高校二年生の6月25日。
 私の目の前にクラスメイトの丹野 珀人(たんの はくと)が立っていた。その衝撃は声も出ないほどだった。
 教室でクラスメイトが自分の前に立っているだけで、何故ここまで驚くのか。それは丹野 珀人は教室の一番左側、後ろから二番目の席で今も普通に授業を受けているから。にもかかわらず、一番前の席に座っている私の前に立っているのだ。きっと意味が分からないと思う。私だって意味が分からない。今、この教室に丹野 珀人が二人いる。恐怖で声も出ない私に、目の前の丹野 珀人が声をかけた。

「あー! 伶菜は俺のこと見える感じ!?」

 見えないことにしたかったがもう遅いだろう。私の手はもう震えまくっているし、顔色も真っ青だ。

「っ……」

 声も出ない私を見ても、丹野 珀人は気にせず続ける。それは衝撃的な言葉だった。


「伶菜は今から半年後の12月25日に俺と付き合います! そして、今から1年後の6月25日に自殺する。そして、それを止めようとした俺も巻き込まれて死にます!」


 意味が分からない目の前の存在は、意味の分からない言葉を続けていく。


「だからさ、お互いのためにも付き合わない方が良いと思うんだよね。なので、俺は今から伶菜の彼氏作りを手伝います! 勿論、俺以外で!」


 この人の言葉を信じないことは出来るはずなのに、存在自体があり得ないので意味の分からない言葉すら信じてしまいそうになる。何とか返答しようとして、ここが教室であることに気づいた。誰もこの異常事態に気付いていない。私はピッと手を上げた。

「先生、具合が悪いので保健室に行っても良いですか?」

 突然の申し出に先生は戸惑いながらも、「ええ」と答えてくれる。そのまま「誰か付き添って……」と続けようとした先生の言葉を(さえぎ)る。

「一人で行けるので大丈夫です」

 私は教室から逃げるように飛び出した。私の背筋の伸びた挙手に笑い転げている丹野 珀人を睨みながら。

「あははは! やっばい、伶菜おもろ過ぎる。笑い死ぬ」

 教室から出ていく私を勝手に追いかけてくる丹野 珀人。この世に幽霊なんていないと思っていた。でも、目の前に見えているものを信じないことは出来ない。というか、丹野 珀人はまだ生きているのだから幽霊と言えるのだろうか?

「あの、丹野くん」
「ストップ。それだと教室の俺と区別つかないから、俺のことは珀人って呼んで。俺も伶菜って呼ぶし」
「じゃあ珀人。まずちゃんと説明して。意味が分からないから」
「その割には落ち着いてね?」

 それは……私が丹野くんに片想いしているからだろう。いつか告白したいと思っていたし、未来で付き合っていると言われれば嬉しい。私が自殺するとか意味の分からないことは置いておいて。そのことに目の前の珀人も気付いたようだった。

「あー、伶菜は俺のことが好きだもんな」
「勘違いしないで。私が好きなのは教室にいる丹野くん! 静かで勤勉で、優しい丹野くん。こんな煩くて上品さのカケラもない貴方は丹野くんもどきだから!」
「さっき珀人って呼んでくれたじゃん」
「丹野くんと別って意味で了承したの!」
「あいつも珀人なのに!?」

 こんな意味の分からない会話をしたかった訳じゃない。正直まだこの現実を受け入れられていないのも事実だ。しかし、震えていても状況は何も変わらないだろう。私は近くの空き教室に入り、適当な二つの椅子を向かい合わせた後にその片側に座る。そして、珀人を向かい側に座らせた。

「ちゃんと説明して」

 私がそう言い放つと、珀人が頭を掻きながら「そう言われてもなぁ」と悩んでいる。

「ちゃんと説明しろって言われても、さっき言ったことが全てだし」
「私が一年後に自殺するときに、珀人を巻き込むってやつ?」
「そう。飛び降りようとした伶菜の手を俺が掴んだけれど、運悪く俺も落ちて、そのまま二人とも死亡」

 淡々とそう言う珀人がどこか怖かった。夏に差し掛かり、教室はもうだいぶ暑いというのにそんなことも気にならない。むしろ冷や汗が出そうだった。そんな空気を切り裂くように珀人が両手をパンっと叩いた。

「ということで、俺以外のやつと伶菜が付き合えるように手伝いを……」
「嫌」

 私は珀人の言葉を遮って、はっきりとそう発した。

「なんでそんなあやふやのもののせいで、私が丹野くんを諦めないといけないの!?」
「はぁ……伶菜ならそう言うと思った。だから、ここで一つの案があります。俺と付き合わない?」
「は?」
「いや、だって俺と付き合えば俺と付き合うことはないじゃん?って俺、言っていることおかしいな」

 珀人がまたケタケタと笑っている。いつも静かに教室にいる丹野くんとはまるで性格が違う。それでも、話し方も雰囲気もやっぱり丹野くんだった。

「俺はもう幽霊?だし死ぬことはないから、伶菜に巻き込まれることもない。俺と付き合えば、万事解決」
「幽霊と付き合うって私の頭がおかしいと思われるじゃん」
「だから、一年間で良いよ。伶菜が死んだ日の6月25日を超えた後は俺と別れて好きに生きれば良いじゃん。とりあえずは6月25日の伶菜の自殺を止めたいだけだし」
「分かんないけど、6月25日以降に私が死ぬ可能性はないの? 自殺なんでしょ?」

 私の言葉に珀人が「とりあえず6月25日の運命を変えておけば大丈夫じゃね?」と軽く返す。

「それまでに俺が伶菜の死にたい気持ちを消すし!」
「まず、私いま全然死にたくないんだけれど」
「これから死にたくなるかもだろ?」
「そんな軽く言われても……ていうか、私は珀人と付き合ったことが原因で自殺したの?」

 珀人の言い方はまるでそんな言い方だった。ならば、私と珀人は付き合わない方が良いに決まっている。まだ6月で冷房のついていない教室は窓が全開になっていて、風が吹くと気持ち良い。風が吹かない時は、蒸し暑いくらいだけれど。今の汗はきっと冷や汗じゃない。もう私の気持ちはどこか落ち着き始めていた。

「知らねー。突然、飛び降りようとしたし。だから俺が原因じゃないかもだし、とりあえず教室にいる俺を巻き込まなければ良いと思う」
「私が好きなのは、教室にいる丹野くんなんだけど」
「俺だって丹野だけれど」
「まず性格が全然違うでしょ!?」

 私の言葉に珀人が上を見上げて、「うーん」と悩んでいる。珀人のイマイチ理由が分かっていないのかもしれない。そんな珀人の髪が窓から入った風によって少しだけ揺れている。悩むと上を見上げる癖は丹野くんそのものだった。

「多分だけれど、一回死んでるからヤケになっているのかも」
「ヤケ?」
「一回死んだから、静かにいるのも勿体無いねぇ的な?」

 珀人は見上げていた顔を勢いよく下げて、私と目を合わせる。そして、突然私の手をぎゅっと握った……というか、握ろうとした。しかし、スカッと珀人の手は私の手を通り過ぎていく。やっぱり珀人は人ならざるものらしい。しかし珀人はそんなことを気にもせず、私の手の場所にもう一度自分の手を重ねた。

「俺じゃ不満か?」

 幽霊に迫られるという稀有(けう)な経験。珀人と出会ってからまだ一時間も経っていないはずなのに無視したり無下(むげ)に扱ったり出来ないのは、私の好きな人と同じ顔だからだろうか。性格がどこか違っていても、付き合った後の丹野くんはこんな感じかもしれないとイメージがつく。それくらい珀人はやっぱり丹野くんだった。
 好きな人が私と付き合おうと言ってくれている。幽霊だけれど。だからつい聞きたくなってしまう。

「私のこと好き?」

 そんな面倒臭い女のような言葉に珀人はすぐに「当たり前に好きだけど」と返した。

「……」

 両手が顔を覆ったまま、何も話さなくなる私。

「伶菜? どうした?」
「うるさい。話しかけないで」
「あー、照れてる感じか。よく伶菜がやるやつだ」

 珀人は私の癖にすら慣れているらしい。本当に一年後の未来では、私と珀人は付き合っていたのかもしれない。そう信じたくなってしまう。そして、私の照れている行動に珀人は告白の了承を確信したようだった。

