今日、私は卒業する。
この不毛で理不尽でちっとも進展の見込めない彼との関係からーー
付き合ってくれたのは『彼女』が欲しかったから。
思いのほか長く付き合いが続いたのは、面倒くさくなくセックスする相手が欲しかったから。
そんな思惑が透けてみえる関係性ではあった。
悔やまれる事は、私がいつまでも彼の思惑を見て見ぬふりし続けたこと。
しかしそんな関係もいよいよ終わりを迎えようとしている。
関係を始めるのはすごく困難に感じるというのに、終わることは至極簡単で単純な作業だと思う。
それもそうだろう、どんなに想像力を膨らませても、「別れましょう」「わかった」のやりとりしか思い描けないのだから。
頭の中で幾度もそのやりとりを反芻しては溜息を零す。
卒業までの数週間を私はそうやって過ごした。
朝が弱い彼の為、いつも通り朝7時にはおはようメールを送り彼を起こし、誘われればセックスにも応じる。例えそれが、触って挿れて射して終わりな粗末なモノであったとしても。
全ていつもと変わらぬ様子をあえて装って、別れを切り出そうとしているなんて相手に微塵も感じさせないよう振る舞った。
そうしていないと私の中にある女としてのプライドや未だしっかりとあり続ける彼への想い、確かに積み重ねてきた二人の時間に対する未練のような何かがふつふつと沸騰してはごちゃ混ぜになって溢れ出してしまいそうだった。
感情的になって彼に喚き散らすような真似が出来るキャラではないし、そんな時期でもない。
ただ、心底疲れたのだ。
相手に期待する事にも、自分で自分を貶め続ける事にもーー
卒業式当日
キンと冷え切った空気が暖かな日差しにより幾分か寒さを和らげる。
晴れやかな青空の下、私達は無事に卒業を迎える。
色とりどりの晴れ着にスーツで、今までのことやこれからのことに花を咲かせる今日のような日は、どちらかといえば次はいつ会えるかわからない友達優先で、彼氏彼女は二の次だ。
しかし、それでは困るのだ。
私は意を決して彼を呼び出した。
「なに」
不機嫌さを微塵も隠そうとしないその態度。
言いたい事はわかってる、少し離れた場所で彼を見守るふりをしながら此方の様子を面白そうに伺っている友人達に、あまり私と一緒の姿を見られたくないんだろう。
大丈夫、必要最低限の言葉で終わらせてみせるから。
「前から思ってたんだけど、もうこの関係続けるの無理。別れよう」
あまり雰囲気を暗くしたくなくて、あっさり言ったつもりが頬が引き攣る。
でも気合いを入れて少し微笑んで見せた。
これなら、彼の友人達にもまさか私達が別れ話をしているなんて悟られないだろう。
「は?……なんで?」
彼は思い切り顔を顰めている。
それもそうだろう。
自分から別れを切り出す事はあってもまさか私から別れを切り出されるとは夢にも思わなかった筈。
「好かれてない事に疲れちゃった。あなたもその方がいいでしょう?なんならあなたから振った事にしてくれてもいいから」
だから早く「分かった」と言って。
あんなに何度も頭の中で予行練習したというのに、いざその時がくるとやっぱり駄目だ。
滲みそうになる視界を気合いでクリアにする。
屈託なく笑う顔が好きだった。
いつもは少し意地悪なのに、私が熱を出して寝込んだ時は思い切り甘えさせてくれるところや、買い物に付き合わせると不機嫌なのに荷物を持って手を繋いでくれるところ。
最近は彼の家のベッドの中の記憶しかないけれど、私達にも確かにカップルらしい時期があった。
でももう駄目なのだ。
少し離れた場所で此方を伺っている友人達の中にいる彼女。
好奇心と期待でキラキラした瞳を隠そうともせず、さっきから彼を見ている。
数週間前、大学の構内で抱き合っている2人を見た。彼の彼女を見つめる目が、とても優しいものだった。その彼の目を見た瞬間に、それまでなんとか繋ぎ止めていた私の中の色々なモノが音をたてて崩れていった。
ワタシハ“ツゴウノイイオンナ”ニスギナイ
そう悟った。
だから、バイバイ。ぐちゃぐちゃになってしまった色々なモノは、せめて私が持っていってあげるから、あなたからは最後に清々しいくらいの“サヨナラ”が欲しい。
「……何があったのかはわかんねぇけど、とりあえず言いたい事は分かった」
あ、っと思った瞬間には、足が地面から離れていた。
彼に担がれていると分かった瞬間、思いっきり体を捩って拘束から逃れようともがく。
「ちょっ、下ろしてよ!」
「下ろしたら逃げるだろ?とりあえず捕獲」
そう言いながらも歩き出す。こっちは予想外の連続で思考が働かない。
そうこうしながら辿り着いたのは彼の部屋のベッドの上で。
ドサりと下ろされたと思ったら両手を頭上で一纏めにされ強く押さえつけられている。
目の前には怒りを隠そうとしない彼の双眸が、私に一切の拒否は許さないと告げている。
「離して」
「嫌だね。なんだよ、別れるって。好かれてないって何?訳わかんね」
言いながらも彼の腕の力が強まる。痛みに軽く顔を顰めて、それでも毅然と言い放った。
「もうあなたの都合の良い女は卒業するって決めたの」
ハッと息を呑んだのは彼の方かそれとも私か。
頬を伝う涙がやけに熱い。
彼の前で泣くなんてサイアク。だから学校でさっくりと振ってしまって欲しかったのに。
でもなぜ…
ぼやける視界にうつる彼の顔が歪んで見えるのは涙のせいだけではないみたい。
