あぁ、バイト辞めたい...。いつになったら私はこのバイトを辞められるのだろうか...。

バイトからの帰り道を歩きながら、どうしたら今のバイトを辞められるのか本気で考えていた。

バイトを辞める事自体は簡単だ。店長に辞めると言えばいいだけなのだから。私が悩んでいるのはバイトを辞めたその後の事だ。

今働いている職種が飲食だから、多分次のバイト先が見つからない事はないだろう。どこの飲食店も常に人手不足だから。私が悩んでいるのはそれでもない。お金の問題だ。

私は今、最低賃金より百円高い時給の所で働いている。そしてシフトもそこそこ入れてくれてるから安定した給料を貰っている。

もし今このバイトを辞めてしまったら。中々時給が同じぐらいの所は求人に出ていない。そうしたら消去法で最低賃金だ。新人だからシフトにもあまり入れてもらえず、安定した給料を貰う事はまずなくなるだろう。だから辞めたくても今のバイトを辞められないのだ。

「はぁ...その辺に百万ぐらい落ちてないかな。」

もし道端に百万円落ちていたら。すぐ家に持ち帰って今のバイトを辞める。百万ぐらいあればしばらくはバイトしなくても大丈夫だろう。

でも私の事だから、本当に目の前に百万円が道端に落ちていたらすぐ交番に届けるだろう。理由は簡単だ。百万円を持ち帰った事で警察に捕まりたくないから。

まず百万円を落とす人はまともではない。そんな人の物を持ち帰ったら、ワンチャン警察に捕まる前に落とした人に消される気もする。

...それはそれでいいかもしれない。こんな人生、価値なんて一つもないし。

悶々と毎日同じ事を考えながらバイト先から帰る。けれどバイト先から帰ったからと言って悩みがなくなる訳ではない。違う事で悩むのだ。

「ただいま。」

「おかえり、結華(ゆいか)。遅かったじゃない。」

玄関の扉を開けると母親が立って待っていた。

「そう?今日は時間通りに上がれたからそうでもないと思うけど。」

「遅いわよ。結局私が夕飯の準備する事になったじゃない。あんた、ただでさえ家に居る時間が少ないんだから早く帰れる時ぐらいやりなさいよ。」

「...はい。ごめんなさい。」

謝罪の気はないが申し訳なさそうに謝った。母親はそれで満足したのか。

「次からはちゃんとやってよね。」

吐き捨てるように言い自室に戻って行った。ちらりと靴箱の上に置いてある時計を見ると、十六時半と表示されていた。これのどこが遅いのだろうか。他の同級生はまだ働いているし、夕ご飯もまだまだなのに。

外で着ていた服を脱ぎ家着に着替える。そしてリビングに行くと二つ年下の弟が夕飯を食べていた。

「ただいま。」

至って明るく。母親に小言を言われたのを察せられないように。

「おかえり。今日は時間通り帰れたんだね。」

弟が家族共有の予定を書くカレンダーを見ながら言った。良かった、気づいてなさそうだ。

「うん。お客さんがいつもより少なかったからね。」

「良かったじゃん、早く帰れて。ご馳走でした。」

「うん。ありがとう。」

弟は食べ終わった食器をシンクの中に置き、リビングを出て行った。

「自分では絶対洗わないよね...」

誰にも聞こえないぐらいの声量で呟いた。この家はいつ、誰が聞き耳をたてているかわからないから。

シンクに洗い物を置きっぱなしにしてあったら私が怒られるから、嫌々洗い物をした。なんで家に帰って来てまで洗い物をしているのだろうと、考えても意味のない疑問が脳裏をよぎったが深く考えない事にした。考えたら心の中にあるどす黒い想いが表に出て、制御出来ないと思ったから。

洗い物を終わらせてリビングの中央にある机の上を見る。やはり私の分のご飯はなかった。

バイトを始めてからは帰りが遅くなる時の私の夕飯は作っておかなくていいと言ってある。バイト先で賄いが食べられるからだ。

だけどこうやって早く帰れる時は家の事をやらないといけないから、賄いを食べて帰れない。だから作っておいて欲しいのだが、どうやら私の母親は自分の都合のいい事しか耳に入らないみたいで私が早く帰れる日でもご飯を作っておいてはくれない。

前に遠回しに私が早く帰れる日で母親が夕飯を作る時があったら作っておいて欲しいと言った事があったが、自分で作れるでしょと言われてしまい話は終わった。確かに自分で作れるが、一人分を作るとなると面倒臭いが勝つ。だからこういう日は何も食べない。人間、一食食べなかったぐらいではなんともならない。

部屋に戻り、ベットに転がった。お風呂に入るにしてもまだ早すぎる。それまで寝ちゃおうかな...。

ピコン。

うとうとしていると、スマホが鳴った。この音はメッセージを知らせる音だ。私にメッセージがくるなんて滅多にないから眠気なんて吹き飛んだ。

【久しぶり!元気?】

そう送ってきたのは三つ前のバイト先で(私の初バイト先でもある)出会った坂本(さかもと)水樹(みずき)さんだ。

水樹さんは私より歳は二つ上だが、バイト先では私の方が先輩だった。歳上の人に何かを教えるのは怖かったが、水樹さんは私が歳下だからと言って馬鹿にはせず、わからない事があったらすぐ聞いてきてくれた。

それがきっかけで仲良くなり、バイトを辞めた今でもたまに連絡を取り合っていた。でも最近はお互い忙しくて連絡を取り合っていなかった。確か最後に連絡をしたのは年が明けた挨拶だった気がする。

【久しぶり!元気だよ〜水樹さんも元気?】

返事をするとすぐ既読がつき、次の文が送られてきた。

【元気だよ!ねぇ、まだカフェで働きたいと思ってたりする?うち今人手不足でさ...】

私が初バイト先を辞めた後、水樹さんは数ヶ月そのバイト先で働いていたのだが、仕事内容がエグすぎるのと自分が本当にやりたい仕事ではなかったから辞めたらしい。そしてそこそこ名前が知られているカフェに転職した。私もカフェで働いてみたいと思っていたから、水樹さんからカフェで働くと聞いた時は羨ましかった。

水樹さんはそれを覚えていてくれたのだろう。その事を嬉しく思いながら返事を返した。

【思ってる!それに今の職場を辞めたくて仕方ないし...】

【ならさ、一緒にカフェで働かない?】

やはりそうだったか。水樹さんから連絡が来た時からそんな気はしていた。水樹さんは用件がないと連絡をしてこないから。でもそれが近すぎず遠すぎずの関係で心地良いのだが。

【働きたい!】

すぐ返事を返すと、水樹さんもすぐ返事をくれた。

【わかった!店長にこういう子だよって相談しとくねーまた詳細がわかったら連絡する!】

【はーい!待ってる〜】

先程まであった眠気はどこかに行ってしまった。だって今のクソバイトを辞められるかもしれないのだ。こんなに運が良い事、久々だ。それにまた水樹さんと働けるかもしれないと思うとワクワクが止まらない。

まだ面接日も決まっていないのに、採用されたかのような気持ちだった。



【店長がいつなら都合がいいかーって】

水樹さんが次に連絡をしてきたのはそれから二日後のお昼だった。もう少し後になると思っていたから驚いた。

【九月の二六日と三十日なら夕方から空いてる!】

【おっけー、店長に伝えるね!また進捗があったら連絡する!】

【はーい】


【店長が三十日の十八時からはどうですかって。】

「え、はやっ」

その日の夕方。バイトに行こうと準備をしていたら昼間の返事が来た。そんなに人が足りていないのか。

【いいよー】

返事をするとこれまたすぐに既読がついた。水樹さんは基本、すぐ既読をつけない。それなのにすぐ既読をつけるという事は早く話を進めたいのだろう。

【なら三十日の十八時から面接でお願いします!】

【わかった!こちらこそよろしくお願いします!】

今日が二十日だから、あと十日間頑張れば、あのクソ店長に辞めると言えるかもしれないのだ。それまでは頑張ろう。

モチベーションがグンと上がり、頭に音符でも飛んでいるのではないかと思う程ルンルンでバイトに向かった。


「おはようございます」

「おん、おはよ」

バイト先の控え室に行くと、シフト上では居ないとなっていたクソ店長がいた。それだけで上がっていた気分が下がったのに、更に追い打ちをかけるように。

「そういや早瀬(はやせ)、シフトいつになったら出すんや。」

そう言われた。シフトなんて提出出来るようになってからすぐ出したのに。

「提出出来るようになってからすぐ出しましたけど。」

「どこに出したん?」

「シフト提出に使われてる引き出しです。」

そう言いながら引き出しを開け、目の前で探してやった。そしたら私の名前が書かれたシフト表が出てきた。

「これですよね?」

かなり腹が立っていてクソ店長の目の前にかざしてやった。

「なんや、そこに入れてたんか。みんな俺の机に置いていくからてっきりそこかと思ってたわ。」

だがクソ店長は謝らず、あたかも私の置き場所が悪いみたいなニュアンスで話してきた。いつもならここで引き下がるが、どうせ来月いっぱいで辞めるのだからと、言い返す事にした。

