「うん、ばっちり。」
鏡の前で今日のメイクを確認した。いつもより綺麗に出来たと思う。
「結華ー、支度出来たー?」
ひょこっと、榊さん...龍さんが部屋に顔を出した。
「出来た。見て、今日のメイク!上手に出来たと思いません!?」
「お、ほんとだ。可愛い。服にも合ってるよ。」
「ですよね!?ありがとうございます!」
嬉しくて心からの笑みがこぼれた。そうしたら龍さんに優しく頭を撫でられた。
「髪崩れちゃう。」
「大丈夫、崩れたら直してあげるから。」
「ならいっか!」
思う存分撫でてもらい、崩れた箇所を直してもらった。
「はい、出来た。」
「待って、私がやったのと全然違うんですけど!?こっちのが可愛い!!」
私が最初にやっていたのは両側をただ三つ編みして、ヘアピンで留めていただけだ。けれど龍さんがやってくれたのは両側を編み込みして、どこから持ってきたのかコテで毛先の方を巻いてくれた。こっちの方が遥かに可愛いし上品に見える。
「結華、本当は編み込みしたかったんでしょ?」
「なぜそれを...?」
「だって準備してる姿隠れて見てたし。僕がやってあげるのは簡単だけど、それだと結華の気が済まないだろうなって。だからきっかけを作ってやってあげようと思って頭撫でてた。」
「じゃあ頭撫でたのは私が可愛いからって訳じゃないんですね...」
「いや?可愛いなと思って撫でてたよ。結華はどこの誰よりも可愛いよ。」
「へへ、ありがとうございます。」
メンヘラみたいなやりとりをしたが、本気で言っている訳ではない。それを龍さんもわかっているから軽く返す。長年付き合っていると相手がどういう反応をして、どう返してくるのかわかってくるから言えるのだ。
「じゃあそろそろ行こっか。」
「はーい」
新しく買ったブーツをおろして外に出た。少し踵が高いブーツだから歩くのが怖かったが、龍さんが腕を出してくれた。
「掴まりな。歩くの怖いでしょ。」
「めっちゃ怖い。慣れるまで掴まりますね。」
「そうして。結華は転ぶとシャレになんないから。」
「確かに。」
今年の夏、今みたいに新しい靴を履いて龍さんと出かけた。それも踵がある靴で、なおかつヒールが細かったから盛大に転んでしまった。その拍子に足を挫いてしまい、しばらくバイトを休む羽目になった。
それから龍さんに新しい靴は買ってもいいが、自分が居る時以外履いてはダメだと言われている。だから今回もかなり前に買っていた靴をやっと履けたのだ。
「あ、龍さんに見せなきゃいけない物あったんだ。」
「なに?」
「これです。」
スマホのメッセージアプリを開き龍さんに見せた。送り主は母親からだ。
【久しぶり。お元気ですか?こっちはなんにも元気ではないです。】
【あんたが家から出て行ったせいで、私が家の事全部負担しなきゃいけなくなったじゃないのよ。育ててやった恩をあだで返しやがって。他人に家庭の事全部話しやがって。お前が幸せになるなんて許せない。いつかその幸せを壊しにいくから。】
「はぁ...ほんと、何言ってもわからない人なんだね。」
車に乗り込むと龍さんはため息をついた。私もシートベルトを付けながらため息をついた。
「これ送られてきた時、本当にびっくりしました。だってあんなに龍さんが私と関わるなって言ってくれたんですよ?それをなにもわかってない。自分の親ですけど親って思いたくないですもん。同じ血が流れてるだけで吐き気がする。」
「このまま無視でいいと思うけど、もしまたなにか送られてきたり、接触して来たりしたら僕が仕事に行ってても教えて。仕事放ってすぐ結華の所に行くから。」
運転しながら話す龍さんはいつものにこにこ笑顔とは違い、真面目な顔をしているからキュンとしてしまう。
「わかりましたけど、仕事はしっかりしてくださいね?」
「仕事よりも結華の方が大事だよ。結華ってほんと、自分の事は後回しだよね。いつになったら自分が大事ってわかってくれるのかな。」
「はは、多分、自分が死ぬまでわからないと思います。」
「んー、困った子だなぁ。」
二人で笑いながら、私は今に至るまでの出来事を思い返した。
実は私にはあの日...龍さんの家に住むと決めてからの記憶があまりない。その事を龍さんに話したら病院に連れて行かれた。病院では、ストレスでそこの記憶だけすっぽりなくなってしまったのだろうと言われた。
