キラキラと輝く水面、優しい波音、空を気持ちよさそうに飛ぶ海鳥、私の目に映るのは美しい景色。海のさざ波は心地よい。小さな頃から私はこの音を聞いて育ってきた。私の住む町は海に面しているとても美しい町だ。私はこの海の町が大好きだ。しかしその反面潮風で髪はベトついたり、洗濯物を干せば塩が付着したり、自転車は錆びやすいしと嫌なことも多いが、私はこの町が気に入っている。そんな私は海のさざ波を聞きながら、茜色に染まった海を防波堤の縁に座り、一筋の涙を流していた。その理由は今朝に遡る。
私の名前は朝比奈茜16歳、高校に入学したばかりの高校一年生。少しお洒落にも目覚め、毎朝鏡の前で前髪をチェックし、肩より少し長い黒髪をブラシでセットする。
女子高生は前髪命なのだ。
鏡の前で笑顔を作り微笑む、すると鏡にクリッとした瞳の可愛い女の子が笑った。自分で言うのも何だが、それなりの見た目だと思う。まあ、美少女では無いがそれなりの見た目、普通というやつである。
高校に入学して1ヶ月、新しい生活にも慣れ、毎日順風満帆だ。私の隣を歩くのは同じ年で幼馴染みの林野空太。陸上部で毎日汗を流していて、黒いサラサラの髪に部活で健康的に焼けた肌に、切れ長の二重の瞳がクールな男子高校生だ。彼との距離は歩いていても肩がぶつからない程度の距離。つまりただの幼馴染みで友達で恋人にはなり得ない距離。私はこの距離がもどかしくて仕方がない。私はずっと空太に恋をしている。だからいつかはこのもどかしい距離を縮めたいと思っている。
「空太聞いてる?」
「ああ……」
素っ気ない返事……空太はいつも私の話をつまらなそうに聞き流す。
「もう、ちゃんと聞いてよ。親友が出来たんだよ。すっごく良い子なの!水島瑠璃ちゃんって言って、サッカー部のマネジャーやってるんだよ」
「へー。入学して1ヶ月で親友って……ねえだろ」
皮肉な言い方だが、空太が気のない返事だけでは無く、言葉を返してくれたことが嬉しくて私は話し続けた。
「いいの!1ヶ月でも親友なの!すっごく気も合って、昔からずぅっと一緒にいたみたいな感じなんだから。それにね凄い美人で大人っぽいの」
「へー……」
また素っ気ない返事を返されてしまったが、私はそれでも良かった。空太が私の隣で私の話を聞いてくれるならそれだけで良かった。
この時までは……。
私は空太から視線を前に向けると、前を歩く人物を見つけた。
「瑠璃ーー!!」
私は先ほど空太に話していた親友の名前を呼んだ。すると長いストレートの髪を揺らしながら振り向いた瑠璃が、嬉しそうに私の名前を呼んだ。
「茜おはよう!」
「おはよう!」
瑠璃に向かって手を振りながら空太を見ると、空太の視線は瑠璃を見たまま動かない。瞳を大きく開き、息を吸うのも忘れているといった感じで、更にはほんのりと頬を染めていた。私はその空太の表情に息を呑む。
空太は私の幼馴染みだ。
私はずっと空太だけを見つめてきた。
だから私には分かる。
この表情の意味が……。
目元を赤く染め、瞳をキラキラとさせた空太を見つめていると、心臓がドクドクと嫌な音を立てて動き出す。
ダメだよ空太……。
そっちじゃ無いよ……。
心の中で呼びかける。
しかし私の心の声は空太に届くことは無く、空太は瑠璃を見続けていた。そんな空太を見つめていると、全身の血の気が引いていく。
ああ……とうとうこの日が訪れてしまった。
空太が私ではない人に、心を奪われている。
ダメだよ、その人では無いと何度も心の中で叫んでも、空太の瞳に私は映らない。
空太が恋に落ちた。
私は目を見開いたまま、空太が恋に落ちたその光景を凝視した。そして私の世界から色が消えた。先ほどまで鮮やかに色ずいていた世界がモノクロに変わる。
空太の瞳の色だけが鮮明に残っている。
そんな世界で大好きな人が私の隣で、私の大好きな親友に恋をした。
こんなことってある?
