朝イチで、自分の席を素通りし、親友のマイカの元へと向かう。
 私にとっては、恒例になっているルート。
 精いっぱい眉尻を下げるのもお約束。

「ねえ、漢文の予習してきた?」
「なあに? また『見せて』って? ユアもたまには自分で訳してきなよー」

 そう咎めながらも、マイカは机の中に手を入れ、ノートを探してくれる。

「言い訳なんだけど、聞いて! 自分で訳してはきたの。でも、意味わかんない文があって、しかもちょうど当たりそうな辺りなんだよね」

 古典の先生は、いつも決まって廊下側の先頭から当てる。
 『前回廊下側からだったから、今日は窓側から』とか、『今日は◯日だから、出席番号が◯番の人から』とかはしない。
 自分の当てられる箇所が予想できる、大変有り難い先生なのだ。

 そういえば、高校に入学してすぐの頃は、先生によって勝手が違うことにあたふたしたなー。
 今ではもうすっかり慣れたもので、先生ごとの攻略法もばっちりだけど。

 入学式の日が、遠い遠い昔のことのように感じられる──
 
「珍し。まあ、自分でやってきたのは進歩だね」

 まるで小さな子どもを相手にするみたいに言って、マイカはノートを差し出してくれた。

「恩に着る!」
「そればっかりで、そろそろ着膨れてきてるでしょ。少し返してみない? ってことで、数Aの予習はやってきてる?」
「えっ、それこそ珍しい! どうしちゃったの?」
「私だって自分でやろうと思ったんだけど、意地悪なぞなぞか何か⁉︎  ってくらい意味不明ー!」

 マイカは絶望的に嘆き、大きく広げた手のひらを天井に向けた。

「私、文理選択は絶対に文系にするわー」

 そういえば、文理選択の希望調査票が配付されてたっけ。
 提出はいつまでだったかな……

「ユアは理系?」
「たぶん……?」
「なんで疑問形? 将来に直結することなんだから、しっかり考えなよ」
「そうだよねー」

 そうなんだけど……

 来年度なんて、まだまだ先のことのように感じられてしまうのだ。
 ましてや将来のことなんて、遥か彼方過ぎる。
 霞みまくって、何の展望も見えない。

「そんなことより数Aのノートだったよね」

 私は背負っていたリュックを前にかけ直し、チャックを開けた。
 借りたノートを先に入れてから、中をゴソゴソと探った。

「ええっと、どれだ?」

 私は、全教科同じノートを使ってしまっている。
 だから、自分で表紙に書いた科目名を、1冊ずつ調べていかないといけないのだ。
 
 あれって、誰だったっけ?
 ノートをすぐに見分けられるように、背表紙に色違いのシールを貼っていたの……

 あのとき、すごくいいアイデアだなって感心して、私も真似させてもらおうと思ったはず。
 ずいぶん前のことだ。
 にも拘らず、一向に自分ではやっていなくて、今もノートは見分けがつかないでいる。

 なんだか、私同じところで停滞してない?
 同じ毎日を繰り返してるだけで。
 これって絶対マズいよね?

 そう自覚したとき、偶然にも風が吹いた。
 心地よく私の前髪を揺らした。
 幸先よく感じられ、気分が揚がる。

 と、そこで担任の先生が教室に入ってきた。

 なーんだ。
 たまたま先生がドアを開けたから、風が入ってきただけか。

「はーい、朝のホームルーム始めまーす」

 マイカが小声で言った。

「数Aは5限目だから、あとでいいよ」
「ありがとう!」

 私は廊下側から2列目、最後尾の席に素早く座った。

 今日も普段通りに一日が始まる──



 その奇妙な出来事は、3時限目の英語コミュⅠで起こった。

「プリントを配ります」

 先頭の席から順々に後ろへ送られて、私の席に届くときには最後の1枚に……
 なっていなかった。

「ねえ、1枚多いから、前に戻して」
「ええっ?」
「ほら、2枚あるでしょ」

 私の前に座る岡田くんは、不思議そうにしていた顔を、ますます不思議そうにした。

「ふたり分だから2枚でちょうどじゃん?」

 ふたり分……?

「訳わかんないこと言ってないで、早くライムに回してやれよ」

 私の向こう側を見て、そう言った。

 ライムって?

