目が覚めると、あれだけ重かった体が軽い。睡眠って大切だとしみじみ思いながら、私は保険医さんに挨拶する。

「ベッドありがとうございました。ちょっと寝たらなんとかなりました」
「それはよかったけど。さっきの子、クラスメイト?」
「上杉くんですか? はい」

 途端に保険医さんは渋い顔をした。そういえば、通りすがったとき、上杉くんのベッドは既に空いているみたいだった。私よりも早く出ていったんだろうけれど、全然寝てないのに大丈夫なのかな。
 そう思っていたら、保険医さんが口を開いた。

「あの子ね、かなり眠ってないみたいだから。少し話をしたけど、このところ二時間くらいしか寝てないみたいだから」
「え……」

 でもよくよく考えたら、日の出までほとんど眠れてないんだから、それくらいしか眠ってないことになるんだよね。私は保険医さんに聞いてみる。

「そんなに眠れないことってあるんでしょうか? なんだか上杉くん、不眠症気味で心配で」
「ここまで眠れてないのは、多分本当は病院に行ったほうがいいんだけれど、家の都合やらなにやらで行けないこともあるから……だけど多感な時期に全然眠ってないと体にも悪いし、今はまだ持ち堪えているけど、いずれ成績にも支障を来すから。家で眠れない場合は、保健室に来てもいいから眠ってね。昼休みに昼寝に来てもいいから……教師だったら、昼寝に保健室使うの嫌がるでしょうけど、高校生はどれだけ人生楽しくってもきちんと寝ないと駄目よ」

 保険医さんにそう言われて、私は保健室を後にした。
 これは……いい加減上杉くんの事情について聞き出したほうがいいのかもしれない。でもなあ……どうやって説明すればいいんだろう。
 幽体離脱して夜中のあなたに会っていました。寝たほうがいいですなんて、素直に言っても気味悪がられるだけだし。
 そもそもベランダに出ているのだって、家の中が居心地悪いからだろう。あの……上杉くんのお父さんらしき人に、灯さんを名乗る女の人。私があの人たちを見かける以前に、彼の家には一度も他の部屋に灯りがついていなかった。
 不眠症になるのって、ただ毎日が楽しくて、夜中まで電話してたとかだったら、電話代がかかる以外は健康的なことだと思うけれど。いろいろ思い悩んだ末に眠れないって不健全過ぎる。
 どうやって聞き出したものだろうと、私はそっと溜息をついた。

****

 教室内で無神経に「どうして眠れないの?」「寝てたほうがいいよ」と言うこともできず、結局昼休みまでこっそりと上杉くんを見守り、昼休みになって教室を出たタイミングで「上杉くん」とやっと声をかけることができた。

「夢野さん……」
「あのさ、保健の先生が言ってたけど。昼休み昼寝に来てもいいって。体に悪いし」
「それは夢野さんのほうでは」

 私は一時間ぐっすり寝かせてもらったおかげで、多少なりともマシなんだけどなあ。そう思いながらも、私は言葉を続けた。

「私も寝に行くからさあ。あのさ、上杉くんが全然寝てないみたいなこと、山下さんや遠山くんと話しているのが耳に入って、それまずいんじゃないかなと思っただけなんだけど……」

 ぐだぐだ過ぎる。もうちょっと他に言い方がなかったのか。私は我ながらしどろもどろ過ぎる言い訳で、なんとか上杉くんを寝かしつけにかかろうとしているんだから、駄目だろうとわかっているけれど。それでもなんとかして、上杉くんを寝かしつけたかった。
 上杉くんは私を困ったような顔で眺めてきた。

「……ごめん。彼方とか織菜になにか言われたか?」
「えっ? ふたりからはなにも聞いてないけど」

 そもそも遠山くんは人の家の事情なんて言わないし、山下さんも知っているみたいだけど教えてくれなかった。上杉くんの友達は口が硬いんだ。本当に友達甲斐のある。
 上杉くんはそれに「そっか……」とだけ言うと、スタスタと歩きはじめた。そっちは保健室じゃない。私は慌てて着いていった。

「あ、あの! そっち保健室じゃないよね!?」
「いや。保健室はしょっちゅう他の学年の女子がたむろするから、昼休みはうるさくって静かに横になってられないから」
「ああ、なるほど……」