「それってみんなが置く場所を間違ってるだけですよね?本来はこの引き出しに入れるのが正しいのにあたかも私が悪いみたいな言い方辞めてください。では、私はもうすぐシフトの時間なんで失礼します。」

言いたいだけ言って表に出た。表には夏音(なつね)ちゃんが一人で居た。

「おはよ!もしかして私が来るまで一人だったの?」

「おはよう!そうだよーさっきまでかなり忙しかったんだけど、店長も前に来てくれなかったし...」

「やっぱクソだわ。ねぇ!聞いてよ、今さ...」

つい先程あった出来事を夏音ちゃんに話した。幸い、前はそれ程混んでいないから全部話しきれた。

「え、何それ。最悪すぎる。」

しかめっ面をする夏音ちゃんを見て、怒りが少し収まったのを感じた。

「でしょ!?マジで腹が立ったわー」

「てかそれで言い返すの強すぎ!夏音だったら我慢しちゃう。」

「いや、いつもなら我慢したよ?だけどどうせ辞めるしいいやと思って。」

口が滑ったのに気づいた時はもう遅かった。夏音ちゃんは目を大きく見開いた。

「え!?辞めちゃうの!?」

私はここのバイトの愚痴を言いながらも、辞めそうになかったと自分でも思う。だから夏音ちゃんの反応はわからなくもなかった。

「まだ次のバイト決まってないから確定ではないけど、多分辞める。」

「えー、寂しくなっちゃうよー。次も飲食店?」

「うん。初バイトで出会った子に誘われて、カフェで働くかも。」

「カフェか!結華ちゃんに合ってるよ!」

「ほんと?ありがとう!」

表面上では笑っているが、内心はどうせそんな事思ってないんでしょと最低な事を思った。私みたい人間はカフェに居なさそうだ。むしろ居酒屋とかで働いてそうな人間だ。そんな私をよく水樹さんはカフェに誘ったな。飲食店経験があるからだろうか。

「いつ頃辞めちゃうの?」

明日のデザートの仕込みをしていると、同じく別の仕込みをしていた夏音ちゃんが聞いてきた。

「んー、まだ面接が決まっただけだから早くても来月いっぱいかな。」

「ダブルワークはしないの?」

「うん。ここのバイト、働いてるみんなは好きで離れるの悲しいんだけど、店長が嫌すぎるからさ。あっちで社保入ろうとも思うし。」

「そかそか。じゃあそれまで仲良くしてねぇ。」

「辞めても仲良くするよ!」

「ありがとう!」

今日は比較的お客さんが少なく、私が来るまでが一番やばかったみたいだ。夏音ちゃんには申し訳ない事したなと思いつつ、何も手伝わず裏に居て、私に文句を言ってきた店長が一番悪いなとも思った。


「「お疲れ様ですー」」

シフトの上がり時間ぴったりに二人とも上がり、控え室に店長が居ない事を確認してから賄いを注文した。

「はー、疲れたー。結華ちゃん、明日もシフト入ってる?」

「入ってるー」

「最近ほぼ毎日居るけど大丈夫?疲れないの?」

「私の場合、家に居る方が疲れるから大丈夫!」

「家に居て疲れるとかあるんだー」

夏音ちゃんみたいに親に甘やかされて育った人に、私の気持ちはわからないよね。

「まあ、色々あるんだよ。」

「そっかー。あ!賄い出来たみたい!夏音取って来るよ!」

賄いが出来上がるとインカムで教えてくれる。私は耳が痛くて外してしまったが、夏音ちゃんは付けてたみたいだ。

「ありがとう!めっちゃ助かる!」

夏音ちゃんに笑顔で手を降って、ドアを閉めたのを見てからずっとバイブで鳴っているスマホに目をやると、母親から沢山メッセージが入っていた。

【いつ帰るの?】

【遅くない?今日何時まで?】

【ねぇ、なんで返事してこないの?】

【ほんとにバイト行ってんの?】

今日の母親はメンタルがダメな日なんだなぁと、どこか他人事のように思いながら返事を返した。ちなみにバイトの終わる時間も伝えてあるし、家族共有カレンダーにも書いてある。

【今日は二一時までだよ。これから賄い食べてから帰る。】

すぐ既読がつき、秒で返事が返ってきた。

【賄いなんて食べなくていいから早く帰ってきてよ!】

【私に家の事やらせないでよ!】

何も返事をせず、スマホを静かに閉じた。返事を返しても言い争いになるだけだと思ったから。

「お待たせー!持ってきたよー」

「ありがとう!うわー!今日の賄いも美味しそう!」

今日の賄いはデミグラスハンバーグだ。このお店一番の人気メニューで、お値段もお手頃だ。しかも従業員はその値段の半額で食べられる。だからここを辞めたら元の金額では食べられないなと思っている。

「ここってさ、賄いがお店に出してるメニューを頼めて嬉しいよね。」

「わかる!」

他愛のない話をしながら食べる賄いは凄く美味しかった。家でご飯を食べるより味を感じるのは、次の事を早くやらなければという焦りがないからだろう。

「「ご馳走様でした。」」

同じぐらいで食べ終わり、順番に着替えて外に出ると九月の下旬なのに夏みたいに暑かった。秋はいつ仕事を始めるのだろうか。

「じゃあね、結華ちゃん!気を付けてね!」

「夏音ちゃんも気を付けてね!」

手を振り私は徒歩、夏音ちゃんは自転車に乗った。私の家はバイト先から徒歩五分とかなり近い。確か同い年の草辺葉月さんも家からバイト先が近かった気がする。

バイト先が近いとギリギリに家を出ても間に合うのが利点だが、逆に早く帰れる所にバイト先があるのになんで帰るのが遅いのかと文句を言われるのが欠点だ。

なんにでもメリットデメリットはあるから仕方ないと、最近は割り切れるようになった。

「ただいまー」

小さい声で挨拶をし、すぐリビングに向かった。母親が寝ているか確かめる為だ。

母親はリビングで就寝をする人だ。二階に部屋はあるのだが、父親と一緒の部屋だからそれが嫌になったみたいで二年前からリビングで寝るようになった。

二年前までは独り立ちした姉がリビングで寝ていた。朝起きるのが早いからリビングで寝ていた方が準備が早く終わって効率的だったと、家を出て何かで二人で会った時に聞いた。

「よし、寝てる...」

母親は真顔で寝ていた。睡眠薬を飲んでいるから、自分で寝ているというよりかは寝かされていると表現した方がしっくりくる。

どんな理由であろうと寝ている事に変わりはない。今は寝てさえいればいいのだ。

寝ているという事は、私にあのメッセージを送ってきたのは一時的な気分の高揚だろう。本気で怒っている時は寝もせずに待っていて、酷い時は家の鍵はもちろん、チェーンも閉めるから。姉はそれを何回もやられて、私が物心つくようになってからはそんな母親をなだめたものだ。

私はまだやられた事ないが、いつやられるかわからない。そうなったら誰か母親をなだめる人居るかな。...いや、居ないな。この家の人間は自分さえ良ければあとはどうでもいいと考える人達が多いから、もしそうなっても絶対助けてもらえない。だから自分で自分を守るしかないのだ。

お風呂に入りたかったが、音で母親が起きてしまう可能性が高い。だから今日入るのは諦めて明日の朝、早く起きて入ろう。それでもなにか突っかかってくる可能性は捨てきれないが、今起きられてぐちぐち言われる方が面倒臭い。