記憶を戻すような治療もあったのだが、龍さんはその頃の事を覚えているから私にあんな辛い出来事、思い出させたくないと言って記憶を戻す治療を拒んだ。私自身も思い出さなくても生活に支障はないから、記憶を戻す治療はしない事を決めた。
でも覚えている所もある。朝、お互いが起きて電源を落としていたスマホを起動させると、メッセージやら着信やらが千件以上きていた。ここまでくるともうストーカーだ。
電源をつけてすぐ、GPSで場所がわかったのか電話も掛かってきた。出ようか迷っていると龍さんが出てくれた。けれど内容は本当に思い出せない。相当酷い言葉を並べられた記憶だけはある。
その後は龍さんが私の家に行ってくれて話をつけてくれたみたいだ。みたいだと言うのは私は覚えていないし、龍さんいわく、龍さん一人で私の家に行って話をつけてくれたみたいだから知らなくて当然だ。
それから三ヶ月後、私は龍さんの家に正式に住める事になった。学校には親戚の家に行く事になったと濁した言い方をして、バイト先のカフェには全ての事情を話した。
もし私の家族を名乗る人が電話をしてきても教えない、もし私がお店に居る日に家族の誰かしらが来たら私を前には出さない。その二つを徹底すると約束してくれた。
店長自身、私の家庭環境が複雑なのは水樹さんから少し聞いて知ってたみたいだ。けれどここまで酷いとは思っていなかったらしい。すぐ気付けなくてごめんねと、謝罪までされた。謝るのはむしろ私の方だ。
私は龍さんちに住むのが正式に決まるまで、ろくにバイトに出勤出来ていなかった。せっかく誘ってくれた水樹さんにも、雇ってくれた店長にも申し訳なくて自分を責めていた。それを救ってくれたのも龍さんだった。
「店長も坂本さんも、結華の事を大事に想ってるからそこまでしてくれるんだよ。だから自分を責めないで。責めたら逆に結華を想ってくれてる二人に失礼だよ。」
龍さんにそう言われて納得してからは自分を責めなくなった。その代わり、二人に感謝しながら過ごすようにした。
そうだ、水樹さんには私が自殺未遂をした事を話したのだ。あまりにもバイトに出ない私を心配して、何かあったのか聞いてくれたのだ。嘘つくより本当の事を話した方が楽だし、別に隠す事でもないから話した。
「もうっ、結華ちゃんの馬鹿!!なんでそんなになるまで誰にも相談しなかったの!?うち、いつでも話聞いたよ?」
話を聞き終えた水樹さんの目には涙が溜まっていた。その涙を見て、私が死んだら悲しんでくれる人って居るんだなぁと呑気な事を考えた。
「でも毎日暗い話をされるのは水樹さんが辛いかなって思って。だったら自分一人で抱えて消えた方がいいじゃん。」
「うちは結華ちゃんが居なくなる事の方が辛いから。勝手に決めつけないで。」
本気で怒られて、この人とお友達になれて良かったなと心から思った。
「うん、ごめんね。もし次そういう事があったらすぐ話すから。」
「ほんとに話してよね?うちとか榊さんには遠慮しなくていいからね?あ、結華ちゃんさえ良ければりこちーもだけど。」
「ありがとう。」
私は家族以外の人間には恵まれたみたいだ。それすらも恵まれない人は世の中、沢山居るからそれと比べると私はましな方だ。
と、危ない危ない。他人と自分を比べないって龍さんと約束したんだった。言葉に出してなくて良かった。出してたらまた龍さんに怒られる所だった。
「そういえば結華、ペアリング本当にそれで良かったの?」
過去の事を思い返していると、信号待ちをしていた龍さんが私の左手薬指を指しながら聞いてきた。そこにはシルバーのシンプルな指輪がついている。
「何度も言いますけど、これがいいんです。もしかして龍さんは他のデザインの方が良かったんですか?そうだとしたら申し訳ないです。」
「いや、僕は全然いいんだけど、結華に似合う色もっとあったのに本当に良かったのかなって。」
「いいんです。このリングを見た瞬間、これだって思ったんですから。」
「それならいいんだ。でももし、万が一違う色とか違う形のが欲しくなったら言ってね。」
「欲しくなる事ないと思いますけど、わかりました!」
元気よく答えると、龍さんは目を細めて再び車を走らせた。ハンドルを握っている左手の薬指には、私と同じ形の指輪がついている。
私と龍さんが一緒に住み始めてから四年が経った。その内の二年はカップルとして過ごしている。
一緒に住み始めた頃は龍さんの事、そういう目で見ていなかった。ただの面倒見のいいお兄さんだなと思っていたぐらいだった。
