【προσομοίωση】
その夜は、観測史上最大級の獅子座流星群が街に降りそそいだ。
「シミュレーションプログラム『φαντασία』を開始します」
名前のないオペレーターAは、博士の指示に従ってスイッチを押す。
そして、静かに両手を組み、心のなかで流れ星に願った。
ーー滅びゆく人類の希望の種。遠い先の未来で、彼と彼女の恋が、どうか叶いますように……。
……………………………………………………………………………………………………………
【 シミュレーションプログラム『φαντασία』 ルール 】
被験者は眠りから覚めるまでの間、叶わぬ恋の疑似体験を繰り返す。
①最愛の人は永い眠りにつく
②最愛の人と言葉を交わすことはできない
③万が一、失恋せずに恋が成就してしまいそうな場合は緊急ブレーキ機能が作動する。
……………………………………………………………………………………………………………
Όλες οι ανθρώπινες αρετές αυξάνονται και ενισχύονται φυσικά με την πρακτική και την εμπειρία τους.
…θ
……ςςς
………φφφφφφ
【ύπνος】
①最愛の人は永い眠りにつく
2026年 N県の最果てに建つ医療研究施設。
百瀬美月とはじめて会ったのは、病室だった。
ある日、僕が先に使っていた病室に美月が運ばれてきた。
特殊な治験のために準備された部屋は、必要最小限の設備以外はなく色味も白と灰色ばかりの無機質な無菌室だ。
僕と同じ年頃の女子。僕と彼女を隔てるのは透明なビニールのカーテンだけで、普通の十代の男女に対してだったらありえない配慮のなさだと思う。だけど、この施設の人たちは「大丈夫」だと判断して、自分たちの業務の効率化を優先したんだろう。
なぜなら僕は文字通り寝たきりの超がつくほど病弱な体質で、美月は意識が戻らず眠り続けている。
だから、ふたりとも普通の十代なら当たり前にできることができない。
僕と同室になってからもずっと、美月は静かな寝息をたてて眠り続けた。
奇妙な相部屋生活から2日が経った昼下がり、そのときは突然に訪れた。
隣のベッㇳでずっと眠っていた美月が、ふいに目を覚ますと、咳き込みながら勢いよく上半身を起こした。
左のベッドでぼんやり横たわっていた僕は、思わず「あっ」っと声を漏らして、手元のナースコールを押す。
斜め後ろから見える美月は、長い黒髪が照明の光を綺麗に反射して、流れる水のような艷やかさで彼女の細い肩に垂れている。
やや振り返るようにして、美月が僕の方をみた。
華やかな整った顔立ち。
彼女と目が合った瞬間、僕は時が止まったような気がした。
ーーなんて綺麗な人なんだろう。
長い入院生活のせいでいろんな感覚が麻痺していた僕の心の中に、一瞬、爽やかな風が吹き込んだ。
そのあとすぐ、今度は胸の奥が熱くなって、その熱が頬までせり上がってくる感じがした。
そんな僕のことを美月は観察するようにしばらく眺め、口をひらく。
「あなたは天使ですか? それとも死神?」
美月は、さっきまでの昏睡状態の影響で、意識がまだ混濁しているみたいだった。
彼女の黒目がちな瞳は、猫の目のように美しく凛と澄んでいる。
僕は美月を安心させようと思って、慣れない笑みをつくった。
「大丈夫です。僕もあなたと同じ普通の人間なので。事前に主治医から説明があったはずだけど……僕たちは人工冬眠状態の治験モニターに選ばれたんですよ」
ほら、と言って僕が視線をななめ上に向けると、美月もつられて視線を上げた。
銀色の点滴スタンドに吊るされた透明な容器のなかで、淡い水色の液体がなみなみと揺れている。
その水色の液体は、細いチューブをつたって僕の腕から僕の体内に入りこみ、絶えず何らかの効果を作用し続けているはずだった。
僕の点滴容器には『α』彼女のものには『β』と太いマジックで書いてある。
「……私また死にぞこなったんだ」
美月は悔しそうにため息をついたあと、両手で頭を掻きむしった。
相変わらず僕は、ベッドに横たわったままで彼女を見守ることしかできない。
こんなとき普通の男子なら、自然な仕草で彼女に寄り添うのか、あるいは敢えて空気を読まずに能天気に彼女を励ますのかもしれない。
ーーじゃあ、起き上がれない僕にできることは、なんだろう。
「あの、僕の名前、安堂ワタルっていいます。ここで会ったのもなにかの縁ですし、悩みとかあればお話を聞くことぐらいはできます。そういえば喉乾いてません? お水飲みます? そこの水差しにレモン水が入っているんです美味しいですよ職員のトダさんという方がたまにつくってくださるんですけどトダさんにはふたりの息子さんが居て犬まで飼っているんですドーベルマンのでかい犬なのにチビなんて名前なんですよ意外すぎますよねチビなんて」
早口でまくしたてた僕は、苦しくなって息継ぎをした。
そこでふと気づく。あれ、なにを言おうとしてたんだっけ。
美月は呆気にとられた顔で僕の話を聞いている。
やばい。キモいやつだと思われたかも。
だけど、僕の予想はあっさり裏切られて、美月はベッドに横たわると僕に微笑みかけた。
「百瀬美月です、よろしく。安堂さん、私の悩みはものすごく闇が深いですよ。それも、プロのカウンセラーが何人もノイローゼになっちゃうくらい。そんな私をあなたがカウンセリングしてくれるんですか? 安堂さんは有資格者なんでしょうか? そうは見えないけどなぁ、だって私と同じ高校生くらいでしょ?」
「今は無理だけど……将来は心理カウンセラーになりたいんです。人工冬眠状態から目覚めたら病気が治った身体でたくさん勉強して、今の僕みたいに社会の影でひっそり生きているような人たちを助けたい」
美月がつまらなそうに欠伸をして目をこする。
「へぇ、そうなんだ。頑張ってね」
自分の夢を雑に扱われたような気がして、ちょっと傷ついた。
彼女は美人ではあるけど、性格と口が悪い。僕はささやかな仕返しをしようと思って彼女に聞くことにした。
「百瀬さんは、人工冬眠状態から目覚めたら何をしたいんですか?」
美月の表情が一瞬で曇る。
「そうだね……私を捨てた親友、男、あと親に復讐したいな」
「それは難しいかもしれません。実験が終わるのは100年後。僕たちは歳を取らないけど、たぶん知り合いはみんな死んでます」
「そっかぁ想像しただけで清々しい未来だね。じゃあ……私の将来の夢は、患者として安堂くんの心を折りに行くってことにしよっかな」
そう言って美月は僕に背を向け、布団にくるまった。
彼女にかける言葉が見つからないけど、彼女が現代社会を拒否していることだけは痛いほど伝わってくる。
しばらくすると、ここ数日で聞き慣れた彼女の寝息が聞こえてきた。
次はいつ会話できるんだろう。
人工冬眠状態の実験が成功したら、僕たち被験者は100年後の世界で目覚めることになっている。
実験成功の果実として、僕をはじめ現代の医療で治せない不治の病を患った数人の被験者たちが、未来の医療で治療を受けて生き続けることができる。実験に協力する代わりに、費用は国がもってくれることになっているはずだ。
お互いに意識しなくても、僕と彼女は奇妙な運命共同体になる。
当たり前だ、この実験の被験者は、いわゆる「浦島太郎状態」を体験することになるんだから。
急に息が詰まった苦しさで乾いた咳をした。あとからあとから咳が込み上げる。息を止めて我慢してみても、そのすぐあとに、より激しい苦痛をともなう咳がでて、そのたびにアバラ骨のあたりが鋭く痛んだ。
左手で胸を強く押さえながら、空いている手を窓にかざしてみる。
自分のやせ細って筋張った腕と、青白い肌が、いかにも不健康そうで嫌になる。
施設の中庭にあたる外の世界では、太陽の陽射しをたっぷり浴びた桜が、枝葉の先に豊かな蕾を実らせている。遠くに見える芝は、春の風をうけて瑞々しく輝いて揺れ、その様子は僕よりもずっと健全な存在感をまとっているように見えた。
