのはわかっていながらも、むっとしながら自分がつくったブローチを隠す。
途中から説明書の意味が分からなくなり、自分の直感を信じた結果、恐ろしい出来になってしまった。
正直、平のものより不格好、かもしれない。
少なくともお祝いとして渡せるレベルではない。
「もう無理かも……」
はあ、とため息がひとつ落っこちる。
出来の良いものをすべて間に合わせるなんて、もう不可能に等しいじゃないか。
空っぽの自習室を見回すけれど、不器用仲間だと判明した平がいるだけだ。
その彼も、諦めたように手にしていたニンジン色のブローチをぽいっと机に放っている。
「まあしょうがねえって、もともと塾長の仕事だし」
それなりでもいいだろ、と平がガラスのように冷たく言い放つ。
彼の言うことはたしかにその通りだ。塾長の頼みはあまりにも無茶で、わたしたちには関係のないこと。
しかし「それでも」という思いがどうしても残ってしまう。そのせいで頷くことはできなかった。
曖昧な声を発していると、平はさらに言葉を続ける。
「俺、あの塾長嫌いだし。仕事押し付けてくるなんて意味わかんねえし」
険しい顔で、平は黒い言葉を吐き出していく。
――〝嫌い〟。
自分に向けられた言葉じゃない。そのことは分かってる。
だけれどいつも、その言葉はわたしの呼吸を、一瞬止める。黒いグチャグチャしたものが、全身をめぐっているような気持ち悪さ。
太陽が隠れたせいで色を失ったフェルトのほうへと視線が無意識に落ちていく。薄グレーが溶けた机にのせた手をぎゅうっと握りこむ。
だれかに向けられた〝嫌い〟は、私を苦しめる。
加えて、その〝嫌い〟に反論してしまうのは、いつも反射だった。
「それでも――塾長は、いいひとだよ」
こぼれ落ちた言葉に平が視線を向けてくるのがわかった。だけれどわたしは、大雨の日に水路から出ていく大量の雨水のように、今更言葉をとめることができない。
塾長は厳しいところが目立つし、宿題を終わらせられないだけでお叱りを受けることもあった。
しかし彼女はいつも生徒想いなだけだと、わたしは知っている。
宿題を終わらせられなかったのがわたしの理解が足りないためだと知ると、彼女は次の日に要点をまとめたノートを作ってきてくれた。メイクで薄まったクマをゆがめて「勉強がんばれ」とやさしく笑ってくれた。
その出来事が理由となって、わたしは自習室に通うようになったのだ。
「だからきっと、ブローチをつくれなかったのは、わたしに勉強を教えてくれてたから」
塾長の仕事は多いのに、毎日毎日、丁寧に解説をしてくれた。そのせいで時間がなくなってしまったのだろう、と思う。
もしもその仕事が塾長として当たりまえのものだったとしても、わたしの感謝の大きさは変わらない。
「わたしは、厳しいけど優しい塾長が、好きだから」
勢いだけでそう言い切って、高揚で熱くなった頬に軽く手をあてる。冷たい手の感触は感情のたかぶりを鎮めていく。
やってしまったなあ、とぼんやりと考える。
諦めという感情があたまのなかを支配する。
自己中な〝好き〟の押しつけ。
わたしのもつ、面倒で綺麗ごとに塗れたこの〝正義〟は、いい方向に進むことはない。
よって、疎まれの対象になることは少なくない。
なのに、よりにもよって平に向けて発動してしまうなんて。
だけれど、平なら、もしかしたら。そんなちょびっとの期待が心の隅っこのほうに居座って、消えてくれない。
誰も口をひらかない教室内は、音が消えてしまったように静寂が響いている。空色の壁紙の色が強まったみたいに、薄青色の沈黙がつづいている。
物音も立てられないような居心地の悪さに覚悟を決めて、おそるおそる平のほうに視線を動かす。
「――ふっは」
教室にやけに大きく聞こえた、こらえていた笑いを、たまらず吹き出してしまったような声。
視界に映った平は、顔をくしゃくしゃにして笑っている。それはそれは、嬉しくてたまらないのだというように。
「た、平?」
「っはは、やっぱ矢渕最高だわ」
いや、いやいやいや、いったいなにが最高なのか。
そんなに笑うポイントはなかったじゃないか。
重苦しかった空気は一掃されて、和やかな空気がふよふよ漂っている。さっきまでの緊張感が嘘のようだ。
こちらとしては突然自己語りを始めたことでキレられる想像まであったのに。なんなんだ、と思っているとしだいに平の声量を考えない笑い声につられてきて、ふは、となぜかわたしまで吹き出してしまった。