けれど一緒に暮らしていく内に私の悪い癖を怒ってくれたり、頑張った事を褒めてくれたり。人に大事にされる事がなかった私にとってそれらの行為は恋に落ちる。
「結華、僕と付き合う気ない?」
自分の恋心を自覚した直後、龍さんに言われた言葉だ。一緒に住み始めてちょうど二年が経った頃だった。
「付き合いたいです...!私も榊さんの事好きだと、最近気付いたんです!」
「そうなの?なら付き合おっか。」
と、そんな軽い感じで私達は交際を始めた。
交際を始めたからと言ってなにかが特別変わる訳ではなかった。元々一緒に住んでいたし、龍さんは最初から優しかった。
強いて言えば私が榊さん呼びから龍さん呼びにしたぐらいだ。龍さん自身、名字で呼ばれるのが嫌いみたいだから私が榊さん呼びから龍さん呼びにしたら喜んでくれた。
「ねぇ、龍さんってなんで私を好きになったの?あといつから好きだったの?」
付き合った所まで思い出してふと、気になったから聞いてみた。龍さんはミラー越しに私をちらりと見ると笑った。
「付き合って二年経つけど、聞くの今なの?もっと早く気にならなかった?」
「不思議と気にならなかったんですよね。でも今付き合った時の事思い出してて、それでふとそういえば龍さんって私のどこが好きになったんだろうって。」
「僕、結華が塾に通ってる時から好きだったんだよ。」
「ふーん、って、え!?」
サラリと言われて流す所だった。私が塾に通っていた時って事は、かなりの年月片想いをしていた事になる。片想いしている相手と二年間一緒に住んでいて、よく手を出さなかったものだ。
「その時の私になんの魅力を感じたんですか?だって弟が私の悪口を言ってたから見に行こうってなったんですよね?」
私の第一印象は最悪なやつだったと思う。それなのに何故好きになったのか。好きになれたのか。
「結華を知るきっかけは確かにそうだったよ。んー、魅力って聞かれると難しいなぁ...強いて言えば、一目惚れってやつかな。」
「そんな一目惚れされる程、魅力なんてないと思うんだけど。」
「結華ってほんと、恋愛の事になると鈍感だよね。」
「え、なに、私今馬鹿にされてる?喧嘩なら買いますよ。」
「してないしてない。喧嘩も買わないで。そもそも売ってないし。人の顔色を見る力はかなりあるのに、恋愛の事になると鈍感になるよねって話。」
「自分なんかに好意を向ける人なんて居ないと思ってるからですかね。あ、だからって龍さんの想いが嘘だって思ってる訳じゃないですからね!?」
「わかってるよ。でもさ、結華はもっと人に対して危機感持って過ごした方がいいよ。」
「自分では危機感持って過ごしてると思うんですけど。」
「え、それで?」
いつも優しい龍さんが素でそう言ってくるって事は、私は本当に人に対して危機感を持っていないのだろう。
「逆に私のどこが危機感ないって言うんですか!?」
「まず、僕んちに住むのを即答した所。僕から提案しといてだけど、異性の家に住むのは危ない事なんだよ?」
「それは知ってますよ。あの時、仮に龍さんに襲われたとしてもあの家には戻りたくなかったんです。それと龍さんはそういう事しないって思ってたんで。」
「ほんと、そういう所だよ。結華って人を信用してるのかしてないのかよくわかんない。」
「私もわかんないですよ。でも絶対って言い切れる事は、龍さんの事は信用してます。あ、もちろん水樹さんもですよ。」
「結華からしたらそうなのかもしれないけど、他の人から見たらそう思わないから気を付けてねって話。」
「努力します...」
「わかればよろしい。あ、ほら見えてきたよ。」
龍さんが指さした先には、空の星が煌めいた海が広がっていた。
「うわぁ...綺麗...」
「ほんと綺麗だよね。昼間に来るのとは別の綺麗さ。」
「私は夜の海派です。身投げしてもバレなさそうだし。」
「結華が言うとシャレになんないからやめて。」
「はーい」
パーキングに車を停め外に出ると、かなり寒かった。
「寒い!」
「真冬に海来てるんだもん。寒いに決まってるよ。ちゃんとコート着て。」
かけていなかったコートのボタンをかけられた。
「へへ、ありがとうございます。」
「もう二十歳越えてるんだから自分でやりなさい。」
「二十歳越えてても精神年齢は小学生ぐらいで止まってるから無理。」