身体が汗と、飲食店勤務している人ならわかるべたべた感でかなり気持ち悪いがこればかりは仕方ない。だって賄い食べたかったし。それを食べなければ、今日の食事はお昼に学校で食べたお弁当のみになってしまう所だった。それはそれでいいが、私の場合タイミングが合わなくていつご飯が食べられなくなるかわからない。食べられる時に食べておかないと。

お弁当と言えば、お弁当も作ってないや。明日はお昼抜きだな。お昼にご飯を食べられない分、何がなんでも賄いを食べてから帰ろう。明日も母親が今日みたいに早く寝てくれますように。

こんな願い事を心からしてるなんて、私ぐらいだろう。仮に居たとしても私より想いが強い人は居ないはずだ。

静かにリビングを出て、なるべく音が出ないようゆっくり歩いた。だが家がボロいから所々軋む。これぐらいでは起きたとしても弟がトイレに起きたと思ってくれるだろう。というかそう思ってくれ。今見つかると非常に面倒臭い事になりそうだから。

「ふぅ...上手くいった。」

自分の部屋の扉を静かに閉め、その場に座り込んだ。ずっと気を張って立っていたから疲れた。

「ふわぁ...もうこのまま寝ちゃおっと...」

私はその場に倒れ込むように寝た。この季節は適当に寝たとしても風邪をひきにくい。暑いし服装にも困るから夏は嫌いだが、こういう所は唯一好きだ。


「結華、起きて。朝よ。」

声でそっと目を開けると、そこに居たのは今みたいに色んな薬を飲んで老け込んだ母親ではなく、小さい時によく私を看病してくれた優しい母親だった。

それでこれは現実ではなく夢だとわかった。部屋の扉の前で寝たはずなのに自分がきちんとベットに転がっているし、なによりこの夢はよく見るから。主に現実で嫌な事があった日に見る事が多い。

「ほら、結華。早く起きないと遅刻しちゃうわよ。」

「今日体調悪いから休むー...」

「あら、そうなの?大丈夫?」

「頭が痛い...」

「今薬持って来るから待っててね」

「はーい...」

私が覚えている限り、母親がおかしくなったのは私が小学五年生の時の出来事がきっかけだ。

私が小学五年生の時はかなりお金に困っていた。理由は父親が安定した職につかないから。だから私の姉が働いて家にお金を入れていた。

それで成り立てば良かったものの、成り立たなかった。父親が姉のお金を頼りにしてあまり働かなくなってしまったから。母親はそれにキレたが父親もキレ返してきて、思っても絶対言ってはいけない言葉を言ってしまった。

「俺の稼いだ金使って生活してるくせに文句言うなよ。だったらお前が働いて稼いでこい。」

その言葉が七年経った今でも鮮明に耳に残っている。

それから母親はパートを始めた。だがパート先のお局に目をつけられてしまい、元々心の弱い母親は三ヶ月でそのパート先を辞めた。

そこから母親はおかしくなった。自分の思い通りにならないとすぐ死ぬと言い出して、それだけならまだ可愛いもので、包丁を持って自分を刺そうとした時は本気で止めた。

その時はまだ母親に愛情があったから。今はもう母親になんて愛情は一ミリもない。だからもしその時と同じ場面に出くわしたら、もしかしたら止めないかもしれない。今では止めた事すら後悔しているのだから。

母親と父親がどうやって知り合ったのか、私は知らない。だけど長年父親と母親を見てきて、どうしてこの二人は結婚したのだろうと不思議に思っている。私が見ている限り、この二人はお互いに対する思いやりがない気がする。というよりない。思いやりがあったら七年前、父親があんな酷い言葉を心の弱い母親に言わないと思うし。

「結華、薬持ってきたよ。」

「うん...ありがとう。」

母親から薬を受け取って飲んだ。夢とは思えない程頭の痛みもしっかりあるし、薬を飲んだあの気持ち悪い感じもしっかり感じる。夢でぐらい、何も感じなくたっていいのに。どうせ現実で嫌っていう程色んな事を感じるのだから。

「あぁ、早く死にたいなぁ...」

夢から覚める為の言葉を呟いたが、今回は上手くいかず、代わりにその言葉を聞いていた母親が肩を力強く掴んできた。

「...何言ってるの?あんたを育てる為にどれだけ私の時間を費やしたと思ってるの!死にたいんだったらもっと早く死んでくれたら良かったのに!」

掴まれた肩がギリギリと音を立ててる。まずい。これは早く目を覚まさないとここで殺されてしまう。今までもあの言葉で目を覚まさない事はあったが、母親が突っかかってくる事はなかった。だからどうしたらいいのかわからない。それでも早く目を覚まさなければいけない。

現実の私、早く目を開けて。死ぬのは別に怖くないけど、母親に殺されるのだけは嫌だ。どうせ死ぬなら人の役に立ってから死にたい。

ぼんやりとそんな事を考えていると、母親が勢いよくこう叫んだ。

「お前なんかあの二人に比べて全部に対して劣ってるんだから、死にたいんだったら早く死んでよ!」

その言葉を最後に、私は夢から現実に戻ってきた。

「はぁ...はぁ...」

急いで起き上がり、呼吸を整える。あの夢は何度も見ているが、あの言葉を叫ばれたのは初めてだ。現実の母親にすらまだ言われた事ないのに。まぁ、夢というのはそういうものだからと心に言い聞かせた。

でも母親も心のどこかではそう思ってるから、夢で伝えてきたのかな。いささか現実で言ったら色々面倒臭い事になるのは母親自身、わかっているはずだから。

前に一度、姉と母親が大喧嘩をした時に母親が姉に向かってかなりの暴言と手を出した。私も止めるに止められず、弟が警察を呼んだのだ。

警察が来て、家の惨状を見て私と弟に日常的に危害があったのではないかと言うことで私と弟は一時期的に警察に連れて行かれた。そこで家の事を何度も聞かれたが、私は誤魔化した。

いつもはこんなではありません。優しい母親です。今回はたまたま母親が興奮してしまっただけです。

そう何度も言い続けた。今ここで家を出れてしまえば楽になれるが、それ以上に大変な事がもっとある気がしたからだ。ようは自分がどこに居た方が楽に過ごせるかを選んだのだ。今、その時の事を振り返ってみてもこの選択で良かったと思える。

私と弟は別部屋で話を聞かれていたが、弟も私と似たような事を話したみたいだ。それで信憑性が高まり、私と弟はそれから三日して家に帰れた。

家に帰ると母親はとても優しくなっていた。帰ってきた私達を、ぎゅっと抱きしめた。私にとってあなた達子供は宝物だよと言いながら。

どうせ宝物なのは母親に似た弟と姉だけでしょ。私の事は父親に似ているから好きではないくせに。

そう言ってやりたくて仕方なかったが、やっと落ち着いたのに火に油を注ぐ様な事はしたくなかった。だから私も抱き締め返した。もうこれ以上、母親が酷くなりません様にと願いながら。

それから半年ぐらいは母親も落ち着いていた。やっと平和に暮らせると思った矢先にお金に困ってしまい、父親と母親が喧嘩して今の状態になってしまったのだ。

「普通にあいつが百、悪いだろ...」

その時の事を思い出してつい呟いた。私が言うあいつとは父親の事。父親に対しても愛情なんて一ミリもない。

一家の大黒柱としての自覚もない奴をどうやって慕えばいいのか。今だって家を出た姉の代わりに私が家の支払いの不足分を出しているのに。もし俺のお金を使ってと言ってきたら言い返そうと思っている。

とまぁ、私の家族は色々終わっているのだ。今更更生なんて出来ないし、する気もない。しようとしても自分が壊れるだけだ。だったら波風立てずにここで生きていた方が賢い。

ちなみに弟は高校を卒業したら家を出ると宣言している。この家に居たら自由がないからと。私からしたらお前は充分自由だろとは思ったが感じ方は人それぞれだから何も言わなかった。

私はと言うと将来の事なんて何も考えていない。今を生きるのに精一杯なのに、その先の事なんて考えられる訳ない。

「はぁ、お風呂行こ。」

スマホの充電をし部屋を出た。時刻は朝の五時。朝風呂に入るには最適な時間だ。

一階に降り洗面所に行くと、リビングから音が聞こえた。母親が起きているのだろう。

今日は起きるの早いな。でもまあ夜、早く寝ていたから妥当な時間か。どうか今日も平穏でありますように。

そんな事を心で願ってから、面白くなって笑った。自分の母親に対してこんな事思っている人、私以外に居ないだろう。第一、家族と接するのにこんなに気を遣う家庭がそんなにないだろうから。