映画や小説に出てくる元気な同級生は遠い憧れ、「誰かが作った登場人物」として見てる分には、心が揺れることはない。だけど……ただの植物が、健気で生き生きとした生命力に溢れていると、ふとしたときに嫉妬して、その度に惨めな自分の無力さを感じた。
人工冬眠状態の後の未来について、正直不安はあるけれど、それ以上に期待のほうがずっと大きい。
睡眠中、最先端の医療を受けることができるんだし、運がよければ、眠っている間にすべての治療がおわる。
彼女の寝息が大きくなった。
いつの間にか、彼女の寝顔が僕の方を向いている。
偶然に、今まで以上に彼女の顔が近くまできていた。
長いまつ毛、白い肌がほのかに色づく頬、通った鼻筋、自然と口角が上がっている艷やかな唇。
僕たちを隔てる透明なビニールカーテンに右手をのばす。
肩から指先までめいいっぱいのばすと、爪の先がカーテンに触れた。
起き上がれなくても、ペンを使ったら届きそうだ。
僕は、サイドテーブルに置いてあるカルテのバインダーに視線をむけた。
いつも検査員の人たちが使っているペンが、バインダーに差してある。
今度はペンの先で、カーテンをめくろうと試みる。
あと少しのところで態勢を崩したとき、病室のドアが開いて何人もの施設職員が入ってきた。
僕はあわてて手を引っ込める。
白衣の職員たちは、僕に目もくれず、ドア側に置いてある美月のベッドをとり囲んだ。
そのなかにはトダさんの姿もある。
「ちょっと百瀬さんは、他の被験者たちより薬が効きすぎてませんか?」
「確かに。彼女の薬物依存症と、なにか関係があるのかもしれませんね」
「このまま人工冬眠状態の処置を始めましょうか……」
「そうしましょう」
その声を合図に、職員たちがごそごそと処置の準備をし始めた。
白衣の背中のせいで、彼女たちが美月に何をしているのかうまく見えない。
不意に、白衣の三人が輪から外れてビニールカーテンをくぐり抜け、僕の方に来た。
「安堂さん、さっきは呼び出しコールしてくれたのに、来るのが遅くなってごめんなさいね」
いつもの笑顔で話しかけてくるトダさんの手には、酸素マスクが握られている。
「もしかして、ひどい頭痛とか吐き気とかあった?」
僕は首を振った。
初めて見る若い職員が「失礼します」と言いながら、僕の袖をまくりあげ、むき出しになった僕の肩に消毒液をこすりつける。
もう一人のベテラン職員は、銀のトレーから太い注射器を取り出して、真剣な眼差しでチェックしている。
大人しくトダさんにマスクを着けられながら、僕は話した。
「百瀬美月さん、さっき起きてたんです。またすぐ寝ちゃったんだけど、すこしだけ僕と話しましたよ」
トダさんが驚いて手を止めた。
「え? それは夢じゃないかしら。百瀬さんは事故の後遺症で会話ができないはずなのに」
「そう、ですか……」
事故の内容がすごく気になったけど、僕にそれを聞く勇気はない。
彼女が言った「死にぞこなった」で、なんとなく察しがつくし、本当にそうならこの人たちに聞いても教えてもらえないだろうと思った。
「だけど、100年後。元気になった安堂さんと百瀬さんたちが楽しく笑い合えるようになるといいですね。みなさんが眠っている間、私達も全力を尽くしますから安心してください」
消毒でスースーする肩に、点滴用の小さな針が深く突き刺さる。
僕は嫌な緊張でつばを呑み、目を逸らした。
針の後ろに、先程の太い注射器がドッキングする。
そこからゆっくりと白濁した薬が注入されていく。
「はい。じゃあ安堂さんも、入眠しますよ。ゆっくり深呼吸してください。吸ってー、吐いてー」
トダさんの明るい声色が、かえって怖い。他の二人も満面の笑みだ。
「安堂さんも私達に続いて言ってみましょう。せーのっ! 吸ってー」
僕は促されるまま、口をひらいた。
「吐いてー、すっテー……ハイ、テぇ。」
急に崩れていく自分の声が、聞き慣れない他人の声みたいな不気味さで耳に入ってくる。
猛烈に頭が重くなって呂律が回らない。
気がつくと、身体は指の先まで鉛のように重く固まり、ベッドに沈んでいる。
まばたきをしようとして瞼をとじた瞬間、僕の意識はとんだ。
【…θ】
百瀬美月と会ったのは、森の中だった。
ある日、いつものように僕は白馬に乗ってキツネ狩りに出かけた。
もちろん、過保護なお父様がつけた国王直属の護衛隊を引き連れて。
17歳の僕にとって、長年側にいる世話役は邪魔でしか無い。
城の高台から噴水広場を見下ろせば、僕より幼い子たちが自由に商売をしたり、粗末な剣で戦ったりしていて正直うらやましい。
それに比べて、僕にあるのは堅苦しい勉強と教養、そして将来を約束された国王の玉座しかなかった。
一日のほとんどを玉座ですごすお父様は、難しい顔をする時間が長いせいなのか、常に眉間に深いしわが寄っている。
僕は、王子でいる今でも十分退屈だけど、王様になっても面白いことがなさそうな気がして軽く人生に絶望していた。
今日の朝、なんとなく夜明け前に目が覚めた僕は、キッチンにこっそり忍び込んで一袋の角砂糖を手に持った。
城の裏にある馬舎に入ると、新鮮な藁の匂いが鼻先をくすぐる。
一番手前の右側が、僕の馬の部屋だ。
囁くように名前を呼ぶと、尻尾を振ってすぐに白馬が駆け寄ってきた。
隠していた角砂糖を与えて、優しく首筋を撫でる。
しばらく穏やかな時間が流れ、薄く開いた天窓から空が白んでいくのが見えた。
僕は急いで馬舎を出て寝室に戻り、何事もなかったようにベッドにもぐり込む。
数時間後、何食わぬ顔で世話役に起こされ、用意された朝食を口に運んだ。
「今日はキツネ狩りに行くぞ」と僕が言うと、食卓に気まずそうな沈黙が流れた。
「王子、それはちょっと……今日は隣国の王が姫をつれていらっしゃる予定です」年老いた側近が険しい顔をする。
「将来、王子のお妃様になられる方ですよ。噂ではとっても美人だそうですから楽しみですね」
機転を利かせた料理人が、空になった皿に焼き立てのパンを乗せた。
ここまでは想定内だ。
僕は手に持ったフォークとナイフをゆっくりと置き、側近に向き直った。
「来客に間に合うように帰るよ、約束する。その証に今日は護衛を何人つけてもいい」
僕の話を聞くと、側近の表情がぱっと明るくなった。
「護衛隊をあんなに嫌がっていたのに……ワタル様、国王の跡取りとしての自覚が芽生えてきましたな」
言いつけ通りに6人の護衛隊を引き連れて、僕は森の入口に着いた。
護衛隊が狩りの準備をしている隙に、僕は隊からすこし離れる。
護衛隊たちはまだ気づいていなそうだ。
僕は、ぴんと背筋をのばすと、馬の腹を軽く蹴って合図を出した。
すると、予想通り、馬が勢いよく走り出す。
朝に砂糖をあげたのが良かったのか、馬は僕の指示に上手に従ってくれている気がする。
スピードもいつもより数段早く、新緑に囲まれた景色が次々と後ろに流れた。
背後を振り返ると、護衛隊が慌てた様子でこちらを指差し、大声でなにか喚いている。
そんな彼らをあっさり無視して、僕は前方に向き直った。
僕を乗せた若い白馬は、どこまでも駆けてゆけそうなほど身軽に森の中を突き進む。
馬はそのまま風のように走り続け、狩り場のテリトリーを越してどんどんルートから離れていく。
気がつくと、あっという間に護衛隊の気配が消え、僕はすっかり自由になっていた。
スピードを緩めながらしばらく走っていると、不意に開けたところに出た。
僕はようやく馬から降りて、馬の肩を労うように撫でる。
不思議と樹木が生えていない円い空間には、春めいた木漏れ日が眩しく反射し蝶が舞っていた。
足元に広がる天然の芝生をよく見ると、あちこちに小動物の足跡がある。
ここで少し休もう。
僕は芝生に腰を下ろして深呼吸をした。ぼんやり眺めた視線の先で、番の小鳥が巣作りに勤しんでいる。
「自分の結婚相手くらい、自分で見つけなければ駄目だよな。どこかに癒し系の可愛らしい姫はいないだろうか……」
これまで会ってきた同世代の女子を思い浮かべてみても、癒し系は一人もいない。