大好きな人が恋に落ちる瞬間に立ち会う羽目になるなんて……。
辛すぎるよ。
ジワリと瞳に涙の膜が張る。
ダメだ……涙が出そう……。
グッと唇を噛みしめて涙を耐える。
私は必死にその場を乗り切るため、気丈に振る舞った。
「空太、紹介するね。こちらが親友の瑠璃だよ。瑠璃、こいつが幼馴染みの空太」
上手く紹介できただろうか?
指先が冷たくなり、唇が震えるのを我慢する。二人に唇を噛みしめていることを気づかれないように、無理矢理微笑んだ。
ダメだ。
泣くな。
笑え。
口角を上げ続けろ。
涙に気づかれないように、笑い続けてなくちゃ。
大丈夫、笑えているはず。
グッと喉が詰まるのを感じながら、震える唇で私が紹介し終えると、瑠璃が嬉しそうに空太を見た。
「茜が言っていた幼馴染みくん!空太くんだね。よろしくね」
私の気も知らず、空太の視線は瑠璃に向き続けている。
違うよ空太そっちじゃ無いよ。
こっちだよ。
私を見て。
そう思いながら空太を見ても、空太が私に視線を向けることは無い。
私は思わず空太の裾を引っ張り、無理矢理にこちらを向かせた。驚いた顔をしながら空太は私を見たが、すぐに視線を瑠璃に戻してしまった。
嫌だよ。
お願いだからこっちを向いてよ。
空太……。
必死に心の中で空太に呼びかける。
それでも空太が私を見ることは無い。
心臓が締め付けられ、胸が痛くて仕方ない。
それでも私は苦虫を噛み潰したような顔にならないよう、必死に笑顔を貼り付ける。
瑠璃が嬉しそうに空太に挨拶すると、空太はフイッと顔を背けて挨拶だけして行ってしまった。しかしその耳は赤く染まっていて、どことなく後ろ姿が嬉しそうだった。私はそんな後ろ姿を見ながら、唇を噛みしめることしか出来ない。空太の後ろ姿を見送りながら、瑠璃が私に今日の授業について何かを言ってくるが、先ほどの空太の表情が脳裏に焼き付いて離れず、瑠璃の話を聞き流した。
嫌だよ空太……私から離れないで。
お願いだから、もう少しだけ私の隣にいてよ。
夕日の沈みかけた防波堤。
オレンジ色の海。
穏やかな波音。
美しい景色。
私は自分と同じ名の茜色の空を見つめながら涙をこぼす。
空太が瑠璃に恋をした。
恋に落ちた瞬間の空太の表情を思い出す。
あれは一目惚れの瞬間だった。
空太は瑠璃だけを見つめて、目元を染め、キラキラと瞳を輝かせていた。私にはあんな表情を見せてくれないのに……。
空太の表情を思い出すと、胸がギュッと締め付けられた。
「キツいな……」
今朝までは高校生、順風満帆!何て思っていたのがウソみたいだ。明日からどう生活したら良いのか分からない。
もし空太が瑠璃と付き合いだしたら……私はどうなってしまうだろう。
二人はまだ付き合いだしてもいないのに、それを想像して涙が溢れ出す。
やだ、やだ、やだ……。
妄想が現実みたいに頭の中で映像化する。
想像したくないのに勝手に脳が妄想を繰り返す。
二人が幸せそうに手を繋いで微笑み合う。
『好きな人が出来た』
『俺達付き合うことになったんだよ』
そんな言葉聞きたくない。
嫌だよ。
『茜、ありがとな。茜のおかげで瑠璃に会えた。運命かな』
照れくさそうな空太の顔……。
幸せそうな顔……。
見ていられない。
無理だよ……。
ボロボロと涙が頬をつたって落ちていく。
想像しただけで、こんなにも涙か出てくるんだよ。
現実で言われたらどうなってしまうんだろう……。
寄り添う二人を見ていることが出来るだろうか?