「無理じゃないです。もし僕が何かで居なくなったらどうやって生きていくの?」
「そしたら後を追うんで大丈夫です!」
「いやいや、そこは生きててよ。」
「無理です。私、龍さんが居たからここまで生きてこれたんですよ?そうじゃなかったらあの日、この海で誰にも行方がわからないまま死んでたと思います。」
今居る海は、四年前私が自殺未遂した海だ。
私だけで海に行く事を今日まで禁止されていた。まあ、一回自殺未遂の前科があるから仕方ないと言えば仕方ない。けれどどうしても海に行きたいと龍さんに駄々をこねたら、僕がついて行くのでも良ければと許可を貰ったのだ。
「莉子が結華の様子がおかしいって言ってくれたからだよ。」
「ほんとにそうですよね。莉子さんも私の命の恩人です。」
橋本さん...莉子さんともあの後仲良くなって、お互いが下の名前で呼び合う関係にまでなった。
私と龍さんが付き合った事を報告すると、泣いて喜んでくれた。どうやら二人は幼なじみだったみたいだ。
莉子さんは他人に興味のない龍さんの事を心配していて、家庭環境がやばい私の事も心配していたと教えてくれた。
莉子さんいわく、私と接している時の龍さんは心から笑っているし、心配しているのが見ていて伝わったからぜひお付き合いをしてほしいと、水樹さんと話していたみたいだ。
水樹さんにも私達が付き合った事を話すと、莉子さんと同じ反応をした。私が幸せに近付いてて良かったとまで言ってくれた。そこでやっと、私は今幸せなんだと実感した。
親の元で暮らしている時は幸せなんて私には存在しないし、これからも存在しないと思っていた。けれど人生ってなにが起こるかわからないものだ。
「ほんとにそうだよ。莉子が教えてくれなかったら僕あの日、そのまま家に帰るつもりだったし。」
「あ、それも聞きたかったんです。どうして私が海に居るってわかったんですか?」
海がちょうど綺麗に見える所に段差があり、二人並んで腰をおろした。風がかなり冷たくて寒かったが、龍さんとくっついて座ったおかげで温かくなってきた。
「海に居るってわかってた訳じゃないよ。莉子から連絡をもらって、結華を探しながら車を走らせてたら海に向かう結華が見えたんだ。」
もし莉子さんが龍さんに連絡するのが遅かったら。龍さんが車に乗っていなかったら。全部タイミングがズレていたら。私は今、ここに居ない。
「そんな偶然があるんですね。」
「結華はそう思わないかもしれないけど、僕は神様がそうしてくれたんじゃないかなって思うよ。」
「え、そういうの信じるタイプ?」
「時と場合による。結華の事に関しては僕、結構神様を信じてるよ。」
「そうなんだ...」
龍さんはてっきり、神様なんて居ない、自分でどうにかしろと考える人だと思っていた。四年一緒に居て初めての発見だ。
「だってさ、僕が結華を見つけて、もう会えないと思ってたらカフェで再会して。色々あったけど今、付き合えてるんだよ?神様が出会わせてくれたと言っても過言じゃないと思う。」
たった数ヶ月塾に通っただけの私を龍さんは見つけ、カフェで再会した。色々あったけど付き合えて、今私はそれなりに幸せだ。
「言われてみれば確かに。」
神様なんてものを信じた訳ではない。もし居るのだったらどうして私をあの親の元に送ったのだと問い詰めてやりたい。
でも龍さんの言う通り、神様が私達を出会わせてくれたと思う部分もある。だってこんな偶然、世界中探しても中々お目にかかれない。そう考えると神様も居るのかなと思う。だからと言ってあの親の元に送ったのを許した訳ではないが。
「僕達は出会うべくして出会ったんだ。だから結華、僕と結婚してくれませんか?」
漫画とかで見るような指輪を差し出された。龍さんらしいなと思いながら指輪を受け取った。
「私でよければ、ぜひ。」
「結華がいいんだ。結華しか考えられない。」
「私も龍さんしか考えられないですよ。これからも末永くよろしくお願いします。」
「うん、よろしく。」
私達はどちらからでもなくキスをした。付き合ってから初めてしたキスだった。
何回も言うが、龍さんに出会えなかったら私は今、ここに居ない。
カフェで働かないかと誘ってくれた水樹さんも居なかったら龍さんと出会えなかった。
莉子さんがあの日、私の様子がおかしいと気付いて龍さんに連絡してくれたから今の私が居る。
全ての人に感謝をして、私は今日も明日も、その先も生きていく。
