昨日のことを悟志に話したところ、食いつきは良かったが、じゃあ行こうかという話には別段ならなかった。
 それはそうだ。
 昨日開いていたからと言って、今日また開いているとは限らない。
 鍵なんて持っていなかったから俺は開けたまま帰ったが、その後で、教員か警備員が閉めて回るはずだ。

 そうして放課後、悟志はそのまま部活へ行き、俺はと言うと――

「開いてる……」

 教室、というよりあのノートの方が何となく気になって、また足を運んでみた訳だったが、今日も鍵は開いていた。
 それも昨日と同じように、ほんの一センチ程度、開いた状態で。
 教員か警備員が閉めているだろうという、通常考えられることがしっかりとなされているのであれば、これは誰かが開けているということになる。
 もし閉め忘れているのであれば、それはそれで報告もしなければならない。

 俺は、特に迷うこともなく、その扉を開けた。
 中は相変わらず真っ暗で、カーテンも昨日同様に閉め切られたままだ。
 入口すぐの所には机、そしてノートが置かれていて、昨日勝手に使った椅子も、俺が立ち上がった時そのままの角度で佇んでいる。多分。
 見た感じ、誰かが動き回ったような形跡はない。

「ノートは――」

 表紙を捲る。
 追記は、ない。

「……はぁ」

 何を真剣になって考えているのか。
 開いているのはたまたま昨日誰かが忘れたとかで、だから別に誰も入ってはいないだけだろう。
 仮に何かあったとしても、俺に関係のない話なんだから、考える必要だってないことだ。

 それなのに――

 引っかかる。
 このノートが真新しいという点が、いやに引っかかるのだ。

 これが、ただの空き教室であったのなら別だ。誰でも自由に出入り出来る教室であれば。
 しかしここは、現在名目上は『立ち入り禁止』となっている。教師や警備員が中を確認、或いは使用することがあったとしても、こんなノートを、まして表紙にまで『交換日記』と書かれたノートを、果たして置いておくものだろうか。

 誰かは分からない。
 ただ確実に、何かしらの意図を孕んで置かれたものであることは、間違いないのだ。

 それでも、それを暴きたいだなんて思っている訳でも、別にない。
 ただ何となく――そう、本当に何となく、気になって仕方がないのだ。

 期待? 好奇心?

 そんなところだろうとは思うけれど、何を期待し、何に興味を惹かれているのかは、自分でも説明できない。
 ただ本当に、何となく気になるだけなのだ。
 姉の言うことに、内心中てられたのかもしれない。
 俺はきっと、変化ってやつを望んでいるのだ。

「……こんなことしても、な」

 意味はないかもしれない。
 でも、ただ何となく、やってみたくなったから――俺は、鞄からシャープペンシルを取り出すと、短く一文だけ付け加えた。

『幽霊?』

 はいかいいえか、誰とかなんでとか、そんな質問でも良かったけれど。
 幽霊、という単語を選んだのだって、本当にただの気まぐれだ。
 このノートが、いつから置かれているのかは分からない。だから、明日明後日に読まれるものとも限らない。
 だから俺は、そのノートを、上下逆さまに置いておくことにした。
 机は、入口すぐの壁にピッタリくっついている。ノートを動かさずに正面から読もうとするのは難しい。手に取るにしろ机上に置いたままで読むにしろ、まして追記をしようものなら、まず間違いなく、自ずとノートは元置かれていた向きに直される筈だ。

「……いや」

 だから、何を真面目にやっているんだ。
 さっきから頭の中で、色んな声が言い合っていて落ち着かない。
 それもこれも、気まぐれにこんなところへ来てしまったからだ。
 明日、確認したら、これで最後にしよう。
 勝手に書き足してしまった後でアレだけれど、元より俺に向けられたメッセージなわけもないのだから。
「うそ……」

 翌日。
 確認しに行った俺は、思わずそう零していた。
 ノートの向きが、変わっていたのだ。
 予想した通り、元あった向きに。

 ただ、検めた中身には、変化がない。
 幽霊? とだけ短く質問した俺の文字が最後だ。

 それでも、読まれた、最低でも触られたことは確かだ。
 教師か警備員か、或いは……幽霊か。
 幽霊――その可能性も、未だ完全には捨てきれない。
 昨日から今日に掛けて、俺が知っているだけでも二日続けて、この教室だけ施錠の手が入っていないなんてことは考え辛い。
 授業時間中、放課後、教員が用事で開けたのであれば、同じように二日続けて施錠されていないというのはおかしい。生徒であれば尚のこと。いやそれ以前に、用があって開けていたのであれば、それらしい痕跡、形跡があっても不思議はない。
 それが、昨日に続き今日も、ノートの向き以外、机も椅子も、カーテンさえも、触られたような形跡はない。

