期末試験が無事終わり、テストの返却もこれで最後。
結果は――悪くはない。いつも通り、平均のちょっと上だ。
もっとも今は、試験の結果なんでどうでも良くて。
ようやく、今日から部活動が再開する。
溜まりに溜まった面白話でも綴られた日記が出迎えてくれる――
「……なんて」
そんな筈はなかった。
一緒に帰らなかったのは、期末試験本番の五日間だけ。テスト中に面白いことなんて、そうそうある訳でもない。
期末試験が始まるまでの一週間、俺たちは初日と同じように、校門で待ち合わせて一緒に帰った。
急激な変化こそ無かったものの、少しずつ慣れて来てくれたのか、先輩の方から口を開く機会が多くなったように感じる。
それでもやっぱり、人と自然と話すことそれ自体はまだ難しいようで、長くも多くも続かない会話。
でも、寧ろそれくらいで良かったと思う。急に慣れてあれこれ話されても、それはそれで俺の方が委縮してしまっていたことだろう。
ゆっくりゆっくり、一歩ずつ、いや半歩ずつくらいの進歩であるからこそ、俺の方も、ある程度冷静に先輩と話していられる。
異性と二人きりで話すなんてこと自体、俺だって殆ど経験のないことだ。
「お疲れ様、でした、榎さん」
準備室の方から出て来た先輩が、いつもと変わらない声色で言う。
「先輩もお疲れさ――」
振り向いた瞬間、思わず言葉が途切れた。
夏服は試験前から目にしていたが、それに似合うポニーテールに、髪が結われている。
サラサラの長い黒髪はいつも、何もせずただ下ろされているばかりだったから、とても新鮮だ。
「榎さん……?」
「へっ…!?」
「わっ…!」
大きな声で驚く俺に、先輩も釣られて驚き、一歩下がる。
その小さな動きだけで、髪が躍るように揺れる。
「あっ、ご、ごめんなさい…! その、えと、髪型……」
「髪……? あ、はい……七月に入りましたし、暑くなってきたので……」
そう言ってパタパタと手で仰ぐ仕草は、とても控えめだ。
「あの……へ、変、でしょうか……?」
「えっ、な、なんで……?」
「だ、だって榎さん、何も言ってくれない、から……」
寂しそうな、悲しそうな顔で先輩は言う。
「そんなこと――! めっちゃ似合ってるなって思ったから、言葉が出なかっただけです…!」
頭の中で考えていた気の利いた言い回しなんて全部忘れて、慌てて首を振りながらそう言う俺に、
「あ、えっと……じ、冗談、です……」
俯き、申し訳なさそうに、小さくそう言った。
「あぇ……冗、談……?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい…! ちょっと、揶揄ってみたくなって――で、出来心で…!」
ガバっと頭を下げ、ごめんなさいと繰り返す。
まさか、この人から『冗談』なんて言葉が飛び出すとは思わなかった。
さっきとは別の意味で、言葉を失ってしまった。
「お、怒りましたか……?」
「え、と……いえ、別に怒りはしませんけど……」
申し訳なさそうにおずおずと頭を下げる仕草さえ、どこか可愛らしい。
「あの……とてもよくお似合いです、ほんと……」
「へっ…!? あ、あぅ…! あ、ありがと、ございます……」
勢い任せじゃない言葉に、先輩は真っ赤になって固まった。
それが何だか可笑しくて思わず吹き出すと、先輩は頬を膨らませて準備室の方へと戻って行った。
やらかしてしまったような、そうでもないような。
何とも言えず頭を掻きながら、俺はいつもの椅子に腰を下ろす。
手に持ったノートを開き、その上にペンを置いて――特に何も浮かんで来ないままの時間を、何となく過ごす。
「期末、終わりましたね」
思っていたことが、ふと口を突いて出て来た。
「そ、そうですね」
先輩が、短く返答してくれた。準備室の扉を開けたままだ。
「試験明けって、何かパーッとやりたくなりますよね」
「パーッと、ですか?」
「ええ、パーッと」
「た、例えば、どのような……?」
「うーん……思いっきり寝るとか」
「……そ、それ、榎さんは普段からやってそう」
「心外だなぁ。まぁ、遠からずですけど」
家事をしていない時間は、適当な本を読むかテレビを見るか、大体ダラダラと過ごしている。
先輩は、きっと真逆なんだろうな。
普段からコツコツと勉強をしていそうだ。
「パーっと、パーっと……」
繰り返し呟く先輩。