 訳わかんないのは、こっちのほうだ。
 何言ってるんだ、と思いながら振り返って、岡田くんが見ているものを確認した。

「えっ、誰……」

 私の呟きに、最後尾だったはずの私の後ろに座っていた男子が顔を上げた。

「うわっ、とうとう気づかれたか」
「えっ、えっ、本当に誰⁉︎」
「そこ、静かにしなさい」

 先生に注意を受け、口を噤むしかなかった。
 けれども、私はパニックだ。

 生徒がひとり増えてても、先生は気にしないの?
 それとも先生は知ってたとか?
 あっ、岡田くんも知ってたんだし、そうかも!

 それなら、納得がいく……
 はずがない‼︎

 だって、それならどうして私は知らないっていうの?

 来る日も来る日も学校に来ている。
 授業をサボったことも、居眠りをしたこともない。
 クラスメイトが増えるという大きな情報を、聞き逃しようがないのだ。

 そういえば、先ほどライムくんとやらは、『とうとう気づかれたか』と言った。

 あれはどういう意味なのだろう……
 まるで以前からクラスいたみたいな口ぶりだ。
 それも、私から隠れて?

 とはいえ、今日は堂々と私の後ろに机を置いて座っていたのだ。
 これで気づかないほうがおかしい。

 ライムくんには疑問だらけだ。
 むしろ疑問しかない。
 休み時間になったら、あれこれ訊いてみよう。

 そう決めたものの、授業は永遠に続くんじゃないかというくらい長かった。
 ようやく終わったときには、ほっとした。

 やっと、このもやもやを解消できる!

 しかし、終了の礼をして振り返ると、机はもぬけの殻になっていたのだった。



「ずっといたじゃない。目立つタイプじゃなかったけどさー」
「『ずっと』って?」
「『ずっと』はずっとだよ」

 マイカが『何言ってんだか』という表情をしている。

 ライムくんは、3時限目の終了とともに消えていたが、4時限目の開始とともに戻ってきていた。
 そうしてこの昼休みの開始とともに、また消えていた。
 物音どころか動く気配すら感じなかった。

 なんか幽霊みたい……

 自分の想像に、背筋がぞくぞくした。

「ねえ、ライムくんってどんな人?」
「基本ひとりじゃない? 教室移動とかも」

 それを聞いた途端、教科書やノートを脇に抱えて、ひとり廊下を歩くライムくんの映像が、頭の中に映し出された。

「あと、体育祭では意外と足が速かった」

 クラス対抗リレーで、クラスカラーである緑のはちまきをつけたライムくんが、トラックを走り抜ける……

 まただ。
 マイカが話すと同時に、そんな断片的な映像が流れる。
 
 パズルのピースみたい。
 でも、ピース同士はつながらず、バラバラだ。
 それに、実際にそれらの場面をこの目で見た記憶がない。

 なら、この映像は一体何?

「そんなに知りたいなら、他人に訊いてないで、直接ライムくんに訊きなよ」
「できるなら、そうしたいけど……」
「ふーん?」

 マイカは目を弓なりにして、ニヤニヤしだした。

「線が細そうだけど、イケメンだしいいんじゃない?」
「やだっ、そんなんじゃなくてー!」
「がんばれ」
「だからー!」

 否定すればするほど、マイカはうれしそうにした。

 今日のところは誤解を解くのを諦めたほうがよさそうだ。
 ため息をひとつ吐き、あとはひたすらお弁当を食べることに集中した。



 話しかける前に、まずは幽霊でないことを確認したい──

 そこで5限目の終わりに礼をするとき、半身をひねり、いつも以上に深く腰を曲げた。
 そうして、先生ではなくライムくんに向かってお辞儀した。

 ライムくんは『礼』の号令に合わせて、頭をペコッと下げながら、そろっと後退していった。
 そうしてみんなが顔を上げた頃には、教室後方の出入り口を抜けていた。

 消えたわけではなかった。
 でも、道理で捕まえられなかったわけだ。

 こうなったら、奇襲作戦にでるしかない。
 残る6限目のあとは、そのまま帰りのホームルームへとなだれ込む。
 チャンスは『さようなら』のあいさつをするとき──

「さ……うわっ」

 “さようなら”の“さ”の字しか言わせなかった。
 後退を始める寸前に、ライムくんの腕を掴んでやったのだ。

 ほかのクラスメイトたちは、『何だ?』と、私ライムくんの様子を遠慮がちに窺いつつも、教室をあとにしていく。
 その中でライカだけは、にんまり笑顔で親指を立ててきた。

