「へい、そこの優等生」
帰り支度をしていた背中に、よくよく耳馴染みのある声が掛けられる。
振り返ったそこには、ニヤリと笑いながら立つ、幼馴染の姿があった。
「誰が優等生だ」
「赤点回避ってだけで優等生だろ。お前、今回も全部上位だろ?」
「ギリギリな」
「十分過ぎ。で、久々にどうよ、カラオケ。せっかく苦行から解放されたんだ、これからパーッと行こうぜって話してたんだよ」
そう言って視線を寄越す先にも、幾つか見知った顔。
俺が元居た部活の面々だ。
「悪い悟志、今日はパス。姉ちゃんの帰りが遅いみたいだからさ。家のことやらないと」
「って言うとは思ってたけど、まあ一応な。んじゃまた今度」
「ん、今度」
頷くと、悟志はさっさとそいつらの方へと駆けて行った。
首を横に振ると、その数人も皆、だろうな、って顔でこっちに視線を寄越した。
片手で合唱して軽く謝ると、笑顔で手を振ってくれる。
もう何回断って来たか分からないけれど、律儀で優しいやつらだ。
聊か胸も痛むけれど――元々、そう羽目を外してパーッと出来るような柄でもない。
心の中でもう一度深く謝ってから、俺はバッグを担いで帰路についた。
高校二年の春。
最初の中間試験が終わったところだ。
特にやりたいことも進路も定まっていない俺だけれど、日々の学習だけはある程度頑張ってはいる。
それはひとえに、姉に負担をかけたくはない一心で、なのだけれど――
その姉は今、机に置いた試験結果は見ないで、キッチンで麦茶を啜る俺を睨みつけていた。
「……なんで?」
「何でだと思う?」
姉は、至って真面目な声音で返す。
ただ、試験結果に怒っていないのであれば、理由は分からない。学校で粗相を犯した心当たりもない。
「ひとまず、試験はお疲れ様。今回も頑張ったんだね」
「……ん」
姉の賛辞に、それらしい語気はない。
言いたいことは、試験とは関係ないらしい。
「やりたいこと、見つかった?」
「まだ。でも、選択肢拡げるために、勉強だけは――」
「ん、偉い。殊勝だね」
頷き言うその言葉にさえ、やはり芯はない。
「やりたいことは分からないけど、将来の為に勉強して、枝葉を伸ばす。良いことだね。とっても良いことだ。これぞ学生の本分ってやつだよね」
「……何が言いたいの?」
こちらから切り出してようやく、姉は深い溜め息を吐いた。
そうして俺の方を見つめ直して、言うのだ。
「そんなに頑張らなくて良いって、いつも言ってるでしょ?」
……これだ。
「やりたいことがあるなら頑張ればいい。無くても勉強するっていうのはすごく良いこと。絶対に将来の役には立つからね」
「なら――」
「でも、友達のお誘いを断り続けるのは違うんじゃない?」
「……っ!」
姉の言葉に、俺は思わず視線を逸らしてしまう。
「せっかくいい成績も取れたんだからさ。その直後ぐらい、羽を伸ばしたっていいじゃん? どうして断ったの?」
「……見てたのかよ」
「たまたまね。職員室に行く途中に悟志くんを見かけたから挨拶をしたの。そしたら、あんたが『姉ちゃんの帰りが遅いからとか何とか言ってた』って」
何て都合の悪いたまたまだ。
いや。その現場を見ていなかったとしても、姉はすぐに気付いたことだろう。
悟志は、いつも律儀に俺のことを誘ってくれる。他の連中もそうだ。
それは高校に入ってからこっち、ずっと続いていることで、姉も勿論それは知っている。
それで帰宅した時、夕飯を作って待ってる弟の姿なんて見つけてしまっては、察するなという方が難しいことだろう。
我ながら、浅い考えで断ってしまったものだ。
せめて、適当に時間を潰してから帰ればよかった。
「……嘘は吐いてない」
「でも、必要ないよね?」
「…………仕事で疲れてるだろ」
「スーパーでもコンビニでも、どこでもご飯は買えるよ」
「でも――」
「私の為に頑張らなくても良いから。ね?」
姉は、優しく笑って言った。
別に、そんなつもりでやっている訳ではない。
うちは両親を早くに亡くした姉弟だけの家庭で、しばらくは祖父母の援助で頑張っていたのだが、姉が職に就くと同時にそれも断って、今では姉の収入だけで生活している。
