「へぇ、夏祭りねぇ」

 姉が呟く。
 俺が取っておいた棒アイスの最後の一本を、遠慮なく頬張りながら。
 けれども俺は、それを咎めることも、何なら姉の言葉に返すことも出来ないでいる。
 未だ五月蠅い胸を落ち着けようと、深呼吸を繰り返しても、好きなバラエティー番組の録画を流しても、麦茶を何杯飲み干しても――何をしても、心は落ち着かない。
 先輩の言葉と声と、あの笑顔を思い出して、息も出来ない程に落ち着かない。

「――ね、真琴?」

 返事をする代わりに、頷く仕草だけで応える。

「それ、麻衣の方から誘って来たんでしょ」

 少し考えた後で、俺は頷いた。

「……そっか」

 隣でだらしなく座りながらアイスを頬張る姉は、短く呟くと、暫くの間黙り込んだ。
 何を知っているか、と今までなら聞いていたことだろうけれど、今はそれどころではない。
 回そうにも回らない頭で考えるのは――駄目だ。別れ際の、あの場面ばかりが浮かぶ。

「姉ちゃん、先に寝るわね。夜更かししないように寝なさいよ」

「うん……」

 何か言われたから、何となくそう答えておいた。
 何を言っていたかまでは分からない。思い出そうにも思い出せない。
 それでも、姉が「何言ってんの?」とか言わずに出て行ったものだから、多分正解だったんだと思う。

「夏祭り……」

 先輩の方から言い出した、次にしたいこと。
 それも、二人で……。
 随分と思い切ったな、なんて少し楽観的に考えていたけれど、落ち着いて冷静に考えると、とんでもないことだ。
 ……そう、とんでもないことなんだ。
 だから帰ってからずっと、いや、先輩と別れたすぐ後から今まで、何をやっていたのかさえ思い出せないくらいに、上の空になってしまっているんだ。
 夏祭り。先輩と二人。夏祭り……先輩と……。
 そればかり考えて、ぐるぐる同じことばかりが頭の中を巡って、何をしても落ち着かない。

「夏祭り……先輩……先輩は…………」

 先輩は――本当に、俺でいいのかな。
 終業式も終わり、夏休みに入った。
 初日から俺は、宿題の山を手に、学校へ来ていた。
 何時間いるかは分からないけれど、ずっと話しっぱなしということは無いだろうと思ってのことだ。

 カリカリ。
 サラサラ。

 ノートの上を鉛筆が滑る音が、二つ、だだっ広い教室の中に響く。
 先輩も、今日は準備室ではなく教室の方にいる。
 それでもまだ恥ずかしいのか、或いは気まずかったりするのか、教室の端と端に離れて座っている。

 セミの鳴き声。
 窓から入る風が揺らすカーテンの擦れる音。
 遠くの方に運動部の掛け声。
 鬱陶しいくらいにうるさい、心臓の音。

 会話なんて殆どない中、それらが耳を刺激して、宿題にすら集中出来ない。

「…………ふぅ」

 俺は、腹の中で渦巻く思いと一緒に、深く息を吐きつつ鉛筆を置いて、広げたままのノートの上に突っ伏した。
 腕を枕にして、壁の方に顔を向ける。
 窓のすぐ外で鳴いていたセミの大きな声が一つ、途切れた。
 その代わりとでも言いたげに、他の声が大きくなった。
 一瞬、強い風が吹き抜けて、カーテンが暴れた。それが顔を叩きつけるものだから、閉じていた目もすぐに開いてしまった。

