皆がわたしを見ている。
1-3と表記された教室が目と鼻の先にあるのに標高の高い山頂のごとく遠く感じる。障害物のない平らな廊下も、長く険しい崖も同然の緊張感があった。
周囲の眼が肌にまとわりつき、じくじくとえぐる。自意識過剰じゃない。茂みから獲物を狙う獣とよく似たそれは、毎日のようにわたしを突き刺している。半袖のシャツでは頼りなく、鳥肌がイボのように膨張した。
雨が窓を叩く音がいやに響いていた。
梅雨入りが報じられた空は、一面暗雲に汚され、力任せに水を振りまいている。古びた校舎の天井も突き破りかねない勢いで、わたしは今すぐにでも左手に持つ黒い傘を差したかった。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を濡らす。
足がすくんで思うように進めなかった。教室にいっこうにたどりつかないのはそのせいもあるだろう。
ひそひそと声がする。
白い目が追いかけてくる。
男の子も、女の子も、皆。
わたしを見ている。
「……ねえ、見て。あの顔」
「やっば」
わたしの、顔を。
わたしは醜い顔をしている。
赤く充血した双眸。青く腫れた頬。
そして、顔に大きくバツをつける線状の傷。
絆創膏一枚では到底足りない傷口は、まだかさぶたにもなっていない。
つい先週のことだ。
目上から鼻下にかけて、カッターの刃で切り裂いた。
ほかでもない自分の手で。
マスクをしてこようか悩んだけれど、肌に擦れるからやめたほうがいいと、幼なじみに注意された。幼なじみは絶世の美男子で、言うまでもなくきめ細かな肌をしている。助言にも説得力があった。
だけどマスクはするべきだったのかもしれない。
無抵抗に晒した素顔に、視線の針が隙間なく張り巡らされる。痛いと叫んだところで針は抜けないようにできている。
この世は見た目がすべてらしい。
中学に入学して、わたしはそれを痛いほど思い知った。
「アキナ」
不意に名前を呼ばれた。
横を向くと、黒曜石を彷彿とさせるつぶらな瞳がわたしの顔をじっと覗きこんでいた。
いやな気はしなかった。
ほかとはちがう目。天然のきらめきを潤わせ、色を深めている。ずっと見ていたくなるくらいやさしい色だった。
「……コウ」
「大丈夫。行こ」
空いている右手を、コウが握って引いていく。膝丈のスカートをはためかせながらずんずん先を行くコウにつられ、わたしの貧弱な足も突き動かされる。
「アキナ。気にしなくていいからね」
皆が見ているのは、正確には、わたしだけじゃない。
一歩前でわたしを率いるコウのことも、不審に、あるいはふしぎそうに窺っていた。
わたしとさほど変わりない背丈。湿気に負けず艷めくショートヘア。非の打ちどころのない可憐な顔立ち。
クラスのマドンナと称しても何ら差し支えない美しさ。
わたしにはないものばかりだ。
かわいい、とわたしは何度も思っているし、皆も何度も言っていた。
それでもコウはわたしと距離を置こうとはしない。
そんなコウを周りはときおりまぶしそうに見つめていた。
傷ひとつない白い手を、わたしは固く握り返した。
教室に入ると、周囲の視線がいっそう鋭く感じた。
教室の隅に放られた位置にある自分の席に着くや、辺りはしんと静まり返る。
物言わぬ集中砲火を浴び、わたしは椅子の上でできるだけ体を小さく縮こませるしかなかった。カバンや教科書では盾にならないことはすでに立証済みだ。かといって下を向いても、机の上に残る消えかけのいたずらに、いたたまれない気持ちになる。
入学してからほとんど毎日陰湿な目に遭っているというのにまったく慣れない。
そろそろわたしの中の何かが鈍ってもいいだろうに。あいにく感覚は、感情は、今日も正常に機能している。
だけどなんとなくその理由は想像ついていた。
「アキナ、リボンむずい。結んで?」
きっと、コウがそばにいるからなんだろう。
手前の椅子に横向きに座ったコウは、ん、と甘えた様子でわたしのほうに胸上を傾ける。
縦結びになった紐リボンが、はらりと黒ずんだ机に影を落とした。悪意ある殴り書きが読めなくなり、わたしはやっと肩の力を抜けた。