 お弁当を食べる場所が見つからなかったり、天気が悪かったりすると、保健室に集まってわいわいと食べはじめるグループは存在する。普段だったらなんともなくても、眠いときに女子特有のキンキン声は、落ち着いて眠るには耳障りだったりする。
 それにしても、どこに行くんだろう。私は上杉くんに着いていくと、そのまんま校舎の端っこの空き教室に辿り着いた。
 少子化のせいで空き教室が増えたけれど、こんな端っこにもあったのか。そこは物置になっているらしく、古いタイプの机と椅子が放置されていた。これだけ数があったら、処分するにもお金がかかるから、こうして空き教室に放置って形でお茶を濁していたんだろう。
 そこで適当に椅子と机を並べると、そこで上杉くんはもたれて眠りはじめた。
 私もまた、適当に椅子と机を引っ張り出す。

「あのう……眠れる?」
「ここでしばらくじっとしてたら、多少なりとも楽だから。夢野さんはどうする? ここで寝とく?」

 昼寝を誘われ、私はどうしようと考えた結果、同じように机にがばっともたれて、そのまま一緒に眠りはじめた。
 なるほど、ここだったら他の埋まっている教室よりも静かだし、騒がしい校庭とは反対側の場所だから、体育会系の部活のかけ声やら、校庭で遊んでいる女子やらの声も遠い。おまけにちょうど陽射しがいい感じに降り注ぐ場所にあるから、夏は空調がないせいで暑くて蒸し焼きになってしまいそうだけれど、今の時期はちょうど温かくって寝心地がいい。
 気付けば私も上杉くんと一緒に眠ってしまっていた。
 いや、上杉くんからしてみれば、得体の知れないクラスメイトに絡まれた挙げ句に静かにじっとしていようと思った場所まで着いてきて寝息を立てて眠られたら迷惑が過ぎるのかもしれないけれど。ただ私にとってはちょうどよかったんだ。

****

 夜になり、私は元気いっぱいに夜空を飛んでいた。
 上杉くん、保健室で横になり、昼休みにじっとしていたけれど、夜は大丈夫だろうか。少しは眠れただろうか。
 私が会いに行って大丈夫なんだろうか。そう思いながら、こっそりと上杉くんの家のベランダを覗き込んだら、その日は上杉くんはカップを持って外に出ていた。匂いを嗅ぐ。無臭。これは、多分お湯を沸かしてカップに注いだだけの、白湯。

「白湯飲んでぼんやりしててどうしたの?」

 今日は早く寝ろと催促に来ただけだけれど、思わず白湯について口を挟まずにはいられなかった。上杉くんは少し驚いたように振り返った。

「リオ……もう来ないと思った」
「あれ、なんで?」
「ベッドに横になっても眠れてないし、子守歌まで歌ってさ。それで俺にかまうのは面倒臭いって思われてもしょうがないって思ったんだ」
「なにそれ。そこまで心狭くないよ」
「本当に?」
「本当本当」

 私は隣でふよふよ浮いていると、上杉くんは心底ほっとしたような顔をしていた。
 これだけ近くにいても、私とクラスメイトの夢野凛生が同一人物だと気付かないんだなあと思う。いや、同級生が幽体離脱しているなんてこと、普通は信じられないか。
 私は尋ねた。

「今日は寝ないの?」
「んー……昼にたくさん寝たから」
「夜に寝ないと意味なくない?」
「でも……君に会えなくなるのは困る」

 うん?
 私は思わず上杉くんの横顔を凝視した。上杉くんはまだ湯気の出ている白湯を飲みながら続ける。

「友達も幼馴染も、俺のことを心配してくれるのはわかる。でもときどき煩わしくなるし、放っておいてほしくもなる。君はただの幽霊だから……君にはなにがバレても困らないし、煩わしくない。どっちみち、俺が霊感体質だっていうのは家族以外は信じちゃいないから」

 その言葉に、私は言葉を失った。
 もしかして、彼が眠らない原因、家の事情から私に変わってない? それはまずい。あまりにもまずい。私はダラダラと背中に冷や汗を掻いた。