 けれど、返事なんてしていられない。
 その隙に逃げられたくなかった。

「話をしたいの」
「話……」
「話というか質問がいっぱいあるの!」
「痛っ!」
「あっ、ごめんなさい」

 ライムくんの腕を掴む手に、つい力が入ってしまった。

「もう逃げないから、離してくれない?」

 確かにライムくんは観念したのか、さっぱりした顔をしている。

 ゆっくりと拘束を緩めた。
 その間も、私はライムくんを見ていた。

 目すれすれの長さがある重い前髪。
 その下の目は切れ長の奥二重だ。
 そして、すっきりした鼻と薄い唇。

 なるほど、マイカが『線が細そう』と言ったのも頷ける外見だ。
 それと、まあ、確かにイケメンの部類に十分入る。

 けれど、やはり気になるのは、この顔に少しも見覚えがないということだ。
 どこをどう見ても、今日が初対面のはず……

「あのさ、そんなに至近距離で見つめられると恥ずかしい……」

 ライムくんが顔を赤くして照れ始めた。
 どうやら可愛いところもあるらしい。

「ねえ、さっき『もう逃げない』って言ったよね? てことは、私から逃げてたってこと?」
「……うん、そう」
「何のために? 私って、ライムくんにとっては、そんなに危険人物?」
「そういうわけではないけど……」
「けど?」

 煮え切らない返答。
 堪え性のない私は、こういう会話は嫌いだ。

「何なの? だいたいおかしいよね? クラスで私だけライムくんのこと知らないなんて!」
「それは僕がクラスメイトとして現れたのが、今日初めてだからで、」

 思わず、『はああ?』と大きな声が出た。

「なら、昨日までは何だったっていうの?」
「何でもなかった」
「意味不明過ぎるんだけど?」

 これって、哲学か何かの話?
 頭が痛くなってきた……

「ユアが僕の存在に気づいたから、クラスメイトに昇格したんだと思う」
「私? そこでどうして私が出てくるの?」

 それに、クラスメイトとして突如現れるまで、私がユアくんに気づいた事実はない。

「僕はこの世界の人間じゃないんだ」
「それってまさか、流行りの異世界転生? 私、転生者に会うの初めてなんだけどー!」

 『ぷっ』と噴き出してしまった。

 哲学者ではなく、まさかの転生者とは!

 私の笑いはなおも止まらない。

 ライムくんはムッとしてみせた。

「僕は訊かれたことに正直に答えただけ。僕だって困ってるんだ。こんな役割を与えられて!」

 ライムくんは、そう言い捨てると教室を出ていってしまった。

 線が細いんじゃなくて、堪忍袋の緒が細い?

しかし、確かにさっきの私の態度はいただけなかったかもしれない。
 明日、きちんと謝罪しよう。

 そうしたら、もう1度私と話をしてくれるかな……



「マイカー! 漢文の予習してきた?」
「朝から挨拶もなく、いきなりそれ?」
「おはよう! で、漢文は?」

 マイカは、眉根を寄せた。

「今日からは古文だけど」
「あれ、そうだったっけ? 永遠に漢文をやるような気がしてた」

 マイカはため息を吐きながらも、机の中からノートを引っ張り出してくれた。

「てことは、全く予習してきてないんだね?」
「へへ、実は。恩に着る!」

 『はい、はい』と呆れ気味のマイカに、手短にお礼を言うと自分の席に急いだ。

「あっ!」

 私の席の後ろに、いつの間にかライムくんが来ていた。
 ライムくんはこっちを一瞥しただけで、すぐにふいっと向こう側を向いてしまった。

 とりつく島はない雰囲気。
 あの様子では謝罪に時間がかかりそうだ。

 古典は2限目。
 早く写さなければならない。
 気持ちはすぐにでも謝りたかったものの、ライムくんに声をかけるのは後にすることにした──



 古典を切り抜けても、3時限目は体育で、その前後の休み時間は、更衣室で着替えをしなければならなかった。
 話をする時間が取れないまま、4時限目に突入。
 そうして午前中は過ぎ去り、すでにお昼休みになっていた。

