『雨なんて美しくない。
うっとうしくて、切なくて、心も体も濡れて寒くて、さみしくなる。
だから、ハレがいい。
目を細めて見上げる空に眩しい太陽。みんなが注目するただ一人になれたら幸せだよね。』
放課後の教室。聞こえてきた曲に、クラスメイトの男女が次々と反応して集まっていく。帰り支度をしていた私の机の横を、何人も横切っていった。
「あー、知ってるこれ!」
「ハレでしょ? なんかすごいよね、同い年とは思えない。世界違いすぎるー!」
「マジ、それ! 声もめっちゃいいし」
「絶対かわいいよな、ハレちゃんって!」
教室の一番後ろの席。隅にぽつんと一人になってしまった私は、この波には乗れない。
入学してから数日は、なんとか輪の中に入れるようにと頑張ってみたものの、持ち前の人見知りが発動してしまって、上手く声が出ない、話せない、近づけない。ようやく喉の奥から出た声はあまりにも小さくて。『え? なんか言った? ってかさぁ!』と、すぐに話題は目まぐるしく次々変わっていく。
いち早く乗れないと、もう私の中にある話題のタネは、あっという間に古くなる。いくつもタネがあるなら別だけど、私にはそんなに手持ちのタネはない。こんな調子で、今では周りの話題を耳にするだけで、自分では近づくこともしなくなった。
まして、歌姫『ハレ』については、どんなにたくさん手持ちのタネがあったとしても、乗ることは出来ない。
だって、たった今話題に上がっている『ハレ』とは、私のことだからだ。
教室を出ると、いつも通りに専門教室棟校舎の裏に来た。少し奥に、古びていてもはや役割を果たしていない、立ち入り禁止の看板。誰も立ち入らない場所に踏み入る。
日陰の多い中、唯一陽の当たっているコンクリートの段差部分に腰掛けた。日差しがあたたかくて気持ちいい。天気のいい日には、決まってここに来るようになっていた。
いつものようにスマホを手に持って、一度曲を流す。鼻歌混じりに流し聴きをしてから、次は本気で歌う。私が、ハレになる瞬間だ。
気持ちよく歌っていると、息を吸い込んだ瞬間、くんっとあまり嗅いだことのない匂いが鼻を付いた。不思議に思って、歌うのをやめて辺りを見回す。
目を凝らして、真っ直ぐに前方を見つめると、その先に一筋の煙が立ち上っているのを見つけた。
「え、火事!?」
慌てて駆け寄ると、教室棟の外階段二階の踊り場に寄りかかって、空を見上げている男の人が瞳に映り込んだ。思わず、立ち止まってしばらく見入ってしまう。
慣れたように口元のタバコに添える手は細く長い。どこを捉えているのか分からない、憂いを帯びた瞳が大人びて見える。
ふと我に返って、気が付かれないようにこの場から去ろうとしたのに、スマホに触れた手がどうしてか私の動画を鳴らし始めた。
心臓が飛び出るほどに音を立てて暴れ出す。慌てて、すぐに音を消してまた視線を二階に向けると、目を見開き驚いた顔をしている彼と、しっかり目が合ってしまった。
「え、もしかしてさっき歌ってたのって……」
歌っていたこともバレていたらしい。どうしようか迷ってから、逃げるしかないと踵を返すと、「待って!」と彼が叫ぶ。
反射的に止まってしまった私は、進むことも出来ずにゆっくり振り返ると、また彼を見上げた。慌てるようにして、手元のタバコと私を交互に見てから、彼は火を消して否定するように首を振った。よく見ると、学校の制服を着ているし、さっき見た大人な雰囲気など微塵も無くなってしまっている。
「美雨ちゃん! 見なかったことにしてーっ!」
身を乗り出すようにして、こちらに向かって私の名前を呼ぶから、驚いた。
「……え」
私のこと、知ってる?
