あたしの好きな人は、五つ年上で、お母さんの友達の息子で、家庭教師で、部活のコーチで……既婚者。


One side Love.


 フェンス越しに、一人の男子が「千尋(ちひろ)!」とさっきからあたしの名前を呼びかけている。

「ちょっと、あれって、ちーのこと呼んでない?」

 部活中、試合の順番をベンチに座って一緒に待っていた美優から声をかけられた。ずっと耳には入っていたけど、無視していたのに。それにしても、あまりにしつこい。

「いいよ、無視してて」

 最近度々あたしの前に現れるあの男子、香坂(こうさか)は、たぶんあたしに気がある。はっきりと告白されたわけじゃないけど、確実にそうだと思う。
 だけど、あたしは恋愛はもうしない。と、言うか、出来ない気がしてるから、相手にしていない。

「ちーはさ、好きな人他に作ろうとか思わないの?」
「は? 何、いきなり」

 美優(みゆ)が瞳をうるうるとさせながら心配そうに聞いてくるから、ため息をついた。

「あたしは良いんだよ。好きな人は一人って決めてんだから。美優だって、ユウキ様一筋でしょ?」
「そ、それは、もちろんそーだけど!」
「なら、もうなんも言わないで」

 断言すると、美優はそれ以上なにも言わなかった。あたしは、コートの中の一点を見つめる。
 今年から、外部のコーチが練習を教えてくれる為に学校のコートへやってくる事を、顧問から聞かされた。それまで、毎日楽しくやれていた部活が、突然憂鬱になった。
 コーチなんて、別に誰が来たって良かった。おっさんとかじいさんコーチでも、上手けりゃ歓迎だ。むしろ、その方が良かった。なのになんで。よりにもよって、若くてソフトテニス部女子のハートを一瞬にして鷲掴みにしてしまうような、そんな優男を選んだんだ? 信じられない。しかもさ、あんたはそれをどうして断らなかった?

「はじめまして、今日からコーチをさせていただくことになりました。加賀(かが)広也(ひろや)です。よろしくお願いします」

 白いポロシャツにジャージパンツ。スラリとした長身はまさにテニスの王子様。お辞儀と同時にさらりと揺れる前髪。一斉に色めき立つ声が上がった。
 はいー、無駄に爽やかな笑顔とかいらんから。周りもキャーキャー騒ぐんじゃない。アホらしい。
 思わず、深いため息が出てしまう。

「……ねぇ、ちー。あの人って……」

 さっそく気が付いたのは美優(みゆ)。そういう所、敏感なのが美優のすごくて怖いところ。

「なんで来たんだろうね」

 気にしていないと言ったふうにサラリと言い放てば、美優はそれ以上あたしに答えを求めてこない。察しがいいのは褒めてあげたい。

 部活を終えてコートを(なら)していると、コーチがいそいそとこちらにやってきた。

「……なに?」

 何を言うでもなく、あたしの横を一緒に歩いているから、少しイラつく。「邪魔なんだけど?」そう言いたい気持ちを、なんとか出さずに飲み込んだ。

「まさか、〝ちひ〟がいるとは思わなくてさ。ソフトテニスしてたんだな。俺がやってるの聞いて、やらないって言ってたからいないと思ってた」

 ニコッと笑う顔に、ふいにキュンとしてしまう胸の奥。同時に、痛みも感じる気がした。

「これからよろしくな。ちひは上手いだろうから、俺なんか教えなくても大丈夫だろうけど」

 困ったように笑うコーチは、いつもあたしを見て笑っていた。
『ちひは、俺がいなくたって大丈夫だろうけど』
 そりゃ、大丈夫だけど。だけどさ。
 頭の中に響いてきた言葉に、二年前のことを思い出す。


「千尋、今日から広也くんが勉強教えてくれることになったから、受験まで頑張るのよ」

 母の友達の息子があたしの前に現れたのは、中学二年に上がったばかりの頃だった。
 別にやりたいこともなくて、将来のことも何も考えていなかったあたしは、母に心配される程に遊びばかりに夢中で、成績は見るも無惨なものだった。
 それを見かねて、母は頭の良い息子のいる友人に相談したらしい。
 すぐにその息子、加賀広也はあたしのうちへ「家庭教師やります。よろしくお願いします」と、真面目だけどどこか間の抜けたようなラフな格好で、家にやってきた。
 部屋に入ると、テーブル前にあぐらをかき自分の重そうなリュックを下ろすと、そこから教科書やらペンケースやらを取り出して、最後に眼鏡をかけてこちらに微笑んできた。なんであたしの部屋なんだ。と思ったけど、まぁ、それは別にどうでもいい。

「千尋ちゃんは苦手教科はどれ?」

 苦手な教科? そんなの、分かんないし。
 好きか嫌いかで聞かれたら、勉強は嫌いだ。机に向かってひたすらペンを動かすよりも、遊んでいた方が断然楽しいし。

「……んー。じゃあ、とりあえず数学からやる?」
「やだ」
「……え」
「無理。勉強とか」
「えー……それじゃあここに来た意味ないんだけど」

 困ったように眉を垂れると、頭をかく先生を見て、もっと困らせてやりたくなった。せっかく二人きりなんだし、勉強なんてやってられない。あたしは、先生の隣にしゃがみ込むと、そっとひざに手を置いて下から覗き込んだ。

「先生、彼女いんの?」
「は!?」

 一気に赤くなる顔を、腕で隠すようにしてから、咳払いを一つしている。

「そんなことは、勉強と関係ないから」

 あー、つまんな。
 舌打ちしたいのを一応我慢して離れると、先生は教科書を広げてノートになにやら書き始めるから、ほんと、つまんない。
 渋々、あたしもペンを手に持つけど、やる気なんて一ミリも沸かなくてテーブルに突っ伏した。