コウは元々廊下側の席だったけれど、担任の先生に許可をもらい、前の席に引っ越してきた。
クラスメイトであろうと四六時中一緒にいるのは難しい、だからこそまずは物理的に距離を埋めたのだ。
それにより一部から反感を買ってしまったけれど、今のところ表立った動きは見られない。
今までならとっくに囲われ、口を出され、あげく手足も出されていただろう。
でも今は、コウがいる。
コウの存在が、いちばんの盾であり、矛だった。
コウだけが一点の曇りのない目で見てくれる。
ここでのたったひとりの、味方。
うれしいのに、なぜだろう、苦しくてたまらない。申し訳なくて、もどかしくて、恥ずかしくて。だけどやっぱりうれしくて。胸と胃の間をぐちゃぐちゃにかき混ぜているよう。朝食に食べたスクランブルエッグを思い出し、軽く吐き気を覚えた。
「アキナ?」
「っ、あ、は、はい。できたよリボン」
はっとして、目の前のリボンの結び目をぎゅっと縛った。新品特有の張り感のある紐が、蝶の羽をかたどったような輪っかをつくり、ふわっと中空を揺れる。
「ありがとうアキナ」
よく似合っている。
痩せ型の体が貧相に見えることなく、むしろ制服カタログのモデルに抜擢されてもおかしくない麗しいフォルムをしている。
輪を大きくしたリボンが首や腕の細さを際立たせ、微妙なはずのスカート丈は長い足にはしっくり感じられる。
「コウは……」
よく似合っている。かわいい。
と、言おうとして、口をつぐんだ。
わたしにとって特別な言葉でも、コウにとっては、わからない。
言葉で人が簡単に傷つくことを、わたしは知っている。誰よりも――わからせられた。
「ん?なにアキナ」
「ううん」
「そう?」
「うん」
コウの瞳に映るわたしは、家の鏡よりいくぶんましに思える。
けれどその透きとおった瞳が、今はどこか傷ついているように見えた。
いいや、ちがう。傷があるのはわたしのほうだ。
カンバスに絵の具を撒き散らしたようなわたしの顔に、コウはおもむろに手を伸ばす。すんでのところで指を折り曲げ、握りこぶしを机上に下ろした。
細く長い息をつき、コウは伏し目がちにわたしを見つめる。窓ガラスに付着した雨粒の影が、長いまつ毛のかかる頬を粧していた。
「……痛い?」
「ちょっと。低気圧のせいかな」
へらっと笑ってみせるけれど、不格好なことくらい見なくてもわかる。
周りのトゲのある声が増した気がした。チクチク、チクチク。傷口が伸び、口角が引きつる。
コウは偏頭痛を起こしたみたいに眉をしかめた。儚げ美人な表情に亀裂が入り、わたしの見せかけの笑顔は枯れていく。雨はいまだ止まないというのに。
じめじめとした湿度の高い空気が充満していく。そのせいか教室は窮屈で圧迫感がある。
コウは何かを言おうとしたが、始業のチャイムに阻まれた。
授業が始まる。
授業中は比較的に周りの視線を感じずにいられる。
自然と勉強が好きになった。テストの点数が上がった。先生に褒められた。
……ノートを破かれた。
目が、悪くなればいい。そう思って、深夜に豆電球程度の明かりだけで勉強したこともあった。
無駄な足掻きだ。
何をしたって変わらない。
わたしは、わたしを、変えられない。
授業よりも休憩に入るほうがよほど怖かった。
昼休みになったとたん重力が跳ね上がり、息が詰まる。
わたしの顔の醜さを、コウの一挙一動を、クラスメイトの皆も、廊下をとおるどこかの誰かも、こぞって気にしていた。
「ち、ちょっと、トイレ」
「ついてく」
「でも……」
「ついていく」
わたしが席を立つと、間髪入れずにコウも立ち上がった。
有無を言わさず手を繋がれた。
教室を出てすぐ右手にある女子トイレに移動する。
コウは廊下に残り、トイレのドアを睨むようにしてわたしが出てくるのを待った。
数歩歩く程度の近距離でさえ、付かず離れずでいるわたしたちは、傍からどう見えているのか。
少なくとも薬にはなっていないだろう。
わたしを見る不特定多数の顔が、毒されていくのを、わたしはこの目でしかと見た。