「無理だよ……。そんな二人を見ていられないよ……。……っ……うっ……ふぇっ……空太っ……やだよ」
幸せそうな二人を想像しただけで、ぽろぽろと涙が溢れ、防波堤を濡らしていく。
どうしてこんなことになっちゃうの。
明日からの学校生活が憂鬱になった。
*
空太が恋に落ちた次の日、今日も空太の隣を歩く。
一方的に私が喋ると、いつもと変わらない素っ気ない返事を返してくる。何も変わらない朝の会話。昨日のあれは勘違いだったのでは?そう思った。そこで思い切って瑠璃の話をすると、空太の表情が変わった。先ほどまでつまらなそうにしていた表情を一変させ、こちらに視線を向けてくる空太。やはり勘違いでは無かった。瑠璃の話に「ふぅーん」と反応してはこちらに顔を向けてくる。
違うよ空太。
そんな顔で私を見て欲しいんじゃ無い。
空太は私を見ながらその先にいる瑠璃を見ている。
それが悲しくて俯きながら私は瑠璃の話をした。
バカだな……こんなに悲しいのに、自分の話を聞いてくれるのが嬉しいなんて。
矛盾している……。
こんな日が毎日続くんだろうか……。
空太の隣にいるのに、悲しく辛い日が続いた。
空太を想うと眠れない……。
そんなある日、空太がそれに気づいた。
「おまえどうした?目の下クマが出来てるぞ?」
そっと手を伸ばされ、目の下を空太の手が触れる。
空太が私の変化に気づいてくれた。
私を見てくれている。
嬉しくて、嬉しくて、私は『大丈夫だよ』と言おうとして、息を呑む。空太は私を見ていなかった。私に触れながら、私の横にいる瑠璃を見ていた。
なんで……。
どうして……。
酷いよ。
心の奥底でモヤっとしたドス黒いもの広がり、感情的に空太の手を払いのけた。パンッと乾いた音が鳴り、一瞬静寂が訪れる。私はハッとして空太を見ると、空太は驚いた様な顔をしてから、私から視線を逸らした。
「可愛くねえな」
その言葉が私の胸に突き刺さる。
どうして私にはそんな言葉しかくれないの?
可愛くない……ホントにその通りだ。
分ってるけど……。
こんな態度を取って、ホント可愛くないって分ってるけど、瑠璃にたいする嫉妬から酷い態度をとってしまった。顔を伏せる私を心配して瑠璃が手を差し伸ばしてくれた。
「茜……大丈夫?」
優しい瑠璃。
瑠璃が嫌な子だったら良かったのに……。
そうじゃないから胸が苦しい……。
勝手に瑠璃に嫉妬してごめん。
心配させたらダメだ。
「ん……ごめんね。大丈夫だから心配しないで」
瑠璃は本気で心配してくれているというのに、こんな顔をしていたらダメだ。私は顔を上げると、にっこりとを微笑んだ。
*
今日も私は防波堤に腰を下ろし、茜色の空を見つめながら涙を流す。ここで涙を流すのが日課のようになっている。寄せては返す波を見ながら、頬をつたい落ちていく涙は、夕日でオレンジ色に染まりながら落ちていく。これから長い人生を歩んでいく中で、きっとこの時のこの切なさは、一瞬の出来事なのだろう。年老いて振り返った時には、青春の1ページの彩りとして切り取られるのだろうが、今はただただ切なくて、悲しくて、辛い。
幼馴染みとして長い時間を共に過ごしてきた空太。この先、私と空太は同じ時間を隣で歩むことが無いのかもしれない。そう考えただけで、心が悲鳴を上げる。
ずっと隣にいたいのに……。
それを許してもらえない時が来る。
それはいつなのだろう。
もうすぐなのだろうか?