「幽、霊……」

 では、ないと思う。思いたい。
 何を馬鹿なことをやっているんだ――昨日までと同じようにそう飲み込んでしまえれば、或いは今日ここに来さえしなければ、気分は幾らも楽だったろうに。
 気になることが多過ぎて、とても見過ごすことが出来ない。
 これが誰の仕業であるか、ともすればただの悪戯であるのか、証明したがっているようだ。

「……明日、明日で最後にしよう」

 追記さえなければ、それに意味はないということには一応なる。納得は出来る。
 だから明日で、本当に最後にしよう。
 なければ、それで飲み込めるのだから。
「なんで……」

 翌日。
 追記が、あった。
 教室の扉も、もう当たり前のように開いていたから、違和感を覚えることもなく開けてしまっていた。

『ご想像にお任せ致します』

 字は、最初の文章と同じ綺麗さだった。
 それにしても、想像に任せる、とは。

「一体、誰が……」

 その答えを得る為の材料は、あまりに少ない。
 人であろうが人ではなかろうが、それを確認することは出来ない。
 ただ誰かが、これを読んでいることは分かった。
 誰かが、返信を書くということも分かってしまった。
 なら、それを知る為には、この誰とも知れない相手との交換日記を、続ければいい。

(別に、続ける意味もないはずなんだけどな……)

 心の中ではそう思いながらも、俺はまた、ペンを取り出していた。
 何となく。そう、ただ何となくだ。
 部活にも入っていないから、授業が終わったら帰って家のことをして、夕飯、風呂、睡眠、そしてまた朝を迎えて――回り続ける同じ日々に、少しのスパイスでも欲しくなったのかもしれない。
 これが、姉の言う『やりたいこと』かどうかと問われたら、何とも言い辛いものではあるけれど。

『じゃあ、幽霊さん。何でこんなところで友達を探してるの?』

 字が汚い自覚はあるから、なるべく読めるように、丁寧に書いた。
 一回、二回と読み返して、客観的に見て読めることを確認してからノートを閉じた。
 何かぶらぶらと時間を潰していても良かったけれど、今日のところは、それだけで教室を後にした。



 その更に翌日。
 また、返信があった。
 もう当然のように、それはそこにあって、追記がされていた。

『幽霊なので、こんなところでしか、友達を探せないのです』

 質問に対する答えとしては、期待より随分と簡素なものだった。
 もっと、それらしい理由というか、なるほどと思えるような答えが欲しかった。

『こんなところって、ここ普通は立ち入り禁止でしょ? 警備員さんとでも仲良くしたかったの?』

 我ながら、何を聞いているのか。
 しかし――これにどう返してくれるのか、少し気にはなる。
「おかえり、真琴」

 姉が笑顔で出迎える。
 今日も、姉の方が早かった。

「ただいま。早いね」

「あんたの方が遅いのよ。この間なんてもっと遅かったじゃない。何か用事でもあった?」

「――ん、ちょっとバスケ部見に行ってた。悟志に誘われたんだ」

 姉の問いに、俺は準備していた言い訳を答える。

「へえ、バスケ部。すっかり離れたものだと思ってたけど。勧誘?」

「出来ない身体だって、姉ちゃんが一番知ってるだろ? そうじゃなくて、たまには暇つぶしにでも見に来いよって。空気にでも触れてみりゃ気分も変わるだろうってさ」

「ふぅん?」

 姉は、含みあり気に笑う。

「やっぱいい子だね、悟志くんって」

「――うん」

 胸が、チクリと痛くなった。
 悟志はいいやつだ。
 そのいいやつの名前を借りて嘘をでっち上げたことが、苦しかった。
 同じ内容で誘われたことはある。でも、昨日じゃない。

「そだ。真琴、明日何食べたい?」

「明日?」

「ん、明日。え、何? いつもやってることじゃん?」

 そこまで言われてようやく、明日が土曜日であることを理解した。
 部活の顧問をしていない姉は、土日は普通に休日だ。必要なことも、いつも学校で全て終わらせているらしい。