「私ってなんで生まれてきたんだろう。」

そんな私の疑問は、シャワーの音と共にかき消された。


「おはよう、結華。お弁当出来てるよ。」

お風呂から上がり、水分を取ろうとキッチンに入ると母親がお弁当を渡してきた。

「作ってくれたの!?ありがとう!作れてなかったから助かる。」

これでもかってぐらいのリアクションで喜んだ。お弁当を作ってくれた事は純粋に嬉しい。

「朝は食べて行く?食べて行くならお弁当を作るのに残ったやつがあるんだけど。」

「食べる!お母さんが作るお弁当の残り、私好きなんだよねー」

「ありがとう。このお皿にあるやつ食べていいよ。」

「やったー」

お皿を貰い、リビングへと移動する。まだ母親の片付いていない布団を避け、ソファーに座った。

「んー、やっぱりお母さんが作るお弁当のおかず美味しいよ!」

キッチンに聞こえるように言ったが、洗い物をしている母親には届かなかったみたいだ。洗い物をしていたら人の声は聞こえずらい。仕方ない、母親がこっちに戻って来た時にまた伝えよう。

私にお弁当を作るぐらいだから、今日の母親はかなり穏やかだ。最近の中では一番と言っても過言ではない。病院で処方された新しい薬が合っているのだろうか。

「どう?美味しかった?」

洗い物を終えた母親がリビングに戻って来た。そういえばこうやって母親の顔を見るの、久々な気がする。

「美味しかったよ!私が同じ物作ってもこんな美味しくならない。」

「大袈裟だよ。誰が作っても味なんて変わらないよ。」

「そんな事ないよ!お母さんが作る料理は全部美味しい。自慢だよ。」

「ありがとう。そんな事言ってくれるの結華だけだよ。あの二人は絶対言ってくれないから。」

あの二人というのは父親と弟の事だ。確かに、あの二人は褒めるという事を絶対にしない。

私より弟の方が父親に似ている所があるはずだが、母親は弟の良い所しか見ないから気づいていない。いつもはその事にイラッとするが、今日は特段とイラッとしなかった。母親自身が穏やかだからかもしれない。

だからといって根には持っているが。

「あ、私そろそろ準備するね。お皿は洗っていくから!」

「ありがとう。今日も学校とバイト、気を付けて行くのよ。」

「はーい!お母さんも気を付けてね!」

お皿を片付けて、半年に一回あるかないかの母親お手製お弁当を持って部屋に戻った。


「いってきまーす」

「面接だよね、いってらっしゃい。頑張ってね!」

「はーい!」

あれから十日が経ち、あっという間に面接日になった。

この日まで母親の機嫌も悪くならず、平穏な毎日を過ごせたから私の心も落ち着いている。面接前に心がざわついているのは自分にも、相手にも良くない。だから平穏に過ごせて本当に良かったと思う。

カフェは私の家から一駅の所にある。今バイトしている場所と比べると通うのに時間がかかるが、あんなクソ店長と早く離れたいし、バイトに行く時間がかかる分、家に居る時間が少なくなっても文句を言われない。こんなに利点だらけなのだから絶対に採用されたい。

電車から降り、駅と直結しているショッピングモールに入った。カフェはこのビルの四階にある。元々は五階の外が見える所にあったのだが、五階に違う店が出来るという事で四階に移転したのだ。

水樹さんは四階に移動してからのスタッフだ。カフェが四階に移転してから一年経った。だから水樹さんも一年、このカフェで働いているという事だ。私はすぐバイトを辞めたくなってしまうから一年も同じ所で働けるなんて凄いと尊敬している。

歩いているとカフェが見えてきた。隅っこでひっそりとやっている感じがする。これでお客さん、来るのだろうか。

「こんにちは。面接で来ました。早瀬です。」

レジ付近に居た女性に声をかけた。女性は小柄だが、可愛い感じの顔をしていた。

「こんにちは!お待ちしておりました。こちらのお席どうぞー」

女性に案内された席は一番奥の席で、ここにお客さんが入ったら絶対大変だなという席だった。

「今店長呼んできますので、少々お待ちください。」

「わかりました!ありがとうございます。」

小柄な女性は小走りで来た道を戻って行った。見た感じだとそんなにお店は混んでいない。でも明日の仕込みとかあるだろうから中は忙しいのだろう。面接の時間よりかなり早く来てしまったから焦らないで欲しい。

「お待たせしました。店長の中野です。」

小柄な女性が居なくなってすぐ、店長さんが来た。

「待ってないです!むしろ早く来すぎてしまってごめんなさい。」

「いえ全然!早く来る分にはいいんですよ。では早速、面接始めましょうか!」

「よろしくお願いします!」

店長さん...中野店長は水樹さんを採用した店長ではなく、ちょうど今月新しく異動してきた店長らしい。きっと私の事を気に入ると思うと水樹さんは言っていた。

「坂本さんから話は聞いてるよ。凄く仕事が出来るって。」

「期待されるほど仕事出来ないですよ!」

初バイトで失敗ばかりの私を見てるはずなのに、仕事が出来ると紹介したのか。一体水樹さんは私の事をどうやって紹介したのか。それを知るのはまた別の話。

「坂本さんが言うから大丈夫!よし、採用しよう!今雇用書取ってくるね。」

「え、あ、はい!」

あっという間に採用が決まった。水樹さんの紹介だから採用されるとは思っていたが、こんなにすぐ採用されるとは思っていなかった。

でもこれで今のバイトを来月いっぱいで辞められる。明日バイト先に行ってクソ店長が居たら、辞める事を伝えよう。

「早瀬さん。これ書いて欲しいんだ。で、今ってキャッシュカードとか持ってたりする?それか通帳のアプリでも大丈夫なんだけど...」

中野店長が雇用書を持ってきた。今まで色んなバイトをしてきたが、こんなに早く採用が決定して、雇用書を書くのは初めてだ。

「どっちも持ってます!どっちのがいいですかね?」

「アプリがあるんだったらそっちの方が書きやすいと思う!それじゃあ、書き終わったら呼んで欲しい!」

「わかりました!」

そう頷いたはいいものの、いつも雇用書は誰かに見てもらいながら書くから果たして自分一人で書けるだろうか。もしわからない事あったら聞けばいいか。

私は頭がそこまでいい訳ではないから、言われた通りに書いても絶対不備がある。どこを見てたのと自分でツッコミたくなるぐらい不備がある。

けれど今回は上手くいきそうだ。もうすぐ十八になるのだからこれぐらい一人で書けないとね。

「あ、出来ました!」

ちょうど中野店長がこちらに来た。私が声をかけると、中野店長はぱっと笑顔になった。

「おっけーです!今日の所はこれでおしまいで、初出勤は先程登録したメッセージにてお知らせします。多分、初出勤は二週間後ぐらいになると思います。これからよろしくお願いします!」

「わかりました。こちらこそよろしくお願いします!」

頭を下げ、こちらも満面の笑みで対応した。まだ中野店長と出会って数分しか経っていないが、今まで出会って来た店長の中で一番優しい気がする。水樹さんが優しいよって言っていたのがわかる気がする。

先程案内してくれた小柄な女性に頭を下げ、お店を出た。そういえば今日水樹さん出勤だって言っていたけど、見えなかったな。裏で作業していたのかな。

【お疲れ様!無事採用されました!これからよろしくね!】

知っているとは思うがそう送っておいた。

明日、クソ店長が居たらどんなに機嫌が悪そうでもすぐ辞める事を伝えよう。毎日のように辞めたいと思っていたバイトを本当に辞められると思うとスキップして帰りたい程嬉しかった。本当にやったら頭がおかしい人だと思われるから、心の中だけに収めといたが。

