その日、私たちは駅前を後にした。
永野くんは私の家の前で、「それじゃ」といった。
部屋にあがっていく? と伝えたけれど、彼はぶんぶんと首を振った。
「今日はまだ、トレーニングしてないんで。実は、夏休み入ってから、ずっともらったプログラムと走り込みをしてるんです。でも走るのは夜じゃないと、さすがに無理ですけど」
「え、まだ筋トレしてるの? だって、もう十分じゃ――」
確かに、前に比べれば本当に、姿勢も体格も、しっかりとしている気がするけども。
「いえ、もうちょっと頑張ります」
「どうして」
「もうちょっと、努力して……頑張りたいなって。好きな人のために」
息が、一瞬止まった。
脳内をこれまでの情報がかけめぐっていく。
木原さんに、もう一度告白するのだろうか。
まだ、彼女が好きなのだろうか。
私の胸の中は再びチクチクと痛む。
言葉が何も、でてこない。
彼は落ちる太陽を背にし、少しだけほほ笑む。
あの日、会った日から、とても変わった永野くん。
あの時、強引にでも屋上で引き止めて、心から良かったのだと――
けれど、そうだ。
私は、それだけ。
私との、関係性は、ただそれだけ。
夏休み中、それから何度か彼から連絡をもらったけれども、私は会う気になれなかった。宿題が終わっていない、家の用事が――そんな適当な用事を伝えて、のらりくらりとかわして。
会ってしまったら、ダメだと自制していた。
……永野くんが、好きになってしまったのだと、いいそうで。
夏休みが終わった翌日。
今日はいわゆる9月1日の始業式の朝。
顔を洗って鏡の前で今の自分の姿を見る。
夏休み前の、あのフラれたばかりのしけた顔や、垢ぬけない雰囲気ではなく、顔立ちが変わった気がする。
でも自分だとさして大差ないような、そんな気がしてしまう。
気づくだろうか、誰か、何かいうだろうか。
いわれなかったら、いわれなかったで、とても寂しく思いそうだ。
永野くんも、誰かに、何かをいわれるだろうか。
――ううん。
明白だろう、彼は相当に、変わったのだから。
応援をしなきゃ、という気持ちはあったが、私の心と同じくした窓の外の曇天を見やり、ためいきをついた。
スマホを見ると、永野くんから、学校に一緒に行きましょう、と連絡がきていた。嬉しくもあり、切なくもなり、返信をせぬまま、家を飛び出す。
歩いていくと、校門の少し手前で、男子が一人。
少し大きな木が並ぶそのひとつ、木陰で待っていた。
「おはよう」
私を見つけ、こぼれるような笑顔を見せた。
会いたかったけれど――……
「おはよう、永野くん」
「一緒に行こう」
あれからあまり返信をしない私の事を責めるでもなく、
「学校が終わったら、話したいことがある」
と、ただ、それだけをいった。
教室に行くことを考える。
誰か、何かをいうだろうか。
私の心臓は落ち着かない。私の横の永野くんは、そっと手を取ってきた。
私の息がぐんと上がった。
でも、ここが頑張りどころ。
お互い、がんばろうねと、応援しあうように握り返す。
こんなことをしている私たちを不思議そうに何人かが見てくる。
誰だろう、という視線や、みとれるような視線まで。
私たちは、学校へと入っていった。
やがて空は晴れてきて、廊下へ太陽光が降り注ぐ。
永野くんは私をクラスまで送ってくれた。
空調のために教室の窓も扉も開いていたので、永野くんを見て、「誰?」と女子たちが騒ぎ出す。
「またね、矢崎さん」
まるで誰かに見せつけるように彼は、繋いだ私たちの手をいったん持ち上げて、その手をパッと離した。
かあっと私の顔や全身に熱が広がるのがわかる。
最初だけで、その後は特に意識していなかったけど――そのまま、教室の前まできていた、ってことは、目撃者が多数……。
いやいや、まさか。
つないでいたことを、アピール?
でも、誰に?
――永野くんは、こんな大胆なことをする男子だっただろうか。
でも、ちょっとだけ照れている様子から、『頑張りました、俺』感がでている。うん、あとでたくさん、褒めてあげよう……!
