「おかえり、真琴」
姉が笑顔で出迎える。
今日も、姉の方が早かった。
「ただいま。早いね」
「あんたの方が遅いのよ。この間なんてもっと遅かったじゃない。何か用事でもあった?」
「――ん、ちょっとバスケ部見に行ってた。悟志に誘われたんだ」
姉の問いに、俺は準備していた言い訳を答える。
「へえ、バスケ部。すっかり離れたものだと思ってたけど。勧誘?」
「出来ない身体だって、姉ちゃんが一番知ってるだろ? そうじゃなくて、たまには暇つぶしにでも見に来いよって。空気にでも触れてみりゃ気分も変わるだろうってさ」
「ふぅん?」
姉は、含みあり気に笑う。
「やっぱいい子だね、悟志くんって」
「――うん」
胸が、チクリと痛くなった。
悟志はいいやつだ。
そのいいやつの名前を借りて嘘をでっち上げたことが、苦しかった。
同じ内容で誘われたことはある。でも、昨日じゃない。
「そだ。真琴、明日何食べたい?」
「明日?」
「ん、明日。え、何? いつもやってることじゃん?」
そこまで言われてようやく、明日が土曜日であることを理解した。
部活の顧問をしていない姉は、土日は普通に休日だ。必要なことも、いつも学校で全て終わらせているらしい。
「そっか、土曜日か……」
麦茶を啜りながら考える。
そうか。今日は金曜日だったんだ。
ならあの日記は――わざわざ休日にまで出て来て書くようなことは、無いとは思いたい。
土日を挟んで月曜日まで待たなければならないのか。
それにしては、早く答えを知りたくなるような質問をしてしまったな。
「どうしたの?」
姉が聞く。
ふとして我に返って、俺は「何でもない」と答えると、お茶を一息に飲み干した。
「カレーで良いよ」
「またそんなこと言って。姉ちゃんを次の日楽させようとするんじゃありません」
「楽すればいいじゃん」
「ん、ありがと。あんたのそういうとこ好きよ」
「……うるさい」
ただでさえ忙しい毎日のくせに。
姉ちゃんだって、休みの日に姉ちゃんしなくたっていいだろう。
「ほれほれ、食べたいもの言ってみ。こう見えて何でも作れるスーパー姉ちゃんなんだから」
「マジ? じゃあエマダツィが食べたい」
「えま……? え、何それ?」
「知らないの? 何でも作れるんだろ?」
「――つ、作れるわよ…! ええ作れますとも! やってやろうじゃない!」
そう答えながら、姉は取り出したスマホと睨めっこを始めた。
知らないならそう答えればいいものを。
「……何よ?」
そんな姿が可笑しくて、思わず笑った俺のことを、姉が鋭く睨みつけてくる。
「別に。作れるくせに調べるんだって思って」
「あんたが何語かも分からないこと言い出すからでしょ」
「姉ちゃんが『何でも作れる』とか言うからだろ」
「限度ってものがあるでしょ」
「何でもって言ったら何でもだろ」
「知らないわよこんな料理。出てきたけど何よブータン料理って、あんたいつこんなもの知ったのよ」
「テレビか何かで見たんだよ。姉ちゃんも一緒に見てたやつだよ」
「いつよ」
「何年か前」
「そんなの覚えてるわけないでしょ」
——と、そこまで一息に言い合う俺たち。
ふとして訪れる沈黙に、どちらともなく吹き出した。
「あーくだらない。何よ、この子どもみたいな言い合い」
「ほんとだよ。いつまでもガキじゃん俺ら」
いつかのようにくだらない言い合いもすれば、不思議と心もスッと軽くなって、
「この間はごめん、姉ちゃん」
言葉は、思ったよりも喉につかえることなく出て来た。
「この間?」
「中間明けの悟志の誘い断ったやつ。姉ちゃんの言う通りだったよ。あと、もっと言い方とかあったなって」
「――ふぅん。珍しいじゃん、どうしたの?」
「別に、どうしたとかじゃないんだけど……」
俺は、これまであまり言って来なかった言葉を、頭の中で組み立て始めていた。
「父さんのことも母さんのことも、俺はあんまり知らないからさ。姉ちゃんはよく俺に『甘えろ』とか『友達のことは大切にしろ』とか言ってくれるけど、それがよく分かんないんだよ。あーいや、友達のことをっていうのは分かる。けど、親代わりでいるっていう姉ちゃんのスタンスはよく分かんなかった。姉ちゃんは楽しくやって来られなかったように見えてたのに、俺にはそれを求めてさ。わけ分かんなかったんだ」
「――ん」
「でも、姉ちゃんが人一倍頑張ってたこととか、誰よりも苦労してるんだろうなってことは、子どもの頃から何となく分かってて……俺さ、それをちょっとだけでも軽くしたいだけなんだよ。もう高校生だし、体力も力も付いて、出来ることも増えて来たから」
「……うん」