「ただいまー」

「おかえり!早かったじゃん。」

ものの一時間で帰って来た私を見て、母親は驚いていた。

「友達の紹介だったからすぐ採用された!なのであのクソ店長が居るバイトは辞めます。明日辞めるって言います。」

「相手はなんて言うかなー。いつもの話を聞いてると辞めるなって言いそうだけど。」

「ね。それでも私は辞めるけどね。クソ店長以外の人間は好きだから辞めるの悲しいけどねー」

「まぁ、全部が全部良い事ってないからね。何かが良かったら何かがダメなんだよ。」

「ほんとにそれな。あ!今日の夕ご飯、ロールキャベツだ!」

机に置かれたご飯の数から、私の分もある。話していても思ったが、母親は今日かなり機嫌がいいみたいだ。

「材料がたまたまあったから作っちゃった。」

「私、お母さんが作るロールキャベツ好きだから嬉しい!ありがとう、いただきます!」

適当に一口大に切り、口に運ぶ。コンソメの優しい味とキャベツの柔らかさがマッチしていて凄く美味しい。

「凄く美味しいよ!毎日でも食べられる。」

「毎日は流石に飽きるよ。」

「それぐらい美味しいって事。ほんとお母さんって料理上手だよね。」

「そんな事ないよ。ロールキャベツなんて手抜きだから。」

「これのどこが手抜きなの!?私は絶対作れないから凄いよ!」

「ありがとう。そう言ってくれるの、結華だけだよ。」

そう言って笑ってくれる母親の顔を見るのが私は好きだ。

出来の良い姉と弟と比べられて育ってきたし、自分自身あの二人と比べて生きてきた。だから唯一自分だけが褒められるのはこの時だけだ。だから私は大袈裟なぐらい母親を褒める。母親からの─愛─を実感する為に。

「ご馳走様でした。今日も美味しかった!ありがとう。また作ってー」

「喜んでもらえて嬉しいよ。材料があったら作るよ。」

「楽しみにしてる!」

キッチンに食器を置きに行くと、料理を作った時に出たであろう調理器具が散乱していた。

「ごめん、フライパンとか洗えてない。作るのに精一杯でそこまで気が回らなかった。」

母親がソファーに座ってスマホを見ながら言ってきた。

「いいよー、私洗っとく。」

今、くつろいでいる余裕があるなら洗ってくれてもいいのにと思ったが言わなかった。言ったら絶対言い争いになる。今の私に言い争う元気など残っていない。

小さい頃はよく母親に言い返したりしていた。けれど歳をとっていくとわかるのだ。言い返しても自分の心が疲れるだけで、なんにも意味がないのだと。

それを学んだ私は不必要な言い争いを避けるようになった。でも弟とか父親はそういう所に気が回らず、母親の地雷を踏みそうになるからそれを止めるのが私の役目になりつつある。姉が一人暮らしを始める前はその役目が姉だった。

姉が一人暮らししてから何度も思っている事がある。それは色んな人の板挟みになって大変だったんだなという事。

母親が家族の愚痴を言うのはもちろん、私も姉に母親の事を相談していたりした。それでも姉は嫌な顔せず話を聞いてくれて、自分が欲しい言葉をくれた。

その役目が全部私になり、そこでやっと姉はかなり大変な思いをしていたのだと気づいた。

母親は一人暮らししてしまった姉の事を悪く言うが、私は私達の事なんて忘れるぐらい幸せになって欲しいと密かに思っている。密かに思っているのは、母親に私の想いがバレたら面倒臭いから。面倒臭い事を避けるのが私の得意分野だ。

ちなみに姉は彼氏と同棲しており、その彼氏と上手くいっているから私達に連絡をしてくる事はあまりない。その事に関して母親は育ててやっただの、幸せになるのは許さないなど散々愚痴を言っているが、本人にさえそれを言わなければいいやと放置している。

人が人を悪く思ってしまうのは仕方のない事だと思う。でもそれを故意に人にぶつけたりするのは違うと思う。だから私は思う分にはいいが、人にぶつけるのはダメだと自分に言い聞かせている。

そんな哲学みたいな事を考えていると、いつの間にか洗い物が終わっていた。人って考え事をしていると物事が早く終わるのだなと新しい発見が出来た。

今日は珍しく弟もまだバイトから帰って来てないから、私が一番風呂に入れた。いつもは弟が入らないと入れないがこうやって弟がバイトだったり学校の用事だったりのイレギュラーがあると、私が一番に入らせてもらえる。そっちの方が物事が早く進んで効率的だからと。

お風呂に入り終え、自分の部屋に籠った。後はもう寝るだけだ。何しようかな。久々に本でも読もうかな。積読本沢山あるし。

カラーボックスにつけているカーテンを開けると、積読本が山となっていた。欲しいと思った本をすぐ買ってしまい、それと読むスピードが合っていないから積読本が溜まる一方だ。それでも欲しいから買ってしまう。やはり本は初版がいい。

私は本が大好きだ。今でこそバイト先とかで友達が居るが、小、中と友達が居なかった私からすると本が友達だった。

本は凄い。文章だけで主人公やその周りの人がどう思っているのかがわかるのだから。

カラーボックスにある本の中で一番気になる本を手に取り、ベットに腰かけて読み始めた。


「ふわぁ...ねむ...」

本を一冊読み終え時計を見ると、零時を過ぎていた。明日、いや、もう今日か。今日は学校はないがバイトが十時から入っている。早く寝ないとバイト中、眠くて倒れてしまう。

ベットに腰掛けたまま転がり、すぐ眠りについた。今日はあの夢を見ないといいなぁ。


ピリピリピリ。

「えぇ、もう起きる時間なの...」

目覚ましの音で起き上がる。が、寝た時間がいつもより二時間遅かったから身体が重い。私は寝る時間が少ないとすぐ体調に出る。今日はまだ寝れた方だからギリ許容範囲だが。

何とか着替え、荷物を持って一階に降りた。洗面所に行き身支度を済ませ、誰にも声を掛けずに家を出た。

いつもは今日起きた時間より二時間早く起きるが、今日は寝坊してしまった。

と言っても私は寝坊しても大丈夫なように目覚ましを二回かけている。一回目は起きても起きなくても大丈夫なやつで、二回目は本当に起きないとやばい時間。今日は本当に起きないとやばい時間の目覚ましで起きたから、急いでバイト先に向かっていた。

クソ店長に辞めると言おうと計画していたから、早く家を出たかったのに。お店の準備が忙しい日だとクソ店長が準備を手伝う。そうなると辞めると言える機会がなくなってしまうから早く家を出たかったのだ。いくら家からバイト先が近いとはいえ、今日は出勤時間ギリギリに着いてしまう時間になってしまった。

どうかお店の準備がある程度終わっていますように。

「おはようございます。」

「おん、おはよ。」

控え室に入ると、昨日と変わらずクソ店長はパソコンを操作していた。言うなら今しかない。

「あの、少しいいですか?伝えたい事がありまして。」

「おう、どした。」

パソコンから目を離さず聞かれ、これから話す事でどんな反応をされるかわからなくて緊張した。

「今月いっぱいで辞めようと思います。」

「わかった。処理しとく。」

すぐ頷かれて拍子抜けだ。もっとこう、辞めるなまではいかないにしても引き留められるとは思っていた。

「残り一ヶ月もないですが、よろしくお願いします。」

軽く頭を下げ更衣室に入った。そこでやっと、自分の手が震えている事に気がついた。かなり緊張していたし、怖かったのだろう。

とりあえず辞める事は伝えられたから、あとは残りのバイトを頑張るだけだ。

それにしてもあのクソ店長の態度はどうかと思う。散々人をこき使っておいて、辞める時はあっさりなのかよ。確かに辞めたかったし未練とかそんなのではないけれど、あの態度はイラつく。