鏡の前で今日のメイクを確認した。いつもより綺麗に出来たと思う。
「結華ー、支度出来たー?」
ひょこっと、榊さん...龍さんが部屋に顔を出した。
「出来た。見て、今日のメイク!上手に出来たと思いません!?」
「お、ほんとだ。可愛い。服にも合ってるよ。」
「ですよね!?ありがとうございます!」
嬉しくて心からの笑みがこぼれた。そうしたら龍さんに優しく頭を撫でられた。
「髪崩れちゃう。」
「大丈夫、崩れたら直してあげるから。」
「ならいっか!」
思う存分撫でてもらい、崩れた箇所を直してもらった。
「はい、出来た。」
「待って、私がやったのと全然違うんですけど!?こっちのが可愛い!!」
私が最初にやっていたのは両側をただ三つ編みして、ヘアピンで留めていただけだ。けれど龍さんがやってくれたのは両側を編み込みして、どこから持ってきたのかコテで毛先の方を巻いてくれた。こっちの方が遥かに可愛いし上品に見える。
「結華、本当は編み込みしたかったんでしょ?」
「なぜそれを...?」
「だって準備してる姿隠れて見てたし。僕がやってあげるのは簡単だけど、それだと結華の気が済まないだろうなって。だからきっかけを作ってやってあげようと思って頭撫でてた。」
「じゃあ頭撫でたのは私が可愛いからって訳じゃないんですね...」
「いや?可愛いなと思って撫でてたよ。結華はどこの誰よりも可愛いよ。」
「へへ、ありがとうございます。」
メンヘラみたいなやりとりをしたが、本気で言っている訳ではない。それを龍さんもわかっているから軽く返す。長年付き合っていると相手がどういう反応をして、どう返してくるのかわかってくるから言えるのだ。
「じゃあそろそろ行こっか。」
「はーい」
新しく買ったブーツをおろして外に出た。少し踵が高いブーツだから歩くのが怖かったが、龍さんが腕を出してくれた。
「掴まりな。歩くの怖いでしょ。」
「めっちゃ怖い。慣れるまで掴まりますね。」
「そうして。結華は転ぶとシャレになんないから。」
「確かに。」
今年の夏、今みたいに新しい靴を履いて龍さんと出かけた。それも踵がある靴で、なおかつヒールが細かったから盛大に転んでしまった。その拍子に足を挫いてしまい、しばらくバイトを休む羽目になった。
それから龍さんに新しい靴は買ってもいいが、自分が居る時以外履いてはダメだと言われている。だから今回もかなり前に買っていた靴をやっと履けたのだ。
「あ、龍さんに見せなきゃいけない物あったんだ。」
「なに?」
「これです。」
スマホのメッセージアプリを開き龍さんに見せた。送り主は母親からだ。
【久しぶり。お元気ですか?こっちはなんにも元気ではないです。】
【あんたが家から出て行ったせいで、私が家の事全部負担しなきゃいけなくなったじゃないのよ。育ててやった恩をあだで返しやがって。他人に家庭の事全部話しやがって。お前が幸せになるなんて許せない。いつかその幸せを壊しにいくから。】
「はぁ...ほんと、何言ってもわからない人なんだね。」
車に乗り込むと龍さんはため息をついた。私もシートベルトを付けながらため息をついた。
「これ送られてきた時、本当にびっくりしました。だってあんなに龍さんが私と関わるなって言ってくれたんですよ?それをなにもわかってない。自分の親ですけど親って思いたくないですもん。同じ血が流れてるだけで吐き気がする。」
「このまま無視でいいと思うけど、もしまたなにか送られてきたり、接触して来たりしたら僕が仕事に行ってても教えて。仕事放ってすぐ結華の所に行くから。」
運転しながら話す龍さんはいつものにこにこ笑顔とは違い、真面目な顔をしているからキュンとしてしまう。
「わかりましたけど、仕事はしっかりしてくださいね?」
「仕事よりも結華の方が大事だよ。結華ってほんと、自分の事は後回しだよね。いつになったら自分が大事ってわかってくれるのかな。」
「はは、多分、自分が死ぬまでわからないと思います。」
「んー、困った子だなぁ。」
二人で笑いながら、私は今に至るまでの出来事を思い返した。
実は私にはあの日...龍さんの家に住むと決めてからの記憶があまりない。その事を龍さんに話したら病院に連れて行かれた。病院では、ストレスでそこの記憶だけすっぽりなくなってしまったのだろうと言われた。