定例的に舞踏会で紹介される僕の結婚相手候補たちは、相手も幼少期から英才教育を受けているせいで賢そうな圧の強い女性ばかりだった。彼女たちの顔には爛々と「外交」の文字が浮かんでいる。彼女たちは当たり前に数カ国語が話せるエリートだ。
だけど、掃除や洗濯や料理はなにもできない。それは僕も同じだからわかる。
ため息をついて立ち上がり、思い切り伸びをした。
爽やかな風が、僕の頬を撫でる。
ここは風の通り道になっていて気持ちがいい場所だ。また今度脱走して遊びに来よう。
素敵な秘密基地を見つけた気持ちになって、思わず僕は口笛を吹いた。
すると、風に乗って微かに少女の歌声が聞こえてきた。
風が吹き込んでくる方に駆け寄って、茂みをかき分ける。
目を凝らすと、すこし先に古い城があるのが見えた。
「この馬に水を飲ませたいんだ。すまないけど、その井戸の水を分けてくれないかな……」
さっきからずっと声をかけているのに、返事がない。
井戸の影に人が隠れているのは間違いなさそうなのに……。
「……本当に困っているんだよ」
相手を伺いながら、僕はゆっくりと井戸に近づく。
井戸の縁に置いてあるバケツを持とうとしたとき、いきなり細い手が影から伸びてきて僕の腕をつかんだ。
あっと言って、僕は顔をあげる。
すると、目の前に同い年くらいの女の子が立っていた。
ずっと聞こえていた風のざわめきや鳥のさえずりの音が、一瞬で遠のいていく。
背景が淡くぼやけて、彼女の存在だけが鮮明に輝いているように見えた。
ーー雪のように白い肌、柔らかそうな黒髪、紅い唇、大きな瞳は他の誰よりも圧倒的に美しい。
僕にとって初めての一目惚れだった。
「名前は?」彼女は僕の腕を離して、怪しむようにまじまじと僕を見る。
「安堂ワタル……です。あなたの名前は?」緊張して声がうわずった。
「百瀬美月」
美月はそっけなく答えると、慣れた手つきで井戸を使い、僕の馬に水を準備する。
そして、馬が背負っている国章入りの馬具を外そうとしはじめた。
僕は彼女の後ろに回り込んで、作業をアシストする。
見すぼらしいけど清潔な服を着ている美月は、僕よりも10センチ以上小柄でほのかに石鹸の香りがした。
馬具を外し終わると、美月は僕から距離をとった。
「どこから来たのかは敢えて聞かないでおく。敵国かもしれないし」美月の言葉に、僕も頷く。
美月は馬具を草の茂みに隠して、代わりに今度は大きな布を取り出した。
「女王様に見つかったら大変だから、あなたもこれを被って」
そう言って美月から渡されたのは、大きな麻の袋だった。
美月に急かされて、僕は躊躇いつつ、袋を被る。
視界が悪くなった僕は、美月に誘導されて階段に座らされた。
麻の繊維が顔や手にちくちく当たって、そこが痒くなってくる。
「別にいいけど、ちょっと警戒しすぎじゃないかな。僕の国はこのあたりでも最大手の平和協定に加入している国だよ。もし誰かと鉢合わせたら、ちゃんと説明すればそれで済む話だと思うけど……」
「甘いわね。あなた、まともな人としか関わってこなかったでしょ。うちの女王様は黒魔術を使うやばいやつなの。頭のネジがどっかいっちゃってんのよ」
美月は僕が出会ってきた誰よりも口が悪かった。
そんな彼女が言うなら、女王様はきっと僕の想像を超えるやばいやつなんだろう。僕は美月に同情した。
「そうか、美月は大変だね。癖っぽい女王の下で働いて」
頭から被った麻布の向こう側、すぐ隣に美月が座っている。
まぁね、と言いながらため息をついて、美月が少しずつ話しはじめた。
「今の女王は、父の再婚相手で私の継母。それに、5年前に父が死んでから王の席は空白のままで女王の独裁なの」
「ちょっと待って、つまり……美月は王女なの?」
少しの沈黙が流れ、僕は彼女の言葉を待った。
白馬が水を飲む音がやむ。
「そう。生まれたときから私は王女なの、信じられないでしょ? こんな立派なお城に住んでいるのに毎日掃除ばかりしてる」
「使用人はいないの?」
「女王のパワハラで逃げられちゃった。この城にはもう、女王と私しかいない」
美月が立ち上がる気配がした。
そのすぐあと、雑に麻袋を引き剥がされた。
急に視界が開ける。やっぱり美月は美人だ。
「ほら、用事が済んだならそろそろ帰って」
僕はまだ居たかったけど、美月に迷惑がかかるような気がしたから急いで身支度を整えた。
白馬にまたがって、美月を見つめる。
「さっきまで本当に困ってたんだ。君に会うまで煩わしい悩みごとで疲れ切ってた。助けてくれてありがとう」
美月の顔がふわっと赤くなる。
「別に私はなにもしてないけど……どういたしまして」
なんとなくぎこちなく、お互いに礼をしてさよならの挨拶をした。
合図を出すと、馬がゆっくり歩き出す。
「気をつけて帰ってね。もうここには来ない方がいい」
僕の背中に美月が声をかける。
僕は振り向きたいのを我慢した。涙目の情けない顔を彼女に見られたくない。
前を向いたまま美月に答える。
「そうだね。美月の言う通りかもしれない。だけど、今回みたいにまた偶然迷いこむかも」
偶然迷い込んで、偶然話しかけて、偶然の流れでまた並んで座って話すことができるかも……。
「真面目な王子様がこんな怪しいところと関わらない方がいいって言ってるの。これは警告よ。もしまた来たら、その時は……」
「その時は……?」恐る恐る僕がたずねる。
「話し相手ができて、私は嬉しいけど」
「えっ?」
僕が振り返ると、そこにはもう美月の姿はなかった。
森の中を抜けて、もと来た道を引き返す。
僕を追っているはずの護衛隊と合流したのは、森の入口近くだった。
「お前たち、まだこんなところにいたのか。僕と逸れてからどれだけ時間が経ったと思ってるんだよ」
怒鳴られた護衛隊たちは、不思議そうな顔で僕を見ている。
「王子、我々はずっと王子といっしょにいましたよ」
背筋に寒気が走った。
辺りを見回す。陽射しは昼間の明るさで森を照らしている。
キツネ狩りに出発した時刻と、まったく同じような景色が僕の目の前に広がっていた。
それから季節が巡って冬になり、僕は18歳の誕生日を迎えた。
鏡に映る僕は、あの時よりも身長が伸びて、顔も賢そうに見える。
美月に会った日から、僕は彼女に好かれる立派な王子を目指して勉強や武道に全力で取り組んだ。
国王や側近に対する反抗的な態度も辞めて、「いい王子」でいられるように努力もしている。
心が荒みそうな時は、美月の姿を思い出せば穏やかな気持になれた。
そんな僕の変わりようを見て、城のみんなは喜んでいる。
ただ、誰もはっきりとは言わないけど、世界各国の王女を紹介してもまったくなびかない僕の無関心さを、世話役たちが心配している雰囲気があった。
僕の心の真ん中には美月がいて、それが揺らぐことはない。
美月が僕の心に点けた火は、今や僕にとってすべての原動力になってしまっている。
だけどまだ、彼女に会いに行くことは出来ない。
今の僕が会いに行くことは、女王に嫌われている彼女にとってリスクでしかないような気がする。
だから僕は僕で、どうしたら美月を幸せにできるのか、自分なりにずっと考えていた。
先ずは僕自身が魅力的な王子になること。
次に、美月の家族を説得するほどの権力をもつこと。
今夜、僕の18歳の誕生日を祝う晩餐会が開かれる。
晩餐会は、王位継承のお披露目会も兼ねていて、考えただけで自然と背筋が伸びた。
国王に認められれば、正式な跡継ぎの証として剣を受け取ることになっている。
定刻に始まった晩餐会には、予想通り華やかに着飾った王女たちの姿が目立った。
充満した香水の匂いに疲れた僕は、こっそり席を立って裏口から外に出る。
すると、塀の向こうからくぐもった話し声が聞こえてきた。
「森の奥にあるお城で……」
急に聞こえきた話題に胸が高鳴る。塀に耳をあてても会話がうまく聞こえない。
「あの可哀想な王女が……」
きっと美月のことだ。胸の鼓動が早くなる。
もし美月が誰かと結婚していたら、ショックで立ち直れないかもしれない。
僕は全神経を耳に集中させた。
「何日も眠ったまま起きないらしい」
目を見開いて息をのむ。
ーー眠ったまま起きない?
