しばらくは、無言の時間が続いた。
 今日は夕飯の材料も家にあるもので足りるから、買い出しもなく、ただ帰るだけ。

 寄り道もしない、家までの三十分。

「まずは――そうね。非行に走っていないってことは分かってる。学校の中で時間を潰していたんだろうからね」

「……うん」

「でも、嘘はよくないかな。さっき、外周を走ってる悟志くんと鉢合わせたんだけどさ。私も、敢えて敢えてはっきりとは尋ねなかったけど、部活に顔を出してるっていうの、嘘だよね」

「…………うん」

 別の学校に通っているやつの名前で吐く嘘ならまだしも、同じ学校、それも幼馴染で昔から姉とも親交のあるやつの名前を使って吐く嘘なんて、その程度のものだ。
 そんなこと、分かってたはずなのにな。

「昨日のは嘘。だけど、別の時には同じことで誘われてはいるから。それ自体は、嘘は言ってないよ」

「ん、分かった。理由、聞いてもいい?」

 姉の声音は、至って真面目だ。
 俺は言葉に詰まってしまう。

 やっていることそれ自体のせいじゃない。
 悟志の名前を使って嘘を吐いていたこと、そしてその嘘で姉を安心させてしまったことに対する、後悔から来る罪悪感のせいだ。

「――別に、そこまで怒ってる訳じゃないんだよ。わざわざ嘘を吐くようなことには、理由があるはずでしょ? それも、ほんのちょっとだけ言いにくい程度のこと」

「……うん」

「絶対に言えないようなこと?」

「……って言うか、恥ずかしいこと」

「そんな程度のことだと思った。言いな、別に笑ったりはしないから」

 姉は、努めて優しい口調で言った。言ってくれた。
 それだけのことで、心は幾らか軽くなった。

「……交換日記をさ、してるんだよ」

「交換日記……? 誰と?」

 姉は、心底意外そうに聞き返してきた。

「分からない。というか、知らない。誰かと」

「ふぅん。どこで?」

「……立ち入り禁止の空き教室。ほら、特別教室側の一階の、一番奥にある旧理科室」

 それも、言葉に詰まった理由の一つだった。
 立ち入り禁止、とわざわざ張り紙までされている教室へと侵入しているのだ。鍵が開いていたとは言え、軽い気持ちでやっていいようなことではない。

「ごめん、勝手に入ったのは――」

「あぁ、その教室ね。じゃあ麻衣(まい)かな。うちの子だ」

 姉は、なるほどといった様子で言った。
 思わず俺は聞き返す。

「ま、麻衣……?」

「うん。私、この春から部活の顧問になったんだよ。顧問らしい活動なんて殆どないから、別にあんたにも言ってなかったけどさ」

「顧問……? え、あの教室、部活で使ってるの?」

「うん、文芸部がね。でも今、その文芸部はその子一人だけでさ。顧問もいない一人だけの部は部としての存続は認められないんだけど、都合、今だけ部として認めて貰ってるの。その条件の一つに新しい顧問が必要だったんだけど、それに私がなったわけ。言ってみれば、名前だけ置いてるような状態ね」

「ぶ、文芸部……」

 それは知らなかった。
 特に興味もなく、高校では入学当初から部活に入っていないこともあって、この高校に何部があるのか、またどの部がどの教室を使っているのかなんて、詳しくは知りもしなかった。
 中学の頃は、バスケ部に所属しているってだけで、そんな話はいくらでも受動的に入って来ていたから。

「しかしあんた、名前も知らない子と話してるなんてね。それも、文字だけのやり取りでさ」

「気が付いたら置いてあったんだよ。それで、気まぐれに返事書いてみたら、なんか続いちゃってさ」

「――へぇ。今晩、雪でも降るんじゃない?」

「……笑わないって言ったくせに」

「笑ってないわよ。おちょくってるだけ」

「良い性格してるよ」

「ん、最高の褒め言葉だ」

 姉はわざとらしく笑って言う。
 日記の相手、麻衣って名前なんだ。

 麻衣……麻衣?

(麻衣って……)

 直感したのは、初めてあのノートを見た時に感じた違和感の一つについてだった。
 俺はあの字に、どこか見覚えがあるような気がしていた。
 今思えば、それもあのノートが気になった理由の一つだったのかもしれない。
 相良(さがら)麻衣――芸術科目の選択授業、書道科で使っている教室の外に、見本として掲示されている作品の一つにそんな名前のものがあった筈だ。
 あれは確か、書道のコンテストで入選したから掲示されていた。

 見覚えがあるような字、ではなかった。
 俺は確かに、あの字を見たことがあったのだ。

「姉ちゃん。麻衣って、相良麻衣?」

「え、知ってるの?」

「あいや、名前だけ。書道の入選作品で。俺も、芸術の選択は何となく書道を選んだから」

「ああ、そうだったわね。ん、そうよ、相良麻衣。私が担任してるクラスの子よ」

「担任……」

 姉は今、三年のクラスを受けもっている。
 ということは、相良麻衣は――交換日記の相手は、三年の先輩だ。

「え、どうしよ。俺、ずっとタメ口なんだけど」

「別に良いんじゃない? お互いに素性を知らないんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「それにしても――そっか、麻衣と交換日記してるんだ」

