蝉が鳴いている。マンションの壁面に貼り付いた蝉の鳴き声はけたたましく、グワングワンと壁から足から声が反響して、かなり聞いていてしんどい。
 お母さんが直談判したことにより、結局私の上杉家離婚裁判の証言はなかったことにされた。「どうやったの?」と私が怖々聞いたものの、お母さんはにこやかに「いろいろあったのよ」とだけ答えてくれた。
 ちなみにお父さん曰く「お母さん会社で働いてたときは、秘書課で外部とのスケジュール管理してたから、結構いろいろできるよ」と教えてくれた。会社で外交をずっとやっていたんだったら、たしかに灯さんとの件で一歩も引かなかったのも、その頃の経験からなんだろう。
 一方上杉くんはというと、あの家からウィークリーマンションで暮らすことになった。お金は一応上杉家が出してくれるらしいけれど、お母さんと灯さんの「あの家にいてはいけない」「でもある程度目の届く範囲にいないと駄目」「皆で見に行けるように」という協議があったとのこと。
 そりゃそうだ。あれは完全にネグレストだったから。上杉くんに世話焼きの幼馴染である山下さんがいたから誤魔化されていただけで、彼女が近所に住んでいなかったら上杉くんはもっと悲惨なことになっていた。
 そんな訳で、私は山下さんと遠山くんと待ち合わせして、上杉くん家に遊びに行くことにした。遠山くんは元々部活で大会に出ていたらしいけれど、残念ながら早くに負けてしまって地元に帰ってきてしまったらしく、暇らしかった。

「まあよかったよかった。夏輝、あの家にいたら本当に駄目だったからさ。まさか夢野さんの家がなんとかするなんてことは思ってなかったけど」
「いや、本当にたまたま上杉くんと私がよく睡眠不足で昼寝してたのを見つかったから、それを利用しようって人たちがいたから、うちの親がストップかけただけだよ」
「充分だよ。オレたちなんて、どうにかしようとしても手をこまねいて見てるだけでなんの力にもなってやれなかったしなあ。なあ山下さん?」
「うん。なつくん、わたしの目が届かなくなったから、まともに食事摂れなくなってたらどうしよう……ちなみに夢野さんは料理は?」
「私? うーん、山下さんほどはできないよ?」
「わたしも簡単な料理しかできないよぉ。ただなつくん、放っておくとすぐカフェインに頼るから、カフェイン入れる隙をつくらないといけないだけで」
「あーあー……一時期夏輝の不眠症ほんっとうにすごかったもんなあ。もうあそこまでひどいことにはならないとは思うけどさ」

 そうこうしている内に、上杉くんの借りているウィークリーマンションに辿り着いた。最近建てられたばかりらしく、住宅街に埋もれている割には、周りの家よりもひと回り小綺麗な印象だった。
 目的の階に到着し、チャイムを鳴らす。すぐに出てきてくれた。

「いらっしゃい」
「遊びに来たぞー!」
「こんにちは、これお土産」
「ありがとう……」

 男のひとり暮らしはものすごく物がないか、親の目が離れてものすごく汚いかのどちらからしいけれど、上杉くんは前者らしかった。
 神経質なほどに綺麗に片付けられた部屋。家具はウィークリーマンション完備のものらしいけれど、教科書や参考書、パソコンなどは自分の物を持ち込んでいた。どれもこれも神経質な程に片付けられていた。
 私と山下さんが差し入れに持ってきたコンビニの冷麺を皆に配って、ズルズルと食べる。

「冷麺って、こういうの買う以外だと意外と外で食べられないよなあ」
「冷やし中華だったらあるのにね」
「この手のは焼き肉屋に行かないと食べられないらしいけど」
「冷麺だけ食べに焼き肉屋って、結構誘惑多過ぎない?」

 備え付けの空調も行き届いていて、ここだとあれだけ心身を磨り減らしていた蝉の鳴き声も遠かった。

「そういえばさ、夏輝はこれからも受験勉強を?」
「うん。元々法律の勉強したいってのは変わらないから。皆は? 前に夢野さんは聞いたけど」
「オレはまあ、体育大学だなあ。運動嫌いにするような授業ばっかりあるから、運動嫌いになるんじゃなく、普通に運動を楽しいと思わせる授業をしたい」

 なるほど。遠山くんは体育教師になりたいのか。それで山下さんはと。山下さんは「うんうん」と頷いた。

「私も栄養学勉強したいから、そっち方面の大学。調理師免許とって、そっち方面の仕事したいなあ」
「そこは一貫してるよなあ」
「そういえば夢野さんは?」
「私? 語学の勉強。そうだよね、皆いろいろ考えてるよね」

 そう言いながら、冷麺を食べ終えた。ゴミの片付けをし、ペットボトルの麦茶を配っていたところで、一緒に片付けをしていた上杉くんが声をかけてきた。

「夢野さん」
「うん? お茶の数足りなかった?」
「いや合ってる。ありがとう。なんだか……全然直接お礼を言うことができなかったからさ」
「……私、なんにもしてないよ?」
「だって、君がずっと夜中に現れてくれなかったら、こんな風に呼吸しやすい場所に落ち着けることはできなかったからさ」
「いや、だから……その手の話を付けてくれたのはお母さんで、私と上杉くんの関係をつついたのは灯さんで、私は本当に、ただ上杉くんと夜中にお話ししてただけだよ?」
「そのときだけは、独りにならなかったから」

 そういえば、上杉くん前にも言ってたな。
 不眠症で全然眠れないと、世界にひとりぼっちで取り残されたように感じるって。誰もいない中、ひとりで眠れない夜を過ごしてたら、きっとそういう風に感じてしまうんだろうな。
 私はただ、夢魔として彼の夢をかじりたかっただけなのに、まさか人の人生の深くを変えてしまうなんて思いもしなかったのに。

「上杉くん。君の夢をかじらせてよ」
「うん?」
「君が行きたい大学。私の成績だとどうなるかわからないけど……語学の勉強はできると思うんだよ」
「俺が家庭教師になる? 俺、結構厳しいけど」
「アハハハハ……私の成績無茶苦茶上げておきながらなに言いますか。うん、君の勉強の邪魔にならないようにするからさ」

 私たちは夜、ベランダでずっとしゃべっていた。
 今はこうして、彼の家にいてふたりで並んでしゃべっている。
 世の中は理不尽で、私たちを押し流そうとしてくるけれど、せめてこの場所だけは居心地のいい秘密基地でありますようにと、かすかな祈りを込めたんだ。

<了>