気づいたら僕は走り出していた。
雪がしんしんと降りしきる森の中。
さっきまでの吹雪が嘘のように止んで、急に視界がひらけた。
僕は天鵞絨のマントをかたく体に巻きつけて歩みを進める。
昨夜、城の近くで美月の話をしていたのは隣国の王女のもとで働いている馬車の御者たちだった。
彼らを問い詰めて詳しく話を聞くと、国外から入ってくる商人や旅人たちの間で「眠り姫」の噂が広がっているらしい。
「眠り姫」は、森の奥に住む世話焼きな七人の小人たちに守られながら、死んだように眠り続けているという。
彼らの話を聞いている間、僕は血の気が引いて、その場に倒れそうになった。
さらに、「眠り姫はもともと、意地悪な女王に追放された可哀想な王女だった」という情報まで出てきたので、僕は居ても立ってもいられなくなって国王に美月のことを全て話した。
晩餐会は早々にお開きになり、国王は玉座に座ってじっと黙って僕の話を聞いてくれた。
「彼女を助けに行きます。病なのか呪なのかはわかりませんが、彼女を救う方法が必ずあるはずです」
自分で言いながら、そんなことできるんだろうかと不安がこみ上げる。
「それに、愛する人を見捨てるような王子なら、あなたのように偉大な国王の後継者にはなれません」
思わず出た言葉は、真剣に「立派な王子」を目指して努力した僕の本音だった。
すると、いつも難しい顔をしていた国王の表情が、ふと、ほどけるように和らいだ。
国王は静かに立ち上がると、飾り棚に掛けてある剣を手にとって僕に差し出した。
「ワタルの覚悟が決まっているなら行けばいい。その代わりに護衛隊はつけないからな。この剣はお前に託す。必ず彼女を連れて帰ってきなさい」
諭すような低い声は、腹の底に響いてくる威厳があって、僕に温かな勇気をくれた。
僕は剣を受け取って深く頭を下げる。
その時、すごく久しぶりに、ちゃんとお父様と向き合えた気がした。
突然、背後で風を切り裂くような甲高い鳴き声が響いた。
振り返ると、枝にとまった二羽のハゲタカが身を寄せ合ってこちらを睨みつけている。
ハゲタカの大きく曲がった嘴を見ていると不吉な予感がした。
せっかく狩った兎や狐を、ここで横取りされる訳にはいかない。
後ずさって、僕は腰のベルトに差した短刀を手にとる。
ハゲタカが威嚇するように大きく嘴を開けた瞬間、僕は大声を上げてやつらに短刀を投げつけた。
投げた短刀は見当ハズレの木の幹に突き刺さり、そのささやかな衝撃で木の枝葉に積もっていた雪氷がはらはらと散った。
二羽のハゲタカは一声鳴くと、今度は円を描くように悠々と空に舞い上がった。
しばらくハゲタカを見送ってから、僕は短刀を取りに行く。
すると、さっきまでハゲタカが止まっていた枝の先に林檎がひとつ実っていることに気づいた。
「こんな真冬に林檎が……なんて珍しい」
紅玉色に輝く林檎がとても魅力的に見えて、僕は吸い寄せられるように林檎を手に取った。
林檎は特別好きな果物っていうわけではない。
それなのに、今は目の前の林檎から目を離すことができなくなっていた。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ーこの場所までたどり着いた場合、必ずこの林檎を食べる。
突然、頭の奥に鈍い痛みが走る。
僕の意志と関係なく、誰かが勝手に僕の体をコントロールしようとしているみたいだ。気味が悪い。
固く目を閉じて耳を塞いでも、僕の頭の中に奇妙な信号が送られ続ける。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ーこの場所までたどり着いた場合、必ずこの林檎を食べる。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ーこの場所までたどり着いた場合、必ずこの林檎を食べる。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ーこの場所までたどり着いた場合、必ずこの林檎を食べる。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ーこの場所までたどり着いた場合、必ずこの林檎を食べる。
そしてついに、朦朧とする意識のなかで僕は林檎にかぶりついた。
脳に響いていたうるさい信号が止まる。
急に、体が痺れだして僕は雪の上に倒れた。
意識だけが浮かび上がるように、体の感覚が曖昧になっていく。
視界も暗くぼやけて瞬く間に闇に包まれた。
【……ςςς】
②最愛の人と言葉を交わすことはできない
安堂ワタルと会ったのは、決勝のステージだった。
「さぁ、願いを一つ叶えてあげましょう」
私の目の前に現れた海の女神は、甘く囁いて薄紅色の尾をひろげた。
海の中は、反射した陽射しが帯状の淡い光のすじになって幻想的に揺らめいている。
ついさっき、縁切のご利益があることで有名な「双子女神の岩」に触れた途端、私は海の中に引きずり込まれて、気がついたら海の底に座り込んでいた。
不思議なことに、陸にいるときと同じように息ができている。
ただ、私のまわりは果てしない海の景色に囲まれ、あちこちで水の泡がこんこんと湧き出る音が静かに響いていた。
見上げた先にいる女神の姿は、腰から上が妖艶な美女で、腰から下は紫や桜色が混ざった美しい鱗に覆われている。
女神のブロンドの髪と、しなやかな尾は穏やかな波に揺れていた。
私が呆然としたまま黙っていると、女神は優しく微笑んだ。
「願い事をするために来たんでしょう?」
女神の言葉にはっとした私は、あわてて正座をした。
背筋を伸ばしてお辞儀をしたあと、私は意を決して女神を見上げる。
「あの、私がここにきたのは……」
安堂ワタルの名前を言おうとして、言葉が詰まる。
急に喉の奥がきゅぅと詰まって、固く握った両手に汗が滲んできた。
押しつぶされそうな不安感がこころの中で広がる。呼吸も浅くなってきて、薄く開いた唇が震えだした。
手を組んで自分の胸をおさえ、瞳をとじる。そして、保健室の先生に教えてもらった魔法の呪文を心の中で唱えた。
ーークミン、ナツメグ、シナモン、ターメリック、サフラン……。
だんだんと深く息が吸えるようになってきた。息苦しいのは海の中にいるせいじゃない。
私がパニック発作を起こすようになった原因ははっきりしている。最後に安堂ワタルと会った日だ。
あれから何度も何度も思い出す、あの人生最悪な瞬間の記憶が鮮明に蘇ってくる。
あの日は、本番前の二ヶ月も前から入念な準備をしていて、事前のイメトレは完璧だった。
テレビの収録に参加するのは初めてじゃなかったし、もともと緊張しないタイプだったから収録当日も肩の力はほどよく抜けていたと思う。
テレビ局から事前に送られてきた用紙には、番組の簡単な内容が記載してあった。
土曜日のゴールデンタイムに生放送する特別番組。
『LIVE! 天才高校生ナンバーワン決定戦。超絶技巧ピアノバトル』
私を含めた8人のピアニストが課題曲を演奏し、トーナメント形式で優勝を目指す構成になっている。
司会者には人気絶頂のコンビ芸人の名前が並んでいた。
肝心の勝敗判定は、番組特別仕様のAI判定と9人の審査員の採点で決めることになっている。
課題曲も、元から難易度の高い譜面に、番組側がさらにオリジナルアレンジを加えたものだった。
演奏者たちの欄は、空白になっている。
それでもだいたい、どんな子たちが出るか想像できた。
どうせ私と同じ、ジュニアコンクールの常連組のはずだ。
収録が始まってから他の演奏者を知った私は、予想通りの面々でほっとした。
最近のコンクールの成績では、みんな私より格下だ。
だから、このメンバーで戦うことが決まった段階で私の優勝は確定した……はずだった。
出番待ちの合間は舞台裏でお母さんがずっと側にいてくれて、家で撮った練習風景の動画を見せてくれる。
お母さんは何度も脚を組み直したり髪をかきあげたり、なんだか落ち着きがなくて、ステージに立つ私よりもお母さんのほうが緊張しているのかなって思った。
「絶対大丈夫よ、美月なら優勝できる。美月が、あの子達に負けるわけないんだから」
お母さんにそう言われて背中を押され、その言葉通り私は順調にトーナメントを勝ち上がっていった。
そして迎えた決勝戦。
最後の対戦相手が安堂ワタルだった。
ーー安堂ワタルって、誰だったっけ?