思わずそちらに目を向けると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ……好きな作家さんの新刊、明日発売なんだった……」
呟くように零れた声は、初めて聞く、敬語じゃない言葉。
「新刊?」
「ひゃっ…! き、聞こえてましたか…!?」
「え、今の独り言…!?」
「う……うぅ……」
ハッとしたかと思うと、しゅんと丸く小さくなる背中。
両手で頬まで隠してしまった。
こういう小動物、どこかにいたような気がする。
「で、誰の新刊です?」
「あ、えと、亜久里清香さんって人の――」
「えっ、探偵喫茶の新刊、明日なんですか…!?」
大声を上げる俺に、先輩が振り返る。
咄嗟に頭を下げて、心を落ち着ける。
「ご、ご存じなんですか?」
「ええ。前はあんまり読書が好きじゃなかったんですけど、何となく表紙買いしたそれにすっかりハマっちゃって」
口には出来ないが、きっかけは、バスケから離れた苛々からだった。
何となくモールの中をうろつき、ふと立ち寄った本屋で出会った一冊だ。
「そうなんですね……」
感心したような顔で、先輩が頷く。
「――俺、そういう人間に見えません?」
「う……あ、あまり……」
「まぁ、ですよね」
「あっ、ご、ごめんなさい…!」
「あはは、別に構いませんって。自覚はありますから」
それこそ、昔はあまり好きではなかったのだから。
「あ、あの……お好きなお話とか、あったりしますか……?」
先輩が、控えめに尋ねる。
ふと、友達がいなかったと話していたことを意識してしまう。
いなかったからには、こうして誰かと好きなものの共有なんてことも、したことがないのかもしれない。
控えめながらも、目の奥は、期待からかとてもキラキラしている。
「うーん……俺は三巻ですかね。ライバルのお茶屋さんとの、何でか巻き込まれた謎解き一騎打ち」
「わ、私も…! やれやれ勘弁してくれって感じで巻き込まれたのに、最後にはビシッと謎を解いていつもの日常に戻って行くあの感じ…!」
「そうそう。で、それに腹を立てたライバルが、また次の巻で喧嘩を吹っかけてきて――」
「含みあり気な感じで始まった冒頭二ページだけで、事もなげにあっさり解決しちゃうんですよね!」
キラキラと輝く瞳で、気が付けばずずいと前のめり。
一瞬訪れた無言の時間に、先輩はハッとして顔を逸らした。
「ごご、ごめんなさい…! 好きなことになると、いっつもこうで…!」
慌てて机に向き直りながら、いつもはあるはずの横髪を撫でて、あれ、とポニーテールの方を掴み直して真っ赤になって。
好きなものを話すといつもの調子でなくなるなんて、悪いことじゃない。寧ろそれだけ好きなんだなって分かるから、話しているこちらも嬉しくなる。
こんなに楽しそうな、嬉しそうな表情も、初めて見るし。
「明日――明日、土曜日か」
期末は終わり、試験の返却も終わり、一学期が終わる。
――丁度良いかな、と思う。
「あー……その、先輩。もしお暇だったらで良いんですけど……あ、明日とか、一緒に買いに行きませんか……?」
なんとも情けない言葉と声音。
もっとスマートに誘えれば良かったのに。
ほら見たことか、先輩が口を開けて固まってしまった。
「や、その、忙しいならアレですけど、えっと――あ、そう期末…! 終わったし、一学期お疲れ様会ってことで! ついでに、思い切ってクレープも、食べに、とか……」
情けなくて俯く俺。
顔が熱い。
怖くて表情を窺うことは出来ないけれど――沈黙の続いた数秒後、小さく笑う声が耳を打った。
「良い、ですね、それ……一学期、お疲れ様会」
「……え、ほ、ほんとに……? 俺が一緒で良いんですか……?」
顔を上げると、淡く微笑む先輩と目が合った。
ドクン、と心臓が強く打つ。
「正直なことを言うと、本屋さんに行くのも、ちょっとだけ怖いので……知らない人、いっぱいだから……だから、一緒に来てくださるの、とても心強いです」
いつものように、少したどたどしくはあるけれど。
目を逸らさずに、ハッキリとそう言ってくれた。
「そ、そう、ですか……」
少しずつではあるけれど、先輩は俺と話す時、頑張って目を見てくれるようになってきた。
それと同時に、自分の気持ちや話したいことも、遠慮なく話すようになってきた。
その変化に――ちょっとだけど大きな勇気に、俺も応えたい。
背筋を伸ばして、今一度。
しっかりと目を見て、もう一度。
「先輩――よろしければ明日、一緒に本屋に行きましょう。せっかくだからご飯も食べて、帰りにクレープも買って、目一杯羽を伸ばしましょう」