天気雨に降られているみたいに、特別眩しくてあたたかい気持ちになってくる。
「なんで笑ってるの」
「だから、矢渕もだし。その考えかたすげえなって思って」
「全然、すごくないよ。だって、友達にも微妙な目で見られるし」
「えなんで? めっちゃいいのに」
まっすぐな瞳でそう言ってくれる平は、あのときと全然変わらない。
そのことが、わたしにとってはとても大きな勇気を与えてくれる。
「――よし、じゃあ塾長のためにも、綺麗なブローチつくるか」
ぐんと伸びをして、平はまだ笑みが残る表情のまま新しいフェルトを手にとる。
さっきまでだるそうだったのに、とまた小さく笑ってしまう。同時に瞳が潤んできて、あわてて説明書を傾けて顔を隠した。
狭まった視界の端っこで雲から顔を出した白い太陽がにかにかと笑っている。光に照らされ金色に輝いたマサキの葉っぱは、あたたかい風にあおられて自由に踊っているみたいに見えた。
卒業式まで、あと少し。だから桜の花が咲くまでに、平の記憶に残る存在になりたい。
ほんの少しだけ進化した目標を密かに胸に打ち立ててみると、身体の奥のほうがあばれ出したいような興奮を訴えてくれた。
すぐ隣の大きめな窓から外を覗くと、下校中の生徒たちの姿と、雲が溶けたように白い空、桜の樹の開き始めてきたつぼみ。やさしい風景にほっとする。
卒業式の日には満開だったりして。
先日ようやく公立高校入試を終えたこともあり、ようやく我慢が終わった、と同級生の皆は今日もこぞってどこかに遊びに行くことだろう。
わたしも友人の揺湖たちにショッピングモールへ行かないかと誘われた。
にもかかわらずその誘いを断り、わたしは受験期と変わらずこの自習室にいる。それは、昨日の塾長のとある頼みごとが原因だ。
――「実は、新中学一年生へのお祝いを、まだ作ってなくて……」
通常授業が終わるなり、なぜか平とわたしのふたりは塾長に自習室に呼ばれ、開口一番そう告げられた。
五十歳はゆうに超えていると思われる彼女は、厳しい性格と塾内では知れわたっている。
細渕メガネの奥にみえる切れ長の目は、いつも紫のアイシャドウが強い。髪は、胸あたりまであるわたしよりも、少しだけ長そうだ。
「毎年フェルトで花形のブローチ作ってるでしょ? それをうっかりわすれてたの」
はあ、と適当な声で返す。
隣に視線をやると、平は意味がわからないというように眉をしかめている。けれど、きっと彼女の言わんとしていることはわかっている。だるそうに机に腰掛けて脚を軽く組んでいるのは、彼なりの対抗なのだろう。
平のほうを意識すると心臓がざわめき始めるから、塾長の真っ赤な唇を凝視する。
そんなわたしたちの反応に、塾長はどこか楽しそうにしながら、机の横に置かれていた紙袋を持ち上げてみせた。
「材料と作り方はまとめておいたから、よろしくね」
なにを、どうすればいいのか、を言葉にしないあたりに彼女の性格がよく現れている。
有無を言わさぬ笑顔は、引き受けることしか選択肢がないことを物語っていた。
「せっかく受験おわったのになあ。めんどくさ」
頬杖をつきながらブローチの作り方説明書に目を通していた平は、そこそこの声量でそうぼやいた。
塾長のデスクは自習室のすぐ近くなので、聞こえるように言っているらしい。
「まさか、受験が終わってからも自習室に来ることになるとはね」
「それな。本当なら今頃ゲーム三昧なのになあ」
「へえ、なんのゲーム? やっぱり戦闘系?」
「当然。ストレス発散できるし」
余計ストレス溜まらない? と訊くと、そうでもない、と言葉が返ってくる。
適当に放った言葉でもちゃんと投げ返されてきて、話しやすいひとだな、と思う。
彼がわたしと初対面でないことを覚えているのかは不明だが、塾内での顔見知りではあるため、挨拶等もなく自然に話が広がっていった。
当たり障りのない会話ができるこの瞬間は、なんて幸せなのだろうか。
言葉にできないなにかあたたかいものが心に降り積もり、緊張が幸福感となって溶けていく。
――『いいじゃん、それ』
感激したような彼の瞳と、弾むような声がふと脳裏に蘇った。平とまともに言葉をかわすのは、あの日以来の、二度目。
あれは中学二年のおわり、わたしと平が初めて話した日。
絶望の真ん中にいたわたしに向けられたその言葉に、わたしはどうしようもないくらいに救われた。