私が参加してきたジュニアコンクールの入賞者ではない気がする、それでも何か頭にひっかかる。
そのとき、すぐ近くで立ち話している女子たちの声が耳に入ってきた。
「安堂くん、ピアノ復帰したんだ。ご両親が亡くなってからピアニストは諦めたって聞いてたけど……」
初戦敗退した子が、他の子と話している。
「そうなんだ、可哀想。あたし安堂くんに優勝してほしいな。百瀬さんがこのまま勝っちゃったらつまんないもん」
二人のやり取りを聞いていたら、余裕があった私の心に闘争心の火がついた。
つまんないって何よ、わざと私に聞こえるように言って、ほんとモブって陰湿で嫌い。意地でも優勝してやる。
苛ついたまま、ライトが眩しい決勝ステージに脚を踏み入れる。
私のことを、たくさんのお客さんが温かい拍手で迎えてくれた。
観覧のお客さん、審査員、司会者、そして舞台袖のお母さんから期待の眼差しが向けられているを感じて、胸が高鳴る。
司会者に促されて、私はピアノの前に座った。
演奏開始の合図、ステージに赤いランプが灯るまでの準備時間は、司会者が話術でつなぐことになっている。
「演奏者は百瀬美月さんです! なんと、美月ちゃんはここまでノーミスで勝ち進んできたんですよね。これはすごいですよ」
司会者が声を張り上げると、スタジオにいるお客さんたちが盛大な拍手で盛り上げる。
「桁外れの正確さと安定したパフォーマンスは圧巻でした。これはもう優勝する自信しかないでしょ、ねぇ美月ちゃん」
私はわざと謙遜するふりをして、控えめにはにかんで首をかしげた。
ーー負けるわけがない。だって、ほかのこと全て犠牲にして、ピアノに捧げてきた。ただ楽しく弾いていたピアノが、いつからか大人に褒められるための存在になって、今ではもう先生や家族の期待に答える唯一の手段になっている。私はピアノで勝つことでしか、みんなに喜んでもらえない。それでもいい、そのために誰よりも真面目に練習してきた自信がある。だからこのステージで、誰よりも一番輝いてみせる。
膝に乗せた指先が無意識に動きはじめる。何時間も練習した決勝戦の課題曲は体に染みついていた。
まだ、合図のランプは灯らない。
「それにしても美月ちゃんの演奏って、本当にパワフルですよね。見ている我々も気持ちがいいです」
司会者の大きな声を意識から遠ざける。
そろそろ演奏開始の合図が出そうだと思って、私は深呼吸をした。背筋を伸ばして集中力を高める。
そのとき、
「ぽっちゃりした子が一生懸命頑張っている姿を見ると、ついつい頑張れって応援したくなるんですよぉ」
司会者の隣にいた女子アナウンサーの高い声が耳に飛び込んできた。
ーーぽっちゃりって、私のこと……?
驚いて、私は思わず司会者を振り返った。
その瞬間、会場にたくさんの笑い声が上がった。
まるで空気を盛り上げようとしているような、効果音でしかない大げさな笑い声。
あ、これって笑うところなんだ。
急に、自分がテレビの中の世界に存在している実感が湧いてくる。
だけどその感覚は、よくアスリートがインタビューで言っている「カメラの向こうから応援してくださる皆さんの熱もパワーに変えて頑張れそうです」とかいう爽やかさと全然違くて、ただ自分が見世物になっているような不快感でしか無い。
どこからか吹き込んだ冷たい風が、私の肩や腕を撫でて通り過ぎたような気がした。
今日のために買ってもらった水色のドレスは、人前で初めて着た肩出しのデザインで、さっきまで気にならなかった肌寒さが急に襲ってくる。
髪をアップにした首筋にも冷えた空気が通り過ぎて、私は思わず首をすくめた。
不意に、演奏開始を告げる赤いランプが灯る。
スタジオが緊張感のある静けさにつつまれた。
私は、急いで鍵盤に指を置き、ペダルに足を添えた。
気持ちを落ち着かせるために、一度瞳を閉じる。
ーー「美月なら優勝できる」「あたし安堂くんに優勝してほしいな」」「ノーミスで勝ち進んできたんですよね」「ぽっちゃりした子が一生懸命頑張っている姿」「美月が、あの子達に負けるわけないんだから」「そうなんだ、可哀想」……。
頭の中が騒がしいまま、私はゆっくり瞼を開ける。
そのとき、鍵盤の上に置いた自分の指が、なにか酷く醜い生き物に見えた。
目を大きく開いて、息を呑む。私の指先の感覚が、指が動かない……。
客席がざわついて、スタジオに歪な空気が広がっていく。
私を観察するようにまとわりつく視線が集まってくるのを感じる。
その状態のまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
はじまったばかりの一日が終わるくらい、私にとって、ものすごく長い時間に感じた。
「失格」を報せるブサー音がスタジオに響く。
司会者がなにか言っているのが、遠くに聞こえる。
結局、私は鍵盤に指を置いたまま動けなくなって、一音も演奏することなく演奏時間を使い切ってしまった。
ーーあぁ、私おわったんだ。
こんな状況なのに、私の心の中は、みんなの期待を裏切った申し訳なさよりも、早くベッドに横になりたいという疲労感でいっぱいになっていた。
緊張の糸が切れて、深い溜め息をつく。
すると、さっきまで動かなくなっていた指先に感覚が蘇ってきた。
私の指からは、さっき感じた気味悪さが消えて、いつもの自分の指に戻っている。
私は両手をピアノから離して、口元を覆った。
視線の先、スタジオの端っこで私を心配そうに見ているお母さんと目が合う。
その瞬間、肩の力が抜けた。それと合わせて、一気に胸が熱くなって涙があふれた。
自分で椅子から立ち上がれなくなった私は、スタッフに支えてもらいながらステージを降りる。
そのとき、次の演奏者の安堂ワタルが涼しい顔で歩いてくるのが見えた。
私は、反射的に下をむいて視線を外す。
決勝戦は不戦勝で安堂ワタルの勝ち。よって、優勝者の栄冠は彼に輝く。
私達がすれ違うとき、突然彼が私の肩を引き寄せて耳元で囁いた。
「百瀬さんはここで終わるような人じゃない。僕が保証するよ。今日は目標にしてた百瀬さんと同じ舞台に立てて嬉しかった」
瞬間的に顔が熱くなって安堂ワタルを見る。
隣に立つ彼は私より10センチ以上は背が高くて、近くで見ると整った顔立ちをしていた。
初めて彼の声を聞いたはずなのに、不思議と懐かしい気持ちがして混乱していた心が落ち着いてくる。
私はしばらく呆然と安堂ワタルを見つめた。
すると、私がなにか言い返す前に、安堂ワタルは私に柔らかく微笑んでステージに上がっていった。
それから数日、自分がどうやって過ごしたかあまり記憶がない。
その間、私はいつもぼんやり放心状態だった。なにをしてても頭の片隅に安堂ワタルの存在がある。
休まず続けているピアノの練習にも身が入らない。そんな私を見透かして、お母さんの指導は前よりも厳しくなった。
コンクールの本番が、もう1週間後に迫っている。
そんなある日、私はSNSで安堂ワタルの演奏動画を見つけた。
学校帰り、お母さんが運転する車の中でワイヤレスイヤホンをつける。
番組収録の日は彼の演奏を聞かずにテレビ局を出てしまったから、動画で知った彼の演奏は衝撃的だった。
彼が弾くピアノの音は、他の誰ともちがう響きをしている。
それは、例えるならグラスを指ではじくような透明感のある澄んだ音だった。
あのとき聞いた彼の声と雰囲気が似ている。
それから私は、隙をみて、こっそり彼のピアノを聴くようになった。
もしかしたら1週間後のコンクールに彼も参加するかもしれない、そう思うと練習にも熱が入ってくる。