「よろしければ、なんて、とんでもない。嬉しいです」
先輩は、ふわりと微笑んだ後、
「私なんかで良ければ、喜んで」
恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに、明るく笑って頷いた。
それはまるで、初めて見る花が初めて開くのを、目の当たりにしたようで。
心臓がキュッと掴まれるような、痛いとさえ思える程の高鳴りを覚えた。
少しして落ち着いた後で、明日の予定をある程度詰めて。
丁度いい頃合いに響く下校のチャイムを機に、俺たちは一緒の道を帰った。
——浮かれすぎ、なのかな。
待ち合わせは十一時だけれど、現在時刻はそろそろ十時半になろうかというところ。
早く着き過ぎてしまった。
男友達相手なら、素直に『早く着いた』とでも連絡を入れていることだろうが、相手は女の子……超楽しみなやつみたいに思われたり、はたまた無駄な気を遣わせてしまうかもしれない。
先輩なら――きっと後者だろう。下手な連絡は入れられない。
自販機で買ったお茶を手に、駅前広場の端の方に見つけたベンチに腰掛ける。
と、ポケットに入れていたスマホが震えた。
取り出して確認すると、姉からのメッセージが一件入っていた。
『いくら人生初デートだからって、浮かれすぎじゃなーい?』
短い文章の後、ケラケラと笑いながら転がる猫の、変なスタンプが貼られている。
今日は姉も休みで家にいる為、出掛けるからには自然と、相手の名前も出していた。
ニヤニヤといやらしく笑って「どこ行くの?」「何すんの?」と質問攻め、もとい詰問されたのを思い出す。
先輩の事情なんかに関しては、何なら俺より姉の方が色々と知っているだろうに。
本当に良い性格をしている。
『うっさい。晩飯はカップ麺な』
『あら久しぶりのインスタント。楽しみにしてるわねー』
今度は、ルンルンスキップをしている犬のスタンプ。
『どんな顔して打ってんのそれ。米のとぎ汁だけにしてやろうか』
『うそうそ冗談。気を付けて行ってらっしゃいね。麻衣にもよろしく』
『初めからそれだけ言えって』
『どうせ空白の時間になってるであろう弟の暇つぶしに付き合ってあげてる、優しい優しいお姉ちゃんの親切心が分からないなんて』
『雲でも眺めてる方が有益だよ』
『うわー失礼なやつ。どうせ麻衣もまだ来てないんでしょ? ひとりで何して時間潰すのよ』
『別に何もし』
まで中途半端に打ったところで、隣から「あの」と小さな声が聞こえた。
その声に反応して顔を上げたすぐ先には、シンプルながら、制服とは全く異なる印象を受ける服装の先輩が立っていた。
思わず送信ボタンを押してしまったすぐ後でまた、姉からのメッセージが入る。
『もし? もしもしかめよ?』
『先輩来たごめん切る』
手短に要点だけを綴ってさっさと送信して、俺はスマホをポケットに突っ込み、立ち上がった。
「おはようございます、先輩。お早いですね」
「そ、それ、榎さんにもそのままお返しします」
「あー……ですよね」
こんなことなら、もっと目立たない場所で待っていれば良かったか。
いや、そうなったら先輩をどこかで待たせてしまうことになっていたかも。
……時間を決めての待ち合わせって、こんなに難しかったっけ。
「携帯、良いんですか……? 熱心に、どなたかとお話しなさっていたような……」
「姉です姉。くだらない日常会話です」
「そ、そうですか……?」
間違っても『初デートだなんだと弄って来やがった』とは、笑いながらでも言えない。
先輩は、それを冗談だとちゃんと受け取ってくれるか分からない。
「あー……っと、その……」
立ち上がったは良いけれど、どうしたものか。
キョトンとした顔で俺のことを見上げる先輩の方を、何だかまともに見られない。
真っ白なカットソーの上に灰色の薄いニットベスト、デニムのパンツ――なんてことはない、どこにでも見られるようなファッションの筈なのに、どうも眺めていられない。
ゆったりとした制服からは分からなかったことだけれど、パンツがピチっとしたサイズのものだからか、たっぱがあって凹凸もしっかりしているスタイルの良さが、際立ってしまっている。
髪も髪で、下の方で緩く結わって肩から前に流されていて――色っぽいとすら思えるような装いだ。
肩に掛けているのが小さなショルダーポーチなのも、尚大人っぽい。
「榎さん……?」