「俺と付き合う?」
「嫌」
「え?」

 想定外の断りの言葉に珀人が驚いている。

「だって、私が好きなのは丹野くんだもん」

 私は大事なことなので、もう一度大きな声で繰り返した。

「だから俺も丹野だって!」
「嫌だ! 幽霊じゃなくて、実物の丹野くんと付き合いたい!」
「わがままか!」

 丹野くんと気軽に話している、そんな気持ちになる。それが楽しくて、もう少しこの時間を楽しんでも良いと思った。それにシンプルに幽霊と付き合うのは怖い。それと、この状況も冷静に考えると怖いままだし。

「伶菜がどれだけ嫌がっても、俺は付きまとうからな!」
「ストーカーじゃん。ていうか怨霊じゃん!」

 教室に響き渡る好きな人と私の会話。他の人からは私の独り言に聞こえているのだろうけれど。

「でも丹野くんにすぐに近づいたり、告白したりするのはやめる。私が死ぬとして、丹野くんを巻き込む可能性があるなんて絶対に嫌だから」

 そう話した私の顔を珀人が(いつく)しむような目で見ている。悲しさを秘めているような、どこか暗さを秘めている瞳だった。教室の暑さすら忘れそうになる。それでも、風の音だけは耳に入ってくる感じが気持ち悪かった。

「珀人?」
「いやー、伶菜は眩しいなぁって。アホなだけかもだけれど」
「ちょっと!?」

 珀人の雰囲気はもう普通に戻っていた。
 夏の風が通り過ぎていく。冬の冷たさとは全く違う暖かさを含んだ風は、私の頬に擦れていく。そんな風すら幽霊の珀人はもう感じられないと思うと、どこか心がキュッと(しま)ったのが分かった。

 そして宣言通り、次の日もその次の日も珀人は私に付き(まと)ってきた。流石に家の中には入らないけれど、家の外に出れば、いつの間には珀人が()いて……いや、()いてくるそんな状況だった。珀人と出会って一週間、ついに私は高校からの帰り道に限界が来た。

「うざーーーーい!!」
「は!?」
「私が授業中に間違える度に爆笑するし、お弁当を欲しそうにじっと見てくるし、お菓子なんて食べようと手を伸ばしてきたじゃん! スカっていたけれど!」
「おまっ……幽霊な俺が可哀想だと思わないのか!」

 珀人の言い分を完全に無視して、私は珀人の目の前に立つ。人気(ひとけ)のない道を狙って珀人に話しかけたが、早くしないと誰か通るかもしれない。

「ちょっと私に付き(まと)いすぎ! 他の所にも行けー!」
「嫌だ、俺はずっと伶菜の近くにいたい!」
「っ! その顔で胸キュンなセリフを言うな!」

 本当は一日目からウザかったのに、すぐに言えなかったのはこの人が一応丹野くんだからだろう。珀人は悔しそうに「伶菜だって俺と居られて嬉しいだろ!?」と頬を膨らませている。

「……だって、まだ珀人を丹野くんだと思えない。確かに丹野くんなのは認めるし、好きな人だからそれ位分かる。でも、やっぱり今の珀人は私の知っている丹野くんじゃないの。一年間で人は変わるかもしれないけれど、それを受け入れられるのは一年間一緒にいた人だけだよ」

 その時、通行人が来て私はパッと口を(つぐ)んだ後に、言いすぎたかなと反省する。しかし、珀人の表情は変わっていなかった。静かに通行人が過ぎ去るのを待っている私の耳元まで近づく。

「だから、俺を知ってもらうためにずっと伶菜のそばにいるんだよ」

 珀人の声は他の人には聞こえないのだから堂々と言えば良いのに、わざと私の耳元でそう言うのだ。

「……やっぱり珀人は丹野くんだね」
「急に!?」
「そういう不意にドキッとさせる所がそっくり」
「え?」

 その珀人の「え?」は本気で理解出来ていない様子だった。自分がドキッとさせていることに驚いているんじゃない。もっと何か別のことに驚いている。

「珀人?」
「いや、俺と伶菜が出会ったのってもっと後だと思っていたから。もう既に俺と伶菜が話したことあるってことだろ?」
「覚えてないの!?」
「だって、俺が伶菜と初めて話した記憶はこれから先だし」

 これから先、それは今はまだ起こっていない未来でということだろう。つまり今の丹野くんに私と話した記憶がないってこと?
 私がその場でガクッと頭を上げて、落ち込んだ。

「伶菜!?」
「私にとっては運命的な出会いだったのに、まさかまだ丹野くんの中では私と話していないなんて……悔しいー!」
「なぁ、教えてくれよ。いつ俺と伶菜は話したんだ?」

 私は珀人を近くの木陰にあるベンチに座らせる。そして、隣に私も座った。私にとっての大事な思い出を話すのだから、座ってゆっくりと話したかった。
 歩道から少し離れたベンチの声は他の人には聞こえないだろう。歩道を歩いていく人達を気にせずに話すことが出来る。7月に入った気温はさらに上がり、木陰にいても汗は流れてくる。7月でこんなにも暑いのなら8月はどうなるだろう、と思ってしまう。そんな関係のないことが頭をよぎり、私は慌てて思考を本題に戻した。

「確か4月の上旬だったと思うけれど……」
「そんな前!?」
「私がね、シャーペンを落としたのを拾ってくれたの」
「そんなしょぼいことを覚えている訳あるか!」

 珀人が今まで聞いたことがないくらい大きな声を出している。珀人が幽霊じゃなかったら、きっと歩道を歩いている人にまで届きそうな声量だった。

「しょぼくない! あの日、全員急いでいたの!」
「急いでいた?」
「四月の身体測定の日で、身体測定は学年一斉に行うのにうちのクラスだけ先生の話が長くて移動が遅れたんだよね。で、身体測定は自分が回りたいところから回るスタイルだったから、遅ければ遅いだけ列が混んで待たないといけなくなるの。だから、もう私のクラスメイトはほぼ走っていた。だから私のシャーペンに気づく人もいなかったし、拾ってくれる人なんていないと思っていた。でも、丹野くんだけは止まって、拾ってくれて、『はい』って丁寧に置いてくれた」

 私は上を見上げて、木の隙間から覗く日光に視線を移す。しょぼい思い出なことは私が一番分かっている。それでも、その小さな気遣いをしてくれたのは丹野くんだけだった。

「で、その後になんて言ったと思う?」
「知るか!」
「自分なんだから分かるでしょ! 同じ状況だったら、なんて言う?」
「えー、『踏まれなくて良かったな』とか?」

 その返答を聞いて、やっぱりこの人は丹野くんなのだと確信した。あの日、丹野くんはシャーペンを渡した後に「踏まれなくて良かった」と笑ってくれた。どうせ珀人に言えば「どこがドキッとするんだよ!」と返されそうだから言わないけれど、普段あまり話さない人が急いでいる時に相手を気遣う言葉をかけてくれた。それがどれだけ難しいことか考えれば、すぐに分かることだった。

「で、正解は?」
「んー、忘れた!」
「やっぱりしょぼい思い出じゃねーか」
「私にとっては大切な思い出だから良いの」

 やっぱり珀人は丹野くんで、一年後にはここまで気軽に話せる仲になっていたのだろうか。そう考えると嬉しくなる。嬉しくなると同時に、そんなに幸せな私が何故自殺をするのか気になった。珀人はそんな嘘を絶対につかないだろう。

「ねぇ、本当に私の自殺の理由は知らないの?」
「知らねーって」
「うーん、イメージ出来ないけれど。御伽話みたいに他人事に感じる。でも、丹野くんを巻き込みたくはないな。ちなみに珀人の記憶で一番始めに私と話すのっていつなの?」

 そう簡単に聞いた私は、きっとまだ先のことだと思っていたからだと思う。しかし、珀人の返答は衝撃的だった。

「明日」
「明日!?」
「そう、でも話さないで。俺に近づかないこと。そういう話だっただろ? 一年後に伶菜の自殺に巻き込まれて、伶菜と俺は一緒に死ぬんだから近づかない方が良い」
「うぅ、確かに丹野くんを巻き込みたくないけれど……明日話すチャンスがあるのに無視するってこと?」
「そういうこと。代わりに俺と話してよーぜ」

 まだ悔しそうな私に珀人は「仕方ねぇから、明日の放課後は一緒にクレープでも食いに行こーぜ」と話す。クレープを食べることすら出来ない珀人がそう言うということは、よほど私を気遣ってくれているのだろう。その気持ちを無下(むげ)に出来なかった。

