夜空のように深い濃紺のブレザーには、袖と襟に赤と銀色の細い線が、並んで入っている。
下ろしたばかりのワイシャツのボタンをきっちり首まで留めて、ブレザーと同じ色の細身のネクタイを丁寧に締める。パンツはやや細身の作りで、(けい)の長い足を際立たせていた。花宮市交通局の章の付いた制帽を被ると、畏まった顔で敬礼する。目の横で真っ直ぐ揃えられた指には、真新しい白い手袋がきちんと嵌められている。
「どう?」
真っ直ぐに見つめてくる薄い茶色のきらきらした目に、少し恥ずかしそうに(みのり)は微笑む。
「とっても似合ってる。(けい)くん、凄くかっこいいよ」
「ありがとう!」
穂の言葉に、京は満面の笑みを浮かべた。
長年の夢だった。
尊敬する亡き父親と同じ、花宮市交通局の職員になり、父がしていたように、市バスの運転手になりたい。
だから必死で勉強し、十倍もの倍率を勝ち抜いて、晴れて春から就職することが決まっていた。
支給されたばかりの真新しい制服は、入社の日まで絶対に着用しない決まりになっていたが、どうしても一番に穂に見てもらいたくて、こっそり袖を通した。
学校帰りに京に呼ばれて家に来た穂は、夢を叶えた京の制服姿に息を呑む。
やや大きい形の良い目に鼻筋の通った端正な顔立ちの京は、この辺りではちょっと目を引く存在だ。背も181センチと高く、中学高校とバレーボールをしてきた体は程よく筋肉がつき、引き締まっていた。交通局の制服を着ると、京の勉強机に置いてある写真の父親と瓜二だ。
「一番にお母さんに見せなくていいの?」
「いいよ。僕が一番に見て欲しいのは、穂なんだから」
そう言うと、照れくさいのか、制帽を脱いで、短い髪をくしゃくしゃと整える。窓の外から冬の終わりの西日が優しく差し込むのが眩しくて、目を細めた。午後五時少し前、二月半ばの夕暮れはまだ早い。私服に着替えて穂を家まで送って、夜七時からアルバイトだ。高校二年の夏から続けている、ピザ屋の配達のバイトに、今夜は行かなければならない。
「そろそろ家まで送っていくよ。明日はバイトのシフトないから、ゆっくり会おう。春になったら、今みたいに会えないから」
「そうだね。京くんは社会人だし、私も大学が始まるもんね」
同じ高校に通っている今みたいに会えなくなるのは、正直寂しい。でもそんな現実すら二人の気持ちの前には、大したことじゃない。京は真っ直ぐ穂を見つめると、制服のポケットから小さな包みを取り出した。
「これ…ちょっと早いけど、ホワイトデーの」
「…えっ……ありがとう」
薄桃色の可愛らしいラッピングの施された包みに一瞬驚くも、穂は両手で受け取ると、嬉しそうにお礼を言う。
「制服姿を見てくれた日にどうしても渡したかったんだ。ちょっと早いけど、家に帰ったら開けてよ」
「うん、ありがとう」
頬を赤らめてもう一度お礼を言う穂を、京は抱きしめた。
「穂、これからもよろしく」
「こちらこそだよ、京くん」
京の背中にしがみつくようにぎゅっと腕を回すと、真新しい制服に顔を埋める。
いつもの京の匂いと制服と両方の匂いが混じって、何だか少し京が大人っぽく思えた。
ずっと一緒。これからも、ずっと、ずっと。
高校生のカップルなんて、すぐに別れるって言う人も少なくないけれど、私達は違う。
京くんと、ずっと一緒にいる。それは京も同じ気持ちだった。
就職してちゃんと仕事をして、二十歳の穂の誕生日に穂と結婚する。
仕事が軌道に乗ったら、プロポーズしようと心に決めていた。
「送っていくよ。ちょっと待ってて」
穂のおでこに軽くキスすると、京は制服から、部屋に脱ぎ捨ててあるデニムパンツとパーカーに着替えた。
着替えが終わるといつものように自転車の後ろに穂を乗せて、必死に漕ぐ。
五分程で着く穂の家の前に自転車を止めて下ろすと、
「じゃあ、また明日」と言って手を振った。
「バイト頑張ってね。気を付けてね」
ありがとう、という穂の柔らかい声を聞きながら、京は振り向かず手を上げて応えながら、ペダルを漕いだ。
振り向くとバイトに行きたくなくなる。ずっと穂と一緒にいたくなる。
ふう、と吹っ切るように息を一つ吐くと、一目散にピザ屋へと自転車を走らせた。

「このクラスで一番ラッキーなのって、絶対に(みのり)だよね」
