「とっ、セーフ。」

海に沈むまであと少しという所で、私は榊さんに助けられてしまった。本気で死を覚悟したのに。やっとこのクソみたいな人生から解放されると思ったのに。

「さ、いつまでもこんな所に居たら風邪引いちゃうから、僕の車行こ。」

「...やだ」

「君に拒否権はありません。行くよ。」

助けられた時、榊さんは私の腰に手を回していた。そのまま私を担ぎ、陸に向かって歩き始めた。

「やだ!降ろして!死なせて!」

思いっきり暴れたが、榊さんはビクともしない。ひょろっとしているくせに力はあるんだ。

「降ろさないし死なせないよ。」

「やだ!やだ!もうあの家には戻りたくない!」

私がどんなにぐずっても、暴れても。榊さんは私を降ろさないし陸に行く足を止めなかった。

助けられてしまったという事は、あの家に戻らなければいけないという事だ。連絡も無視してスマホの電源も落としている。帰ったらまず、怒り狂った母親になんて言い訳するか。いや、言い訳なんてしないで素直に言えばいいか。貴方の機嫌取りに疲れたって。それで殺してくれれば済む訳だし。

それにしてもあの家には戻りたくない。絶対に殺されるという保証がない。殺されずに生かされている方が生き地獄だ。

やっぱり、電車に飛び込むか車に轢かれれば良かった。そうしたら今頃、あの世に逝けていたかもしれない。

一人でひっそり死にたいなんていう馬鹿な考えを優先しなければ良かった。本当に私の人生はクソだ。

榊さんは海から陸にあがり、私が降りてきた階段を上がり停めてあった車の後部座席に私を座らせた。

「寒いよね。今暖房入れるから。」

榊さんは一回運転席に行き、エンジンをかけて暖房をつけるとすぐ後部座席に戻って来た。

「これから暖かくなると思うから待っててね。はい、これで拭ける所拭きな。」

「ありがとうございます...」

タオルを受け取ったが、拭く気になれない。もう何もやる気になれないのだ。だって今日死ねると思ってたから。その道が絶たれた今、なにを希望にすればいいのか。

「あぁ、ごめんね。寒いから手、動かしずらいよね。僕が拭くよ。」

榊さんは私の手がかじかんでいると思ったのだろう。実際、かじかんではいるが自分自身の事を拭く元気がないだけなのだが。

「何があったの?」

私の濡れた服を拭きながら榊さんが聞いてきた。よく見ると、私なんかより榊さんの方がよっぽど濡れている。

「榊さん、私なんかより自分の事拭きなよ。風邪引いたら困るでしょ。」

「それ言ったら結華も困るでしょ。大丈夫。僕、身体強い方だから。」

「私はどうせ死ぬから困んないよ。」

「結華がそう言うのはよくある事だけど、それを行動に移すって事は相当嫌な事があったんだよね?聞くよ。どうしたの?」

榊さんの真っ直ぐな瞳を見ていたら、自分の視界が滲んできた。

「榊さん...うっ、うわぁぁぁ!!」

私は榊さんに抱きついて泣き叫んだ。泣くという行為をしたのなんていつぶりだろう。てか私ってまだ泣けたんだ。涙なんてとっくに枯れたかと思っていた。

「辛かったね。よく一人で耐えてきたね。」

まだなにも話していないのに榊さんは優しく声を掛けてくれた。そのせいでもっと涙が出てきた。

「辛かった...どんなに頑張っても、誰も私の事なんて見てくれなかったから...」

泣きじゃくりながらも言葉に出した。もう心に留めておく必要ないと思ったから。この人なら本当の私を受け止めてくれると思ったから。

「僕は結華が頑張ってるの知ってるよ。坂本さんも莉子も、結華が頑張ってるって思ってるよ。」

「でも私はなんの結果も出せないダメな人間だから、家族は私の事見てくれないんでしょ?私のお金にしか興味無いんでしょ?」

榊さんにこんな事言ってもどうしようもない事はわかっている。けれど今の私にそこまで考える頭はなかった。

「結華の家族が結華の事をどう思ってるかは僕にはわからない。だけど僕は結華が頑張り屋で、人の為に自分を犠牲にする良い子だって事知ってるよ。だからお願いだから自分はダメな人間だなんて言わないで。」

