「ガナッシュ?作れるよ。あんなの簡単じゃん。」
「簡単じゃないです!だったらなんで私が作ったやつはあんなシャバシャバになったんですか!」
「作ってる工程を僕が見てないからわかんないよ...」
榊さんは笑っていた。こっちは真剣に聞いているのに。
どうしてガナッシュの話になったかと言うと、私が急にチョコレートケーキを作りたくなって作ったのだが、スポンジにかけるガナッシュが上手くいかなくて結局、スポンジだけで食べるはめになった。
榊さんは料理が好きだと聞いた事があった。だから相談してみて、今に至る。
「ちゃんと分量通りにやったんですけどねぇ。」
「なにか多かったんじゃない?お菓子作りって一ミリ多いだけでも狂うからね。」
「もうやんない...」
「拗ねないの。また挑戦してみたらいいじゃん。」
拗ねてそっぽを向いていると頭を撫でられた。この人は塾講師をしてるだけあって子供の扱いが上手い。
「今回はたまたま材料買えるお金があっただけであって、そんな易々と買えないんです!」
「結構シフト入ってるのになんでお金ないのよ。」
その言葉に悪気なんて一つもないのは頭ではわかっている。けれど私の家庭事情を詳しく知らないでそう言われるのはやはりいい気はしない。
「お金は全部親に取られちゃうんですーだから自分に残った月はレアなんですー」
冗談混じりに言い返すと、榊さんは笑っていた表情から驚いた表情に変わった。
「どういう事?それ。」
「うち、裕福な家庭じゃないんで私が稼がないと支払いが回らないんですよね。」
「あー、前にちらっと聞いた事あるかも。」
「うん、言った気がする。」
今までのバイト先の人には何がなんでも家庭の事は話さなかった。もし私の家庭事情を聞いた誰かがやばいと思い、警察に通報されてしまったら未成年の私は色々と終わる。
けれどここのカフェの人達は働いている皆が訳ありだ。だからそういう事をしないと信じているから自分の家庭環境を話す。誰かに話す事で心が軽くなっているというのも一つの理由だ。
「親は働いてないの?」
「父親は働いてますよ。でも馬鹿みたいに給料が安いんですよね。」
「お母さんは働かないの?」
「精神病なんで働けないって言ってます。弟は働いてるけど自分の学費で精一杯だから援助は出来ないって。私も一応学生なのに。ほんと、笑っちゃいますよね。」
自嘲気味に言うと、榊さんは私の頭を強めに撫でた。
「無理しちゃダメだからね。辛かったら誰かに頼りなよ。」
「んー、どうしよっかなー」
「こらー」
あまり暗くなりすぎても良くないと思い明るく言い返すと、榊さんもいつもの調子に戻った。
自分の家庭の事を話すと確かに自分の心は軽くなるが、聞いている人の心を重くしてしまう。それが申し訳ないから少しずつ話すようにはしている。
「さて、僕は帰るとしようかな。結華は何時まで?」
「休憩が?それとも上がる時間?」
「上がる時間。」
「んっとね、十七時。くそっ、今日はいつもより一時間短いから最悪。」
「家に早く帰れるって喜ぶのはよく聞くけど、早く帰れてくそって言っているのは中々ないよね。」
「世の中には色んな人が居るんだよ。じゃあね、また明日。」
「あ、明日シフト被ってるんだ。じゃあまた明日ね。」
「はーい。お気を付けて帰ってくださいねー」
榊さんは手をひらひらさせて帰って行った。寂しいなぁと思いつつ、残りのバイトも頑張ろうと思い直した。
私と榊さんは初めてましてをしてから比較的すぐ仲良くなった。歳が四つも離れているとは思えない程。
私がわからない事を聞いたら優しく教えてくれて、お店が暇な時は仕事以外の話もしてくれた。それで仲良くならない方がおかしい。
でも榊さんと関わっていて少しだけ気になる事があった。どうしてずっと笑っているのだろうと。それは初めましてをした時から感じていた。
笑っていると言っても色々あるが、げらげら笑う方のではなく、にこにこだったりへらへらの笑う方だ。
私も人前ではにこにこする様にしている。自分の心の内を誰にも悟られない為に。榊さんの笑いはそれに似ているのだ。
でも榊さんは自分の事をあまり話さない。話したくない出来事や思い出したくない出来事があるのかもしれないから、私からも深く聞かない。でも気になってしまう。人間というのは本当に面倒臭い生き物だ。
「ただいまー」
「この家の人達は人を助けようって気持ちがないんだよ。だから私ばっかり辛い思いするんだ...」
バイトが終わり家に帰ると、リビングから母親の愚痴が聞こえた。廊下にまで聞こえる愚痴は久々だ。私が居ない間に何があったのだろう。
「お母さん、ただいま。」
手洗いだけ済ませてリビングに行くと、母親は洗濯物を畳んでいた。
「遅い!なんでもっと早く帰って来れないの!あんたが最近家に全く居ないせいで家の事全部私がやらないといけないじゃないの!」
まさかの原因は私だった。でも確かに、ここ最近は学校がある日は夕方からバイトして、休みの日は朝からバイトを入れていたから家に全く居ないというのは間違っていない。
でもそんなにバイトを詰め込まないといけない理由を考えて欲しい。父親の給料だけでは支払いがやっていけないから、私が不足分を補う為にバイトを詰め込んでいるのだ。文句は給料が安い父親に言ってほしい。
それに母親は専業主婦ではないか。主婦が家の事をしなかったらなにをするのだ。
「うん、そうだね。ごめんね。来週からはバイトが落ち着くと思うから。」
ぶっちゃけ私はなに一つ悪い事なんてしていないし、むしろ褒められる事しかしていない。けれどこの家では私の頑張りは認められない。今に始まった事ではないが、心が痛むものは痛む。
「私がしんどい思いしてるのわからないの!?なにが来週だよ。私がしんどいのは今なんだよ!今!どうにかしてよ!」
今日は面倒臭いパターンだな。この一方通行の言い争いは多分あと一時間は続くだろう。くそ、やっぱり早く帰れるとろくな事がない。
「でも私もお金稼がないといけないから休めないよ。」
「お金なんて自分の為でしょ!?こっちにはなんの利益もないのに!」
その言葉で我慢しようと必死に押さえ込んでいた怒りが出てきた。
「それは違うじゃん。私の給料、ほぼ家に渡してるのはわかるよね?それがないと生活出来ないのに利益がないなんて言ってほしくない。利益がないのは私自身だよ。」
あぁ、言ってしまった。私、これからどうなるかな。
私の願いとしては怒り狂った母親が包丁を持って来て、私を刺して欲しい。そして弟の将来をダメにして欲しい。母親が子供を殺害したらその身内の就職に不利になるとなにかで見た事ある。そうなってしまえばいいと本気で願っていた。
「...もう私寝るから。後の事はやっといて。」
だが母親はそれ以上怒る事なく、畳んでいた洗濯物をそのままにしてソファーに転がった。寝るなら違う所行けよ。