小首を傾げる先輩に俺は、
「……いえ。ちょっと早いですけど、行きましょうか」
気の利いた言葉の一つも言えなかった。
口にすると、更に強く意識してしまいそうだったから。
「はい。今日は、よろしくお願い致します」
そう言いながら、先輩は小さく頭を下げる。
ふと浮かべられた笑顔は、緊張を隠しているようにぎこちなかったけれど、それさえとても綺麗に見えて、もう顔を覗き込むなんてことは出来なくなっていた。
「――はい。俺も、よろしくお願いします」
全身にむず痒さを覚えながらもそう答えると、一歩、俺の方から踏み出した。
待ち合わせ場所から反対側の入り口から直結しているビルの中に、目的地である本屋はある。
昔、何度か来たことはあったけれど、他に入っている店はあちこち変わっていて、とても新鮮な気持ちにもなった。
「ひ、人、多いですね……」
緊張というより、何なら怯えながら、先輩が呟く。
「休日ですからね。他の、もっと静かなところに行けば良かったですか?」
「い、いえ、そんな…! ここに行こうって言い出したの、私ですし…!」
昨日、今日の予定を決める中で、ここなら周りに飲食もあるから、と言い出したのは確かに先輩だった。
何を疑うこともしなかったけれど、これだけ人が多いと、俺でも少ししんどくなってしまいそうだ。
「ふわぁ……」
隣を歩く先輩が、口元を隠しながら小さく欠伸をした。
思わず目を向けると、恥ずかしそうに俯いてしまう。
「す、すみません、失礼なことを…!」
「別に構いませんよ。寝不足ですか?」
「は、はい、少しだけ……今日が楽しみで、ちょっと夜更かしをしてしまいまして……」
「あぁ、そういう――俺も昨日の夜、何となく探偵喫茶を読み返してて、姉ちゃんに『はよ寝ろ』って取り上げられて」
「あっ、お、同じです…! 私も、お話しに出て来た三、四巻を読み返してたんです…!」
「え、偶然。俺も、三巻を読んで四巻に差し掛かったところで没収されたんですよ」
「そ、そうなんですね…! 何度読んでも良いですよね、やっぱり」
「ほんと、何でか飽きないんですよね。それだけ、物語にも文章にも、読者を楽しませる工夫がされてるんでしょうね」
「そう思います。単に上手いとか語彙力があるとかだけじゃなくて、こう、亜久里先生の人柄が滲んでいるような」
「作者の人柄ですか。確かに、そんな感じはしますね。他の書き下ろしとか読んでても、なんか漠然と『良い人そう』って思いますもんね」
「そうなんですよ。良い意味で子どもっぽいというか、無邪気な感じがします」
「あー分かる。それだ、無邪気なんだ。だから、あんなにキャラクターたちが活き活きとしてるんでしょうね」
「ええ。私はそう思います」
——なんて話を、当たり前のようにしているけれど。
ふと会話が途切れた一瞬間、あれ、と思う。
好きなものの話をしている時は、口籠ることも、言葉が途切れ途切れになることも、あまりないように感じる。
好きこそものの、というやつだろうか。いや、それは少し違うか。
とにかくも本が、亜久里先生の書く物語が、純粋に好きなんだ。
その『好き』を共有出来る人がいなかったであろうことも、昨日のように我を忘れる程の興奮に繋がってしまうのだろう。
好きなものの話をしている時の顔は、とても素敵だ。
それくらい素直な顔の方が、先輩にはよく似合っている。
誰とでも、他のことでも、そんな顔で話せるようになるといいな。
(……いい、のかな)
前向きな気持ちの裏に、ふと足を止める自分がいた。
先輩にとって俺は、初めて出来た友達だ。
初めてがあるからには、次も、その次の人も出て来ることだろう。いや、いずれそれは出て来るものだ。遅いか早いかだけの話。
本当はそれが望ましい。いやそうなっていくことが、先輩としても目標のはずなんだ。
それはとても良いことだ。良いことなんだ。
良いことのはずだ。
良いことの、はずなのに……。
(友達が増えて、もし、もっと自分と近い人に出会えたら……)
その時、先輩は――
いや、そんなことは考えないようにしよう。考えなくていいことだ。
まるで先輩の特別にでもなりたいみたいな、そんなこと。
まさかそんな。
(…………でも)
以前、姉の言っていた言葉がふと浮かぶ。
『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』
なんで今、そんな言葉を思い出すんだろう。
