君の夢をかじらせて

 私が悶々としている間に、季節は春から夏への移り変わった。
 夜明けの時間もだんだんと早まり、夜の時間が短くなる。そのおかげで汗ばむだけでは全く済まない夜に備えて、冷房が緩く付けられるようになっていた。
 私が上杉くんの家に遊びに行くときも、最近は上杉くんがシャワーを浴びた直後に鉢合うことが増えていった。
 髪が濡れて、元々真っ直ぐな彼の髪が形のいい頭のラインに沿ってペタンと潰れているのを見るのは趣がある。毛根の心配はするものの、前に会ったことのある上杉くんのお父さんの髪を見る限りはそこまで心配するほどのことでもないらしい。

「暑かった?」
「うん。リオは?」
「この姿だとあんまり温度は感じないから、こういうときだけは楽かな」
「そっかあ」

 ふたり揃って締まらない会話を続ける。
 季節が変わって、なんとか頑張って上杉くんを子守歌で寝かしつけてはいるものの、彼の不眠症が多少なりともマシになったのかがわからないでいた。

「そっかあ。最近は八月後半にならないと蝉だって鳴く元気はないし、今は温度を感じないほうが幸せかもしれないな」
「どうだろうねえ」

 季節が変わったせいか、それとも幽体離脱しているせいか。この季節になると、私以外にもふよふよと浮いているのを見るようになったからげんなりしていた。
 フィクションには霊媒師なりお祓い祈祷なりが力を持つらしいけれど、本当にいるのかどうかはお母さんにも聞いていない。ましてや私は夢魔だから、もしその手の人に見つかったら最後、お祓いされてしまうかもしれない。そうなる前に、なんとか元の体に戻りたいと思うのはわがままなのかな。
 私が微妙な顔をしているのに気付いたのか、上杉くんは「リオ?」と心配そうな顔を向けられてしまった。

「ううん。この季節になったら、私以外にもふよふよ浮いているようになるから、それを見たら君がどう思うのかなと思っただけ」
「それはそうだな……変な気分になるかも」
「変な気分になるんだ」
「うん。最近は前よりもちょっとは眠れるようになって頭はすっきりしてきたから。すっきりしてきたら、変な気を発さなくなったのか、前ほど変な霊を見ることがなくなったんだよな。今はもう、リオくらいしか見えない」
「……そうなんだ」

 そりゃ一時期は土色の肌をしていたんだから、あんな顔していたらなんだか悪い気が出て幽霊だって目を付けてしまうのかも。今はそこまで悪い顔色してないから、だいぶ睡眠不足は解消されたんだろう。
 もっとも。一時までに家に帰らないといけない私からしてみると、それまでに寝てほしいのに未だに一時だとなかなか寝付けない上杉くんは、何度「早く寝て」と言っても眠ってくれる気配はなくて、私は未だに彼の夢にありつくことができずにいた。
 最初の頃はあれだけおいしそうと思っていた匂いも、今はすっかり慣れてしまい、前ほど口の中がよだれで溢れることはなくなった。慣れってどれだけ好物だって思うものでも、日常にしてしまうことを言うんだろう。
 でも。私は今まで、他の人の夢はだんだん生臭く感じておいしいと思えなくなっていたけれど、上杉くんの夢は未だにいい匂いのままで、拒否反応が全く起きないんだ。多分これはいいことなんじゃないだろうか。私にもよくわからないけど。
 それはそうと。上杉くんの家の事情は私が口を挟んでいいのかわからないまま、全くなにも進んでいない。強いて言うならば、灯さんが上杉くんの家に我が物顔でいることが増えただけで。

「そういえばさ、あの人最近ずっと見るようになったけど」
「あの人って?」
「ええっと……灯さんとやら」
「あー……」

 上杉くんは複雑そうな顔をした。

「あの人、子供つくれないんだってさ」
「うん?」
「そういう体質の人。子供産むのは無理って医者に言われたらしくって。それで父さんが離婚しても俺のことは引き取りたいらしい。そのことで父さんと温度差がある」

 身勝手な、と思う。子供がつくれないなら養子縁組って手段もあるのに、既に育って人格もある上杉くんを自分の子供にしたいって、身勝手にも程がある。なによりも上杉くんのご両親は、彼が成人したと同時に手放す気だから。
 家庭環境をぐちゃぐちゃにした元凶に家族になりましょうと言われても、それは嬉しいことなんだろうか。

「上杉くん的にはどうなの? 灯さんのこと、お母さんと呼べるの?」
「……母さんだって、上等な人間じゃない」
「……うん」

 残念ながら未だに会ったことのない人については、なんのコメントもできない。でも私が春先からずっと上杉くんの家に通っている手前、その間一度も会わない、離婚することしか考えてない人について、悪い印象は持ってもいい印象は持ちようがない。
 上杉くんは続けた。

「でも、灯さんを可哀想な人だなとは思うけど、あの人を母親のようには思えない……うちの家、ぐちゃぐちゃな中、なにかに付けて食事に誘われたり、家族旅行に行こうと言われたりしてるけど、断ってる。父さんも嫌がっているのがうっすらわかるし」
「……そう。なんというかさ、これ間違ってると思うよ」

 うちの家は、多分世間一般でいう平均的な家庭で、お金持ちではないけれど幸せな方だとは思う。世の中、上を見たらキリがないし、下を見てもキリがない。私の定規で上杉くんの家を測っていいものかは躊躇うけれど、ひとつだけ絶対にやっちゃいけないことがあるとは思っている。
 嫌がっていることを、美談にすり替えてしまうことだけは、たとえ家族だろうが絶対にしちゃいけないことだと思う。

「君の気持ちを誰ひとりとして考えてないのは、やっぱり間違ってると思う。家族だからって言っていいことと悪いことはあるし、その家族だってやっぱり個人と個人で、考えていることが全員バラバラなはずなんだよ。どうして自分の思い通りに動くって思えるんだろう。勝手に家族の解散宣言しておいて、誰ひとりとして君のフォローをしないのは、いくらなんでも勝手過ぎるし、元凶が家族にしたがっているのは、やっぱり変だよ」
「……なんでだろうなあ、リオ」

 ふいに上杉くんは私のほうに手を伸ばした。当然ながら手はすかる。幽体離脱状態の私のことを、上杉くんは霊感があってもしゃべること以外はなにもできないし、当然ながら触ることができない。
 ただ彼は私の頬に触れたがっているのだけはわかった。
 幽霊だから、なにをしてもいいって思ったのかなと、少しだけ悲しくなった。

「お前だけなんだよな、俺のこと真剣に考えてくれてるの。最初はなんかお節介な幽霊が来るようになったなあくらいだったのにさ。夜眠れないし、眠れないからって他にすることもないし。これで少しグレるだけの要領があったらよかったのに、それもできないし。勉強しかできないし」
「勉強できたのなら、それは充分立派だと思うよ」
「でも、自分の気持ちに折り合いが付けられなかった……そうだよなあ、家族だって所詮は他人なんだって、今少しポロポロと目から鱗が落ちたところ。ありがとうな」

 そう言われた瞬間。私の今はないはずの心臓がギュン。と音を立てるのを感じた。
 日本史を少しだけ囓っていたら、平安時代には恋人の元に夜な夜な通うのが通例だったという話を聞く。毎晩毎晩、彼の夢をかじりたい一心で通っていた癖に、気付きもしなかった。
 私、上杉くんのことが好きだったんだ。ただ心配していただけだったはずなのに。ただ私が人間に戻りたかっただけだったはずなのに。
 それが私にとって、衝撃的なことだった。