今、私達が乗っている電車は、海も空も眠りについた世界を走っている。
 通学通勤などでもはや当たり前だという人もいるかもしれないが、私にとって今この瞬間は、とても幻想的に感じるのだ。
 暗闇の中で月に照らされて微かに光の揺らめく海を見つめながら、ぼーっとしていると、肩に何かが乗った。
 それは、彼の頭だった。
 私はそれをどかすことなく、静かに彼の顔を眺める。
 いつもは隠されていた目鼻立ちは、ヘアピンをつけたことによってあらわになっている。目を閉じていてもわかるほどかなり整っている彼の顔立ちは、俗に言うイケメンというものだった。
「ちゃんと髪切ればいいのに」
 私はそう小さくつぶやきながら彼の前髪をそっとなぞった。
「んん」と唸り声を上げる彼を見て、慌てて私は窓の外を眺めるも、どうやら起きてはいなかったようでほっとした。
 私は今、一人だ。隣には彼がいるけれど、手を握り返してくれるわけでも、話を聞いてくれるわけでも、もちろん話しかけてくれるわけでもない。
 その環境は私の頭を冷静に働かせ、思考を巡らせる。
 私は生きたい。でも、それと同時にこのまま死にたいと思ってしまう。
 私には幸せになる権利がないからだ。生まれた時から私は何かを失い続けてきた。
 友人からもらったプレゼントも、それをくれた友人も、新しく作った友人も、好きな人も、父親も、母親すらも。
 私より恵まれていない人なんて世の中にはごまんといると思う。でも、だからって私が我慢できるなんて道理はない。
 それでも私は生きてきた。でも、もう嫌になった。
 彼と初めて会話を交わしたあの時、私のいない教室で友人だと思っていた彼女達は私のことを貶していた。もしかしたらよくあることなのかもしれない。でも、私にはそれが重かった。
 そして、それでようやく理解したんだ。私には幸せになる権利がないんだって。
 だからきっと彼も蜃気楼のようにどこかへ消えていってしまうんだ。
 それなら私はいっそのこと、幸せを感じることができている間に死んでしまいたい。
 きっと大半の人間は私に対して生きていたらいつか幸せになれるとか、生きていればいつか必ずいいことがあるとか、そんなことを言うのだろう。
 そんな期待は私だってしてきた。実際何度か生きてて良かったと思えた瞬間もあったのかもしれない。でも、それは全て私の前から消えていったんだ。まるで最初からなかったように。
 だから、もういいんだ。もういいんだよ。
 私は、幸せなうちに死にたい。後悔がないように、生きてて良かったって思えるように。
 だから私は、きっと桜が散れば彼にこう言うだろう。
「ねえ、君。私のこと消してよ」
と。
 彼はきっとそれを了承する。なぜなら彼は優しいから。
 もし彼が私を殺さなかったら、その時私は自ら死を選ぶだろう。それほどに、私にとってこの幸せは身に余るものなんだ。夢からはいつか覚めなきゃいけないように、私はこの幸せを味わい続けていい人間ではない。
 でも、もし彼が私を愛し続けてくれるというのなら、それも悪くはないかもしれない。
 最後に一度だけ、人を、彼を信じてもいいのかもしれない。
「ねえ、君は私のヒーロー?殺し屋?それとも…」
 恋人に、なってくれるの?