「いちごクレープ食べてやる」
「チョコソース付きだろ?」

 当たり前のようにそう返答した珀人に驚いてしまう。分かっていたはずなのに、私と丹野くんは本当に未来で付き合っていたのだと実感する。ベンチから立ち上がって太陽に照らされている珀人は、私の好きな人そのものだった。

 次の日は、朝から雨が降っていた。雨音が教室の中まで聞こえるくらい激しく降っている。まるで空が梅雨が終わったことに反抗しているようだった。授業が終わるまではいつも通り、違ったのは放課後。何故か珀人がクレープ屋に早く行きたがっていた。というか、教室を早く出たがっていた。少し疑問に思いながらも慌てて準備をした私は正面玄関でスマホを教室に忘れたことに気づいた。

「スマホ忘れたから取りに戻るね」

 珀人に近づき、小声でそう伝えた私は歩いていた方向を変えて小走りで教室に戻る。教室に戻ろうとした私の手を珀人が咄嗟(とっさ)に掴もうとしてすり抜けたことに気づかずに。
 教室に戻った私は、珀人がなぜ私を早く教室から出そうとしていたのかすぐに分かった。教室には丹野くんが一人で残って課題を解いている。きっと珀人はここで私と丹野くんが話すことを知っていたのだろう。本当は丹野くんに話しかけたかったが、珀人と約束した。それに私だって自殺なんてするつもりはないけれど、少しでも可能性があるとしたら丹野くんを巻き込みたくなかった。すぐにスマホだけ取って帰ろう、そう考えて私は教室に足を踏み入れた。
 自分の机まで早足で歩いていく。教室には私と丹野くんの二人しかいないので、感じが悪いことは分かっていた。心のどこかから「嫌われなくない」という感情が顔を出したのが分かった。でも、我慢しないと。一年後には私の自殺の原因も分かって、自殺も止められて、丹野くんと気兼ねなく話せるはず。その時に今日のことを絶対に謝ろうと心に決める。

会田(あいだ)さん、スマホ忘れたの?」

 きっと丹野くんは私が気まずくて早く帰ろうとしていると勘違いをして気を遣ってくれたのだと思う。丹野くんはそういう人だ。伶菜じゃなくて苗字で呼ばれているのに……名前呼びより距離があるはずなのに、話しかけてくれたことが泣きそうなほど嬉しい。無視出来ない、出来るはずがなかった。

「うん、そうなの。丹野くんは勉強中?」
「明日提出の数学の課題を終わらせてから帰ろうかなって」

 その時、教室に珀人が入ってきた。今の教室には丹野 珀人が二人いるのに、そのことに気づいているのは私と珀人だけだ。丹野くんに珀人は見えてない。声も聞こえていないだろう。

「伶菜! 早くそいつから離れろ! こんな所に居なくて良い!」

 珀人は焦ったように叫んでいるけれど、そんなことを丹野くんは知らずに会話を続ける。

「会田さんは明日提出の課題は終わった?」
「伶菜! そいつを無視しろ!」

 頭にこだまする二人の丹野 珀人の声。同じ声なのに、言っていることも全く違う。その違和感に頭がおかしくなりそうだった。七月の暑さも合わさって額に汗が滲んでいく。珀人がどれだけ真剣に私に話しているか分かっているのに、目の前の丹野くんはそれを知らない。ここで無視すれば、丹野くんの私への印象は最悪になるだろう。そんな感情で、私は「丹野くん」と取った。

「ううん、まだなの」
「そうなんだ。最後の問題が難しいから俺も不安でさ。もし良かったら一緒に解かない? この後、用事が無かったらだけれど」

 クレープが頭をよぎった。それでも、問題を解くのにかかるのは長くて10分くらいだろう。それにもう怖くて珀人の顔を見れなかった。すぐに教室を出た後に珀人に何を言われるのか怖くて、その場しのぎだと分かっているのに時間を伸ばしたかった。

「うん、じゃあ解いて行こうかな」

 そう言って、私は丹野くんの前の椅子に座った。問題を解いているのは僅かな時間だったが、珀人は何も言わずに教室の扉の前でただ私たちを見ていた。視線を感じるのに、珀人の顔を見ることは出来なかった。

 問題を解き終わって丹野くんと別れ、私は教室を出た。教室を出る時に初めて扉の前の珀人の顔を見ることが出来た。珀人はただ苦しそうに苛立つような顔で私を見ていた。私は廊下を歩いて、人気のない場所まで行く。そして、珀人と話そうと後ろを振り返った。

「珀人?」

 いつもどれだけ嫌がっても私の後をついてくる珀人は、後ろにいなかった。どれだけ待っても来なかった。それが珀人の怒りを表ししているようで、泣く資格がないと分かっているのに涙が溢れそうだった。先ほどまで気になっていた暑さすら気にならない。もう頭の中は珀人でいっぱいだった。

 珀人はそれからも暫く私に近づかなかった。たまに校内で見かけるから近くにいることは確かなのに、いつものようにそばに寄って来ない。私も自分から声をかけることが出来なくて、お互いに気まずい空気が流れ続けていた。
 休み時間も珀人のことを考え続けてしまって、でもどこか考えたくなくて、思考を止めるように目をぎゅっと(つぶ)る。その時、誰かが私の席の前に立ったようだった。

「会田さん、大丈夫?」

 パッと目を開けて顔を上げると、丹野くんが立っている。

「先生に数学の課題を集めるように言われたんだけれど……会田さん、体調悪い?」
「ううん、大丈夫! ごめん、すぐ出すね」

 私が机の中から提出用のノートを取り出していると、丹野くんがクスッと思い出したように笑った。その笑顔を見てしまえば忘れることが出来ないのではないかと思うほど、見惚れてしまう。

「俺、昨日会田さんと解いた最後の問題が一番自信あるわ。難しかったけれど、二人で解くと安心感が違うから」

 丹野くんはもしかして昨日私と一緒に問題を解いた時のことを思い出して笑ったのだろうか。会話の流れ的にそうだと分かる。好きな人が私と話したことを思い出して笑ってくれている、翌日も話しかけてくれる、それが嬉しすぎて堪らなかった。すぐに言葉を(つむ)ごうとした私は、目の前に広がっている景色があの日と……珀人と出会った日と同じことに気づいた。教室で私の机の前に丹野くんが立っている。あの日の景色と重なって、嫌でも珀人を思い出す。しかし、そんな私の思考を止めてくれるように丹野くんは続けた。

「会田さんって数学得意なの?」
「あー……えっと数学が得意っていうか、たまに好きな人が私に質問してくれる妄想をしながら勉強すると(はかど)るから嫌いじゃない感じ」

 私の返答を聞いて、丹野くんが「ははっ!」と吹き出すように声をあげて笑った。その姿が珀人にそっくりだった。珀人は一度死んだからヤケになって性格が変わったと言っていたけれど、親しくなった丹野くんは案外気軽な性格なのかもしれない。

「会田さんってこんな面白い人だと思わなかった」

 丹野くんが楽しそうに笑っている。ずっと見ていることしか出来なかった丹野くんが私の目の前で笑ってくれているのだ。気づいたら、私は丹野くんの手に触れようとしていた。

「会田さん?」
「あ、ごめん! 数学の課題を渡そうと思って!」

 そんな言い訳を取ってつけて、私は丹野くんに課題ノートを渡す。丹野くんは「先生に出してくる」と教室を出て行った。私の視線は自分の手に移る。丹野くんに声をかけられてビクッとした拍子に私は結局丹野くんの手に触れた。触れることが出来たのだ。すり抜けなかった。丹野くんは幽霊じゃないから当たり前なのに、視線を自分の手から離すことが出来ない。
 なんで丹野くんの手に触れようとしたかなんて明白だ。どこかで珀人のようにすり抜けて触れられないのではないかと思ったからだ。ただの疑問のはずなのに、その疑問が頭に浮かんだだけで珀人に申し訳なく感じる。早くいつも通り珀人と話したい。早く仲直りしたいのに、私の心の中には「丹野くんと話したい」という気持ちが芽生えてしまっている。そんな状態で珀人に謝れない。未来の私が自殺して、それに丹野くんを巻き込むなんて嫌だと思っていた。しかし目の前で丹野くんが笑うと、未来の起きるかも分からない可能性より丹野くんと仲良くなりたいという欲望が勝ってしまう。
 その日の授業は全く集中出来なくて、私はずっと答えのない自分の本心と向き合っていた。