「そっか、土曜日か……」

 麦茶を啜りながら考える。
 そうか。今日は金曜日だったんだ。
 ならあの日記は――わざわざ休日にまで出て来て書くようなことは、無いとは思いたい。

 土日を挟んで月曜日まで待たなければならないのか。
 それにしては、早く答えを知りたくなるような質問をしてしまったな。

「どうしたの?」

 姉が聞く。
 ふとして我に返って、俺は「何でもない」と答えると、お茶を一息に飲み干した。

「カレーで良いよ」

「またそんなこと言って。姉ちゃんを次の日楽させようとするんじゃありません」

「楽すればいいじゃん」

「ん、ありがと。あんたのそういうとこ好きよ」

「……うるさい」

 ただでさえ忙しい毎日のくせに。
 姉ちゃんだって、休みの日に姉ちゃんしなくたっていいだろう。

「ほれほれ、食べたいもの言ってみ。こう見えて何でも作れるスーパー姉ちゃんなんだから」

「マジ? じゃあエマダツィが食べたい」

「えま……? え、何それ?」

「知らないの? 何でも作れるんだろ?」

「――つ、作れるわよ…! ええ作れますとも! やってやろうじゃない!」

 そう答えながら、姉は取り出したスマホと睨めっこを始めた。
 知らないならそう答えればいいものを。

「……何よ?」

 そんな姿が可笑しくて、思わず笑った俺のことを、姉が鋭く睨みつけてくる。

「別に。作れるくせに調べるんだって思って」

「あんたが何語かも分からないこと言い出すからでしょ」

「姉ちゃんが『何でも作れる』とか言うからだろ」

「限度ってものがあるでしょ」

「何でもって言ったら何でもだろ」

「知らないわよこんな料理。出てきたけど何よブータン料理って、あんたいつこんなもの知ったのよ」

「テレビか何かで見たんだよ。姉ちゃんも一緒に見てたやつだよ」

「いつよ」

「何年か前」

「そんなの覚えてるわけないでしょ」

 ——と、そこまで一息に言い合う俺たち。
 ふとして訪れる沈黙に、どちらともなく吹き出した。

「あーくだらない。何よ、この子どもみたいな言い合い」

「ほんとだよ。いつまでもガキじゃん俺ら」

 いつかのようにくだらない言い合いもすれば、不思議と心もスッと軽くなって、

「この間はごめん、姉ちゃん」

 言葉は、思ったよりも喉につかえることなく出て来た。

「この間?」

「中間明けの悟志の誘い断ったやつ。姉ちゃんの言う通りだったよ。あと、もっと言い方とかあったなって」

「――ふぅん。珍しいじゃん、どうしたの?」

「別に、どうしたとかじゃないんだけど……」

 俺は、これまであまり言って来なかった言葉を、頭の中で組み立て始めていた。

「父さんのことも母さんのことも、俺はあんまり知らないからさ。姉ちゃんはよく俺に『甘えろ』とか『友達のことは大切にしろ』とか言ってくれるけど、それがよく分かんないんだよ。あーいや、友達のことをっていうのは分かる。けど、親代わりでいるっていう姉ちゃんのスタンスはよく分かんなかった。姉ちゃんは楽しくやって来られなかったように見えてたのに、俺にはそれを求めてさ。わけ分かんなかったんだ」

「――ん」

「でも、姉ちゃんが人一倍頑張ってたこととか、誰よりも苦労してるんだろうなってことは、子どもの頃から何となく分かってて……俺さ、それをちょっとだけでも軽くしたいだけなんだよ。もう高校生だし、体力も力も付いて、出来ることも増えて来たから」

「……うん」

「まあでも、それと友達のことを一緒に考えて天秤にかけてたのは、多分俺が間違ってた。別に遊びたい時には遊べばいいし、そうじゃない時に助けられれば良いんだろうなって思う。今は。それでも、あんまり頻繁に遊べるような気にはならないけど。やっぱり、俺は家のことが一番だって思うから」

「――生意気なこと言うじゃん」

「こういうの、自分で言うとダサいだろ」

「別に。ちょっとかっこいいじゃん。見直した」

「……それはどうも」

 なんだろう。妙にむず痒い。
 だから言いたくなかったんだ。

「でも、この間の悟志の誘いを断ったのは、姉ちゃんが遅くなる日だったからってのは本当で――姉ちゃんは疲れて帰って来るのに、俺だけダラダラ遊んでるのは違うだろ? だから、まぁ、テスト明けとかタイミングの悪い時じゃなきゃ、あいつの誘いにも乗るよ。ほんと。多分」