なんで、その言葉しか浮かばないんだろう。
違う。そういうんじゃない。
俺はただ、先輩にとって初めて出来た友達として――
友達……。
(……はぁ。何でこんなこと考えてんだろ。ぐるぐるして、訳分からなくなってきた)
あれこれ浮かんでは、そんなことない、そんなはずないの繰り返し。
このモヤモヤの先にある答えが『恋』だっていうなら――なんだろう。
相当に厄介な奴だな、恋って。
「…………はぁ」
浮かんだモヤモヤを、いつからか止まっていた息と共に吐き出す。
そんなのは、今は考えなくても良いことだ。
「無事にゲット出来ましたね」
例の本が入った袋を片手に、隣で大事そうに同じものを抱える先輩に話し掛ける。
早々に目的の物を手に入れた後、何となく他の本も見て歩き、小一時間程経った後だ。
「ええ。でもまさか、サイン本まで入荷しているとは思いませんでした」
「残り二冊だけだったのも驚きましたね」
「ふふっ。早く来て正解でしたね」
ふわりと、先輩はとても自然に笑った。
「――ですね」
それだけのことでまた、胸の辺りがキュッとなって。
俺はすぐに、気の利いた返しなんて出来なくなってしまう。
「少し、お腹が空きましたね……どこか、入りましょうか」
先輩が尋ねる。
三階の本屋から何となく下り、一階の、飲食が並ぶ区画へとやって来ていた。
「どうしましょうね……」
そう返しながら、俺は先輩の方を窺う。
あちらこちらへと目を向け、その度、客入りを見てか渋い顔をしている。
「――少し歩きますが、先輩は疲れてませんか?」
「え……? え、ええ、私は問題ありませんけれど……」
「良かった。なら一旦出ましょう。いい所を知ってます」
ビルを後にし、歩くこと約二十分。
休日の丁度お昼時、無駄足だったらどうしようかとも思ったけれど、運よく席が空いていて助かった。
「へぇ、こんなところが……」
やって来たのは、よくあるメニューの他、あまり見ない珍しい食事も提供しているような、ちょっとだけ特別な大衆レストラン。
他の飲食と同様、座席は仕切りで区切られているタイプながら、その仕切りは高く隣は見えず、全席通路側にカーテンまで下ろせるようになっている。
疑似的に、個室を有せるようになっているのだ。
「全席個室の軽い飲食って、この辺りにはなくて……せめてここなら、先輩もあまり緊張しなくて良いのかな、と」
「あ、ありがとう、ございます……」
口ではそう言うけれど、まだ何か落ち着かない様子。
「どうかしました?」
「えっ…!? あ、えっと、その……お、男の人と二人きりで食事、なんて……は、初めてなので、ちょっと緊張してしまいます」
困ったように、でもどこか少し照れくさそうに、先輩が言う。
「あー……本、本…! 読んでて良いですから…! お、俺も読んでよっかな…!」
傍らに置いていた袋を取り上げて言う俺に先輩は、
「……いえ。それは、帰ってからの楽しみに取っておきます。今は、その……榎さんと話したい、かな、なんて……思うんですけれど……」
顔を伏せ、背中を丸め、恥ずかしそうに小さく言う。
「駄目、でしょうか……?」
頭は下げたままで、視線だけこちらへ寄越して。
「ぁ……っと、その……はい……き、気の利いた話とか、あんま出来ませんけど……」
「だ、大丈夫、です…! ほら、気の利いた会話をしないのが友達って、榎さんが」
「そう、でしたね……あ、そうだ、俺が言ったんだ、それ……」
上手く言葉が出て来ない。
喉が渇いて仕方がない。
それを察してなのか、先輩は、二つ並べられていた水の入ったコップを一つ、俺の方へと滑らせた。
それを一口――一気に全部飲み干して。
迷った挙句、『新刊の展開予想』なんて無難な話題から話し出した。
帰りがけ、駅前で例のクレープ屋を覗いてみたら、今日はもう片付け始めてしまっていたようで、目的その二は一旦お預けになった。
しかし先輩は、当初のとりあえずの最終目的でもあったからか、『楽しみがまだ残っているよう』だと言って笑っていた。
「一学期お疲れ様、なんて名目でしたけど、結局、行ったのは本屋だけでしたね」
隣を歩く先輩に問いかける。
茜色に染まる空が、先輩の横顔を鮮やかに縁取っている。
「お、お食事もしましたよ」
「まぁ、それは――何も食べずにさようならってのは、流石に無いですからね」
時間が時間だし、それこそ本屋にだけ寄って帰るというのは、あまりに無い。
「先輩は、リフレッシュになりました?」