返事もせずにいると、彼が階段を駆け降りてこちらに来る。
「マジで頼む! また退学とかマジで無理だから。誰にも言わないで!」
目の前まできて、必死に頭を下げてくるから唖然としてしまう。驚いたことは確かだけど、私は誰にも言うつもりはない。だって、かくしごとの一つや二つ、誰にだってあるはずだ。私にだって、知られたくないことはあるから。
それにしてもこの人、近くで見るとかわいい顔をしている。背が高いけど、少し癖っ毛の髪が柔らかそうで、何よりも目の前で眉を下げて手を合わせる必死な姿は、悪いことをしてしまって謝る子供にしか見えない。
「……言わない、ですけど」
「ほんと!? 良かった! マジ、助かる!」
安心したようにため息を吐き出した彼は、制服を見る限り、たぶん先輩だと思う。緩めたネクタイには緑のライン。一年生の私はリボンに赤のラインが入っているから、同級生ではないはず。
「それよりさ、もう一回歌ってくれないかな」
「……え」
「ハレの歌」
「……あ、やっぱり、聞こえました?」
「うん。どっかから音源流れてんのかな? って思ったんだけど、違うなぁって、どっちだろなぁって考えてたら、君が現れた」
「……どうして、私の名前、知っているんですか?」
さっき、「美雨ちゃん」ってはっきり言われた。クラスメイトにも下の名前で呼ばれたことなんかないのに、どうして知らない先輩が私の名前を知っているのか、不思議でならない。歌声を聞かれてしまっていたんだから、まだ「ハレちゃん」と呼ばれた方が腑に落ちたのに。
「さぁ? なんででしょう?」
ニヤリと笑ってごまかすから、なんだか胸の中がモヤッとする。
「俺の元気の源なんだよね。美雨ちゃんの歌」
嬉しそうに笑って、空に手をかざす先輩の見つめる先に、私も視線を向けた。
『真っ青に晴れた空みたい。』
『目に沁みる輝く太陽の日差し。』
『ハレは、晴れの似合う聞く人の耳に、心に残る歌声を持つ歌姫。』
SNSに送られてくるコメントの中に、そんな嬉しい言葉をたくさん見つけては、喜んでいた。
だけど、ふと現実に戻ると、私の立っている場所は全然晴れてなんかいない。ウジウジしている湿っぽい自分が、私は好きじゃない。
「ねぇ、歌ってよ」
この人、私がハレだって気が付いたわけではないのかな。真っ直ぐにただ純粋に、ハレの歌が好きなだけなのかもしれない。そんな気がして、私は周りに誰もいないことを確認すると、スマホからハレの曲を流す。
ワンフレーズだけなら。そう思っていたら、先輩がキラキラした瞳で地面に座り込むと、私を見上げてた。
ステージでもなんでもないのに、いつも一人で歌っていて、誰かが聴いている前でなんて歌ったことがないから、いざ、曲が始まって歌い出そうとすると、声が出ない。自分でも驚く。歌ってみようって気持ちはあるのに、まったく声が出ない。さっきまで普通に歌えていたのに。
「……ごめん、なさい」
曲だけが日陰に響いて、暗く重たい私の謝罪の言葉は風の音にさらわれて消えてしまったかもしれない。
目の前で嬉しそうに待っていた先輩は、立ち上がって俯いた私の前に来ると、「謝らないで」と言ってくれた。
「私、人の前で話すのが苦手で。たぶん、歌も一緒なんだと思います。誰もいなければさっきみたいに普通に歌えるんですけど。だから、歌えないです」
また、ごめんなさいと頭を下げた。
そもそも、誰かの前で歌おうなんて考えたこともなかったし「歌って」なんて言われて、少しだけ嬉しく思っただけだ。「ハレ」は私が作り出した人物。画面の中にしかいない、私の妄想。
「もしかして、ここいつも来てた?」
「え……」
また、ニコッと笑うと先輩は聞いてくる。だから、私は頷く。もしかしたら、先輩の方が先にこの場所を使っていたのかもしれない。そこに、私が誰もいないと思って、自分だけの場所だって勝手に思っていたんだ。お気に入りだったんだけどな。明日からは、来ない方がいいのかもしれない。そう考えると、ため息が出そうになるから、ぐっと堪えた。
「じゃあさ、明日もここで会おうか」
「……え?」
「ここ、俺の憂さ晴らしする場所なの。美雨ちゃんの歌が聞けるなら、これもやめれそう」
そう言いながら、先輩は右手でタバコを吸う仕草をする。よっぽどストレスでも溜まっているのだろうか。タバコなんて体に悪いだろうし、第一高校生が吸っていいものではない。あまり関わるのも危ないような気がして、私は頷けずにいる。
「あ、言っとくけど、俺二十歳過ぎてるから」
「……え?」
「これ、内緒ね。実は訳あって今二十一でまた高校生やってんだよね。タバコはなかなかやめらんなくて。一応学生だし、本当はダメなんだけど、放課後帰る前に我慢できなくてここで吸ってから、いつも帰ってたの。誰も来ないと思ってたんだけどねー、かくしごとするってなかなか難しいよね」
ははっと呑気に笑っているけど、私がハレであることを隠していることが、いつでもバレるんだぞと言われているような気がして、なんとなく警戒してしまう。とは言っても、この人の話はどこまでが本当なんだろうか。
二十一? え? それは嘘でしょ。大人びてはいるけど、見た目は童顔だし高校生だと言われたら間違いないと思ってしまう。
「ははっ、色々頭ん中で考えてるでしょ? 表情に出てる」
笑われたのが恥ずかしくなって俯いていると、先輩が何かを差し出してくる。