練習合間のおやつ休憩に、珍しくお母さんがケーキを用意してくれて褒めてくれた。
それでつい気が緩んだ私は、最近ずっと考えていたことを口にしてしまう。
「ねぇお母さん。週末のコンクールに安堂くんも出るかな。あの子が参加したら絶対上位に入ってくると思う」
お母さんはちょっと驚いた顔で私を見た。その後すぐに眉をひそめて、ため息をつく。
「あの安堂ワタル? 家庭環境が原因で6年間もブランクあったらしいじゃない。お母さんは美月の方が断然上手だと思うなぁ。……あのどうしようもない番組で彼が優勝できたのはたまたまよ」
最後は吐き捨てるように、お母さんが言う。
自分のことを悪く言われた訳じゃないのに、お母さんの言葉が私の心に鋭く刺さってきた。
思い返してみると、お母さんいつもそうだ。
いつも、他の子のことを蔑んで私を励ましたり褒めようとしてくる。
そんな言葉をかけられる度に、私は自分の心が醜く歪んでいくような感覚がしていた。
それでも、お母さんが私を気づかってくれているのが分かっていたから、いつも黙ってお母さんの話を聞いてきたけど……。
だけど、自分が感動した安堂ワタルをひどく言われるなんて許せない。
怒りがふつふつと湧いてきて、私は思わず大きな声を出してしまった。
「お母さん。いつも私と誰かを比較するような言い方するけど、そんな褒められ方したって全然嬉しくないんだよ! 安堂くんのこと、なんでそんなふうに言うの? それって普通に性格悪いじゃん! 人として最低だよ!」
お母さんはぽかんと口を開けて、呆然と私を見ている。
ずっと我慢してきた本音をぶちまけた私は、どんどん言葉が溢れ出て、もう止まらなくなった。
気がついたら、私は涙を流しながらお母さんに怒鳴ってて、お母さんに話す隙を与えないくらい早口でまくし立てている。
私だってお母さんに対して、こうして面と向かって怒ったのは生まれて初めてのことで……もう頭の中が熱くなりすぎてぐちゃぐちゃになってきた……。「お母さんは音楽のこと全然わかってないよ! 誰が勝つとか負けるとか、そんな競争楽しんでるのは私の意志じゃない。お母さんの承認欲求の道具に私を使わないで!」
言いたいことを吐き出した私は、その勢いのまま安堂ワタルのピアノの音色の素晴らしさを熱っぽくお母さんに語った。
そして、スマホで何度も見た安堂くんの演奏を流して、お母さんに聴かせる。
だけど、これが私の犯した大きな失敗だった。
安堂くんの演奏を聴いているうちに、ささくれ立っていた私の心が浄化されるように落ち着いてくる。
冷静になってくると、自分がさっきお母さんに浴びせたひどい言葉が、頭の中でこだましはじめた。
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声で、私はお母さんに謝った。
謝っても、一度言ってしまったことはなかったことにはできない。
少しの沈黙が流れたあと、お母さんはテーブルに置いてある私の手を両手でそっと包みこんで、真剣な眼差しで私を見つめた。
お母さんの手の暖かさが、伝わってくる。ひと呼吸置いて、お母さんが口をひらく。
「しっかりしなさい美月、ライバルに同情してたら今度はあんたが置いてかれるの。お母さんも先生もね、美月がずっと、大人になっても大好きなピアノを毎日弾いて生活していけるように応援しているのよ。お母さんのためじゃない、当たり前でしょ。お母さんが自分自身のためだけに、ここまでいろいろ……たくさん頑張れるわけないじゃない。全部、美月のためなの。だから、みんなの期待をこれ以上裏切らないで」
お母さんの言葉は、私にとってあまりにも冷たく聞こえた。
もう、私の気持ちは何を言っても伝わらないんだ。目の前にいるお母さんが、追いかけても届かない程すごく遠くにいるように感じる。
「さぁ、お互いに言いたいこと言えてスッキリしたし、練習に戻るわよ。その前に、顔洗ってきなさい」
それだけ言い残して、お母さんはケーキのお皿を持ってキッチンに姿を消した。
休憩明けの練習は、何事もなかったようにいつも通りの雰囲気で進んだ。
だけど、その次の日から、お母さんの様子が変わっていった。
なにかと安堂くんの名前を言い出すようになったのだ。
「美月に安堂ワタルの演奏聴かせてもらったでしょ? 確かに、美月が言うように彼には独特な魅力があるのかもしれないってお母さんも思った。すらっとしててステージ映えもしそうだもんね、彼」
朝ご飯を口に運びながら、私は頷く。
お母さんが急に彼を褒めるようになって、私はちょっと困惑した。
不意に、お母さんが私のお皿に手をのばす。
「考えてみたら当たり前のことなんだけど、ピアニストってお客様の前に出るお仕事よね。だから決めたの、美月、あなたもっと痩せなさい」
そう言いながら、お母さんは私のお皿にのったご飯を半分とって自分のお皿に分けた。
お母さんから体型のことを言われたのは初めてだ。だってそもそも私は太っていない。
「え……私、この前の健康診断で標準体重だったよ」
「そんなこと分かって言ってるの。前に出たテレビ番組のこと思い出してみなさい。アナウンサーも審査員も、みんなお人形さんみたいに細くて華奢だったでしょ。他の出演者の子たちもみんな綺麗にしてて、美月の腕が圧倒的に太かったんだよ。もう見てるこっちが恥ずかしかった」
お母さん、あの時そんなこと考えてたんだ。私はショックで泣きそうになった。
そういえば、あの収録の時以来、お母さんと私はあの日のことを話題に出さないように無意識に避けてきた気がする。
「……私のこと、そんなふうに思ってたの?」
胸の奥が締め付けられる。お母さんの口から、ただの冗談だと言ってほしい。
だけど、お母さんは私と目を合わさずに、冷たく言い放った。
「これも全部あなたのためよ。大丈夫、お母さんに任せて」
それからの私は、食べることに後ろめさを感じるようになって、食事が喉を通らず勝手に体重は減っていった。
食べれないのに、夜はお腹が空いて眠れなくなる。
満たされない気持ちで眠りにつき、お腹が空いて早朝に目が覚めてしまう毎日が続いた。
日が経つほどにだんだん体に力が入らなくなって、なにをするにもやる気が起きなくなってくる。
それでも、安堂ワタルのピアノを聴けば瞬間的に気力が湧いて、彼の演奏から貰ったそのエネルギーで私はピアノに向き合っていた。
お母さんの指導は相変わらず厳しいけど、最近は特に声がうるさく感じる。
お母さんのはきはきした声を聞かされていると、私は頭の芯を殴られるような頭痛に悩まされるようになった。
そして、私が限界をむかえる瞬間は突然やってきた。
いつものようにピアノの前に座って、鍵盤を見つめる。
それから鍵盤に指をのせようとしたとき、急に私の体が動かなくなった。
金縛りにあったみたいに、腕が上がらない。
喉が締めつけられるように狭くなって、呼吸が苦しくなる。
瞳を閉じると、あの日の嫌な光景が私の体中を駆け巡った。
華やかな収録スタジオ、赤いランプが灯ったあの決勝ステージがフラッシュバックする。
そうして私は、大好きだったピアノを弾けなくなった。
☆
「女神様お願いします。私を……私を安堂ワタルのいない世界に連れて行ってください」
私が絞り出すように発した声は、海の泡に消え入りそうなほど弱々しかった。
女神は音もなく静かに近づいてきて、私の隣に腰を下ろした。
間近でみると、彼女の美しさがますます眩しい。
私が女神に見惚れていると、女神は無邪気に微笑んだ。
「百瀬美月さん、よかったですね。あなたの願いはもうすぐ叶います」