「……ほんと、やる気ないんだな」

 頭上からため息がこぼれてきたけど、そんなのお構いなしにあたしは目を閉じた。すると、ペンを置いた音がしてから、先生が話し出す。

「彼女ならいるよ。高校の時から付き合ってて、大学卒業したら結婚するつもり。千尋ちゃんは? いるの? 彼氏」

 その言葉に、あたしは閉じていた目を開いて頭を上げると、食いつくように反応した。

「彼氏いるよー! あんま好きじゃないけど、告られたから付き合ってる」
「え、なにそれ」
「彼氏」
「いや、そーじゃなくて。好きじゃないのに付き合ってんの?」

 キョトンと、信じられないとでも言いたげな顔をしてこちらを見ているから、あたしは首を傾げた。

「だって、興味はあるじゃん?」
「そんな、興味本意で付き合っちゃダメじゃない?」
「えー、こっちの話も真面目なの? 色々聞こうと思ったのに」
「は? 色々って、何を……」

 そこまで言って、先生は無言になったかと思えば、また真っ赤になっている顔が面白くて、あたしは吹き出してしまった。

「先生何歳だっけ?」
「え、十九だけど……」
「ふぅん。あたし、十四だよ。五年分の大人なとこ色々聞かせて欲しいんだけど」

 他人の恋バナとか彼氏彼女とかの関係とか、すごく興味ある。自分よりも大人だったらなおさらに。

「ばっ……かなこと言うんじゃない。そう言うこと教えるために来たんじゃないし、そっちは教えることは何もない」
「えー、まだ彼女とシテないの?」

 あたしがただ真っ直ぐに聞いているだけなのに、先生は真顔になってまたため息をついた。

「……マジで、もうやめよう、千尋ちゃん。それ以上はほんと何も話さないよ。まじめにやんなきゃ帰るから」

 あー、やっぱり。つまんなー。

 その後も、勉強する気のない娘に無理矢理家庭教師を頼まれた先生は週二回のペースでうちを訪れた。
 休みの日はほぼ遊びに行けないし、あたしのストレスも溜まり始める。

「先生も彼女とデート出来なくてストレスじゃないの?」

 用意された模擬試験のプリントを解きながら、自分の勉強の教科書に目を落としている先生に問う。すると、なんだか間が空いてから、やけにテンションの低い声が返ってくる。

「別に」
「あれー? なんか、悲しげじゃない? もしかして、別れたとか!?」

 一気にワクワクした好奇心が込み上げてきて、あたしはペンを投げ出して先生の反応を待つ。

「それ時間計ってるからな。そして、人の不幸を喜ぶんじゃない」

 なんだか、いつものソワソワした感じがない。本当に怒っているように感じるし、表情は暗い。

「……ごめん」

 まじか。きっと、別れたんだ……
 転がっていたペンを手に取り、それ以上は何も聞かないで問題を解いた。
 先生はしばらく元気のない日々が続いて、なんだか心配になってくる。

「千尋、最近元気なくね?」
「え? あー、うんちょっとね」

 学校の昼休みに、一応彼氏と名ばかりの大夢(ひろむ)と並んで体育館裏で話をしていると聞かれた。あたしが悩んでいるのを察してくれるとか、たまにいいとこもあるんだよね。そんな風に思っていたら、いきなりニヤニヤし出すから気持ち悪い。

「俺さ、近藤に告られたんだけど、付き合っても良い?」

 唐突に大夢がそう言って、嬉しそうに笑うから、ニヤけていた意味をすぐに理解した。
 ああ、近藤って新体操部の華奢で可憐なザ・女の子って感じのあの子か。そりゃあたしなんかよりもずっと良いよね。
 いや、待って。ってかさ、わざわざそれ言わなくても良くない? 単に「別れよう」だけで良いと思うんだけど。
 自慢か? 自慢したいだけでしょ? きっと。ほんと、こういうとこ幼いっていうか、空気読まないっていうか。

「いいよ。お幸せに」

 別に、未練とかそう言うのは全くない。大夢が彼氏でいて楽しかったかどうかは疑問だ。考えてみれば、たいして楽しくなかったし、「好きだ」なんて言ってくれたのも、最初だけだったし。それが嬉しいとも思わなかったし、もっと言って欲しかったとも思わない。
 やば。あたし、冷めてんな。
 思わず、ははっと乾いた笑いが漏れてしまう。
 ふと、あの日の先生の表情を思い出す。
 先生は、彼女と別れて辛そうだったな。寂しそうだったな。あの表情を見れば分かる。いつもすっごく幸せそうに、照れ臭そうに彼女の事を話していたのに。
 なんで、別れたんだろう?


