夜になり、私はまたしても幽体離脱する。そのままふわふわと飛んで、上杉くんの家に飛んでいく。チョコレートだけで眠れるかはわからないけれど、せめて少しはまどろんでくれないかなあといい加減なことを思った。
やがて、おいしそうな胡椒、ローズマリー、りんごの匂いが漂ってきた。けれど。
やっぱりベランダに出て、上杉くんはぼんやりとしていた。
二日連続ベランダに出ているのは、いったいなんなんだ。
「寝ないの?」
私が思わず話しかけると、上杉くんはびっくりした顔をして私を見上げた。
「また来たの? ええっと……リオ?」
「うん。あなたが寝てくれないと、いろいろと困るから」
さすがになあ。あなたが寝てくれないと夢をかじることができないから困りますなんて本音は引っ込めた。
それにしても、頭をガンガン使っているし、相変わらず成績は優秀。眠たくなって、神経逆立っている印象もない上杉くんは、私をただ驚いて見ているだけなのは、いろいろとこう、気まずい。
私のいい加減な言葉にも、上杉くんは存外親切に「ごめん」とだけ言った。
どう言ったものかなあ。私は思ったことをできる限り言ってみた。
「寝ないこと、周りにも心配されてない? 可愛い女の子とか、親友とか」
「あれ、昼間にもいたの?」
「幽霊だからね、そりゃいるよ」
さすがに夢魔とは言えなかった。ポピュラーな夢魔が、人の欲望を刺激するタイプのだから、それと一緒にされてそういうのを期待されても困ってしまう。
私の本音はさておいて、上杉くんは気まずそうにベランダの手すりを掴んだ。
夜風がそよいでいる。寒くないんだろうか。
「寒くないの? 部屋に戻ったほうがよくない?」
「普段ベランダに出てるのは、ここだと落ち着くから」
「落ち着く? 部屋に帰ったらすぐ勉強しないといけないから?」
「それはあるかもしれない。だいたい明け方にならないと眠れないから」
……私が帰らないといけない頃まで起きてないと駄目って、最悪じゃないか。私が夢をかじれないのもそうだけれど、普通に体に悪過ぎる。
「それ大丈夫なの? 前にも言ったけど病院で診てもらったほうが」
「前にも言ったと思うけど、病院に行って解決するものでもないよ。それに、勉強しないとって脅迫概念が、ここにいるときだけは逃れるから」
……そりゃ、今時は不景気だ。大学に行っておかないと就職できないけれど、大学に行っても就職できるかは限らないし、世の中いろんな形でブラック企業がはびこっているから、長続きするかだってわからないとは、ネットにそんな話題ゴロゴロしている。
でもそれが原因で上杉くんが眠れないのは、なんだかおかしい。
「……そこまで勉強しないといけない理由はなに?」
「早く大人になりたいなあ」
私の問いかけに対する返答かは、一瞬わからなかった。
ただ、上杉くんはここじゃないどこかを見ている。ぷかぷか浮かんでいる私の透けた体の向こう側を、じっと見ているんだ。
私はどう答えるべきか迷った結果、「せめて部屋に入ろう、風邪引いちゃうから」と言った。上杉くんは一瞬驚いた顔をしたあと、言うことを聞いて中に入ってくれた。
私はそれに着いていく。思えば高校生の男の子の部屋には初めて入った。
もっと専門書とか参考書しかないのかと思ったら、意外なことにそうでもなかった。週刊のマンガ雑誌。単行本。端っこにはゲーム機もあって、思っているより年相応だった。そしてその年頃の男子はもっといい加減かと思っていたのに、神経質なほどに綺麗に片付いている。ゲーム機だって専用ケースの中に入っているし、本棚は全部丁寧に縦に差してあり、私みたいに溜まったからと横に差してどうにか取り繕うようないい加減な片付け方をしていなかった。
「綺麗な部屋だね」
「そう? 普通だと思う」
「もっと汚いと思ってた」
「それは失礼だよ」