女神の意外な返答に、私は驚いて聞き返した。
「……どういうことですか?」
「ついさっき、わたしの妹のもとにお客様がいらして、その方が妹にお願いしたそうです。安堂ワタルと百瀬美月をこれから一生会わせないように、と」
内緒話をするように、女神が声をひそめる。
それを聞いても、私の頭の中は ? が増えただけだった。女神を真似て、私も小声で囁くように話す。
「ごめんなさい。さっきから全然意味がわからないんですけど……」
女神は、困惑している私の手をとると、ゆっくり話し始めた。
「そうですね。まず自己紹介からしましょうか。ご利益があると言われている『双子女神の岩』は、わたしと妹、仲が悪い双子の姉妹の化身なんです。わたしたちが司っているのは絶縁。つまり縁切りが得意なわけでして、人間関係に疲れ切った方々がよくいらっしゃるんですよ」
双子女神が縁切りの神様として有名なのは私も知っている。だから、ここに来たんだ。
でも、名前の由来までは知らなかったし、それが私と安堂ワタルの関係にどう影響するのかは想像できない。
黙り込む私に、女神が話を続ける。
「今は外の世界で流行り病が猛威をふるっているでしょ。それも感染力の強いウイルスだとか……そのせいでお客様が来てくれなくなったので、妹の方も必死なんだと思います。それで先ほど、お客様のお望み通りに、妹は安堂ワタルの毒殺に協力することにしました。猛毒のオニヒトデの毒針を人間に渡してしまったのです」
私は怖くなって息をのんだ。
「毒殺……誰がそんな酷いこと願いに来たんですか?」
「それは教えられない決まりになっているの」
女神はとても悲しそうな表情を浮かべて私を見つめる。
私はただ、自分が彼と同じ世界線にいるのが辛くて耐えられないと思っただけだ。
でもそれは、お母さんとのこととか、ピアノが弾けなくなったこととか、全部私自身の問題だってことはわかっている。
だからピアニストとして輝く彼には、このまま華々しく活躍してほしいと、心の底から思ったんだ。
だけど、成功していく彼の姿を目の当たりにするのは、今の私にはあまりに辛い。
嫉妬と憧れ、妬み羨望、挫折、絶望、絶望絶望絶望これからの未来を考えただけで心が押しつぶされそうになる。
一層のこと、私自身がこの世界からいなくなってしまえば全ての苦しみからか開放されるのかな、それも女神の力をかりて誰も悲しませないようにひっそりと……。
そう思ってたのに、今度は彼の身に危険が迫っているなんて信じられない。
しかも、なんだか私のせいで彼の未来が絶たれようとしているらしい、そんなこと、あってはいけないことだ。
私は、すがるような気持ちで女神に聞くことにした。
「さっき、願いがもうすぐ叶うって言ってましたよね? まだ彼を助けることはできるんですか?」
「普通は無理でしょうね。ただ、今ここで美月さん、あなたがわたしに願えば阻止できるかもしれません。条件付きではありますが」
「私なんでもします」
「わかりました。では、こうしましょう。これから美月さんを安堂ワタルの元に瞬間移動させます。そのとき、妹に美月さんの存在が気づかれないように細工をします。わたしの力で、美月さんの姿を透明人間のように見えなくしてしまうのです。もちろん、安堂ワタルにも美月さんの姿は見えません。ただし、透明人間でいられるのは1時間だけ。その間に安堂ワタルの毒殺を阻止して下さい」
瞬間移動とか透明人間とか、魔法みたいな言葉が次々と出てきて胸がときめいてきた。
まるで物語の世界みたいだ。
わくわくする私と反対に、女神の表情は険しくなっている。
「ただし、注意点があります。透明人間になっている間、絶対に声を出さないでください。美月さんが1時間だけ声を出さずに毒殺を防げたら、わたしたちの作戦は大成功です。ただし、1時間経つ前に美月さんが声を出してしまったら……その時は美月さん自身が海の泡になって消えてしまいます」
女神の話を聞いたとき、私は思ったより成功率が高そうな気がした。
それより早くしないと、時間がもったいない。
「それでいいです。早くお願いします」
私は早口で言って、女神に頭を下げた。
「あともう一つだけ。美月さんが消えてしまった場合、安堂ワタルの記憶からも美月さんの存在は消えます。それでもいいですか」
「大丈夫です」
躊躇なく、私は答えた。
「それでは、百瀬美月さん。健闘を祈ります」
女神が、私の目の前に手をかざす。
急に眠たくなって、私の視界は次第に暗くなった。
☆
気がつくと、私は白い小部屋の隅に立っていた。
部屋の中には誰もいないけど、たぶんここは安堂ワタルの控室のはずだ。
この場所なら私も前に来たことがある。
確かコンクールの会場になっている文化会館の二階、コンサートホールの裏側に並んでいる控室のうちの一つだったと思う。
あたりを見回すと、私は不気味な違和感に気づいた。
テーブルに置いてあるタンブラーが、禍々しい靄に包まれている。
私は歩み寄って、タンブラーの蓋を開けた。
すると、タンブラーの中から、見たことのない黒い蒸気が吹き出した。
きっとこれに毒が入ってるんだ。オニヒトデの毒針……。
私は、固く口を結んで黒い蒸気をじっと見つめた。
透明人間になったからって、毒が効かないとは限らない。
そのとき、不意にドアが開く音がして私は振り向いた。
すると目の前に安堂ワタルが立っていて、私は一瞬息が止まる。
彼に触れないように急いで彼と距離を取ると、遅れて心臓がバクバクしてきた。
あぶない、あぶない。一瞬驚きすぎて声でちゃうとこだった。
彼の様子を見てみると、彼はテーブルの前の椅子に座ってくつろいでいる。
彼の目には本当に私の姿が見えていないようだった。
安心するような寂しいような、複雑な気持ちになる。
ほっと息をつく。そしてもう一度、今度は椅子と反対側から慎重に私はテーブルに近づく。
彼に視線を向けると、彼はペンを片手に譜面を広げていた。
譜面にはびっしりと文字や記号が書き込まれている。
私の気配を感じたのか、彼の視線が急にこちらを向いた。
その瞬間、目が合った。息をのんで目を大きく見開く。
私たちがテーブルを挟んで見つめ合ったほんの一瞬間、私には時間が止まったように感じた。
そして、まるで私に手を伸ばすように、彼の右手がすっと近づいてくる。
だけど彼の右手は私の前にあるタンブラーを掴み、流れるような動作で彼の口元に引き寄せた。
「駄目!」
思わず私は叫んでいた。
驚いている安堂くんの手から、両手でタンブラーを奪い取る。
そのまま私はタンブラーに口をつけて、中の液体を一気に飲み干した。
次の瞬間、私の喉を焼けるような痛みが襲ってきた。
鼓動が早くなって全身が熱くなる。
嗚咽を漏らしながら、私は両手で喉元を押さえてうずくまった。
「百瀬さん! 百瀬さん!」
駆け寄ってくる安堂くんが私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
大丈夫だよって返事をして彼を安心させたかったけど、息を吐く度に私の喉の奥に激痛が走った。
薄らいでいく意識の中で、私は女神に言われたことを思い出す。
ーー美月さんが消えてしまった場合、安堂ワタルの記憶からも美月さんの存在は消えます。それでもいいですか。
それじゃあ、今日のことが安堂くんのトラウマになることはないからよかった。
それに、私が消えれば、女神の妹に願い事をした人の願望も叶って、安堂くんがこれ以上標的になる心配はなくなる。
