『まずは、謝罪をさせてください。

 先日は、避けるように帰ってしまい、申し訳ございませんでした。

 鍵をかけていたつもりがかかっておらず、それでもまさか、入って来るとも思わなかったもので、驚いてしまいました。ただ、字がとても綺麗でいらっしゃったので、まさか異性とは思わず。

 私、異性と、というより人と話すのがとても苦手で、そのせいで、目が合っただけ手身体が固まって、頭が真っ白になって、冷静ではいられなくなってしまうんです。

 とはいえ、そんなのは言い訳です。結果的に貴方を傷つけてしまったことに変わりはありません。

 本当に、申し訳ございませんでした。

 でも、この数週間、本当に友達が出来たみたいに、とても楽しかったです。とても、明るい日々でした。

 貴方は、日記じゃなくてただの会話だと仰られましたが、それだから嬉しかったです。

 日記を手に取ってくださったのが、貴方のような方で良かった。

 短い間ではございますが、ありがとうございました。

 惜しむことなんて、一つもありません』
 なんだよ、これ。
 どうして、彼女が謝ってるんだ。
 彼女は悪くない。誰も悪くない。俺だって、間違ったことをしたつもりもない。

 それなのに――

 それに、何だよこれ。
 ありがとうございました?
 もう続けないつもりなのか?

 ……いや違う。
 そう誘導してしまったのは俺だ。

 彼女の言葉の揚げ足なんて、取らなければ良かった。取る必要さえなかった。
 追い込んだつもりなんてなかったけど、その距離感が心地よかった彼女のことを、結果的にでも追い込んでしまった。
 そんな俺に、彼女に何か言う資格なんてない。

 それなのに……。

「なんで……」

 どうして彼女は、惜しむような書き方をするのだろう。
 俺の勘違いだろうか?

 ――いや、そんなことはない。そんなはずがない。

 彼女は以前、確かに書いていたではないか。
 貴方と仲良くなりたいと思っている、と。

 俺たちは仲良くなったのか?
 友達になれたのか?

「……そんなわけ」

 俺は、迷わず準備室の扉に手を掛けた。
 捻ったドアノブは、つっかえることなく回った。鍵は開いているらしい。
 ほら。惜しむことなんてない、なんて、嘘だ。
 日記にも(したた)めたのであれば、その不注意を反省して施錠すればいい。
 そうしていないのが、何よりの理由じゃないか。

「――失礼します」

 一呼吸置いた後で、俺は扉を押し開けた。
 彼女は――今日は、特に驚くこともなく、窓の外に目をやっていた。
 その姿はまるで、精巧に作られた人形のように綺麗で――瞬間、俺は目を奪われ、言葉を失ってしまった。

「――そうやっていつも、この部屋で過ごしていたんですか?」

 俺の質問に、彼女は少し時間を置いた後で、小さく、ゆっくりと頷いた。

「……俺が寝てる間、ずっと?」

 彼女が頷く。

「どうしてですか? ノートだけでも置いておいて、教室かどこかで、いや、帰ったって別に良いじゃないですか。俺が来るのは放課後だけだったんだし、朝取りに来て、そこから書いたって――いやそもそも、俺が男だって、気付いてないなんて嘘ですよね。俺、この教室でめっちゃ独り言喋ってたし、多分いびきだってかいて寝てたし」

 聞こえていなかった、ということはないと思う。
 あの椅子の音が聞こえたくらいだ。何もないこの教室で反響する俺の声が、一度も聞こえていなかったということはないだろう。
 そんな、俺の予想の通りに。
 彼女は、暫くの時間を空けた後で、ゆっくりと頷いた。

「……交換日記、やめますか?」

 少しの間、様子を見る。
 しかし彼女は、頷かなかった。

「もう俺、ここには来ないようにしますね」

 彼女は頷かない。

「あれ、もう終わるので、持って帰っておいてくださいね。他の人に見られるのは、俺も嫌なので」

 彼女は――頷かない。
 ほら。
 やめる気なんて――やめたいなんて、嘘じゃないか。

「…………友達、本当に欲しいんですか?」

 少しの間を空けて、彼女は小さく頷いた。

「俺、明日もここに来た方が、良かったりしますか?」

 彼女は頷いた。
 やめたいなんて嘘だ。

 ……俺だって、そうだ。

「わた、し……」

 ふと、彼女が口を開いた。
 窓の外に目をやったままでの瞳が、微かに揺れ動いているのが見えた。

「わたし……小さい頃から、入退院を繰り返す生活で……誰か、仲良くなった子とか、よく話せる人って、病院の先生と看護師さん以外にはいなくて……それで、友達が欲しかったんです……」

 僅かに、声も震えていた。

「そのせいで、人と話すのが苦手で……それでも、どうしても友達が欲しくて、でも、やっぱり話しかけに行く勇気なんか、出なくて……そんな私でも出来ることが、筆談しか思い浮かばなくて、それで……」

「文芸部、今は貴女だけなんだって、姉ちゃ――先生から聞きました。貴女以外に寄りつかない場所にノートを置いて、友達が出来るなんて、本当に思ってたんですか?」

 彼女は、首を横に振った。

「友達は欲しいけど、沢山の人に見られるのは、恥ずかしくて……誰か、気付いた人だけ、手に取ってくれればって」

「手に取った奴が、それを晒上げるような真似をしないとも限りませんよ」

「貴方は、そんなことをしませんでした」

「……結果論です」

「でも、こうして先週までは、続けてくれました……感謝しても、しきれません」

 彼女は、会話を切ろうとするかのような言葉で続けた。
 欲しいと言いながら遠ざけようとするのは、彼女の境遇が作り上げた性格から来る、自己防衛のようなものなのだろう。
 だから、ここで俺が踏み込むのは違う。
 違うと、分かってる筈なのに。
 踏み込まないと、引いたその線から逸脱することにも挑んでいかないと、友達なんて永遠に出来ないままだ。
 それでも彼女は、欲しいと言った。文字だけでなく、言葉にして声に出してくれた。
 それはきっと、彼女なりに精一杯頑張った結果なんだ。