「疲れるのなんて、社会人やってるんだから当然のことだよ。それ言ったら、あんただって勉強で疲れて帰って来るわけだしさ。やってること、立場、それが違うだけ。みんながみんな、日々疲れて生きてるものよ」

「それは、そうだけど……」

 やっぱり、姉には口では敵わない。
 そんなことを思って言葉に詰まる俺に、姉は小さく笑った後で席を立ち、俺のいるキッチンの方へと歩いて来た。
 そうして傍らから麦茶の入ったピッチャーを手に取ると、俺の持っていたコップを取り上げて注ぎ始めた。

「私もあんまり言って来なかったけどさ。あんたの気持ちは、すっごい嬉しいんだよ。これでも、毎日ほんとに感謝してる。ありがとね」

「……ん」

 素っ気なく応える俺の頭を、姉は麦茶を啜りながら無造作にわしゃわしゃと掻き乱した。

「でも、ちょーっと背伸びし過ぎかな。難しく考え過ぎ」

「仕方ないだろ。そういう環境で育ってるんだから」

「だね。あんたも私も、あれこれ考え過ぎだ。まあ、だからこそ上手くやれてきたんだろうな、とも思うけどさ」

 姉は笑って、飲み干したコップを流しに置いた。

「今日もお疲れ様、真琴。私、先にお風呂入っちゃうね。食べたいもの、明日の朝までに考えておいて」

「――ん、分かった。姉ちゃんもお疲れ様。ゆっくり休んで」

「ん、ありがと。それじゃね」

 最後にポンと肩を叩いて、姉はリビングを後にした。
 叩かれたところから、ジンと温かさが広がってゆく。

 こういうの、あまり口にしたことはなかったけれど――たまには、正直に話してみるべきなのかもしれない。
 人と人とが言い合いになる一番の理由は、いつだって言葉が足りないせいなんだから。
 週明け。
 月曜日。

 放課後。
 俺はまた、あの教室へと足を運んでいた。

 鍵は――やっぱり、開いている。
 ノートも、そこにきちんと置いてあった。

『誰でも良かったとは思っていましたが、今は、あなたと仲良くなりたいと思っています。初めて、返事をくださったので』

 丁寧な文面と、丁寧な字。

「あなたと、って……誰かも分からないやつと仲良くなって、どうするんだろ」

 口にした疑問をそのまま、俺は文字にした。

『誰とも知れない奴と仲良くなって、どうしたいの? やりたいことでもあるの?』

 そう書いて、ノートを閉じて――
 俺は、教室を後にした。



 翌日。

『色々とやりたいことはありましたが、交換日記が出来ているだけで、何だか満足できています。こうして誰かと話すこと、今まで殆どなかったので』

 誰かと話したことがない?
 ボッチ――か、言いたくはないが虐められでもしていたのだろうか。
 でもそんな人間が、わざわざある意味悪目立ちしそうな策を弄してまで、友人を欲するものだろうか。
 謎は深まるばかりだ。



 交換日記は、それからも続いた。
 放課後、俺が書いたことには、次の日の放課後までには必ず返事が書かれていた。
 土日が挟まる日でも、それは変わらなかった。二日挟まるというだけで、週明けには必ず返事があった。

『交換日記してるだけで満足?』

『はい。今は』

『まあ日記と言うか、これもうただの会話だけど。やりたかったことは、今はもうしたくないの?』

『したいとは思っています。でも、顔も名前も知らない幽霊を相手に、誰が遊んでくれると思いますか?』

『それもそうか。遊んでやるぞって言っても、遊んでくれって頼まれても、まずはお互いに顔と名前を知ってある程度の関係値もなきゃ難しいもんね』

『そういうことです。でも本当に、今はあなたとこうしてお話しが出来ているだけでも、とても満足しています。ありがとうございます』

『別に。部活にも入ってなくて暇だからさ。こっちも、いい暇つぶしにはなってるよ』

『それは何よりです。引かれていたら、どうしようかと思っていました』

『若干引いてるけどね。冷静になって考えたら怖いし変でしょ。日記を通して友達が欲しい幽霊とか。まあ、君が幽霊かどうかも分かってないんだけどさ』

『それはご想像にお任せ致します』

『自分の正体をご想像にお任せする幽霊っていうのも、おかしな話だよね』

 まったく。

「変なやつ」

 思わず、ノートを手に一人で笑ってしまった。
 日記なんて名ばかりの、互いに短い文章での会話。
 寧ろ、長文を書け、という方が難しい話で――学校での生活も家での生活も、別に日々面白いことも変わったこともないから、俺の方は綴ることがない。
 今日のところも、それだけ書いて、俺は教室を後にした。
 そうして正面玄関で靴を履き替え、外に出た時だった。