それにしても、今回も死に損ねちゃった。今回の怒り方からして前みたいに包丁を持って暴れると思ったのに。
でも包丁を持って私を目掛けて刺すのが理想だから、ただ暴れるだけではまた警察を呼ばれておしまいだからダメだ。私を刺してみんなの人生をめちゃくちゃにするのが最近の夢なのだから。
本気でそんな事を考えている自分が面白かった。今まで死ぬ事は怖いと思っていた。でも今は思わない。この馬鹿みたいに不平等でクソな世の中からおさらば出来るのだから、─死─は私にとって─救い─だ。
「って私は思うんですけど、榊さんはどう思います?」
「うーん、君かなり病んでると思う。」
次の日。また休憩が被ったから昨日あった事をちらっと話し、自分の考えも話してみた。
「病んでないです。正常です。」
「正常な人は自分で正常って言わないの。」
「でもスマホでお使いの端末は正常ですって出る時あるよ?」
「んー、人間とスマホを一緒にしたらいけないし、その画面が出る時はスマホがなにかなっちゃった時じゃない?」
「確かに!」
榊さんのツッコミが面白くて笑っていると、榊さんが頭を撫でてきた。この人はどうしてすぐ頭を撫でるのだろう。
「なんですぐ頭撫でるんです?」
「小さくて撫でやすいから。」
「なに?私がちびって言いたいの?喧嘩売ってるなら買いますけど?」
「言ってないし喧嘩も売ってない。ほら、今結華は座ってるじゃん?それがちまっとしてて撫でやすいって事。」
「やっぱ喧嘩売ってますよね。買います。」
ぺしぺしと撫でている手を叩いた。榊さんは笑いながら撫でるのを辞めた。
「結華って面白いよね。見てて飽きない。」
「面白くなんてないですよ。世の中にはもっと面白い人居ます。」
「そうかもしれないけどさ、僕は結華の事面白いって思うよ。それはそれでいいじゃん。感じ方は人それぞれなんだし。」
「確かに。」
榊さんの言う事も一理ある。
榊さんはたまにこうやって正論を言ってくるから新しい発見が出来る。新しい発見というより、自分が世間を知らないだけかもしれないが。
「僕、結華を見てて思うんだけど、もっと自信持って生きた方が人生生きやすいよ。」
「え?」
唐突に言われ榊さんを見ると、いつものへらへらしている感じではなく、真面目な顔をしていた。
「結華と出会って一ヶ月しか経ってないけどさ、見てて生きにくそうだなって感じる。」
「案外そうでもないよ。もうこれで慣れてるし今更生き方を変えるのは難しい。」
「じゃあ生きる環境を変えてみな。そうしたら結華はもっと輝けるよ。」
榊さんは本気で私の事を心配しているのだろう。だけど今、私があの家を出てしまったら母親は高確率で自殺するだろう。自分のせいで母親が死ぬのは避けたい。
「自分でも環境を変えた方がいいとは思ってますよ。でもそのせいで母親が死んだら私のせいになるじゃないですか。それが嫌なんですよね。」
「もし結華が一人暮らししてお母さんが死んだとしても、結華が悪い事って一つもなくない?」
榊さんがあまりにケロッと言うから驚いた。そんな私を見て榊さんも驚いていた。
「なんでそんな驚くの?」
「驚きますよ。だって私のせいで母親が死ぬんですよ?それのどこが悪くないんですか?」
「いやだって結華自身が殺す訳じゃないじゃん?家を出た後の事は残った人がフォローすればいいと僕は思うし。お姉さんも家を出たのにわざわざフォローしに来ないでしょ?」
「確かに!」
目からウロコだった。そして私は自分の視野でしか物事を見れていないのだと実感した。第三者目線で物事を見てもらうのは大事だという事を改めて学んだ。
「そのままだと結華の心が壊れそうだから、一人暮らしを目指した方がいいよ。」
「それ、水樹さんにも言われた。でも母親もいつも狂ってる訳じゃないんですよ。優しい時は優しいんです。」
私が母親の悪い所しか言わないからそう思われても仕方ないのだが、母親も優しい時は優しい。ただその頻度が少ないだけだ。
と、そんなしなくてもいいフォローをしてしまった。私の小さい頃からの癖だ。母親の事を悪く言っているのは自分だが、人に悪く思われるのは嫌みたいだ。自分の事だけど自分がよくわからない。
「それDVされてる人が言う言葉だよ。大丈夫?されてない?」
「小さい頃、たまーに叩かれた事あります!でも今はないです!」
「ねぇ、本当に大丈夫?このお店の人達結構家族間の闇深い人多いけど、君もかなり家族間の闇深いよね。」
「自分でも思う。だから幸せそうな家族とかカップル見るとイライラしちゃう。逆にしないんですか?」
「しないかな。その人が幸せかどうかなんてその人達にしかわからないしさ、言い方悪いけど僕は僕自身が楽しければそれでいいって思うから他人の事なんてどうでもいいんだよね。」
「おぉー...」
そういう考え方もあるのか。確かに人の幸せを憎むより、自分がどうしたら幸せに感じるかを考えた方が人生よっぽど楽しめる。けれど...
「...榊さんの考えってどれも素敵で、真似したくなる事ばかりです。」
「うん、真似しな?まじで楽になるよ。」
「そうですよね。私、ここに居る時はなんでも出来る気がして、榊さんやみんなのいい所を真似して生きてみようと思うんです。でもいざ家に帰って家族と接してると、自分なんかが幸せになっちゃいけないって思いになっちゃって。」
私だけが幸せになってしまえば、母親はその幸せを壊しにくるだろう。なんでお前だけが幸せなんだって。壊されるぐらいなら最初から自分だけの幸せなんて求めないで、母親と一緒に幸せになれる道を選んだ方が楽だ。
「結華、今から厳しい事言ってもいい?」
榊さんは時間を確認し座り直した。榊さんの休憩が終わるまであと十分しかない。
「榊さんはいつも厳しいですから今更って感じですけどね。」
笑って冗談を言ったが、榊さんは笑ってくれなかった。
「結華さ、母親とか父親ってずっと生きてると思ってるの?結華が大人になるまでずっと。」
「それは思ってない。」
「だったらそんな老い先長くない人達の事なんて考えなくたっていいじゃん。これからの人生を生きるのは他でもない、結華自身なんだよ。」
「...っ、」
榊さんの言っている事は何一つ間違っていない。私が今、どんなに母親の機嫌を取ったとしてもいずれ母親は死ぬ。母親が死んだ後、母親の機嫌しか取らなかった私には何が残るのだろうか。
でも今、母親が生きているのも事実だ。今を上手くかわさなければ私に未来なんて訪れない。もうすぐ高校を卒業すると言っても、金銭的にすぐ一人暮らしは出来ない。だから今は母親の機嫌を取るしか方法はないのだ。
榊さんに正論を言われた一瞬の間に色々考えた結果、辿り着いたのは怒りの感情だった。私の家の内情を見た訳でもないのに。私が話した事しか知らないくせに。全部私が悪いみたいな言い方しないでほしい。