 きっと彼女なりに、線は引きつつも、壁を一つ壊したんだ。
 だから、こんなに小刻みに肩を震わせているんだ。
 頑張った。きっと、頑張ったんだ。

「……続けて来た、なんて言わないでください。俺、明日もここに来ますから」

 思い切ってそう言ったところ、彼女がようやく、俺の方に目を向けてくれた。
 それでも、口にした通り苦手で恥ずかしいのか、俺の耳元、首すじ、背後の方へと泳いだ視線は、自身の足元へと落とされる形で落ち着いた。

 十分だ。

 きっと、それだってかなり無理をしたのだろう。慌てた様子で小さく丸まってしまった。

「嫌なら、やめたいなら、そう口で言ってください。でも俺は――今は俺も、貴女と仲良くしたいなって、そう思い始めています。もっと色々、話したいと思っています」

「は、はい……」

 彼女は、控えめに頷いた。
 ——こんなこと、本当は言うつもりもなかったけれど。
 彼女の身の上を少しでも聞いてしまった今、俺だって言わない訳にはいかない。

「――俺、バスケ部だったんです。小学校と中学校。高校でも続けるつもりでした」

「ば、バスケ、ですか……すごいですね。背、高いですもんね」

「自慢じゃないですけど、それなりに上手くやれてる自負もありました。でも、中学三年に上がるすぐ前に、ちょっとした事故に遭って、膝が外れやすい身体になって――それで、諦めたんです。諦めるしか、なかったから」

 彼女は、相槌を打つ代わりに、小さく頷く。
 前髪が影を落とすせいで詳しい表情までは窺えないけれど、それはやや、何かを言いにくいような暗さを持っているようにも見えてしまった。

「あ、いや、それ自体が言いたいことじゃなくて……それがあって、今部活には入っていないので、暇というか、時間だけはいっぱいあって、それで……」

 違う。そうでもない。
 言いたいことは、その先のことだ。
 それを望むことが、自分が望んでいることが、自分でも意外だったせいで、認めるのがどこか怖かった。だから、彼女が日記を持って帰った時、それでもいいと思った。
 でも、そうじゃなかった。
 それを望んでいるのは俺自身で、疑いようのない事実で、正直な気持ちだった。そう、自覚した。
 だから、俺も言わないと。
 もっと正直に、もっと分かりやすい言葉で。

「……変化が、欲しいんです」

「変化、ですか……?」

「はい、変化。うち、俺と姉ちゃんしかいない二人だけの家で、家事はやらなきゃだけど、とにかく暇で暇で……じゃなくて、だから、貴女と話しているのは楽しかったんです。毎日毎日勉強ばっか繰り返すみたいな日々から、どこか抜け出せたような気がして」

 そう。それでいい。
 言いたいことを、正直に言うだけだ。

「だから――俺と、友達になってください。もし、貴女が嫌じゃなければ」

 高校生にもなると、友達、という言葉をそのまま使うことには、どこか抵抗があった。
 けれど、その言葉だからこそ、その言葉を使うからこそ、意味があるんだ。
 少なくとも、今この場に於いては。

「とも、だち……」

 彼女は、その言葉だけを復唱した。
 二回、三回と噛み砕いてようやく、理解出来たかのように顔を上げた。
 その目元には、薄っすらと雫が浮かんでいて――

「いい、のでしょうか……私が、望んでも……」

「最初に言ったのは先輩の方でしょう? 俺、そのつもりで日記やってたんですけど……違ったんですか?」

「ち、違いません…! 友達、欲しかったです…!」

 ずずいと顔を寄せるようにして、彼女は前のめりに話す。
 一拍置いて、そんな行動に出たことと声を荒げたことにでも羞恥心を感じたのか、また引っ込んで、視線は逸らされてしまった。

「友達……なってくれるんですか……? に、日記でしか、話せないような私なのに……」

「別に、しばらくはそれで良いんじゃないですか? 俺、多分毎日来ますから、そのうち慣れてくれれば良いですよ」

「な、慣れないかも、分かりませんよ……」

「それならそれで、まぁ別に良いでしょ。ちょっと寂しいですけど。でも時間はあるし――って、それ俺だけか。先輩、受験生なんですもんね」

「それ、は――い、いえ。なるべく、早く慣れるように努めます」

 努めるようなことでもないとは思うけれど。
 いや。それも、彼女にとっては、現状とても難しいことなんだろう。

「やりたいこと、やって行きましょう。まずは――そうですね。駅前のクレープ屋、行けるようになれれば良いですね」

「そ、外に行くんですか…!? 一緒に!?」

「そりゃ友達ですし――って、俺異性か。まずいなら、別に行かなくても――」

「い、行く、です…! です、けど……ちょっと、心の準備が……い、異性とかじゃなくて、人と出たこと、ないから……」

「――分かりました。じゃあ、これは一先ずの最終目標ということにしましょう」

 彼女は、恥ずかしそうに小さく頷いた。

「そ、それにしても、どうして受験生って……あ、先生に聞いた、って……榎先生に、聞いたんですね。ご姉弟かなにか、でしょうか?」

「はい、さっき言った姉ちゃんっての、アレです。十個違うんですよ」

 俺がもうすぐ十七で、姉が二十七だ。

「貴女のことも、結果的にですが、その姉から聞いたんです。あ、名前だけ。確か、先輩のクラスの担任なんですよね」

「は、はい……榎先生には、とてもお世話になっていて……相談とか、勉強とか、色々……」

 なんて言い出す先輩を前に、俺は思わず吹き出してしまった。

「な、何か、おかしなことを言いましたか…!?」

「えっ? ああいや、姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、そう言えば初めて聞いたなって。まだまだ若いし、生徒との距離が他の先生と比べて近いからか、『さやちゃん』とかって呼ばれてるのしか聞いたことがないんですよね」