「ふふっ」

 先輩の笑い声が背中に掛かる。
 思わず目を向けると、俺の方を見て、口元を隠して笑う先輩と目が合った。
 ポニーテールが、楽し気に揺れている。

「ゆっくり、出来ませんね」

 先輩は可笑しそうに笑いながら、そんなことを言った。

「…………ええ」

 頭を掻きながら、身体を起こす。

「そう言えば先輩、文芸部で何をしてるんです? 小説でも書いてたりするんですか?」

「先代の部長さんたちがいた頃は、そうでした。でも、今はもう書いていません」

「え、じゃあ何をしてるんです?」

「……色々、ですね」

 勉強とか日々の宿題とか、そういうことだろうか。

「ふぅん……」

 突っ込んで追随することもなく、俺はその返答を受け止めるだけに留めた。
 そうして無言の時間が出来てしまったら――また、意識はいとも簡単に引っ張られてしまう。

「夏祭り……もうちょっとですね」

 それを口にしたのは、俺ではなく先輩だった。
 また、心臓が強く打った。

「……ですね」

 そう返す頃には、先輩は緊張した面持ちで俺の方に目を向けていた。

「浴衣……お母さんに、ちょっと奮発してもらっちゃいました。レンタルですけど、初めて、わがままを言いました」

「そ、そうなんですか……」

「はい。せっかく、最後の夏休みだから……お母さんも、いいよ、って頷いてくれて……お、男の子と行く、とは、恥ずかしくて言えなかったんですけど……」

「……まぁ、ですよね」

 俺の方は、姉が事情を知っているだけに、誤魔化すことは出来なかった。
 先輩のことも知らない相手であったなら、俺もきっと、バスケ部のやつらと行く、なんて誤魔化していたと思う。

「……楽しみ、です」

「……はい。俺も」

 もう、顔なんて見れる状態じゃなかった。
 夏の暑さとは別に、身体の奥底の方から熱くなるこの感覚。
 それを誤魔化すように、俺はまた腕を枕にして、顔は壁の方に向けた。



 次の日も、俺は学校に行った。
 今度こそ宿題を進める為に。
 上手くいった。想定以上には進んだ。
 でも、身にはなっていなかった。
 何をどこまでやったかなんて、終わってから考えた程だった。

 夢中でやっていたからではない。
 夢中になれなかったからだ。
 次の日も。
 また次の日も。
 俺は学校へ行って、宿題を進めて――先輩とは、次第に話さなくなっていった。

 いや、それは違うかな。

 話せなくなっていたのだ。
 俺も、先輩も。

 その日が近付くにつれ、互いに何かを自覚して、それは日に日に強くなっていって、ふと目が合ったら恥ずかしくて声も出なくて。
 前日の今日なんて、朝の挨拶、帰りの挨拶以外、交わす言葉はなくなっていた。
 先輩はいつも最後の時間までいるようで、俺は途中で帰ってしまうから、帰り道を共にすることもなくて。

 また明日――

 耳まで真っ赤にしながらそう言う先輩に、俺は頷くことしか出来なかった。
 あっという間にその日は来てしまって――

 正月ならまだしも、夏祭りに浴衣を着るタイプの男子高校生はあまりいないから、俺は当たり前のように私服で来ていた。
 それでも多少着飾った方がいいと思って、小遣いを使ってそれらしい服を買った。
 後になって姉から「出してあげたのに」と言われたけれど、これはその、何というか、男の意地とかプライドみたいなもので。
 好きな人と出掛けるのに、親なら最悪百歩譲っても姉にたかるというのは。

(…………は?)

 いやいや、そうじゃない。
 好きじゃない。好きな人とか、そんなんじゃない。
 先輩は友達で、彼女にとっても友達第一号で、そう、それだけの関係だ。
 好きな人とか、そういうんじゃ……。

「…………はぁ」

 なんでこんなに息が上がってしまうんだろう。
 ここ最近、ずっとこの調子だ。
 交換日記だなんだ、友達だなんだって言ってた時はまだ、普通に当たり前に、スラスラと喋れていたのに。
 あの人のことを思っても、何ともなかった筈なのに。

「なんで……」

 なんでこんなに、胸が苦しいんだろう。
 知らない。こんな感覚。
 初めてだ……。

「…………でも」

 早く来ないかな――そんなことを思っても、いや違う、そうじゃない、とはならなくなっていた。
 会いたくなってる……。
 会ったら話せなくなってしまうのに、早く話したくて仕方がない。
 話したくて仕方がないのに、会ったらきっと話せなくなってしまう。
 あぁ……。 もう、本当に。
 この感覚の正体が『恋』ってやつなら、本当に……本当に、心底厄介なやつだ。

「あ、あの……」

 まだ心の準備なんて、ひとかけらも出来ていないのに。
 その声が聞こえたことが嬉しくて、俺は思わずそちらを振り返る。

「ぁ……」

 見惚れる、というのは正に、今の俺のようなことを指す言葉なんだろうと思う。
 水色を基調とした浴衣、カロカロと弾む下駄の音、小さな巾着袋、お団子に纏められた髪――
 仄かに染まった頬。