「結華、僕休憩終わるから勤怠打ってくれる?」
「あぁ...はい。」
榊さんの休憩が終わってくれて良かった。このまま一緒に居たらイライラして傷つける言葉を沢山吐いてしまう。
─これからの人生を生きるのは他でもない、結華自身なんだよ。─
一人ぽつんと休憩室に残されて、榊さんの言葉を頭で反芻する。そんなの自分でも痛い程わかってる。
「じゃあどうすればいいのよ...」
休憩室の机に頭を突っ伏した。榊さんの言葉が図星すぎて涙が出そうになったが、私ももうすぐ休憩が終わるから耐えた。
ここに働き始めてから、誰の顔色も伺わない自分の人生を生きてみたいと思うようになった。でもそれは母親の事を見捨てるという事で。
いやそもそも、その考え自体がおかしいのだろう。自分の人生を生きてみたいと思う事は悪い事ではないのだから。結局、母親が私に依存しているようで私も母親に依存しているのだ。だから母親にはっきり物事を言えないし、機嫌取りをしてしまう。
でもそれを直す方法がわからない。こうやって生きるのが私の─普通─だったから、みんなが過ごしているような─普通─はどうしたら手に入るのか。
誰か─普通─とはなんなのかという勉強会を開いてくれないかな。もしそういう勉強会があったらなにがなんでも行く。
「そろそろ戻らなきゃ...」
重たい腰を上げ勤務に戻った。幸い、榊さんとはあまり接しなくてもいい配置だったから安心して仕事が出来た。
「ねぇ早瀬、龍と喧嘩でもしたの?」
榊さんにきつく言われた日から一ヶ月が経った頃、休憩が一緒になった橋本さんに聞かれた。やっと名字からさん付けがなくなって密かに喜んでいる。次は下の名前で呼んでもらうのが目標だ。
「え、なんでですか?」
「なんか龍が早瀬に避けられてる気がするって言ってたからさ。喧嘩でもしたのかなって。」
「避けてるつもりはないんですけどねぇ。」
あの一件以来、榊さん自身が塾の講師の方が忙しくなったからと、あまりシフトに入らなくなった。だから私が気まずいから避けているのではなく、本当に偶然、避けてるみたいな形になってしまっただけだ。
「そうだったんだね。あいつに言っとくよ。」
「そうしてください。」
あれから一ヶ月経ったけれど私は何も変われていない。学校がある日は学校に行き、バイトがあればバイト、何もない日は家の事をやる。その繰り返しだ。
そしてここ最近、母親の機嫌が悪い日が多い。だからその機嫌取りもしなければならない。私が機嫌取りをしなかったら誰も機嫌取りをしないから、母親はダメになってしまうだろう。それでいざ家に帰って母親が死んでいたら一生物のトラウマだ。
私は自分の心が休まる場所がなくて精神的にかなり疲れていた。もう誰かに死ねと言われたらすぐ死ねるぐらい。なんなら殺してくれても構わない。
私はここのカフェで働き始めてから家庭環境の相談をする人が増えた。水樹さんはもちろん、榊さんやたまに橋本さんにも家庭環境の事を相談していた。
そこで気づいた事があった。誰かに家庭環境を相談した後のバイト帰りは家でどんなに嫌な事があっても心がそこまで痛む事はなかった。けれど今は榊さんや水樹さんと一緒のシフトにならないからあまり家庭環境を相談出来ていない。榊さんに関してはあの日以来会っていないし。
だからこんなに心が疲れるのだ。やはり人は負の感情は心に留めないで、言葉に出すといい事を学んだ。カフェで働き始めてから学ぶ事が多くて助かっている。
「じゃあ私はタバコ吸ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
橋本さんが休憩室から居なくなり話す相手が居なくなってしまったからスマホを見ると、母親からメッセージが入っていた。
【もう支払いとか回らなすぎるから、私、死のうかな。】
【死んだら保険金入るじゃん。それで支払い回してよ。そうしたら私がこんなに悩む必要ないし。】
【電車がいいかな。一発で死ねそう。】
「うわ...」
メッセージを見た瞬間、猛烈な吐き気がきた。心臓もバクバクしている。
母親が死にたい、死のうと言うのはよくある事だが、ここまで酷いのは久々だ。確か姉が家を出た後もこんな感じだった気がする。
私はカフェで働き始めてから給料がかなり良くなった。だから支払いで足りない分を私の給料全額渡して毎月どうにか凌いでいた。
けれど私も私でお金が入り用だから今月は固定した金額は払うけど、プラスしては出せないよと前もって言っていたのにこの言葉だ。遠回しに私に出せと言っているのだろう。
でももしまたここで不足分を出してしまったら。私に泣きつけば出してもらえると思われて、依存が酷くなってしまう。それだけは避けたい。
【支払えないものは支払えないよ!】
【悩んでも仕方ないじゃん!時間の無駄】
私がそう送るとすぐ既読がつき、返事もすぐ返ってきた。
【それだとこの家にも住んでいられなくなるのよ!?わかって言ってんの!?】
母親の言い分もわからない訳ではではない。うちは持ち家ではなく賃貸の一軒家だから、家賃を払わないと当たり前だが追い出されてしまう。それだと弟が高校に通えなくなってしまうから避けたいのだろう。前にちらっとそんなような事を言っていたし。結局、弟の事しか考えていないのだ。
【なら家賃を優先して払えば?】
【そうしたら借金が返せなくなるじゃん!!だからやっぱり私が死ぬしかないんだよ。】
なら死ねばいいじゃん。そんな事言いながら結局、いつも死なないくせに。病みメッセージを休憩中に見てる私の身にもなってみろ。このもやもやした思いを抱えてバイトするんだからな。こんなメッセージを見たら嫌でも頭にも心にも残るだろ。
どうして母親は私にはそういう配慮をしてくれないのだろうか。このメッセージの相手が弟だったら、自分の心がしんどい事や家にお金が究極にない事をなにがなんでもバレないように隠すくせに。その相手が私だったらなんでも言ってもいいのかよ。いい加減にしてほしい。
心の奥底に眠っていた、いや、眠らせていた黒い感情が少しずつだが表に出てきたのを感じた。このままこの黒い感情を表に出してしまったら、もう今の私には戻れない。自分が壊れて、今度こそ再起不能になってしまう気がしてならない。だからどうしてもこの黒い感情には眠っておいてもらうしかないのだ。
ではどうしたらいいのか。このまま話を聞いていたら、絶対と言い切れるほど自分が壊れる。かと言って話を聞かなかったらブチ切れられて、今度こそ私を刺すだろう。
「もうやだ...」
スマホの画面を下にして、机に突っ伏した。今の私に気の利いた返事を返す元気はなかった。
何をどうしても良い方向にいかない。なんで私ばかりこんな思いしなければいけないのだろう。私と同い年の子達はもっと楽しそうに生きてるのに。なのになんで私は同じように生きれないの?