今にも自分も泣き出しそうな顔をして、苦し気に私を見下ろしている。
「……なんだよ、都合の良い女って。そんなふうに思ってたワケ?」
腕を拘束する力がどんどん弱まっていく。
「ヤりたい時にヤれて、たいして見返りも求められず、優しくする必要もない。それを“都合の良い女”以外なんて呼ぶの?」
そう言ってやればあからさまに傷ついた顔をしてみせた。
私の腕を完全に解放すると、ギシッと音をたてて背筋を伸ばして座り直す。
「……理子がそう感じてたって事はわかった。…ごめん、俺、理子に甘えすぎてた」
「…そう思うなら別れ」
「だけど‼︎別れない。別れたくない!」
俯いていた顔を上げると、そこには今まで見た事ないほど真剣な顔をした彼がいた。
その目には仄暗い熱情が見て取れる。
咄嗟に後ずさるけれど、遅かった。
再び覆い被られて、吐息が顔にかかる距離で囁かれる。
「俺が理子の事どう思ってるか、今から分からせるから」
言うなり身体をまさぐりはじめる。
“ああ、毒されてるな”そう思った。
心の奥深くが、“彼に触れられて嬉しい”そう感じたから。
その瞬間、私の頬にぽたっと水滴が落ちる。
「……?……なんで泣いてるの…?」
泣きたいのは私の方なのに。
「ぃや…なら…ッ、ちゃんと……いや…がれよっ!」
「こんな風にお前の事抱いても…虚しいだけじゃん、今までと何も変わらねぇじゃんか」
「理子が何考えてるか全然わかんねぇ。」
「どうしたら俺の気持ち伝わるのか全然わかんねぇ。」
そう言いながらひたすら涙を乱暴に拭う彼。
私は呆気にとられてしまった。
「もしかして……私のこと本気で好きなの…?」
一瞬目を見開いたかと思うと、こちらを睨むように見てくるけれどいまだ流れ続ける涙のせいで全然迫力がない。
「そうだけど…悪いかよ。くそ!涙とまんねぇ」
涙を流しながら顔を赤らめるなんて、なんて器用なんだろう。
「でも…佐伯さんは?……この前裏庭で抱き合ってたよね…?」
彼は目を丸くすると、合点がいったとばかりに頷いてみせた。
「確かにそんな事あったな。あれは…あ〜変な誤解すんなよ。あいつ、従姉妹なんだよ。で、カレシと上手くいってないから慰めろって言ってきて、ノリでああなっただけ。ガキの頃から知ってるし、お互いにそんな感情ないから!」
言葉を失うとはまさにこの事だなと思った。
じゃあなんだ、私は彼が従姉妹とじゃれあってる姿を見て勝手に誤解して、別れるとか騒いだ迷惑な彼女ってことになる。
まさかーー
「……私の勘違い?…」
「そうなるな」
「……本当は佐伯さんといい感じで付き合うとか…」
「さっきも言ったけど従姉妹相手にそんな訳ねえな」
「……マコトニモウシワケアリマセンデシタ」
なんて失態を犯してしまったんだろう。
彼が大きな溜め息を吐きながら俯いてしまった。
私も居た堪れなさすぎて固まっていると、ふいに強い力で抱きしめられる。
「いい。理子が本当はどう思ってるか良く分かったし、確かに最近いろんな事なあなあだったよな。」
俺も悪かったと言って背中を優しくさすってくれる彼に、今度は再び私の目頭が熱くなってくる。
いいんだろうか、この胸の内を明かしても。
許されるんだろうか、不安も不満も全部解放して彼に縋ってみても。
「ッ〜〜本当は、……惰性で付き合ってくれてるんじゃないかって、いつも不安だった。グスッッ身体だけ求められてるんじゃないかって、別に私じゃなくてもいいんじゃないかって……考え出すと止まらなくって」
うんうんと言って聞いてくれる彼に、やっと素直に流れ出した涙が止まらない。
こんな風に感情的になって甘えるなんてすごく久しぶりだなぁなんて考えていると、肩を掴まれて身体を離される。
目線が真っ直ぐ交わると、思いの外真剣な表情の彼が目の前にいた。
「俺は、理子と惰性で付き合ってもいないし、ましてや身体目当てなんかじゃない。確かに最近は友達との付き合いとか卒業後の事で忙しくて、色んな事足りてなかったよな。ごめん。理子なら分かってくれてるって、甘えてた。」
「好きだよ、理子。別れたくない。」
「〜〜本当に私でもいいの?」
「理子がいいんだよ。理子以外はいらない。」
「……私、こんなはた迷惑で面倒くさい女だよ?」
「それでも理子がいいって思うくらいには、理子に惚れてる。それに、これからは思ってる事ちゃんと聞かせて」
約束、と言って指を絡ませてくる。
彼は私の涙腺を崩壊させる天才かもしれない。
涙腺だけじゃない。私の感情の全ては、彼に起因しているから。
怒りも、哀しみも、喜びでさえもーー
だからせめてもっと自分に自信を持っても良いのかもしれない。
彼が好きだって言ってくれる存在を、自分ももっと好きになっても良いのかもしれない。
そしてたまには彼を振り回すくらい魅力的な自分になりたい。
彼の行動に一喜一憂する自分は今日で卒業して、しっかりと自立した大人な女になるんだ。
本当に必要だったのは、彼とお別れすることではなく、弱い自分と決別する勇気だった。
久しぶりの心からの笑顔を彼に向けながら、決意を新たにする。
そしてこの2週間後、夜景の見える公園で彼に「一年後に結婚して欲しい」と言われて再び涙腺が崩壊した私は、やっぱりどんなに頑張っても彼には一生敵わないんじゃないかと思うのだった。
《完》