「私は...ダメな人間じゃない?」

「ダメじゃないよ。むしろ誰よりも頑張ってる。色んな人を見てきた僕にはわかるよ。結華は良い子だ。」

榊さんの言葉で泣き止みかけていた涙がまた溢れた。この人になら私の本音を話せるかもしれない。

「榊さん、あのね...」

話したいのに嗚咽が酷くて声が出ない。そんな私を榊さんは優しく抱きしめてくれた。

「ゆっくりで大丈夫だよ。結華が落ち着くまで僕、いつまでも待ってるから。」

榊さんの優しい言葉は荒れていた私の心に染みた。

「ずっとね、誰かに褒めてほしかったの。君は頑張ってるよ、偉いねって。」

「うん。」

「確かに、みんな褒めてくれたよ。でもそうじゃなくて、私だけを見て褒めてほしかった。みんなに褒めるような感じじゃなくて、私だけを褒めるみたいな。」

言葉に出せば出すほど、自分がいかにメンヘラで面倒臭い人間なのかがわかる。だからあまり口に出さないようにしていたのだ。この事を誰かに話して、自分から離れていってほしくなかったから。私も私で、あまり認めたくはないが心の病気なのだろう。

「僕は結華だけの事を褒めてるつもりだったんだけど、結華からしたらみんなを褒めてるように感じたんだね。ごめんね。他は?他になにかしてほしかった事ある?」

「甘やかしてほしかった。」

私は今までの人生、誰かに頼られる方が多かった。その頼れる人間というイメージを崩したくなかった私は、人に甘える事が出来なくなってしまった。その考えのせいで自分を何年も苦しめていたと言っても過言ではない。

「結華は昔から人に頼られて、見てるこっちまで心配になる程だった。でも結華、なにも言わないから大丈夫だと思ってた。そっか、甘えてみたかったんだね。気づけなくてごめんね。」

「昔から...?」

なぜ今、昔からという単語が出てきたのだろう。私が覚えている限り、榊さんに会ったのはカフェで出会ったのが初めてのはずだ。

「結華、覚えてないの?まぁ、無理もないか。結華が塾に通ってた時、僕、違うクラスの担当だったから。」

「あ...!思い出したかも。」

今の今まですっかり忘れていたが、私は中学二年生の終わりから高校を入学するまで塾に通っていた。私の学力だけだと一番底辺の高校にしか行けなかったから。

世間体を気にする母親は私を少しでもいい高校に入学させる為に塾に通わせたのだ。そのおかげで一番底辺の高校は免れたものの、頭が良い学校かと問われれば首を傾げる感じの、なんとも言えない高校に入学した。

とりあえず一番底辺の高校ではない高校に入学出来たから塾は辞めた。弟は私と同じ時期に塾に入ってめきめきと学力を上げていき、今も同じ塾に通っている。確かその先生が...

「榊さんって弟の塾の先生ですよね?」

「そうだよ。やっと思い出した?」

そう、榊さんは弟の塾の先生だったのだ。榊なんて名字、あまり居ないのにどうしてすぐ気付けなかったのか。そして私とは接点のなかった榊さんはどうして私を知っていたのだろう。