「そうか、私が死んじゃえばいいんだ。」
私が死ねば、母親から依存される事はなくなるし、私自身も毎日母親の事で頭を悩ませずに済む。
どうしてもっと早く気付かなかったのか。いや、気付いてても心のどこかでは死ぬのは怖くて、死ぬ勇気がなかったのだ。
でももう本当に怖さなんて感じない。この辛い現実から逃げられる道があるのなら、死なんて全く怖くない。今みたいに母親の顔色を伺いながら生きている方がよっぽど怖い。
決行日は今日のバイト終わりだ。この辺は海が近いから身投げにしようか。でもこの季節、外が暗くなるのが早いから海には警備員が居る気がする。もしその人に声を掛けられたら身投げなんて到底出来ないし、身投げの最中に声を掛けられて止められたらたまったものではない。確実に死ねる方法を考えないと。
母親からずっとメッセージがきているが全部無視して、確実に死ねる方法を調べた。
調べた結果、やはり車に轢かれるか、電車に飛び込みだと一発で死ねる確率が高いみたいだ。
電車に飛び込むなら、私がバイトから帰る時間と急行の電車が通過する時間が重なる。その時を狙おうか。でも電車で死ぬのは気が乗らない。死ぬなら一人でひっそり死にたい。
「あ、もう戻らなきゃ。」
死ぬ方法を調べていたらあっという間に休憩時間が終わった。とりあえず最初は海に行く事にした。それで人が居るようなら違う方法を考えよう。
「休憩ありがとうございましたー」
みんなに声を掛けて仕事に戻った。ここで仕事するのも今日で最後になるかもしれない。まだ水樹さんになんの恩も返せてないけど仕方ない。来世の私に頑張ってもらおう。今世の私は疲れてしまった。
恩で言うと、榊さんにもなんの恩も返せないで終わるなぁ。あの人にもかなり家庭環境の事を相談して、アドバイスをもらったのに。
私って結局、何も成果をあげられないまま死ぬんだなぁ。
でもいっか。どんなに成果をあげたとしても、遅かれ早かれ人はいつか絶対死ぬし。ここまで生きただけ偉いよね。
「お疲れ様ですー」
「お疲れ様!気を付けて帰るんだよー」
上がりの時間になり近くに居た橋本さんに声を掛けると、笑顔でそう言われた。いつもなら気を付けてと言われて嬉しいが、今日は心が痛んだ。このまま帰らず死のうとしているのだから。
「ありがとうございます!」
けれどそれを言う事も、悟られる事もしてはいけない。だから今出来る精一杯の笑顔で対応した。この人は私が死んだら悲しんでくれるのかなと思いながら。
更衣室に入りスマホを開くと、メッセージが五十件近くきていた。全部母親からだ。この人は暇なんだろうなぁと思いながら服を着替え、スマホの電源を切った。電源を入れたままだとGPSで自分の居場所がわかってしまうから。
いつもの私だったら電源を落とすなんて事絶対しない。切ったその後が怖いから。でも今は何も怖いものなんてない。人って死を決めるとこんなに楽になるんだ。いつまでも悩んでいないで、もっと早く死を決めれば良かった。
「お疲れ様です。カードキー返しに来ました。」
「はーい、ここにサインしてー」
カードキーを返しに行くと、いつもにこにこしているおじさんだった。この人は私がカフェに入ってまもない頃、カードキーの受け取り方を一向に覚えられない私にゆっくりでいいからねと言ってくれたおじさんだ。
死んだら、この人にも会えなくなっちゃうなぁ。
「あの、私に色々教えてくれてありがとうございます。」
そう思ったらお礼の言葉が口から出ていた。何も残せないのだから、せめてお礼ぐらいは言っておこう。
「えぇ、急にどうしたの?辞めちゃうの?入って日が浅いよね?」
おじさんは急にお礼を言われたからか驚いていた。それよりも、私の事覚えているんだ。
「辞めませんよ。ただお礼を言いたくなっただけです。では、お疲れ様です。」
そう、辞めはしない。在籍は残したままこの世から去るだけだ。
「ありがとう。暗いから気を付けて帰るんだよ。」
「ありがとうございます!」
なんで今日に限ってみんなこんなに優しいのだろう。
もしかしたら今まで自分が気付かなかっただけで、みんな優しかったのかな。この優しさにもっと早く気付いていたら、違う未来があったのかな。
「でももう遅いんだよね...」
そう、なにもかもがもう遅いのだ。どんなに優しくされようと、止められようとも。私の想いは変わらない。やはり─死─は、私にとっての─救い─だったみたいだ。
いつもだったら改札に向かう道を、海に向かって歩き始めた。まだ十八時だが、外はかなり暗い。海に入ったらあっという間に見えなくなるだろうな。
遺体もすぐには発見されないだろうから、母親はかなり狂うだろう。心の支えにしていた私が、自分のせいで居なくなってしまうのだから。...でもあの人の事だから、自分のせいだとは微塵も思わず、バイトや学校のせいにするだろう。私が自分の事を傷つけていた時も自分のせいだとは微塵も思っていなかったのだから。
私の人生ってなんだったのかな。物心ついた時から家族のバランスをとる役をやらされて、姉が出て行ってからは母親の機嫌取りで。お金を稼げるようになってからはATMだ。こんな高校三年生、他に居ないだろう。よく今まで耐えてきた。
「あ...見えてきた。」
歩く事三十分。海の近くに行く為の階段が見えてきた。明るい時に来た事はあるが、暗い時に来るのは初めてだ。何も見えなくて怖さが押し寄せてきたが、あいにくスマホの電源を落としているからライトも付けられない。
スマホの電源を入れたら母親からのメッセージや電話が凄いのだろうなぁ。まあもうあの家には戻らないからどうでもいいのだが。
階段を滑らないようにゆっくり下ると、海が見えてきた。
「綺麗...」
夜の海は昼間の透き通った青い海とは違って、クレヨンで塗り潰したかのように真っ黒だった。今日は天気が良かったから空に星が煌めいている。それが海に反射して海がきらきらしている。そのおかげで綺麗に見えるのだろう。
「うわ...めっちゃ砂入ってくる。」
バイトで使っているローファーのままで来てしまったから、少し歩いただけでローファーに砂が入ってしまう。
でもそれがなんだかいけない事をしている気分で楽しかった。
私は母親にダメと言われた事は絶対にしない子だった。母親に嫌われたくなかったから。良い子に見られたかったから。
けれど母親が見ていたのは結局、出来の良い姉と弟だけだった。私の事は見向きすらしてくれなかった。
「誰でもいいから私の事、大事に想ってくれる人に出会いたかったなぁ...」
そう呟いてから荷物を全部砂浜に置き、海に向かって歩き出した。冬の海は冷たいはずなのになにも感じなかった。
暗闇の海にどんどん吸い込まれていく気がして気付いたら身体の半分、海に浸かっていた。
「ねぇ、君!何してんの!?」
その先に進もうと歩き出した時、砂浜から声が聞こえた。この声には聞き覚えがある。
「榊さん...?」
そう、私の死の邪魔をしたのは榊さんだった。先程私がここに来た時は誰も居なかった。いつの間に来たのだろうか。
「結華!?こんな真冬に何してんの?風邪引くから早くこっちおいで。」
「大丈夫です。死ぬんで!」