 姉は、どこか含みあり気に呟いた。

「え、何?」

 尋ねると、少しの間を置いた後で、姉は目を伏せた。

「んーん、何でも」

「何だよ、それ。言い逃げは無しだろ」

「別に逃げた訳じゃないわよ」

 笑って言って、姉は続ける。

「ね。それ、麻衣は最初、何て書いてたの?」

「……守秘義務」

「うわ、また大人ぶってる。まあいいわ。大方『友達募集』とでも書いてあったんだろうしね」

「募集じゃなくて、なってくれって」

「――ふぅん?」

「あっ……いや、まあ、うん。友達になってくれって、いきなり書いてあったんだよ。だから無性に気になって、幽霊かって尋ねた」

「あははっ! うーわ、失礼な弟ね、まったく。あはは!」

「わ、笑うなよ…!」

「いや笑うでしょ、あははっ!」

 姉は豪快に笑った。
 こんな笑い方、久しぶりに見るってくらい、遠慮なく笑った。
 そうして一頻り笑った後で――優しく、微笑んだ。

「そっかそっか、麻衣、そんなこと書いたんだ」

「姉ちゃんは、その相良麻衣って人のこと、何か知ってるの?」

「――んや、なんにも」

「何だよ、それ」

「知らないのは知らないけどさ――」

 姉はどこか、

「せっかく返事したんなら、あの子と仲良くしてあげてね」

 どこか物悲しげに笑って、そう言った。

「姉ちゃ――」

「さーて、夕飯夕飯! 今日は何作ってくれるの?」

「えっ……? え、っと、野菜炒めと味噌汁、だけど……」

「ん、楽しみなやつだ。ほら帰るよ、歩け歩けー」

 姉は、さっさと小走りで道を進み始めた。
 まるで俺に、それ以上何かを尋ねようとさせないみたいに。
『今日、クラスの子たちが話していたのですが、駅前が随分と賑わっているらしいですね。なんでも、新しいクレープ屋台が出来て、客足がとても多いとか』

『それ、うちのクラスの子も言ってた。スイーツだけじゃなくて、おかずクレープも売ってる上にすごい美味しいって、SNSから拡散されて有名になってきてるらしいね』

『そのようなお話でしたね。ただ、おかずクレープ、というのは何なのでしょう? ご存知ですか?』

『唐揚げとかハムチーズとか、アボカドサーモンとか、そういうご飯系のおかずを挟むクレープだよ。本当に知らないの?』

『知りませんでした。そのようなものがあるのですね。一度、食べに行ってみたいです』

『行ってみれば良いじゃん。って書いたけど、幽霊なんだったね』

『ええ。なので、私は行くことが出来ません。行ったところで、食べることは叶いませんから』

『知らないことを知る権利ぐらい、幽霊にだって』

 と、そこまで綴ったところで、俺は一度、必要ないだろうと思っていた消しゴムを取り出し、自分で書いた文章を消した。
 知らない言葉を、わざわざ一日先にしか返事が来ない人間に対して尋ねる必要が、はたして現代人の高校生にあるのだろうかと思ったからだ。
 スマホか、持っていなければガラケーか、或いは自宅にあるパソコンで、幾らでも調べられる。幽霊でもあるまいし。

 そう。彼女は幽霊ではない。
 それは、姉と、俺自身の記憶が証明してくれた。
 それに彼女は『クラスの子』と口にした。読み返しても相違はない。
 幽霊かという俺の問いに対し、想像に任せると、どちらでもいいような言い方で突き放しておいて、だ。

 俺は、返信の内容を変えた。

 俺の方から詮索するようなことでもないから、わざわざ聞かないようにと思っていたけれど、どうにも気になってしまうのだ。
 彼女の――そう、幽霊でも何でもない、相良麻衣という一人の人間が工作した、交換日記というものそれ自体の意味が。
 他でもない俺が今、踏み止まったように、彼女だって、自分で書いていて、その書いた内容に疑問を抱かなかったとは、どうにも考え辛い。
 俺が幽霊かと尋ねたことに対して『想像に任せる』と返したのは、その後の返信内容からも、俺がそう思っている方が都合が良いとでも考えたからだろう。

 理由は分からないけれど。

 しかしそれでいて、『クラスの子』と自分で書いたことに対しては疑問を持たなかった。続けて書かれた俺の文章にもその言葉は入っていながら、彼女はそれには触れなかった。
 その違和感に、自分自身が気付かない筈なんてない。

