期末テストの季節になると、上杉くんとの昼寝もしづらくなる。
空き教室には空調がない。だからそこで昼寝するとなったら、熱中症になってしまうからだ。保険医さんに「うち来ていいから、危ない場所で昼寝しないでね」と言われ、私たちは昼休みになったら保健室に通っていた。
「期末の様子どう?」
「んー……余裕」
「すごいね。私、数学は全然だ。記憶力もそこまでないから、化学全般も駄目だけど」
「えー。覚えるだけなのに?」
「記憶力ある人はいいなと思うよ。意味がわからない言葉って、なかなか覚えられないんだ」
頭のいい人だったら、理論立てて物事を覚えられるんだろうけれど、私には化学記号のなにをどう理論立てればいいのかがわからなかった。国語全般英語全般だったら、この単語を覚えたらこういう意味になるとか、一応筋書き通りに覚えられるのに、理系はなにをどう理屈をつくればいいのかがさっぱりだった。
それに上杉くんは「うーん」と言った。
「なら図書館で勉強する? 教えられるけど」
「え……悪いよ。そもそも上杉くんにだって予定はあるでしょう?」
上杉くんの頭のよさで、タダでいいから通ってと頼まれて、予備校にタダで通っていることは私も知っている。ただでさえ睡眠時間の足りてない彼の時間を奪いたくはなかった。私がぶんぶんと首を振ると、上杉くんは小首を傾げた。
「いや、今日は休みだからかまわないんだけど。そういう夢野さんは? 予定大丈夫?」
「私は……平気だけど」
友達と勉強会を開いても、どうしても脱線して、最終的には学校の先生の悪口大会に変わっていて集中できないってことが一度や二度じゃない。それなら勉強見てくれる人に勉強見てもらったほうがいい。
でも……私もなにがわからないのかがわからないってレベルなんだけれど、上杉くんの時間をもらうのに、こんな体たらくじゃ駄目なんじゃ。
「うーん。俺も彼方とかの勉強見てるし、あんまり気にしなくっても。勉強わからないって人の相手は慣れてるから」
「そ、それはそれですごいね?」
「人のわからない部分を教えることで、こっちも本当に理解できてるかの復習になるし。一緒にやろう」
「う、うん……」
保険医さんに「あんまりしゃべってるようなら、出てきなさいよ」と諭され、私たちは慌てて黙り込んで、それぞれ布団を引き上げた。顔から布団を被りつつ、隣のベッドで寝ている上杉くんについて考える。
好きだと気付いてしまっても、言えないことがどんどん増えてきて、どうすればいいのかがわからないでいる。幽体離脱して家庭の事情を全部知ってるなんて言われたら、きっと上杉くんに幻滅される。私だって家族の喧嘩を吹聴されたら嫌だもの。上杉くんだって家庭の事情を同級生が……それも最近しゃべるようになっただけでなんとも思ってない……知っていると知ったら普通に嫌だろう。
それに。私だって幽体離脱していることなんて、言えやしない。上杉くんはどういう理屈か幽霊のリオに対しては心を開いてくれているし、なんだったら触ろうとしてくるけれど。同級生の夢野凛生については、一線を引いている。つまりは幽霊には心を開いていても、人間には距離を置いているってことだ。
私が幽体離脱して会いに行っている。人間に戻りたいから今までカウンセリングしてきた。彼の家庭の事情を知って、なんとか慰めて彼を寝かせつけようとしているなんて。知ったらきっと上杉くんは、リオに対しても、夢野凛生に対しても、心を閉ざしてしまう。
そう思ったら怖くて、なんにも言えなかった。
蝉の元気はなく、もう夏なのにもかかわらず、蝉の鳴き声は一向に聞こえてこない。
****
校内でも空調が効いている場所は限られている。
図書館と保健室、職員室だ。他は空調が古過ぎていまいち効きがよろしくないし、空き教室はもったいないからとつけられてすらいない。
私と上杉くんが図書館で勉強するとき、空調を求めてやってきて閲覧席でぐーぐー寝ている人、テスト前だからやってきた人、そもそも本を読める場所が限られているからここで読んでいる人。
普段の図書館は知らないけれど、今日に限って言えばかなりごった返していた。それでも閲覧席の一番端っこは空いていたから、そこに座って教科書とノートを広げる。
「それでテスト範囲でわからないところは?」
「ここだけど……」
馬鹿だと思われる。馬鹿だと思われる。私は緊張しながら「なにがわからないのかがもうわからない……」と素直に薄情すると、暗記ベースの部分でも上杉くんは「あー」と言いながら教えてくれた。
「一応化学記号は覚えてるんだ?」
「それはかろうじて」
「ならここの化学記号だけれど」
上杉くんと来たら、一部は中学化学にも通じる部分まで遡って教えてくれ、暗記の仕方とまとめて覚える部分も教えてくれた。もっと全然わからないまま終わると思っていたのに、上杉くんのおかげで、今まで目が滑っていた部分が読めるようになったことにも驚いた。