死ぬなんて大きな声で言いたくなかったが、私が居る海の中と、榊さんが居る砂浜では距離があるから大きな声で話さないとお互いの声が聞こえない。
「何言ってんの!死んじゃダメだよ!」
─死んじゃダメだよ!─
その言葉で、私の中に眠らせていた黒い感情が表に出てくるのを感じた。
「榊さんは私の何を知ってるのよ!何も知らないくせに簡単に死んじゃダメとか言わないで!」
「結華!!」
榊さんの呼び掛けを無視して、先に進んだ。
私が今まで、どんな想いを抱えて生きてきたか知らないくせに。知ろうともしてくれなかったくせに。死を止める事だけはするんだ。結局、人間なんてそんなもんだよね。自分の目の前で人が死んでほしくないから。死のうとしてる人を助けたっていう称号が欲しいから。そんな自分勝手な行動に私を巻き込まないでほしい。
「あっ...」
足がつく場所がなくなったのか、身体が傾いた。このまま海に沈めば、この辛くて理不尽な人生から抜け出せる。やっと私は解放される。
十八年間の人生を振り返りながら目を閉じた。いい思い出なんて、一つもなかったなぁ。
「簡単じゃないです!だったらなんで私が作ったやつはあんなシャバシャバになったんですか!」
「作ってる工程を僕が見てないからわかんないよ...」
榊さんは笑っていた。こっちは真剣に聞いているのに。
どうしてガナッシュの話になったかと言うと、私が急にチョコレートケーキを作りたくなって作ったのだが、スポンジにかけるガナッシュが上手くいかなくて結局、スポンジだけで食べるはめになった。
榊さんは料理が好きだと聞いた事があった。だから相談してみて、今に至る。
「ちゃんと分量通りにやったんですけどねぇ。」
「なにか多かったんじゃない?お菓子作りって一ミリ多いだけでも狂うからね。」
「もうやんない...」
「拗ねないの。また挑戦してみたらいいじゃん。」
拗ねてそっぽを向いていると頭を撫でられた。この人は塾講師をしてるだけあって子供の扱いが上手い。
「今回はたまたま材料買えるお金があっただけであって、そんな易々と買えないんです!」
「結構シフト入ってるのになんでお金ないのよ。」
その言葉に悪気なんて一つもないのは頭ではわかっている。けれど私の家庭事情を詳しく知らないでそう言われるのはやはりいい気はしない。
「お金は全部親に取られちゃうんですーだから自分に残った月はレアなんですー」
冗談混じりに言い返すと、榊さんは笑っていた表情から驚いた表情に変わった。
「どういう事?それ。」
「うち、裕福な家庭じゃないんで私が稼がないと支払いが回らないんですよね。」
「あー、前にちらっと聞いた事あるかも。」
「うん、言った気がする。」
今までのバイト先の人には何がなんでも家庭の事は話さなかった。もし私の家庭事情を聞いた誰かがやばいと思い、警察に通報されてしまったら未成年の私は色々と終わる。
けれどここのカフェの人達は働いている皆が訳ありだ。だからそういう事をしないと信じているから自分の家庭環境を話す。誰かに話す事で心が軽くなっているというのも一つの理由だ。
「親は働いてないの?」
「父親は働いてますよ。でも馬鹿みたいに給料が安いんですよね。」
「お母さんは働かないの?」
「精神病なんで働けないって言ってます。弟は働いてるけど自分の学費で精一杯だから援助は出来ないって。私も一応学生なのに。ほんと、笑っちゃいますよね。」
自嘲気味に言うと、榊さんは私の頭を強めに撫でた。
「無理しちゃダメだからね。辛かったら誰かに頼りなよ。」
「んー、どうしよっかなー」
「こらー」
あまり暗くなりすぎても良くないと思い明るく言い返すと、榊さんもいつもの調子に戻った。
自分の家庭の事を話すと確かに自分の心は軽くなるが、聞いている人の心を重くしてしまう。それが申し訳ないから少しずつ話すようにはしている。
「さて、僕は帰るとしようかな。結華は何時まで?」
「休憩が?それとも上がる時間?」
「上がる時間。」
「んっとね、十七時。くそっ、今日はいつもより一時間短いから最悪。」
「家に早く帰れるって喜ぶのはよく聞くけど、早く帰れてくそって言っているのは中々ないよね。」
「世の中には色んな人が居るんだよ。じゃあね、また明日。」
「あ、明日シフト被ってるんだ。じゃあまた明日ね。」
「はーい。お気を付けて帰ってくださいねー」
榊さんは手をひらひらさせて帰って行った。寂しいなぁと思いつつ、残りのバイトも頑張ろうと思い直した。
私と榊さんは初めてましてをしてから比較的すぐ仲良くなった。歳が四つも離れているとは思えない程。
私がわからない事を聞いたら優しく教えてくれて、お店が暇な時は仕事以外の話もしてくれた。それで仲良くならない方がおかしい。
でも榊さんと関わっていて少しだけ気になる事があった。どうしてずっと笑っているのだろうと。それは初めましてをした時から感じていた。
笑っていると言っても色々あるが、げらげら笑う方のではなく、にこにこだったりへらへらの笑う方だ。
私も人前ではにこにこする様にしている。自分の心の内を誰にも悟られない為に。榊さんの笑いはそれに似ているのだ。
でも榊さんは自分の事をあまり話さない。話したくない出来事や思い出したくない出来事があるのかもしれないから、私からも深く聞かない。でも気になってしまう。人間というのは本当に面倒臭い生き物だ。
「ただいまー」
「この家の人達は人を助けようって気持ちがないんだよ。だから私ばっかり辛い思いするんだ...」
バイトが終わり家に帰ると、リビングから母親の愚痴が聞こえた。廊下にまで聞こえる愚痴は久々だ。私が居ない間に何があったのだろう。
「お母さん、ただいま。」
手洗いだけ済ませてリビングに行くと、母親は洗濯物を畳んでいた。
「遅い!なんでもっと早く帰って来れないの!あんたが最近家に全く居ないせいで家の事全部私がやらないといけないじゃないの!」
まさかの原因は私だった。でも確かに、ここ最近は学校がある日は夕方からバイトして、休みの日は朝からバイトを入れていたから家に全く居ないというのは間違っていない。
でもそんなにバイトを詰め込まないといけない理由を考えて欲しい。父親の給料だけでは支払いがやっていけないから、私が不足分を補う為にバイトを詰め込んでいるのだ。文句は給料が安い父親に言ってほしい。
それに母親は専業主婦ではないか。主婦が家の事をしなかったらなにをするのだ。
「うん、そうだね。ごめんね。来週からはバイトが落ち着くと思うから。」
ぶっちゃけ私はなに一つ悪い事なんてしていないし、むしろ褒められる事しかしていない。けれどこの家では私の頑張りは認められない。今に始まった事ではないが、心が痛むものは痛む。
「私がしんどい思いしてるのわからないの!?なにが来週だよ。私がしんどいのは今なんだよ!今!どうにかしてよ!」
今日は面倒臭いパターンだな。この一方通行の言い争いは多分あと一時間は続くだろう。くそ、やっぱり早く帰れるとろくな事がない。
「でも私もお金稼がないといけないから休めないよ。」
「お金なんて自分の為でしょ!?こっちにはなんの利益もないのに!」
その言葉で我慢しようと必死に押さえ込んでいた怒りが出てきた。