決して安くなんてない俺の学費も、その姉持ちなのだ。
姉とは十歳差で、俺が物心つく頃には大人かよって思うくらい心身共に成熟していて、ただただ苦労している姿ばかりを見て来た。そのせいで自分は誰かと出掛けたりしなかったくせに、俺には『友達を大事にしろ』と言う。
そんな姉に、幼い頃から負い目を感じていたから、何とかして、何でも良いから姉の負担を減らしてやりたいのだ。
結果的にそれは姉の為なのだろうが、結局のところただ単に、俺がその負い目から来る苦みから解放されたいだけなのだ。
「いつも言ってるでしょ、友達は大事にしなさいって。気楽に遊べるのなんて、今の内だけなんだよ?」
「――カラオケ、そんなに好きじゃないってだけだよ」
「またそれ。内容それ自体が重要なんじゃないって、あんたも分かってるでしょ?」
「ほんとだって。他の誘いには行ってるよ」
嘘だ。
「いつ? 試験後以外、悟志くんは部活に行ってるでしょ?」
「……ほんと、行ってるって」
苦しい言い訳に、姉はまた溜め息を吐いた。
「私、何も『行け』って言ってる訳じゃないよ。ただ、勉強ばっかりで楽しくなさそうなのが見てられないの。それなら、好きな友達と一緒に遊んで、たまにはスッキリしたら良いじゃんって言ってるだけ。分かるでしょ?」
「勉強なんて、別に楽しいもんじゃないでしょ」
「うん、私も嫌いだった」
「なら同じじゃん」
「同じだね。でも、私とあんたは、違う生き物だよ」
「…………」
言葉に詰まった俺に、姉は困ったように笑った。
「私さ、こう見えても、いま結構幸せなんだよ? あんたが問題なく大きくなって、いい子に育って、とっても満足してる。ほんとだよ。だから、まだまだ若いあんたが、私の為だけに時間を使う必要はないの。やりたいこと、たまにはしてみなよ」
とても優しい口調で、姉は言う。
でも、それがいやに鋭く刺さってしまう程、姉が今言っていることは、姉がこれまでして来なかったことなのだ。
「……やりたいこと、してこなかったのはどっちだよ。俺がいたから、楽しいこと、何もして来れなかっただろ」
「これから、幾らでも時間はあるよ」
「若い時に出来なかったことだぞ……? 今、ほんとに出来るの……?」
「――それは、ちょっと厳しいかもね」
「なのに俺には、それをやれって言うの?」
「あんたが私の為にしてくれること、姉としては嬉しいよ。でも、親としては嬉しくない。もっと明るく、もっと笑って高校生活を送って欲しい」
「……自分が出来なかったのに?」
「親って、そういうもの」
姉は笑う。
仄かに香る、苦しそうな色を隠して。
「……親である前に、俺の姉ちゃんだろ?」
「姉ちゃんである前に、私は親でいたい」
あまりに当たり前のように言うものだから、俺はまた言葉に詰まってしまう。
姉は、それが当然のことだと思っているらしい。
——いや。当然なんて思ってはいないのかもしれない。
それでも、当然のこととして、俺のことを育ててくれているのだ。
「いつもありがとね、真琴。夕飯、美味しかったよ」
「…………ん」
反論なんて、もう出来るものでもなかった。
生きる世界が違う、というのは、こういうことを言うのかもしれない。
まだまだ世の中のことを知らない俺が、あれこれ講釈を垂れたところで、親と同じ目線に立っている姉に響く筈なんてない。
俺が思っていることの全ては、姉も過去、既にどこかで思って来たことである筈だから。
「はぁ……やった、ほんとにやった……」
一夜明けて冷静になった頭は、痛くなってしまう程の後悔を負った。
自責の念に駆られて仕方がない。
あんな話をするつもりも、あんな言い方をするつもりも、別になかった筈なのに。
姉と顔を合わせるのを躊躇って、わざと遅く部屋を出る頃には、姉は既に出勤していて――机の上に『昨日はごめん、ゆっくり寝てなさい。先に行ってるね』と書かれたメモを見つけて、よりいっそう自分が惨めになった。
俺なんかより、よっぽど大人だ。
大人になろうと背伸びをすることさえ、まだ早いと思える程に。
——そんなことを、放課後まで引き摺ってしまうくらい、昨夜の俺はどうかしていたと思う。