 それは、まるで――

『クラスの子?』

 わざわざ聞くのは間違いだっただろうか。野暮だったろうか。
 そう思いながらも、俺は消すことなくノートを閉じた。

『言葉の綾です。廊下を通る生徒たちの会話が聞こえたんです。私は幽霊です。クラスになんて所属はしていませんよ』

 彼女は、幽霊であるという立場に還った。

『幽霊ならそうだろうね。でも』

 そう、書きかけた時だった。
 奥の方。思わず視線を向けた、鍵のかかった準備室の方から、ガタ、と物音がした。
 それは小さな音だったが、吹奏楽部の楽器の音が運よく止んでいた今、とても鮮明に耳へと届いた。
 椅子が――木のボックス椅子が、倒れるような音だった。
 学校の理科室に置いてあるような、四角のあれだ。
 雫の落ちる音、動物か何かの動いたような音であれば、疑問に思うこともなかった。
 けれどもそれは、明らかに人為的なものだ。

 科学部の誰かが使っている可能性は無い。
 いや、科学部なるものがあるかどうかも知らないけれど――あったところで、旧理科室側の準備室も、今は立ち入り禁止。現在でも利用されている隣の理科室から使う準備室は、その更に隣の部屋だ。
 仮に使うなら、開放されているこちら側――そう、唯一利用している、文芸部員以外にあり得ない。

 文芸部員……。
 相良麻衣だ。

 わざわざ隠れているような人間の正体を突破することの、なんと配慮のないことか。

「…………」

 などという思考は、一瞬の内だけだった。
 そんなこと以上に、例えば怪我や持病なんかで倒れてしまう際に聞こえた音なのだとすれば、見過ごすわけにはいかない。
 見過ごして何かが起こった後で、知らぬ存ぜぬというのは通らない。
 そんな考えは瞬きの内に忘れて、俺は扉に手を掛けた。
 鍵はかかっていなかった。恐ろしいほどにあっさりと、扉は開いた。

「大丈夫ですか…!?」

 大声を出しながら見やった扉の向こう。
 窓辺に向かう小さなテーブルの足元に、その姿はあった。

「ぁ、と……ぇ……」

 その女子生徒は、尻もちをついて俺のことを見上げていた。
 さらりとした長い黒髪。同色の眼鏡。同じく黒の、深く吸い込まれそうな丸い瞳。
 それら全てが訴えかける――不安げな表情。

「ぁ、の……」

 それが言葉なのかただの音なのか、分からず言葉に詰まってしまった暇に。

「……っ!」

 さっと立ち上がった勢いそのまま、俺の脇を通り過ぎ、走り去っていってしまった。

 倒れたままの椅子。
 机上の原稿用紙。
 恐らく彼女のものと見られるハンカチ。

 それらを見送った先に目を向けたあの机の上から、例のノートは無くなっていた。
 土日を挟んだ、次の月曜日。
 ノートは無かった。

 その翌日も。
 ノートは無かった。

 その更に翌日――また翌日も。
 同じだ。ノートは無かった。

 彼女は、幽霊のままでいたかったのだろうか。
 それにしては徹していなかったように思う。
 あんなのでは、まるで『見つけて』とでも言っているかのようだ。

 ……いや。

 俺が、その真意を掴み損ねてしまったのかもしれない。
 ……事実、掴み損ねてしまったのだ。
 まだ何も――そう。姉から聞いた名前、それから字が綺麗だということ以外、彼女のことは何も知らない。知ろうともしなかった。
 知る必要がないと思っていた。

 けれど、今思えば……。

「友達になってくれ、なんて……」

 互いの何一つも知らずに、なれようものか。
 答えは否だ。
 友達、と口にするからには、互いに何か、そう思えるものがなければ成立しない。
 反対に、嫌だとすら思えなければ、友達でないと言うことさえ出来ない。
 ……なんていうのも、結局のところは、勝手な解釈だったのかもしれない。

 けれど。

 置き去りにしたって問題ない筈のノートを、彼女は持って帰ってしまった。
 それが、俺の考えることが間違いではないことの、そして俺の行動が間違ってしまったことの、何よりの証明だ。

 俺は、彼女の友達には、なれなかったのだ。
 これで最後だ。
 もう四日も置かれていないのだ。
 一週間も学校に来ていない、などということはあるまい。
 もし仮に来ていないのだとしても、つまりはそれだけ彼女の中でショックが大きかったということの裏付けになる。
 幽霊として続けていた交換日記をやめる、という選択をするに至る、納得のいく理由だ。

 昨日も五日目も、そう変わらない。
 今日行ってなければ、これでもう終わりにしよう。
 金曜日。丁度、キリも良い。

 そうしてやって来た、旧理科室。
 扉は開いているが、どこか、開ける気になれない。

「――はぁ」

 本当、何をやっているのか。
 そんなつもり、元々なかったじゃないか。
 何となくここに来て、何となく見つけたノートに、何となく文字を書いただけ。
 ただそれだけのことだった。

 それなのに、何をこんなに感情移入しているのか。
 何をそんなに、残念がることがあるのか。
 我ながら、おかしな話だ。

 そんな心持ちで扉を開く。
 そこに、

「あっ……」

 ノートが、置いてあった。
 俺は慌ててページを捲る。
 しかし、幾つか交わした言葉の最後に、返信はなかった。

「な、んだ……」

 返信はなし。
 もう、話すこともないということだろうか。

「そりゃ当然…………ん?」

 その、俺たちの交わした言葉、文字の向こう――次のページに、何かが透けて見えた。
 捲ったそこには、彼女の文字で言葉が綴られていた。
『まずは、謝罪をさせてください。