 やりたいことができて初めて、学校生活は意外と自由にできる時間がないんだと知った。

 お昼はいつもマイカと食べることにしている。
 マイカをひとりにするわけにもいかない。
 無音で教室から出ていくライムくんの背中を見送った。

「たまにはユアの席で食べようよ」

 お弁当箱の入った小さなバッグを持って、マイカがやってきた。
 マイカはライムくんのイスを持ってきて、私の机に横付けした。

 それはごくごく自然な動作だった。
 まるでずっと前から、私の後ろにライムくんの席があったかのような──

 いつもと同じ、他愛もない話をしながらお弁当を食べた。
 マイカのほうは、すっかりライムくんのことに興味を失ったようだ。

 昨日あれからどうだったのか、訊かれることを覚悟していた分、肩すかしをくらった気分。
 でも、何も分かっていない上に、怒らせたままで放置しているこの状況では、報告できることはひとつもない。
 だから、それは有り難いことでもあった。

 ──お弁当はとうに食べ終わっていたけれど、おしゃべりはずっと続けていた。

「あっ!」

 マイカがぱっと腰を上げた。

「イス借りてた。返すね」

 お昼休みの終了時間ぴったりになって、ライムくんが戻ってきたのだ。
 マイカはそそくさと自席に帰っていった。

「あー……」

 咄嗟のことで、すぐには言葉が出てこない。

 ライムくんは、こっちを見ようともしなかった。
 拒絶されているのを感じた。
 それでも、このまま諦めてしまいたくない。

 廊下を歩いてやってくる5時限目の先生が、視界の隅に映った。
 教室の前方から入ってくるまで、残り数秒ってところだ。

「あとで! きちんと謝らせて!」

 そう伝えるだけで精いっぱいだった。



 授業が終わると同時にライムくんの腕を掴みにかかった。
 しかし、するっとかわされる。

「ああっ‼︎」
「そんなことしなくても逃げないよ」

 やっぱりまだ怒っていた。
 でも、私の顔を見た途端、

「ぶはっ! その顔!」

 ライムくんは噴き出した。

「どの顔?」
「眉毛って普通そんなに下がる? 悲壮感が漂い過ぎ」

 そうかもしれない。
 そうかもしれないけど……

「こっちは謝りたくて必死だっていうのに! それにしたって、他人の顔を笑うのは失礼なんじゃない?」
「あー、うん。なら、おあいこってことにして」
「おあいこ?」

 納得がいかない。

「ライムくんは自分から言い出したんだよ。その、自分は昨日初めて現れた、とか何とかって」

 それだけじゃない。
 『この世界の人間じゃない』とまで言ったのだ。
 だから私だって、『転生者』なんだって笑ってしまっただけなのだ。

「それに対してライムくんは今、女子の顔を笑ったんだよ⁉︎」
「僕の罪のほうが重いって?」
「当然」

 ふんぞり返って答えた。

「お姫様は厳しいね」
「『お姫様』⁉︎  やだ、そこまで威張ってるつもりはない、ない‼︎」

 形勢逆転のチャンスだと思って、つい調子に乗り過ぎてしまったらしい。
 せっかく仲直りできそうだったのに、水疱に帰すのはごめんだ。
 私は焦りまくった。

 と、ライムくんはまた噴いた。

「『威張ってる』とは思ってないよ。で、僕の罪のほうが重い分はどうしたらいい?」

 よかった。
 怒っている気配は微塵も感じられない。

「ゆっくり話したい。今日の放課後も、時間作って!」



「今日も先に部活に行っておいてくれる?」

 私とマイカはこう見えて書道部員なのだ。

 マイカは、私とライムくんを認めると、『オッケー』と頷き、軽やかに教室を出ていった。
 今日は、とんちんかんなエールを送ってくることはなかった。

 マイカの中で、私とライムくんがどう認識されているのかは気になるところだった。
 けれど、今はライムくんだ。

 私は後ろ向きに座り直した。

 昨日と同じ轍は踏みたくない。
 ライムくんが転生者だという設定は、とりあえず突っ込まず、まずは受け入れて話を進めてみようと決めた。
 笑うなんてのは、もっての外。