「すごい……今までもう、なにがなんだかわからなかったのに……」
「でもこれ、ずっと勉強してたら多分理系にも進めると思うけど。それくらい最近は専門範囲に入ってるから」
「そうだったんだ? でも私、理系じゃなくって文系のほうに進もうと思ってた」
「やりたいことある?」
「うーん、インバウンドのこと考えたら、外国の知識はないよりもあったほうがいいかなと思って、外国語をもっと学びたいって思ってるところ。中国語に進むか、ヨーロッパの言語に行くかはまだ考え中なんだけど」
「だとしたら、もしかして夢野さんは英語のほうは得意?」
「得意かどうかはわからないけど……家族で海外ドラマ見るから、英語はリスニングならなんとか。書くとなったらちょっとスペルの暗記がガタガタで厳しいんだけど」
お母さんの趣味で、海外ドラマを流し見する癖はついていた。吹き替え版もあるけれど、お母さんは現場の発音のほうが臨場感があるからと、見ているのは専ら字幕版で、字幕を読みながら聞いていたら、思っているよりも聞こえるようになった。
私の言葉に、上杉くんは目を輝かせていた。
「それすごいよ」
「えー……そうなのかな」
「うん、充分すごい」
「そういう上杉くんは? したいこととかやりたいこととかは」
「法律について勉強したいから。本当は化学は専門外だけど、ある程度勉強しておかないと、法律の読み方を間違えるかもしれないから」
「……もしかして、弁護士に?」
「うん」
どこか遠い目を上杉くんはしていた。
「俺、ちょっと家が面倒臭いことになってるから。そんな面倒臭いことになっているのを誰にも言えないっていうのを、なんとかしたいって思って。公務員だったら、まずは公務員試験を受けないと駄目だけれど、毎年枠がある訳じゃないし。なら弁護士資格を取って、無料相談でもいいから、その子たちに寄り添えないかって思ったんだ」
私はそれにドキリとした。
ずっと勉強している上杉くん。早く大人にならなきゃってだけじゃなく。大学卒業までに司法試験合格となったら、そりゃずっと勉強しないといけない。本当に本当に、ずっと頑張ってたんだ。
「すごいね、上杉くんは。格好いい」
「どうしたの、急に」
「ずっと眠そうだったから、そんなにずっと勉強してたのかなと思ってたけど。そんな先までずっと考えてたなんて。すごい」
素直に思ったことを言ったら、上杉くんはふいっと顔を逸らしてしまった。
「……そこまですごくはないかな」
そう返事した上杉くんの声は、ひどく裏返っていた。
空き教室には空調がない。だからそこで昼寝するとなったら、熱中症になってしまうからだ。保険医さんに「うち来ていいから、危ない場所で昼寝しないでね」と言われ、私たちは昼休みになったら保健室に通っていた。
「期末の様子どう?」
「んー……余裕」
「すごいね。私、数学は全然だ。記憶力もそこまでないから、化学全般も駄目だけど」
「えー。覚えるだけなのに?」
「記憶力ある人はいいなと思うよ。意味がわからない言葉って、なかなか覚えられないんだ」
頭のいい人だったら、理論立てて物事を覚えられるんだろうけれど、私には化学記号のなにをどう理論立てればいいのかがわからなかった。国語全般英語全般だったら、この単語を覚えたらこういう意味になるとか、一応筋書き通りに覚えられるのに、理系はなにをどう理屈をつくればいいのかがさっぱりだった。
それに上杉くんは「うーん」と言った。
「なら図書館で勉強する? 教えられるけど」
「え……悪いよ。そもそも上杉くんにだって予定はあるでしょう?」
上杉くんの頭のよさで、タダでいいから通ってと頼まれて、予備校にタダで通っていることは私も知っている。ただでさえ睡眠時間の足りてない彼の時間を奪いたくはなかった。私がぶんぶんと首を振ると、上杉くんは小首を傾げた。
「いや、今日は休みだからかまわないんだけど。そういう夢野さんは? 予定大丈夫?」
「私は……平気だけど」
友達と勉強会を開いても、どうしても脱線して、最終的には学校の先生の悪口大会に変わっていて集中できないってことが一度や二度じゃない。それなら勉強見てくれる人に勉強見てもらったほうがいい。
でも……私もなにがわからないのかがわからないってレベルなんだけれど、上杉くんの時間をもらうのに、こんな体たらくじゃ駄目なんじゃ。
「うーん。俺も彼方とかの勉強見てるし、あんまり気にしなくっても。勉強わからないって人の相手は慣れてるから」
「そ、それはそれですごいね?」
「人のわからない部分を教えることで、こっちも本当に理解できてるかの復習になるし。一緒にやろう」
「う、うん……」
保険医さんに「あんまりしゃべってるようなら、出てきなさいよ」と諭され、私たちは慌てて黙り込んで、それぞれ布団を引き上げた。顔から布団を被りつつ、隣のベッドで寝ている上杉くんについて考える。