 ……もっと、遅い時間帯に待ち合せれば良かったな。
 まだ陽も落ち切っていない今の時間帯、その姿がはっきりと見えてしまう。
 嬉しいことだ。嬉しいことだけれど――それは、俺の方も同じことだろう。
 口を開けたまま呆けた顔が、彼女の眼には映りこんでいる筈だ。

「お、お待たせ、しました……」

 そう言いながらも恥ずかしくなったのか、両手で持った巾着で口元を隠しながら、先輩は目線を逸らしてしまう。
 俺はその姿を見たまま――いや目を離せないまま、あ、え、と声にならない声ばかりを零す。
 その姿を、声を、目に耳に入れただけでもう、呼吸困難になりそうな程なのに――

「い……いい、行き、ましょう、か……」

 小さく細く、高い声に返せない内に、

「あっ……」

 隣に並んだ先輩が、つま先だけ触れた俺の手を、そのまま離さずキュッと握って来た。
 当たったとか、たまたまとかじゃない。
 意図して触れて、握られた……。

「せん、ぱ……」

「き、今日だけ……今日だけ、ですから……」

「ぁ……え、ぁ、はい……」

 俯いたままでそう言う先輩に引っ張られるまま、俺たちは人混みの中へと入ってゆく。
 周りに聞こえる喧しいまでの話し声も、遠くの方で響く太鼓の音も、全部全部意識の外側で繰り広げられること。
 握った手から伝わる、先輩の熱と、これでもかというくらいの緊張感ばかりに気を取られながら、俺は暫く、ただ足を回し続けることしか出来ないでいた。
 まずは腹ごしらえ。
 注文したものを受け取り食べる為には、一度手を離す必要がある。
 繋いでいた手を離すのは惜しかったけれど、それを解いてようやく、俺はいつもと同じ呼吸をすることが出来た。
 先輩は焼きそば。俺は控えめにたこ焼き。
 それぞれの物を手に、一度人波を外れて腰を落ち着ける。

「すごい人ですね……」

「ほんと……街中に、こんだけの人がいるんですね」

「どうなんでしょう……あっ、ほら、あそこのご夫婦? は、外国人さんですね。観光でしょうか」

 肩を組んで目の前を通り過ぎる、ブロンドの男女に目をやり先輩が言う。

「住んでる人も多い地域ですし、分かりませんね」

「観光だったら、とても素敵な思い出になりそうですね。お住まいの方でも、年に一度のお楽しみです」

「素敵な夏になりそうですね」

「……ええ、本当に」

 淡く微笑みながら、先輩は焼きそばを一口。
 そんな様子を見送りながら俺も、どでかいたこ焼きを一つ頬張った。
 味は――分かる。
 少し、いつもの調子に戻って来た。

「おいし……」

 満足そうに笑う先輩を横目に、俺は上の方に目をやった。
 けれど、そこかしこで輝く灯りが眩し過ぎて、星空なんて見えやしなかった。
 心の中で肩を落としつつ、遠くの方に見える屋台、近くを通る人だかりに目をやって――結局は、夢中で焼きそばを啜る先輩の方に落ち着いた。

「そんなに美味しいもんですか?」

「うーん……気分、でしょうか。よくよく考えれば、お母さんの作る焼きそばの方が、美味しいですよ」

「ははっ、そりゃそうだ」

 祭りの食事なんて、言い方はアレだが出来合いの味だ。
 想像に易く、だからこそハズレがない。

「そういう榎さんのたこ焼きは、たしかチェーン店さんの出店でしたよね?」

「ええ。知らないお店だったけど、美味しいですよ」

 名前は忘れてしまったけれど、屋台にかかっていたパンフレットには、全国何十店舗と書かれていた筈だ。それなりの規模で展開されているたこ焼き屋らしかった。

「……一つ、いります?」

 尋ねると、好奇心に目を輝かせる先輩は嬉しそうに頷いた。
 一つ、爪楊枝を刺して、先輩の方に差し出す。
 それを、焼きそばの器にでも乗っけてくれたらそれで良かったのに、