 榎紗耶香。で、さやちゃんだ。
 内何度かは『さやちゃん先生』だとか呼ばれていたような気もするけれど、それだって『先生』より『さやちゃん』の方に引っ張られる。
 どうあれ、良くか悪くか、先生らしい威厳なんてないような感じだった。

「榎先生、生徒からとても人気がありますから……美人ですし、ノリも良い性格をしてらっしゃいますし」

「あれが美人? ないない、うち来ます? ガサツだしそこそこだらしないし、手を焼くこともちょいちょいあるんですよ?」

「そ、それは――きっと、家だからこそ羽を伸ばせるのではないでしょうか。少なくとも、私たちの目に映る先生は、とても毅然としていて、それでいてとても優しいお姿ばかりですから」

「ふぅん……そういうもんですかね」

 言われてみれば、そう思えなくもない。
 先輩たちは、俺の目には映らない面ばかりを知っているのだろう。
 俺は姉と、学校ではなぜか極端に出会わない。

「それより——そろそろ、帰りましょうか」

「えっ……?」

 と、先輩は思いがけない言葉でも聞いたような声で俺のことを見上げた。
 思わず同じように聞き返した少し後に、ああそうかと自身の言葉を撤回した。

「そっか、俺が部活に入ってないだけで、先輩は文芸部ですよね。すいません」

 机の上に置かれた原稿用紙の数々に目を送る。

「……じゃあ、俺は先に」

「は、はい……お疲れ様、です」

 ぺこりと小さくお辞儀をしながら先輩が言う。
 俺もそれに倣って頭を下げて――せっかくだから、敢えて言葉にしてみようと、再度口を開いた。

「えっと……また、明日」

 自分で思うより控えめに出て来たその言葉に、先輩はハッとして俺の目を見てくれた。
 先刻のように、逸らすでも泳ぐでもなく、そのまま俺の目を見つめ続ける。
 そうなのだと分かってしまった途端、俺は心臓が強く、速く打ち始めたのを感じた。

「え、と……どうしました?」

 聞くとようやく、先輩はまた俺の目元から視線を逸らした。
 泳いで泳いで、辿り着いた先は、また同じ足元だった。

「あ、えっと……」

 両腕を挟んだ足をキュッと閉じて、背筋まで丸めて小さくなって、

「……また、明日」

 一言、恥ずかしそうに声を出した。
 もう一度トクンと強く打った心臓を隠すように、俺は小さく会釈だけ残して、そのまま教室を後にした。

 ――先輩も、こういう気持ちになったのだろうか。

 また明日、なんて、自分でも『敢えて』口にしたのだと思ったように、存外日常的に使う言葉ではない。
 思った以上に嬉しい。
 嬉しいけれど――少しだけ、恥ずかしいな。
「――ふぅん。仲良くやれてるなら、良かったわ」

 姉が、珈琲を一口啜った後で頷いた。
 キッチンで作業している俺の傍らに、腰を預けながら。

「仲良く、って言っていいのかは分からないけど――自分で言ってるより、意外と話してくれるよ」

「日記の賜物じゃない? あの子、先生の私相手に質問したいって時だって、ほんっとに喋らないんだから。あんたなら『大丈夫かな』って思ったんでしょ」

 姉はあっけらかんと言うけれど。
 もしそうであるなら、先輩の話を聞いた後だと、重みを感じてしまうな。
 どれだけの覚悟と緊張感で話していたのだろう、と。

「私としても、麻衣と友達になったのがあんたで良かったなって思うわ」

「何で?」

「優しいから」

「……そういうこと素で言うの、やめろって」

「あはは! 照れてやんの!」

 ケラケラと笑いながら、姉は俺の小脇を小突いた。

「でもね、これ本音。あの子と関わってる中でさ、友達になるならうちの弟なんかどうだろうって、ずっと思ってたからさ。異性だけど、あんたなら人との距離感は大丈夫そうだし、下手な言葉で相手を無意識に追い込むなんて真似もしないでしょ?」

 俺は頷いたけれど――正直、やりかけたことはやりかけた。

「――あれ、やらかした?」

「……やらかしかけた」

「まぁ――ん、その自覚があるなら大丈夫」

 頷きそう言って、姉は俺の頭をポンと叩いた。
 飲み干したカップをシンクに置いて、回り込んだカウンター向こうから頬杖をつく。

「ね。あの子と、仲良く出来そう?」

「仲良くしたい、とは思う」

「あら素直」

「隠すことでも、強がって誤魔化すことでもないからね」

「ふぅん。好きになりそうな感じ?」

「……それは分からない。けど、無いとは言えない」

「――そっか」

 短く呟き頷いて、姉はソファの方へと腰を下ろしてテレビを点けた。
 バラエティー番組の賑やかな音が響き始めた。

 好きになるかなんて、まだ分からない。
 産まれてこの方、誰かに恋をしたことなんてないから。
 今はただ、友達が欲しいと切望する彼女の願いを、ただ叶えてあげたいと思うばかりで、別に何がしたいとか、どうなりたいとか、そんなことは思っていない。

 ……いや、どうなりたいかは、あるか。
 ちゃんと彼女の友達になりたい。今は、そう思う。

「――ね、真琴」

 姉が、テレビに目をやったままで呼び掛けて来た。

「なに?」

 俺も、包丁を使う手元に視線を落としたままで応える。

「もしね。もしだよ」

「んー」

「あの子のことを、そういう意味で好きになったらさ」

「んー」

「好きだって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね」

「……ん」

 俺は、無意識の内に頷いていた。
 けれど、流した訳じゃない。
 姉の言っていることの意味は、ちゃんと頭で理解していた。出来ていた。
 だからこそ、俺は頷いた。
 それはきっと、彼女にとって、そして彼女のことを知る姉さんにとって、とても重要で、必要なことだろうと思ったから。
 もっともそれは、