「はい、あげる。これ、喉にめっちゃいいよ」
言いながら、先輩はもう一つをポケットから取り出して食べた。甘いイチゴの香りがふんわりと空気に舞った。私の好きな味だ。「はい」と手を近づけてくるから、素直にもらうことにした。
「あ、ありがとう、ございます」
「なんか、思ってたのと違ったな」
「え?」
「いや、こっちの話。明日は聴けるといいな、美雨ちゃんの歌」
階段下においてあったリュックを手に取って、先輩は「またね」と行ってしまう。
「あ、あのっ……」
「ん?」
「名前、聞いても、いい、ですか?」
言葉が途切れ途切れで口から出ていく。後ろ姿の先輩に届いただろうか。そんな心配をしていると、立ち止まって振り返った笑顔に、ドキッと胸が高鳴る。
「うん。陽永だよ、二年。またね、バイバイ」
「あ、」
なんと返していいのか分からなくて、私は振られた手に、小さく振り返すことしかできなかった。
二年。やっぱり、先輩だ。陽永先輩。
どうして私の名前を知っていたんだろう。気になる。明日も会えたら、聞いてみようかな。
胸の中が、ほんのりあたたかくなる。学校に来ていて、誰かとこんな風に話をすることなんてなかったから、素直に嬉しかった。なんとなく、頭の中にメロディが思い浮かんで、帰り道は鼻歌を歌いながら足取りも軽く家まで帰っていた。
◇
「ただいま」
玄関のドアを開けると、すぐに「おかえり」と母が忙しなく動きながら笑顔をくれる。今夜の夕飯はカレーかな。キッチンから流れてくるスパイスの香りにそう思った。
「お兄ちゃんは?」
「部屋にこもってるわよ」
靴を脱ぎながら聞くと、母は二階を指差しながら呆れ顔。耳を澄ますと、ギター音が聞こえてくる。私も自分の部屋へ行くために階段を上がり、隣の兄の部屋の前に来るとノックをした。すぐにギター音が止んで、ドアが開く。
「お、美雨おかえり」
「ただいま。あのね、帰ってくる途中でいい曲浮かんだの……スマホに鼻歌録ってあるから、聴いてよ、お兄ちゃん」
「おー、マジ。すげぇな。とりあえず着替えておいで。で、飯食ったらやるか」
「うん」
さっき、帰り道で頭の中に流れ出したメロディ。初めて会った先輩とのことが、なんだか運命的な気がして、胸がワクワクして、気が付けば一曲出来そうなくらいに高揚した気持ちで鼻歌を歌っていた。早く兄に教えたくて、急いで帰ってきた。
兄は私の五つ年上。小さい頃からかっこよくて優しくて、私にギターと歌うことの楽しさを教えてくれた。中学の時から始めたギターとバンド活動。毎日楽しそうにしていて、その頃は一緒に遊んでくれることも少なくなって寂しかったけど、たまにバンド仲間のところに連れて行ってくれたり、歌を歌わせてくれたり、私もすごく、楽しかった。
だけど、高校ニ年生の終わりにバンドは解散。その時の兄は少し、いや、だいぶ荒れていて、近づくのが怖くて私は一度、兄から離れた。
兄とまたこうやってギターや歌のことを話すようになったのは、本当に最近で、歌姫ハレは兄のおかげで生まれたようなものだ。
『楽しかったバンドが解散したショックが落ち着いてきたのかな。前向きになれてきたんじゃないかな』と、母は言っていた。大学でもバンドは続けられたと思うけど、メンバーそれぞれの意向が合わなくて、結局は解散になったらしい。
私も楽しかった思い出があったから、なんで? どうして? と、小さいながらに兄に疑問をぶつけてしまっていたはずだ。
事実を受け止めて前を向くことも、一つの選択肢なんだと思う。一方の私は、みんなとは交われないことが事実だから、受け止めている。
「うっわ、めっちゃいいじゃん」
「……ほんと?」
夕飯のカレーライスを食べ終えて、デザートのバニラアイスを部屋に持ち込み、兄の反応を待っていた私に、満面の笑みをしてくれる。
黒髪に前髪だけ鮮やかなブルーが入っている。耳にはピアス。バンドをしていた頃の尖った雰囲気はほとんどなくて、普通のオシャレな大学生。彼女も常にしっかりいる様で、私と話している時にもスマホで何度もやり取りしている。交友関係も色々とあったんだとは思うけど、兄は友達もたくさんいる。兄妹でこうも違うのは、何故なんだろうか。兄は私が不器用なだけだと言うけれど、器用にするには、どうしたら良いのかも分からない。
「で? その先輩って奴はかっこいいの?」
「え!?」
パソコンをカタカタと打ちながら聞かれて、思わず声が上擦った。
「はは、なに? 恋しちゃった?」
「し、してない!」
「まぁ、一目惚れとか嘘だからね。一回話しただけで好きとか、あり得ないし」
笑いつつも淡々と言うから、兄はあまり夢のない人なのかなとか思ってしまう。私だって、一目惚れとか恋に落ちるとか、よく分からない。だけど、一目惚れしてみたいし、恋にだって落ちてみたいって気持ちだけは、ある。
少女漫画の中に出てくる様なイケメンと恋ができたらいいな。なんてことを思いながら歌詞を考えたりもしているから。だけど、現実はそんなこと起こる気配もない。だから、やっぱりハレは単なる私の妄想でしかない。
「でもそう言うシチュエーションって大事だよね。創作する人にとって経験ってやっぱり強いと思う。説得力増すしね」
「……そう、なんだ」
「まぁ、俺はもうなんも作らないから関係ないけどね」