「それは違うじゃん。私の給料、ほぼ家に渡してるのはわかるよね?それがないと生活出来ないのに利益がないなんて言ってほしくない。利益がないのは私自身だよ。」
あぁ、言ってしまった。私、これからどうなるかな。
私の願いとしては怒り狂った母親が包丁を持って来て、私を刺して欲しい。そして弟の将来をダメにして欲しい。母親が子供を殺害したらその身内の就職に不利になるとなにかで見た事ある。そうなってしまえばいいと本気で願っていた。
「...もう私寝るから。後の事はやっといて。」
だが母親はそれ以上怒る事なく、畳んでいた洗濯物をそのままにしてソファーに転がった。寝るなら違う所行けよ。
それにしても、今回も死に損ねちゃった。今回の怒り方からして前みたいに包丁を持って暴れると思ったのに。
でも包丁を持って私を目掛けて刺すのが理想だから、ただ暴れるだけではまた警察を呼ばれておしまいだからダメだ。私を刺してみんなの人生をめちゃくちゃにするのが最近の夢なのだから。
本気でそんな事を考えている自分が面白かった。今まで死ぬ事は怖いと思っていた。でも今は思わない。この馬鹿みたいに不平等でクソな世の中からおさらば出来るのだから、─死─は私にとって─救い─だ。
「って私は思うんですけど、榊さんはどう思います?」
「うーん、君かなり病んでると思う。」
次の日。また休憩が被ったから昨日あった事をちらっと話し、自分の考えも話してみた。
「病んでないです。正常です。」
「正常な人は自分で正常って言わないの。」
「でもスマホでお使いの端末は正常ですって出る時あるよ?」
「んー、人間とスマホを一緒にしたらいけないし、その画面が出る時はスマホがなにかなっちゃった時じゃない?」
「確かに!」
榊さんのツッコミが面白くて笑っていると、榊さんが頭を撫でてきた。この人はどうしてすぐ頭を撫でるのだろう。
「なんですぐ頭撫でるんです?」
「小さくて撫でやすいから。」
「なに?私がちびって言いたいの?喧嘩売ってるなら買いますけど?」
「言ってないし喧嘩も売ってない。ほら、今結華は座ってるじゃん?それがちまっとしてて撫でやすいって事。」
「やっぱ喧嘩売ってますよね。買います。」
ぺしぺしと撫でている手を叩いた。榊さんは笑いながら撫でるのを辞めた。
「結華って面白いよね。見てて飽きない。」
「面白くなんてないですよ。世の中にはもっと面白い人居ます。」
「そうかもしれないけどさ、僕は結華の事面白いって思うよ。それはそれでいいじゃん。感じ方は人それぞれなんだし。」
「確かに。」
榊さんの言う事も一理ある。
榊さんはたまにこうやって正論を言ってくるから新しい発見が出来る。新しい発見というより、自分が世間を知らないだけかもしれないが。
「僕、結華を見てて思うんだけど、もっと自信持って生きた方が人生生きやすいよ。」
「え?」
唐突に言われ榊さんを見ると、いつものへらへらしている感じではなく、真面目な顔をしていた。
「結華と出会って一ヶ月しか経ってないけどさ、見てて生きにくそうだなって感じる。」
「案外そうでもないよ。もうこれで慣れてるし今更生き方を変えるのは難しい。」
「じゃあ生きる環境を変えてみな。そうしたら結華はもっと輝けるよ。」
榊さんは本気で私の事を心配しているのだろう。だけど今、私があの家を出てしまったら母親は高確率で自殺するだろう。自分のせいで母親が死ぬのは避けたい。
「自分でも環境を変えた方がいいとは思ってますよ。でもそのせいで母親が死んだら私のせいになるじゃないですか。それが嫌なんですよね。」
「もし結華が一人暮らししてお母さんが死んだとしても、結華が悪い事って一つもなくない?」
榊さんがあまりにケロッと言うから驚いた。そんな私を見て榊さんも驚いていた。
「なんでそんな驚くの?」
「驚きますよ。だって私のせいで母親が死ぬんですよ?それのどこが悪くないんですか?」
「いやだって結華自身が殺す訳じゃないじゃん?家を出た後の事は残った人がフォローすればいいと僕は思うし。お姉さんも家を出たのにわざわざフォローしに来ないでしょ?」
「確かに!」
目からウロコだった。そして私は自分の視野でしか物事を見れていないのだと実感した。第三者目線で物事を見てもらうのは大事だという事を改めて学んだ。
「そのままだと結華の心が壊れそうだから、一人暮らしを目指した方がいいよ。」
「それ、水樹さんにも言われた。でも母親もいつも狂ってる訳じゃないんですよ。優しい時は優しいんです。」
私が母親の悪い所しか言わないからそう思われても仕方ないのだが、母親も優しい時は優しい。ただその頻度が少ないだけだ。
と、そんなしなくてもいいフォローをしてしまった。私の小さい頃からの癖だ。母親の事を悪く言っているのは自分だが、人に悪く思われるのは嫌みたいだ。自分の事だけど自分がよくわからない。
「それDVされてる人が言う言葉だよ。大丈夫?されてない?」
「小さい頃、たまーに叩かれた事あります!でも今はないです!」
「ねぇ、本当に大丈夫?このお店の人達結構家族間の闇深い人多いけど、君もかなり家族間の闇深いよね。」
「自分でも思う。だから幸せそうな家族とかカップル見るとイライラしちゃう。逆にしないんですか?」
「しないかな。その人が幸せかどうかなんてその人達にしかわからないしさ、言い方悪いけど僕は僕自身が楽しければそれでいいって思うから他人の事なんてどうでもいいんだよね。」
「おぉー...」
そういう考え方もあるのか。確かに人の幸せを憎むより、自分がどうしたら幸せに感じるかを考えた方が人生よっぽど楽しめる。けれど...
「...榊さんの考えってどれも素敵で、真似したくなる事ばかりです。」
「うん、真似しな?まじで楽になるよ。」
「そうですよね。私、ここに居る時はなんでも出来る気がして、榊さんやみんなのいい所を真似して生きてみようと思うんです。でもいざ家に帰って家族と接してると、自分なんかが幸せになっちゃいけないって思いになっちゃって。」
私だけが幸せになってしまえば、母親はその幸せを壊しにくるだろう。なんでお前だけが幸せなんだって。壊されるぐらいなら最初から自分だけの幸せなんて求めないで、母親と一緒に幸せになれる道を選んだ方が楽だ。
「結華、今から厳しい事言ってもいい?」
榊さんは時間を確認し座り直した。榊さんの休憩が終わるまであと十分しかない。
「榊さんはいつも厳しいですから今更って感じですけどね。」
笑って冗談を言ったが、榊さんは笑ってくれなかった。
「結華さ、母親とか父親ってずっと生きてると思ってるの?結華が大人になるまでずっと。」
「それは思ってない。」
「だったらそんな老い先長くない人達の事なんて考えなくたっていいじゃん。これからの人生を生きるのは他でもない、結華自身なんだよ。」
「...っ、」
榊さんの言っている事は何一つ間違っていない。私が今、どんなに母親の機嫌を取ったとしてもいずれ母親は死ぬ。母親が死んだ後、母親の機嫌しか取らなかった私には何が残るのだろうか。
でも今、母親が生きているのも事実だ。今を上手くかわさなければ私に未来なんて訪れない。もうすぐ高校を卒業すると言っても、金銭的にすぐ一人暮らしは出来ない。だから今は母親の機嫌を取るしか方法はないのだ。