「ライムくんは昨日、すごく興味深いことを言ってたでしょ?」

 遣う言葉にも気をつけた。
 『突拍子もない』を『すごく興味深い』に変換したのだ。

「まあ、そうだろうね」
「『役割与えられて困ってる』っていうようなこと言ってたよね?」
「言った」

 どうやらライムくんは、自分のことを積極的には話したくないみたいだった。
 でも、昨日のような拒絶はしてこない。
 訊いたことには、簡単ではあるものの、一応答えてくれる。

「その『役割』は、私のクラスメイトになるってこと?」
「それもあるのかなー。クラスメイトになって……」

 ライムくんはそこで気まずそうに言葉を切ってしまった。

「その続きは? クラスメイトになって、それから何?」
「…………」

 ぷいっと横を向いたりはしなかった。
 けれど、視線を逸らされた。
 やや下方に……

 やはり拒絶とは違う。

 なら、何だろう……
 はっ‼︎
 もしかして、私の口元を見てる?

 私は慌てて手で隠した。

「まさか、私、歯に海苔が付いてる⁉︎」

 お昼に食べたおにぎりには海苔が巻いてあった。
 どういう訳か、私の歯は海苔が付きやすいのだ。

 いつもならマイカが指摘してくれるはずなのに、どうして今日に限って⁉︎
 あー、今はそんなことより、一刻も早く口をゆすいでくるしかない!

 私は、イスが倒れそうなほど勢いよく立ち上がった。

 すると、ライムくんまでなぜか立ち上がった。

「大丈夫、そんなことないっ」

 必死な形相──

 私たちは数秒見つめ合って、それから同時に噴き出してしまった。

「『歯に海苔』って何だよ⁉︎」
「お弁当食べたあと、よく付いてるから」
「そうなの? 明日から気にして見ておこっと」
「やめてー!」

 部活の始まる時間ギリギリまで笑ってしまったのだった。



 お願いしたときには、1回限りのつもりだった。
 それでも何となく、翌日も、そしてそのまた翌日も……となった。
 そうしていつの間にか、私のルーティンに、ライムくんとの放課後のお喋りが加わっていた。

 回を重ねる毎に、その内容は当初の目的からはずれていった。

 とはいえ、ライムくんが何者かなんて問い詰めなくたって、ただ一緒に過ごしているだけで自然と分かってくる。
 だったらそれでいいじゃない、と思う。

 ライムくんはひとりで行動することが多いし、私のことも最初は避けていたものの、実は人付き合いがいいってことだって、こうして分かったんだし。

 ──だけど、実はそれだけでない気がしてきている。
 気のせいにして片付けてしまうには、あまりにも私に向けてくる眼差しが優しい。
 そうして視線が交わると、さらに優しく微笑むのだ。

 ライムくんって、そうなんじゃないかな?

 一度期待してしまうと、無理だった。
 それは独りでに、どんどん膨らんでいった。
 そうしてあっという間に、私のことをどう思っているのか、はっきり訊きたくて我慢できないほどに大きくなってしまったのだった──



「今日は私部活が休みなんだ。たまには、学校の外で話さない?」

 平静を装っていたけれど、私はこれ以上はない! というくらいまで緊張していた。

 私がライムくんのことを分かってきているように、ライムくんも私のこと分かってきていると思う。
 だから、こんなふうに提案する意図にも気づくはずで……

「それは、無理」

 絶対にOKしてくれるはず、なんて自惚れていたつもりはない。
 それでも、こうもあっさり断られると、心臓がずしっと鉛のように重くなる。
 あれほど大きかったはずの鼓動も、もはや聞こえない。

「学校だけしか無理」
「意味分かんない……」

 そんな理由ある?

 断るにしたって、真っ当な理由がほしかった。
 悔しさがこみ上げてくる。

 そんな私にお構いなしに、ライムくんは質問を投げかけてきた。

「今の毎日に満足してる?」
「いきなり何……」

 はぐらかそうとしてる?