 先日は、避けるように帰ってしまい、申し訳ございませんでした。

 鍵をかけていたつもりがかかっておらず、それでもまさか、入って来るとも思わなかったもので、驚いてしまいました。ただ、字がとても綺麗でいらっしゃったので、まさか異性とは思わず。

 私、異性と、というより人と話すのがとても苦手で、そのせいで、目が合っただけ手身体が固まって、頭が真っ白になって、冷静ではいられなくなってしまうんです。

 とはいえ、そんなのは言い訳です。結果的に貴方を傷つけてしまったことに変わりはありません。

 本当に、申し訳ございませんでした。

 でも、この数週間、本当に友達が出来たみたいに、とても楽しかったです。とても、明るい日々でした。

 貴方は、日記じゃなくてただの会話だと仰られましたが、それだから嬉しかったです。

 日記を手に取ってくださったのが、貴方のような方で良かった。

 短い間ではございますが、ありがとうございました。

 惜しむことなんて、一つもありません』
 なんだよ、これ。
 どうして、彼女が謝ってるんだ。
 彼女は悪くない。誰も悪くない。俺だって、間違ったことをしたつもりもない。

 それなのに――

 それに、何だよこれ。
 ありがとうございました?
 もう続けないつもりなのか?

 ……いや違う。
 そう誘導してしまったのは俺だ。

 彼女の言葉の揚げ足なんて、取らなければ良かった。取る必要さえなかった。
 追い込んだつもりなんてなかったけど、その距離感が心地よかった彼女のことを、結果的にでも追い込んでしまった。
 そんな俺に、彼女に何か言う資格なんてない。

 それなのに……。

「なんで……」

 どうして彼女は、惜しむような書き方をするのだろう。
 俺の勘違いだろうか?

 ――いや、そんなことはない。そんなはずがない。

 彼女は以前、確かに書いていたではないか。
 貴方と仲良くなりたいと思っている、と。

 俺たちは仲良くなったのか?
 友達になれたのか?

「……そんなわけ」

 俺は、迷わず準備室の扉に手を掛けた。
 捻ったドアノブは、つっかえることなく回った。鍵は開いているらしい。
 ほら。惜しむことなんてない、なんて、嘘だ。
 日記にも(したた)めたのであれば、その不注意を反省して施錠すればいい。
 そうしていないのが、何よりの理由じゃないか。

「――失礼します」

 一呼吸置いた後で、俺は扉を押し開けた。
 彼女は――今日は、特に驚くこともなく、窓の外に目をやっていた。
 その姿はまるで、精巧に作られた人形のように綺麗で――瞬間、俺は目を奪われ、言葉を失ってしまった。

「――そうやっていつも、この部屋で過ごしていたんですか?」

 俺の質問に、彼女は少し時間を置いた後で、小さく、ゆっくりと頷いた。

「……俺が寝てる間、ずっと?」

 彼女が頷く。

「どうしてですか? ノートだけでも置いておいて、教室かどこかで、いや、帰ったって別に良いじゃないですか。俺が来るのは放課後だけだったんだし、朝取りに来て、そこから書いたって――いやそもそも、俺が男だって、気付いてないなんて嘘ですよね。俺、この教室でめっちゃ独り言喋ってたし、多分いびきだってかいて寝てたし」

 聞こえていなかった、ということはないと思う。
 あの椅子の音が聞こえたくらいだ。何もないこの教室で反響する俺の声が、一度も聞こえていなかったということはないだろう。
 そんな、俺の予想の通りに。
 彼女は、暫くの時間を空けた後で、ゆっくりと頷いた。

「……交換日記、やめますか?」

 少しの間、様子を見る。
 しかし彼女は、頷かなかった。

「もう俺、ここには来ないようにしますね」

 彼女は頷かない。

「あれ、もう終わるので、持って帰っておいてくださいね。他の人に見られるのは、俺も嫌なので」

 彼女は――頷かない。
 ほら。
 やめる気なんて――やめたいなんて、嘘じゃないか。

「…………友達、本当に欲しいんですか?」

 少しの間を空けて、彼女は小さく頷いた。

「俺、明日もここに来た方が、良かったりしますか?」

 彼女は頷いた。
 やめたいなんて嘘だ。

 ……俺だって、そうだ。

「わた、し……」

 ふと、彼女が口を開いた。
 窓の外に目をやったままでの瞳が、微かに揺れ動いているのが見えた。

「わたし……小さい頃から、入退院を繰り返す生活で……誰か、仲良くなった子とか、よく話せる人って、病院の先生と看護師さん以外にはいなくて……それで、友達が欲しかったんです……」

 僅かに、声も震えていた。

「そのせいで、人と話すのが苦手で……それでも、どうしても友達が欲しくて、でも、やっぱり話しかけに行く勇気なんか、出なくて……そんな私でも出来ることが、筆談しか思い浮かばなくて、それで……」