「あ!結華ちゃんおはよー」

控え室から出ると、朝の準備から入っていた夏音ちゃんと出くわした。

「おはよー!ねぇ、聞いてよ!さっきさ...」

夏音ちゃんに先程のクソ店長との会話を話した。

「何それ!ウザすぎる!」

やはりと言うべきか、夏音ちゃんも私と同じ反応をした。

「だよね!良かったー、私がうじうじしすぎてるのかと思ってさ。早く誰かに話したかったんだよね。」

「だってさ、結華ちゃんって葉月ちゃんと並ぶぐらい結構シフト代わってたよね?」

「そうだよ。」

私と草辺さんはよくシフトの穴埋めに使われていた。自分達が休みを取っていても声を掛けられ、どうせ大した用事ではないからと了承していた。

それなのにこの仕打ちだ。私達が頑張ってきた事はなんだったのかと思ってしまう。もし知り合いがここで働く事を検討し始めたら、なんとしてでも止めようと心に決めた。

「でもそっか。本当に結華ちゃん辞めちゃうんだね。寂しくなるね。」

「大丈夫だよ!家から近いから遊びに来るし、もし本当に人が足りなそうだったら声掛けてよ。助っ人で来るからさ!」

あまりに夏音ちゃんが悲しそうにするから、大袈裟なぐらい明るくした。夏音ちゃんは笑っている方が似合う。そんな人がそんな顔をしていいはずがない。

「はは!店長が嫌で辞めるのに来てくれるの?優しい!」

夏音ちゃんがいつも通り笑ってくれてほっとした。

「たまに来るぐらいならいいよ!もしスキマバイトのアプリで出てたら来るね。」

「わかった!待ってる!」

「てか今すぐお別れみたいな感じだけど、まだ今月いっぱいは働くからね!?」

「はは!そうだった!」

ここに居る時だけは私も─普通─の人間で居られる。うちの家庭環境がクソなんて誰も思わないだろう。いや、思われないように努力しているのだ。

小さい頃から母親からうちの家庭環境を人に話すなと言われた。この家庭環境を他の人に話して、虐待だと捉えられたら未成年の私と弟は児童相談所に連れて行かれるから。世間体と、本当か嘘かはわからないが私達子供は宝物だからという理由だ。

ちなみに姉は成人していたから他の人に家庭環境を話しても大変だったねで終わったみたいだ。私はそれが羨ましくて仕方なかった。

姉は家での辛い気持ちを吐き出せる相手が居るのに、私には居ない。じゃあこのモヤモヤやイライラは一体、誰に話せばいいのかと一時期本気で悩んで、自分を傷つけてしまう事に落ち着いたのだが、それもすぐ母親にバレて怒られた。そんな事して何になるの。生きたくても生きれない人も居るんだよと、こういう行為をした人が大体言われる定型文を言われたが、ぶっちゃけ何も心に響かなかった。

ごめんなさい。もうしません。今度から辛い事があったら誰かに話すね。

それでも私は心に響いたフリをして、反省しているフリまでした。別にこの行為に執着がある程やっていた訳ではないから。

けれど母親はまた私がその行為をすると思ったみたいで、精神科に連れて行かれた。

ぶっちゃけ自分自身、病んでないと言ったら嘘になると思う。それでも病院に通うのが面倒臭いし、病院に通っているというレッテルを貼られるのが嫌だった私は医者に気丈に振る舞った。

その甲斐あって母親も、医者すら私の演技を信じた。もしかしたら私は演技の才能があるのかもとその時一瞬思ったが、この人達が馬鹿なだけだなと思い直した。

その一件があってから、自分を傷つけるぐらいまでしんどい思いをするなら自分だけでも楽しく振る舞っておこうと決めた。そっちの方が家の中も明るくなるし、家の中が明るくなれば自分自身嫌な思いをしなくて済む。

結局私は自分を守る事しか頭にないのだ。だから人に優しくするという事が出来ないし、人を守れない。こういう人が子供を持ったらいけないと自覚しているから、万が一結婚したとしても子供は作らない。結婚どころか彼氏すら居ないからまだまだ先の話だが。

「結華ちゃん、今日お店そんなに混んでないからもう上がっていいって!」

夏音ちゃんに声を掛けられて、今自分は働いていたのだと気付いた。過去の事を考えていたら働いている事など忘れていた。それでもお店が回っているという事は、無意識にやっていたのだろう。社畜ならぬバ畜は怖い。

「わかったー!なら上がろうかな!お先に失礼します、お疲れ様ですー」

「お疲れ様ー!またねー」

夏音ちゃんに手を振り、お客さんに見えない所でスマホを見ると時刻は十五時半と表示されていた。元々シフトに入っていた時間より二時間早く上がらされた。お金的には困るが、最近連勤が続いていたから身体を休めろという神のお告げだろうか。まあ、神なんてもっぱら信じていないが。

「さて、どうするか。」

急に空いてしまった二時間。このまま家に帰ってもいいが、そうすると家の事をやらないといけなくなる。せっかくバイトで免除されているのに、早く帰れるからといってやりたくない。でも下手に遠出するとスマホに入っているGPSを使われてしまうかもしれない。母親はそういう時の勘は鋭いのだ。

もしそれで使われてしまったら。そもそも今日、バイトに行っていなかったのではないかと疑われるだろう。そしてどんなに弁解しても信じてもらえず、今後のバイトが出来なくなるかもしれない。それか母親がバイト先にずっと居るか。どちらに転んでも最悪な道しか残っていない。

「え、無理ゲーじゃね...?」

バイト先の休憩室で一人、頭を抱えているとスマホがメッセージを知らせた。母親かと思って見ると、水樹さんからだった。

【採用されて良かったよー!こちらこそよろしくね!】

【ねぇ、今空いてたりする?うちが結華ちゃんの居る所に行くからお茶しよ!】

ナイスタイミングで水樹さんからお茶に誘われた。自分が居る場所も飲食店だし、ここに居ればもしGPSを使われても働いていると思ってもらえるだろう。

【ちょうどバイトが早上がりできて空いてるよ!】

【バイト先の休憩室に居る!】

【おっけー!今から向かうから三十分ぐらい待つ感じかも!】

【わかった!席に座って待っとくねー】

こんなラッキーな事があるなんて、ここ最近の私はついている。その分、これからが怖いが今さえ良ければ後の事なんでどうでもいい。人間、生きているのはいつだって─今─なのだから。

お店の入口の方に回り、受付をして番号札を取る。求めていた窓際の席で嬉しかった。

「お待たせー」

メッセージ通り、三十分ぐらいで水樹さんがお店に到着した。久々に見る水樹さんはかなり大人っぽくなっていた。

「全然待ってないよ!むしろここまで来てくれてありがとう!今日はバイトだったの?」

「ううん、休み!暇だったから結華ちゃん空いてないかなーって。」

「え!そうだったの!?」

水樹さんの家からここまで、電車で八駅ぐらいある。てっきり私は今日水樹さんはバイトで、そのバイト終わりに私をお茶に誘ってくれたのだと思っていた。それがまさか休みで、わざわざここまで出向いてくれたなんて。申し訳なさすぎる。

「ここまで来るのに遠かったよね。ごめんね。てっきり今日バイトだったのかと思って...」

「全然遠くないし大丈夫だよ〜。うちが結華ちゃんに会いたかったから誘っただけだし!」

「えーん、ありがとう!」

水樹さんは見た目が良いだけではなく、性格も良い。確か彼氏が居た気がするが、最近SNSに載せていないから、もしかしたら別れたのかもしれない。それはおいおい聞くとしよう。