やんわりと咎めつつ、上杉くんは学習机に腰をかけた。そして私は一瞬あれ、と思ったんだ。上杉くんはこれだけ夜中に独り言を言っているにもかかわらず、家族の注意が聞こえてこない。
それに。人の気配が上杉くん以外にしない。私はふらーっと思わず壁を空かして飛んでいった。リビングには大型テレビ。パソコン。ダイニングテーブル。椅子。でも真っ暗で誰もいない。
脱衣所。電源がついてない。他の部屋も飛び回ったけれど、やっぱり灯りは上杉くんの部屋以外に点いていなかったのだ。
私が戻ってきたことに、上杉くんは少しだけ驚いた。
「戻ってきたの?」
「うん……あのう、この時間帯なのに、誰もいなくない?」
「いないよ」
そこで初めて上杉くんの声は硬くなった。それで私は「しまった」と口を抑えた。
これ以上はまだ、私はただの不審な幽霊なのに、踏み込んではいけないところだ。私はあわあわとする。
「ご、ごめんなさい!」
「……ううん、いいよ。今日はまだいるの?」
「……今日はもう帰ろうかな。ごめんなさい」
「別にいいよ。また来る?」
それに私は「あれ」と驚いた。
てっきり勝手に土足で踏み込んできたことに、もっと怒ると思ったのに。また来てもいいんだろうか。
「来てもいいの?」
「君は僕のよく知らないひとだから。だから別に」
そうか。
よく知っている人たちになにか言われるより、見ず知らずの幽霊のほうがまだマシなのか。なんとも言えないもやもやしたものを感じながら、「わかった」とだけ言って、私は飛んでいった。
他の人の夢をかじって、自分の体に戻る。
だんだん人の夢をかじることに罪悪感を覚えなくなってきたけれど、それと同時に上杉くんに踏み込み過ぎたことを気恥ずかしくなる気持ちと、彼の家に誰もいなかったことについて思いを馳せる。
上杉くんのご家族、どこに行ったんだろう。私は同じクラスにいときながら、本当に彼のことをなにも知らないのだと思い知らされた。
知ってどうするんだろうとも思う。彼の夢をかじらなければ、私は真人間に戻れない。でも、彼のことをなにも知らないまま夢をかじるのは、なんだか違う気がする。駄目な気がする。
そう思ったのだ。
やがて、おいしそうな胡椒、ローズマリー、りんごの匂いが漂ってきた。けれど。
やっぱりベランダに出て、上杉くんはぼんやりとしていた。
二日連続ベランダに出ているのは、いったいなんなんだ。
「寝ないの?」
私が思わず話しかけると、上杉くんはびっくりした顔をして私を見上げた。
「また来たの? ええっと……リオ?」
「うん。あなたが寝てくれないと、いろいろと困るから」
さすがになあ。あなたが寝てくれないと夢をかじることができないから困りますなんて本音は引っ込めた。
それにしても、頭をガンガン使っているし、相変わらず成績は優秀。眠たくなって、神経逆立っている印象もない上杉くんは、私をただ驚いて見ているだけなのは、いろいろとこう、気まずい。
私のいい加減な言葉にも、上杉くんは存外親切に「ごめん」とだけ言った。
どう言ったものかなあ。私は思ったことをできる限り言ってみた。
「寝ないこと、周りにも心配されてない? 可愛い女の子とか、親友とか」
「あれ、昼間にもいたの?」
「幽霊だからね、そりゃいるよ」
さすがに夢魔とは言えなかった。ポピュラーな夢魔が、人の欲望を刺激するタイプのだから、それと一緒にされてそういうのを期待されても困ってしまう。
私の本音はさておいて、上杉くんは気まずそうにベランダの手すりを掴んだ。
夜風がそよいでいる。寒くないんだろうか。
「寒くないの? 部屋に戻ったほうがよくない?」
「普段ベランダに出てるのは、ここだと落ち着くから」
「落ち着く? 部屋に帰ったらすぐ勉強しないといけないから?」
「それはあるかもしれない。だいたい明け方にならないと眠れないから」
……私が帰らないといけない頃まで起きてないと駄目って、最悪じゃないか。私が夢をかじれないのもそうだけれど、普通に体に悪過ぎる。