「文芸部、今は貴女だけなんだって、姉ちゃ――先生から聞きました。貴女以外に寄りつかない場所にノートを置いて、友達が出来るなんて、本当に思ってたんですか?」

 彼女は、首を横に振った。

「友達は欲しいけど、沢山の人に見られるのは、恥ずかしくて……誰か、気付いた人だけ、手に取ってくれればって」

「手に取った奴が、それを晒上げるような真似をしないとも限りませんよ」

「貴方は、そんなことをしませんでした」

「……結果論です」

「でも、こうして先週までは、続けてくれました……感謝しても、しきれません」

 彼女は、会話を切ろうとするかのような言葉で続けた。
 欲しいと言いながら遠ざけようとするのは、彼女の境遇が作り上げた性格から来る、自己防衛のようなものなのだろう。
 だから、ここで俺が踏み込むのは違う。
 違うと、分かってる筈なのに。
 踏み込まないと、引いたその線から逸脱することにも挑んでいかないと、友達なんて永遠に出来ないままだ。
 それでも彼女は、欲しいと言った。文字だけでなく、言葉にして声に出してくれた。
 それはきっと、彼女なりに精一杯頑張った結果なんだ。

 きっと彼女なりに、線は引きつつも、壁を一つ壊したんだ。
 だから、こんなに小刻みに肩を震わせているんだ。
 頑張った。きっと、頑張ったんだ。

「……続けて来た、なんて言わないでください。俺、明日もここに来ますから」

 思い切ってそう言ったところ、彼女がようやく、俺の方に目を向けてくれた。
 それでも、口にした通り苦手で恥ずかしいのか、俺の耳元、首すじ、背後の方へと泳いだ視線は、自身の足元へと落とされる形で落ち着いた。

 十分だ。

 きっと、それだってかなり無理をしたのだろう。慌てた様子で小さく丸まってしまった。

「嫌なら、やめたいなら、そう口で言ってください。でも俺は――今は俺も、貴女と仲良くしたいなって、そう思い始めています。もっと色々、話したいと思っています」

「は、はい……」

 彼女は、控えめに頷いた。
 ——こんなこと、本当は言うつもりもなかったけれど。
 彼女の身の上を少しでも聞いてしまった今、俺だって言わない訳にはいかない。

「――俺、バスケ部だったんです。小学校と中学校。高校でも続けるつもりでした」

「ば、バスケ、ですか……すごいですね。背、高いですもんね」

「自慢じゃないですけど、それなりに上手くやれてる自負もありました。でも、中学三年に上がるすぐ前に、ちょっとした事故に遭って、膝が外れやすい身体になって――それで、諦めたんです。諦めるしか、なかったから」

 彼女は、相槌を打つ代わりに、小さく頷く。
 前髪が影を落とすせいで詳しい表情までは窺えないけれど、それはやや、何かを言いにくいような暗さを持っているようにも見えてしまった。

「あ、いや、それ自体が言いたいことじゃなくて……それがあって、今部活には入っていないので、暇というか、時間だけはいっぱいあって、それで……」

 違う。そうでもない。
 言いたいことは、その先のことだ。
 それを望むことが、自分が望んでいることが、自分でも意外だったせいで、認めるのがどこか怖かった。だから、彼女が日記を持って帰った時、それでもいいと思った。
 でも、そうじゃなかった。
 それを望んでいるのは俺自身で、疑いようのない事実で、正直な気持ちだった。そう、自覚した。
 だから、俺も言わないと。
 もっと正直に、もっと分かりやすい言葉で。

「……変化が、欲しいんです」

「変化、ですか……?」

「はい、変化。うち、俺と姉ちゃんしかいない二人だけの家で、家事はやらなきゃだけど、とにかく暇で暇で……じゃなくて、だから、貴女と話しているのは楽しかったんです。毎日毎日勉強ばっか繰り返すみたいな日々から、どこか抜け出せたような気がして」

 そう。それでいい。
 言いたいことを、正直に言うだけだ。

「だから――俺と、友達になってください。もし、貴女が嫌じゃなければ」

 高校生にもなると、友達、という言葉をそのまま使うことには、どこか抵抗があった。
 けれど、その言葉だからこそ、その言葉を使うからこそ、意味があるんだ。
 少なくとも、今この場に於いては。

「とも、だち……」

 彼女は、その言葉だけを復唱した。
 二回、三回と噛み砕いてようやく、理解出来たかのように顔を上げた。
 その目元には、薄っすらと雫が浮かんでいて――

「いい、のでしょうか……私が、望んでも……」

「最初に言ったのは先輩の方でしょう? 俺、そのつもりで日記やってたんですけど……違ったんですか?」

「ち、違いません…! 友達、欲しかったです…!」

 ずずいと顔を寄せるようにして、彼女は前のめりに話す。
 一拍置いて、そんな行動に出たことと声を荒げたことにでも羞恥心を感じたのか、また引っ込んで、視線は逸らされてしまった。