「……まあ、好きになったらね」

 俺が、彼女に恋心を抱いたらの話だ。
 今はまだ、自分の気持ちは分からない。

「ん、十分。あの子のこと、よろしくね」

 真面目な声音の後には、ドッと沸き上がった番組と一緒に、遠慮のない笑い声を上げた。
 その背中を見やりながら、ふと思う。
 俺は高二で、彼女は高三。
 仮に、本当に仮に、もしそういうことがあるとしたら――
 そう遠くない未来の出来事なんだろうか、なんて、ぼんやりと考えていた。
『もう少しで、一学期の期末試験が始まりますね。部活動も休止期間になりますし、少しの間、貴方ともお話しが出来なくなってしまいます』

『部室で勉強するとか』

『先生が鍵を貸してくれませんよ』

『それはそうか。先輩は特に受験生ですし、その辺り先生は許さないですよね』

 うちの学校は、男女共通で学年毎に上履きの色が違う上、女子は特に紐ネクタイの色でもそれが分かる。一目で、こいつ何年だな、と分かってしまうのだ。
 三年だと分かる相手である先輩に、むざむざ鍵を渡すような真似はするまい。

『テスト期間中の部活動の休止って、うちの高校は何日間なんですか?』

『試験前一週間から試験の五日間を含む、計十二日間となります。凡そ二週間ですね』

『半月も交換日記が出来ないのは、少し寂しいですね。何だかんだ毎日続けてるから、習慣みたいになってますし。下駄箱に入れてやり取りするとか?』

『誰かとの噂でも立てられて、貴方が不快な思いをなさらないのであれば構いませんけれど。ラブレターのようですし』

『俺は別に何でも良いですけど、そうなったら先輩にも迷惑がかかりますもんね。というか、それ以前に先輩は受験生だし、俺もそこそこ頑張らないとですし。日記も、一旦お休みですかね』

『そうした方が賢明かも分かりませんね。私も、聊か寂しい思いですが』

 付け加えられた言葉が、どれだけの意味合いを孕んでいるのかは分からないけれど。
 正式に『友達』というやつになった日から、早ひと月ほども経過しようとしているのだ。
 少しくらい、大きく一歩、踏み込んでみようと思う。

『先輩、帰りってどっち方面ですか?』

 校門を出たところで、道は左右に分かれている。
 うちの学校で『どっち方面』と聞く時には、大方その左右の分かれ道で答える。
 右は電車を利用する人が多い方面で、左は比較的近くに住んでいる人が向かう方面だ。
 無論、進展の具合は、先輩の歩幅に合わせるつもりではある。
 けれど、その期末試験も終われば、次に待つのは夏休みだ。
 日記上の友達も、一月半程は自ずと休みになる。

『私は左です。徒歩で二十分ほどでしょうか』

 左、か。左なら丁度いい。

『俺も左です。徒歩三十分の距離で』

 一度、そこまで書いてから、半分程消して書き直す。
 回りくどい言い方は、しない方が良いと思った。

『俺も左なので、もしお邪魔でなければ、途中まで一緒に帰りませんか? 試しに、明日だけでも』

 翌日の返事を待つのが、緊張と不安でソワソワしたけれど。

『私は構いませんが、気の利いたことは話せないと思いますよ。日記のようにはいかないこと、よくよくご存じかとは思いますが。それに、貴方のお友達は? 一緒には帰られないのですか?』

 意外にも拒否をされなかったことが少し嬉しくて、俺は心の中で拳を握った。

『気の利いたことなんて話さないのが友達ですよ。それに俺、仲の良いやつらは皆電車通学なので、基本一人か、いても姉だけなんですよね』

『そうですか』

 短い文章の後、恥ずかしさと躊躇いでも表しているかのように一行空けて、

『では、よろしくお願い致します。校門の外で待ち合わせましょう』

 どこか走り書いたような、感情の乗ったとでも言うような文字で、そう括られていた。
 明日から、部活は一時休止期間。
 その初日とも呼ぶべき日に、俺たちは、お試しで一緒に下校する。
 なんだろう……姉以外の異性と歩くのが、初めてだからだろうか。
 自分で誘っておいて、今更ドキドキして来た。
 ポケットから取り出したスマホを開き、時刻を確認し、閉じてポケットへしまって――そんなことを、もう何度も繰り返してる。
 相手が誰とか関係なく、人と待ち合わせて帰るなんてこと自体もう何年ぶりだという話で、変に緊張してしまう。

 昔はどうやって時間を潰して待ってたっけ。
 どんな心持ちだったっけ。

 そんなことをついぐるぐる考えてしまうから、意味もなく何度もスマホを確認する。
 ちらちらとそこらに見えていた、誰かと待ち合わせていたらしい他の子たちは、早くも合流してさっさと帰り始めている。
 ぽつりぽつりと見えていたそれらは、次第に数を減らしていって――気が付けば、校門から出てそのまま帰ってゆく人たち以外、立って待っているのは俺だけになっていた。

 先輩、まだかな。

(……まだかな?)

 どういう気持ちで、俺はそんなことを思ったのだろう。
 待ちくたびれたから?
 周りに誰もいなくなったから?