記憶を戻すような治療もあったのだが、龍さんはその頃の事を覚えているから私にあんな辛い出来事、思い出させたくないと言って記憶を戻す治療を拒んだ。私自身も思い出さなくても生活に支障はないから、記憶を戻す治療はしない事を決めた。
でも覚えている所もある。朝、お互いが起きて電源を落としていたスマホを起動させると、メッセージやら着信やらが千件以上きていた。ここまでくるともうストーカーだ。
電源をつけてすぐ、GPSで場所がわかったのか電話も掛かってきた。出ようか迷っていると龍さんが出てくれた。けれど内容は本当に思い出せない。相当酷い言葉を並べられた記憶だけはある。
その後は龍さんが私の家に行ってくれて話をつけてくれたみたいだ。みたいだと言うのは私は覚えていないし、龍さんいわく、龍さん一人で私の家に行って話をつけてくれたみたいだから知らなくて当然だ。
それから三ヶ月後、私は龍さんの家に正式に住める事になった。学校には親戚の家に行く事になったと濁した言い方をして、バイト先のカフェには全ての事情を話した。
もし私の家族を名乗る人が電話をしてきても教えない、もし私がお店に居る日に家族の誰かしらが来たら私を前には出さない。その二つを徹底すると約束してくれた。
店長自身、私の家庭環境が複雑なのは水樹さんから少し聞いて知ってたみたいだ。けれどここまで酷いとは思っていなかったらしい。すぐ気付けなくてごめんねと、謝罪までされた。謝るのはむしろ私の方だ。
私は龍さんちに住むのが正式に決まるまで、ろくにバイトに出勤出来ていなかった。せっかく誘ってくれた水樹さんにも、雇ってくれた店長にも申し訳なくて自分を責めていた。それを救ってくれたのも龍さんだった。
「店長も坂本さんも、結華の事を大事に想ってるからそこまでしてくれるんだよ。だから自分を責めないで。責めたら逆に結華を想ってくれてる二人に失礼だよ。」
龍さんにそう言われて納得してからは自分を責めなくなった。その代わり、二人に感謝しながら過ごすようにした。
そうだ、水樹さんには私が自殺未遂をした事を話したのだ。あまりにもバイトに出ない私を心配して、何かあったのか聞いてくれたのだ。嘘つくより本当の事を話した方が楽だし、別に隠す事でもないから話した。
「もうっ、結華ちゃんの馬鹿!!なんでそんなになるまで誰にも相談しなかったの!?うち、いつでも話聞いたよ?」
話を聞き終えた水樹さんの目には涙が溜まっていた。その涙を見て、私が死んだら悲しんでくれる人って居るんだなぁと呑気な事を考えた。
「でも毎日暗い話をされるのは水樹さんが辛いかなって思って。だったら自分一人で抱えて消えた方がいいじゃん。」
「うちは結華ちゃんが居なくなる事の方が辛いから。勝手に決めつけないで。」
本気で怒られて、この人とお友達になれて良かったなと心から思った。
「うん、ごめんね。もし次そういう事があったらすぐ話すから。」
「ほんとに話してよね?うちとか榊さんには遠慮しなくていいからね?あ、結華ちゃんさえ良ければりこちーもだけど。」
「ありがとう。」
私は家族以外の人間には恵まれたみたいだ。それすらも恵まれない人は世の中、沢山居るからそれと比べると私はましな方だ。
と、危ない危ない。他人と自分を比べないって龍さんと約束したんだった。言葉に出してなくて良かった。出してたらまた龍さんに怒られる所だった。
「そういえば結華、ペアリング本当にそれで良かったの?」
過去の事を思い返していると、信号待ちをしていた龍さんが私の左手薬指を指しながら聞いてきた。そこにはシルバーのシンプルな指輪がついている。
「何度も言いますけど、これがいいんです。もしかして龍さんは他のデザインの方が良かったんですか?そうだとしたら申し訳ないです。」
「いや、僕は全然いいんだけど、結華に似合う色もっとあったのに本当に良かったのかなって。」
「いいんです。このリングを見た瞬間、これだって思ったんですから。」
「それならいいんだ。でももし、万が一違う色とか違う形のが欲しくなったら言ってね。」
「欲しくなる事ないと思いますけど、わかりました!」
元気よく答えると、龍さんは目を細めて再び車を走らせた。ハンドルを握っている左手の薬指には、私と同じ形の指輪がついている。
私と龍さんが一緒に住み始めてから四年が経った。その内の二年はカップルとして過ごしている。
一緒に住み始めた頃は龍さんの事、そういう目で見ていなかった。ただの面倒見のいいお兄さんだなと思っていたぐらいだった。