 それからも私は丹野くんとたまに話すようになっていった。夏の暑さが(しず)まり、秋に差し掛かる頃には顔を合わせれば話しかけるくらいになっていた。珀人はそんな私と丹野くんを遠くから見ているだけ。あの日から私たちはお互いが見えているのに話さない、そんな関係になってしまった。

「会田さんってたまに凄い真剣な顔をするよね」

 ある日、偶然授業で同じ班になったクラスメイトの女の子にそう言われた。

「悪い意味じゃなくて、前に凄い真剣な顔で廊下を見ていたから何かあるのかと思って私まで見ちゃった」
「あー、多分ぼーっとしてただけだと思う」

 笑って誤魔化す。あの日から珀人は教室に入らずに廊下から私を見ている時がある。だから、私は珀人と目を合わさないように授業に集中していたつもりだったのに……それすら出来ていなかったらしい。珀人と距離を置けていると思っていたのに。このままでは嫌だと思いながらも、私は丹野くんと話せるようになった現状を手放したくないのだ。
 そんな感情を抱きながら、放課後になっても悩んだままだった。

「危ない……!!」

 その声で瞬間的に立ち止まる。ほぼ無意識に立ち止まっていた。目の前に車が通り過ぎていく。信号は赤く光っていて、自分がどれだけ危険だったかを考えるだけで冷や汗が(にじ)んでくる。
 珀人が私の元に走ってきて私を抱きしめようとした。それでも、無情にも珀人の身体は私をすり抜けるのだ。その瞬間の珀人の表情はどこか絶望していて、それでいて自分を嘲笑(あざわら)っているようだった。その表情を見て、私は無意識に珀人の名を呼んでいた。

「珀人……!」

 私の声で目を合わせた珀人に私はなんと声をかければ良いか分からない。言いたいことは沢山あるはずなのに、言葉がすぐに出てこない。

「なぁ、伶菜。今の俺と教室の俺ってそんなに違う? 俺じゃあいつの代わりにならない?」

 珀人は今どんな気持ちで話しているのだろう。

「伶菜にしか見えなくて触れることも出来ない俺じゃ駄目?」
「ちがっ!」
「でも、あいつじゃだめなんだよ。教室にいる俺じゃお前を助けられずに一緒に死ぬだけなんだ。それとも、俺の言っていることが信じられない?」

 珀人が嘘をついていないと分かっていたはずなのに、きっと私は心のどこかで自分は自殺なんてしないと思っていた。だって、いま全く死にたくないのだから。

「俺が伶菜と一緒にいるからあいつと話さないで」

 珀人はいつだって素直に私に気持ちを伝えてくれているのに、私は珀人から向き合わずに逃げてばかり。そんなのは嫌だった。

「私ね、珀人が目の前に現れた時、本当はとっても怖かったの。手を上げて教室から出た後に珀人がついて来なければ、そのまま逃げようと思っていた。でも、珀人は当たり前みたいについてきてくれた」

 秋の風は夏と違う。蒸し暑さの代わりにどこか涼やかさを含んでいる。そんな風が嫌いじゃなかったはずなのに、今は自分の髪を揺らすこの風が鬱陶(うっとう)しかった。髪が目にかかることが嫌なほどに珀人と目を逸らしたくない。

「いつだって珀人は追いかけてきてくれていた。私はそのことに甘えていたから。だから今度は私が追いかけるよ。珀人がどれだけ逃げても絶対に追いかけ続けるから」

 もう絶対に珀人と目を逸らさない。

「それと私の自殺の原因を見つけるまでは、丹野くんと話さない。でも、私の自殺を止められたら丹野くんと話すことを許して。もし自殺の原因を突き止められなくても、無事に1年後の6月25日を終えられたら丹野くんと話すことを許して。珀人が良いって言ってくれないと……」

 すると、突然珀人が私の言葉を遮った。

「あー、待って。そこは大丈夫。俺、6月25日に消えるし。6月25日以降は伶菜に干渉出来ないから」
「はぁあああああ!?」

 先ほどまでの言い争いや真剣な雰囲気を全て忘れてしまうほど、珀人の言葉に驚いてしまう。

「そんなこと今まで言ったことなかったじゃん!」
「言ったら、伶菜は絶対に気にするじゃん!」
「気にしない人なんていないでしょ!」

 その時、初めて会った日に私が付き合う期間について問いかけた時の珀人の言葉が頭をよぎる。

「だから、一年間で良いよ。伶菜が死んだ日の6月25日を超えた後は俺と別れて好きに生きれば良いじゃん。とりあえずは6月25日の伶菜の自殺を止めたいだけだし」

 あれはもう一年後にはいなくなるから出てくる言葉だったんだ。思い出から私を引っ張り出すように珀人は続ける。

「俺は伶菜を死なせないために戻ってきたんだ」

 そう話す珀人の目の奥には強い意思がこもっていた。

「6月25日の伶菜の自殺を止めたいだけ。それに巻き込まれる俺も。だから俺に近づかない方が良い」
「じゃあ、とりあえず私の自殺の原因を突き止めるまでは近づかない」
「だからなんで制約付きなんだよ! あっちの俺には一生近づくなって!」
「一年間で消えることを秘密にしていた珀人の言葉なんて聞きたくない!」

 たまに歩いていく通行人の視線が気になるけれど、そんなことはもう気にしていられない。そう言いつつも、やっぱりちょっと気になってしまって私は声のボリュームを少し落とした。

「俺が一年間で消えようと関係ないだろ!」
「あるよ! 珀人のこと好きだもん!」
「っ……!」

 珀人が私の突然の告白に驚きながらも、耳が赤くなっている。私だって珀人が好きだと口に出して初めて気づいた。というか、頭の中がこんなにも珀人でいっぱいなことに気づきたくなかったのだと思う。

「お前が好きなのは今を生きている俺だろ?」
「どっちも好きなの!」
「浮気じゃねぇか!」
「どちらも丹野 珀人なんだから良いでしょ!」

 他の人からしたら意味の分からない会話だろう。それでも、私たちはそんな意味の分からない会話を息が切れるまで続けた。

「だーかーらー! 私は意見を曲げないから!」
「伶菜っていつもどうだよな。毎回、折れるのはいつも俺の方だし!」

 そんな会話を続けて数分、ついに私が吹き出した。それに釣られて珀人も笑う。その時間が楽しくて、私はさらに珀人のことが好きになっていく。笑い疲れた後に、やっと落ち着いた。

「ねぇ、珀人。私ってなんで死ぬんだろう。今、こんなに幸せなのに」
「知らねーって」
「本当に何も心当たりないの?」

 私がじっと見つめても、珀人は視線を逸らさなかった。私たちの間に暫くの静寂が通った。

「本当に知らねー。少なくとも、俺に話さないくらいには信用してなかったんじゃねぇの? それか俺のせいで死にたくなったのかもな」
「そんなわけない!」
「分からねぇじゃん。少なくとも理由が分かるまでは、あっちの俺に近づかないこと。それで良いだろ?」
「うん……でも、本当に私ってなんで死んだんだろう? 珀人が私の手を掴もうとしたんだよね? その状況をもっと詳しく聞いても良い?」
「良いけど、伶菜って怖い話好きじゃないじゃん」

 確かに怖い話は好きではないが、自分が死ぬ話から目を逸らすのは良くないだろう。それに苦手というほどじゃない。実際に幽霊である珀人を受け入れられた位には(きも)()わっていると思う。

「良いから話して」

 私が声を震わせずにそう言うと、珀人は私から目をそらして近くの公園を指差す。

「あそこの公園、人が少なそうだし行こーぜ」

 それはあの公園で話してくれるという意味だろう。秋に入って暑さが落ち着いてきた季節なのに、誰もいないということは相当人気のない公園なのだろう。公園に入ってその理由がよく分かるほど、整備も行き届いていないし薄暗かった。しかし、噴水の周りは綺麗な方で、周りを囲っている石に腰掛けた。

「で、私はどこで死んだの?」
「高校の近くに大きな橋があるじゃん? あそこから川に飛び降りた。手を伸ばした俺は伶菜の腕を掴んだけれど、間に合わなくて一緒に落ちてった。で、気づいた時には一年前の教室で伶菜の前に立っていたんだ」
「じゃあ、なんで自分が後一年で消えるって分かったの?」
「んー、流石になんとなく分かるっていうか。あの6月25日を超えてこの世に残っていられると思えないんだよね。実際俺はあの日に死んでいるわけだし、本物の俺もいるから。それまでの期限付きだってなんとなく教室で伶菜の前に立った時に感じた」