「え? 別れた理由?」

 次の日、さっそくうちに来た先生に教科書を広げる間もなく聞いてみる。

「うん、なんで? あ、ちなみにあたしも昨日彼氏と別れたんだ。理由は向こうがめっちゃくちゃ可愛い子に告られたから、そっちに行ったってだけ」
「え、なにそれ。そしてさ、なんでそんなあっさりしてんの?」

 分からんと、眉を顰める先生にあたしは笑う。

「だってさ、別に好きとかじゃなかったから」
「え、好きじゃないのに付き合ってたの?」
「えー、このくだりこの前もやったよね? 好きだって言われたから付き合っただけで、あたしは別に。付き合えば好きになるかもしんないしくらいの感じだよ。今回はなんなかっただけ」

 またその顔。先生は目の前で、信じられないとあたしを軽蔑するように目を細めている。

「ちひ、本気の恋してごらんよ」

 初めて、先生はあたしのことを「ちひ」と呼んだ。そして、肩を優しく掴まれて、目を覚ませと言わんばかりに小さく揺さぶる。

「俺は、大好きなんだよ。なのに、距離を置こうって。好きだからこそ、距離を置こうって。なんなの? その理由。意味わかんねーし。好きならそばにいたいじゃん、離れたくなんかないじゃん。毎日毎日、頭ん中、(はるか)のこと考えない日なんてないのに……」

 気がつけば、目の前の先生が泣いていた。
 ずっと元気がなかったのは、きっと我慢していたからなのかもしれない。彼女とうまくいかないことが、抑えきれなくなってしまったのは、適当な恋愛をするあたしを見て、自分の遥さんへの想いが強すぎることを感じてしまったからなのかな。

「ちひくらいに、余裕持って接してやれば、良かったのかもしれないな。歳なんて、大人かどうかなんて、関係ないよ。俺から見たら、ちひの方が全然大人に見えるよ」

 脱力した腕を下げて、力無く笑う先生がとても弱々しく見えて、思わず、あたしは先生を抱きしめていた。

「はぁ、情けな……」

 頭の後ろで呟いた先生の声で、あたしは慌てて離れた。

「ちひに慰められちゃった。年上なのに」

 赤くなった目を細めて無理に笑うから、ゆっくりと胸がトクンと心地のいいリズムを奏で始める。
 人を好きになるって、こんな気持ちなのかな。その時、あたしは初めて恋する気持ちを、知った気がする。


「みゆ、帰ろ」

 放課後、教室にいた美優に声をかけた。すぐにこちらに振り向いた美優の表情は、目を見開き、口はぽかんと開いて、恐ろしい物でも見たかのようで笑ってしまった。

「なんだよ、その顔。ぶっさい」
「だってぇー! ちーが一緒に帰ろうなんて、小学校以来じゃん。びっくりしたよ。ってか、ぶさいとか、ひどい〜」

 相変わらず百面相な美優が面白い。小学校の頃は、美優と麻由理とあたしの三人、家が近くて同じ方向に帰るから、毎日のように遊んでいた。中学生になって、入学式にいきなり大夢に告白されたあたしは、そのまま大夢と付き合うことになって、二人とは少し疎遠になってしまった。はっきり言って、大夢といるより、二人といた方が楽しかった。
 大夢とは別れたし、また美優に声をかけることが出来た。

「えー、別れちゃったの? どうしてー?」

 なんでも聞きたがる美優には、包み隠さずに伝えたい。

「近藤に告られたんだって。だからそっち行くって」
「えー! 姫菜(ひめな)ちゃん!? うわー、めちゃくちゃ可愛い子だ!」

 ああ、近藤って姫菜って名前だったんだ。

「そっかぁ。あたしは、ちーの方が美人だと思うけどなぁ」
「慰め、ありがと」
「そんなんじゃないってば、ほんとだよ。ちー美人だもん。童顔なあたしにはほんと羨ましい。今だに小学生に間違えられるんだから、あたし」

 くすん。と、流れてはいない涙を啜る美優は、あたしが見る限りは近藤姫菜よりも断然可愛いと思うんだけど。まぁ、少々性格に難あり、かな。

「あ! あの人ユウキに似てない!?」

 いきなり窓の外の男子を指差すから、慌てて美優の腕を下げた。もはや彼しか見えずにハートの目になっているから呆れてしまう。
 最近、アイドルオーディションから勝ち残った五人組の【liar(ライアー)】というグループのセンター、ユウキを激推ししているらしい。同年代のグループらしくて、美優の応援ぶりには呆れてしまうの一言しかない。好きなことだから否定はしないけど、あたしには無理だ。推し活とか惜しみなくやってのけるし、ここまでくると尊敬すらしてしまう。

「近場の男には興味ないの?」
「え? だって、教室の中見渡してご覧よ」

 ぐるりと教室内に視線を向けた美優。もっともなことを言われて、言い返せない。同い年の男の子は、やっぱりどこか子供っぽい。
 まぁ、しょうがないか。つい最近まで「ママ〜」って、甘えていたんだろうし。大夢も例外ではない。あいつ、あたしのことを一回だけ「ママ」って間違って呼びやがった。あー、たぶんあれで一気に冷めてしまったのかもしれない。
 中学生の恋愛なんて、そんなもんだ。
 あたしには、もっと大人で経験の多い……
 そこまで考えて、頭の中に先生の顔が浮かんだ──なんで?


 いつも通り、先生は勉強を教えに来てくれる。この前、あたしの前で泣いてしまったことがよっぽど不覚だと思っているのか、あれ以来恋愛の話はしなくなった。
 あたしも彼氏はいなくなったし、先生も彼女とはその後たぶん別れたんだろう。
 あれ? ってことは、お互いフリーじゃない?
 問題を解くふりをしながら、目の前で教科書をパラパラと捲る先生の姿を盗み見る。
 大きくて骨張った手は、指先がスラリと長くて綺麗だ。眼鏡を通して見る瞳は、まつ毛が長くて切れ長。あ、右目尻に小さなホクロがある……エッロっ。男の人なのに、肌は透明感があって色白。あたしのこんがり焼けた肌とは大違いだ。
 まじまじと眺めていたら、ふと気がついた先生の視線と思い切り目が合ってしまった。