けれど一緒に暮らしていく内に私の悪い癖を怒ってくれたり、頑張った事を褒めてくれたり。人に大事にされる事がなかった私にとってそれらの行為は恋に落ちる。
「結華、僕と付き合う気ない?」
自分の恋心を自覚した直後、龍さんに言われた言葉だ。一緒に住み始めてちょうど二年が経った頃だった。
「付き合いたいです...!私も榊さんの事好きだと、最近気付いたんです!」
「そうなの?なら付き合おっか。」
と、そんな軽い感じで私達は交際を始めた。
交際を始めたからと言ってなにかが特別変わる訳ではなかった。元々一緒に住んでいたし、龍さんは最初から優しかった。
強いて言えば私が榊さん呼びから龍さん呼びにしたぐらいだ。龍さん自身、名字で呼ばれるのが嫌いみたいだから私が榊さん呼びから龍さん呼びにしたら喜んでくれた。
「ねぇ、龍さんってなんで私を好きになったの?あといつから好きだったの?」
付き合った所まで思い出してふと、気になったから聞いてみた。龍さんはミラー越しに私をちらりと見ると笑った。
「付き合って二年経つけど、聞くの今なの?もっと早く気にならなかった?」
「不思議と気にならなかったんですよね。でも今付き合った時の事思い出してて、それでふとそういえば龍さんって私のどこが好きになったんだろうって。」
「僕、結華が塾に通ってる時から好きだったんだよ。」
「ふーん、って、え!?」
サラリと言われて流す所だった。私が塾に通っていた時って事は、かなりの年月片想いをしていた事になる。片想いしている相手と二年間一緒に住んでいて、よく手を出さなかったものだ。
「その時の私になんの魅力を感じたんですか?だって弟が私の悪口を言ってたから見に行こうってなったんですよね?」
私の第一印象は最悪なやつだったと思う。それなのに何故好きになったのか。好きになれたのか。
「結華を知るきっかけは確かにそうだったよ。んー、魅力って聞かれると難しいなぁ...強いて言えば、一目惚れってやつかな。」
「そんな一目惚れされる程、魅力なんてないと思うんだけど。」
「結華ってほんと、恋愛の事になると鈍感だよね。」
「え、なに、私今馬鹿にされてる?喧嘩なら買いますよ。」
「してないしてない。喧嘩も買わないで。そもそも売ってないし。人の顔色を見る力はかなりあるのに、恋愛の事になると鈍感になるよねって話。」
「自分なんかに好意を向ける人なんて居ないと思ってるからですかね。あ、だからって龍さんの想いが嘘だって思ってる訳じゃないですからね!?」
「わかってるよ。でもさ、結華はもっと人に対して危機感持って過ごした方がいいよ。」
「自分では危機感持って過ごしてると思うんですけど。」
「え、それで?」
いつも優しい龍さんが素でそう言ってくるって事は、私は本当に人に対して危機感を持っていないのだろう。
「逆に私のどこが危機感ないって言うんですか!?」
「まず、僕んちに住むのを即答した所。僕から提案しといてだけど、異性の家に住むのは危ない事なんだよ?」
「それは知ってますよ。あの時、仮に龍さんに襲われたとしてもあの家には戻りたくなかったんです。それと龍さんはそういう事しないって思ってたんで。」
「ほんと、そういう所だよ。結華って人を信用してるのかしてないのかよくわかんない。」
「私もわかんないですよ。でも絶対って言い切れる事は、龍さんの事は信用してます。あ、もちろん水樹さんもですよ。」
「結華からしたらそうなのかもしれないけど、他の人から見たらそう思わないから気を付けてねって話。」
「努力します...」
「わかればよろしい。あ、ほら見えてきたよ。」
龍さんが指さした先には、空の星が煌めいた海が広がっていた。
「うわぁ...綺麗...」
「ほんと綺麗だよね。昼間に来るのとは別の綺麗さ。」
「私は夜の海派です。身投げしてもバレなさそうだし。」
「結華が言うとシャレになんないからやめて。」
「はーい」
パーキングに車を停め外に出ると、かなり寒かった。
「寒い!」
「真冬に海来てるんだもん。寒いに決まってるよ。ちゃんとコート着て。」
かけていなかったコートのボタンをかけられた。
「へへ、ありがとうございます。」
「もう二十歳越えてるんだから自分でやりなさい。」
「二十歳越えてても精神年齢は小学生ぐらいで止まってるから無理。」