先程まで心にあった黒い感情はどこかへ行き、そっちの方に気がいった。榊さんはそんな私の頭をいつもみたいに撫でた。

「とりあえずここにいつまでも車停めとく訳にもいかないから、僕んち行こっか。続きは僕んちで話そ。」

「え、榊さんちですか?行ってもいいんですか?」

「良いに決まってるよ。それか結華んちに...」

「それは絶対嫌です!!もうあの家には戻りたくありません!!」

はっきり言うと、榊さんはいつもみたいに笑った。

「だよね、知ってた。それじゃあ車動かすから、一旦結華には離れてもらおう。」

榊さんに言われて、やっと私は榊さんに抱きついたままな事に気が付いた。

「あ、ごめんなさい!てか服、もっとびちゃびちゃにしちゃった!」

ろくに服を拭かない状態で榊さんに抱きついたから、元々濡れていた榊さんの服がもっと濡れてびちゃびちゃになってしまった。

「大丈夫だよ。それより結華は寒くない?」

けれど榊さんは自分の事より私の事を心配してくれた。榊さんに抱きついて私の服は最初より乾いている。なのに心配してくれるなんて、この人はどこまで優しいのだろう。

「さむ...くないです。」

海に入っている時は本当に寒さなんて感じなかった。でも今は寒くて仕方ない。感情が元に戻ったという証拠だろう。

けれど海で寒くないと言った手前、素直に寒いと言えなかった。こういう所があるから可愛げがなくて、母親から嫌われていたのだろう。

「本当は?」

けれど榊さんにそれは通用しなかった。そこでやっと、この人に隠し事は出来ないなと悟った。

「...めちゃくちゃ寒いです。」

「わかった。もうちょっと暖房の温度高くするね。もし暑くなってきたら教えて。」

「ありがとうございます。」

私の頭を軽く撫でてから榊さんは運転席に乗り込んだ。今更だがこの人、運転出来たんだ。勝手なイメージだが免許証すら持っていないと思っていた。

車が動き出し、車内も段々暖かくなってきた。それが心地良くて気付いたら眠っていた。


「ん...あれ、ここどこ...?」

次に目を開けた時は車内ではなく、どこかの家のソファーに転がっていた。

「あ、起きた?おはよう。」

榊さんに声を掛けられて、ここが榊さんちなのだと理解した。

「おはようございます。私、あの後寝ちゃったんですね。」

「うん。気持ち良さそうに寝てたから起こすのも申し訳ないなって思って連れて来ちゃった。」

「ありがとうございます。おかげさまでよく寝れました。」

どれぐらい寝ていたのかはわからないが、ソファーから見える窓の外は真っ暗だから夜な事に違いはない。

「それなら良かったよ。なにか飲む?」

「大丈夫です。」

「わかった。それでもし良かったらなんだけどさ、お風呂入ってきたら?寒いでしょ。服は貸すから。」

寒い事には寒いが、我慢出来る寒さだ。でも入ってきたらと言ってくれてるのだからお言葉に甘えよう。

それによくよく考えたらズボンはバイト先から借りている物だ。こんなに汚れてしまっていては、返す時にクリーニング代を取られてしまう。

「ぜひ入らせてほしいです。」

「おっけー。お風呂は僕が先に入って沸かしてあるから温かいと思う。もし冷めてたら温め直しな。」

「ありがとうございます。」

榊さんは親切にお風呂場まで案内してくれた。服も最初から用意してあって、私に断らせないつもりだったのが目に見えてわかった。

「あったかい...」

全て洗い終えて湯船に浸かると温かくて、冷えきった身体が芯まで温まっていくのを感じた。そういえば湯船に浸かるのっていつぶりだろう。バイトの帰りが遅かったり、母親の機嫌が悪い日はゆっくりお風呂に入るなんて出来なかったから、今日ぐらいゆっくり入ってやる。

「やばい...浸かりすぎた。」

丁度いい温かさのお風呂でつい浸かりすぎてしまった。身体がふらふらしているから、着替えるのもゆっくりになってしまった。

そういえば私って今、一人暮らしの男性の家に来てお風呂に入ったって事だよね。言葉だけ聞けばかなり尻軽女なのでは...?いやでも実際はもっと重い物を背負ってここに来たし。ただ一人暮らしの男性の家にのこのこ着いて来た訳じゃないし。ところで私は一体、誰に言い訳をしているのだろう。

でも理由はどうであれ、男性の一人暮らしの家に来た時点で色々覚悟はしている。私は決してスタイルがいい訳ではないから恥ずかしい。まあ、榊さんにとって私なんて子供すぎて眼中にないだろうが。