「はむっ」

 大きな口を開けて齧りついて、けれどもやっぱり食べきれなくて、結局は自分の手に持つ器の上へと半分置いてしまった。

「んー! おいひいでふねっ!」

 こっちの胸中なんて知らない先輩は、無邪気にそんな感想を語るだけ。
 まったく心臓に悪いことをする人だ。
 ……ちょっと前までのこの人には、考えられない行動ばかり。
 祭りの雰囲気に中てられてか、この十数分だけで、見たことのない表情ばかり目にした。

「今度、このお店にも――」

 先輩は言いかけて、やめた。
 代わりに、俯き、残っていた半分のたこ焼きを口へと放り込む。

「先輩……?」

「いえ、何でもありません。あまり榎さんを振り回すのもなぁ、と考え直しただけです」

「振り回してくださいよ。何でも付き合うって言ったの、本心なんですから」

「……ええ、そうですね。榎さんは、そう言ってくれますもの」

 そう語る横顔は、どこか――

「食べ終わったら、何をしましょうか?」

 がらりと声色を変えて、先輩が言う。

「えっ? え、うーん……定番と言ったら、金魚すくいかヨーヨー釣りか、ここでは見てませんけど射的とか? あと、運試しにくじ引き、わなげ……あ、型抜きもあったな」

「良いですね。全部やりましょう!」

 明るく笑って、楽し気に俺の目を見る。

「え、全部……?」

「はい、全部! せっかくですし、全部初めてなので」

「あ――そっか、そういうこと」

 高校最後の夏祭りは、人生初めての夏祭りでもあったわけだ。
 それは――そうか。それはそうだ。
 全部全部、一気に楽しんだって良い。

「何でも付き合ってくれるんですよね?」

 どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、先輩が言う。
 断る理由なんて、一つもなかった。

「――ええ勿論。存分に楽しんでやりましょう」

「ふふっ。はい!」

 先輩は、明るく無邪気に笑った。

(あぁ……やっぱり、もう嘘なんてつけないな)

 夕闇と提灯の灯りに照らされる笑顔を眺めながら、今ようやく、誤魔化していた気持ちをはっきりと自覚した。

 俺は――先輩が好きなんだ。
 ……とは言え。
 まさかヨーヨー釣り、射的、くじ引き、わなげ、型抜きと、全部回ってあんなに笑うとは思わなかった。
 数時間で、一生分ぐらい笑った心地だ。頬が痛い。
 やったことがないというだけで元々器用な方なのか、先輩はどれも、すぐにコツを掴んで悠々と遊んでいた。けれどもどこかポンコツでもあって、それに俺が吹き出すと、頬を膨らませて憤慨していた。

 金魚すくいもやるにはやったけれど、先輩は家に持ち帰って育てることは出来ないからと、すくった子たちはビニールプールの中に戻していた。うちもうちでそんな環境はないから、同じように戻してやった。
 変わった客二人に屋台のおっちゃんはビックリしていたけれど、じゃあ代わりに持っていきなと、参加賞の飴をどっさりくれた。

 それを舌の上で転がしながら、すっかり暗くなった夜更け、二人並んで帰路を進む。
 先輩は、最後に立ち寄った屋台で買ったリンゴ飴を齧りながら。
 前にも後ろにもこれでもかというくらいいた人の波は、気が付けばまばらになり始めていた。

 カラン、コロン、カラン、コロン。

 道行く人々の話し声の影に、先輩の下駄の音が響く。
 規則正しいその音を聞いていると、どこか心が落ち着く心地と同時に、楽しい時間の終わりが確実に近付いているような、何とも言えない寂しさや物悲しさも覚えた。

 足を止めて、遠回りをしようとか、もっと一緒に居たいとか、そんなことをすんなり言えれば良いのに。
 もう嬉しいことは十二分にあった。満足している。
 満足はしているけれど、だからこそもっともっとと思う自分もいる。
 本当に厄介なやつだ。本当に。

 カラン、コロン――

 下駄の音は止まない。
 更に人の数が減った通りに、その音はよくよく響く。
 先輩は……どう思っているんだろう。

 なんて考えるのは、ひょっとしたら贅沢なことだろうか。
 こんな気持ちは一方的なもので、先輩も同じとは限らない。
 そんなことをぐちゃぐちゃあれこれ考えてしまうから、欲の一つも吐き出せないのだ。