動いていた手が最後のカーソルを叩いて、兄はこちらを向いた。
すっかり音楽からは離れてしまった様で、これまでやってきた作曲や作詞、すべてをやめて、たまにギターを弾くだけにしている様だ。作曲や作詞はしなくなっても、ギターを弾けなくなるのは寂しいからと言う理由で、勉強の合間に息抜きとして弾いているらしい。
「まぁ、恋はしておいた方が良いんじゃない? けっこうそれ系みんな好きだから」
「……ハレに言ってる?」
「うん。ハレと美雨は別物でしょ?」
「……うん」
別物。ハレは、私が創り出した創作。実在しない。だから、自由になんでも出来る。でも、ハレが人気であることを知れば知るほど、最近は、美雨である私はいったいなんなんだろうって、考える様にもなっていた。
「美雨、ハレやってて楽しい?」
「……え」
「なんか、最近人気が波に乗りすぎてて、疲れてない?」
きっと、ハレを始めるきっかけを作ってくれた兄だから、そう言ってくれるのかもしれない。疲れている、と言うのとは違う。ハレとして歌うことや曲を考えることはすごく好きで、それが疲れるとは思わない。むしろ、毎日がすっごく楽しい。疲れているとしたら、現実の私だ。
「ハレでいることは、楽しいの。だから、疲れないよ。みんなからのメッセージが、明日も頑張ろうって気持ちにさせてくれるから」
「そっか。俺も妹が人気者で鼻が高いよ」
「ハレに兄妹はいません」
「あ、そう言う設定?」
はははと笑う兄に釣られて私も笑う。
好きなことをしている時は本当に楽しいの。鼻歌だけだった曲が、ギターで徐々にメロディに変わっていく。楽譜が出来て、一つの曲になる。それまでの工程が、難しいんだけど、楽しい。
いつか、美雨の歌を聴きたいと言ってくれた陽永先輩の前で、堂々と歌える日が来れば良いなって、小さな目標を立てた。
◇
なんだか、今日の世界はいつもよりワントーン明るく見えるな。なんて、教室の片隅で窓から空を見上げて思った。
放課後に専門教室棟の裏に行くことに浮かれている自分がいることに、朝から気が付いていた。一人で過ごす時間が多かったから、誰かに声をかけてもらえたことは、やっぱり嬉しかった。
授業を終えるとすぐに教室を出る。
いつもよりも早く、目的の場所についてしまった。先輩はきっと、まだかもしれない。
昨日ははぐらかされてしまったけど、どうして私の名前を知っているのかを、今日は聞いてみたい。
日の当たっている場所に立って、そっと目を閉じた。太陽の日差しがあたたかい。スポットライトを浴びる様な気持ちで、私は美雨からハレになる。気持ちを切り替えれるのは、やっぱりこの場所だ。
スマホはポケットに入れたまま。音を鳴らすことなく頭の中に流れてきた曲に、そっと声をのせる。ハレが作った曲は、まだ一曲だけ。きっと動画がバズったのは運と奇跡だ。たぶん、すぐにみんなに忘れられる。そんな風に思いながら、でも、人気になるほど次もなにか届けたいと思う自分もいる。
歌い終えて目を開けると、拍手が聞こえてきた。驚いて音の方へ視線を落とせば、目の前にはいつの間に来ていたのか、陽永先輩がいた。
「めっちゃいい! 最高!」
より大きく拍手をして立ち上がるから、私は急に恥ずかしくなってきて、顔に上がってくる熱を両手で包み込む様におさえた。
「美雨ちゃんの歌が聴けて嬉しい」
満足そうに笑う先輩に、胸の奥がやっぱりきゅうっとなる。
「あ、あの」
「ん?」
「どうして、私のこと知ってたんですか?」
「それ、気になる?」
困った様に眉をしかめてから、まるで聞いて欲しくないみたいに質問を返されるから、小さく頷いてはみたものの、先輩のことを困らせたくないとも思った。
「あ、で、でも。先輩が言いたくないのなら、大丈夫です」
うん。と、自分を納得させる様に頷いて、笑った。
「……俺もね、歌ってたの」
「……え?」
「もう歌えないんだけどね」
そう言いながら、無意識なのか制服のポケットから何かを取り出して口に咥えた。
慣れた手付きでカチッと音がしたかと思えば、またあの匂いが鼻に付く。思わず、私は一歩後退りをした。
「あ……ごめん」
すぐに、先輩はタバコを持つ手を私から遠ざけた。
「ヤバ、無意識だった。ごめんね」
付けたばかりのタバコの火を、携帯灰皿で消して寂しげに謝るから、私は首を横に振った。
「ちょっと色々あってさ、歌うことが出来なくなって。こんなのに手出したらなんとなく気がまぎれる気がして、良くないとは思いつつ、ついね」
ははっと笑う先輩は、やっぱりどこか寂しげだ。
歌うことが出来なくなる。
それって、私だったらどうなんだろう。
ハレでいられる時間はすごく楽しくて、美雨である私のことを救ってくれている。今の私が歌えなくなったら、きっと、困る。
「だから、美雨ちゃんの歌を聴いて満足してんの。今だってかなり大満足だったんだけどなー。無意識ってこわっ!」
自分を抱きしめる様に身震いをする先輩。
「……タバコ、止める気はあるんですか?」
「え……」
ぴたりと動きを止めてこちらを見るから、聞き方が悪かったんじゃないかと思って気まずくなる。
「あー……」
首筋を掻いて、バツが悪そうに先輩は笑うと、ため息をついた。
「止める気はない、かも」
「なら、また歌える様になったら、止められるんじゃないですか?」
なにを、私は必死になっているんだろう?