 確かに丹野くんがいるのに、幽霊である珀人がずっと現世に残っていればおかしなことになるかもしれない。次に自分が飛び降りた時間も大体知りたいと話した私に珀人「18:30」位だった気がすると話した。ならば、少なくとも6月25日の18:30はあの橋に絶対に近づかないようにしようと心に決める。

「ねぇ、それともう一つ気になっていたことがあるんだけれど」
「んー?」
「珀人っていつから私のことが好きだったの?」
「は!? 急に何!?」
「だって私が丹野くんを好きになったのはシャーペンの時だけれど、珀人はその時はまだ私のこと認識していなかったんでしょ?」

 私が問い詰めると、珀人がぼそっと呟いた。

「放課後に教室で話した時……」
「数学の課題を解いた日ってこと!? なんで!?」
「問題を一緒に解いた時間が楽しかったっていうか……」

 珀人のピュアすぎる返答に顔が真っ赤になってしまう。珀人の顔も真っ赤なので、もし他の人に見えていたらただのおめでたいカップルに見えるだろう。

「とりあえず俺が伶菜と一回話したら好きになるのは分かっていたから、あの日を避けたかったんだ」
「じゃあ、もう丹野くんは私のことを好きってことだよね!? うわー、緊張する!」
「ポジティブか!」

 噴水の音など耳にも入らずに笑っている珀人から目が離せない。これで好きじゃないなんてあり得ないだろう。私はどうやら丹野 珀人という人物を二度も好きになってしまったようで。先ほど気づいたその事実を再認識して、さらに顔が赤くなる。そのことを誤魔化すように私は話題を変えた。

「とりあえず、私はなんで自分が飛び降りるのか考えてみる。色々調べてヒントだけでも見つけたいし」
「俺も手伝うし、何でも話せば良いから」

 私たちは立ち上がって、公園を出る。もう日は暮れかけていた。

「珀人、手繋ぐ?」
「俺は繋げねーけど」
「重ねるだけでいいの! それで幸せだから!」

 珀人が私の手に自分の手を重ねるようにして歩き始める。温もりは伝わってこないのに、手が熱くて仕方ないくらい恥ずかしかった。日が暮れる前に帰りたかったのに、もっと帰り道が続いて欲しいと願ってしまう。その矛盾すらも楽しく感じていた。

 それから私は何故自分が自殺をするのか考え始めていた。
 6月25日だから期末テストが始まるくらいだろうか? 勉強が嫌すぎた? 私に限ってそれは考えられない。
 珀人の話だと12月25日に私と珀人は付き合うはず。クリスマスに付き合うなんてロマンチック……じゃなくて、もしかして珀人に別れようと言われたとか? いや、私の性格で一度振られたくらいで諦めるとは思えない。じゃあ、私は何が起きたら死にたくなるだろうか。考えても全く思いつかない。その日は考え過ぎて疲れたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
 それからも私は自分の自殺の原因を考えたり、家族や友達に聞いたりしてみた。

「ねぇ、私って何が起きたら死にたいと思うかな?」

 突然の質問に全員が「え、死にたいの?」と戸惑っていたし、家族には「不謹慎なことを言うな」と怒られた。皆んな心配してくれたので、「全く死にたくない」と弁明するので精一杯だった。

「伶菜、帰ろーぜ」

 放課後、教室の外の珀人に呼ばれて私はスクールバッグを持って教室を出る。帰り道も私は頭を悩ませたままだった。

「私が死ぬ理由が分からないよー。丹野くんと話さないように避けているけれど、申し訳なくて死にそうだし。え! もしかして丹野くんに申し訳なさ過ぎて死ぬってこと!?」
「んなわけあるか!」
「もうすぐ11月になるし、そのまますぐに12月にもなる。12月25日に私と丹野くんは付き合っていたんでしょ? 今は丹野くんを避けているから関係ないと思うけれど」

 私は珀人の隣で腕を伸ばしながら、「じゃあ、今年のクリスマスもぼっちだー!」と叫んでしまう。すると、珀人がパッとこちらに顔を向けた。キョトンと不思議そうな顔をしている。

「何でぼっち? 俺がいるじゃん」
「っ……!」

 こんなセリフにキュンとしない方が無理な話だろう。またしても両手で顔を隠している私を見て、珀人が笑っている。

「ま、焦らずに考えようぜ。別にこのまま伶菜が死にたくならないように俺が頑張れば良いだけの話なんだし」
「そうだけれど……」
「自殺の原因を探すより、死にたくならないように楽しんだ方が良くね? と、いうことで!」

 珀人が私の前に来て、ニコッと笑った。いつも見ている珀人の笑顔なのにドキッとしてしまう。恥ずかしくてまた両手で顔を隠そうとした私を止めるように、珀人は言葉を続けた。

「伶菜、デートしよう!」

 珀人が右手を前に出して、ピッと人差し指を立てる。

「なんと! 俺は他の人に見えないから遊園地の入場料は一人分で良いです!」
「私が一人で遊園地に来たやつだと思われるじゃん!」
「そんなやつ別にいるって」
「そうだけどー!」
「クリスマスに行こうぜ。俺が伶菜のクリスマスを楽しいものにしてやるから!」

 そんな格好良いことを言われて断れる人などいるのだろうか。クリスマスに一人で遊園地に行くなんて恥ずかしいと思っているのに、周りの目など気にならないほどに珀人とクリスマスを過ごしたかった。
 冬用の制服を着ている私の前に立っているのは、夏服のままの珀人。それが珀人は幽霊だと示しているようで。12月になれば私はコートを着て、マフラーも手袋もつけるだろう。それでも、珀人は夏服のまま私の隣にいるのだと思うと息がしづらくなるような苦しさを感じた。

「伶菜? どうかした?」
「ううん、何でもない。クリスマスが楽しみだなって思ってただけ!」

 私は前に立っている珀人の隣に移動する。6月25日に珀人がいなくなるとしても、どれだけ寂しくても、今は珀人の隣を歩きたかった。珀人に言われた通り、自殺の原因を考えるより今の日々を楽しんで自殺しようなんて考えないようにすれば良いのかもしれない。そう思うだけで心が軽くなるのが分かった。

 12月25日は雪が降っている日だった。
 コートにマフラー、耳当てまでつけている私の隣を珀人は夏服のまま歩いている。それでも、そのことが気にならないほどに珀人と遊びに行く遊園地が楽しみだった。

「伶菜、ジェットコースター乗ろうぜ」
「ジェットコースターは三回乗る」
「俺が倒れるわ!」

 好きな人とはしゃいでいる現実がどうしようもなく楽しくて、不安など全て吹き飛んでしまいそうだった。
 出店の匂いや遊園地の空気感を味わえるだけで楽しくて、アトラクションに乗っていない瞬間すら楽しかった。実際は隣に珀人がいてくれるから楽しいだけかもしれないけれど。

「伶菜、寒くねーの?」
「カイロを二枚貼っているから大丈夫! 珀人は?」
「俺は夏服でも風邪引かねーから」
「そうじゃなくて、寒くないかって聞いているの! 風邪を引かなくても寒いものは寒いでしょ!」

 私の問いを聞いて、珀人は何故か私を愛おしそうに見ている。そして「まず寒くないし、今は暑いくらい」と意味の分からない返答を返された。よく見ると、珀人が恥ずかしそうに耳を赤くして私から目を逸らしている。

「珀人って照れるとすぐに耳が赤くなるよね」
「うるせ」
「ツンデレだ」

 他愛のない会話すら珀人となら楽しくて仕方がない。
 ジェットコースター二回に乗り、コーヒーカップに乗って、ランチを食べて、またジェットコースターに乗った。その後に珀人は幽霊のくせにお化け屋敷でビビっていたし、童心に帰ってメリーゴーランドにも乗った。太陽が赤くなって傾き始める頃、私は最後に観覧車に乗りたい!と我儘を言った。
 遊び尽くした遊園地を上から見下ろせるのが楽しみで、乗ってすぐに窓の外を見てしまう。

「見て! さっき乗ったコーヒーカップがあんなに小さい」

 しかし珀人は窓の外ではなく、私の顔を楽しそうに見ていた。

「コーヒーカップを見てよ!」
「伶菜の嬉しそうな顔を見ている方が楽しい」
「急にそう言うことを言わないで!」

 そう言う不意をついて私をキュンとさせる所は、やっぱり丹野くんっぽくて。私が丹野 珀人に弱い理由だと思う。
 しかし珀人はそう言いながらも観覧車が頂上に来る頃には私と一緒に窓の外を見ていた。