それを考えただけで辛い……辛くて苦しい。
こんな思いをするなら、この恋を終わらせて次の人に……そう思うのに、それが出来ない。
長く煩った恋煩いは、何ともややこしい感情で、今更違う人を好きになんてなれそうに無い。
もう失恋しているのだから、忘れてしまえば良いのにと、頭では分かっている。分かっているのに、空太を見るとまた時めいてしまう。悪あがきのように話しかけて、また落胆する。空太の視線を追いかけて、それが瑠璃に向いてるのを見て涙する。
空太の視線の先には必ず瑠璃がいる。あの日から空太の瞳に映るのは私では無く瑠璃だけ。
私には気づかないのに、私の隣を歩く瑠璃には気づくんだね。
その度に目の前が涙でにじむ。
ズキリと痛む胸を押さえて、涙を我慢する。
空太とは交わう事の無い視線が悲しくて、瞳の奥に集まる熱をどうにかごまかすために、笑顔を振りまいた。元気いっぱいに振る舞って、私に気づいて欲しいとアピールして笑顔で空太を見つめる。
瑠璃の隣には私もいるんだよ。
私に気づいて……私も見てよ。
私はずっと空太を見ているよ。
こんなにも空太が好きなのに、空太に私の想いは届かない。
*
入学してまだ2ヶ月だというのに、学校行事である体育祭が行われるのだと担任教師がホームルームで説明を始めた。クラスの団結力を深めるための行事で、これから実行委員を決め、各自が出る種目を決めるのだという。運動部がメインで進められるこの行事に、私はあまり乗り気では無い。昔から運動は苦手だし、体を動かすのは好きでは無い。それでも中学の頃は体育祭が好きだった。それは陸上部である空太の走る姿が見られるからだ。
姿勢の良いフォームで颯爽と走る姿は、ホントに格好いい。私はそんな姿をキャーキャー言いながら見ていた。しかし今年はそんな気持ちになれるだろうか……。
今日も少しだけ離れた距離に空太がいる。ぶつからない程度の、幼馴染み距離……もどかしい距離。今日も私を見ずに前を向く空太に瑠璃の話をすれば、私の方に視線を向けてくれるため、話したくも無いのに瑠璃の話をしてしまう。
「クラスカラーはオレンジでね。私は玉入れと、ダンスをするんだけど、瑠璃は障害物競走とダンスなんだよ」
「へー……障害物競走とダンスか」
空太が確認するようにボソリと呟くのを私は聞き逃さなかった。きっと私の出る競技については、もう忘れているんだろうな。そう思うと、ズキズキと胸が痛んだ。
放課後……私はダンスの練習のため、クラスメイト達を集め練習を開始した。まだ話をしたことの無かったクラスメイトとも仲良くなり、楽しく練習していると、外が騒がしくなった。皆の視線が外へと向いたため、私も視線を外に向けると、そこには空太の走る姿があった。誰よりも早く走る姿に歓声が上がる。
「2組の林野空太くんだっけ?足が速いんだね。しかもイケメン!」
「そうそう。先輩達も話してたよ。一年に格好いい子がいるって」
「そう言えば茜は空太くんといつも登校してるよね?付き合ってるの?」
皆の視線が私に向けられ、私は首を横に振った。
「違うよ。空太は幼馴染みなんだ」
「空太くんが幼馴染みとか最高じゃん!恋が始まる予感しか無い!」
それなー!と皆が会話するのを、私は曖昧に笑うことしか出来ない。
恋なんて始まらない。
始まるわけが無い。
今日もズキズキと痛む胸をグッと右手で押さえる。
空太にとって私はただの幼馴染み。
空太の思い人は私では無いのだから……。
*
体育祭当日。
クラスカラーであるオレンジ色のポンポンを手に、私達はクラス応援のためのダンスを披露する。元気いっぱいに両手を広げて、大きな声で応援すれば、皆が私達を見てくれた。その中に空太もいて私達を見てくれていた。しかし私と視線は合わない。空太が熱心に見つめる先には瑠璃がいる。それでも自分を見て欲しくて、その瞳に映り込みたくて、元気いっぱいに最高の笑顔を振りまいた。
「一組ファイト!」
私の声で皆のフォーメーションが変わり、最後に思いっきりジャンプ!