 カラン、コロン……カラン……コロン…………。

 下駄の音が、少しゆっくりになった。
 けれど、何を言われるでも、何をされるでもないから、俺も自然と歩みを遅くして、その横に並ぶだけ。

 カラン……コロン…………カラン――

 下駄の音が、止んだ。
 そう理解した頃には、俺は数歩先の方にいて――先輩の方を振り返ると、足元に目を落としながら、巾着をギュッと握りしめている姿が目に入った。
 気が付くと、辺りに人の気配はなくなっていた。
 足音も話し声も、車の通る音さえも無くなって、俺たち二人だけがこの場に立っていた。

「え、と……」

 先輩が、小さく声を出した。
 何か言いたげなその様子に、俺はまた、胸がキュッと締め付けられるような心地を覚える。
 続く言葉を待つ。けれどもずっと、言葉にならない声ばかりが耳を打つ。

「あの、その……」

 視線が泳ぎ始めた。
 それと同時に、街灯に照らされる頬が染まり始めていることにも気が付いた。
 緊張――それが、どの類の意味合いを孕んでいるのかは分からないけれど。
 言いたいことは、俺にだってあった。

「先輩。俺――」

 言いかけた、矢先のことだった。

「え、榎さん…!」

 俺の言葉を制するように、先輩が俺の名前を強く呼んだ。
 思わず言葉を切って、そちらに意識を向け直す。

「き、今日、とっても楽しかったです…! あ、ありがとう、ございました…!」

 勢いよく頭を下げて、そんなことを言う。

「えっ…!? い、いや、それは俺の方こそ…! ええ、本当に……ありがとうございました!」

 釣られて頭を下げる俺に、先輩は目をギュッと瞑って頷いた。
 ……違う。何かが。
 直感したのは、先輩の肩が僅かに、ほんの僅かに、震え始めていることに気が付いたからだった。

「せんぱ――」

 思わず手を伸ばす俺から、先輩は首を振ると、一歩、大きく退いた。
 違う。これはきっと違う。
 頬が染まっていたのは、そういう意味じゃない。

「た、楽し、かった……楽しかった、なぁ……」

 肩の震えはやがて大きく強くなって、それと同時に、声も嗚咽交じりの鼻声へと変わっていった。

「楽しかったなぁ……帰りたく、ないなぁ……」

 そんな言葉は、男からすれば飛んで喜ぶべきものなのに。
 この数時間、いやこの数日で得た動悸とは全く異なる鼓動と、それに比例して強くなる焦燥感。
 その先の言葉は口にして欲しくない――そう思える程の、胸のざわめき。

「あり、がと……ご、ごめ、なさ……わたし、榎さん……嘘、ついてました……」

 ふとして上げられる顔は、目元から溢れる大粒の涙が伝って、くしゃくしゃに歪んでいた。
 強がった笑顔はぎこちなく、俺の不安を増長させる。

「う、うそ……?」

 聞きたくないのに、俺は聞き返していた。
 その言葉に先輩が頷くのを受けて、俺はまた、口の中が一気に渇いてゆく感覚に襲われた。

「わた、わたし……こんなに楽しいなら……こ、こんなに、別れが惜しいなら……誘わなきゃ、良かった……手なんて、繋がなきゃ良かった……一緒にいる時間が楽しくて、嬉しくて……誘っちゃ駄目なのに、あ、あれがしたい、これがしたいが、止められなくて……」

 楽しい。

 惜しい。

 嬉しい。

 駄目。

 そんな言葉が並ぶだけで、俺は嫌なことばかり考える。
 しかして現実とは非情なもので、良いことより悪いことの方が、往々にして的中するもので。

「ごめん、なさい……ごめんなさい、榎さん……」

 どうして謝るの……。
 胸の中で尋ねた俺に、答えるように。
 際限なく溢れる大粒の涙の中、鼻水までみっともなく流す先輩は、とうとう口にしてしまう。
 強がった笑みも忘れて、歪みきった顔で。



「私……秋には、も……もう、この世界には……いないんです……」

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