久しぶりに登校した教室で、はるかはいたずらっぼく穂を見る。
「だよね。見た目も可愛いし、スタイルもいいし、大学は推薦で志望校に一番乗りで合格だし、彼氏は三組の上田君だもんね」
二月中旬、ようやく進路もだいたい決まり、卒業を待つばかりの余裕のある雰囲気の中、寄ってきた親しいクラスメイト達に口々にそう言われて、穂は耳まで真っ赤になる。
「そんなことないよ。私、胸も小さいし、皆の方がスタイルいいよ。…それに京くんとは、その…」
「またまた、謙遜しなくていいんだよ。穂がすらっとして可愛いのは本当だし、上田京って、就職先市の交通局でしょ?公務員じゃん!真面目で誠実そうだし、イケメンだし、穂もう将来安心しかないじゃん」
「だよね、いいなぁ」
「私もそんな彼欲しいなぁ…ね?」
「ね、いいよね。穂、幸せになるんだよ」
「だから、本当にそんないいことばかりじゃないって」
穂が皆に冷やかされて、必死に照れ隠しをしていると、
「そうだよね。そんないいことばかりあるわけないよね」
と後ろからぴしゃりと冷たい声がした。
「何?」
咄嗟にはるかが睨むも、声の主、伊藤りなは動じない。
「いいことばかりある人なんていないって言っただけだよ。樫月(かしづき)さん、県立文化大学でしょう?私もそこに進学するからよろしく」
「あのさ、受かってから言ったら?まだ結果発表前じゃん」
「受かるから言ってるの。彼氏とちゃらちゃら遊んでいる樫月さんが受かるのに、私が落ちるわけないじゃない」
「ちょっと、いい加減にしなよ!」
はるかが凄むと、伊藤りなはふんと見下すような目で穂を一瞥して、自分の席に戻った。三年生は自由登校だから毎日来なくてもいいのに、りなは受験が終わった今も毎日朝から教室へ来て、自習している。シルバーのフレームの眼鏡の奥の細い目に、きっちり一つに束ねた長い黒髪が、とても冷たく感じる。
「ほんとムカつく。穂、気にしなくていいよ」
「うん」
と返事をしながら、穂はできれば伊藤りなと別の大学がいいな、と思った。否、何百人もいるのだから、仮にりなが進学してきたって同じコースになるとは限らない。起きてないことの心配はよくない。そう気持ちを切り替える。
今日は放課後に京と約束している。
どうしてもみせたいものがあるというから、家に行くのだ。
京くん。
あと十日ちょっとで卒業式だ。京は学校へは来ず、バイトを頑張っている。
何かな?バレンタインはこの間終わったし、ホワイトデーには早いけど。
京と放課後に頻繁に会えるのも、あと少しだ。
「そろそろ帰ろう。次いつ学校来る?」
はるかは荷物を手に、皆に聞く。
「じゃあ、次は来週の水曜にしよ?」
「そうだね。そうしよう!」
皆で教室を出ると、じゃあね、とばらばらと校門から出て別れた。
 それが、今から数時間前のこと。
その後京の制服姿を見せてもらい、家まで送ってもらって、母親と夕食を食べて、穂はお風呂場にいた。
バスタブに首まで浸かりながら、今日一日をゆっくり思い返す。
伊藤さんの一言は正直嫌な気持ちなったけど、いつものことだし、あとはいい一日だったな。
京くんのかっこいい制服姿も見れたしね。
お風呂から出たら、髪を乾かして、京がくれたプレゼントを開けようと思う。
キッチンでは母親が、洗い物をする音が聞こえる。
幸せだな。と穂は思う。
誰が何と言っても、私は今、幸せだ。
大学に通うバスに、京くんが運転手として乗っていて、私は京くんのために、お弁当を作っていって、こっそり渡して。
そして、休みの日は二人でいつもみたいに、ゆっくりデートして、そして…。
リビングの電話が鳴ったらしく、母がもしもし、とよそ行きの声で応答している。
仕事の電話なのか、いつになく真面目な声で、はい、はい、と返事をするのを聞きながら、穂はバスタブから出ると、脱衣所でタオルに包まった。
体を拭き、部屋着のTシャツに着替えて、顔に化粧水を塗っていると、脱衣所に母が来た。
「穂、ちょっといい?」
「うん」
何だろう?と振り向くと、母は険しい顔をしている。
「穂、京くんが亡くなったって。さっきね、バイトのバイクで交通事故で」
えっ!
嘘…。
頭が真っ白になり、穂は目を見開いたまま、息ができなくなった。