私が幽体離脱してしまうタイミング。
 それは日付変更と同時に、いきなり肉体からズルリと魂だけが引きずり出されてしまう。その間、お母さんに「夢かじってきまーす」と挨拶してから、家を出て飛んでいく。
 ネットで見る限り、夢魔っていうのは定義がまちまちだ。
 お母さんが言っていた通り、サキュバスやインキュバスみたいに、子供をつくるためにわざと相手にとって都合のいい夢を見せる存在もいれば、ナイトメアみたいにひたすら悪い夢を見せる存在もいる。獏は本来、悪夢を食べてしまう生き物らしいけれど、私やお母さんが定義する夢魔に一番近いのは多分獏だろう。
 そんな訳で、私は元の体に戻るために、寝ている人の枕元に立っては、夢をかじって体に戻る生活を送っている。
 人の枕元に立って夢をかじるのは、お母さんから話を聞いたり、自分で試してみていてわかったことがいくつかある。
 ひとつ。夢の味は千差万別。最初に食べた人はグレープフルーツとバジルのサラダみたいな味がしたけれど、ラベンダーとバターのクッキーみたいな味の夢もあれば、バラのジャムみたいな夢もある。オーソドックスなカレーや肉じゃがみたいな味の夢もあるけれど、一度食べれば充分というようなこってり具合で、日参するほどおいしい味ではなかった。
 ひとつ。ひどくおいしそうな夢の匂いっていうのは、夢魔によって違うらしい。お母さん曰くお父さんの夢は「水菜とベーコンのサラダの味」と言っていたけれど、その夢を私は日参で通ってまで食べたいとは思わなかった。
 ひとつ。起きているときに好みの男子の夢が、必ずしも好み夢の味ではない。どうせだからと、クラスの少し格好いい男子や学校の有名人の枕元に立って夢の味見をしてみたものの、どうにも変な味がして、かじったものを飲み込むことすらできず、結局は吐き出してしまって別の夢を食べないと元の体に戻れなかったことがある。
 ひとつ。夢をかじっただけでなく、ひと口でもきちんと咀嚼しなかったら、元の体には戻れない。全然合わない味の夢を食べてしまったら全然飲み込むことができず、帰れなくって困り果て、たまたま近くにいた赤ちゃんの夢を食べて事なきを得たことがある。
 念のため、お母さんに「もし夢をかじることができずに夜が明けてしまったらどうなるの?」と聞いたことがある。するとお母さんは困った顔をしてしまった。

「そんなこと滅多にないし、理想の相手じゃなくってもいいから夢さえかじれば帰れるはずだけれど……日付が変わったら幽体離脱してしまうから、日の出までに肉体に帰れないと、もう二度と帰れなくなるはずだけど」
「それって死んじゃうってこと!?」
「死にはしないけど……もう本当に夢魔としてしか生きることできないって聞いてるわね」

 そんなおそろしいことを言われてしまったら、なにがなんでもお母さんにとってのお父さんみたいな、理想の味の夢の人を見つけ出さないと、最悪人生終わってしまうじゃないか。そんな訳で、私のおいしい夢探しは切羽詰まることとなった。
 自分の中で理想の夢は、ちょっとハーブみたいなスパイシーな匂いがして、フルーティーな味がして、後味すっきり。みたいな味だとだいたいわかった。こってりとした肉の味は、人間の体で食べる上では大歓迎だけれど、夢として食べるとあんまりおいしくない気がする。魚の味の夢も、幽体離脱していたら生臭くて食べられたものじゃなかった。
 私は理想の夢を求めて、今日も幽体離脱をしている。
 ……サキュバスは子供をつくるために、次から次へと男の人を取っ替え引っ替えしていたみたいだけれど、理想の夢の味のために男の子の夢を取っ替え引っ替えしている私は、正直あまり変わらなくないか。そう一瞬でも思った私は、その考えを必死で押し込めていた。
 人間の体は高校生として、未だに恋を知らないのだから清らかなままだ。そもそも夢魔なんだから仕方ないと、言い訳しておくことにした。