「ん? なに?」
「え!? あ、いや……」

 慌ててプリントに視線を落としたけど、なんだか耳が熱い。心臓がバカみたいにドクドクとうるさい。なんだよ、どうしたんだ、あたし。

「ちひ、大丈夫? 顔赤くない? 今日寒かったからな、風邪でもひいたか?」

 先生は部屋に入った時に脱いで置いてあったカーディガンを広げて、あたしの肩にかけてくれる。ふんわり、先生の香水の匂いが香る。この香り、好きだな。なんだか、安心する。

「……ありがと、ございます」

 なんとなく、素直にお礼を言っていた。そんなあたしに、一瞬だけ驚いたように見開いた目は、すぐに細く三日月に変わる。

「いいえ、どういたしまして」

 ああ、ヤバいな。これ、完全に好きってやつかもしれない。
 でも、きっと先生はあたしのことなんか恋愛対象には入れてくれないんだろう。
 まだ、新しい彼女は出来てないかな?
 大学生ってどんななんだろう。
 先生から見たら、中学生なんて、ほんと幼いんだろうな。同い歳から見ても、男なんかガキなのにさ。五つも歳離れていたら、恋愛対象に入るのすら難しいよね。
 でも、ここに来ている時くらいは、甘えてもいいのかな?

「先生、新しい彼女出来た?」

 また、突拍子もないことを聞くあたしに先生は目を細めた。

「いや? ってか、別れてないし」
「……は?」

 え? ちょっと待って? この前の感じからしたら、絶対終わってたよね? どう言うこと?

「……なんで?」
「ん? なんで? ……って、別れたくないから」

 は? 何、そのガキみたいな理由。
 別れたいって思ってる彼女に、ひたすら駄々こねてんのか、あんたは。なんだそりゃ。彼女にとったらいい迷惑じゃん。スッパリ身をひいてあげるのが、一番じゃないの? あたしはなんの未練もなく大夢と別れられたのに。なんで別れてあげないの?

「彼女に迷惑じゃん」

 あたしの一声に、先生の顔は明らかに曇る。

「そんなの分かってる。それでも、別れたくないんだよ」

 本気で駄々をこね始めたな。そして、何故かイラついているようにも見える。

「しょうがないだろ! どうしようもないくらい、好きなんだから」

 泣きそうに、彼女はいないのに、あたしに向かって言う先生の悲痛の叫びが、胸の奥底まで抉るように、突き刺さった。

「……あ、ごめん。じゃあ、今日はここまでにしようか」

 テーブルの上を片付けて、先生は部屋から出て行った。


麻由理(まゆり)ってさぁ、好きな人いたよね?」
「え!? な、なに、突然」

 部活の合間に、隣のコートで順番待ちをしていた麻由理にフェンス越しに話しかけた。驚いてすぐに顔を赤らめる反応が素直で可愛い。

「ほら、いつも話してんじゃん。隣のそうちゃんって人のこと」
「そ、そうちゃんは……幼馴染みってだけで……あたしのことなんて、眼中にないよ」

 赤くなったかと思ったら、今度はみるみる表情に影が落ちていく。面白いほどにあからさまな反応に、つい笑ってしまう。

「もぉ、ちー。笑わないでよ。あたしは本気なんだから。でも、そうちゃんから見たらあたしなんて妹みたいなもんだしさ。近すぎて、なかなか想いも伝えられないし……」
「えー? とりあえず付き合ってみりゃいいじゃん」
「は!? そんな簡単に言わないでよ。無理! 無理無理無理!! 気持ち伝えて、今の関係が変になっちゃうなら、あたしは今のままでいいもん」
「……そーなの?」

 好きだったら、「好きだ」って言って告白して、付き合って。それで、なんかしっくりこなきゃ別れればいいし、ハマってしまえばそのまま手繋いだり、その先まで進んでいけばいいんじゃないの?

「ちーはさ、本当に好きだって思える人、いる?」

 麻由理の言葉に、あたしの頭の中にはやっぱり先生の顔が浮かんだ。

「いるよ」
「え!?」

 驚く麻由理は、キラキラした目を向けてくる。たぶん、あたしの〝好きな人〟が誰なのかと、答えを待っているようだ。
 だけど、その答えは話してやれない。美優にだったら言えるかもしれないけど、麻由理には現実を見ろと呆れられそうだから、言わない。
 別れたいって言ってる彼女に未練タラタラで、年上のくせに泣き虫で、弱くて、優しい先生のことを好きかもしれない。なんて、あたしらしくないし、麻由理に放った言葉が、そのままそっくり自分にも返ってきそうだから。
『とりあえず付き合ってみりゃいいじゃん』
 さっきの麻由理の反応は正解なんだと思う。今のあたしも、麻由理と同じでそう思っている。
『気持ち伝えて、今の関係が変になっちゃうなら、あたしは今のままでいいもん』
 麻由理の気持ちが、めちゃくちゃ分かる。
 はぁ。なんでこんな気持ちにならなきゃないんだ。好きだったら、気持ちを素直に伝えればいいだけじゃん。相手に好きな人がいたとしても、関係ない。だってあたしは好きなんだから。だったら、とりあえず気持ちだけ伝えて、付き合ってみて、それで違うなって思ったら終わればいい。簡単なこと。
『そんなの分かってる。それでも、別れたくないんだよ』
 先生は、どうして終わらせられずにいるんだろう?
 簡単でしょ。
 だって、相手はもう好きだという気持ちはないんだよ?
 だったら離れてやればいいじゃん。次に、進めばいいじゃん。なんでそこまで執着してんの? なんか、ウザくない? 彼女からしたら、たぶんそう思われてるよ? それって、なんかかわいそう。先生。

 部活を終えて帰ろうと歩いていると、前から大夢と近藤姫菜の二人が楽しそうに話しながら歩いてくるのが見えた。
 もしもあたしが、大夢が近藤姫菜と付き合うことにあっさりいいよって言わなかったら、大夢は近藤姫菜とは付き合わなかったのかな?
 しっかりと繋がれた手を見て、なんとなくそんなことを思ってしまった。

「おー、千尋! 久しぶり。こっち、この前話した姫菜、可愛いっしょ?」

 元カノになんの戸惑いもなく姫菜を紹介してくる大夢にはつくづく呆れてしまう。隣の姫菜は恥ずかしそうにピンク色に染めた頬に手を当てながら、上目遣いであたしを見てくる。

「千尋ちゃん、ごめんね」

 は? なにが?