先輩の歌が聞きたいのかな?
タバコを止めさせたいのかな?
聞きながら、冷静になって心の中で思う。
「……いや、俺はもう……」
合っていた視線が逸れた瞬間、先輩のことを、追い詰めている様な気になって、申し訳なさが込み上げてきた。
「あ、あの……」
俯いたまま、キュッと両手を握りしめた。
「ハレの新曲が出来上がったら、私歌います。また、先輩の前で歌わせてください」
「え? ハレの、新曲?」
まだ、新曲を発表するなんてどこにも公言していない。もちろん新曲はまだ未完成だから、いつとは言えない。
あれ? でも、 先輩は私がハレだって、気が付いていると思っていた。
だけど、目の前で驚いた様に目を見開いている先輩の顔は、どう見ても知らないに等しい。
「ハレの新曲情報なんて、どこから知ったの?」
眉根を寄せて、一歩私に近づく。
え、ちょっと待って? もしかして、気がついていないのかも。
私の思い違いだったかもしれない。確かに、普通に考えて分かることだ。ハレが私だなんて言ったって、笑われて終わりじゃん。だから、私は絶対にハレが私だなんて誰にも言わないって決めていたのに。自らバラそうとするなんて、なんだか変だ。
でも、先輩には、知ってほしいって、気持ちがどこかにある。
「あ、あの、実は、ハレは──」
思い切って打ち明けようとして顔を上げると、先輩の人差し指が私の口元に伸びてきて、ストップをかけた。
「知りたくない、かも」
「……え?」
「ごめん、俺が聴きたいのは、美雨ちゃんの歌だから」
ふっと、静かに笑うと、先輩は「またね」と行ってしまった。
先輩は、ハレが好きなんだよね?
美雨の歌なんてないのに。私が歌う歌は、みんなハレの歌だ。
美雨として歌っているところを見たから、私が歌っているって思うのかもしれないけど、全然違う。歌っている時の私は、私が作り出したハレだ。
全部、創り物だ。
◇
「どうした? 美雨」
兄が私の鼻歌を元に曲を書いてくれた。自分で曲を作ることはやめてしまったけど、兄は私の思いついた曲をひとつの音楽として作り出してくれる。私にはまだ出来ないことだから、いつもすごいなと思う。
今でも、バンド時代の曲をギターで弾いたりしているのは、本気でやってきたからだと思うし、なにより、音楽が好きなんだと思う。
「お兄ちゃんのバンドのボーカルって、上手かった?」
「え? ああ、かなり」
「そっか」
即答で答えるから、ただ圧倒される。
一度だけ兄に連れられて高校の文化祭を見に行ったことがあった。けど、まだ小学生だった私は、体育館にたくさんの人、賑やかなお祭り騒ぎの雰囲気にのまれて、初めて聴く爆音に耳を塞ぎ、曲を聴くどころではなかった。ただ、控え室で会ったメンバーはみんな優しかったのを覚えている。
『えー! 晴流の妹!? かわいー!』
『男ばっかで怖くないー?』
『よく来てくれたねー!』
あっという間に背の高いイケメンなメンバーのお兄さん達に周りを囲われて、驚きはしたけれど、なんだかワクワクの方が上回っていた。
『はい、アメあげるー』
記憶の中に、逆光に立って手を差し出す人。顔がよく思い出せないけど、アメをもらった記憶ははっきりと覚えている。
甘酸っぱいイチゴ味のキャンディ。
『美雨、この味好きー』
『そっか、美雨ちゃんはイチゴ味が好きなんだねっ』
『うんっ』
鮮明に、そんなやりとりを思い出した。
「……イチゴ味の、キャンディ」
ふと、陽永先輩からもらったキャンディを思い出す。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「んー?」
「お兄ちゃんって、今何歳だっけ?」
パソコンの画面を見ている、後ろ向きの兄に聞く。
「えっとねー、今年二十二になるかな。あ!もう来月じゃん! なに美雨なんかくれんの〜? いーっていーって、気を遣わなくても」
カレンダーに視線を向けた兄は、自分の誕生日を思い出して勘違いをしている。まぁ、こうしてお世話になっているから、気持ちくらいの何かはあげてもいい気はするけど。
でも、私が気になるのはそうじゃなくて、兄の年齢だ。
『実は訳あって今二十一でまた高校生やってんだよね』
陽永先輩が言っていたこと。兄と同じ歳。歌を歌っていた過去。あまりにも、情報が当てはまりすぎている。
「お兄ちゃん、バンドやってた時のボーカルの人の名前って……」
「え? ヒナト?」
「……え?」
「ヒナトってやつだよ」
あまりにもあっさりと答えるから、私の思考が止まってしまう。
「ほら、美雨も小学校の時会ってると思うよ」
逆光で見えなかったバンドのメンバーの顔が、陽永先輩の姿になって頭の中に現れた。
まさか。いや、でも。入学した高校に、兄の同級生でバンド仲間だったボーカルの先輩がいるなんて、そんな偶然ある?