「あれ、伶菜の家じゃね?」
「見えるわけないでしょ!」
「引っ掛からなかったか」

 頂上から見える太陽は沈みかけているのに、眩しいほどに辺りを赤く照らしている。先ほどまで見ていた景色が全て赤色に染まっている。嫌な赤色じゃなくて、ずっと見ていたいような景色だった。それでも太陽は沈んでしまうし、観覧車もずっと乗っている訳にはいかない。地上に着いた観覧車から降りて、私たちは遊園地を後にした。
 日が暮れてしまった帰り道も、珀人と話していると寂しく感じない。

「でも、やっぱり一番はジェットコースターだったな」
「え、コーヒーカップでしょ」
「伶菜がジェットコースターに三回乗りたいって言ったのにコーヒーカップを選ぶなよ!」

 ずっと隣を歩いている珀人の方に意識が向いていた。それは珀人も一緒だったのだと思う。だから私たちは偶然通りかかる人物に気付けなかった。

「会田さん?」

 名前を呼ばれて、反射的に振り返る。

「丹野くん……」

 最近、丹野くんを避けていたので話すのは久しぶりだった。丹野くんは当たり前に珀人とは違って冬服だった。校内なら心の準備も出来ているのに、会うと思っていなかった場所で突然話しかけられると冷静な判断が出来ない。

「会田さん、女の子が一人で夜に出歩くのは危ないよ。早く帰った方が……」

 普段なら優しい丹野くんだと思う所だろう。でも、今の私の隣には珀人がいるのに。丹野くんに珀人は見えていないのだから、丹野くんは何も悪くない。悪くないと分かっているのに、胸が締め付けられるようだった。珀人の顔を見ることが出来ない。

「でも、会田さんに今日会えて良かった」

 突然の丹野くんの言葉に私は返答出来ない。

「最近、避けられている気がして不安だったんだ。クリスマスに会田さんに会えると思ってなかったから嬉しい……って、急にこんなことを言われても怖いよね。ちゃんと伝えたいことから伝えないと」

 どうして私は珀人の大事な言葉を忘れていたのだろう。珀人はちゃんと伝えてくれていたのに。初めて話した放課後に丹野くんは私を好きになっていた、と。どうして忘れていたのだろう。丹野くんはもう私のことを好きでいるという大事すぎることを。
 ドクドクと鳴り響いている心臓がときめきだけとは思えなかった。むしろ今はその先の言葉を言わないで欲しいと願っている。



 しかし、変えられない運命というものはあるらしい。



「会田さん、好きです。俺と付き合ってくれませんか?」

 その言葉に返答など出来るはずがなかった。そのまま丹野くんは続けていく。

「急にこんなことを言われても困ると思うから、ちゃんと言わせて。放課後に一緒に数学の課題を解いた時が楽しかったんだ。それだけだと思うかもしれないけれど俺にとっては結構救いで……」

 その言葉の瞬間、突然、隣にいる珀人が叫んだ。

「伶菜を救いにするな!!!」

 しかし、そんな大きな叫び声すら丹野くんには届かない。丹野くんは耳を赤くして……珀人が恥ずかしい時と同じ顔をして、言葉を紡いでいく。私にどんな理由があっても、相手の告白の途中に逃げるという選択肢はなかった。そこまで最低にはなれない。

「俺、ずっと家のことで悩んでいて……勉強に追われ続けていたんだよね。父親が厳しい人でほぼ強制のように勉強していて、楽しい時間を最近過ごしたことがなかったんだ。それで、家にいても辛くて教室で課題をしている時に会田さんが来たんだ。なんか久しぶりに一日が楽しく感じて、きっと会田さんとならどんな時間も楽しく過ごせる気がする。会田さんと課題の合間にしたくだらない話が、それくらい純粋に楽しかったんだ」

 それは初めて聞いた丹野 珀人の苦しみだった。珀人はこの話を全て省力して、「私と課題を解いた時間が楽しかったから」と言ったのだろうか。例え珀人が隠したかったことでも、ずっと好きだった丹野くんが打ち明けてくれた本心を無視出来る人間になりたくなかった。
 12月25日に丹野くんは私に告白した。この出来事は運命は変えられないということを示しているのかもしれない。私は6月25日に本当に自殺するのだろうか。それでも今この世界を生きているのは私で、運命を変えられないなんて思いたくなかった。そして、目の前の丹野くんに誠実に向き合わない人間にもなりたくなかった。私は深く息を吐いて、前を向く。せめて目を合わせたまま伝えたかった。

「丹野くん、今はまだ返事ができないけれど待っていてくれませんか? あと半年。こんなことを言うのは絶対に間違っているって分かっているけれど、今は丹野くんに真剣に向き合うことが出来ないから答えられない」

 珀人と約束した。6月25日までは丹野くんに出来るだけ近づかない、と。
 私は隣にいる珀人に笑いかけた。この世界で珀人の姿を見ることが出来るのが……声を聞くことが出来るのが私だけだというのならば、私だけは絶対に珀人を大切にする。
 私は珀人の手に自分の手を重ねた。例え通り抜けて触れられないとしても、そばにいることを伝えたかった。珀人の表情も丹野くんの表情も怖くて、確認することが出来ない。それでも、この静寂を破ったのは「丹野くん」だった。

「会田さんは冗談でそんなことを言う人じゃないから、きっと何か事情があるんだろうね」

 私は顔を上げて、丹野くんの表情を確認する。悲しそうだけれど、諦めた顔ではなかった。

「待つよ、半年。これでも初恋だから」

 丹野くんはやっぱり珀人で、珀人はやっぱり丹野くんだと確信するほどに、その時の丹野くんのその表情は珀人と重なって見えた。丹野くんは「今日は遅いし送らせて。その後はちゃんと待つから」と私を家まで送ってくれた。私は前のように珀人が着いてこないのではないかと気になって確認したが、今日はちゃんと着いてきている。暗くて表情は見えないけれど。丹野くんは私の家まで着くと、そのまますぐに帰っていく。私の言葉を信じて待ってくれるという意味だろう。
 そばにいる珀人を見ると、苦しそうなのにどこか安心しているような不思議な顔をしていた。私はそんな珀人の表情を無視して、両手を上げる。

「珀人、ハイタッチ!」
「え?」
「12月25日に私と丹野くんは付き合わなかった。運命を変えたんだよ。だから、ハイタッチ!」

 珀人は何故か呆然としたまま、目に涙を浮かべていく。初めて見た珀人の涙だった。

「俺は運命を変えられたのかな」
「変えられたに決まっているでしょ! 絶対、私は珀人がいなかったら丹野くんの告白を秒でオッケーしてたもん!」

 珀人の言いたい気持ちは分かる。実際に丹野くんは12月25日に私に告白した。何かが間違っていれば、私と丹野くんは付き合っていただろう。運命の強制力に私たちはまだ怯えているのかもしれない。それでも運命を……決まっていた未来を変えられたことに価値があるはずだ。それに……

「ねぇ、珀人。なんで私が丹野くんの告白を受けなかったと思う?」
「それは俺との約束が……」
「それもあるけれど一番は違います! 今、丹野くんと付き合ったら二股になるからです!」

 珀人は何も言わずに俯いた。それでも珀人の耳が真っ赤だから、俯いていても伝わる。それだけで十分だった。
 その日の月は満月じゃないのに堂々と光っているように見えて、「満月じゃなくても月って綺麗だな」と思ってしまう私がいた。

 それからの日々はどこか早く感じて、いつの間にか私は高校三年生になっていく。
 三年生になり、ネクタイの色が変わる。それでも桜が舞っている景色を眺めている私の隣には変わらず珀人が立っている。

「珀人」

 そう名前を呼ぶだけで私に笑いかけてくれる珀人が本当に6月25日に消えてしまうなんて受け入れたくなかった。今は4月の上旬で、6月25日まで3ヶ月もない。にもかかわらず、私はまだ死にたいという感情が一切浮かんでいなかった。これから死ぬ原因が起きるのか、それとも珀人と出会って何かが変わって死にたいと思わなくなったのか。珀人の言葉が頭に流れる。