 それとも――

「お、またせ、いたしました……」

 すぐ傍らから届いた小さな声に、俺はそちらを振り返る。
 思いがけず目が合ってしまった瞬間、逸らし、数歩退くのは、相良先輩だった。
 急に振り向いて、驚かせてしまっただろうか。

「お疲れ様です、先輩」

「お疲れ様、です、榎さん……お待たせしてしまいました」

「全然。行きましょうか」

 背中を預けていた壁面から離れ、先輩に向き直る。
 意外にも高身長な先輩は、姉を隣に連れている時と、目線があまり変わらない。

「え、っと……あの、ほ、本当に、良いのでしょうか……?」

「良いって、一緒に帰るのが?」

 先輩は小さく頷いた。

「私なんかが、榎さんの隣を歩いて……」

「なんかって――あれ、友達なんですよね、一応? 俺ら」

「は、はい…! あっ、えと、そ、そうだと、嬉しいです……」

「嬉しいって……」

 文面から感じる性格とは、本当にかけ離れている。
 日記の中だと、ある程度はっきりとした性格のように思っていたけれど――これは、俺の方が選択を間違えてしまっただろうか。

 ……いや。

「変に気と遣わなくても良いですからね。友達って、そういうもんだし」

「友、達……」

 先輩はその言葉を、まるで噛み締めるかのように小さく復唱した。

「放課後なんて、何となく時間が合うから一緒に帰るってだけのことです。気の利いた言葉とか、下手な話題作りとか、そういうのって他人行儀でしょ?」

「……はい」

 頷きながら答えると、先輩はゆっくりと視線を上げた。
 そうして俺に視線を合わせて、

「か、帰りましょうか……榎さん」

 消え入りそうなくらい小さく言って、またすぐに視線は逸らされてしまった。
 今は、それが彼女の精一杯の距離なのだ。
 でも――俺も、今はそれくらいが心地良い。
 初めからグイグイ来られるような人は苦手だし、俺自身、まだ緊張したままだし。

(……苦手、か)

 彼女の目に、俺はどう写ってるんだろうか。
 そう写っていたり、するんだろうか。
 願ってもない、頼んでもいない下校を、強いられているような心地になっていたりとか……。
 ……落ち着かない。
 これはやはり、選択を間違えてしまったかも分からない。

(やば……俺の方が冷静でいられないかも……)

 隣を歩く彼女の髪から――なのだろうか。
 とにかくもずっと、いい香りが漂ってきている。
 姉の使うシャンプーや石鹸、香水の類とはまた異なるそれは、甘くも爽やかなフルーツらしい香り。
 それが、一歩二歩と歩く度に揺れる彼女の髪からふわっと香って、どうにも心が落ち着かない。
 自分なんかが、とか言っておきながら、先輩は意外と近い距離を歩いている。
 さっきからずっと、心臓が五月蠅くて仕方がない。
 ……早い話が、ガラにもなくドキドキしてしまっているのだ。

「あ、あの……」

 ふと、ずっと静かに歩いているだけだった先輩が、声を上げた。

「えっ……? は、はい?」

 我に返ったような心地で聞き返す。

「榎さんは、その、榎先生と一緒に、住んでおられるんですよね……?」

「ええ、そうですけど――ははっ、やっぱり姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、違和感しかないな」

 家での生活っぷりを存分に知っている身からすれば、似合わない似合わない。

「姉ちゃんがどうかしました?」

「えっ…! あ、いえ、その……何でも、ありません……」

 尋ねる俺に、先輩は首を横に振る。
 ——なるほど。気は遣わなくていい、って言ったのに、気を遣って共通の話題を何とか見つけ出した、といったところだろうか。

「――そう言えば、姉ちゃんは先輩の担任なんでしたね。どうです、姉は?」

「えっ、えと……とても、頼りにしています……優しいし、勉強の教え方もとてもお上手ですし……あ、あと、とても美人ですよね……」

「美人? あれが!?」

「あ、あれだなんて、失礼ですよ…! 綺麗なお姉さんじゃないですか」

「綺麗とか、先生って称号より似合わないな」

「よ、容赦がない、ですね……」

「うーん、まぁ実の姉ですしね。そんな風に思ったことがないんですよね」

 年の離れた『姉妹』なら、感じ方も違ったかもしれないけれど。
 弟が姉に抱く印象なんて、そんなものではないだろうか。

「姉弟って、そういうものなんですね……」

「じゃないですかね。先輩は?」

「わ、私は、一人っ子なので……」

「へえ、そうなんですね。それはそれで、気が楽でいいものじゃないですか?」

「ど、どうなんでしょう……入退院ばかりの生活の中、兄弟姉妹がいないことも、人と話すのが苦手になって理由なのかな、と思うことも……あっ、すみません、こんな話…!」

「あいや、俺の方こそ無神経に――にしても、なるほど。確かにそれだと、苦手になっていっても仕方ない話ではありますよね」

 頷く俺に、先輩が意外そうな目を向ける。
 どうしたのかと尋ねると、少し固まっていた後で、いえ、と視線を外した。

「そんな反応をされるとは、思わなくて……」

「そんなって?」

「せっかくの会話を、身の上話に繋げてしまったこと、です……そ、そんなにあっさりと流されるとは、思わなかったので……」

「それは――先輩の、失敗談?」

 先輩は、小さく頷いた。

「昔、ちょっと話す女の子がいたんですけど……な、何度か、どうしてもそういった流れになってしまう内、面白くなさそうに離れて行ってしまって……」

「――難しいところではありますよね、確かに」

 自分語りが苦手、という人は多い。俺は特に気にしたことはないけれど、バスケ部の連中にもそういうやつはいる。
 けれど。

「せっかくの会話、なんて思わなくても良いですよ。話したいことを話して、話したくないことは話さなくても良いです。少なくとも、俺と話してる時は、そんなこと何も気にしなくて良いですからね。好きに話して、好きに話さないでください。それぐらい気楽に、初めての友達ってやつを試してやってください」

 そう、ある程度気を利かせたつもりで言ったそのすぐ後で、気が付いた。

「や、初めてとか、失礼ですよね…! すいません、忘れてください」

 慌ててかぶりを振って、バツが悪くなって頭を抱える。
 そんな俺とは反して、

「――ふふっ。はい、ぜひ、そうさせてもらいます」

 先輩は小さく、けれども確かに笑って言った。
 初めて見る顔だった。
 笑うと、こんなに優しい色になるんだ。
 難しい顔、神妙な面持ちばかりしか見たことがなかったから、俺はそれに気の利いた言葉の一つも返せないままで、その横顔を眺めたまま、しばらくの間固まってしまっていた。
「――あっ、榎さん……こ、この通りを、少し行ったところですので」