これでもかと楽しげに笑顔で演技終了。すると沢山の拍手が私達に向けられた。私達は一礼して一組の場所へと戻ると、皆が頑張ったと言いながら迎えてくれた。そんな中で私は俯き、手にしているオレンジ色のポンポンを見つめていた。
「茜、疲れちゃった?」
「瑠璃……えっと……うん。疲れちゃったみたい」
「毎日頑張ってたもんね。でもまだ応援残ってるでしょ。ほら、もうすぐ空太くんの出番だよ」
そう。
もうすぐ200メール走だ。
空太順番が近づき、校庭がざわめき出す。位置に着いた空太がふーっと息を吐き出し、真剣な表情で視線を前に向けると「パンッ」と言う合図で走り出す。グンっと加速した空太は速度を落とすこと無く走り続ける。今日一番の歓声が校庭をこだまする。しかし私の耳に歓声の音は聞こえない。空太の一瞬を見逃さないよう集中すると、キーンッという耳鳴りの世界で音が消えた。空太の姿を目に焼き付けるように、両手を握り絞めて……。
100メール……200メール……音の無い世界で空太が走り続ける。
そしてゴールテープを切った。
珍しく嬉しそうな顔をした空太が右手を空に突き上げた。私も自分の事のように嬉しくて、体が熱くなった。
やっぱり空太は格好いい。
私は興奮から体の熱を抑えられず、空太に会いたくて空太の姿を探した。
今すぐに空太に会いたい。
お疲れ様、頑張ったね、格好良かったって言いたい。
私は空太の姿を探したが、空太はもう校庭にはいなかった。……と言うことは、きっとあそこに違いない。私は校舎の隅にある水飲み場までやって来た。するとそこに空太はいた。空太は走った後、必ず水飲み場で頭を冷やす。寒くても暑くてもそれは変わらない。今も頭から水をかぶっていた。
「空太お疲れ様。格好良かったよ」
「ああ……茜か」
私は持っていたタオルを渡すと、空太はそれを受け取り顔を拭きだした。
「タオルありがとな。洗って返す」
「良いよそのままで」
そう言ってタオルを受け取った時、少し離れた場所で瑠璃の声がした。
「茜!空太くん!」
小走りに走ってくる瑠璃が小石につまずいた。危ないと私が走り出そうとした横を、何かが通り過ぎた。
空太だ。
空太は転びそうになった瑠璃を支え、照れくさそうに頬を染めている。
私はそれを目にして、ドロリとした嫌な感情が湧き上がる。大好きな瑠璃に対して憎悪で体が震えた。嫌いに何てなりたくないのに、感情が抑えられない。
空太のそんな顔、見たこと無いよ。
私以外にそんな顔……。
「ハッ……ハッ……っ……ハッ……」
呼吸が上手く出来ない。
苦しい。
心臓が握りつぶされたみたいに、ギュッと締め付けられる。私は右手で胸を服ごと鷲づかみにして、痛みに耐えた。
空太……瑠璃から離れて。
お願いだから、二人とも離れてよ。
私は二人を見ていることが出来ずに背を向けた。
二人から逃げるように校舎内に駆け込み、教室の隅で両膝を抱え込む。ここは学校だ。ここで泣けば皆に心配をかけてしまう。ゆっくりと深呼吸をしながら悲しみを逃がし、心を落ち着かせようと試みるが上手くいかない。
ダメだ。
泣くな。
我慢しろ。
そう思っていても瞳に涙が集まり出し、感情を抑えることが出来なかった。
辛く悲しい思いが、涙となってこぼれ落ちていく。
「ふっ……うっ……っく……」
両手で口元を覆い、誰にも気づかれないように声を殺して泣いた。