「は、はい、とても…! す、少し緊張しました、けど……」
「……ええ、それは俺も」
女の人と二人で買い物、二人で食事だなんて、どちらも人生初のことだ。
肩の力が抜けたのだって、帰路に就いてホッとした今になってからだ。
「夏休みになりますね」
「そう、ですね」
「先輩は、やっぱり部活――いや、受験生ですもんね。どうなさるんですか?」
「え、えっと……学校、行きます。おそらく、毎日……」
「部活と勉強?」
「……ええ、そんな感じですね」
「ふぅん……」
毎日、か。
先輩が携帯電話を持ってない以上、夏休み、互いに連絡を取り合うことは出来ないけれど、学校に行くと言うのであれば。
「そ、それ――」
「え、榎さんも…! えと、いつでも、来てくださって構いません…! き、気楽に、ふらりと、来てくださって……来て、ください……」
「ぁ――は、はい、行きます…!」
先に言われたのが、言おうとしていたことの答えであったことが嬉しくてか、俺は思わず大きく答えていた。
それに驚き小さく震える先輩を見て、思わず顔を逸らしながら謝る。
「あ、でも先輩、勉強もあるんじゃ……?」
「――いえ。構いません。その……お、お喋り、したいので……」
「そうですか……? 分かりました。じゃあ、たまに顔出します」
「は、はい……嬉しいです」
俯いているせいで、表情を窺うことは出来ないけれど。
声色は、少しだけ弾んでいるように聞こえた。
なんていうのは、俺が勝手に前向きな捉え方をしているせいだろうか。
「夏休みか……先輩、何かやりたいこととかあります?」
「やりたいこと、ですか?」
ふと、俺の方を見上げた。
「ええ。せっかく高校最後の夏休みなんですし、やりたいこと、せっかくだから色々やりましょうよ。部活もないし暇なんで、何でも付き合います」
「やりたいこと……やりたいこと……」
先輩は、また下の方に目を落として考え始めた。
「……あれ? でも最後っていうなら、それこそ勉強が優先ですよね……やっぱ今の無し、なんて――」
言いかけた矢先、
「……夏祭り」
先輩が、小さく呟いた。
思わず聞き返す俺に、先輩は立ち止まり、俯いたままでもう一度口を開く。
「な、夏祭り、行きたいです……浴衣とか、着て……榎さんと……ふ、2人で、行きたい……」
そう話す先輩の肩が小刻みに震えているには、すぐに気が付いた。
気が付いてしまったから、その言葉の重みを考えた。
夏祭り――それも、浴衣を着て、なんて。
本屋に行く道中、人混みに眩暈さえしそうな程だった人が。
先輩にとってそれは、きっと簡単なことじゃない。
行くのも、口にすることさえも。
それなのに行きたいと――俺と行きたいだなんて、はっきりと口にした。
(俺と……俺と…………)
どこかに追いやった筈の言葉がまた、脳裏に浮かんだ。
『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』
心臓が、ドッと強く跳ねた。
身体が熱くなって、急速に喉が渇く。
考えないように、意識しないようにしていたのに。
そう話す先輩の表情が――俯いていても分かるくらいに紅潮したその顔が、俺をそうさせてくれない。
高校最後――高校最後、か。
もし来年があるとして、その時俺は、彼女は、同じ学校の先輩後輩ではなくなっている。
たまたま交換日記を始めた、遠いようで近くにいる人では、なくなってしまう。
高校最後。同じ高校に通う、最後の年、最後の夏休み。
最後の、夏祭り。
「…………喜んで」
行きたい、だなんて幼稚な言葉では、駄目だと思った。
意を決して俺は、苦しいくらいに強く打つ胸を押して、細く弱々しい声ではあったけれど、何とか言葉を出した。
それに先輩は、何も言わず、ただ小さく頷き、涙を流して微笑んだ。
何でそんな顔を――そう聞きたい、聞きそうになった俺を制するように、気が付けば辿り着いていたいつもの分かれ道から、先輩は家の方へと向かって走り出した。
「へぇ、夏祭りねぇ」
姉が呟く。
俺が取っておいた棒アイスの最後の一本を、遠慮なく頬張りながら。
けれども俺は、それを咎めることも、何なら姉の言葉に返すことも出来ないでいる。
未だ五月蠅い胸を落ち着けようと、深呼吸を繰り返しても、好きなバラエティー番組の録画を流しても、麦茶を何杯飲み干しても――何をしても、心は落ち着かない。
先輩の言葉と声と、あの笑顔を思い出して、息も出来ない程に落ち着かない。