 一つの交差点に差し掛かった時、先輩が足を止めた。
 小さく控えめに、進行方向を指さしながら言う。
 俺はまだまだまっすぐ進むところで、先輩は曲がってしまうらしい。

「そう、ですか――では、お気をつけて」

「は、はい」

 先輩は頷き、そう言うけれど。
 すぐには歩き出さないで、俺の顔をチラチラと窺っている。

「え、っと……?」

 思わず尋ねる俺に、先輩は一度キュッと唇を嚙み締めてから、口を開いた。

「き、今日は、ありがとうございました…! えっと、その、楽しかったです…! 色々、お、お話しが、出来て……」

「えっ? あ、はい、俺も。誘って良かったです。誰かと帰るなんて久しぶりで、俺も、その……はい、楽しかったです」

「よ、よかった、です……」

 先輩は、安堵の息を零した。
 深い深い、溜め息だった。

「そ、それで、えっと……」

 まだ何か、言いにくそうにしている先輩。
 俺はそれを、催促するでもなく、自然と出て来るのを待った。

「え、っと……」

 気が付くと、俯いた耳元が真っ赤に染まっていた。
 そう見える、なんて程度の話じゃない。
 言いにくそうにしているのは、その何かを口にするのが、彼女にとって、とても難しいことだからだ。
 文字通り『意を決して』でないと、ポロリと零れ落ちるものでもないのだろう。
 もう一度、更に一度、ギュッと口を閉じて、深く息を吸って吐いて――
 何度か繰り返したところでようやく、先輩は俺の目を真っ直ぐに見つめてくれた。

 瞬間、心臓が大きく打った。

 その綺麗な瞳に正面から見つめられたことが、とにかくも衝撃だった。
 俺の方も、自然と背筋が伸びてしまう。
 そうして口を開くと、

「あ、明日も――明日からも、一緒に帰りたいです……も、もし、榎さんが、嫌じゃなければ…!」

 震える瞳をつい逸らそうとしてしまうのを、先輩は自分で必死に制して俺の目を正面に捉え続ける。

(そんなに……)

 別に、特別なことじゃない。
 また話したいから、暇だから――そんな理由から、また一緒に歩きたいと思うことだってあるだろう。
 たまたま馬が合ったから一緒に帰るでもいい。たまたま時間が合うからでもいい。
 けれどもそれは、この先輩にとっては、とても勇気のいることで――。

「……俺でよければ、ぜひ」

 俺だってそうだ。
 先輩が言ってくれなかったら、きっと俺の方から言っていたと思う。
 俺だって、先輩ともっと話したい。
 そう思うようになっていた。
 でも――そうか。先輩の方も、そう思ってくれていたんだ。

「……ありがとう、ございます」

 俺の方は、相変わらず気の利いた返しの一つも出来ないけれど。

「明日からも――よろしく、お願いしますね」

 そう言って頬を染める彼女の笑顔を、俺は生涯、忘れることはないだろう。
 期末試験が無事終わり、テストの返却もこれで最後。
 結果は――悪くはない。いつも通り、平均のちょっと上だ。
 もっとも今は、試験の結果なんでどうでも良くて。
 ようやく、今日から部活動が再開する。
 溜まりに溜まった面白話でも綴られた日記が出迎えてくれる――

「……なんて」

 そんな筈はなかった。
 一緒に帰らなかったのは、期末試験本番の五日間だけ。テスト中に面白いことなんて、そうそうある訳でもない。
 期末試験が始まるまでの一週間、俺たちは初日と同じように、校門で待ち合わせて一緒に帰った。
 急激な変化こそ無かったものの、少しずつ慣れて来てくれたのか、先輩の方から口を開く機会が多くなったように感じる。
 それでもやっぱり、人と自然と話すことそれ自体はまだ難しいようで、長くも多くも続かない会話。
 でも、寧ろそれくらいで良かったと思う。急に慣れてあれこれ話されても、それはそれで俺の方が委縮してしまっていたことだろう。
 ゆっくりゆっくり、一歩ずつ、いや半歩ずつくらいの進歩であるからこそ、俺の方も、ある程度冷静に先輩と話していられる。
 異性と二人きりで話すなんてこと自体、俺だって殆ど経験のないことだ。

「お疲れ様、でした、榎さん」

 準備室の方から出て来た先輩が、いつもと変わらない声色で言う。

「先輩もお疲れさ――」

 振り向いた瞬間、思わず言葉が途切れた。
 夏服は試験前から目にしていたが、それに似合うポニーテールに、髪が結われている。
 サラサラの長い黒髪はいつも、何もせずただ下ろされているばかりだったから、とても新鮮だ。

「榎さん……?」

「へっ…!?」

「わっ…!」

 大きな声で驚く俺に、先輩も釣られて驚き、一歩下がる。
 その小さな動きだけで、髪が躍るように揺れる。

「あっ、ご、ごめんなさい…! その、えと、髪型……」

「髪……? あ、はい……七月に入りましたし、暑くなってきたので……」

 そう言ってパタパタと手で仰ぐ仕草は、とても控えめだ。

「あの……へ、変、でしょうか……?」

「えっ、な、なんで……?」

「だ、だって榎さん、何も言ってくれない、から……」

 寂しそうな、悲しそうな顔で先輩は言う。

「そんなこと――! めっちゃ似合ってるなって思ったから、言葉が出なかっただけです…!」

 頭の中で考えていた気の利いた言い回しなんて全部忘れて、慌てて首を振りながらそう言う俺に、

「あ、えっと……じ、冗談、です……」

 俯き、申し訳なさそうに、小さくそう言った。

「あぇ……冗、談……?」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい…! ちょっと、揶揄ってみたくなって――で、出来心で…!」