「まあでも、それと友達のことを一緒に考えて天秤にかけてたのは、多分俺が間違ってた。別に遊びたい時には遊べばいいし、そうじゃない時に助けられれば良いんだろうなって思う。今は。それでも、あんまり頻繁に遊べるような気にはならないけど。やっぱり、俺は家のことが一番だって思うから」
「――生意気なこと言うじゃん」
「こういうの、自分で言うとダサいだろ」
「別に。ちょっとかっこいいじゃん。見直した」
「……それはどうも」
なんだろう。妙にむず痒い。
だから言いたくなかったんだ。
「でも、この間の悟志の誘いを断ったのは、姉ちゃんが遅くなる日だったからってのは本当で――姉ちゃんは疲れて帰って来るのに、俺だけダラダラ遊んでるのは違うだろ? だから、まぁ、テスト明けとかタイミングの悪い時じゃなきゃ、あいつの誘いにも乗るよ。ほんと。多分」
「疲れるのなんて、社会人やってるんだから当然のことだよ。それ言ったら、あんただって勉強で疲れて帰って来るわけだしさ。やってること、立場、それが違うだけ。みんながみんな、日々疲れて生きてるものよ」
「それは、そうだけど……」
やっぱり、姉には口では敵わない。
そんなことを思って言葉に詰まる俺に、姉は小さく笑った後で席を立ち、俺のいるキッチンの方へと歩いて来た。
そうして傍らから麦茶の入ったピッチャーを手に取ると、俺の持っていたコップを取り上げて注ぎ始めた。
「私もあんまり言って来なかったけどさ。あんたの気持ちは、すっごい嬉しいんだよ。これでも、毎日ほんとに感謝してる。ありがとね」
「……ん」
素っ気なく応える俺の頭を、姉は麦茶を啜りながら無造作にわしゃわしゃと掻き乱した。
「でも、ちょーっと背伸びし過ぎかな。難しく考え過ぎ」
「仕方ないだろ。そういう環境で育ってるんだから」
「だね。あんたも私も、あれこれ考え過ぎだ。まあ、だからこそ上手くやれてきたんだろうな、とも思うけどさ」
姉は笑って、飲み干したコップを流しに置いた。
「今日もお疲れ様、真琴。私、先にお風呂入っちゃうね。食べたいもの、明日の朝までに考えておいて」
「――ん、分かった。姉ちゃんもお疲れ様。ゆっくり休んで」
「ん、ありがと。それじゃね」
最後にポンと肩を叩いて、姉はリビングを後にした。
叩かれたところから、ジンと温かさが広がってゆく。
こういうの、あまり口にしたことはなかったけれど――たまには、正直に話してみるべきなのかもしれない。
人と人とが言い合いになる一番の理由は、いつだって言葉が足りないせいなんだから。
姉が笑顔で出迎える。
今日も、姉の方が早かった。
「ただいま。早いね」
「あんたの方が遅いのよ。この間なんてもっと遅かったじゃない。何か用事でもあった?」
「――ん、ちょっとバスケ部見に行ってた。悟志に誘われたんだ」
姉の問いに、俺は準備していた言い訳を答える。
「へえ、バスケ部。すっかり離れたものだと思ってたけど。勧誘?」
「出来ない身体だって、姉ちゃんが一番知ってるだろ? そうじゃなくて、たまには暇つぶしにでも見に来いよって。空気にでも触れてみりゃ気分も変わるだろうってさ」
「ふぅん?」
姉は、含みあり気に笑う。
「やっぱいい子だね、悟志くんって」
「――うん」
胸が、チクリと痛くなった。
悟志はいいやつだ。
そのいいやつの名前を借りて嘘をでっち上げたことが、苦しかった。
同じ内容で誘われたことはある。でも、昨日じゃない。
「そだ。真琴、明日何食べたい?」
「明日?」
「ん、明日。え、何? いつもやってることじゃん?」
そこまで言われてようやく、明日が土曜日であることを理解した。
部活の顧問をしていない姉は、土日は普通に休日だ。必要なことも、いつも学校で全て終わらせているらしい。
「そっか、土曜日か……」
麦茶を啜りながら考える。
そうか。今日は金曜日だったんだ。
ならあの日記は――わざわざ休日にまで出て来て書くようなことは、無いとは思いたい。
土日を挟んで月曜日まで待たなければならないのか。
それにしては、早く答えを知りたくなるような質問をしてしまったな。
「どうしたの?」
姉が聞く。
ふとして我に返って、俺は「何でもない」と答えると、お茶を一息に飲み干した。
「カレーで良いよ」
「またそんなこと言って。姉ちゃんを次の日楽させようとするんじゃありません」
「楽すればいいじゃん」
「ん、ありがと。あんたのそういうとこ好きよ」
「……うるさい」
ただでさえ忙しい毎日のくせに。
姉ちゃんだって、休みの日に姉ちゃんしなくたっていいだろう。
「ほれほれ、食べたいもの言ってみ。こう見えて何でも作れるスーパー姉ちゃんなんだから」
「マジ? じゃあエマダツィが食べたい」
「えま……? え、何それ?」
「知らないの? 何でも作れるんだろ?」
「――つ、作れるわよ…! ええ作れますとも! やってやろうじゃない!」
そう答えながら、姉は取り出したスマホと睨めっこを始めた。