「――ね、真琴?」
返事をする代わりに、頷く仕草だけで応える。
「それ、麻衣の方から誘って来たんでしょ」
少し考えた後で、俺は頷いた。
「……そっか」
隣でだらしなく座りながらアイスを頬張る姉は、短く呟くと、暫くの間黙り込んだ。
何を知っているか、と今までなら聞いていたことだろうけれど、今はそれどころではない。
回そうにも回らない頭で考えるのは――駄目だ。別れ際の、あの場面ばかりが浮かぶ。
「姉ちゃん、先に寝るわね。夜更かししないように寝なさいよ」
「うん……」
何か言われたから、何となくそう答えておいた。
何を言っていたかまでは分からない。思い出そうにも思い出せない。
それでも、姉が「何言ってんの?」とか言わずに出て行ったものだから、多分正解だったんだと思う。
「夏祭り……」
先輩の方から言い出した、次にしたいこと。
それも、二人で……。
随分と思い切ったな、なんて少し楽観的に考えていたけれど、落ち着いて冷静に考えると、とんでもないことだ。
……そう、とんでもないことなんだ。
だから帰ってからずっと、いや、先輩と別れたすぐ後から今まで、何をやっていたのかさえ思い出せないくらいに、上の空になってしまっているんだ。
夏祭り。先輩と二人。夏祭り……先輩と……。
そればかり考えて、ぐるぐる同じことばかりが頭の中を巡って、何をしても落ち着かない。
「夏祭り……先輩……先輩は…………」
先輩は――本当に、俺でいいのかな。
終業式も終わり、夏休みに入った。
初日から俺は、宿題の山を手に、学校へ来ていた。
何時間いるかは分からないけれど、ずっと話しっぱなしということは無いだろうと思ってのことだ。
カリカリ。
サラサラ。
ノートの上を鉛筆が滑る音が、二つ、だだっ広い教室の中に響く。
先輩も、今日は準備室ではなく教室の方にいる。
それでもまだ恥ずかしいのか、或いは気まずかったりするのか、教室の端と端に離れて座っている。
セミの鳴き声。
窓から入る風が揺らすカーテンの擦れる音。
遠くの方に運動部の掛け声。
鬱陶しいくらいにうるさい、心臓の音。
会話なんて殆どない中、それらが耳を刺激して、宿題にすら集中出来ない。
「…………ふぅ」
俺は、腹の中で渦巻く思いと一緒に、深く息を吐きつつ鉛筆を置いて、広げたままのノートの上に突っ伏した。
腕を枕にして、壁の方に顔を向ける。
窓のすぐ外で鳴いていたセミの大きな声が一つ、途切れた。
その代わりとでも言いたげに、他の声が大きくなった。
一瞬、強い風が吹き抜けて、カーテンが暴れた。それが顔を叩きつけるものだから、閉じていた目もすぐに開いてしまった。
「ふふっ」
先輩の笑い声が背中に掛かる。
思わず目を向けると、俺の方を見て、口元を隠して笑う先輩と目が合った。
ポニーテールが、楽し気に揺れている。
「ゆっくり、出来ませんね」
先輩は可笑しそうに笑いながら、そんなことを言った。
「…………ええ」
頭を掻きながら、身体を起こす。
「そう言えば先輩、文芸部で何をしてるんです? 小説でも書いてたりするんですか?」
「先代の部長さんたちがいた頃は、そうでした。でも、今はもう書いていません」
「え、じゃあ何をしてるんです?」
「……色々、ですね」
勉強とか日々の宿題とか、そういうことだろうか。
「ふぅん……」
突っ込んで追随することもなく、俺はその返答を受け止めるだけに留めた。
そうして無言の時間が出来てしまったら――また、意識はいとも簡単に引っ張られてしまう。
「夏祭り……もうちょっとですね」
それを口にしたのは、俺ではなく先輩だった。
また、心臓が強く打った。
「……ですね」
そう返す頃には、先輩は緊張した面持ちで俺の方に目を向けていた。
「浴衣……お母さんに、ちょっと奮発してもらっちゃいました。レンタルですけど、初めて、わがままを言いました」
「そ、そうなんですか……」
「はい。せっかく、最後の夏休みだから……お母さんも、いいよ、って頷いてくれて……お、男の子と行く、とは、恥ずかしくて言えなかったんですけど……」
「……まぁ、ですよね」
俺の方は、姉が事情を知っているだけに、誤魔化すことは出来なかった。
先輩のことも知らない相手であったなら、俺もきっと、バスケ部のやつらと行く、なんて誤魔化していたと思う。
「……楽しみ、です」
「……はい。俺も」
もう、顔なんて見れる状態じゃなかった。
夏の暑さとは別に、身体の奥底の方から熱くなるこの感覚。