「友達……なってくれるんですか……? に、日記でしか、話せないような私なのに……」

「別に、しばらくはそれで良いんじゃないですか? 俺、多分毎日来ますから、そのうち慣れてくれれば良いですよ」

「な、慣れないかも、分かりませんよ……」

「それならそれで、まぁ別に良いでしょ。ちょっと寂しいですけど。でも時間はあるし――って、それ俺だけか。先輩、受験生なんですもんね」

「それ、は――い、いえ。なるべく、早く慣れるように努めます」

 努めるようなことでもないとは思うけれど。
 いや。それも、彼女にとっては、現状とても難しいことなんだろう。

「やりたいこと、やって行きましょう。まずは――そうですね。駅前のクレープ屋、行けるようになれれば良いですね」

「そ、外に行くんですか…!? 一緒に!?」

「そりゃ友達ですし――って、俺異性か。まずいなら、別に行かなくても――」

「い、行く、です…! です、けど……ちょっと、心の準備が……い、異性とかじゃなくて、人と出たこと、ないから……」

「――分かりました。じゃあ、これは一先ずの最終目標ということにしましょう」

 彼女は、恥ずかしそうに小さく頷いた。

「そ、それにしても、どうして受験生って……あ、先生に聞いた、って……榎先生に、聞いたんですね。ご姉弟かなにか、でしょうか?」

「はい、さっき言った姉ちゃんっての、アレです。十個違うんですよ」

 俺がもうすぐ十七で、姉が二十七だ。

「貴女のことも、結果的にですが、その姉から聞いたんです。あ、名前だけ。確か、先輩のクラスの担任なんですよね」

「は、はい……榎先生には、とてもお世話になっていて……相談とか、勉強とか、色々……」

 なんて言い出す先輩を前に、俺は思わず吹き出してしまった。

「な、何か、おかしなことを言いましたか…!?」

「えっ? ああいや、姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、そう言えば初めて聞いたなって。まだまだ若いし、生徒との距離が他の先生と比べて近いからか、『さやちゃん』とかって呼ばれてるのしか聞いたことがないんですよね」

 榎紗耶香。で、さやちゃんだ。
 内何度かは『さやちゃん先生』だとか呼ばれていたような気もするけれど、それだって『先生』より『さやちゃん』の方に引っ張られる。
 どうあれ、良くか悪くか、先生らしい威厳なんてないような感じだった。

「榎先生、生徒からとても人気がありますから……美人ですし、ノリも良い性格をしてらっしゃいますし」

「あれが美人? ないない、うち来ます? ガサツだしそこそこだらしないし、手を焼くこともちょいちょいあるんですよ?」

「そ、それは――きっと、家だからこそ羽を伸ばせるのではないでしょうか。少なくとも、私たちの目に映る先生は、とても毅然としていて、それでいてとても優しいお姿ばかりですから」

「ふぅん……そういうもんですかね」

 言われてみれば、そう思えなくもない。
 先輩たちは、俺の目には映らない面ばかりを知っているのだろう。
 俺は姉と、学校ではなぜか極端に出会わない。

「それより——そろそろ、帰りましょうか」

「えっ……?」

 と、先輩は思いがけない言葉でも聞いたような声で俺のことを見上げた。
 思わず同じように聞き返した少し後に、ああそうかと自身の言葉を撤回した。

「そっか、俺が部活に入ってないだけで、先輩は文芸部ですよね。すいません」

 机の上に置かれた原稿用紙の数々に目を送る。

「……じゃあ、俺は先に」

「は、はい……お疲れ様、です」

 ぺこりと小さくお辞儀をしながら先輩が言う。
 俺もそれに倣って頭を下げて――せっかくだから、敢えて言葉にしてみようと、再度口を開いた。

「えっと……また、明日」

 自分で思うより控えめに出て来たその言葉に、先輩はハッとして俺の目を見てくれた。
 先刻のように、逸らすでも泳ぐでもなく、そのまま俺の目を見つめ続ける。
 そうなのだと分かってしまった途端、俺は心臓が強く、速く打ち始めたのを感じた。

「え、と……どうしました?」

 聞くとようやく、先輩はまた俺の目元から視線を逸らした。
 泳いで泳いで、辿り着いた先は、また同じ足元だった。

「あ、えっと……」

 両腕を挟んだ足をキュッと閉じて、背筋まで丸めて小さくなって、

「……また、明日」

 一言、恥ずかしそうに声を出した。
 もう一度トクンと強く打った心臓を隠すように、俺は小さく会釈だけ残して、そのまま教室を後にした。

 ――先輩も、こういう気持ちになったのだろうか。

 また明日、なんて、自分でも『敢えて』口にしたのだと思ったように、存外日常的に使う言葉ではない。
 思った以上に嬉しい。
 嬉しいけれど――少しだけ、恥ずかしいな。
「――ふぅん。仲良くやれてるなら、良かったわ」