「あれ、真琴だ。お疲れ様」

 壁を隔てて隣り合わせになっている、職員用の玄関から出て来た姉と鉢合わせた。

「お疲れ。今帰り?」

「それ、私の台詞。今日もちょっと遅かったんだね。バスケ部?」

「――うん。今日は、ちょっとだけ。自主練だけじゃなくて、今日はチーム練もあるみたいだったから、邪魔になるし」

 嘘だ。
 また、胸がチクリと痛んだ。

「ふぅん……」

 姉は小さく呟きながら、バッグから取り出したお茶を一口。
 ふぅ、と息を吐いて、それを俺に手渡して来た。

「それは何よりだ。ちょっと、安心した」

 いっそのこと見抜かれていたら楽になれるのに、予想に反してそんなことを言うものだから、胸の痛みが少し強くなる。
 嘘を吐いていることそれ自体も、その嘘のせいで姉に安心感を与えてしまったことも。

 それでも――

「……ん」

 束の間でも、姉を安心させるために吐いた嘘。
 吐き出した言葉を、今更撤回することは出来ない。
 臆病なままの俺は、受け取ったボトルを煽って、お茶と一緒にその苦しさを飲み込んだ。



 次の日も、俺は空き教室へと赴いた。
 そこでまた日記を更新して、教室を後にする。
 そのサイクルで玄関へと向かう時間帯、丁度姉も仕事が終わる時間のようで――

「ちょっと話があるんだけどさ。一緒に帰ろっか」

 その日は、校門を出たところで待ち伏せていた姉に、捕まってしまった。

「――ん」

 間違いなく、心当たりはあった。
 だから俺は、ごねることもなく隣に立って、姉と共に家路についた。
 しばらくは、無言の時間が続いた。
 今日は夕飯の材料も家にあるもので足りるから、買い出しもなく、ただ帰るだけ。

 寄り道もしない、家までの三十分。

「まずは――そうね。非行に走っていないってことは分かってる。学校の中で時間を潰していたんだろうからね」

「……うん」

「でも、嘘はよくないかな。さっき、外周を走ってる悟志くんと鉢合わせたんだけどさ。私も、敢えて敢えてはっきりとは尋ねなかったけど、部活に顔を出してるっていうの、嘘だよね」

「…………うん」

 別の学校に通っているやつの名前で吐く嘘ならまだしも、同じ学校、それも幼馴染で昔から姉とも親交のあるやつの名前を使って吐く嘘なんて、その程度のものだ。
 そんなこと、分かってたはずなのにな。

「昨日のは嘘。だけど、別の時には同じことで誘われてはいるから。それ自体は、嘘は言ってないよ」

「ん、分かった。理由、聞いてもいい?」

 姉の声音は、至って真面目だ。
 俺は言葉に詰まってしまう。

 やっていることそれ自体のせいじゃない。
 悟志の名前を使って嘘を吐いていたこと、そしてその嘘で姉を安心させてしまったことに対する、後悔から来る罪悪感のせいだ。

「――別に、そこまで怒ってる訳じゃないんだよ。わざわざ嘘を吐くようなことには、理由があるはずでしょ? それも、ほんのちょっとだけ言いにくい程度のこと」

「……うん」

「絶対に言えないようなこと?」

「……って言うか、恥ずかしいこと」

「そんな程度のことだと思った。言いな、別に笑ったりはしないから」

 姉は、努めて優しい口調で言った。言ってくれた。
 それだけのことで、心は幾らか軽くなった。

「……交換日記をさ、してるんだよ」

「交換日記……? 誰と?」

 姉は、心底意外そうに聞き返してきた。

「分からない。というか、知らない。誰かと」

「ふぅん。どこで?」

「……立ち入り禁止の空き教室。ほら、特別教室側の一階の、一番奥にある旧理科室」

 それも、言葉に詰まった理由の一つだった。
 立ち入り禁止、とわざわざ張り紙までされている教室へと侵入しているのだ。鍵が開いていたとは言え、軽い気持ちでやっていいようなことではない。