それを誤魔化すように、俺はまた腕を枕にして、顔は壁の方に向けた。
次の日も、俺は学校に行った。
今度こそ宿題を進める為に。
上手くいった。想定以上には進んだ。
でも、身にはなっていなかった。
何をどこまでやったかなんて、終わってから考えた程だった。
夢中でやっていたからではない。
夢中になれなかったからだ。
次の日も。
また次の日も。
俺は学校へ行って、宿題を進めて――先輩とは、次第に話さなくなっていった。
いや、それは違うかな。
話せなくなっていたのだ。
俺も、先輩も。
その日が近付くにつれ、互いに何かを自覚して、それは日に日に強くなっていって、ふと目が合ったら恥ずかしくて声も出なくて。
前日の今日なんて、朝の挨拶、帰りの挨拶以外、交わす言葉はなくなっていた。
先輩はいつも最後の時間までいるようで、俺は途中で帰ってしまうから、帰り道を共にすることもなくて。
また明日――
耳まで真っ赤にしながらそう言う先輩に、俺は頷くことしか出来なかった。
あっという間にその日は来てしまって――
正月ならまだしも、夏祭りに浴衣を着るタイプの男子高校生はあまりいないから、俺は当たり前のように私服で来ていた。
それでも多少着飾った方がいいと思って、小遣いを使ってそれらしい服を買った。
後になって姉から「出してあげたのに」と言われたけれど、これはその、何というか、男の意地とかプライドみたいなもので。
好きな人と出掛けるのに、親なら最悪百歩譲っても姉にたかるというのは。
(…………は?)
いやいや、そうじゃない。
好きじゃない。好きな人とか、そんなんじゃない。
先輩は友達で、彼女にとっても友達第一号で、そう、それだけの関係だ。
好きな人とか、そういうんじゃ……。
「…………はぁ」
なんでこんなに息が上がってしまうんだろう。
ここ最近、ずっとこの調子だ。
交換日記だなんだ、友達だなんだって言ってた時はまだ、普通に当たり前に、スラスラと喋れていたのに。
あの人のことを思っても、何ともなかった筈なのに。
「なんで……」
なんでこんなに、胸が苦しいんだろう。
知らない。こんな感覚。
初めてだ……。
「…………でも」
早く来ないかな――そんなことを思っても、いや違う、そうじゃない、とはならなくなっていた。
会いたくなってる……。
会ったら話せなくなってしまうのに、早く話したくて仕方がない。
話したくて仕方がないのに、会ったらきっと話せなくなってしまう。
あぁ……。 もう、本当に。
この感覚の正体が『恋』ってやつなら、本当に……本当に、心底厄介なやつだ。
「あ、あの……」
まだ心の準備なんて、ひとかけらも出来ていないのに。
その声が聞こえたことが嬉しくて、俺は思わずそちらを振り返る。
「ぁ……」
見惚れる、というのは正に、今の俺のようなことを指す言葉なんだろうと思う。
水色を基調とした浴衣、カロカロと弾む下駄の音、小さな巾着袋、お団子に纏められた髪――
仄かに染まった頬。
……もっと、遅い時間帯に待ち合せれば良かったな。
まだ陽も落ち切っていない今の時間帯、その姿がはっきりと見えてしまう。
嬉しいことだ。嬉しいことだけれど――それは、俺の方も同じことだろう。
口を開けたまま呆けた顔が、彼女の眼には映りこんでいる筈だ。
「お、お待たせ、しました……」
そう言いながらも恥ずかしくなったのか、両手で持った巾着で口元を隠しながら、先輩は目線を逸らしてしまう。
俺はその姿を見たまま――いや目を離せないまま、あ、え、と声にならない声ばかりを零す。
その姿を、声を、目に耳に入れただけでもう、呼吸困難になりそうな程なのに――
「い……いい、行き、ましょう、か……」
小さく細く、高い声に返せない内に、
「あっ……」
隣に並んだ先輩が、つま先だけ触れた俺の手を、そのまま離さずキュッと握って来た。
当たったとか、たまたまとかじゃない。
意図して触れて、握られた……。
「せん、ぱ……」
「き、今日だけ……今日だけ、ですから……」
「ぁ……え、ぁ、はい……」
俯いたままでそう言う先輩に引っ張られるまま、俺たちは人混みの中へと入ってゆく。
周りに聞こえる喧しいまでの話し声も、遠くの方で響く太鼓の音も、全部全部意識の外側で繰り広げられること。
握った手から伝わる、先輩の熱と、これでもかというくらいの緊張感ばかりに気を取られながら、俺は暫く、ただ足を回し続けることしか出来ないでいた。