 でも、それにしては真剣そのものだ。

「いきなりでも答えてほしい」

 他人から見たら、平凡に映るかもしれない。
 だけど、困り事や不安もない。
 平和で気楽。
 少し前までは、その代わりに単調で──

 そんな毎日に、ライムくんという存在が現れたのだ。

「うん、まあそれなりに……」
「なら、僕には何も望まないで」

 そんなふうに突き放されると、途端にライムくんに対する不満の芽が吹き出す。

 私のことを好きだと思ったのは勘違いだった?
 だけどそれって、あんな特別みたいな笑顔を見せてきたライムくんのせいじゃない!

 それでもその不満をライムくんにブツけられないのは、ライムくんがこの世の終わりを思わせるほど、哀しそうにしているからだった。

 思わせぶりな態度を取って悪かった、とでも思ってるの?

 もはやライムくんのことが分からなくなっていた。

「あーあ、ひとりでわらび餅ドリンク飲みに行こっと。抹茶と苺ミルクのどっちにしようかなー」

 机の横のフックにかけてあったカバンを取った。
 そのときに、やや前傾姿勢になってしまったせいで涙が溢れ落ちてしまった。

 ライムくんは何も言わない。

 ライムくんの顔を見ないようにして、教室から逃げ出したのだった。



 翌日以降、ライムくんに話しかけることをきっぱりと止めた。
 以前と同じように、帰りのホームルームが終わると、マイカとともに部活へ行くようにした。

 マイカが私に何か訊いてくることはなかった。
 気を遣って、というふうでもない。
 ライムくんと私のことは、どういう状態であっても、そのまま受容しているようだった。

 ライムくんを視界に入れることも極力避けた。
 それでも教室にいる間は、振られたという事実に滅多刺しにされたキズがジクジクと痛んだ。

 ──そうして、あれからちょうど1週間が経った。

 いい加減なお辞儀とともに、「さようなら」と口だけ適当に動かす。
 続いて、机の横にかけてあったバッグを取って、さっさと自分の席を離れ……
 ようとしたところで、素早く腕を掴まれた。
 私よりもふた回りくらい大きな手に。

「ひゃっ!」
「今日は部活ないよね?」

 めちゃくちゃ心臓に悪い!

 私がやったことを、そっくりそのままやり返されただけにも拘らず、心臓がバクバクしている。

「ねえ、ないよね?」
「……ないです、はい」

 ライムくんは懇願するように言った。

「話をさせてほしいんだけど」

 とてもではないけれど、断れるような雰囲気ではない。
 素直に頷くことしかできなかった。

 マイカは、私に向かってひらひらと手を振って帰っていく。

「座ってくれる?」

 マイカに手を振り返しながら、でも場所はやっぱり教室なんだ、と思った。
 バッグを机の上に置き、後ろ向きに座った。

 教室から人がはけるのを待って、ライムくんがようやく話し始めた。

「まず言っておかないといけないんだけど、僕には何も望まないでほしいっていうのは変わらなくて」

 腰かけてしまったことを後悔した。
 今すぐにでも、いなくなりたかった。

「わざわざそんなことを宣言するために呼び止めたの?」
「違う! 『だけど今の状態はツラくて』ってことを言いたくて」
「そんなこと言われても……」
「ユアのこと、」

 ライムくんは一瞬ひるんだけれど、それから確かにこう言ったのだった。

「それでも好きなんだ」



 また部活前の短い時間、私たちは話すようになった。

 『何も望むな』と言っておいて、私のことは『好き』だと言うライムくん。
 正直、ズルいと思う。

 それでも話せなかったあの1週間を思うと、今の中途半端な状態のほうがずっとマシ。
 だから、私としてはデートに誘いたいところだけれど、言い出せないでいた。

 ライムくんからも当然誘ってくれることはない。

 これって前進してる?
 それとも、元に戻っただけ?

 もやもやを抱えながら、ライムくんの机を挟んで、今日も差し向かいで話をしている。

 ライムくんは時折、私の口元を見ることがある。
 そんなときでも、決して私の話を聞き流しているわけではない。
 聞いてくれてはいて、『うん、うん』と単調に頷くだけになる。

 聞きながら、別のことも考えているに違いなかった。
 ちょうど今だって──

「ライムくん!」

 唐突に名前を呼んでみた。

 ライムくんの考えていることは分かっている。
 そして、私もそれを期待している。

 真剣に目で訴えた。

 ライムくんは困ったような顔をした。

「……そんな目で見ないでくれる?」

 私はすかさずその単語を発した。

「キス、」

 ライムくんは目を大きく見開いた。

「してくれるなら目は閉じる」

 我ながら大胆なことを言ったと思う。

「私はライムくんとキスしたい」

 ライムくんも同じ気持ちでしょ?