その出来事がきっかけとなり、わたしは今日まで、平に対して進展のない片想いを続けてきた。
――が、これはチャンスかもしれない、と思う。卒業式までの放課後、毎日この場所で話すことができるじゃないか。これはわたしにとって、紛れもなき僥倖だ。
今のところ、告白をするつもりはない。
もしもこんな奇跡みたいな機会を得られていなかったら、わたしはきっと彼に話しかけることなく中学を卒業していただろうから。そんな選択をする弱虫な自分を、簡単には変えられないから。
でも偶然めぐりあえたこのチャンスを、いい思い出にして卒業する。それがきっと、与えられた理由だ。
がんばるぞ、と前を向く。
「ブローチづくり、まずはフェルトの型取りだよね。――え、材料おおくない? え、どうしたらいいのこれ」
机の上に乱雑に広げられた色とりどりのフェルトに頬が引き攣ってしまう。
赤、青、白、緑、黄……と色の種類はかなり豊富だ。
塾長には「卒業式までには」と言われてしまったし。今日を含めても、あと三日以内にすべて完成させなければならない。
どうしよう、と平のほうに顔を向けると、焦るわたしの表情が面白かったのか「ふは」と吹き出している。
それから、口もとを歪めながらなにかをこちらに差しだしてきた。
「しかも完成形のクオリティが高えんだよ」
ほら、と渡されたお手本用ブローチに「うわ」と思わず声を漏らしてしまった。
花びらの一枚一枚が立体的に貼り付けられており、整えられた形はやけにリアルだ。お手本はグレーや藍色などの落ち着いた色で作られているけれど、明るい色で作ったら絶対かわいい。わたしも欲しい。
「作り方見る限りだとそんなに難しくなさそうだし、意外と作れそうじゃねえ?」
「え、簡単なの、これ」
「ほら説明書。切って、ボンドで貼るだけ」
「――いやいや、簡単に言ってるけど!」
切ってできるパーツは、形が五種類くらいある。それに貼る工程だって布を折り曲げたり重ねたりしているじゃないか。
端折ると簡単に聞こえるが、それぞれの工程が複雑そうだ。
「まあ、なんとかなるだろ」
そう平は自信満々に定規を手に取り、白い歯を見せて笑った。
その様子に、平がだんだんと頼もしく見えてくる。
もしかしたら彼は手先が器用なタイプなのかもしれない。だとしたら、不器用なわたしからすればとても心強い。
焦りが安心に変わり、肩の力が抜けていく。
彼がいればなんとかなりそうだ、と完全に平任せなことを考える。完全に安心しきる。
――だけれど、現実はそう甘くはなかった。
「え、めっちゃむずくね?」
十数分後、苦い声を上げた彼の手には、お手本とは程遠い無残なブローチの姿があった。ボンドの接着が甘かったのか、花びらの一部はとれかかっている。
加えてオレンジと緑という配色のせいで、花というよりまるで……。
「ニンジン?」
「ひっでえー、一応ガーベラを想像してんのに」
「ガーベラ……お、おおお」
「なんだよその反応。――てか、矢渕もひとのこと言えねえし」
わたしの手もとにちらりと目をやった平が声をあげて軽快に笑った。
もう遅いのはわかっていながらも、むっとしながら自分がつくったブローチを隠す。
途中から説明書の意味が分からなくなり、自分の直感を信じた結果、恐ろしい出来になってしまった。
正直、平のものより不格好、かもしれない。
少なくともお祝いとして渡せるレベルではない。
「もう無理かも……」
はあ、とため息がひとつ落っこちる。
出来の良いものをすべて間に合わせるなんて、もう不可能に等しいじゃないか。
空っぽの自習室を見回すけれど、不器用仲間だと判明した平がいるだけだ。
その彼も、諦めたように手にしていたニンジン色のブローチをぽいっと机に放っている。
「まあしょうがねえって、もともと塾長の仕事だし」
それなりでもいいだろ、と平がガラスのように冷たく言い放つ。
彼の言うことはたしかにその通りだ。塾長の頼みはあまりにも無茶で、わたしたちには関係のないこと。
しかし「それでも」という思いがどうしても残ってしまう。そのせいで頷くことはできなかった。
曖昧な声を発していると、平はさらに言葉を続ける。
「俺、あの塾長嫌いだし。仕事押し付けてくるなんて意味わかんねえし」
険しい顔で、平は黒い言葉を吐き出していく。
――〝嫌い〟。
自分に向けられた言葉じゃない。そのことは分かってる。