見てしまった。
まさにその顔が、手洗い場の正面の鏡に反射している。隣で蛇口をひねった見知らぬ女子が、わたしを横目に睨んでいた。
「……ぶっさ」
悪魔のささやきが、脳内に直接こだまする。
鏡には、毒をためこんだ見知らぬ女子の隣に、傷ついた自分の顔があった。
背後をすれちがう別の女子も、隣の女子と同じ顔で、同じ言葉を吐き捨てた。
皆がわたしを見ている。
わたしの、顔を。
しばらくその場から動けなかった。
開けっぱなしの水道から水流が絶え間なく飛沫をあげる。狭いトイレによく反響し、まるでひとり大雨の中に放り出されたようだった。
わたしはおそるおそる顔を上げ、鏡越しに自分と向かい合った。
いつ見てもひどい顔だ。
血と涙の噴いたあとの目。平手打ちされた頬。
赤ペンで間違いを指摘したような切り傷。
それを差し引いても、醜悪たらしい顔をしている。
顔に傷をつける、ずっと前からそうだった。
わたしは生まれつき醜い顔だった。
今まで何度ブスといじられてきたかわからない。
かわいい、と言われた回数は片手に足りるほどで、皮肉にもすぐに思い出せる。どうせお世辞だと理解するのもつらかった。
ともに生まれ育った幼なじみが稀に見る美形だからか、思えば容姿を比較されてばかりの人生だった。
それでもこんなに憎まれたことはなかった。
中学生になると急速的に成長する。体も、心も。良くも、悪くも。
わたしは日に日に顔を見にくくなった。
「ねえコウ、いつまであんな奴といるの?」
執拗に手を洗い、廊下に出ようとすると、嘲笑まじりの声がして、とっさに扉にかけた手を硬直させた。
うすく開けた隙間から垣間見えるのは、コウに立ちはだかるクラスメイトの姿。女子がふたり、男子がひとり。世間話をするノリでコウに気安く話しかけていた。
コウは見向きもしない。
クラスメイトは躍起になり、語気を激しく吊り上げていった。
「そんな恰好するのもいい加減やめろよ」
「そうだよ!だって、コウくんは――」
一瞬、窓の外が光った。
コウのシルエットがほの暗い廊下に浮かぶ。
骨ばったラインに、外向きに広がる姿勢。尖った黒目が静かに昇り、顔を雄々しく引き締める。
スカートのひだが荒波を立てた。
「どうでもいいよ」
変声期を迎えたコウの声は、ぞっとするほど低かった。
「顔とか、恰好とか、とやかく言われる筋合いない。あいつのそばにいるためなら、整形だって女装だって、なんだってやれる」
コウは女子用の制服を着ているがれっきとした男の子であり――わたしの幼なじみだ。
コウが事態に気づいたのは、わたしの顔に傷がついたあとのことだ。
同じクラスでもそのときまで気づかずにいた。……いや、正確には、薄々勘づいてはいた。けれどわたしが、いじめなんかない、大丈夫だと言って聞かなかったのだ。
きっかけは、嫉妬だった。
コウのことを慕っている人は多い。はじめての恋の人もいれば、憧れや理想のような気持ちもありふれていた。
顔も心も美しく、好意を持たれて然るべき存在。
そんな人の隣に立てば、誰だって醜く見えてしまう。元から不細工ならなおのこと。
好きもきらいも感染しやすい。
皆がすぐにコウを好きになったように、わたしをきらいになるのもあっという間だった。
元より好かれにくい出で立ちだけれど、まさか自分がいじめられるとは夢にも思わなかった。
夢の中はやさしかった。
「な、なんでそこまでするの!?」
「おまえ、変だよ!」
「あんなブスなんかのために……!」
顔の傷ですべてを知ったコウは、わたしの予備のリボンとスカートを借りて、わたしの隣を譲らなかった。
みんなの見る目が変わった。
着飾るものを替えただけなのに。
コウは、コウのままなのに。
「本当にわかってないの?」
「な、なに」
「他人をバカにしてばっかで、自分がバカになった?」
苛立ちを隠せないコウに、クラスメイト女子ふたりはひっと思わずあとずさる。
「あいつの顔、ちゃんと見たことある?ないでしょ」
「か、顔なんか毎日見て……」
「見てないよ。見てたらそんな目しない。そんなふうに笑えない」