「水樹さん、最近どう?何か変わった事ある?」

とりあえずドリンクバーとポテトをタブレットで頼み、料理が来るまで近況報告会にする事にした。

「んー、うちは特にないかな。しいて言うなら毎日カフェの往復で終わる感じ。」

「結構な日数出てるの?」

「うん。二十日間ぐらい出て、一日の労働時間が休憩を取ったら八時間かな。」

「結構長く働くんだね。それなのに休みを私と会う事なんかに使っちゃって良かったの?」

「そもそも今日、シフト入れてたんだけど働く人が多かったみたいで休みになっただけだから、だったら誰かに会おうかなって。」

「それが私だったのね。ありがとう!私も水樹さんに会いたかったから嬉しいよ!」

「ほんと?嬉しい!」

二人でキャッキャしていると、配膳ロボットがポテトを運んで来た。だがそのロボットのトレーにポテトが半分以上零れていた。

「めっちゃトレーにポテト零れてるけど大丈夫そ?」

「うーん、アウトかな。」

二人で笑いながらポテトをロボットから取り、ロボットを返した。ロボットはお店が混んでいる時には便利だが、少しの段差で今みたいに物が零れてしまうのが玉に瑕だ。

「ロボットってやっぱりあると楽?」

ポテトをつまみながら水樹さんが聞いてきた。私もポテトをつまみながら答えた。

「かなり楽。だけど今みたいに物が零れるとぶっ壊したくなる。」

「混んでる時にやられると最悪だね。」

「そうそう。しかもロボットによっては壊れかかってるのがあって、それだとどんなに振動オフにしても零れるから本気で壊したくなる。」

「ロボット使ってるの楽そうに見えるけど、そうでもないんだね。」

「そうなんだよ〜」

二人でポテトをつまんで話をしていると、あっという間に食べ終わってしまった。

「どうする?もう一個頼む?」

水樹さんがタブレットを操作しながら聞いてきた。

「私唐揚げも食べたいんだよね。」

「うちもぶっちゃけ違うの食べたいからお互い違うの頼もっか。」

「そうだね!」

私が唐揚げとシュリンプのセット、水樹さんがポテトとシュリンプのセットを頼んだ。

「うちここのシュリンプ食べた事ないから楽しみ。」

「他所のお店と比べるとここのは軽くて美味しいよ。」

「さては自分が働いてるお店を贔屓してるなー?」

「いやいや、ほんとだって!食べて見たらわかるから!」

「はは!冗談だよー。結華ちゃんがそういう事する人じゃないって知ってるし。」

そこで水樹さんは笑っていた顔を真顔にした。そしてこう聞いてきた。

「最近家庭の方はどう?落ち着いた?」

だから私も笑っていた顔を真顔にし、答えた。

「あの頃よりかはだいぶ落ち着いたよ。」

「そっか、良かった。」

もしかしたら水樹さんが今日、私に会いたかったのって私の家庭環境を聞きたかったからかもしれない。メッセージのやり取りではあまり家庭環境を話していなかったから。

母親に家庭環境を話すなと言われて育ったが、唯一水樹さんにだけは話していた。初バイト先でよくシフトが被っていたし、休憩も一緒で話の流れで自分の家庭環境を話す事になったのだ。

そもそも、私が初バイトを始めたきっかけが姉が一人暮らしを始め、家にお金を入れる人が居なくなってしまい、支払いが回らないから私が代わりに働いてお金を入れる事になったのだ。

それが早瀬家の普通だったから当時はなんとも思っていなかった。けれど水樹さんにその事を話したらそれはおかしいと言われた。まだ中学を卒業して一年未満の人にお金を稼がせて、金銭的な援助をしてもらうなんて大人として恥ずかしいと思った方がいいと私より怒っていた。そこでやっと私はこの家は普通ではないのだと自覚した。

もし水樹さんと出会って居なかったら。私はずっとこれが普通だと思って過ごしていただろう。だから水樹さんには普通ではないと気づかせてくれた恩があるのだ。

「でも家にお金は入れてるの?」

ドリンクバーで取ってきたメロンソーダを飲みながら、水樹さんが尋ねてきた。

「入れてるよ。あの頃より金額が多くなっちゃった。」

「え!?前が確か五万だったよね?いくらになったの?」

「その月によって支払いが足りない分を渡す感じだから、特に決まってる訳じゃないんだよね。」

「多い時でいくら渡してるの?」

「その月の給料全部渡してる時あるから、十万位かな?」

「そんなに!?ねぇ、全然落ち着いてないじゃん。むしろ酷くなってるよ。」

水樹さんが笑いながら言ってくれたから、重い雰囲気だったのが少し明るくなった。

「でも家族間のいざこざは減ったんだよ。」

「その代わり金銭的な面では困ってるんでしょ?だったら変わらないよ。」

「なるほど...」

やはり水樹さんは大事な事に気づかせてくれる。本当に良い人と友達になれたなぁと、呑気な事を考えた。

「カフェで社保入る予定ある?」

「あるよ。どうせ高校卒業したらフリーターになる予定だったし。」

私は今、高校三年生だ。クラスメイトは就職だの進学だの言っている中、私はフリーターになる予定だ。

今を生きるのに精一杯なのに、その先の事なんて考えられない。それにお金がないのに進学なんて絶対出来ない。だったらフリーターでお金を稼いだ方が効率がいい。

「良かった。今うちの店、従業員少ないからばんばんシフト入ってくれる人が欲しかったんだよね。」

「あ、そうだったの?」

「そうそう。それで店長に良い人居ないかーって聞かれて、結華ちゃんを誘ってみたの。飲食店経験があるし、仕事が出来るからね。」

「私、水樹さんと一緒に働いている時やらかしてばっかりだったよ...?」

「そうだっけ?全然覚えてないや!」

あっけらかんと言う水樹さんが面白くて声を出して笑った。そんな私を見て、水樹さんは目を細めていた。

「とりあえず結華ちゃんは一人暮らしを目指しな?」

メロンソーダを飲みきりながらそう言われ、苦笑した。

「一人暮らししたいんだけど、お金とか色々考えるとうちにいる方が楽なんだよね。」

「結華ちゃん、それ心まで支配されてるからね?」

「うー、そうだよね...。」

「よし、決めた!また一緒に働けるんだから、うちは結華ちゃんの心の支配を外す事を目標にしよう!そして結華ちゃん自身は一人暮らしをする事を目標にするんだよ。」

「頑張ってはみる!」

そう宣言したと同時に配膳ロボットが料理を運んできた。今回は何も零れていなかった。

「さて、結華ちゃんおすすめのシュリンプはどんな味かな〜」

「あ!待って...」

私の言葉の前に水樹さんはシュリンプを一口で食べた。そして口を抑えていた。

「あっつ!待って、熱くて噛めない...」

「出来たてがくるから熱いよ...」

「もっと早く聞きたかった...」

水樹さんは水を飲みながらシュリンプを食べていた。その姿を見て本人は真剣なのだから笑ってはいけないと思ったが、笑いが堪えきれなかった。

「ごめん水樹さん、面白い...」

「こっちは真剣だったんだそー?笑うなー!」

机に突っ伏して笑っていると、やっと飲み込めた水樹さんに軽く怒られた。

「だって面白いんだもん。一口でいくとは思わないじゃん、普通。」

「だってこれぐらいの大きさなら一口でいけると思ったんだもん。でも良かった!相手が結華ちゃんで。」

「どゆこと?」

「結華ちゃんだから笑ってくれるけど、他の人だったら馬鹿にされるかもじゃん?だから相手が結華ちゃんで良かった!」

確かに、水樹さんは二十歳で成人している。そんな人が一口で物を食べて、なおかつ揚げ物だ。熱いに決まってる。相手が私ではない人だったらかなり馬鹿にされていただろう。そう考えると相手が私で良かったのかもしれない。

「今度から他の人とご飯食べる時は一口で食べないようにしな?」

「わかった!気をつける!」

かなり大人っぽい見た目や言動をしているのに、子供っぽい所もある。そういう所が男性にモテる秘訣だろう。

「よし、今度はちゃんと味がわかるように食べるね。」

そう言って一口大に切ってから食べていた。私はそんな丁寧な事を出来る人ではないので一口分かじった。やはり衣が軽くて、エビの味もしっかり感じられて美味しい。

「ん!美味しい!美味しいよ、結華ちゃん!今まで食べた中で一番かも!」

「でしょ!?私ここの料理の中でこれが一番好きなんだから!」

ちなみにこのお店のおすすめメニューはハンバーグだ。決してサイドメニューではない。

「えー、シュリンプだけのやつにすれば良かった...」

「追加で頼めば?」

「いや、ポテトも食べたら多分お腹いっぱいになると思う。だからまた今度来た時にするよ。」

「私ここ辞めたら来るつもりないから他のお友達と来な?」

「えー、結華ちゃんと一緒に来たい!けど、そうだね。辞めたお店に行くのはやだよね。」

「違う店舗ならいいけど、お互いの最寄りから遠いよね。」

「確かに。」

正直、くだらない会話だと思う。けれど小、中と友達の居なかった私にとってこういう会話は楽しい分類に入る。水樹さんも楽しいと思ってくれてたら嬉しいが、友達の多い水樹さんからしたら私との会話なんてただの日常に過ぎない。楽しいと思ってもらうなんて夢のまた夢だ。