「え、めっちゃおっきくない...?」

置いてあった服を着てみたがかなり大きい。それもそのはず。私と榊さんの身長は三十センチも差がある。そんな人の服を着たらかなり大きいのは誰でもわかる。

「結華ー、大丈夫ー?」

洗面所の鏡で自分を見ていると、扉越しに榊さんが声を掛けてきた。

「大丈夫です。お風呂ありがとうございました。」

扉を開けて姿を見せると、榊さんは笑った。

「やっぱ服、大きかったね。これでも小さいやつ渡したつもりなんだけどなぁ。」

「榊さんの小さいは私にとって小さくないんです。良かったですね!新しい発見があって!」

色々助けてもらったくせに皮肉をたれてしまった。いささか怒られるか?と思って榊さんを見ると、笑っていた。

「結華が元気そうになって良かったよ。」

そう言ってまた頭を撫でた。そう言われると皮肉をたれてしまった自分が恥ずかしく感じる。

「あ、そうだ。マドレーヌ作ってあるんだけど食べる?」

リビングに入る手前で榊さんが聞いてきた。マドレーヌと聞いてお腹が鳴った。そこでやっと、自分がお腹が空いている事に気付いた。

「食べる!!」

「今から準備するから座って待ってて。紅茶は飲める人?」

「砂糖があればなおよし。」

「わかった、ミルクも持っていくね。」

榊さんはそう言うとキッチンに入って行った。その間に私は榊さんの家を見渡す事にした。

榊さんちは一軒家で、一人暮らしにしては大きい家だ。白を基調とした家で、家具などは黒で揃えていてシックな感じだ。一言で言えば榊さんらしい家となっている。

「お待たせー」

「えぇ!美味しそう!」

榊さんが持ってきたのはデパートとかで売っている感じの、見た目からして高級なマドレーヌだった。手作りと言っていたからもっと手作り感満載のやつだろうと思っていたからかなり驚いた。

「めっちゃ綺麗じゃないですか!!え、写真撮ってもいいですか?」

「いいけど、スマホ動いてる?さっきからなんの音もしないけど。」

写真を撮ろうとスマホを探していると榊さんに聞かれた。そこでやっと自分がスマホの電源を落としている事を思い出した。

「あ、電源落としてるんだった...。こんなに綺麗なお菓子を形に残せないなんて...。」

「また作るから大丈夫だよ。」

「ほんとですか!?楽しみにしてますからね!?」

「いいよ。ほら、食べな。温め直しといたから。」

「ありがとうございます!いただきます!」

王道のプレーンを食べてみた。バターの濃厚な味わいが口の中で溢れて凄く美味しい。

「美味しいです!!こんな美味しい食べ物、初めて食べました!!」

「それは大袈裟じゃない?もっと美味しい物、この世の中には沢山あるよ。でも作った側からしたらこんなに喜んでもらえて嬉しいけどね。」

「大袈裟なんかじゃないです。これは本当に美味しいです。ん、こっちの味も美味しい!」

プレーンの上にチョコがかかっているやつも食べてみたが、それもそれで美味しい。バターとチョコで味が濃ゆそうなイメージだったが、その分チョコレートをビターな味のを使っているから、甘くなりすぎず美味しかった。