「それ大丈夫なの? 前にも言ったけど病院で診てもらったほうが」
「前にも言ったと思うけど、病院に行って解決するものでもないよ。それに、勉強しないとって脅迫概念が、ここにいるときだけは逃れるから」
……そりゃ、今時は不景気だ。大学に行っておかないと就職できないけれど、大学に行っても就職できるかは限らないし、世の中いろんな形でブラック企業がはびこっているから、長続きするかだってわからないとは、ネットにそんな話題ゴロゴロしている。
でもそれが原因で上杉くんが眠れないのは、なんだかおかしい。
「……そこまで勉強しないといけない理由はなに?」
「早く大人になりたいなあ」
私の問いかけに対する返答かは、一瞬わからなかった。
ただ、上杉くんはここじゃないどこかを見ている。ぷかぷか浮かんでいる私の透けた体の向こう側を、じっと見ているんだ。
私はどう答えるべきか迷った結果、「せめて部屋に入ろう、風邪引いちゃうから」と言った。上杉くんは一瞬驚いた顔をしたあと、言うことを聞いて中に入ってくれた。
私はそれに着いていく。思えば高校生の男の子の部屋には初めて入った。
もっと専門書とか参考書しかないのかと思ったら、意外なことにそうでもなかった。週刊のマンガ雑誌。単行本。端っこにはゲーム機もあって、思っているより年相応だった。そしてその年頃の男子はもっといい加減かと思っていたのに、神経質なほどに綺麗に片付いている。ゲーム機だって専用ケースの中に入っているし、本棚は全部丁寧に縦に差してあり、私みたいに溜まったからと横に差してどうにか取り繕うようないい加減な片付け方をしていなかった。
「綺麗な部屋だね」
「そう? 普通だと思う」
「もっと汚いと思ってた」
「それは失礼だよ」
やんわりと咎めつつ、上杉くんは学習机に腰をかけた。そして私は一瞬あれ、と思ったんだ。上杉くんはこれだけ夜中に独り言を言っているにもかかわらず、家族の注意が聞こえてこない。
それに。人の気配が上杉くん以外にしない。私はふらーっと思わず壁を空かして飛んでいった。リビングには大型テレビ。パソコン。ダイニングテーブル。椅子。でも真っ暗で誰もいない。
脱衣所。電源がついてない。他の部屋も飛び回ったけれど、やっぱり灯りは上杉くんの部屋以外に点いていなかったのだ。
私が戻ってきたことに、上杉くんは少しだけ驚いた。
「戻ってきたの?」
「うん……あのう、この時間帯なのに、誰もいなくない?」
「いないよ」
そこで初めて上杉くんの声は硬くなった。それで私は「しまった」と口を抑えた。
これ以上はまだ、私はただの不審な幽霊なのに、踏み込んではいけないところだ。私はあわあわとする。
「ご、ごめんなさい!」
「……ううん、いいよ。今日はまだいるの?」
「……今日はもう帰ろうかな。ごめんなさい」
「別にいいよ。また来る?」
それに私は「あれ」と驚いた。
てっきり勝手に土足で踏み込んできたことに、もっと怒ると思ったのに。また来てもいいんだろうか。
「来てもいいの?」
「君は僕のよく知らないひとだから。だから別に」
そうか。
よく知っている人たちになにか言われるより、見ず知らずの幽霊のほうがまだマシなのか。なんとも言えないもやもやしたものを感じながら、「わかった」とだけ言って、私は飛んでいった。
他の人の夢をかじって、自分の体に戻る。
だんだん人の夢をかじることに罪悪感を覚えなくなってきたけれど、それと同時に上杉くんに踏み込み過ぎたことを気恥ずかしくなる気持ちと、彼の家に誰もいなかったことについて思いを馳せる。
上杉くんのご家族、どこに行ったんだろう。私は同じクラスにいときながら、本当に彼のことをなにも知らないのだと思い知らされた。
知ってどうするんだろうとも思う。彼の夢をかじらなければ、私は真人間に戻れない。でも、彼のことをなにも知らないまま夢をかじるのは、なんだか違う気がする。駄目な気がする。
そう思ったのだ。