「ごめん、勝手に入ったのは――」

「あぁ、その教室ね。じゃあ麻衣(まい)かな。うちの子だ」

 姉は、なるほどといった様子で言った。
 思わず俺は聞き返す。

「ま、麻衣……?」

「うん。私、この春から部活の顧問になったんだよ。顧問らしい活動なんて殆どないから、別にあんたにも言ってなかったけどさ」

「顧問……? え、あの教室、部活で使ってるの?」

「うん、文芸部がね。でも今、その文芸部はその子一人だけでさ。顧問もいない一人だけの部は部としての存続は認められないんだけど、都合、今だけ部として認めて貰ってるの。その条件の一つに新しい顧問が必要だったんだけど、それに私がなったわけ。言ってみれば、名前だけ置いてるような状態ね」

「ぶ、文芸部……」

 それは知らなかった。
 特に興味もなく、高校では入学当初から部活に入っていないこともあって、この高校に何部があるのか、またどの部がどの教室を使っているのかなんて、詳しくは知りもしなかった。
 中学の頃は、バスケ部に所属しているってだけで、そんな話はいくらでも受動的に入って来ていたから。

「しかしあんた、名前も知らない子と話してるなんてね。それも、文字だけのやり取りでさ」

「気が付いたら置いてあったんだよ。それで、気まぐれに返事書いてみたら、なんか続いちゃってさ」

「――へぇ。今晩、雪でも降るんじゃない?」

「……笑わないって言ったくせに」

「笑ってないわよ。おちょくってるだけ」

「良い性格してるよ」

「ん、最高の褒め言葉だ」

 姉はわざとらしく笑って言う。
 日記の相手、麻衣って名前なんだ。

 麻衣……麻衣?

(麻衣って……)

 直感したのは、初めてあのノートを見た時に感じた違和感の一つについてだった。
 俺はあの字に、どこか見覚えがあるような気がしていた。
 今思えば、それもあのノートが気になった理由の一つだったのかもしれない。
 相良(さがら)麻衣――芸術科目の選択授業、書道科で使っている教室の外に、見本として掲示されている作品の一つにそんな名前のものがあった筈だ。
 あれは確か、書道のコンテストで入選したから掲示されていた。

 見覚えがあるような字、ではなかった。
 俺は確かに、あの字を見たことがあったのだ。

「姉ちゃん。麻衣って、相良麻衣?」

「え、知ってるの?」

「あいや、名前だけ。書道の入選作品で。俺も、芸術の選択は何となく書道を選んだから」

「ああ、そうだったわね。ん、そうよ、相良麻衣。私が担任してるクラスの子よ」

「担任……」

 姉は今、三年のクラスを受けもっている。
 ということは、相良麻衣は――交換日記の相手は、三年の先輩だ。

「え、どうしよ。俺、ずっとタメ口なんだけど」

「別に良いんじゃない? お互いに素性を知らないんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「それにしても――そっか、麻衣と交換日記してるんだ」