「無理じゃないです。もし僕が何かで居なくなったらどうやって生きていくの?」
「そしたら後を追うんで大丈夫です!」
「いやいや、そこは生きててよ。」
「無理です。私、龍さんが居たからここまで生きてこれたんですよ?そうじゃなかったらあの日、この海で誰にも行方がわからないまま死んでたと思います。」
今居る海は、四年前私が自殺未遂した海だ。
私だけで海に行く事を今日まで禁止されていた。まあ、一回自殺未遂の前科があるから仕方ないと言えば仕方ない。けれどどうしても海に行きたいと龍さんに駄々をこねたら、僕がついて行くのでも良ければと許可を貰ったのだ。
「莉子が結華の様子がおかしいって言ってくれたからだよ。」
「ほんとにそうですよね。莉子さんも私の命の恩人です。」
橋本さん...莉子さんともあの後仲良くなって、お互いが下の名前で呼び合う関係にまでなった。
私と龍さんが付き合った事を報告すると、泣いて喜んでくれた。どうやら二人は幼なじみだったみたいだ。
莉子さんは他人に興味のない龍さんの事を心配していて、家庭環境がやばい私の事も心配していたと教えてくれた。
莉子さんいわく、私と接している時の龍さんは心から笑っているし、心配しているのが見ていて伝わったからぜひお付き合いをしてほしいと、水樹さんと話していたみたいだ。
水樹さんにも私達が付き合った事を話すと、莉子さんと同じ反応をした。私が幸せに近付いてて良かったとまで言ってくれた。そこでやっと、私は今幸せなんだと実感した。
親の元で暮らしている時は幸せなんて私には存在しないし、これからも存在しないと思っていた。けれど人生ってなにが起こるかわからないものだ。
「ほんとにそうだよ。莉子が教えてくれなかったら僕あの日、そのまま家に帰るつもりだったし。」
「あ、それも聞きたかったんです。どうして私が海に居るってわかったんですか?」
海がちょうど綺麗に見える所に段差があり、二人並んで腰をおろした。風がかなり冷たくて寒かったが、龍さんとくっついて座ったおかげで温かくなってきた。
「海に居るってわかってた訳じゃないよ。莉子から連絡をもらって、結華を探しながら車を走らせてたら海に向かう結華が見えたんだ。」
もし莉子さんが龍さんに連絡するのが遅かったら。龍さんが車に乗っていなかったら。全部タイミングがズレていたら。私は今、ここに居ない。
「そんな偶然があるんですね。」
「結華はそう思わないかもしれないけど、僕は神様がそうしてくれたんじゃないかなって思うよ。」
「え、そういうの信じるタイプ?」
「時と場合による。結華の事に関しては僕、結構神様を信じてるよ。」
「そうなんだ...」
龍さんはてっきり、神様なんて居ない、自分でどうにかしろと考える人だと思っていた。四年一緒に居て初めての発見だ。
「だってさ、僕が結華を見つけて、もう会えないと思ってたらカフェで再会して。色々あったけど今、付き合えてるんだよ?神様が出会わせてくれたと言っても過言じゃないと思う。」
たった数ヶ月塾に通っただけの私を龍さんは見つけ、カフェで再会した。色々あったけど付き合えて、今私はそれなりに幸せだ。
「言われてみれば確かに。」
神様なんてものを信じた訳ではない。もし居るのだったらどうして私をあの親の元に送ったのだと問い詰めてやりたい。
でも龍さんの言う通り、神様が私達を出会わせてくれたと思う部分もある。だってこんな偶然、世界中探しても中々お目にかかれない。そう考えると神様も居るのかなと思う。だからと言ってあの親の元に送ったのを許した訳ではないが。
「僕達は出会うべくして出会ったんだ。だから結華、僕と結婚してくれませんか?」
漫画とかで見るような指輪を差し出された。龍さんらしいなと思いながら指輪を受け取った。
「私でよければ、ぜひ。」
「結華がいいんだ。結華しか考えられない。」
「私も龍さんしか考えられないですよ。これからも末永くよろしくお願いします。」
「うん、よろしく。」
私達はどちらからでもなくキスをした。付き合ってから初めてしたキスだった。
何回も言うが、龍さんに出会えなかったら私は今、ここに居ない。
カフェで働かないかと誘ってくれた水樹さんも居なかったら龍さんと出会えなかった。
莉子さんがあの日、私の様子がおかしいと気付いて龍さんに連絡してくれたから今の私が居る。
全ての人に感謝をして、私は今日も明日も、その先も生きていく。