「あー、なんかさ、姫菜、俺が千尋と別れたの自分のせいだって落ち込んでんだよ。別に姫菜関係ないよな? 円満だったし」

 相変わらずバカっぽく笑う笑顔と、あたしの様子を探るように眉を下げて見てくる姫菜に呆れを通り越して、イラついてきてしまった。

「気にしなくていんじゃない? お幸せに」

 似た者同士、お似合いじゃん。あたしは大夢の隣にいて違和感しかなかったけど、姫菜はハマってる。笑顔で幸せそうに去っていく二人を見て、ため息が出た。
 好きって、なんなんだろう。なんだか、分からなくなった。
 「好きだ」と言われたから、付き合った。でも、あたしは好きにはなれなかった。そしたら、相手も離れていった。
 離れたそいつは、幸せそうにあたしじゃない彼女と笑っていて、その彼女も幸せそうで、それは良かったなって、思った。
 あたしも、幸せだと笑えるくらい好きになれる人が出来るのかな?


 受験を目前にして、先生は週二回の家庭教師から数を増やしてくれて、三回、暇があれば四回うちに通ってくれるようになった。
 あれから、あたしは彼氏を作っていない。たまに声をかけられはするけど、先生以上にときめくことはない。あたしは、もうすっかり先生に恋をしていた。
 そばにいるのが苦しくて。でも、すごく愛しくて。その時間が永遠に続けば良いのに。そう思う程に、惹かれてしまっていた。
 先生は優しいから、あたしに対する一つ一つの行動や言葉が、なんの意味も持っていないって分かっている。それでも、あたしの頭は勘違いをして、どんどん先生への好きが膨らんでいった。
 受験が終わって、無事に高校に入学出来たら、思い切って気持ちを伝えよう。そこまで、あたしは決心していた。
 ──それなのに

「いよいよ入試だな。今まで頑張ったんだ。自信持ってやって来いよ!」
「……うう、緊張する」

 怖気付くあたしを見て、先生は笑っている。

「ちひがそんな弱気なの初めて見るかも。大丈夫だよ。ちひは、本当は俺なんかいなくても大丈夫なんだから」

 それは、やればもともと勉強が出来たってこと? これが終わったら、先生とはもう会えなくなるってこと?
 あたしと先生は、母の友達の娘と家庭教師の先生ってだけの関係だ。その繋がりが、受験を終えてしまえば無くなってしまう。そう思ったら、なんだか悲しくなった。
 先生が今まで彼女との時間を割いてまで、あたしに時間を作ってくれてたんだ。それに報わなきゃ、申し訳なくなってしまう。

 あれから、先生は彼女の話をしないし、あたしも聞けなくなった。実際、どうなったのかはなにも分からない。
 でも、あたしの気持ちは日に日に大きくなるばかりだ。だから、どうしてもこの気持ちは伝えたい。
 あたしが、先生の彼女になることは、受験の合格と、どっちが確率高いのかな?
 出来れば、どっちも上手くいって欲しい。

 試験を終えたあたしは、合否が出るまでの間美優と麻由理と過ごしていた。
 カフェ・フレーバフルでテイクアウトしてきた、大好きなキャラメルカフェラテのホイップのせを片手に、三人並んで街が一望できる公園のベンチに座っていた。

「やれることはやったんだ。もう遊んでも良いよね」

 大きく伸びをすると、美優はキャラメルカフェラテを美味しそうに飲む。だけど、何故かさっきから無言の麻由理が気になる。チラリと麻由理を見て、目があった瞬間に首を傾げた。

「どした? 麻由理。試験上手くいかなかった?」

 すぐに首を横に振った麻由理の横顔が、頬から耳にかけて、徐々に赤く色付いていく。そして、ようやく口を開いた。

「……そうちゃんに、付き合おうって言われた」
「えええっ!!」

 瞬時に反応したのは、もちろん美優だ。

「そーなのー!? やーっぱ好き同士だったんじゃんっ」

 ワクワクと瞳を輝かせて、美優の麻由理に対する質問攻めが始まった。あたしは隣で頷きながら聞いていた。
 麻由理に彼氏が出来た。
 なるべくしてなったんだ、幼馴染みの彼女に。なにも不思議なことなんてないと思う。美優の質問の嵐に、よく次々と出てくるなぁと感心しながら、あたしはキャラメルカフェラテを啜った。
 受験も終わったし、そうちゃんは麻由理のことを待ってたんだろうな。良いやつじゃん。やっぱり、年上は魅力的なのかもしれない。だけど、先生は? 五つも歳の離れたあたしのこと、相手にしてくれるのかな。
 明日、受験を頑張ったご褒美に、フレーバフルでランチを先生と一緒にする予定になっている。
 麻由理のいい報告を聞いたら、なんだか自分も大丈夫なような気持ちになってきてしまう。
 よし、明日頑張って、気持ち伝えよう。
 先生がいたから受験頑張れたし、恋する本当の気持ちも教えてもらえた気がする。あとは、この気持ちをちゃんと先生に伝えるだけ。
 試験はもちろん緊張したけど、こっちはそれ以上に緊張する。そっと息を吐き出して、あたしは隣ではしゃぐ二人を見ながら微笑んだ。