「ぶっちゃけどっちの方が美味しい?」

「どっちも本当に美味しいんですけど、私の好みはチョコがかかってる方です。」

「かなって思った。だから最初はプレーンのだけを作ってたんだけど、もしかしたら結華はチョコがかかってる方が好きかなって思い直して急いでチョコのやつも作ったんだ。」

「私に渡す予定だったという事で間違いないですか?」

自惚れかもしれないが、こんな事を言われたら勘違いしてもおかしくないだろう。

「そうだよ。だって結華、最近僕の事避けてたでしょ?」

飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。まさか本人にまで言われるとは思わなかった。

「それ今日、橋本さんにも言われました。」

「だって僕が莉子に言ったんだもん。結華から避けられてる気がするって。」

「私自身、そんなつもりはないんですよ。たまたま榊さんと私のシフトが被らなかっただけなんです。」

「あ、そうだったの?」

「え、本気で避けられてると思ってたんですか?」

お互い驚いていたが、その姿が面白くて笑いに変わった。

「私はてっきり、冗談で言ってるのかと思ってました。」

「違うよ。僕があの日、強く言い過ぎちゃったから僕の事嫌になったのかなって本気で思ってた。」

「まあ確かに、言い方は強かったしムカつきはしたけどそれで避ける事はしないですよ。言っている事は間違ってないし。」

「それなら良かったよ。あー、もやもやが解決したー」

「そんなに!?」

仮に私に避けられたとしても、榊さんには沢山仲のいい人がいる。なら私に嫌われてもいいではないか。

「僕さ、結華の事塾でずっと見てて話してみたいと思ってたんだ。」

そんな私の心を見透かしたかのように。榊さんは語り始めた。

「でも僕が受け持ってるクラスと結華のクラスは違うから話す機会に恵まれなくて。だからカフェで再会した時、絶対仲良くなってやるって決めたんだ。」

「なんでそこまでして私と仲良くなりたかったんですか?てかなんで私の事を知ってたんですか?」

榊さんが弟のクラスを受け持っているという事は、学力が一番高いクラスだ。それに比べて私は一番学力が低いクラスに居た。そうなると本当に接点がない。それなのにどうして榊さんは私の事を知っていたのか。なぜ仲良くなりたかったのか。聞けば聞くほど謎は深まるばかりだ。

「弟くんがお友達と結華の事話してたのが聞こえたんだよ。ちょっと内容は言いにくいんだけど。」

「どうせ私の悪口でしょ?いつもの事だから今更聞いてもなんとも思わないから教えて?」

「...俺の姉ちゃんは馬鹿だから、こんな簡単な塾の一番学力の低いクラスに居るんだよって。性格も悪いしほんと、あんなのが姉ちゃんなんて恥ずかしいって言ってた。」

榊さんは口ごもっていたが、私がにこにこと圧をかけたからか教えてくれた。

「めっちゃ言われてんじゃん、私。」

かなり言われているだろうなとは思っていたが、正直ここまでは想像していなかった。なにが性格悪いだよ。そうやって本人に言わないで他人に悪口言っているお前の方が性格悪いよ。

「最初は僕、弟くんの言っている事を信じたんだ。結華が弟くんと同じ塾に通っている事は知ってたから、結華のクラスまで結華を見に行った。優秀な弟くんがあんなに言うのだから、相当酷いお姉さんなんだろうと思って。」

弟は外面もいいし、両親と姉の前でもいい顔をする。私にだけいい顔をしないのだ。なにも持っていない私を下に見ているのだろう。

「でもいざ見に行ってみたら面倒見のいい子が居た。それでもまだ僕は弟くんの言っている事を信じて、何回も結華の事を見に行ったんだ。」

「あいつ、外面はいいですからね。私の行動よりあいつの言っている事を信じるのも無理はないと思います。」

「弟くんの本性に気付けなくて知らない内に結華を悪い奴にしてた事、申し訳ないと思ってるよ。でも今は結華が悪い奴なんて思ってないからね。」

「別に思っててもいいですよ。人の感性なんて人それぞれだし。」

人の感性なんてそれぞれだと思っているのは本当だ。けれど今、それをわざわざ榊さんに言ったのはただの強がりだと思う。これ以上、自分の心を傷付けない為、惨めに思わない為の強がりだ。

「確かに、人の感性は人それぞれだ。でもそれだと僕が嫌なんだ。結華に誤解されたまま過ごすのは辛い。だから聞いてて辛いだろうけど、最後まで話聞いてほしいな。」

「...わかりました。」

私が嫌な思いをしない為に榊さんが言葉を選んで言ってくれたのがわかったから、素直に頷いた。

「ありがとう。それでね、何回も結華を見に行っている内に、こんな良い子が性格悪い訳ないって確信して、やっと弟くんが嘘を言っているかもって思ったんだ。だから仲良くなって話を聞きたかった。そうしたら一発で嘘か本当かわかるじゃん?」