 ガバっと頭を下げ、ごめんなさいと繰り返す。
 まさか、この人から『冗談』なんて言葉が飛び出すとは思わなかった。
 さっきとは別の意味で、言葉を失ってしまった。

「お、怒りましたか……?」

「え、と……いえ、別に怒りはしませんけど……」

 申し訳なさそうにおずおずと頭を下げる仕草さえ、どこか可愛らしい。

「あの……とてもよくお似合いです、ほんと……」

「へっ…!? あ、あぅ…! あ、ありがと、ございます……」

 勢い任せじゃない言葉に、先輩は真っ赤になって固まった。
 それが何だか可笑しくて思わず吹き出すと、先輩は頬を膨らませて準備室の方へと戻って行った。
 やらかしてしまったような、そうでもないような。
 何とも言えず頭を掻きながら、俺はいつもの椅子に腰を下ろす。
 手に持ったノートを開き、その上にペンを置いて――特に何も浮かんで来ないままの時間を、何となく過ごす。

「期末、終わりましたね」

 思っていたことが、ふと口を突いて出て来た。

「そ、そうですね」

 先輩が、短く返答してくれた。準備室の扉を開けたままだ。

「試験明けって、何かパーッとやりたくなりますよね」

「パーッと、ですか?」

「ええ、パーッと」

「た、例えば、どのような……?」

「うーん……思いっきり寝るとか」

「……そ、それ、榎さんは普段からやってそう」

「心外だなぁ。まぁ、遠からずですけど」

 家事をしていない時間は、適当な本を読むかテレビを見るか、大体ダラダラと過ごしている。
 先輩は、きっと真逆なんだろうな。
 普段からコツコツと勉強をしていそうだ。

「パーっと、パーっと……」

 繰り返し呟く先輩。
 思わずそちらに目を向けると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、そうだ……好きな作家さんの新刊、明日発売なんだった……」

 呟くように零れた声は、初めて聞く、敬語じゃない言葉。

「新刊?」

「ひゃっ…! き、聞こえてましたか…!?」

「え、今の独り言…!?」

「う……うぅ……」

 ハッとしたかと思うと、しゅんと丸く小さくなる背中。
 両手で頬まで隠してしまった。
 こういう小動物、どこかにいたような気がする。

「で、誰の新刊です?」

「あ、えと、亜久里清香(あぐりきよか)さんって人の――」

「えっ、探偵喫茶の新刊、明日なんですか…!?」

 大声を上げる俺に、先輩が振り返る。
 咄嗟に頭を下げて、心を落ち着ける。

「ご、ご存じなんですか?」

「ええ。前はあんまり読書が好きじゃなかったんですけど、何となく表紙買いしたそれにすっかりハマっちゃって」

 口には出来ないが、きっかけは、バスケから離れた苛々からだった。
 何となくモールの中をうろつき、ふと立ち寄った本屋で出会った一冊だ。

「そうなんですね……」

 感心したような顔で、先輩が頷く。

「――俺、そういう人間に見えません?」

「う……あ、あまり……」

「まぁ、ですよね」

「あっ、ご、ごめんなさい…!」

「あはは、別に構いませんって。自覚はありますから」

 それこそ、昔はあまり好きではなかったのだから。

「あ、あの……お好きなお話とか、あったりしますか……?」

 先輩が、控えめに尋ねる。
 ふと、友達がいなかったと話していたことを意識してしまう。
 いなかったからには、こうして誰かと好きなものの共有なんてことも、したことがないのかもしれない。
 控えめながらも、目の奥は、期待からかとてもキラキラしている。

「うーん……俺は三巻ですかね。ライバルのお茶屋さんとの、何でか巻き込まれた謎解き一騎打ち」

「わ、私も…! やれやれ勘弁してくれって感じで巻き込まれたのに、最後にはビシッと謎を解いていつもの日常に戻って行くあの感じ…!」

「そうそう。で、それに腹を立てたライバルが、また次の巻で喧嘩を吹っかけてきて――」

「含みあり気な感じで始まった冒頭二ページだけで、事もなげにあっさり解決しちゃうんですよね!」

 キラキラと輝く瞳で、気が付けばずずいと前のめり。
 一瞬訪れた無言の時間に、先輩はハッとして顔を逸らした。

「ごご、ごめんなさい…! 好きなことになると、いっつもこうで…!」

 慌てて机に向き直りながら、いつもはあるはずの横髪を撫でて、あれ、とポニーテールの方を掴み直して真っ赤になって。
 好きなものを話すといつもの調子でなくなるなんて、悪いことじゃない。寧ろそれだけ好きなんだなって分かるから、話しているこちらも嬉しくなる。
 こんなに楽しそうな、嬉しそうな表情も、初めて見るし。

「明日――明日、土曜日か」

 期末は終わり、試験の返却も終わり、一学期が終わる。
 ――丁度良いかな、と思う。

「あー……その、先輩。もしお暇だったらで良いんですけど……あ、明日とか、一緒に買いに行きませんか……?」

 なんとも情けない言葉と声音。
 もっとスマートに誘えれば良かったのに。
 ほら見たことか、先輩が口を開けて固まってしまった。

「や、その、忙しいならアレですけど、えっと――あ、そう期末…! 終わったし、一学期お疲れ様会ってことで! ついでに、思い切ってクレープも、食べに、とか……」

 情けなくて俯く俺。
 顔が熱い。
 怖くて表情を窺うことは出来ないけれど――沈黙の続いた数秒後、小さく笑う声が耳を打った。

「良い、ですね、それ……一学期、お疲れ様会」

「……え、ほ、ほんとに……? 俺が一緒で良いんですか……?」

 顔を上げると、淡く微笑む先輩と目が合った。
 ドクン、と心臓が強く打つ。

「正直なことを言うと、本屋さんに行くのも、ちょっとだけ怖いので……知らない人、いっぱいだから……だから、一緒に来てくださるの、とても心強いです」

 いつものように、少したどたどしくはあるけれど。
 目を逸らさずに、ハッキリとそう言ってくれた。

「そ、そう、ですか……」

 少しずつではあるけれど、先輩は俺と話す時、頑張って目を見てくれるようになってきた。
 それと同時に、自分の気持ちや話したいことも、遠慮なく話すようになってきた。
 その変化に――ちょっとだけど大きな勇気に、俺も応えたい。
 背筋を伸ばして、今一度。
 しっかりと目を見て、もう一度。