 カフェ・フレーバフルに、待ち合わせよりもだいぶ早くから来ていた。昨日はらしくないとは思いながら、緊張で眠れなかった。
 何回も何回も、頭の中で今日伝える最善の言葉を探した。目をつむってシーンを思い描きながら考える。
 やっぱり、真っ直ぐにそのままの気持ちを伝えるのが、一番な気がする。

「ちひー、遅れてごめんな」

 俯いてスマホをいじっていたあたしの耳に聞こえてきたのは、いつものフラフラした先生の声。

「ううん、全然大丈……夫……」

 スマホから視線を上げると、先生の隣に立つ女の人がすぐに目に入った。
 ふんわりと胸の辺りまで軽く巻かれた髪の毛、ナチュラルなメイク。整った顔立ちはすごく大人っぽい。誰だろう?

「こんにちは、千尋ちゃん。前田(まえだ)(はるか)って言います。広也からいつも話聞いてたよ。受験お疲れ様」

 にっこりと微笑むから、あたしは小さく会釈をしてから「どうも……」とだけ呟いた。

「遥、こっち座る?」
「あ、うん。ありがと」

 目の前では、窓際へと座るように遥さんをエスコートする先生の姿。いつもあたしが見ていた家庭教師としての顔なんて、ひとつもない。目の前にいる遥さんの事を、愛おしそうに見つめる眼差し。あたしなんか全然視界に入っていないことを感じて、心が痛んだ。
 ようやく遥さんからこちらに向いた先生の視線は戸惑いながらも、嬉しそうだ。

「ちひにはちゃんと紹介しておきたくて。突然連れてきて、ごめんな」
「え!? 私が来ること言ってなかったの?」
「あ……うん。だって、ちひには今まで色々恥ずかしいとこ見せちゃってんだよね。なんか、遥連れていくって言ったら、呆れられそうだなって思って」

 苦笑いをしながらも落ち込む先生の姿に、あたしの胸はより深く傷を刻む。
 どうして? 
 先生の隣で微笑む遥さんには、どうしても聞きたかった。

「先生と、別れたいんじゃなかったんですか?」

 あたしの言葉に、二人とも驚いたような顔をしてから、遥さんは優しく微笑む。

「ううん。別れたいとは、思ったことなかったんだよ。ただ、あたしの気持ちが広也の気持ちに追いついていなくて。少しだけ、考えさせて欲しかったの。だから、距離を置きたいって、そう言ったんだけど、広也ったら物凄く落ち込んじゃって」

 クスクスと隣にいる先生の方を見ながら、遥さんは笑う。その表情には、余裕がある。一方の先生は、照れているのかほんのり顔が赤くなっている。

「千尋ちゃんにもご心配おかけしました。広也が言ってたわ。千尋ちゃんはすごく大人だって。勉強は教えられたけど、恋愛観みたいなのは、俺よりずっと上だなって」
「本人の前で言うなよ、遥。俺は遥しか今まで彼女になったことないし、ちひはなんか、若いうちから色々経験してるっぽいから、俺なんかよりずっと、恋愛については知ってるんだろうなって思っただけだよ」

 子供のように先生はいじけるから、そんな表情をさせる遥さんは、やっぱり先生の彼女なんだろうなって思った。
 目の前の先生は、いつもあたしに勉強を教えてくれる大人の余裕なんて、微塵も感じさせない。遥さんに、心を完全に許しているんだと思った。だから、余計に悲しくなった。

 今まで、こんな気持ちになったことなんてなかった。

 大夢と居て、寂しいとか、悲しいとか、まして不安になるなんてことは、なかったから。きっと、あたしは先生とはもう会えなくなるのかもしれない。そう思ったら、無性に悲しくて、寂しくて、辛くて、泣きたくなった。

「ちひ、何食べる? とりあえず試験お疲れってことで、合格したらまた盛大にお祝いしような」

 メニューを差し出されて、満面の笑みの先生に無理矢理にあたしも笑顔を作る。
 さっきから、ズキズキと心臓が音を立てているみたいにうるさくて、苦しくて、張り裂けそうに痛くて、どうしようもなくなった。あたしは今、ちゃんと笑えているだろうか。それだけが、心配だった。

 その日、あたしは何を喋っていたのかも、何を食べたのかすら、記憶に残っていなくて。二人と笑って別れたことだけはなんとなく、覚えていた。だから、無理矢理に気持ちを押し付けたり、否定したり、二人を不安にさせるような行動は取っていなかったはず。十四年生きてきた人生で一番、我慢した時間だったのかもしれない。
 無事に高校合格を勝ち取ったあたしは、もう先生とは会わないと心に決めた。

『ちひ、本気の恋してごらんよ』
 先生はそう言った。
 本気の恋なんて、なんなのか分からなかった。なのに、そう言ってくれた先生のことが、あたしは好きで、好きで、もうどうしようもないくらいに大好きになってしまった。
 遥さんの隣で幸せそうに笑う先生は、素敵だった。きっと、あたしの前ではあんな風には笑ってくれない。
 今までも、これからも。


 家庭教師を終えた先生にお母さんはお礼を言って、あたしにも頭を下げさせた。

「広也くんにお願いして本当に良かったわ。ありがとう」
「いえ、全部千尋ちゃんの頑張りですよ」

 そして、先生は照れたように笑って「またね」と手を振ってあたしのうちを出て行った。
 もう、会うことはない。
 だって、あたしと先生は、受験のために巡り合っただけのただの知り合い。
 それ以上でも、それ以下でもない。だから、もう「またね」なんて、ないんだよ。