榊さんに正論を言われた一瞬の間に色々考えた結果、辿り着いたのは怒りの感情だった。私の家の内情を見た訳でもないのに。私が話した事しか知らないくせに。全部私が悪いみたいな言い方しないでほしい。
「結華、僕休憩終わるから勤怠打ってくれる?」
「あぁ...はい。」
榊さんの休憩が終わってくれて良かった。このまま一緒に居たらイライラして傷つける言葉を沢山吐いてしまう。
─これからの人生を生きるのは他でもない、結華自身なんだよ。─
一人ぽつんと休憩室に残されて、榊さんの言葉を頭で反芻する。そんなの自分でも痛い程わかってる。
「じゃあどうすればいいのよ...」
休憩室の机に頭を突っ伏した。榊さんの言葉が図星すぎて涙が出そうになったが、私ももうすぐ休憩が終わるから耐えた。
ここに働き始めてから、誰の顔色も伺わない自分の人生を生きてみたいと思うようになった。でもそれは母親の事を見捨てるという事で。
いやそもそも、その考え自体がおかしいのだろう。自分の人生を生きてみたいと思う事は悪い事ではないのだから。結局、母親が私に依存しているようで私も母親に依存しているのだ。だから母親にはっきり物事を言えないし、機嫌取りをしてしまう。
でもそれを直す方法がわからない。こうやって生きるのが私の─普通─だったから、みんなが過ごしているような─普通─はどうしたら手に入るのか。
誰か─普通─とはなんなのかという勉強会を開いてくれないかな。もしそういう勉強会があったらなにがなんでも行く。
「そろそろ戻らなきゃ...」
重たい腰を上げ勤務に戻った。幸い、榊さんとはあまり接しなくてもいい配置だったから安心して仕事が出来た。
「ねぇ早瀬、龍と喧嘩でもしたの?」
榊さんにきつく言われた日から一ヶ月が経った頃、休憩が一緒になった橋本さんに聞かれた。やっと名字からさん付けがなくなって密かに喜んでいる。次は下の名前で呼んでもらうのが目標だ。
「え、なんでですか?」
「なんか龍が早瀬に避けられてる気がするって言ってたからさ。喧嘩でもしたのかなって。」
「避けてるつもりはないんですけどねぇ。」
あの一件以来、榊さん自身が塾の講師の方が忙しくなったからと、あまりシフトに入らなくなった。だから私が気まずいから避けているのではなく、本当に偶然、避けてるみたいな形になってしまっただけだ。
「そうだったんだね。あいつに言っとくよ。」
「そうしてください。」
あれから一ヶ月経ったけれど私は何も変われていない。学校がある日は学校に行き、バイトがあればバイト、何もない日は家の事をやる。その繰り返しだ。
そしてここ最近、母親の機嫌が悪い日が多い。だからその機嫌取りもしなければならない。私が機嫌取りをしなかったら誰も機嫌取りをしないから、母親はダメになってしまうだろう。それでいざ家に帰って母親が死んでいたら一生物のトラウマだ。
私は自分の心が休まる場所がなくて精神的にかなり疲れていた。もう誰かに死ねと言われたらすぐ死ねるぐらい。なんなら殺してくれても構わない。
私はここのカフェで働き始めてから家庭環境の相談をする人が増えた。水樹さんはもちろん、榊さんやたまに橋本さんにも家庭環境の事を相談していた。
そこで気づいた事があった。誰かに家庭環境を相談した後のバイト帰りは家でどんなに嫌な事があっても心がそこまで痛む事はなかった。けれど今は榊さんや水樹さんと一緒のシフトにならないからあまり家庭環境を相談出来ていない。榊さんに関してはあの日以来会っていないし。
だからこんなに心が疲れるのだ。やはり人は負の感情は心に留めないで、言葉に出すといい事を学んだ。カフェで働き始めてから学ぶ事が多くて助かっている。
「じゃあ私はタバコ吸ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
橋本さんが休憩室から居なくなり話す相手が居なくなってしまったからスマホを見ると、母親からメッセージが入っていた。
【もう支払いとか回らなすぎるから、私、死のうかな。】
【死んだら保険金入るじゃん。それで支払い回してよ。そうしたら私がこんなに悩む必要ないし。】
【電車がいいかな。一発で死ねそう。】
「うわ...」
メッセージを見た瞬間、猛烈な吐き気がきた。心臓もバクバクしている。
母親が死にたい、死のうと言うのはよくある事だが、ここまで酷いのは久々だ。確か姉が家を出た後もこんな感じだった気がする。
私はカフェで働き始めてから給料がかなり良くなった。だから支払いで足りない分を私の給料全額渡して毎月どうにか凌いでいた。
けれど私も私でお金が入り用だから今月は固定した金額は払うけど、プラスしては出せないよと前もって言っていたのにこの言葉だ。遠回しに私に出せと言っているのだろう。
でももしまたここで不足分を出してしまったら。私に泣きつけば出してもらえると思われて、依存が酷くなってしまう。それだけは避けたい。
【支払えないものは支払えないよ!】
【悩んでも仕方ないじゃん!時間の無駄】
私がそう送るとすぐ既読がつき、返事もすぐ返ってきた。
【それだとこの家にも住んでいられなくなるのよ!?わかって言ってんの!?】
母親の言い分もわからない訳ではではない。うちは持ち家ではなく賃貸の一軒家だから、家賃を払わないと当たり前だが追い出されてしまう。それだと弟が高校に通えなくなってしまうから避けたいのだろう。前にちらっとそんなような事を言っていたし。結局、弟の事しか考えていないのだ。
【なら家賃を優先して払えば?】
【そうしたら借金が返せなくなるじゃん!!だからやっぱり私が死ぬしかないんだよ。】
なら死ねばいいじゃん。そんな事言いながら結局、いつも死なないくせに。病みメッセージを休憩中に見てる私の身にもなってみろ。このもやもやした思いを抱えてバイトするんだからな。こんなメッセージを見たら嫌でも頭にも心にも残るだろ。
どうして母親は私にはそういう配慮をしてくれないのだろうか。このメッセージの相手が弟だったら、自分の心がしんどい事や家にお金が究極にない事をなにがなんでもバレないように隠すくせに。その相手が私だったらなんでも言ってもいいのかよ。いい加減にしてほしい。
心の奥底に眠っていた、いや、眠らせていた黒い感情が少しずつだが表に出てきたのを感じた。このままこの黒い感情を表に出してしまったら、もう今の私には戻れない。自分が壊れて、今度こそ再起不能になってしまう気がしてならない。だからどうしてもこの黒い感情には眠っておいてもらうしかないのだ。
ではどうしたらいいのか。このまま話を聞いていたら、絶対と言い切れるほど自分が壊れる。かと言って話を聞かなかったらブチ切れられて、今度こそ私を刺すだろう。
「もうやだ...」
スマホの画面を下にして、机に突っ伏した。今の私に気の利いた返事を返す元気はなかった。
何をどうしても良い方向にいかない。なんで私ばかりこんな思いしなければいけないのだろう。私と同い年の子達はもっと楽しそうに生きてるのに。なのになんで私は同じように生きれないの?