クラスメイトは押し黙った。
冷ややかに睨むコウに、今度はクラスメイト側がコウから目を逸らし出す。
「外見で判断するなとは言わない。基準にしているのは人それぞれちがう」
だけどさ、と半ば諭すように声音を落とした。
コウのきれいな顔が限界までつぶれていく。
「そうやって自分の気持ちのままに行動できるなら、相手の気持ちも少しは思いやってくれよ」
ごめん。ごめんね。
わたしの声は、音にならずに息だけ漏れた。
いてもたってもいられず手にぐっと力をこめる。ギィ、と軋みながら扉を押し開いた。
「アキナのこと傷つけんなよ」
「コウ……っ」
上背のあるクラスメイトをかき分け、コウの元へ一直線に駆け寄った。
血管の浮き出たコウのこぶしに、両手を伸ばす。
「もういい。もう、いいよ」
ありがとう。
わたしがコウの手を引っ張ると、コウはゆっくりと一回まばたきをして歩き出す。寒そうな脚は急かすことなくわたしに寄り添った。
教室を過ぎ、廊下の突き当たりを曲がり、階段の踊り場まで行くと、ノイズが消え、周りに誰もいなくなる。光さえも寄せつけず、ふたりの影が溶けこんでいく。
ふっと腰が抜けた。湿気った匂いのしみこんだスカートが、ほこりっぽい床に倒れこむ。
「アキナ!?」
焦った様子でコウが床に膝をつき、わたしの顔色を診る。
目が合うと、もうだめだ、涙腺がぷつんと切れた。
「アキナ……?」
「コウ」
「うん」
「コウ……」
「うん」
「コウ、わたし……」
視界が窓ガラスのようにぼやけていく。
わたしはうつむき、手のひらで目元を拭った。
「わたしも、きらいだった。わたしのこと」
傷口に涙が入らないよう指先でせき止めた。指の腹に傷の生々しい感触が伝わる。鈍痛がわたしを責めていた。
「いじめられても仕方ないって思ってた。コウの隣にいちゃいけないんだって」
「そんな……!」
「でも、それ以上にね、コウのことが好きだった」
コウは今どんな表情をしているだろう。
わたしとは正反対の顔は、きっと、わたしと同じように傷ついている。
そこに、痕がないだけ。
「一緒にいたかったの」
ごめんね。
こんな顔じゃなければ。こんな身体じゃなければ。こんな自分じゃなければ。
いじめられなかった?
コウに、迷惑かけずに済んだのかな。
なら要らない。
消えてしまえばいい。
……消えてしまいたい。
そして顔に切っ先を突き立てた。
「……守りたかったの」
わたしの顔が不細工なのは、不相応な欲まみれだからだ。
「俺もだよ。俺も、守りたかった」
本当は気づかれたくなかった。
隠しとおしたかった。
だけど、今のほうがずっと気持ちが楽で。そんな自分がまたいやになる。
「俺のこと、アキナも皆も褒めてくれるけど、俺は俺自身なんかよりアキナのことを大事にしたかったよ」
スカートがくしゃりと寄れ、何層もの折れ目がつく。裏地はほこりをかぶり、汚れていく。
「傷、つけたくなかった」
雨粒のように声が降る。
遅くなってごめん、と言われ、わたしはただ力強くかぶりを振った。
「好きだよ。どんなアキナのことも」
ぽろぽろ。不透明な雫が乾燥した指の上をすべり落ちていった。
泣くな、わたし。毎日自己暗示をかけていた言葉が脳裏を反すうする。だけどもう止めようがない。
「俺のこと見て」
顔に蓋した手の表面に、温もりが触れる。
触れるだけで、無理にどかそうとはしなかった。
わたしは鼻水をすすりながら、時間をかけて手を下ろした。
蝶々結びをしたリボンが真っ先に目に留まる。
「この恰好、変?」
目にかかる前髪を流すように首を横に振れば、わたしを抱きしめる漆黒の瞳がゆるやかに細められていく。
涙が傷の淵をくすぐった。皮膚の内側が身をよじるようにうずく。
顔に熱がたまり、涙の通り道が輝いた。
「アキナもだよ」
「え……?」
「アキナも変じゃないよ。かわいいよ」
そう言ってくれるのは昔からコウだけだった。
かわいい。わたしにとって特別な言葉。
コウがくれるから気にしてしまうのに。
わたしは性懲りもなく胸を鳴らすのだ。
end