「なんで話しかけに来なかったんですか?榊さん程のコミ力があったら話す事ぐらい、簡単に出来たでしょ?」

「結華の言う通り、話しかけに行くぐらい朝飯前だよ。だけどそうしたら弟くんが面倒臭い事になるかなって。」

「どういう事?」

「僕は弟くんの先生だからさ、別のクラスの結華と仲良くなったら弟くんは良く思わなくて、結華に当たりつけるんじゃないかって思って。だから話しかけにすら行けなかった。ごめんね、早く話しかけに行っていれば死ぬギリギリまで追い詰められなかったかもしれないのに。」

榊さんは土下座でもするのではないかという程頭を深く下げた。そんな事をされて、逆に困ってしまう。

「今日の出来事と榊さんが話しかけに来れなかったのは別の話なんで大丈夫ですよ。榊さんが気に病む事じゃないです。」

「そうなのはわかってるんだけど、あんな事してるのを目の前で見ちゃったら繋げちゃうよなぁー。」

「あ、そうそう。なんであそこに居たんですか?」

海に入る前、周りに何度も人が居ない事を確認してから入った。なのに榊さんは居た。車で来ていたからなにか目的をもって来たとしか考えられない。でも夜の海に一人で来るなんて、私みたいに死のうとしたぐらいしか理由が思い付かない。

「今日、莉子とシフト一緒だったでしょ?」

「あぁ、一緒でした。それで私が榊さんの事避けてるんじゃないかって榊さんが言ってたよって教えてもらいました。」

「莉子が教えてくれたから知ってる。で、その莉子が結華の様子がおかしいからどうにかしてくれって言ってきたんだよ。」

「え?」

なんで私の様子がおかしいって気付いたの?それをなんでわざわざ榊さんに言ったの?橋本さん自身が聞いてくれても良かったのに。

「ぶっちゃけ結華さ、坂本さんと僕以外に懐いてないでしょ?だからだよ。だから莉子は僕に連絡してきたんだよ。結華の様子がいつもと違くて嫌な予感がするから会って話を聞いてくれって。」

私が思っていた事全部答えてくれた。この人は人の心を読めるエスパーなのか。

「懐いてなくはないですよ。ただ水樹さんはもちろん、榊さんは話しやすいんです。私の家庭環境ってお世辞にも良いとは言えないじゃないですか。だから話すにしても人を見極めなきゃいけないんです。榊さんは話しても大丈夫って思ったから話した、それだけの話です。」

「でもなんで橋本さんは私の様子が変だってわかったんでしょうね。いつもと同じ様に接してたと思うんですけど。」

「結華って感情がめっちゃ顔に出るからね。余程鈍感な人じゃない限りみんな気付くよ。」

「え!!そうなの!?」

自分ではいつもと変わらない笑顔を作れていると思っていた。でも周りから見たらそうではなかったみたいだ。

「自分で気付いてなかったの?」

また榊さんに笑われてしまった。そういえば私、この人と関わってて笑っている以外の感情をあまり見た事がないかもしれない。

「気付いてないです。でも思い返せばよくにこにこしてるけど本当に笑えてる?とか、無理してない?って聞かれた事はありましたね。」

主にカフェの前に働いていたバイト先の方にそう聞かれる事が多かった。入ったばかりの人に言われた時は本当に驚いたものだ。

「結華の笑いってさ、自然に見えないんだよ。明らかに無理して笑ってますって感じが伝わる人には伝わる。だからじゃない?」

「無理して笑ってるつもりはなかったんだけどなぁ。」

そう、私は無理して笑っているという自覚がなかったのだ。

確かに今日、橋本さんと挨拶をした時は無理して笑ってたと思う。でもいつも笑っているのは無理してではない。怒った顔をしているより笑っていた方が自分も、周りも嫌な気持ちにはならないだろうって感じで笑ってるだけだ。それがまさか、無理して笑っているように見られてたなんて。これだから人間と関わるのは難しい。面倒臭い。