 姉が、珈琲を一口啜った後で頷いた。
 キッチンで作業している俺の傍らに、腰を預けながら。

「仲良く、って言っていいのかは分からないけど――自分で言ってるより、意外と話してくれるよ」

「日記の賜物じゃない? あの子、先生の私相手に質問したいって時だって、ほんっとに喋らないんだから。あんたなら『大丈夫かな』って思ったんでしょ」

 姉はあっけらかんと言うけれど。
 もしそうであるなら、先輩の話を聞いた後だと、重みを感じてしまうな。
 どれだけの覚悟と緊張感で話していたのだろう、と。

「私としても、麻衣と友達になったのがあんたで良かったなって思うわ」

「何で?」

「優しいから」

「……そういうこと素で言うの、やめろって」

「あはは! 照れてやんの!」

 ケラケラと笑いながら、姉は俺の小脇を小突いた。

「でもね、これ本音。あの子と関わってる中でさ、友達になるならうちの弟なんかどうだろうって、ずっと思ってたからさ。異性だけど、あんたなら人との距離感は大丈夫そうだし、下手な言葉で相手を無意識に追い込むなんて真似もしないでしょ?」

 俺は頷いたけれど――正直、やりかけたことはやりかけた。

「――あれ、やらかした?」

「……やらかしかけた」

「まぁ――ん、その自覚があるなら大丈夫」

 頷きそう言って、姉は俺の頭をポンと叩いた。
 飲み干したカップをシンクに置いて、回り込んだカウンター向こうから頬杖をつく。

「ね。あの子と、仲良く出来そう?」

「仲良くしたい、とは思う」

「あら素直」

「隠すことでも、強がって誤魔化すことでもないからね」

「ふぅん。好きになりそうな感じ?」

「……それは分からない。けど、無いとは言えない」

「――そっか」

 短く呟き頷いて、姉はソファの方へと腰を下ろしてテレビを点けた。
 バラエティー番組の賑やかな音が響き始めた。

 好きになるかなんて、まだ分からない。
 産まれてこの方、誰かに恋をしたことなんてないから。
 今はただ、友達が欲しいと切望する彼女の願いを、ただ叶えてあげたいと思うばかりで、別に何がしたいとか、どうなりたいとか、そんなことは思っていない。

 ……いや、どうなりたいかは、あるか。
 ちゃんと彼女の友達になりたい。今は、そう思う。

「――ね、真琴」

 姉が、テレビに目をやったままで呼び掛けて来た。

「なに?」

 俺も、包丁を使う手元に視線を落としたままで応える。

「もしね。もしだよ」

「んー」

「あの子のことを、そういう意味で好きになったらさ」

「んー」

「好きだって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね」

「……ん」

 俺は、無意識の内に頷いていた。
 けれど、流した訳じゃない。
 姉の言っていることの意味は、ちゃんと頭で理解していた。出来ていた。
 だからこそ、俺は頷いた。
 それはきっと、彼女にとって、そして彼女のことを知る姉さんにとって、とても重要で、必要なことだろうと思ったから。
 もっともそれは、

「……まあ、好きになったらね」

 俺が、彼女に恋心を抱いたらの話だ。
 今はまだ、自分の気持ちは分からない。

「ん、十分。あの子のこと、よろしくね」

 真面目な声音の後には、ドッと沸き上がった番組と一緒に、遠慮のない笑い声を上げた。
 その背中を見やりながら、ふと思う。
 俺は高二で、彼女は高三。
 仮に、本当に仮に、もしそういうことがあるとしたら――
 そう遠くない未来の出来事なんだろうか、なんて、ぼんやりと考えていた。
『もう少しで、一学期の期末試験が始まりますね。部活動も休止期間になりますし、少しの間、貴方ともお話しが出来なくなってしまいます』

『部室で勉強するとか』

『先生が鍵を貸してくれませんよ』

『それはそうか。先輩は特に受験生ですし、その辺り先生は許さないですよね』

 うちの学校は、男女共通で学年毎に上履きの色が違う上、女子は特に紐ネクタイの色でもそれが分かる。一目で、こいつ何年だな、と分かってしまうのだ。
 三年だと分かる相手である先輩に、むざむざ鍵を渡すような真似はするまい。

『テスト期間中の部活動の休止って、うちの高校は何日間なんですか?』

『試験前一週間から試験の五日間を含む、計十二日間となります。凡そ二週間ですね』

『半月も交換日記が出来ないのは、少し寂しいですね。何だかんだ毎日続けてるから、習慣みたいになってますし。下駄箱に入れてやり取りするとか?』

『誰かとの噂でも立てられて、貴方が不快な思いをなさらないのであれば構いませんけれど。ラブレターのようですし』

『俺は別に何でも良いですけど、そうなったら先輩にも迷惑がかかりますもんね。というか、それ以前に先輩は受験生だし、俺もそこそこ頑張らないとですし。日記も、一旦お休みですかね』

『そうした方が賢明かも分かりませんね。私も、聊か寂しい思いですが』

 付け加えられた言葉が、どれだけの意味合いを孕んでいるのかは分からないけれど。
 正式に『友達』というやつになった日から、早ひと月ほども経過しようとしているのだ。
 少しくらい、大きく一歩、踏み込んでみようと思う。