 姉は、どこか含みあり気に呟いた。

「え、何?」

 尋ねると、少しの間を置いた後で、姉は目を伏せた。

「んーん、何でも」

「何だよ、それ。言い逃げは無しだろ」

「別に逃げた訳じゃないわよ」

 笑って言って、姉は続ける。

「ね。それ、麻衣は最初、何て書いてたの?」

「……守秘義務」

「うわ、また大人ぶってる。まあいいわ。大方『友達募集』とでも書いてあったんだろうしね」

「募集じゃなくて、なってくれって」

「――ふぅん?」

「あっ……いや、まあ、うん。友達になってくれって、いきなり書いてあったんだよ。だから無性に気になって、幽霊かって尋ねた」

「あははっ! うーわ、失礼な弟ね、まったく。あはは!」

「わ、笑うなよ…!」

「いや笑うでしょ、あははっ!」

 姉は豪快に笑った。
 こんな笑い方、久しぶりに見るってくらい、遠慮なく笑った。
 そうして一頻り笑った後で――優しく、微笑んだ。

「そっかそっか、麻衣、そんなこと書いたんだ」

「姉ちゃんは、その相良麻衣って人のこと、何か知ってるの?」

「――んや、なんにも」

「何だよ、それ」

「知らないのは知らないけどさ――」

 姉はどこか、

「せっかく返事したんなら、あの子と仲良くしてあげてね」

 どこか物悲しげに笑って、そう言った。

「姉ちゃ――」

「さーて、夕飯夕飯! 今日は何作ってくれるの?」

「えっ……? え、っと、野菜炒めと味噌汁、だけど……」

「ん、楽しみなやつだ。ほら帰るよ、歩け歩けー」

 姉は、さっさと小走りで道を進み始めた。
 まるで俺に、それ以上何かを尋ねようとさせないみたいに。
『今日、クラスの子たちが話していたのですが、駅前が随分と賑わっているらしいですね。なんでも、新しいクレープ屋台が出来て、客足がとても多いとか』

『それ、うちのクラスの子も言ってた。スイーツだけじゃなくて、おかずクレープも売ってる上にすごい美味しいって、SNSから拡散されて有名になってきてるらしいね』

『そのようなお話でしたね。ただ、おかずクレープ、というのは何なのでしょう? ご存知ですか?』

『唐揚げとかハムチーズとか、アボカドサーモンとか、そういうご飯系のおかずを挟むクレープだよ。本当に知らないの?』

『知りませんでした。そのようなものがあるのですね。一度、食べに行ってみたいです』

『行ってみれば良いじゃん。って書いたけど、幽霊なんだったね』

『ええ。なので、私は行くことが出来ません。行ったところで、食べることは叶いませんから』

『知らないことを知る権利ぐらい、幽霊にだって』

 と、そこまで綴ったところで、俺は一度、必要ないだろうと思っていた消しゴムを取り出し、自分で書いた文章を消した。
 知らない言葉を、わざわざ一日先にしか返事が来ない人間に対して尋ねる必要が、はたして現代人の高校生にあるのだろうかと思ったからだ。
 スマホか、持っていなければガラケーか、或いは自宅にあるパソコンで、幾らでも調べられる。幽霊でもあるまいし。

 そう。彼女は幽霊ではない。
 それは、姉と、俺自身の記憶が証明してくれた。
 それに彼女は『クラスの子』と口にした。読み返しても相違はない。
 幽霊かという俺の問いに対し、想像に任せると、どちらでもいいような言い方で突き放しておいて、だ。

 俺は、返信の内容を変えた。

 俺の方から詮索するようなことでもないから、わざわざ聞かないようにと思っていたけれど、どうにも気になってしまうのだ。
 彼女の――そう、幽霊でも何でもない、相良麻衣という一人の人間が工作した、交換日記というものそれ自体の意味が。
 他でもない俺が今、踏み止まったように、彼女だって、自分で書いていて、その書いた内容に疑問を抱かなかったとは、どうにも考え辛い。
 俺が幽霊かと尋ねたことに対して『想像に任せる』と返したのは、その後の返信内容からも、俺がそう思っている方が都合が良いとでも考えたからだろう。

 理由は分からないけれど。

 しかしそれでいて、『クラスの子』と自分で書いたことに対しては疑問を持たなかった。続けて書かれた俺の文章にもその言葉は入っていながら、彼女はそれには触れなかった。
 その違和感に、自分自身が気付かない筈なんてない。

 それは、まるで――

『クラスの子?』

 わざわざ聞くのは間違いだっただろうか。野暮だったろうか。
 そう思いながらも、俺は消すことなくノートを閉じた。

『言葉の綾です。廊下を通る生徒たちの会話が聞こえたんです。私は幽霊です。クラスになんて所属はしていませんよ』

 彼女は、幽霊であるという立場に還った。

『幽霊ならそうだろうね。でも』

 そう、書きかけた時だった。
 奥の方。思わず視線を向けた、鍵のかかった準備室の方から、ガタ、と物音がした。
 それは小さな音だったが、吹奏楽部の楽器の音が運よく止んでいた今、とても鮮明に耳へと届いた。
 椅子が――木のボックス椅子が、倒れるような音だった。
 学校の理科室に置いてあるような、四角のあれだ。
 雫の落ちる音、動物か何かの動いたような音であれば、疑問に思うこともなかった。
 けれどもそれは、明らかに人為的なものだ。

 科学部の誰かが使っている可能性は無い。
 いや、科学部なるものがあるかどうかも知らないけれど――あったところで、旧理科室側の準備室も、今は立ち入り禁止。現在でも利用されている隣の理科室から使う準備室は、その更に隣の部屋だ。
 仮に使うなら、開放されているこちら側――そう、唯一利用している、文芸部員以外にあり得ない。