「ん? なんか色々考えてる? ヒナトよく美雨の表情がコロコロ変わるのが面白いって笑ってたなぁ。あいつ今なにしてんだろ。なつかしー」
遠い昔のことの様な兄の言い方に、完全にもうバンドには未練がないことが分かる。
だけど、陽永先輩は?
もしも、陽永先輩が兄の言うヒナトさんと同一人物だとしたら、ヒナトさんの時間は止まったままなんじゃないかなと、考えてしまう。
「お兄ちゃんは、もうバンドする気はないんだよね」
「え? なに、いまさら。もういいんだよ」
明るく笑うから、やっぱり未練なんてないんだろう。陽永先輩だって、もう歌えないって言っていた。
「その、ボーカルのヒナトさんって、歌えなくなってやめたの?」
「え……なんで知ってんの?」
「え……」
「もしかしてさ」
私は、考えていることがすぐ顔に出るらしい。嘘はつけない人の様だ。兄が目を細めて核心をついてくる。
「美雨の言う先輩って、まさか陽永なの?」
首を横に振るべきところなのに、動けなくなってしまった。たぶん、私と兄の思い浮かべている人は同じだから。
「高校生なの!? あいつ! まじで!?」
もっとしんみりしてしまうんじゃないかと思えば、兄はケラケラ笑い出した。
「えー! 連絡先交換した!?」
「い、いや」
「なんだよ、今度聞いてきてよ。久しぶりに会いたいなー! 飲みに誘おっかな」
「いや、先輩高校生だから」
「ん? 飲みに行けないの?」
「え? あー、分かんないけど……」
「あいつめっちゃかっこいいでしょ? 美雨が一目惚れするの分かるわー」
「え!? 一目惚れしてないっ」
一目惚れなんてないって言ってたじゃん。と心の中で突っ込むけど、兄はニヤニヤとして聞いていない。
「だって、これって陽永に向けて書いたんでしょ?」
思いついたメロディーにのせる言葉を、あの日寝る前にノートに綴っていた。思いつく言葉と、これまで見てきた言葉。そして、あの日陽永先輩と出逢った時の気持ちを言葉にしてみた。それが、ハレの今度の新曲になる。
陽永先輩に向けて書いたと言われれば、そうかもしれないけど、だけど、これが一目惚れとか、恋とかなのかは、やっぱりよく分からない。でも。
「……うん、陽永先輩に聴いてほしいと思って書いた」
ハレは、自分のために作り出した歌姫だった。自分が変わりたいって気持ちを、代わりにハレがなりたい私になってくれていた。全部、ひとりよがり。共感を得られたのは、誰しも今の自分から変わりたいって思いを抱えて生きているからかもしれない。
でも、今は美雨としての気持ちを歌にしようとしている。
私は、もしかしたら、陽永先輩のおかげで変わることが出来るのかもしれない。
新曲は夜通し兄に協力してもらって少しずつ形になっていく。
その合間に配信している途中経過に、コメント欄は賛否両論。最近の私は、以前のハレとは何か違うらしい。感じ方は人それぞれだし、ハレの正解なんてどこにもない。私が創り出した物だから。私がどうとでも出来るだけだ。
誰かに向けてハレの歌を届けるんじゃなくて、陽永先輩ただ一人に聴いてもらえばいい。そう思ったら、私がハレでいる必要がないんじゃないかと思った。みんなの特別よりも、ただ一人、ちゃんと私のことを見てくれる人のために歌いたい。
「私、ハレでいるのやめる」
「はぁ!? 今めちゃくちゃ波きてんのに?」
「うん。私は、やっぱり美雨でいたいなって。陽永先輩に美雨ちゃんって呼ばれるたびに、心の中があったかくなって、何かが弾むの」
「……あー、それってさぁ。やっぱり」
説得しようとしたのかもしれないけど、真っ直ぐな私の決意に、兄は諦めた様にため息を吐いて、笑った。
「自分の思う様にやりな。美雨」
ポンっと優しく頭を撫でてくれた兄に、私も笑って頷いた。
◇
「最近のハレってさぁ、ただの恋する乙女じゃない? なんかぁ、つまんない」
「わかるー!」
今日も教室の中では誰かがハレの話題を話している。男子でも女子でも、どちらにも話題に上がるハレはすごいなと、他人事の様に思っていた。
でも、最近のハレは今までよりも周りの反応は良くない。よくないと言うか、悪いわけでもなくて、普通。きっと、みんなやっぱり創り物のハレには、すぐ飽きてしまったんだ。
何かを続けていくって、難しいことなのかもしれない。偽物を作り続けることも。だから、私は同じ難しいなら、ちゃんと自分を、美雨をしっかり生きていこうと思った。
陽永先輩には、偽らないありのままの私を見てほしい。人気の歌姫が、友達ゼロの冴えない女子だったとしても、きっと笑って私の歌を聞いてくれそうな気がする。