「先輩――よろしければ明日、一緒に本屋に行きましょう。せっかくだからご飯も食べて、帰りにクレープも買って、目一杯羽を伸ばしましょう」

「よろしければ、なんて、とんでもない。嬉しいです」

 先輩は、ふわりと微笑んだ後、

「私なんかで良ければ、喜んで」

 恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに、明るく笑って頷いた。
 それはまるで、初めて見る花が初めて開くのを、目の当たりにしたようで。
 心臓がキュッと掴まれるような、痛いとさえ思える程の高鳴りを覚えた。



 少しして落ち着いた後で、明日の予定をある程度詰めて。
 丁度いい頃合いに響く下校のチャイムを機に、俺たちは一緒の道を帰った。
 ——浮かれすぎ、なのかな。

 待ち合わせは十一時だけれど、現在時刻はそろそろ十時半になろうかというところ。
 早く着き過ぎてしまった。

 男友達相手なら、素直に『早く着いた』とでも連絡を入れていることだろうが、相手は女の子……超楽しみなやつみたいに思われたり、はたまた無駄な気を遣わせてしまうかもしれない。
 先輩なら――きっと後者だろう。下手な連絡は入れられない。
 自販機で買ったお茶を手に、駅前広場の端の方に見つけたベンチに腰掛ける。

 と、ポケットに入れていたスマホが震えた。
 取り出して確認すると、姉からのメッセージが一件入っていた。

『いくら人生初デートだからって、浮かれすぎじゃなーい?』

 短い文章の後、ケラケラと笑いながら転がる猫の、変なスタンプが貼られている。
 今日は姉も休みで家にいる為、出掛けるからには自然と、相手の名前も出していた。
 ニヤニヤといやらしく笑って「どこ行くの?」「何すんの?」と質問攻め、もとい詰問されたのを思い出す。
 先輩の事情なんかに関しては、何なら俺より姉の方が色々と知っているだろうに。
 本当に良い性格をしている。

『うっさい。晩飯はカップ麺な』

『あら久しぶりのインスタント。楽しみにしてるわねー』

 今度は、ルンルンスキップをしている犬のスタンプ。

『どんな顔して打ってんのそれ。米のとぎ汁だけにしてやろうか』

『うそうそ冗談。気を付けて行ってらっしゃいね。麻衣にもよろしく』

『初めからそれだけ言えって』

『どうせ空白の時間になってるであろう弟の暇つぶしに付き合ってあげてる、優しい優しいお姉ちゃんの親切心が分からないなんて』

『雲でも眺めてる方が有益だよ』

『うわー失礼なやつ。どうせ麻衣もまだ来てないんでしょ? ひとりで何して時間潰すのよ』

『別に何もし』

 まで中途半端に打ったところで、隣から「あの」と小さな声が聞こえた。
 その声に反応して顔を上げたすぐ先には、シンプルながら、制服とは全く異なる印象を受ける服装の先輩が立っていた。
 思わず送信ボタンを押してしまったすぐ後でまた、姉からのメッセージが入る。

『もし? もしもしかめよ?』

『先輩来たごめん切る』

 手短に要点だけを綴ってさっさと送信して、俺はスマホをポケットに突っ込み、立ち上がった。

「おはようございます、先輩。お早いですね」

「そ、それ、榎さんにもそのままお返しします」

「あー……ですよね」

 こんなことなら、もっと目立たない場所で待っていれば良かったか。
 いや、そうなったら先輩をどこかで待たせてしまうことになっていたかも。
 ……時間を決めての待ち合わせって、こんなに難しかったっけ。

「携帯、良いんですか……? 熱心に、どなたかとお話しなさっていたような……」

「姉です姉。くだらない日常会話です」

「そ、そうですか……?」

 間違っても『初デートだなんだと弄って来やがった』とは、笑いながらでも言えない。
 先輩は、それを冗談だとちゃんと受け取ってくれるか分からない。

「あー……っと、その……」

 立ち上がったは良いけれど、どうしたものか。
 キョトンとした顔で俺のことを見上げる先輩の方を、何だかまともに見られない。
 真っ白なカットソーの上に灰色の薄いニットベスト、デニムのパンツ――なんてことはない、どこにでも見られるようなファッションの筈なのに、どうも眺めていられない。
 ゆったりとした制服からは分からなかったことだけれど、パンツがピチっとしたサイズのものだからか、たっぱがあって凹凸もしっかりしているスタイルの良さが、際立ってしまっている。
 髪も髪で、下の方で緩く結わって肩から前に流されていて――色っぽいとすら思えるような装いだ。
 肩に掛けているのが小さなショルダーポーチなのも、尚大人っぽい。

「榎さん……?」

 小首を傾げる先輩に俺は、

「……いえ。ちょっと早いですけど、行きましょうか」

 気の利いた言葉の一つも言えなかった。
 口にすると、更に強く意識してしまいそうだったから。

「はい。今日は、よろしくお願い致します」

 そう言いながら、先輩は小さく頭を下げる。
 ふと浮かべられた笑顔は、緊張を隠しているようにぎこちなかったけれど、それさえとても綺麗に見えて、もう顔を覗き込むなんてことは出来なくなっていた。

「――はい。俺も、よろしくお願いします」

 全身にむず痒さを覚えながらもそう答えると、一歩、俺の方から踏み出した。