好きだと気付いてしまっても、言えないことがどんどん増えてきて、どうすればいいのかがわからないでいる。幽体離脱して家庭の事情を全部知ってるなんて言われたら、きっと上杉くんに幻滅される。私だって家族の喧嘩を吹聴されたら嫌だもの。上杉くんだって家庭の事情を同級生が……それも最近しゃべるようになっただけでなんとも思ってない……知っていると知ったら普通に嫌だろう。
それに。私だって幽体離脱していることなんて、言えやしない。上杉くんはどういう理屈か幽霊のリオに対しては心を開いてくれているし、なんだったら触ろうとしてくるけれど。同級生の夢野凛生については、一線を引いている。つまりは幽霊には心を開いていても、人間には距離を置いているってことだ。
私が幽体離脱して会いに行っている。人間に戻りたいから今までカウンセリングしてきた。彼の家庭の事情を知って、なんとか慰めて彼を寝かせつけようとしているなんて。知ったらきっと上杉くんは、リオに対しても、夢野凛生に対しても、心を閉ざしてしまう。
そう思ったら怖くて、なんにも言えなかった。
蝉の元気はなく、もう夏なのにもかかわらず、蝉の鳴き声は一向に聞こえてこない。
****
校内でも空調が効いている場所は限られている。
図書館と保健室、職員室だ。他は空調が古過ぎていまいち効きがよろしくないし、空き教室はもったいないからとつけられてすらいない。
私と上杉くんが図書館で勉強するとき、空調を求めてやってきて閲覧席でぐーぐー寝ている人、テスト前だからやってきた人、そもそも本を読める場所が限られているからここで読んでいる人。
普段の図書館は知らないけれど、今日に限って言えばかなりごった返していた。それでも閲覧席の一番端っこは空いていたから、そこに座って教科書とノートを広げる。
「それでテスト範囲でわからないところは?」
「ここだけど……」
馬鹿だと思われる。馬鹿だと思われる。私は緊張しながら「なにがわからないのかがもうわからない……」と素直に薄情すると、暗記ベースの部分でも上杉くんは「あー」と言いながら教えてくれた。
「一応化学記号は覚えてるんだ?」
「それはかろうじて」
「ならここの化学記号だけれど」
上杉くんと来たら、一部は中学化学にも通じる部分まで遡って教えてくれ、暗記の仕方とまとめて覚える部分も教えてくれた。もっと全然わからないまま終わると思っていたのに、上杉くんのおかげで、今まで目が滑っていた部分が読めるようになったことにも驚いた。
「すごい……今までもう、なにがなんだかわからなかったのに……」
「でもこれ、ずっと勉強してたら多分理系にも進めると思うけど。それくらい最近は専門範囲に入ってるから」
「そうだったんだ? でも私、理系じゃなくって文系のほうに進もうと思ってた」
「やりたいことある?」
「うーん、インバウンドのこと考えたら、外国の知識はないよりもあったほうがいいかなと思って、外国語をもっと学びたいって思ってるところ。中国語に進むか、ヨーロッパの言語に行くかはまだ考え中なんだけど」
「だとしたら、もしかして夢野さんは英語のほうは得意?」
「得意かどうかはわからないけど……家族で海外ドラマ見るから、英語はリスニングならなんとか。書くとなったらちょっとスペルの暗記がガタガタで厳しいんだけど」
お母さんの趣味で、海外ドラマを流し見する癖はついていた。吹き替え版もあるけれど、お母さんは現場の発音のほうが臨場感があるからと、見ているのは専ら字幕版で、字幕を読みながら聞いていたら、思っているよりも聞こえるようになった。
私の言葉に、上杉くんは目を輝かせていた。
「それすごいよ」
「えー……そうなのかな」
「うん、充分すごい」
「そういう上杉くんは? したいこととかやりたいこととかは」
「法律について勉強したいから。本当は化学は専門外だけど、ある程度勉強しておかないと、法律の読み方を間違えるかもしれないから」
「……もしかして、弁護士に?」
「うん」
どこか遠い目を上杉くんはしていた。
「俺、ちょっと家が面倒臭いことになってるから。そんな面倒臭いことになっているのを誰にも言えないっていうのを、なんとかしたいって思って。公務員だったら、まずは公務員試験を受けないと駄目だけれど、毎年枠がある訳じゃないし。なら弁護士資格を取って、無料相談でもいいから、その子たちに寄り添えないかって思ったんだ」
私はそれにドキリとした。
ずっと勉強している上杉くん。早く大人にならなきゃってだけじゃなく。大学卒業までに司法試験合格となったら、そりゃずっと勉強しないといけない。本当に本当に、ずっと頑張ってたんだ。
「すごいね、上杉くんは。格好いい」
「どうしたの、急に」
「ずっと眠そうだったから、そんなにずっと勉強してたのかなと思ってたけど。そんな先までずっと考えてたなんて。すごい」
素直に思ったことを言ったら、上杉くんはふいっと顔を逸らしてしまった。
「……そこまですごくはないかな」
そう返事した上杉くんの声は、ひどく裏返っていた。