放課後、いつもの場所に向かう。
陽永先輩の歌もいつか、聴いてみたいな。なんて思いながら、足取りは軽い。
今日も空は晴れていい天気。時折吹く柔らかい風が心地いい。くんっと、鼻につく匂いにすぐさま反応する。
「陽永先輩」
「……あ!」
私に気がつくと、ぼうっとしてタバコを咥えていた先輩は慌てて携帯灰皿にタバコを捨てて、こちらを向いて笑っている。
「先輩、ここに来るとタバコ吸っちゃうんですよね?」
「……あはは」
「あの、陽永先輩。もう、ここに来るのやめましょうよ」
戸惑いつつも、真っ直ぐに伝える。私は、もうハレをやめる。だから先輩も。
「私、陽永先輩と一緒に歌えたらいいなって、思ったんです。だから、タバコやめましょう。そして、あの、この連絡先に連絡してほしいんです」
「……え?」
スマホを向けると、陽永先輩が怪訝な顔をして近づいてくる。画面には、兄の連絡先が表示されている。そっと覗き込んだ先輩は、目を見開いて顔を上げると、私と目を合わせた。
「……え、晴流?」
すぐに兄のことが分かったから、やっぱり陽永先輩が兄の言うヒナトさんであることは間違いない。
「なんで、俺が晴流に連絡しなきゃないの?」
眉間に皺を寄せて、不機嫌な顔になってしまう陽永先輩。もしかして、兄とは連絡をとりたくないとか……?
「美雨ちゃんさ、俺が歌えなくなった理由晴流から聞いてる?」
「え……あ、いえ」
それは、立ち入ってはいけないような気がして、聞いていなかった。陽永先輩が何に苦しんでいるのか気になってはいたけど、だけど、そこに踏み込んでしまう勇気は、私にはなかった。
「あいつ、たぶん俺がなんで歌えなくなったのか、ちゃんと知らないんだよね」
「……え」
「俺が、曖昧にしたまま解散しようって言い続けたから。晴流はボーカルは俺じゃないとダメだって言ってくれたんだけど、あの時は俺もまだ子供だったんだよな。晴流のこと許せなくて」
苦しそうに笑う陽永先輩に、私は一歩近づいた。
「なんで、陽永先輩は、歌えなくなったんですか?」
なかなか他人に踏み込めずにいたのに、気が付いたら、聞いてしまっていた。
太陽が雲に隠れたのか、辺りは影を濃くする。静かに吹いてきた風が、伸びた雑草を揺らした。
「……俺がずっと好きだった子のことを、晴流が傷つけたから」
泣きそうに笑うのは、当時のことを思い出しているからか、陽永先輩はゆっくり話し始める。
「俺には幼なじみがいて、広香って言って、音楽はやらないけど、バンドの練習とかみんなで集まったりする時とかは必ず広香もそこにいて、バンドのムードメーカーでもあったんだ」
広香さんは明るくて、友達も多くて、誰とでも親しくなれる子で、陽永先輩もそんな広香さんのことがずっと好きだったらしい。
だけど、いつの間にか広香さんは兄と付き合っていることが分かって、バンドメンバーも当たり前のように祝福した。諦めようと決意しながらも、毎日二人を見ることが辛くなって、そのうち、学校に来るのが苦痛になってしまったらしい。
そんな時に、広香さんが兄のファンからいじめを受けていることに、陽永先輩は気が付いたらしく、広香さん本人は「大丈夫」と言って、兄と別れる気はないと断言したらしいけど、幼なじみである自分には、辛いと本音をこぼしてくれたことが、嬉しくも悲しくもあったと。
その後もまた色々あって、二人は別れることになったらしいけど、一度でも広香さんのことを傷つけた兄のことが、きっと陽永先輩は許せなかったんだと思う。
「平気なフリなんてしていられなかったし、家まで来てくれたメンバーとも会いたくなかった。バンド活動もままならず、時だけ過ぎていって。連絡はメッセージのやりとりだけ。理由も説明もなく、バンドをやめる。解散しよう。その言葉だけを突きつけ続けた。晴流や広香、他のメンバーからの着信やメッセージ、家の前で叫ぶ声。すべてにストレスを感じて、気が付いた頃には高校は中退。歌を歌おうなんて気持ちもどこかに行ってしまっていた」
はぁ。とため息をついて、段差に腰を下ろすと、陽永先輩はこちらをそっと見る。
「だけど、根本的には歌が好きなんだ。ハレの話題を見た時に、やっぱり歌っていいなって思った」
しかめた眉が泣きそうだけど、細くなった目は笑う。かと思えば、やっぱり辛そうな表情に変わった。