だけれどいつも、その言葉はわたしの呼吸を、一瞬止める。黒いグチャグチャしたものが、全身をめぐっているような気持ち悪さ。
太陽が隠れたせいで色を失ったフェルトのほうへと視線が無意識に落ちていく。薄グレーが溶けた机にのせた手をぎゅうっと握りこむ。
だれかに向けられた〝嫌い〟は、私を苦しめる。
加えて、その〝嫌い〟に反論してしまうのは、いつも反射だった。
「それでも――塾長は、いいひとだよ」
こぼれ落ちた言葉に平が視線を向けてくるのがわかった。だけれどわたしは、大雨の日に水路から出ていく大量の雨水のように、今更言葉をとめることができない。
塾長は厳しいところが目立つし、宿題を終わらせられないだけでお叱りを受けることもあった。
しかし彼女はいつも生徒想いなだけだと、わたしは知っている。
宿題を終わらせられなかったのがわたしの理解が足りないためだと知ると、彼女は次の日に要点をまとめたノートを作ってきてくれた。メイクで薄まったクマをゆがめて「勉強がんばれ」とやさしく笑ってくれた。
その出来事が理由となって、わたしは自習室に通うようになったのだ。
「だからきっと、ブローチをつくれなかったのは、わたしに勉強を教えてくれてたから」
塾長の仕事は多いのに、毎日毎日、丁寧に解説をしてくれた。そのせいで時間がなくなってしまったのだろう、と思う。
もしもその仕事が塾長として当たりまえのものだったとしても、わたしの感謝の大きさは変わらない。
「わたしは、厳しいけど優しい塾長が、好きだから」
勢いだけでそう言い切って、高揚で熱くなった頬に軽く手をあてる。冷たい手の感触は感情のたかぶりを鎮めていく。
やってしまったなあ、とぼんやりと考える。
諦めという感情があたまのなかを支配する。
自己中な〝好き〟の押しつけ。
わたしのもつ、面倒で綺麗ごとに塗れたこの〝正義〟は、いい方向に進むことはない。
よって、疎まれの対象になることは少なくない。
なのに、よりにもよって平に向けて発動してしまうなんて。
だけれど、平なら、もしかしたら。そんなちょびっとの期待が心の隅っこのほうに居座って、消えてくれない。
誰も口をひらかない教室内は、音が消えてしまったように静寂が響いている。空色の壁紙の色が強まったみたいに、薄青色の沈黙がつづいている。
物音も立てられないような居心地の悪さに覚悟を決めて、おそるおそる平のほうに視線を動かす。
「――ふっは」
教室にやけに大きく聞こえた、こらえていた笑いを、たまらず吹き出してしまったような声。
視界に映った平は、顔をくしゃくしゃにして笑っている。それはそれは、嬉しくてたまらないのだというように。
「た、平?」
「っはは、やっぱ矢渕最高だわ」
いや、いやいやいや、いったいなにが最高なのか。
そんなに笑うポイントはなかったじゃないか。
重苦しかった空気は一掃されて、和やかな空気がふよふよ漂っている。さっきまでの緊張感が嘘のようだ。
こちらとしては突然自己語りを始めたことでキレられる想像まであったのに。なんなんだ、と思っているとしだいに平の声量を考えない笑い声につられてきて、ふは、となぜかわたしまで吹き出してしまった。
天気雨に降られているみたいに、特別眩しくてあたたかい気持ちになってくる。
「なんで笑ってるの」
「だから、矢渕もだし。その考えかたすげえなって思って」
「全然、すごくないよ。だって、友達にも微妙な目で見られるし」
「えなんで? めっちゃいいのに」
まっすぐな瞳でそう言ってくれる平は、あのときと全然変わらない。
そのことが、わたしにとってはとても大きな勇気を与えてくれる。
「――よし、じゃあ塾長のためにも、綺麗なブローチつくるか」
ぐんと伸びをして、平はまだ笑みが残る表情のまま新しいフェルトを手にとる。
さっきまでだるそうだったのに、とまた小さく笑ってしまう。同時に瞳が潤んできて、あわてて説明書を傾けて顔を隠した。
狭まった視界の端っこで雲から顔を出した白い太陽がにかにかと笑っている。光に照らされ金色に輝いたマサキの葉っぱは、あたたかい風にあおられて自由に踊っているみたいに見えた。
卒業式まで、あと少し。だから桜の花が咲くまでに、平の記憶に残る存在になりたい。
ほんの少しだけ進化した目標を密かに胸に打ち立ててみると、身体の奥のほうがあばれ出したいような興奮を訴えてくれた。