知らないならそう答えればいいものを。
「……何よ?」
そんな姿が可笑しくて、思わず笑った俺のことを、姉が鋭く睨みつけてくる。
「別に。作れるくせに調べるんだって思って」
「あんたが何語かも分からないこと言い出すからでしょ」
「姉ちゃんが『何でも作れる』とか言うからだろ」
「限度ってものがあるでしょ」
「何でもって言ったら何でもだろ」
「知らないわよこんな料理。出てきたけど何よブータン料理って、あんたいつこんなもの知ったのよ」
「テレビか何かで見たんだよ。姉ちゃんも一緒に見てたやつだよ」
「いつよ」
「何年か前」
「そんなの覚えてるわけないでしょ」
——と、そこまで一息に言い合う俺たち。
ふとして訪れる沈黙に、どちらともなく吹き出した。
「あーくだらない。何よ、この子どもみたいな言い合い」
「ほんとだよ。いつまでもガキじゃん俺ら」
いつかのようにくだらない言い合いもすれば、不思議と心もスッと軽くなって、
「この間はごめん、姉ちゃん」
言葉は、思ったよりも喉につかえることなく出て来た。
「この間?」
「中間明けの悟志の誘い断ったやつ。姉ちゃんの言う通りだったよ。あと、もっと言い方とかあったなって」
「――ふぅん。珍しいじゃん、どうしたの?」
「別に、どうしたとかじゃないんだけど……」
俺は、これまであまり言って来なかった言葉を、頭の中で組み立て始めていた。
「父さんのことも母さんのことも、俺はあんまり知らないからさ。姉ちゃんはよく俺に『甘えろ』とか『友達のことは大切にしろ』とか言ってくれるけど、それがよく分かんないんだよ。あーいや、友達のことをっていうのは分かる。けど、親代わりでいるっていう姉ちゃんのスタンスはよく分かんなかった。姉ちゃんは楽しくやって来られなかったように見えてたのに、俺にはそれを求めてさ。わけ分かんなかったんだ」
「――ん」
「でも、姉ちゃんが人一倍頑張ってたこととか、誰よりも苦労してるんだろうなってことは、子どもの頃から何となく分かってて……俺さ、それをちょっとだけでも軽くしたいだけなんだよ。もう高校生だし、体力も力も付いて、出来ることも増えて来たから」
「……うん」
「まあでも、それと友達のことを一緒に考えて天秤にかけてたのは、多分俺が間違ってた。別に遊びたい時には遊べばいいし、そうじゃない時に助けられれば良いんだろうなって思う。今は。それでも、あんまり頻繁に遊べるような気にはならないけど。やっぱり、俺は家のことが一番だって思うから」
「――生意気なこと言うじゃん」
「こういうの、自分で言うとダサいだろ」
「別に。ちょっとかっこいいじゃん。見直した」
「……それはどうも」
なんだろう。妙にむず痒い。
だから言いたくなかったんだ。
「でも、この間の悟志の誘いを断ったのは、姉ちゃんが遅くなる日だったからってのは本当で――姉ちゃんは疲れて帰って来るのに、俺だけダラダラ遊んでるのは違うだろ? だから、まぁ、テスト明けとかタイミングの悪い時じゃなきゃ、あいつの誘いにも乗るよ。ほんと。多分」
「疲れるのなんて、社会人やってるんだから当然のことだよ。それ言ったら、あんただって勉強で疲れて帰って来るわけだしさ。やってること、立場、それが違うだけ。みんながみんな、日々疲れて生きてるものよ」
「それは、そうだけど……」
やっぱり、姉には口では敵わない。
そんなことを思って言葉に詰まる俺に、姉は小さく笑った後で席を立ち、俺のいるキッチンの方へと歩いて来た。
そうして傍らから麦茶の入ったピッチャーを手に取ると、俺の持っていたコップを取り上げて注ぎ始めた。
「私もあんまり言って来なかったけどさ。あんたの気持ちは、すっごい嬉しいんだよ。これでも、毎日ほんとに感謝してる。ありがとね」
「……ん」
素っ気なく応える俺の頭を、姉は麦茶を啜りながら無造作にわしゃわしゃと掻き乱した。
「でも、ちょーっと背伸びし過ぎかな。難しく考え過ぎ」
「仕方ないだろ。そういう環境で育ってるんだから」
「だね。あんたも私も、あれこれ考え過ぎだ。まあ、だからこそ上手くやれてきたんだろうな、とも思うけどさ」
姉は笑って、飲み干したコップを流しに置いた。
「今日もお疲れ様、真琴。私、先にお風呂入っちゃうね。食べたいもの、明日の朝までに考えておいて」
「――ん、分かった。姉ちゃんもお疲れ様。ゆっくり休んで」
「ん、ありがと。それじゃね」
最後にポンと肩を叩いて、姉はリビングを後にした。
叩かれたところから、ジンと温かさが広がってゆく。
こういうの、あまり口にしたことはなかったけれど――たまには、正直に話してみるべきなのかもしれない。
人と人とが言い合いになる一番の理由は、いつだって言葉が足りないせいなんだから。