そうなるとはじめから、私と安堂くんにとっては、この結末が一番ハッピーエンドだったってことになるのかな。
もう二度と安堂くんに会えないなんて……たった一人で深い深い海の底に沈んでいくように心細くて、私は寂しいよ。
最後に彼の姿を瞳に焼き付けたいと思って、私は声のする方を見上げ、大きく目を開けた。
突然、目の前に眩しい火花が見えて、それが幾重にも広がり私の視界を埋め尽くしていく。
ふと、私の肩を支えてくれている手の暖かさが伝わってきた。
肩に置かれた手に、私は震える自分の手をそっと重ねて頬を寄せる。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー最愛の人と言葉を交わすことはできない。
脳裏に微弱な電気信号が流れ込んでくる。
わけがわからないまま、私の視界は白い閃光の明かりにすべて埋め尽くされた。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー言葉を交わすことはできない。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー言葉を交わすことはできない。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー言葉を交わすことはできない。
・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー言葉を交わすことはできない。
【………φφφφφφ】
☆・ ・ー・ ・ー・ ーーー ・ー・ ー Error
穏やかな風が吹いて霧が薄れていくように、霞がかった視界がゆっくりと開けた。
仰向けに横たわって、ぼんやりと見上げた先には広大な夜空で小さな星たちが瞬いている。
私は目をこすって上半身を起こした。
自分の身体がやけに重く感じる。
不意に地面が揺れ動いて、私はあわてて近くの手すりに掴まった。
「あっぶな」
思わず声が出る。
そこでふと、私はさっきまで辛かった喉の痛みが消えていることに気づいた。
深い眠りから覚めた時のように思い切りあくびをして、ゆっくり立ち上がる。
そしてあたりを見渡した私は、言葉を失った。
夜の静けさが広がる海原を見下ろして、私は一艘のボートに立っている。
さざ波の水面が、月明かりを儚げに反射していた。
手すりをつたって眺めのいいボートの端に向かう。
進行方向の逆側、ボートが離れていく対岸は燃え盛る炎につつまれていた。
私を乗せたボートは、まるで炎から逃げるように進んでいる。
手すりに体を預けて深い溜め息をつく。
すると、背後でわざとらしい咳払いがした。
振り返って、私は思わずあっと声を上げた。
そこには、ずっと会いたかった人の姿がある。
私より10センチは高い背丈、細く長い手足、そして優しそうな笑顔。
「やっと起きた。僕一人で運ぶの大変だったんですよ」
そう言って、彼は私のとなりに来ると手すりに寄りかかった。
「安堂ワタル! なんでここにいるの。ピアノのコンクールはどうしたの?」
驚いている私を見て、彼は爽やかな笑い声をあげた。
「まだ夢の世界と混乱してるんですね。それより、100年も経ったのによく僕の名前覚えてるね。百瀬美月」
彼の言葉を聞いて、私はすぐに理解した。なんとも言えない達成感と安心感が胸に広がって、笑いが込み上げてくる。
「はは。そっかぁ、私たちの人工冬眠状態は成功したんだね。お疲れ様。ずいぶん長い夢だったなぁ、あれがリアルだって信じちゃうくらい……」
なんとなく流れで、私たちはハイタッチした。
「僕も、なんだか楽しいことより辛いことの方が多かったような、とても長くて悲しい夢をみた気がします。もうはっきり思い出せないけど」
「うん。私もすぐに忘れちゃうんだろうな、夢のこと。……ねぇ、ボートには私たち二人しかいないの?」
私が気になっていたことを聞くと、彼の表情が一気に曇った。
「二人だけです。僕が研究施設で起きた時には、もう建物が燃え始めてて、百瀬さんを連れて逃げるのに必死でした」
そう言って、彼は黒く焦げたシャツの袖を見せてきた。
よく見ると、ズボンの裾もほつれ、靴も泥で汚れて、腕や顔にまで擦り傷が出来ている。
そんな彼を見て、私は、胸の奥が締め付けられるような歯がゆい気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう、私のこと助けてくれて」
私がお礼を言って彼に抱きつくと、彼は温かく私を受け止めた。
夜空をすべるように流れ星が流れていくのが見える。
その後を続くように、空から次々と星が流れ、海に降り注ぐ。
私は彼と抱き合ったまま、しばらく黙ってその幻想的な景色に見惚れた。
ーー流星群だ。あとでワタルに教えてあげよう。
私は、再び腕に力をこめて、彼の存在を確かめるように強く抱きしめた。
【φαντασία】
『φαντασία』の概要とΩ博士の手記
博士の走り書き
ーー最愛の人が永い眠りから目覚めたとき。
夢のなかで何度も叶わずに消滅した二人の恋の物語が、ようやく動きはじめる。
『φαντασία』
形態:人工冬眠状態の被験者を対象にした、疑似恋愛睡眠学習プログラム。
歴史と概要:
2050年。
小惑星衝突および、人類史上凶悪な感染症の拡大の影響によって始まった急激な人口減少の対策としてΩ博士が開発した疑似恋愛シミュレーションプログラム。
φαντασίαは、2026年に開始した人工冬眠状態の被験者の脳波に働きかけ、被験者は疑似恋愛を睡眠学習する。
2050年当時、人工冬眠状態の被験者は、睡眠の間に医学的治療を受け病気が完治したあとも、感染症から守るために引き続き隔離施設で冬眠していた。
その後、2126年に世界各地で火山噴火が多発。Ω博士の研究所も火山噴火の被害を受け、博士をはじめ多数の職員および患者が死亡。
しかし、φαντασίαの被験者二名、安堂ワタルと百瀬美月の消息は未だに不明である。
全焼した施設内で発見されたΩ博士の手記には『φαντασία』の開発にあたり、以下の構想が記されている。
・失恋直後の男女は、他のケースに比べて恋に落ちやすい傾向がある。
・古典的な恋愛物語のなかには現代でも通用するものがあり、今後の未来でも通用する可能性が高いためモデリングとして使用する。
【仮説】
被験者は、古典的な物語をモチーフとした失恋を疑似体験することで、覚醒後の恋愛に積極的になり、幸福度が増すのでは?
Όλες οι ανθρώπινες αρετές αυξάνονται και ενισχύονται φυσικά με την πρακτική και την εμπειρία τους.
(人間の美徳はすべてその実践と経験によっておのずと増え、強まるのである)
古代ギリシア哲学者ソクラテスより
おわり
*参考資料
哲学者ソクラテスの名言(古典ギリシャ語)
https://future-anxiolytic.com/socrates_meigen/#%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%A8%80%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91%E3%80%80%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E9%81%93