「やだよ……空太……っ……まだっ……くっ……私の……隣にいてよ……」
お願いだから……。
空太の隣を歩く事を許してよ。
静かな教室、何も書かれていない黒板、少し乱れた机。
薄暗い教室の片隅で、私の初めての体育祭は幕を閉じた。
*
次の日、体育祭は水曜日だったため今日は木曜日で通常授業だ。何だかだるいと思いながら、私は今日も空太の隣を歩いて登校した。さすがに今日は一人で登校しようかと思ったが、私は空太の隣にいることを選んだ。いつかこの幼馴染みの隣を奪われる日が来る……それまではと、私は必死だった。
もうすぐ空太の隣は私では無い誰かに取られてしまう。
そう思うとまた胸がズキリと痛み、締め付けられた。
そっと空太の横顔を盗み見ては、涙で瞳が潤むのを必死で我慢する。
私はいつまで空太の隣を歩けるのだろう……。
いつかは離れなければならない時が来ると、それは分かっている……。
それでも……。
「空太……もう少しだけ一緒に……」
隣を歩く空太には聞こえないように小さな声で呟く。
まるで願いを込めるように、一緒にいさせて欲しいと呟いて、ズキリと痛む胸を押さえた。
空太に暗い顔を見せたくなくて俯いていると、突然背中に何かが飛びついてきた。
「茜!おはよう。空太くんもおはよう」
空気を変えるような爽やかな声。
「瑠璃?!ビックリした。おはよう」
瑠璃に挨拶をしながら空太を見ると「はよ……」そう言って、すぐに緩んだ顔を背けた。前を向く空太の耳が赤くなっているのが見える。
わかりやすいな……。
そんな顔を見せられたら上手く笑う事なんて出来ないよ。
思わず苦笑してしまう。
引きつった笑顔になってしまっただろうか?
そんな私を見て、瑠璃が心配そうに覗き込んだ。
「茜どうした?大丈夫?何かあった?」
「へへ……ごめん。大丈夫、何でも無いから」
「そう?」
「ところで今日の昼休みに話があるんだけど……良いかな?」
「話?良いけど?」
ニッコリと瑠璃が嬉しそうに笑った。
一体何の話だろう?
それから昼休み、人の少ない校庭の隅でお弁当を食べ終えると、頬を染めた瑠璃が話し出した。
「私、彼氏が出来ました!」
ドクンッと心臓が大きく跳ね、そこからドキドキと忙しなく動き出す。
うそ……。
まだそんな関係にはなっていないって思っていたのに……。
喉の奥が詰まって、声を出すことが出来ない。
私は何て言えばいい?
良かったね?
頑張れ?
お幸せに?
どうしたらよいか分からず固まっていると、瑠璃の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「和哉先輩と付き合えるなんて夢みたい!」
私はポカンとしてから、何とか言葉を絞り出した。
「えっ……和哉……先輩?」
「そう!サッカー部の先輩で二年生なの。実は中学の頃から好きで、この学校にも先輩を追いかけてきたんだ」
空太の名前では無いことにホッとしつつも、驚きである。
「そんな話全然してなかったじゃない」
「だって、絶対振られると思ってたんだもん。でも体育祭の帰りに、告白したらOKしてくれて……もう嬉しくって」
ふふふっと思い出し笑いをしている瑠璃を見て、私も一緒に笑ってしまった。
しかし問題はここからである。
瑠璃に彼氏が出来たのなら、空太の想いはどうなるのだろうか?
失恋の痛みは私が一番よく知っている。
空太の悲しそうな顔を思い浮かべると、ズンと心が重くなった。