「無理して笑ってる自覚がないで笑ってるなら、結華相当心にきてるよ。真面目に一回病院行った方がいい気がする。」

「あれ?言ってませんでしたっけ。私、中学の時一回ダメになっちゃって、病院通ってたんですよ。今はその時程酷くないですよ。」

「その話は初めて聞いた。それにしても今の結華もかなり酷いよ。一緒に行くから病院行こ。」

「大丈夫ですって。私は正常です。」

なんか前にも似たようなやり取りしたな。いつだっけ。

...思い出した。榊さんとギクシャクする前だ。なんで私達はまた同じやり取りをしているのだろう。

「正常な人は自分でそれを言わないんだよ。あと死のうともしない。」

「うっ...、それを言われたら何も言えない...」

「でもまあ僕から話を広げといてなんだけど、一旦病院に通うとかは置いといて、これからどうやって結華が暮らしていくかだね。」

「確かに。てか今何時ですか?」

「今?んっとね、夜中の十二時過ぎてる。」

「え!もうそんな時間なんですか!?」

私のバイトが終わったのが十八時だ。それから六時間も経っていたなんて。体感的にはまだ三時間しか経っていない。

「榊さん明日...いや、もう今日か。カフェのバイトや講師のバイト入ってますか?」

入っていたとしたら早く寝かせないといけない。そうなると私もいつまでもここに居る訳にはいかなくなる。

「なにも入ってないよ。結華は...学校だよね。」

そう、今日は月曜日なのだ。バイトに行く時はちゃんと家に帰るつもりだったから、学校に行く為のグッズなどなにも持っていない。

最悪学校は休むとして、一番に考えなければいけないのは私がこれからどこでどうやって過ごすかだ。

「正直、学校はどうでもいいです。それより私はこれからどうしたらいいと思いますか?」

「んー、結華はどうしたいの?」

「私は...」

あの家に帰らない方法があるならそこに縋りたい。けれど児童相談所に私が行ってしまうと、弟が高校を卒業出来なくなってしまう。そのせいで一生親から責められるのだったら今我慢して家に帰る方が得策だ。

でもどうしても家に帰りたくない。帰らないつもりでスマホの電源を落としてたのに、今更どんな顔をして帰ればいいのか。帰るぐらいなら今度こそ死んでやる。

けれどいつまでも榊さんちに居る訳にはいかない。早く決断しないと、榊さんに迷惑がかかってしまう。こんなによくしてもらってるのに迷惑だけはかけたくない。もう手遅れな気はするが。

「あの家には帰りたくないです。でも帰る以外の選択肢がわからないので、やっぱり帰るしかないですよね。」

「帰る以外にも選択肢はあるよ。」

「え?なんですか?」

まさか警察に相談しろとか言うのではないか。もしそれを言われたら行けない理由を説明しよう。

「僕んちに居ればいいよ。そうしたら結華の事、守ってもあげられるし。」

「え...えぇ!!」

斜め上の返答をされて、深夜なのに大声を出してしまった。

「そんなに驚く事?」

私の反応で榊さんも驚いていた。なんで言った側も驚くのだ。

「驚きますよ!?だってこの家に居てもいいって事は、私がここに住むって事ですよ?わかって言ってます?」

「うん、もちろん。」

「彼女さん、他所の女を住まわせたって知ったら怒りますよ?」

「彼女居ないから大丈夫。それにこんな大変な事が起こってる子を僕んちに住まわせて怒る彼女はこっちから願い下げだから。」

からかいのつもりで言ったが、マジレスをされてからかった事を少し恥ずかしく思った。

「あ、居ないんですね。」

それよりも、榊さんに彼女が居ない事にまた驚いた。てっきり居るのかと思っていたから。塾に通っている子達にモテそうなのになぁ。

でもそうか、生徒に手を出したら講師をクビになってしまうからな。可愛い子が居ても告白すら出来ないのは辛いだろうなぁ。

「そう、居ない。今、彼女を作る気もないしそこは大丈夫。後は結華の気持ち次第かな。」

「榊さんがいいならここに住みたいです。あ、でもタダでとは言いません。この家に住むルール作ります。」

即答した。付き合ってもない異性と二人で暮らすのに不安がないと言ったら嘘になる。けれどあんな家に居るより絶対楽に暮らせる。例えここで榊さんに襲われたとしても、この選択をした事を後悔しない。