「自殺の原因を探すより、死にたくならないように楽しんだ方が良くね?」

 きっと私の自殺を止めたとしても珀人は6月25日には消える。ならば今を、珀人が隣にいるこの時間をただ楽しみたかった。
 風が吹くと、桜の花びらが沢山舞い落ちていく。桜はこんなに簡単に花びらが落ちてしまうのに、木を見上げれば幹が見えないほどピンク色で染まっている。私の前では珀人が「桜って本当に綺麗だよな」とはしゃいでいる。

「いなくならないでよ」

 そう小さく呟いた自分の声が耳にこだまする。珀人に聞こえない声で呟いたのは私なのに、どこか届いて欲しいと願ってしまう。そんな自分勝手な感情に嫌気が差した。

「伶菜! 早くしないと遅刻するぞ」

 私は名前を呼んでくれる珀人のそばまで駆け寄った。

 6月25日に向かっていく時間を止めることは出来ない。5月に入れば焦りは大きくなり、何も変わっていないようで心の焦りだけが大きくなっているようだった。

「自殺の原因を探すより、死にたくならないように楽しんだ方が良くね?」

 その言葉に納得していたはずなのに……それはつまり何もせずに6月25日を待つことになるのではないかと不安になってしまう。時間は進んでいくのに、何の対応もしないことが正しいとは思えなくなっていた。丹野くんは私の言葉を信じて、半年も待つと言ってくれた。なのに私が死ぬわけにはいかない。しかし何か手がかりはないかと思っていても、死にたくなる理由がそんなに簡単に見つかるはずはなかった。目星もついていないのだから、可能性は無限に存在するだろう。

「珀人、死にたくなる理由って何だと思う?」

 ある日、私はついに珀人にそう問いかけた。誰もいなくなった放課後の教室は、どこか特別感を秘めている気がする。

「伶菜が自殺する理由を考えてるんだろ? そんなの分からないんだから、俺が言った通り今を楽しめば良くね?」
「でも、対策はどれだけでもしておいた方が良いと思う」

 私は自分の席に座り、隣の席に珀人が座るように(うなが)す。珀人が私の隣の席に座ったことを確認してから、私は会話を再開した。

「人って何があると自殺するんだろう……」
「人それぞれだろ。悩みだって違うし」
「そうだけれど……じゃあ、珀人は何か悩みはある?」

 そう聞いた後に私は「しまった」と後悔した。丹野くんの告白で聞いた話を考えると、珀人だって同じ悩みを抱えていたに決まっているのに。そんな私の表情を珀人は読み取ったようだった。

「いいよ、気を遣わなくて。実際、俺の悩みは両親だし。特に親父。勉強を押し付けて俺の将来まで決めてくるから、めっちゃストレスだった」

 珀人は私の隣の席に座ったまま、何も書かれていない黒板を真剣な目で見ている。

「だからこの状態になれて良かった所は、両親に会わずに伶菜と一緒にいられることかな。家に帰らなくても怒られないって最高。それにずっと伶菜のそばにいられるし」

 いつも元気に笑っている珀人の心の奥を見た気がした。珀人の目は黒板を映しているようで、きっと生きていた間の思い出が巡っているのだろう。

「珀人が生きていた時に付き合っていた私は、珀人の両親のことを知っていたの?」
「さぁ、どうだったっけ。言った気もするし、言っていない気もする」

 そんな大切な話を私にしたかどうかを覚えていないなんてあるのだろうか。それでも珀人が気にしている様子は一切なかったので、私はそれ以上は追求しなかった。深く聞きすぎるのも良くないだろう。だから、一番伝えたいことだけを言葉にした。

「私はずっと珀人の味方だからね」

 その瞬間、珀人の顔が悲しそうに(ゆが)んだ。そのまま顔を俯けてしまう。私は慌てて自分の机から立ち上がって珀人に近寄る。

「珀人、大丈夫!?」

 しかし、珀人は顔を上げずに苦しそうに手で顔を押さえている。ポタッ、ポタッ、と珀人の前の机に涙の跡が出来ていく。

「珀人! 急にどうしたの!」
「……何でもない」
「何でもないはずないでしょ!」

 しかし、私がどれだけ問い詰めても珀人は苦しそうに涙を溢すだけだった。何も答えてくれない。
 声を殺して泣き続ける珀人に私はどうすれば良いか分からない。

「ねぇ、珀人。何が苦しいのか教えて、絶対に力になるから。私は絶対に珀人から離れないから」

 珀人の力になりたい、それは紛れもない本心だった。だから珀人も頼ってくれると思っていた。思い込んでいた。

「伶菜、じゃあ一つだけ頼みがある」
「なに?」
「絶対に俺の力になろうなんて思うな」

 突然の突き放された言葉に、私は泣きそうになる。珀人が泣いているから、余計に泣いてしまいそうで。

「なんで珀人の力になりたいって思ったら駄目なの。私じゃ頼りないってこと?」

 否定して欲しかった。それだけを願っていたのに。

「そうだよ」

 短くそう答えた珀人に私は絶望して、珀人を置いて教室を飛び出した。
 高校から離れたくて、靴を履き替えて校舎から逃げるように出ていく。涙が止まらなくて、悔しくて堪らなかった。珀人の力になりたかっただけなのに、珀人はそれを拒否した。私じゃ力になれないとはっきりそう言った。涙を拭う気すら起きなくて、ボロボロと地面に涙を落としていく。
 その日はどうやって家に帰ったのか自分でも分からなかった。気づいたら自宅に着いていた自分を見て、「馬鹿みたい」と自分を嘲笑(あざわら)った。

 また私と珀人は言葉を交わさなくなってしまった。
 あの頃と違って、6月25日には珀人が消えてしまうと分かっているのに素直になれない。何とか勇気を出して珀人に声をかけようと思っても、私が声をかける前に珀人はどこかに逃げてしまう。そんな時間が続くと、これ以上傷つきたくなくて、このまま珀人と会えないまま終わっても良いとすら思ってしまう。そんな最低な考えが頭に浮かぶ自分にすら腹が立った。
 自分なりに私の自殺の原因を調べても何も分からないし、珀人のこともあって集中出来ない。

 結局私の自殺の原因も分からないまま、珀人と話すことも出来ないまま、私は運命の6月25日を迎えた。

 いつも通り登校して、教室に入る。
 まだ気持ちの整理がついていないまま、朝のホームルームが始まっていく。担任が出席を取っている最中も、私の心は晴れないままだった。しかし少なくとも私が今日自殺することはないだろう。だって6月25日を迎えても、全く死にたいと思っていないのだから。きっと運命は変わっている、そう信じたかった。

「あれ、丹野は休みか?」

 担任の言葉が教室に響いた。私は丹野くんの席に無意識に視線を向けていた。
 丹野くんの席には誰も座っていない。普通なら風邪を引いたかなで終わるだろう。しかし、この6月25日という日に丹野くんがいない。その事実だけで違和感を感じるには十分だった。私は教室を飛び出して、校内を走り回る。しかし、どこを探しても珀人もいない。いつもなら校内のどこかで時間を潰しているはずなのに。
 6月25日だからもう消えた? いや、珀人の話から考えると私と珀人が死んだ18:30までは消えていないはずだ。例え私がそう願っているだけだとしても、珀人はまだ消えていない。そう私の直感が、珀人と過ごした日々が叫んでいる気がした。一限目の開始を告げるチャイムで私は校舎を飛び出した。何の目星もない。それでも足を動かして探すしかなかった。

 探しても、探しても、見つからない。入れ違いになっているかすら分からない。丹野くんの自宅も行きそうな所も全部探しているつもりなのに見つからない。どこにいるか分からない人と会うことがこんなに難しいなんて。
 一限目に飛び出したはずなのにもう昼を過ぎている。行き違いの可能性も考えて、何度も同じ所を走った。それでも見つからなくて、気づいたらいつの間にか太陽が傾き始めていた。傾き始める太陽を見て、私はあの景色を思い出した。

 クリスマスに観覧車の上から見た景色。

 私は走っていた方向を変えて、あの遊園地に向かう。
 あの場所が正解だと、あの場所にいると信じたかった。遊園地の入園料を係員に押し付けて、急いで中に入る。クリスマスの時のような余裕があるはずはなかった。
 観覧車に向かって一直線に走っていく。観覧車の前には、私の高校の夏服を来た男子生徒が立っている。

「珀人!」

 そう叫んだ私の声に珀人が振り向いた。

「伶菜、どうして……」

 珀人は私が来ると思っていなかったようだった。それでも珀人の目には私への愛おしさが含まれていた。その珀人の瞳を見て、私は確信する。珀人は私を突き放すようなことを意味もなくする人じゃない。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。

「ちゃんと説明して! 何を隠しているの!」

 珀人なら何か知っている気がした。しかし珀人は私が問い詰めても、呑気に観覧車を見つめていた。

「珀人!」

 しかし、珀人は観覧車を見ているわけではなかったらしい。珀人の視線は観覧車の手前にある時計に向いていた。

「ねぇ、伶菜。あの時計は何時を指している?」
「え?」

 時計は18:00を過ぎた所だった。ここからでは私が自殺したという橋まで30分はかかるだろう。つまり、私の自殺は阻止出来たということ?