「さて、そろそろ出ますか。」

「え、もうそんな時間?」

スマホの時計を見ると、十七時を過ぎていた。お会計をして家に帰ればちょうどいい時間になるだろう。

「結華ちゃんと久々に話せて楽しかったから、ここはうちが払うね。」

「え!待って...」

そう言ってさっさとレジに向かう水樹さんを追いかけたが、自動レジの速さには勝てなかった。

「自分の分は自分で払うよ。千円あれば足りるかな?」

お店を出て、財布から千円札を出して渡そうとしたが止められた。

「いいって。いつも頑張ってる結華ちゃんに、お姉さんからのプレゼントです。」

「申し訳ないよー」

「大丈夫!その代わり、カフェでたっくさん働いてもらうからさ!」

それならぽんこつな私にでも出来そうだ。

「わかった!頑張る!」

「いやいや、そこはツッコム所よ?」

「え、そうなの?でも沢山働きたいから大丈夫!」

「将来君が社畜になってそうでお姉さんは心配よ...」

どうせ長生きするつもりないから大丈夫だよ。

そう声に出して言いたかったがやめといた。水樹さんにこれ以上心配かけたくなかったから。それに言った所で自分自身、どう反応して欲しいかわからない。

「それじゃあ、私はここだから。水樹さん、今日は本当にありがとう。楽しかった!帰り、気を付けて帰ってね。」

「うちも楽しかったよ!ありがとう!今度はカフェで会おうねー」

「うん!」

手を振って別れ、帰り道を歩いた。いつもは家に向かうのが憂鬱だが、今日は水樹さんに会えた事で少し心が晴れた。やはり人は誰かと話すと心が晴れるのだなと改めて実感した。

「よし、頑張るか。」

まだまだ照りつけてくる太陽に向かって背伸びをした。


「いってきまーす」

「今日から新しいバイトだっけ?いってらっしゃい。無理しないでね。」

「はーい!」

水樹さんと会った日から二週間が経った。そして今日はカフェの初出勤の日。思っていたより緊張していない自分が居た。水樹さんとシフトが被っているから心強いのだろう。

最寄りの駅に着き、ICカードにお金を入れた。電車通勤は二年ぶりかも。今思い返せば初バイト以来、電車通勤のバイトをしていなかった。小、中学校も家から近くて、バイト先も家の近くにあるなんて中々ない。それだけは感謝している。

改札を抜けるとすぐ電車が来た。私が乗ろうとしたやつより少し早く来た。そういえばアナウンスで遅延がどうのこうのって言っていたような...。

予定していた時間より二十分も早く着いてしまうが、制服を貰ったり色々あるだろうからいい時間になりそうだ。これはこれでいい時間の電車に乗れたのかもしれない。

駅に直結しているショッピングモールに入り、カフェに向かって歩く。カフェが近付くにつれ緊張してきたが、気にしないフリをした。

「おはようございます。」

「あ!結華ちゃんおはよー」

カフェに入ると水樹さんがすぐ気づいてくれた。

「おはよう、水樹さん。」

「待ってたよー。てんちょー、結華ちゃんに色々教えるんで一旦抜けます!」

「はーい、いってらっしゃーい」

「行こ、結華ちゃん。」

水樹さんについて行くと、従業員専用の扉をカードキーで開けた。

「はーい、どうぞー」

「ありがとう。初めてこういう所に入った!」

「ショッピングモールだからねー」

エレベーターで五階に行き降りると目の前には休憩室、右横は多分更衣室だろう。

「更衣室はね、全部のお店の女性と兼用で、すれ違う人が居たら挨拶してね。」

「わかった。」

カードキーで開けてもらい中に入ると、漫画とかに出てくる更衣室のイメージそのままだった。

「漫画とかでしか見た事なかったけど、本当にこういう更衣室あるんだね。」

「ショッピングモールとかだとこういう更衣室が多いよ。」

「へぇー」

周りの人が不快にならない程度に辺りを見渡した。今働いているバイト先の更衣室とは比べ物にならないぐらい綺麗だ。雨漏りもしてないし。

「ここが結華ちゃんのロッカーだよ。うちと一緒のロッカーだから覚えやすいかも。」

「一緒なんだ!嬉しい!」

「ありがとう。ロッカーの番号はうちの誕生日にしてるんだ。覚えてる?」

「十月二五日だよね?」

「せいかーい。なら大丈夫そうだね。じゃあ、制服に着替えてもらおうかな。」

クリーニングに出したであろう制服を受け取り、今着ている服を脱いで着てみた。

「ちょっとこのブラウスだときついかも...」

丈はちょうどいいのだが、ボタンが閉まらない。私は背が小さいくせに痩せていなくて、むしろ小太りしているからスタイルがいい人を見るとへこむ。

「おっけー。もうワンサイズ上のやつも持ってきてるからこっち着てみてー」

けれど水樹さんはそんな私を見て笑う事は決してせず、次の提案をしてくれた。どこまで人間が出来ているのだろう。

「あ、これならちょうどいいかも。」

「ほんと?良かった。なら次はズボンだね。こっちの方がいいかな。」

ブラウスと同じサイズのズボンを受け取り履いてみると、ウエストはちょうどいいのだが丈が長かった。

「あら、丈が長いわね。内側に折ってみたらいいかも。」

ご丁寧に丈を折ってくれた。パッと見、丈を折っているとはわからない。

「うう...、さっきから迷惑しかかけてない...」

「大丈夫だよ。初出勤の人はこの制服を着るのも業務の内に入るから。自分に合ったやつを着よ!」

「ありがとー」

水樹さんって、こんなに面倒見がいい人だったんだ。新しい水樹さんが発見出来て嬉しかった。

「後は黒のチョッキにサロンだね。もしかしたらサロンも長いかも。この店のサロン、付け方が少し変わってるからうちが見本見せるから、一回それで付けてみて。」

「わかった。」

水樹さんは付けていたサロンを外し、私にお手本を見せながら付け直した。

今まで働いていた飲食店は普通のリボン結びだったが、ここのカフェは少し工夫がしてあった。固く結んだ後、左側の紐を三つ折にして、それを真ん中に持ってきて、左側にある紐をその中心に巻き付ける。その結び方で本当に大丈夫なのかと思ってしまったが、水樹さんのきっちりとした完成系を見て安心した。

「こんな感じかな。ちょっと付けるの早かったかも。出来そう?」

「やってみる!」

やり方を見ていたから道理はわかった。だがそれが結果に結びつくかどうかはわからない。でもやってみない事には出来るようにならないから、一回やってみる事にした。

「おぉ、出来たじゃん!凄い!」

水樹さんみたいにきっちりはしていないが、それなりの形にはなった。最悪、働いている時に落ちてこなければいい。

「頑張った!もっと上手くなるように家でも練習する。」

「いやいや、今でも充分上手だよ。初めての人はもっとぐちゃぐちゃだから。」

「そうなんだ...」

他の人より出だしは良好みたいで安心した。そういうくだらない事でもいいから、他の人より優れていたい。

「よし、制服着れたね。次はこのカードキーを貰いに行こう!」

「あ、そのカードキーって自分のじゃないんだ。」

水樹さんが扉を開けるのに使っていたカードキーは、ショッピングモールの貸し出し品みたいだ。毎回従業員専用の窓口で貰いに行くみたいだ。

エレベーターで一階まで下がり、水樹さんが窓口の人に声を掛けた。

「おはようございます。カードキー貰いに来ました。」

「おはようございます。こちらの紙に店名と名前、カードキーの番号の記入をお願いします。」

「はーい。結華ちゃん、書いてー。」

「わかった。」

ボールペンを受け取り、見よう見まねで書いた。今まで働いたバイト先では経験しなかった事だから心がワクワクした。

「書きました。」

「はい、カードキー。いってらっしゃい。」

カードキーを受け取り、水樹さんと一緒に四階まで戻った。

「結華ちゃん、緊張してる?」

エレベーターが二階に上がった頃、水樹さんが聞いてきた。

「んー、そんなでもないかも。だって水樹さんが居るし。めっちゃ心強い!」

「嬉しい事言ってくれるねー。店長にお願いしてシフト合わせてもらったかいがあるよ。」

「え!そうだったの!?」

てっきり、シフトが被っているのは偶然だと思っていた。まさかお願いまでして合わせてもらっていたとは。本当に水樹さんには頭が上がらない。

「ごめんね、私まだ向こうのバイト辞めてないから全然入れないのにシフト合わせてもらって。」

「全然いいよー。うちがしたくてした事だし。それに誘った人が一緒に居た方が働きやすいでしょ?」

「それはそうだけど...」

「結華ちゃんは物事気にしすぎ!もっと気楽に生きな!って言ってもあの家庭環境じゃあ厳しいか...」

苦笑する水樹さんに私はなにも言えなかった。水樹さんもそれ以上なにも言ってこなかった。

「あ、四階着いたよ。行こ!」

「うん!」

先頭を歩く水樹さんの後ろを追っかけた。

これが私の人生を変えた第一歩。これがなかったら私は今、この世に居なかったと思う。