「そうか、私が死んじゃえばいいんだ。」
私が死ねば、母親から依存される事はなくなるし、私自身も毎日母親の事で頭を悩ませずに済む。
どうしてもっと早く気付かなかったのか。いや、気付いてても心のどこかでは死ぬのは怖くて、死ぬ勇気がなかったのだ。
でももう本当に怖さなんて感じない。この辛い現実から逃げられる道があるのなら、死なんて全く怖くない。今みたいに母親の顔色を伺いながら生きている方がよっぽど怖い。
決行日は今日のバイト終わりだ。この辺は海が近いから身投げにしようか。でもこの季節、外が暗くなるのが早いから海には警備員が居る気がする。もしその人に声を掛けられたら身投げなんて到底出来ないし、身投げの最中に声を掛けられて止められたらたまったものではない。確実に死ねる方法を考えないと。
母親からずっとメッセージがきているが全部無視して、確実に死ねる方法を調べた。
調べた結果、やはり車に轢かれるか、電車に飛び込みだと一発で死ねる確率が高いみたいだ。
電車に飛び込むなら、私がバイトから帰る時間と急行の電車が通過する時間が重なる。その時を狙おうか。でも電車で死ぬのは気が乗らない。死ぬなら一人でひっそり死にたい。
「あ、もう戻らなきゃ。」
死ぬ方法を調べていたらあっという間に休憩時間が終わった。とりあえず最初は海に行く事にした。それで人が居るようなら違う方法を考えよう。
「休憩ありがとうございましたー」
みんなに声を掛けて仕事に戻った。ここで仕事するのも今日で最後になるかもしれない。まだ水樹さんになんの恩も返せてないけど仕方ない。来世の私に頑張ってもらおう。今世の私は疲れてしまった。
恩で言うと、榊さんにもなんの恩も返せないで終わるなぁ。あの人にもかなり家庭環境の事を相談して、アドバイスをもらったのに。
私って結局、何も成果をあげられないまま死ぬんだなぁ。
でもいっか。どんなに成果をあげたとしても、遅かれ早かれ人はいつか絶対死ぬし。ここまで生きただけ偉いよね。
「お疲れ様ですー」
「お疲れ様!気を付けて帰るんだよー」
上がりの時間になり近くに居た橋本さんに声を掛けると、笑顔でそう言われた。いつもなら気を付けてと言われて嬉しいが、今日は心が痛んだ。このまま帰らず死のうとしているのだから。
「ありがとうございます!」
けれどそれを言う事も、悟られる事もしてはいけない。だから今出来る精一杯の笑顔で対応した。この人は私が死んだら悲しんでくれるのかなと思いながら。
更衣室に入りスマホを開くと、メッセージが五十件近くきていた。全部母親からだ。この人は暇なんだろうなぁと思いながら服を着替え、スマホの電源を切った。電源を入れたままだとGPSで自分の居場所がわかってしまうから。
いつもの私だったら電源を落とすなんて事絶対しない。切ったその後が怖いから。でも今は何も怖いものなんてない。人って死を決めるとこんなに楽になるんだ。いつまでも悩んでいないで、もっと早く死を決めれば良かった。
「お疲れ様です。カードキー返しに来ました。」
「はーい、ここにサインしてー」
カードキーを返しに行くと、いつもにこにこしているおじさんだった。この人は私がカフェに入ってまもない頃、カードキーの受け取り方を一向に覚えられない私にゆっくりでいいからねと言ってくれたおじさんだ。
死んだら、この人にも会えなくなっちゃうなぁ。
「あの、私に色々教えてくれてありがとうございます。」
そう思ったらお礼の言葉が口から出ていた。何も残せないのだから、せめてお礼ぐらいは言っておこう。
「えぇ、急にどうしたの?辞めちゃうの?入って日が浅いよね?」
おじさんは急にお礼を言われたからか驚いていた。それよりも、私の事覚えているんだ。
「辞めませんよ。ただお礼を言いたくなっただけです。では、お疲れ様です。」
そう、辞めはしない。在籍は残したままこの世から去るだけだ。
「ありがとう。暗いから気を付けて帰るんだよ。」
「ありがとうございます!」
なんで今日に限ってみんなこんなに優しいのだろう。
もしかしたら今まで自分が気付かなかっただけで、みんな優しかったのかな。この優しさにもっと早く気付いていたら、違う未来があったのかな。
「でももう遅いんだよね...」
そう、なにもかもがもう遅いのだ。どんなに優しくされようと、止められようとも。私の想いは変わらない。やはり─死─は、私にとっての─救い─だったみたいだ。
いつもだったら改札に向かう道を、海に向かって歩き始めた。まだ十八時だが、外はかなり暗い。海に入ったらあっという間に見えなくなるだろうな。
遺体もすぐには発見されないだろうから、母親はかなり狂うだろう。心の支えにしていた私が、自分のせいで居なくなってしまうのだから。...でもあの人の事だから、自分のせいだとは微塵も思わず、バイトや学校のせいにするだろう。私が自分の事を傷つけていた時も自分のせいだとは微塵も思っていなかったのだから。
私の人生ってなんだったのかな。物心ついた時から家族のバランスをとる役をやらされて、姉が出て行ってからは母親の機嫌取りで。お金を稼げるようになってからはATMだ。こんな高校三年生、他に居ないだろう。よく今まで耐えてきた。
「あ...見えてきた。」
歩く事三十分。海の近くに行く為の階段が見えてきた。明るい時に来た事はあるが、暗い時に来るのは初めてだ。何も見えなくて怖さが押し寄せてきたが、あいにくスマホの電源を落としているからライトも付けられない。
スマホの電源を入れたら母親からのメッセージや電話が凄いのだろうなぁ。まあもうあの家には戻らないからどうでもいいのだが。
階段を滑らないようにゆっくり下ると、海が見えてきた。
「綺麗...」
夜の海は昼間の透き通った青い海とは違って、クレヨンで塗り潰したかのように真っ黒だった。今日は天気が良かったから空に星が煌めいている。それが海に反射して海がきらきらしている。そのおかげで綺麗に見えるのだろう。
「うわ...めっちゃ砂入ってくる。」
バイトで使っているローファーのままで来てしまったから、少し歩いただけでローファーに砂が入ってしまう。
でもそれがなんだかいけない事をしている気分で楽しかった。
私は母親にダメと言われた事は絶対にしない子だった。母親に嫌われたくなかったから。良い子に見られたかったから。
けれど母親が見ていたのは結局、出来の良い姉と弟だけだった。私の事は見向きすらしてくれなかった。
「誰でもいいから私の事、大事に想ってくれる人に出会いたかったなぁ...」
そう呟いてから荷物を全部砂浜に置き、海に向かって歩き出した。冬の海は冷たいはずなのになにも感じなかった。
暗闇の海にどんどん吸い込まれていく気がして気付いたら身体の半分、海に浸かっていた。
「ねぇ、君!何してんの!?」
その先に進もうと歩き出した時、砂浜から声が聞こえた。この声には聞き覚えがある。
「榊さん...?」
そう、私の死の邪魔をしたのは榊さんだった。先程私がここに来た時は誰も居なかった。いつの間に来たのだろうか。
「結華!?こんな真冬に何してんの?風邪引くから早くこっちおいで。」
「大丈夫です。死ぬんで!」
死ぬなんて大きな声で言いたくなかったが、私が居る海の中と、榊さんが居る砂浜では距離があるから大きな声で話さないとお互いの声が聞こえない。
「何言ってんの!死んじゃダメだよ!」
─死んじゃダメだよ!─
その言葉で、私の中に眠らせていた黒い感情が表に出てくるのを感じた。
「榊さんは私の何を知ってるのよ!何も知らないくせに簡単に死んじゃダメとか言わないで!」
「結華!!」
榊さんの呼び掛けを無視して、先に進んだ。
私が今まで、どんな想いを抱えて生きてきたか知らないくせに。知ろうともしてくれなかったくせに。死を止める事だけはするんだ。結局、人間なんてそんなもんだよね。自分の目の前で人が死んでほしくないから。死のうとしてる人を助けたっていう称号が欲しいから。そんな自分勝手な行動に私を巻き込まないでほしい。
「あっ...」
足がつく場所がなくなったのか、身体が傾いた。このまま海に沈めば、この辛くて理不尽な人生から抜け出せる。やっと私は解放される。
十八年間の人生を振り返りながら目を閉じた。いい思い出なんて、一つもなかったなぁ。