「でもさ、ふと歌ってみたくなって声を出そうとしても、歌えなくて。喋ることはできるのに、歌おうとすると、喉に幕があるみたいに声を出すことを拒むんだ。もう歌うことをやめたのに、バンドも解散に追い込んだのに、今更歌おうとするなんて、そんなの都合が良すぎることだと、落ち込むしかなかった。いっそ、全く歌えなくなったら諦められるだろうかって、やけになってタバコに手を出したんだよ」
やっぱり力なく笑うから、話を聞き終えた私は、陽永先輩の隣に座った。
日陰だった場所に、雲の切れ間から太陽が差し込み、ゆっくりと日差しが照らしてくる。柔らかいキラキラした光の筋が、陽永先輩の姿を包み込んだ。
徐々に、光は私の方へもやってくる。
私の中で一度完成しているあの曲の歌詞は、今日から変えてしまってもいい気がする。
すぅっと息を吸い込んで、空を仰いでから目を瞑った。
『雨もハレも美しい。
楽しくて、嬉しくて、心も体も弾んであたたかくて、満たされる。
それは、恋だといい。
目を細めて見上げる空に眩しい太陽。ただ一人に注目してもらえていれば、幸せなんだよ。』
私が、陽永先輩に会って、ハレじゃなく美雨として私のことを見てくれたことが、嬉しかった。だから、今までの言葉を変えて歌う。
届いてほしい。もう、悲しい顔をしなくていいし、一人で悩んで、タバコに束縛されることもなくなってほしい。
吸い込んだ喉と鼻に新緑の匂いが入り込む。目をそっと開くと、目の前にキャンディが差し出されていた。驚いて顔を上げると、日差しを受けて笑うあの時の姿と重なった。
「私、この味、好きです」
「そうだよね、美雨ちゃんはイチゴ味が好きなんだよね」
美雨のことを、陽永先輩は知っている。ずっと前から。だから、先輩はハレじゃなくて、美雨の歌が聴きたいと言ってくれたんだ。
「今度、晴流に連絡するよ。あの頃言えなかったこと、全部ぶちまけて、ストレス発散してやる」
ははっと笑う陽永先輩に、私は驚いてしまう。
「それでね、ちゃんと謝るよ。俺のせいでバンドを続けられなくてごめんって。あの時、俺を必要としてくれて、ありがとうって。ずっと、ずっと言いたかったんだ、本当は」
ため息混じりの息を吐き出し、必死に涙を我慢するように上を向く。
「何も言わないなんて卑怯だよな。ちゃんと、伝えないと。だから、俺はここからまた、自分のことを見直すためにもまた高校生やってるんだ」
空を仰ぎ見た陽永先輩は、額に手をかざして目を細める。眩しそうに、だけど、どこかすっきりしたような横顔をしているから、ホッとする。
「もしかしたら、美雨ちゃんと再開するためだったのかもしれないね」
ふっと笑った顔に、胸の奥でまた何かが弾む。
「もう、ここに来るのもタバコも、やめるよ。そのかわりに──」
近づいて来た陽永先輩からは、イチゴの甘い香りがする。そっと耳元で囁く言葉に、私はすぐに頷いた。
「ありがとう。美雨ちゃん」
笑顔を向けてくれるから、嬉しくてもう一度大きく頷いた。
◇
私は、ハレをやめた。
同時に、教室でハレの話題はほとんど聞かなくなった。
「ねぇ! 美雨ちゃんの書いた詩、今回もめちゃくちゃ良かった!」
帰る支度をしていた私のところに、クラスメイトの橋本さんが興奮気味にやってきた。それに釣られるように数人に囲まれる。
「ありがとう、橋本さん」
「まじ、今までなんで気配消してたの? もっと話しかけて来て欲しかったのに」
「あー、私基本人見知りで……」
湿っぽいから。
「まぁ、確かに実物とSNSの美雨ちゃんはなんかギャップがあり過ぎるよね」
SNSの中では、素直に私の気持ちを吐き出すことにしたから。みんなと仲良くなれなくて諦めていた自分に、もっと頑張ろうよって言う。一人じゃないって、心強いんだよって、教えてあげる。そうしたら、自然とみんなとも話ができるようになった。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、またねーっ」
クラスの子達とは、少しずつ距離を縮められていることが嬉しい。
教室を出ると、校門を目指していっきに駆け出す。視線の先には、陽永先輩が待っている。
『これからは一緒に帰ろうよ』
陽永先輩が私に囁いた言葉。
初めて見た時は大人っぽく見えていたのに、今はなんだか子供っぽい陽永先輩。私よりずっと年上なはずなんだけどな。
陽永先輩との帰り道。歌のこと、学校のこと、家のこと。なんでもないことでも、一緒にいると、話していると、楽しい。
そんな楽しい毎日のことを、私は詩として言葉に残す。伝え合うことは大切なんだと思う。
きっと、陽永先輩と一緒に歌える日は、そう遠くないかもしれない。