「別にお金とかは全然気にしなくてもいいよ。人一人養うぐらいは稼いでるし。」

「それだと私の心がもやもやしたままです。ルールはおいおい決めるんでよろしくお願いします!」

「好きにしな。でも次の問題があるよね。」

「次の問題?」

「結華の家族になんて説明するかって問題。」

「あぁ...!確かに。」

すっかり忘れていたが、そこをちゃんとしないと私に関わった人みんなに被害がいく。それだけは絶対に避けたい。

「でも僕に考えがあるから任せといて。とりあえず今はもう寝よう。結華、眠気の限界がきてるでしょ?」

「そんな事ないですよ?榊さんの車で寝たし。」

「そんな少し寝ただけじゃ、色々あった出来事と割に合わないって。とりあえずリビングのソファーで良ければ寝な?今、毛布持ってくるね。」

「榊さんはどこで寝るんですか?」

「自分の部屋かな。あ、そっちの方が良かったら全然代わるよ。どっちがいい?」

「...場所は正直どこでもいいんですけど、一人で寝るのだけは嫌です。」

一人で寝たら確実にあの夢を見る気がする。あの家族に夢で会うのすら今の私には嫌だった。

「わかった。なら一緒にリビングで寝よう。毛布取りに行きたいから結華、その手を離して?」

私はリビングから出て行こうとする榊さんの服の裾を掴んでいた。毛布を取りに行くだけと頭ではわかっているが、このまま居なくなってしまうのではないかと不安になってしまった。

「い...行かないで。一人にしないで...。」

自分でも驚くほどか細い声が出た。私にもまだ、こんな小さい子みたいな可愛らしい所残ってたんだ。

「いいけど、何も掛けなくて寒くない?」

「私は大丈夫。榊さんは?」

「僕は結華を湯たんぽ代わりに抱きしめながら寝るから大丈夫。」

榊さんは冗談で言ったのだろうけれど、私はマジレスを返した。

「いいよ、それでも。それをされたとしても今、一人になりたくない。」

人を困らせてはいけないって言われて育った私が、こんな子供みたいなわがままを言うなんて。もし相手が母親とか、相手が母親じゃなくても傍に母親が居たら怒られるだろうなぁ。わがまま言うんじゃないって。人間皆、生きているだけで迷惑をかけているのだから今更って感じだが。

「一人は寂しいよね。その気持ち、痛い程わかるよ。」

「榊さんも一人だったの?」

榊さんは私の隣に座ると、どこか遠くを見ながら話し始めた。

「僕は両親に愛されて育ったと思うし、誰かと比べられる事もなかった。友達にも恵まれてた。なのにいつも心のどこかで孤独を感じてたんだ。本当の自分の事なんて、誰も見てないんだって。」

私が榊さんを見て違和感を感じたのは、こういう事だったのか。だとしたら榊さんも相当わかりやすい人間だ。

「本当の榊さんはどんな人なんですか?」

「基本どんな事があっても笑うようにしてるんだけど、本当は笑いたくなんてないし他人の事なんてどうでもいいって思ってる。愛されて育ってもこうなるんだなって自分自身、驚いてる。」

「こんな事誰かに話したら絶対怒られるじゃん?愛されて育ったくせになにを言うんだって。だから今までも、これからも結華以外の人に言うつもりはないよ。言わないとは思うけど、結華も僕の本音を誰かに言わないでね。」

「もちろんです。でもそれを私に話しちゃって良かったんですか?」

「僕も結華と同じで誰かに本音を話したかったから。聞いてくれてありがとう。これで結華の前では本当の自分で居られる...」

「うわっ」

眠気の限界が来たのか、榊さんは私にもたれかかってきた。けれど私に支える力がなくて一緒に倒れてしまった。それでも榊さんは起きない。

「疲れてたんですね...」

海の中に居た私を抱えて陸まで上がったのだ。それだけで疲れてるはずなのに、車の運転までして私をここまで連れて来てくれた。ここに居てもいいと言ってくれた。

でもどうして私に対してそこまでするのだろう。他人の事なんてどうでもいいって今さっき言ってたのに。私を助けた所で榊さんにはなんのメリットもないのに。

「起きたら聞いてみよ...」

私も眠りについた。誰かと一緒に寝るなんて、いつぶりだろう。