どれも嘘はなく、本音をぶつけた。
それは、姉の方も同じなのだ。
自分が出来たとか、出来なかったとかじゃない。
友達は大事にしろ。当然のことだ。
でも……。
「帰り辛づら……」
朝、俺がわざと部屋を出て来なかったことだって、姉は気付いている筈だ。
昨夜、姉より早く自室に戻ったのだから。
もっとも、それだって、ただ姉と顔を合わせ辛かっただけのこと。
子どもなのだ。まだまだ。
それが、よくよく分かった。
「はぁ……」
今日だけで、もう何回溜め息を吐いていることだろうか。
その理由が他でもない自分だからこそ、より惨めになってしまう。
帰り辛いと感じた俺は、特に用も当てもなく、フラフラと校内を彷徨った。
職員室前や、吹奏楽部なんかが活発な方へは行かず――そうなると自ずと、芸術科目や文科部系で使用する特別教室がある方へと足が向いた。
うちの学校は三階建ての『コ』の字型で、コの右下の角辺りが正面玄関、上線部分の一階から三階までが教室、下線部分一階から三階までが特別教室らがあるという造りになっている。
職員室は、コの字の縦線部分の二階。そこを避けるように一階へと下りてから、下駄箱前を通って特別教室の方へと歩いた。
理科室、準備室は、授業で何回か来た。最奥にある旧理科室は、立ち入りが禁止されていて、今は誰も入ることが出来ないようになっている。理由は知らない。
事故だの幽霊だのという噂話は聞いたことがあったけれど、そんなのどれも迷信だろう。
そんな思いで正面を通り過ぎ、突き当りへと差し掛かる。
外に見えるグラウンドでは、サッカー部や野球部が練習に励んでいた。
そんな姿を見ていることでもまた――これでは自責の坩堝だ。
我ながら、一体何をやっているのだろうか。
溜息交じりに、こんなこともやめようと、俺は踵を返した。
その時、旧理科室の扉が、僅かに開いていることに気が付いた。
隙間から見える中は真っ暗だ。
「誰か――」
いるとは思えない。
思い切って扉を開いてみても――ほら、誰もいない。
幽霊だの小動物だのが隠れられそうな隙間もないくらい、物という物まで何もない。
ただただ閑散とした、空き教室だ。
理科室特有の黒いカーテンも閉め切られている。
「こんな風になってたんだ……」
土産話、程度にはなるだろうか。
昨日断ったことを謝るついでに友人へと持っていく話としては、申し分ない。
「…………」
ここなら、丁度いいだろう。
しばらく時間を潰すために、少し座って過ごそう。
もし怒られてしまった時の為に、適当な言い訳でも考えながら。
思い立ったが吉日。俺は扉を閉め、窓辺の机に向かう形で一つポツンと置いてあった椅子へと腰を下ろした。
どうせ、他に行けそうなところもないのだ。
「……って言ってもなぁ」
何もない。
本当に、何もない。
何もないからには、どうすることも出来ない。
暇を潰せそうな物も持って来ていない。スマホでゲームをするような趣味もない。
そんな人間が、暇な時間に出来ることと言えば。
「……おやすみ」
独り小さく呟いて、腕を枕にして突っ伏した。
夏の暑さの中なら堪えたことだろうが、まだまだ初夏も初夏なこの時期は、却って心地が良いくらいの暖かさだ。
カチ、コチ――秒針の進む規則的な音だけが耳に届く。
それを聞いている内、不思議と心も穏やかになっていって――
気が付けば、自責の念からあまり寝付けなかった昨夜の代わりに襲い来る睡魔に負けて、程なく眠りについてしまった。
何かが肩を、頬を撫でた。
ふわりとしていて、それでいて硬い何か。
薄く目を開けてゆくと、それがカーテンであったことが分かった。
「なん、で……」
窓は閉まっていたはずだ。
カーテンがかかっていたから閉まっているものだと、思い込んでいたのだろうか。
「ん、ん……」
目を擦りながら、身体を起こす。
ポケットからスマホを取り出して、時刻を確認する。
十七時半。そろそろ、部活も終わる頃合いだ。
「やば、寝すぎた……」
起き抜けの身体は頼りないが、何とか立ち上がり、荷物を肩に掛け直す。
「ふぁー、ぁ……」
大きく伸びをして、身体と頭の覚醒を促した。