『先輩、帰りってどっち方面ですか?』

 校門を出たところで、道は左右に分かれている。
 うちの学校で『どっち方面』と聞く時には、大方その左右の分かれ道で答える。
 右は電車を利用する人が多い方面で、左は比較的近くに住んでいる人が向かう方面だ。
 無論、進展の具合は、先輩の歩幅に合わせるつもりではある。
 けれど、その期末試験も終われば、次に待つのは夏休みだ。
 日記上の友達も、一月半程は自ずと休みになる。

『私は左です。徒歩で二十分ほどでしょうか』

 左、か。左なら丁度いい。

『俺も左です。徒歩三十分の距離で』

 一度、そこまで書いてから、半分程消して書き直す。
 回りくどい言い方は、しない方が良いと思った。

『俺も左なので、もしお邪魔でなければ、途中まで一緒に帰りませんか? 試しに、明日だけでも』

 翌日の返事を待つのが、緊張と不安でソワソワしたけれど。

『私は構いませんが、気の利いたことは話せないと思いますよ。日記のようにはいかないこと、よくよくご存じかとは思いますが。それに、貴方のお友達は? 一緒には帰られないのですか?』

 意外にも拒否をされなかったことが少し嬉しくて、俺は心の中で拳を握った。

『気の利いたことなんて話さないのが友達ですよ。それに俺、仲の良いやつらは皆電車通学なので、基本一人か、いても姉だけなんですよね』

『そうですか』

 短い文章の後、恥ずかしさと躊躇いでも表しているかのように一行空けて、

『では、よろしくお願い致します。校門の外で待ち合わせましょう』

 どこか走り書いたような、感情の乗ったとでも言うような文字で、そう括られていた。
 明日から、部活は一時休止期間。
 その初日とも呼ぶべき日に、俺たちは、お試しで一緒に下校する。
 なんだろう……姉以外の異性と歩くのが、初めてだからだろうか。
 自分で誘っておいて、今更ドキドキして来た。
 ポケットから取り出したスマホを開き、時刻を確認し、閉じてポケットへしまって――そんなことを、もう何度も繰り返してる。
 相手が誰とか関係なく、人と待ち合わせて帰るなんてこと自体もう何年ぶりだという話で、変に緊張してしまう。

 昔はどうやって時間を潰して待ってたっけ。
 どんな心持ちだったっけ。

 そんなことをついぐるぐる考えてしまうから、意味もなく何度もスマホを確認する。
 ちらちらとそこらに見えていた、誰かと待ち合わせていたらしい他の子たちは、早くも合流してさっさと帰り始めている。
 ぽつりぽつりと見えていたそれらは、次第に数を減らしていって――気が付けば、校門から出てそのまま帰ってゆく人たち以外、立って待っているのは俺だけになっていた。

 先輩、まだかな。

(……まだかな?)

 どういう気持ちで、俺はそんなことを思ったのだろう。
 待ちくたびれたから?
 周りに誰もいなくなったから?

 それとも――

「お、またせ、いたしました……」

 すぐ傍らから届いた小さな声に、俺はそちらを振り返る。
 思いがけず目が合ってしまった瞬間、逸らし、数歩退くのは、相良先輩だった。
 急に振り向いて、驚かせてしまっただろうか。

「お疲れ様です、先輩」

「お疲れ様、です、榎さん……お待たせしてしまいました」

「全然。行きましょうか」

 背中を預けていた壁面から離れ、先輩に向き直る。
 意外にも高身長な先輩は、姉を隣に連れている時と、目線があまり変わらない。

「え、っと……あの、ほ、本当に、良いのでしょうか……?」

「良いって、一緒に帰るのが?」

 先輩は小さく頷いた。

「私なんかが、榎さんの隣を歩いて……」

「なんかって――あれ、友達なんですよね、一応? 俺ら」

「は、はい…! あっ、えと、そ、そうだと、嬉しいです……」

「嬉しいって……」

 文面から感じる性格とは、本当にかけ離れている。
 日記の中だと、ある程度はっきりとした性格のように思っていたけれど――これは、俺の方が選択を間違えてしまっただろうか。

 ……いや。

「変に気と遣わなくても良いですからね。友達って、そういうもんだし」

「友、達……」

 先輩はその言葉を、まるで噛み締めるかのように小さく復唱した。

「放課後なんて、何となく時間が合うから一緒に帰るってだけのことです。気の利いた言葉とか、下手な話題作りとか、そういうのって他人行儀でしょ?」

「……はい」

 頷きながら答えると、先輩はゆっくりと視線を上げた。
 そうして俺に視線を合わせて、

「か、帰りましょうか……榎さん」

 消え入りそうなくらい小さく言って、またすぐに視線は逸らされてしまった。
 今は、それが彼女の精一杯の距離なのだ。
 でも――俺も、今はそれくらいが心地良い。
 初めからグイグイ来られるような人は苦手だし、俺自身、まだ緊張したままだし。

(……苦手、か)

 彼女の目に、俺はどう写ってるんだろうか。
 そう写っていたり、するんだろうか。
 願ってもない、頼んでもいない下校を、強いられているような心地になっていたりとか……。