「だから、僕には何も望まないでって」
「私はライムくんが好きだから、それは無理! 私のこと『好き』っていうのは嘘だった?」
「嘘じゃない‼︎」
「だったら、してほしい」

 脅迫めいたことを言ってしまった。
 けれど、どうにも止められなかった。
 せっかく両思いになれたはずなのに、友達のままで停滞していたくない。

 黙って見つめ合ったのち──

「……くそっ!」

 ライムくんらしくない乱暴な言葉が、小さく吐き捨てられた。

「そんなにしたくないなら、もういいよ」
「したいよ。だけど……」
「何が問題なの?」

 私はぎゅっと唇を噛んだ。

「やめなよ」

 ライムくんが、いつかの私以上に眉尻を下げた。
 そうして、指先で私の唇に優しく触れた。

「ユアを好きにならなければよかった……あー、違うな。ユアまで僕を好きになってくれたから、我慢できないんだ。僕ひとりがユアを好きで、ユアのことをずっと見ているだけでいたかった」
「どうしてそんな淋しいこと言うの?」
「僕の『役割』が、ユアのこの世界を終わらせることだから」
「何言って……」

 ライムくんが前屈みになって、顔を近づけてきた。

 話はあとでいい。
 自分の心臓の音を聞きながら、そうっと目を閉じた。

 ライムくんがささやくように言った。

「お姫様、お目覚めの時間だよ」

 目を閉じてほしかったんじゃないの?
 目を開けたほうがいいってこと?
 えっ、どっち?

 少し迷った結果、片目だけ開けてみようと思った。
 けれど実行する前に、優しく唇を重ねられたのだった。



 ──今度こそ、ゆっくりと目を開けた。

「あれ……?」

 ライムくんとキスをして、しあわせな気持ちでいっぱいだったはずが、それに相応しくない間抜けな声が出てしまった。

 でも、ここは、どこ……?

 景色が一変していた。
 それに私は横たわっていた。

 私、もしかしてベッドの上にいる?

 明らかに自分のベッドではなかった。
 それは、パリッとした真っ白なシーツとカバーで覆われている。
 ひと言で表すなら、“無味乾燥”だ。

 見回せる範囲だけ見回した。
 部屋は広く、ほかにもベッドがあるようだ。
 この姿勢では分からないけれど、ほかにも人がいる?

 あっ! と思った。
 よく知っている顔が私のすぐ横にあったから。

「ユア⁉︎  目が覚めたの?」

 お母さんだった。
 半狂乱になって泣き始めた。

「よかった、本当に!」
「お母さん、ここはどこ? 私、ついさっきまで学校にいたはずなんだけど」
「病院よ。覚えてない? 下校中に交通事故に遭ったのよ。あなたはずっと意識がなくて、入院していたの!」
「病院? 交通事故? そんなはずないよ。私、毎日学校通ってて、今の今まで……」

 お母さん目頭を押さえながら、『うん、うん』と頷く。

「夢を見ていたのね。眠っている間もツラい思いをしていなかったのなら、それは何よりだわ。学校もすぐってわけにはいかないと思うけど、また通えるようになるはずだから」
「その学校に……」
「うん?」
「……ううん、何でもない」

 私は口を噤んだ。
 違う、胸が圧迫され、もう言葉にならなかったのだ。
 代わりに涙が溢れた。
 こめかみを流れ、耳を濡らしたあと、ベッドカバーに染みを作った。

 お母さんは、私の涙を自分と同じ種類のものだと思っているに違いなかった。

「ユアが目を覚ましたこと、看護師さんに知らせるね」

 そう言って、お母さんはうれしそうにナースコールを押した。

 けれど、私には絶望感しかなかった。

 その学校に、ライムくんはいない──

 確認するまでもない。
 私はこのことを知っていた。


END