そうしてスッとクリアになったところで、俺は教室を出ようと身を翻した。
「ん……?」
そこに、何かを見つけた。
入口扉のすぐ横に、教室にあるものと同じ勉強机、その上に一冊のノートが置いてあった。
あんなものあったか? という疑問にも、答えは得られない。
この教室に入った時、すぐ傍らの方に目を向けた記憶がないからだ。
空き教室に、一冊のノート。
そういう漫画やアニメだと、これが呪いか何かのノートで、そこから物語が始まったりするものだが――流石に、そんな訳はないだろう。
しかして警戒しつつ、俺はそのノートの方へと近付いた。
「交換、日記……?」
表紙には、その四文字だけが、小さく書かれていた。
他には名前も何もないが、女子生徒だろうかと思う、綺麗な字だった。どこか見覚えがある気さえするような、綺麗な字だ。
ここで授業をやっていた頃か、或いは何かの部活に割り当てられていた時にでも使われていたものか。
そんなところだろうと思う。
しかし同時に、
「それにしては綺麗、というか新しすぎる……」
使われていたのだろうか、と推測するなら、交換日記などと書かれていることからも、開いては書き、開いては書きと繰り返されてきた筈だ。が、これにはそんな形跡もない。
折り目も開き癖も付いていない、真っ新なノートに見える。
まさか、本当に幽霊の……?
「――なわけないか」
交換日記をしたがる幽霊?
そんなものいる筈もない。
いたところで、別に怖い存在とも思えない。
馬鹿馬鹿しい。そう飲み込んで、俺は何の気なしにノートを開いた。
真っ新なノートなら、誰が書き込んでいるものでもないだろう。そう思ってのことだった。
「……は?」
表紙を開いた、一ページ目――そこには、文字が書いてあった。
たったの一行。短い一行。
『お友達になってくれませんか?』
昨日のことを悟志に話したところ、食いつきは良かったが、じゃあ行こうかという話には別段ならなかった。
それはそうだ。
昨日開いていたからと言って、今日また開いているとは限らない。
鍵なんて持っていなかったから俺は開けたまま帰ったが、その後で、教員か警備員が閉めて回るはずだ。
そうして放課後、悟志はそのまま部活へ行き、俺はと言うと――
「開いてる……」
教室、というよりあのノートの方が何となく気になって、また足を運んでみた訳だったが、今日も鍵は開いていた。
それも昨日と同じように、ほんの一センチ程度、開いた状態で。
教員か警備員が閉めているだろうという、通常考えられることがしっかりとなされているのであれば、これは誰かが開けているということになる。
もし閉め忘れているのであれば、それはそれで報告もしなければならない。
俺は、特に迷うこともなく、その扉を開けた。
中は相変わらず真っ暗で、カーテンも昨日同様に閉め切られたままだ。
入口すぐの所には机、そしてノートが置かれていて、昨日勝手に使った椅子も、俺が立ち上がった時そのままの角度で佇んでいる。多分。
見た感じ、誰かが動き回ったような形跡はない。
「ノートは――」
表紙を捲る。
追記は、ない。
「……はぁ」
何を真剣になって考えているのか。
開いているのはたまたま昨日誰かが忘れたとかで、だから別に誰も入ってはいないだけだろう。
仮に何かあったとしても、俺に関係のない話なんだから、考える必要だってないことだ。
それなのに――
引っかかる。
このノートが真新しいという点が、いやに引っかかるのだ。
これが、ただの空き教室であったのなら別だ。誰でも自由に出入り出来る教室であれば。
しかしここは、現在名目上は『立ち入り禁止』となっている。教師や警備員が中を確認、或いは使用することがあったとしても、こんなノートを、まして表紙にまで『交換日記』と書かれたノートを、果たして置いておくものだろうか。
誰かは分からない。
ただ確実に、何かしらの意図を孕んで置かれたものであることは、間違いないのだ。
それでも、それを暴きたいだなんて思っている訳でも、別にない。
ただ何となく――そう、本当に何となく、気になって仕方がないのだ。
期待? 好奇心?