 数日後、母があたしの部屋のドアをノックしてきた。

「千尋、広也くんが合格祝いにご馳走してくれるって! 連絡きたけど、行くでしょ?」

 嬉しそうに部屋のドアを開けて聞いてくるから、返事を返すのに戸惑った。

「あとね、広也くん婚約したんですって。大学卒業したら結婚するらしいわよ。とってもいい子だもんね、彼女も素敵な人よー、写真送られてきたの」

 そう言って、スマホの画面を見せてくれる。頭の中に初めて遥さんと会った日のことを思い出して、幸せそうな二人の姿が浮かんだ。想像していた通りに、先生と遥さんの寄り添って幸せそうに笑う顔。画面の中の写真なのに、キラキラと輝いているような気さえしてくる。
 確かに先生、言ってたな。「大学卒業したら結婚する」って。有言実行って言葉、こういう時に使うんだろうな。
 あたしは、冷静になって気持ちを落ち着かせる。

「……いい」
「え?」
「お祝いとか、別にいい。合格したんだし、もう先生してくれなくていいし。あたしなんかよりも、そっちのが忙しいでしょ?」

 母のスマホを指差して、あたしはまた机に向き直った。

「え、本当にいいの? 千尋の好きな食べ物教えてって言われてたんだけど」
「いい。大人達に褒められに行くくらいなら、麻由理たちと騒いだ方が楽しいし」
「まぁ……そうよね。分かった。じゃあ、お母さんからしっかりお礼しておくわね。ほんと頑張ったわね、楽しい高校生活が待ってるわよっ」

 ウキウキと部屋から出ていった母の後ろ姿を見送って、ドアがパタンっと閉まった途端に、ずっと我慢していた涙が、一気に溢れ出した。

「……っ、ふぇ……うっ、」

 嗚咽を堪えると、苦しい。湧き上がってくる涙と悲しみと後悔と悔しさが、ごちゃ混ぜになって流れていく。

 母が先生に家庭教師を頼まなければ。先生のお母さんがあたしの母と友達じゃなければ。先生が、あんな弱くて優しい人じゃなければ、どんなに良かっただろう。
 本気の恋なんて、先生のことなんて、知らない方が良かった。

 広げていたノートに幾つも涙の跡が付いていく。滲んで、ふやけて、波打って。たくさん泣いてもいいのかな。思い切り泣いたら、忘れられるかな。なかったことになんて出来ないかもしれないけど、これで、諦められるかな。


「ちひー、一緒にソフトテニスやらない?」
「え?」

 高校に入学してから数日、部活見学をするために設けられた放課後、美優がそう言って近づいてきた。

「ほら、麻由理が一緒にやろうよって。あたしはもうオッケーしたよ。だって、テニスウェアめっちゃ可愛んだよ!」
「え、いいの? 美優バレーボールやってたじゃん。全然競技違くない?」
「だってぇ、あたしもう身長止まっちゃったし、なんかずっとやってるからやってきただけで、高校生だし、他にもチャレンジしようと思って!」

 ああ、美優のそういうとこ好きだな。
 めげるのは目に見えてるけど、立ち直り早いし、結構真面目にやるとこなんか尊敬しちゃう。絶対に本人には言わないけど。

「いいよ、やっても」

 確か、先生もやってたって言ってたことあったな。麻由理の話をした時だ。あの時は絶対にやらないって思ったけど、先生がやっていたソフトテニスに、興味がなかったわけじゃない。なるべくなら、あんまり関わりたくなかったから。同じ話を共有して、ますます好きになってしまうのが、不安だったから。
 でも、もういいや。
 先生は結婚するんだし、この想いはあたしだけの中に、ずっとしまっておけばいい。

 美優と一緒にテニスコートに行って見ると、先に来ていた麻由理と合流した。

「あ、みゆとちー! こっち」

 手を振って呼ぶ麻由理の隣には、知らない女の子。

「こっちはね、今仲良くなった希未(のぞみ)

 麻由理の誰とでもすぐに仲良くなれちゃうところは、ほとんど特技だと思ってる。あたしをちーと呼んだのも、麻由理が最初だった。今仲良くなったばかりの子のことも、すでに呼び捨てとか。まぁ、その方が親しみやすいのかな。

「あたし美優です! よろしくね、希未ちゃん」
「あたしは千尋」
「嬉しい……あたし、親友に高校では部活しないって言われて寂しかったのー。これからよろしくね、麻由理、美優、千尋」

 お、この子もすぐ呼び捨て出来るタイプか。しかも可愛いとか、麻由理は見た目から声かけるやつだからな。入学初日から可愛い子に声かけまくってたもんな。おかげで巻き込まれたあたしまで友達一〇〇人達成できそうだ。まぁ、今まで通り深く関わる気はないけど。

「希未ちゃんって、彼氏いるーっ?」
「え……あー、うん」
「え!? ほんとっ! 可愛いもんねぇ、希未ちゃん」

 美優がさっそく不躾な質問を繰り出す。なにも引っかかりなくそのまま会話進めてるけどさ、今、明らかに間があったよね? 本当にいるのか? なんか、あやしくない?