 文芸部員……。
 相良麻衣だ。

 わざわざ隠れているような人間の正体を突破することの、なんと配慮のないことか。

「…………」

 などという思考は、一瞬の内だけだった。
 そんなこと以上に、例えば怪我や持病なんかで倒れてしまう際に聞こえた音なのだとすれば、見過ごすわけにはいかない。
 見過ごして何かが起こった後で、知らぬ存ぜぬというのは通らない。
 そんな考えは瞬きの内に忘れて、俺は扉に手を掛けた。
 鍵はかかっていなかった。恐ろしいほどにあっさりと、扉は開いた。

「大丈夫ですか…!?」

 大声を出しながら見やった扉の向こう。
 窓辺に向かう小さなテーブルの足元に、その姿はあった。

「ぁ、と……ぇ……」

 その女子生徒は、尻もちをついて俺のことを見上げていた。
 さらりとした長い黒髪。同色の眼鏡。同じく黒の、深く吸い込まれそうな丸い瞳。
 それら全てが訴えかける――不安げな表情。

「ぁ、の……」

 それが言葉なのかただの音なのか、分からず言葉に詰まってしまった暇に。

「……っ!」

 さっと立ち上がった勢いそのまま、俺の脇を通り過ぎ、走り去っていってしまった。

 倒れたままの椅子。
 机上の原稿用紙。
 恐らく彼女のものと見られるハンカチ。

 それらを見送った先に目を向けたあの机の上から、例のノートは無くなっていた。
 土日を挟んだ、次の月曜日。
 ノートは無かった。

 その翌日も。
 ノートは無かった。

 その更に翌日――また翌日も。
 同じだ。ノートは無かった。

 彼女は、幽霊のままでいたかったのだろうか。
 それにしては徹していなかったように思う。
 あんなのでは、まるで『見つけて』とでも言っているかのようだ。

 ……いや。

 俺が、その真意を掴み損ねてしまったのかもしれない。
 ……事実、掴み損ねてしまったのだ。
 まだ何も――そう。姉から聞いた名前、それから字が綺麗だということ以外、彼女のことは何も知らない。知ろうともしなかった。
 知る必要がないと思っていた。

 けれど、今思えば……。

「友達になってくれ、なんて……」

 互いの何一つも知らずに、なれようものか。
 答えは否だ。
 友達、と口にするからには、互いに何か、そう思えるものがなければ成立しない。
 反対に、嫌だとすら思えなければ、友達でないと言うことさえ出来ない。
 ……なんていうのも、結局のところは、勝手な解釈だったのかもしれない。

 けれど。

 置き去りにしたって問題ない筈のノートを、彼女は持って帰ってしまった。
 それが、俺の考えることが間違いではないことの、そして俺の行動が間違ってしまったことの、何よりの証明だ。

 俺は、彼女の友達には、なれなかったのだ。
 これで最後だ。
 もう四日も置かれていないのだ。
 一週間も学校に来ていない、などということはあるまい。
 もし仮に来ていないのだとしても、つまりはそれだけ彼女の中でショックが大きかったということの裏付けになる。
 幽霊として続けていた交換日記をやめる、という選択をするに至る、納得のいく理由だ。

 昨日も五日目も、そう変わらない。
 今日行ってなければ、これでもう終わりにしよう。
 金曜日。丁度、キリも良い。

 そうしてやって来た、旧理科室。
 扉は開いているが、どこか、開ける気になれない。

「――はぁ」

 本当、何をやっているのか。
 そんなつもり、元々なかったじゃないか。
 何となくここに来て、何となく見つけたノートに、何となく文字を書いただけ。
 ただそれだけのことだった。

 それなのに、何をこんなに感情移入しているのか。
 何をそんなに、残念がることがあるのか。
 我ながら、おかしな話だ。

 そんな心持ちで扉を開く。
 そこに、

「あっ……」

 ノートが、置いてあった。
 俺は慌ててページを捲る。
 しかし、幾つか交わした言葉の最後に、返信はなかった。

「な、んだ……」

 返信はなし。
 もう、話すこともないということだろうか。

「そりゃ当然…………ん?」

 その、俺たちの交わした言葉、文字の向こう――次のページに、何かが透けて見えた。
 捲ったそこには、彼女の文字で言葉が綴られていた。