****

 その日、私は自分の家のあるマンションから遠く離れた場所を飛んでいた。マンションにいる男性の夢はあらかたかじったけれど、理想の味は見つけられなかったから、もうちょっと違う夢を探したかったんだ。
 幽体離脱していると、暑さも寒さも感じられない。空を飛んでいても、重力も感じなければ風も受けないし、月見をするにはちょうどいいかもと、その日の月を見ていた。今日はブルームーンだと誰かが騒いでいたと思うけれど、今月二度目の月はまんまるで、たしかになにか言って騒ぎたくなる気持ちもわかる気がした。

「月が綺麗……」

 そう何気なく口にしたところで、突然ものすごくいい匂いが漂ってきたことに気付き、私はヒクヒクと鼻を動かした。
 ピリピリとする匂いは胡椒のような。瑞々しい匂いはローズマリーのような。それでいてりんごのような甘い匂いが混ざっている……。
 途端に幽体離脱したときにここまで出るとは思わなかったというくらいに、口の中がよだれでいっぱいになってしまった。
 理想の夢の人だ! その人の夢をかじれば、私は人間に戻れる!
 私は慌ててそちらのほうに飛んでいったとき、ベランダに誰かが出ているのが見えた。既に日付が変わっているというのに珍しい。

「あれ……上杉(うえすぎ)くん?」

 それは全然しゃべったことのないクラスメイトだった。頭がよくって、全国模試で上から数えればいいっていうほう。風の噂で、あちこちの予備校が「うちにタダで入りませんか!?」とスカウトが来ているらしい。予備校の有名大学合格率の底上げ要員として。
 そりゃ頭がいい人だから、ずっと勉強しているんだろうとは予想していたけれど。でも、こんな時間にベランダに出てぼんやりしているとは思わなかった。なによりも。彼からはやっぱり、私の理想の、ものすごくいい匂いが漂っていた。胡椒、ローズマリー、りんご。彼に近付いてみたものの、私のことは見えてないらしい。そりゃ幽体離脱していたら、私のことなんて見えないだろうしなあ。
 早く寝てくれないかなあ。最初は本当にそれだけだったんだけれど。近付いてみて気付いた。

「あれ?」

 上杉くんとは、出席番号も含めて本当に縁がなく、席替えでも一度も近くに座ったことがなかったけれど。通りすがったときはこんなに目が落ちくぼんでいなかった気がする。というか、隈がすごくない? 肌もよく見たらなんかガサガサしている。高校生は放っておくとすぐにニキビができるけれど、彼の肌のガサつき具合はそれとは種類が違う。とにかく血色が悪いんだ。

「……眠いなあ」

 上杉くんのぼんやりとした声が響いた。そこで私はピンと来た。
 彼、もしかして不眠症じゃない? なんでこんな時間にベランダに出てたんだろうと思ったけれど、もしかして、寝たくっても眠れなくって、なんとか自分を寝かしつけるために外に出てたんじゃないの?

「眠いんだったら、一旦ベッドに潜ったほうがいいよ。スマホの電源落としてさあ」

 たまりかねて声をかけてしまった。幽体離脱した人間の声なんて届かないとわかっているけれど。でも。
 上杉くんは驚いたようにこちらに目を見開いたかと思ったら、腰を抜かしてしまった。って、あれ?

「……幽霊?」

 私を見て震えている。それで私は確信した。
 上杉くん、なんでか知らないけど、むっちゃ私のこと見えてる。
 聞いてない。幽体離脱した人間のことを見える人がいるなんて。私は思わず自分自身を抱きしめた。

「キャアアアアア!!」

 叫びたいのは、どちらかというと上杉くんのほうだろうとは、正気の私だったら絶対に思うことだった。