私は今日いつもより早く学校に行った。教室にはまだ誰もいない。月曜日の朝は一限から英語コミュニケーションで憂鬱なのだが、いつもより足取りは重かった。
「男バスの朝練に遭遇しませんように」
私は祈りながら校門の敷居を跨いだ。先輩や七海の顔を見たくないのと、亀井戸くんには時間がある時にきちんとお礼を伝えたかった。
「怖い怖い怖い怖い」
体育館の付近からは人の気配はしない。昇降口を小走りで突破した後階段を駆け上がって席に座った。
 祈りは届きまだ誰にも人1人見かけていない。ガタンッと大きな音が鳴って、驚いて振り返る時までは。
「亀井戸くん!?!?」
会いたいけど会いたくなかった人は練習服の上から有名なバスケットボールチームのロゴが入ったパーカーを着て現れた。教室の扉に腕をぶつけたのか扉に向かって小さく舌打ちをしていた。
「葵衣…来なきゃ良かったのに。」
反応は思っているものとは違う。それでも顔色1つ変えずに返事をした。
「今日は数学の提出物出さなきゃだからこんなくらいじゃ休めないよ。それに金曜日はありがとう。もう吹っ切れちゃった。」
私だって休みたかった。ずっと泣いていたかった。それじゃあ負けた気がして悔しくてしょうがないから重い足取りで学校に来た。
「じゃあその髪は…」
「切った。もう誰かの好みに合わせる必要ないから。」
黒髪ストレートロングが好きだと言った先輩のために無理矢理伸ばし続けて維持してきた髪が鬱陶しくて苦しくて仕方がなかった。
「私はミディアムで巻いてあるフォルムが好きなの。」
七海の綺麗な髪に対抗しようなんて微塵も思えなかった。未練を断ち切るためにも担当の美容師さんにお願いして自ら鋏を入れさせてもらった。少しだけ眉尻を下げて申し訳なさそうにする貴方の前で、小さく笑ってみせた。
「亀井戸くんも前の方が好き?」
「ううん。今の方が可愛い。似合ってるよ。」
そう言って貰えて良かった。1つ大きな山場を越えられたような気がする。変わろうとする私をきっと晃太なら受け入れてくれるだろうと期待していた。
「葵衣あのさ、あ、間違えた。古平さん提案なんだけど…」
「え? 葵衣でいいよ。晃太って呼ぶから。」
「あ、うん。」
歯切れの悪い返事に思わず首を傾げる。まだ眠気が取れていないだけだと信じて然程心配はしないことにする。
「晃太私に提案ってなあに?」
晃太ははっとしてキョロキョロしてから少し屈んで耳打ちをしてきた。
「俺も晃太って呼んでってお願いしようと思ってたんだ。亀井戸って長いし、男バスは全員晃太って呼ぶからそっちの方が反応しやすい。」
「奇遇だね。晃太って呼ぶよ。」
「んじゃ、朝練遅れるから行くね。」
左手で大事そうにバッシュを抱えて、右手を私の肩に置いた。
「引き留めてごめんね。朝練頑張って。」
「ありがとう。頑張ってくるよ。」
貴方の大きな背中がどんどん小さくなっていく。その影が見えなくなるまで目が離せなかった。触れられた肩を見ると何故か笑みがこぼれる。貴方は私の友達のはずなのに。
 誰も居ない教室に1人佇む。窓から朝日が貴方の机に優しく差し込む。そっと貴方の机に手を置いた。
 窓際の貴方の席にはいつもガラの悪そうな男の子達が集まって放課後に先生に見つからないようにギャンブルが行われている。貴方も部活がない日にギャンブルに参加しては涼し気な顔をして勝利していく。バスケの練習で培ってきたポーカーフェイスで男の子たちに一切の隙を与えないのだと個人的に思う。
「翔くん練習頑張ってね。」
「うん。花奏も朝早いのに一緒に来てくれてありがとう。」
あれは見覚えのあるカップルではないか。女の子の方がこちらに気が付くと手を振りながら教室のドアを勢いよく開けた。
「葵衣ちゃんおはよう」
「花奏おはよう!」
ローツインテールの愛らしいこの友達は隣の2組で深草花奏という。3組の男バス部員である黒越翔とお付き合いしていて学年でも知らない人は居ないくらい有名で素敵なカップルだ。男バスに関わるようになってから花奏との交友関係が出来て、今では親友と言っても過言では無い。
 幼稚園の先生になりたい花奏は「ピアノが弾けるようになりたい!」と言い、よくうちで練習して、私は花奏の家でお菓子作りやメイクを教えてもらったりでお互いにどんどんと成りたい自分に近付いていけることが幸せだ。
「月曜日に朝早いの珍しいね。」
「うん。晃太待ってたの。」
「亀井戸くん? 凄く大切な用事あったんだね。済んだならそれでいいんじゃない?」
そう言うと更に顔が笑顔になる。私までついつい顔が綻んでしまった。貴方の机に手を置いているお陰か陽の光のお陰か分からないが憂鬱な朝が何故か心地よい。
「あ、来週末の練習試合って観戦する? 私パウンドケーキ焼いて持っていくんだ。」
とてもじゃないけど今すぐ先輩を見れるほど心に余裕はない。いつもなら格好いい先輩がどうしても醜いものに見えて致し方ない。
「ううん。来週末は元から用事が入ってて行けないんだ。先輩にお断りの連絡しておかなきゃ。まだしてないし早くやろーっと。思い出させてくれてありがとう。」
心が辛かった。まだ心のどこかで先輩が好きな自分が情けなく思える。お金も時間も心も体も全部全部先輩に捧げて、挙句の果てに「本命じゃない」と吐き捨てられる始末。忘れてしまいたいのに忘れられない。
 首元でネックレスが光る。先輩との初めてのデートで貰ったものだ。「俺が居なくてもずっと傍に居るからね」なんて言われながら首にかけてもらった。寝る時以外はずっと付いている。今はこのネックレスが貴方と私を繋ぎ止める首輪にしか見えない。