「私の自殺を止められたの……?」

 そう言った私に珀人は悲しそうに笑った。

「ごめんね、伶菜。俺は伶菜にある嘘をついたんだ」

 珀人が時計に向けていた視線を私に移す。

「12月25日に俺と伶菜が付き合ったのも本当。6月25日に俺と伶菜が死んだのも本当。嘘は……」


「自殺するのが『丹野 珀人』で、巻き込まれたのが『会田 伶菜』。伶菜は俺の手を掴もうとして、一緒に落ちた」


「俺の目的は、『丹野 珀人』の自殺に『会田 伶菜』を巻き込まないこと。『丹野 珀人』に『会田 伶菜』を近づけないこと。俺は伶菜の命だけを助けるために戻ったんだ。それだけが後悔だったから。伶菜を巻き込んで死んだことだけを言葉にならないほど後悔した」

 珀人の今までの言葉が頭を流れていく。珀人との会話の意味が繋がっていく。

【だからさ、お互いのためにも付き合わない方が良いと思うんだよね】

 嘘つき。本当は私のためだけだったんだ。

【ねぇ、珀人。私ってなんで死ぬんだろう。今、こんなに幸せなのに】
【知らねーって】

 私の自殺の理由を珀人が知っているはずがない。だって、自殺するのが私じゃないのだから。

【俺は伶菜を死なせないために戻ってきたんだ】

 馬鹿。珀人は本当に馬鹿だ。自分の命は諦めているくせに私が死ぬことは許さない。

【伶菜、じゃあ一つだけ頼みがある。絶対に俺の力になろうなんて思うな】

 それは自殺する丹野くんを助けようとするなという意味だったのだろう。

 泣きながら珀人を睨んでいる私を珀人はまだ愛おしそうに見つめている。

「伶菜、本当にごめん。伶菜は俺が自殺するって知ったら絶対に助けようとするから、伶菜の自殺に俺が巻き込まれたことにしたんだ」

 珀人の目には涙が浮かんでいた。

「俺を恨んで、伶菜」

 そう言った珀人の言葉に私は返事をしなかった。代わりに遊園地を飛び出す。

「私はまだ諦めないから! 丹野くんを死なせない! 絶対に死なせたくない!」

 諦めてやるものか。珀人がどれだけ自分のことを諦めようと、私だけ絶対に諦めてやらない。大好きで堪らない丹野 珀人という人物を守りたかった。まだ18:30になっていないのに諦めることなんて出来るはずがない。
 遊園地の前のタクシー乗り場に向かう。タクシーを捕まえて、私は汗だくでボロボロの身体で「急いでください!」と何の罪もないタクシー運転手を急かした。
 橋の近くに着いたら、ここで一生分の体力を使い切っても構わないというほど全速力で走っていく。間に合わないなんて嫌だった。橋の上には今にも飛び込みそうな丹野くんがいた。

 私が橋に着いた瞬間、時刻が18:30を指す。丹野くんは橋から飛び降りた。


「っ……!!」


 手を伸ばした私は何とか丹野くんの腕を掴んだ。しかし橋の上に引き上げようとしても、身長も体重も違うので今にも耐えられなくて一緒に落ちそうだった。

「会田さん!? なんで……!」
「死ぬなんて許さないから!」

 その時、珀人も私を追いかけて橋まで来たようだった。

「伶菜! そいつの手を離せ!」

 珀人が私の手を掴んで無理やり引き剥がそうとしても、すり抜けて触れることが出来ない。珀人が悔しそうに顔を(しか)める。

「っ! 伶菜、お願いだから、俺を見捨ててくれ! 伶菜が生きてさえいればそれで良いんだ!」

 腕はもう限界で今にも千切れそうだった。それでも、この手を離すことを絶対にしたくない。

「うるさい! うるさい! うるさい! 丹野くんも珀人もうるさい! 私はただ……!」



「ただ『丹野 珀人』と一緒に生きていたいだけなの!!」

 

「それ以上でも以下でもない! 私から逃げられると思わないで!」

 愛する人に生きていて欲しいと願って何が悪いの。ただ生きていて欲しいだけなのに、それすら叶わないとでもいうの?
 もし誰かがそれを許さないというのならば、私は意地でも(あらが)ってやる。


「丹野くん! もう一度言う。私は貴方に生きていて欲しいだけ! それ以上を望んでいない!」


 その時、ふと腕にかかる力が軽くなった。
 ゾッとしたのも束の間、丹野くんが橋の欄干(らんかん)を掴んでいることに気づいた。私が引っ張る力と合わせて、丹野くんが橋に上がろうとしてくれている。人生で一番力を込めて握った腕は……掴んだ腕は持ち上がって、丹野くんの身体が橋の上に戻る。
 その安堵と同時に私は泣き喚いた。

「うわぁあああ! 怖かったぁ……本当に怖かった……!」

 数十秒ほど泣き喚いた後に、私はキッと二人の丹野 珀人を睨んだ。

「どうして死のうと思ったの!?」

 その問いに答えたのは珀人だった。丹野くんは何も答えずにただ呆然とその場に座り込んでいた。

「伶菜と付き合ってから両親との不仲をいつも伶菜に相談していた。伶菜は毎回『私はずっと珀人の味方だから』と言ってくれていたんだ。でも6月25日に親に学生寮のある高校に転校させるって言われた。そこは厳しくて、誰かと連絡を取ることも出来ない監獄みたいな所だって。親とちゃんと話せば良かったのに俺にとっての希望だった伶菜から離れることになって、衝動的に死のうとしたんだ。それで最後に伶菜に『死にたい』と連絡したら助けに来た伶菜を巻き込んだ」

 珀人は透け始めていた。それは珀人がもうすぐ消えることを表しているようで。

「だから強く願ったんだ。伶菜を助けて下さいって。そしたら一年前に戻って、伶菜の前に立っていた。前の俺の性格だとまた伶菜を巻き込むと思った。だから前の人生よりずっと素直に伶菜と接することにした。一年間だけでも素直に笑顔で伶菜と過ごしたかったから」

 珀人が「後はさっき話した通り」と付け足した。珀人の後ろの景色が透けて見えている。もう珀人の輪郭は消え掛かっていた。沢山伝えたいことがあるのに、慌ててしまって喉が詰まったように言葉が出てこない。それでも、やっと絞り出した言葉は一番伝えたい本心だった。

「私は『丹野 珀人』が好き。大好き。本当に…大好きな、だけ、なの……!」

 顔は涙でボロボロだし、言葉も嗚咽で詰まっている。それでも、もうちょっと。これだけは伝えさせて欲しい。どうか間に合って。


「この一年間が人生で一番楽しかった!!!」


「でも、これからもっと楽しい時間を丹野くんと過ごせるように頑張る。私の隣は『丹野 珀人』しかいないから」


 消えていく珀人の声が最後に聞こえた気がした。



「伶菜、幸せになって」



 6月25日、珀人は消えた。


 私は目の前で座り込んでいる丹野くんに合わせて、しゃがんだ。



「丹野くん、私と一緒にこれからを生きてくれませんか?」



「今日死のうと思ったのなら、もっと素直に一緒に生きよう。ご両親に反発する時は私も付き添ってあげる!」



 その日、私が差し出した手を丹野くんは取ってくれた。それだけで十分だった。これで一緒に歩いていけるのだから。




 一年後。

 私は橋の上に一輪の花を置いていた。
 そんな私の隣には今日も丹野くんがいる。

「丹野くん、帰ろ!」
「伶菜、そろそろ俺のことを珀人って呼んでくれても……」
「うーん、私にとって丹野くんは丹野くんで、珀人は珀人なの!」
「???」

 ごめんね、丹野くん。この意味は伝わらなくても良いの。ううん、むしろ伝わらないで欲しい。

 あの一年間は私と『珀人』だけの思い出だから。



【6月25日、彼は。】



fin.