 希未の第一印象はそれだった。そして、しばらく高校生活送ってきてるけど、やっぱり希未に彼氏の存在なんて全然感じない。
 部活が終わればあたしたちの雑談に楽しそうに混じって一向に帰る気配はないし、スマホすら見ない。
 麻由理はある程度の間隔で先に帰ることはあるし、いつも彼氏からの連絡を最優先に動いている。家が隣同士で毎日会えているのにこの頻度。多分普通なんだろうな。
 それに比べたら、なんか、やっぱりあやしくない?
 でも、人の恋愛にいちいち口を挟むようなことはしたくないし、あたしだってそこまで経験があるわけじゃない。
 ただ、叶わぬ片想いを貫いていこうと決めてしまっただけ。
 先生に「好きだ」と言って困らせたりはしたくないし、言ったところでどうしようもないんだから。
 好きでもないのに優しくなんかされたら、それこそ地獄だろ。

 ──そんなこんなで、今に至る。
 なんでか知らないけど、うちのソフトテニス部にコーチとしてやってきた先生は、あたしの気持ちなんて全然気にしないで、知ってる顔だと思って喜んで尻尾を振ってくる。
 変わらない笑顔に、会うたびにやっぱり胸の奥で何かが弾む。やっぱり、まだ好きなのかもしれない。

 そういえば、香坂……だっけ。さっきの。
 あいつ、最近ほんとにやたらと話しかけてくるけど、なんなんだ。あたしの何が良いんだ。かと言って告ってくるわけでもなく、呼ばれれば単なる世間話とあたしの好きなものは何かとか、どんな音楽聞くのかとか、なんだよそれ。知らないし。ってか、教えたからなんだってんだよ。あたしに合わせてくれんの? そんなんごめんだね。
 好きなら好きって堂々と言えばいーじゃん! ……って、あたしだって言える立場じゃないか。自分だって言えてないだろ。はぁ、帰ろ。

「ちひ! どうした? 体調悪いのか?」

 ラケットをケースにしまって歩き出したあたしに、広也コーチが駆け寄る。
 だからさ、どうしてあたしの気持ちの変化に気づくかなぁ。だいぶ落ち込んでるよ。真っ逆さま。報われない片想い。終わりのない迷路に迷い込んでいるんだよ、あたしは。あなたのせいで。体調が悪いと言うか、気分が悪い。

「千尋ーっ! 大丈夫か!? これ!」

 フェンス越しに、またあたしの名前を呼ぶのは、やっぱり香坂。
 見れば、何やら右手にペットボトルを掲げていて、思い切り振りながらこちらを見ている。

「今日はもう帰っていいから。ちゃんと休むんだぞ」

 優しくそう言って、結婚指輪の嵌められた左手であたしの頭を撫でる。そうして、広也コーチはみんなのところへ戻って行った。
 そう言う行動が、またあたしを迷路の奥深くまで誘い込むんだろが。腹立つ!
 イラついた顔のまま、いまだにあたしを呼ぶ香坂の方へ視線を向けた。睨んだ先のやつは、一瞬「ヒッ!」と怯えつつ、それでももう一度あたしの名前を呼ぶ。

「こ、これ! 千尋、前に好きだって言ってただろ? でも、なかなか売ってないって。さっき学校の自販機に業者さん来てて、聞いたら特別に出してくれた。これ飲んで元気だしてよ」

 真っ赤な顔をした香坂が、フェンスの向こうからペットボトルをあたしに向けてそっと差し出している。呆れてため息を吐くと、あたしはコートを出て香坂の前に立った。

「ありがと」

 素直にそう言ってペットボトルを受け取ると、香坂は嬉しそうに笑った。

「う、うんっ!」

 それにしても、よくこんなの覚えてたな。
 渡されたペットボトルのラベルを見て思う。『強炭酸のレモンすっきりサイダー』。好きなものを聞かれた時に、たまたま自販機の中のこの商品が目に入って、適当に返してたんだけどなぁ。ってかさ、運動してすぐに強炭酸とか絶対に飲みたくないし。
 もらったは良いけど、これって、開けなきゃこいつの気が済まなそうだよな。
 目の前で期待の眼差しを向けている香坂は、待てと言われて待っている小型犬のような潤んだ瞳で、あたしが蓋を開けるのをワクワクと待っている。
 しかたない。
 蓋に手を掛けて、捻った瞬間──

ブシューーー!!!!

 ペットボトルの蓋が勢いよく飛んでいき、中の炭酸が泡と一緒に湧き出てきた。あたしの腕はビッショビショだ。なにこれ。
 怒りに俯くあたしの視線には、後退りをする香坂のスニーカーが見えた。
 そう言えばさっき、こいつこれ振ってたよな。
 香坂がペットボトルを振りながらあたしを呼んでいる姿が、頭の中に瞬時に蘇った。

「なにこれ? いやがらせ?」
「……や、いや! ち、違うよ!! 絶対違うよ!!」

 両手を振って首も何度も左右に行き来する。慌てぶりが激しくて、なんか、こいつ。

「おもしろっ!」
「……っえ!?」
「あーあ、ベッタベタじゃん。水道行ってくるわ。香坂、一旦これやる」

 腕や手についた水滴を振り払いながら、持っていたペットボトルを香坂へと向けた。

「……あ、と、……ほんと、ごめん……」
「それ、飲むんじゃないぞ? あたしが戻るまで預かっといて」

 落ち込む香坂にそう言って笑顔をむけてやると、暗く青ざめていた顔にキラキラと笑顔が戻ってきた。

「うんっ!! 待ってる!」

 なんだよ、こいつ。よく見ると可愛いしおもしろい。久々に面白いこと見つけたかも。
 先生のことばっかり考えるのも飽きてきたし、楽しい方がいいな。香坂ともちゃんと話してみたら、案外良いやつかもしれないし、これからはかまってやるか。

 曇り空に晴れ間が射す。
 あたしの長い長い片想いは、もうすぐ終わりを迎えるかもしれないし、まだまだ続くのかもしれない。
 それはまだ、誰にも分からない。

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