「じゃ、じゃあ、また」
矢崎さん、というキーワードに窓際や扉近くの男女が反応した。
「矢崎さん!?」
「嘘でしょ、かわいい!」
女子たちが、私を見て、きゃあっと嬉しそうに声をあげた。喜んでいいのか、謙虚にしていいのか――とにかく、私はどう反応していいのかわからず、口に手をやりながら「ありがとう」となんとかいった。
別の女子が「さっきの男子、超かっこいいけど、誰なの?」と尋ねてきた。
「B組の、永野くん」
永野くんを知っていたであろう何人かが、「嘘!」と悲鳴を上げた。
「付き合ってるの? 夏休み、デートした? 会ってたの?」
「あ、えっと――色々あって」
たたみかけるような質問に、どれに対しての返しをすればいいのかわからず、上手く反応できなかった。曖昧な返答を、みんなは誤解してしまったかもしれない。
その合間にじっと私を見ていた、男子がいたことに気がつく。
ぱちっと目が合った。
私が告白して自然消滅した、というべきなのか、あの男子と。
――どういう表情というべきか、読み取るのが、また難しい。困惑が大きそうな雰囲気だった。私は、なんとなくの微妙な笑みを浮かべるのでせいいっぱいだった。
さて、教室での初披露は、なんとか終わった。
授業がはじまり、緊張が解かれる。
どうせ始業式は早くに終わる。
彼は、どうなっただろう。
――永野くんの教室に、会いに行こう。
私は、もういいんだ。
きっと騒がれているであろうことが容易に想像できる。
とんでもなく素敵になった永野くんに、最後に、会いに行こう。
チャイムが鳴って、カバンを持って教室を飛び出す。
パタパタと廊下を走って、人々をするすると縫うように避けながら永野くんの教室へと突撃した。
教室内は、帰ろうという人たちが扉に押し寄せ、入れ替わるように私はB組へと入っていく。予想通り、彼は女子たちに遠巻きに見られていた。声をかけたいけれども、といった女子たちは互いの様子を見ている感じで。かけたいけれども、どうも阻まれる、そんな様子で。先日までの態度とは、まるで手のひらをかえすような行動に、苛立ちを覚える。
「永野くん!」
とっさに、声をはりあげた。
私に気づくと、彼は窓の外を向けていた顔をあげ、私へと振り返った。
前のように永野くんに近寄って、空いていた前の席のイスを引いて座る。
「会いに来たわよ」
永野くんは、「きてくれると、思ってました」と目を細めて笑った。彼は、とても頑張ってるけど、中身は、まだやっぱり、あの永野くんのままだ。妙に嬉しくなって、私の頬もゆるむ。
「矢崎さん、今日は、一緒に帰りましょう」
「え、でも」
木原さんに誤解されるんじゃないの? と、言葉がでかけた。
すると、当の主である木原さんは、私たちの様子をさぐっているようだった。私は永野くんに声をひそめて、尋ねた。
「だって、彼女と一緒に帰るんじゃないの」
怪訝な表情を浮かべ、じっと私を見やった。
「……彼女? 誰の事ですか」
「……木原さん?」
眉間のしわがいちだんと深くなった。理解不能な言葉をかけられた、といわんばかりに。
「とっくにフラれてますよね」
「でも、まだ木原さんが好きなんじゃないの? だから、カッコよくなったから、告白するのかと」
解せない、という表情で、彼は少しだけ語気を荒げる。
「俺が好きなのは、矢崎さんですけど――って――ちょっと! なにを、いわせるんですか!」
口に手を当て、ガタンと椅子から立ちあがった。
いま、言われた言葉はなんだったか。
脳内でもう一度、再生してみた。
「俺が好きなのは、矢崎さんですけど――?」
「――!」
自身がいったことばを反芻された永野くんは、顔を真っ赤にしつつ半泣きだった。
――しまった。
脳内で再生するだけのつもりが、思わず口に出ていた。
教室内でみんながいるなか、女子に告白とか、確かに恥ずかしいよね。
これは正直に、謝らないと……どうしよう、弁解するには、どうしたら。
「ご、ごめん。でも私も好きだから……」
「え、いまなんて」
……
……
これは、やってしまったな。
被害が、広がってしまった……!
よくわからないけれども、『教室で愛をささやきあうバカップル』みたいなさらし者になっている……。
「か、帰りましょう、いますぐに」
ぎこちなく絞り出した私の提案に、彼は乗った。教室内の人々が、なんだあいつらは、といわんばかりの態度を示す中、私たちは教室内の人々をさながらモーゼのごとくな状況で退室した。
2人で帰っている途中、永野くんの手が私の手の平にふいと当たった。
朝につないでいたことを思い出し、思わず手を引っ込めようとすると、彼はそのまま、私の手に、指を絡め、ぎゅっと握った。
自分の頬まで熱を持ち、耳が熱くて痛いようにも思える。
永野くんはためらいを見せた後、もう一度ぎゅっと私の手を握った。
「好きです」
彼は、きっぱりと私の瞳を見ていった。
なんていっていいかわからなくて、動けず、ただ、見返すことしかできない。
「もう一度いいますけど、好きですから」
「わ、わかった! もういいわ! わかったから!」
「応援してくれるところも、努力してる姿も、俺のために泣いてくれる姿も――全部、好きです」
「うん……」
私も、と小さくいった。
助けた時から、情けないなとか、そんな気にするくらいには好きだった。でも、どれが、とは明確にわからないけれど、はっきりとはいえないけど、一緒にいて楽しいとか、かわいらしいとか、そんなたくさんの理由が込められての好き。私も、努力や応援や、笑う姿が、とても好き。
「矢崎さんが持ってた、あの妙なイケメン図鑑。4位はストレートな愛の告白、って書いてありましたね」
「なんで、それを知って――」
「探しました。なんとか中古本屋で、見つけましたよ」
ふふ、と小さく笑い合う。
シンプルなものが、一番いいのかもしれない。
夏の日、帰り道の暑い中、私たちは『次はデート』の約束を、した。
了