そんなところだろうとは思うけれど、何を期待し、何に興味を惹かれているのかは、自分でも説明できない。
ただ本当に、何となく気になるだけなのだ。
姉の言うことに、内心中てられたのかもしれない。
俺はきっと、変化ってやつを望んでいるのだ。
「……こんなことしても、な」
意味はないかもしれない。
でも、ただ何となく、やってみたくなったから――俺は、鞄からシャープペンシルを取り出すと、短く一文だけ付け加えた。
『幽霊?』
はいかいいえか、誰とかなんでとか、そんな質問でも良かったけれど。
幽霊、という単語を選んだのだって、本当にただの気まぐれだ。
このノートが、いつから置かれているのかは分からない。だから、明日明後日に読まれるものとも限らない。
だから俺は、そのノートを、上下逆さまに置いておくことにした。
机は、入口すぐの壁にピッタリくっついている。ノートを動かさずに正面から読もうとするのは難しい。手に取るにしろ机上に置いたままで読むにしろ、まして追記をしようものなら、まず間違いなく、自ずとノートは元置かれていた向きに直される筈だ。
「……いや」
だから、何を真面目にやっているんだ。
さっきから頭の中で、色んな声が言い合っていて落ち着かない。
それもこれも、気まぐれにこんなところへ来てしまったからだ。
明日、確認したら、これで最後にしよう。
勝手に書き足してしまった後でアレだけれど、元より俺に向けられたメッセージなわけもないのだから。
「うそ……」
翌日。
確認しに行った俺は、思わずそう零していた。
ノートの向きが、変わっていたのだ。
予想した通り、元あった向きに。
ただ、検めた中身には、変化がない。
幽霊? とだけ短く質問した俺の文字が最後だ。
それでも、読まれた、最低でも触られたことは確かだ。
教師か警備員か、或いは……幽霊か。
幽霊――その可能性も、未だ完全には捨てきれない。
昨日から今日に掛けて、俺が知っているだけでも二日続けて、この教室だけ施錠の手が入っていないなんてことは考え辛い。
授業時間中、放課後、教員が用事で開けたのであれば、同じように二日続けて施錠されていないというのはおかしい。生徒であれば尚のこと。いやそれ以前に、用があって開けていたのであれば、それらしい痕跡、形跡があっても不思議はない。
それが、昨日に続き今日も、ノートの向き以外、机も椅子も、カーテンさえも、触られたような形跡はない。
「幽、霊……」
では、ないと思う。思いたい。
何を馬鹿なことをやっているんだ――昨日までと同じようにそう飲み込んでしまえれば、或いは今日ここに来さえしなければ、気分は幾らも楽だったろうに。
気になることが多過ぎて、とても見過ごすことが出来ない。
これが誰の仕業であるか、ともすればただの悪戯であるのか、証明したがっているようだ。
「……明日、明日で最後にしよう」
追記さえなければ、それに意味はないということには一応なる。納得は出来る。
だから明日で、本当に最後にしよう。
なければ、それで飲み込めるのだから。