「ぼく、は、きみ、の」
 彼は絞り出すような声で言った。でも、続きが語られることはなかった。
 彼は再びすーすーと寝息を立て始めた。その様子に私はただ純粋に可愛いと思った。まるで子供を見ているような気持ちになった。それと同時に、私はこんな子に殺しを頼んでいるんだと自覚した。
「ごめんね」
 返ってくるはずもないのに、私はそう小さくつぶやいた。きっと、物語だったらここで返答が返ってくるのだろうななんて思った。
「大好きだよ、光くん」
 私はそう言って眠る彼の手を握った。
 私は彼が大好きだ。愛している。
 こんな私を愛してくれて、私に対して無責任な言葉をかけたことなんて一度もない。いつも彼は私を心の底から思いやって言葉を紡いでくれた。いつかの話はほとんどしなかった。今日、一度だけされたけれど、それはきっと彼の本音なのだろう。いつまでも私と一緒にいたいという、彼の本音。
 でも、私はそれを心から信じることができない。いつまでも一緒だ、なんて言葉を吐いてすぐに私を捨てた人を何人も知っている。彼を信じていないわけではない。彼のことはこの世界で一番信頼している。でも、人間は必ず裏切る。
 だから私は彼と愛し合うことができない。いつか終わりが来てしまうから。終わりのない愛なんて、物語の中にしか存在しないと理解しているから。
 だから私は、死を選ぶ。どうなるかわからない生に希望を見出すよりも、幸せな死を選ぶのがきっと私に相応しい。
 そう思わせてくれた彼だからこそ、私は彼が大好きだ。
 以前の私なら、生よりも楽だから、苦しい思いはしたくないから、そんな理由だけで死を選んでいた。でも、彼はそんな私を変えてくれた。
 だから、私は彼が大好きだ。
「ありがとう、光くん」
 大好きだよ。
* * *
「間もなく、札幌、札幌です」
 その声に俺は視界に光を取り込んだ。少しだけ眩しい。どうやら寝てしまっていたようだ。
「あ、光くんおはよう」
「あぁ、おはよう」
 まるで声帯が錆びているかのように上手く声が出せないまま、俺はそう返事をした。
 ふと外を眺めると、空は暗闇に染まっていて、そんな暗闇に負けないように、街は光を放っていた。いつも目にしているはずのただの夜景なのに、どこか綺麗に感じるのはなぜだろうか。
 そんなことを考えていた時、身体が前に引っ張られた。どうやら到着したようだ。
「行こう」
「うん」
 俺達は手を繋いだまま駅を歩いた。エスカレーターを降りる時も、電車を乗り換える時も。
「もう暗いし、今日は送っていくよ」
 外に出た俺はそう言った。
「いやいや、逆に私が光くんを送っていくよ」
 こうなってしまっては泥沼の争いだ。俺は間を取ることにした。
「なら、今日はここで解散しようか。もし変な人に声かけられたりしたら連絡して。すぐに駆けつけるから」
「私は光くんの子供かな?心配し過ぎだよ。でも、ありがとう」
「じゃあ、また明日…ってもう冬休みなのか」
「そうだね。あっ、一緒に年越さない?」
 彼女の言葉に俺は動揺した。もちろん、表には出さなかったが。
「それは俺の家に泊まるってこと?」
「うん、ダメかな?」
 両親に確認をと言おうと思ったが、確認するまでもなくあの二人なら喜んでそれを了承することに気づいてしまった。
「まぁ、いいよ。聖も呼ぶか」
「そうだね、そうしよっか」
 彼女は何か思うことがありそうな表情をしながら笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
 彼女はこちらに大きく手を振りながら身を翻した。
 俺は彼女が道を曲がるまで見守ってから自分の家へ歩き始めた。
 空はもう真っ暗で、辺りは街灯と部屋から漏れ出る光によって照らされている。
 街灯のおかげで白色だと認識できるきめ細かい粒の上を俺は歩いた。
 歩くたびにボフ、ボフと音が鳴る。今年の雪はいい雪だ。だが、正直言ってそんなことはどうでもいい。
 俺はウィンタースポーツになんて微塵も興味がないし、どんな質の雪が降ろうと関係ない。というかそもそも雪なんて降らないでほしい。歩く負担が倍増するのだ。
 でも、今年だけは冬が明けないことをどこかで願っている自分がいる。
 彼女は生きたいと言った。でも、春が来て、桜が散ってしまえばもしかしたらその時は訪れるかもしれない。
 俺は怖い。彼女をこの手にかけなければならないかもしれないことが。でも、それでももし彼女が死を選ぶのなら必ず殺さなくてはならない。
 それが彼女との約束なのだから。
「私も愛してる、か」
 彼女の言葉が、表情が、笑顔が俺の思考を埋め尽くしていた。
 次に彼女が満面の笑みを浮かべるのなら、その時は絶対に涙は流させないと、心の中で誓った。
 夜の闇は、俺の心までも黒く染めようとしてくるようで、俺の思考はどんどん加速した。
 そもそもなんで俺は彼女にここまでするのか。答えは好きだから、愛しているから。
 じゃあなぜ愛しているのか。
 それはきっと同情からだったと思う。あまりにも恵まれない彼女を見て、彼女の涙を見て、俺がこの子を助けないといけないんだと思った。
 でも、今は違う。彼女の笑顔も、怒った顔も、拗ねた顔も、涙だって好きだ。顔だけじゃない、その顔を形作っている彼女の内面も好きだ。人よりも一生懸命生きようと頑張っているところ、物事に熱心に取り組むところも、少しあどけないところも、弱いところも含めて好きだ。愛していると断言できる。
 だから俺は、彼女を救いたい。
 だから俺は、彼女を殺す。
 それが俺にできる救済なら、他に方法がないのなら、必ず―。
 それから特に何事もなく、大晦日が訪れた。
 聖も誘ってみたが、どうやら年末年始は家族旅行に行くようで来れないとのことだった。
 つまり、ルナと俺の二人きりで過ごすことになる。
「まあ、両親もいるし大丈夫か」
 自室でたった一人、机で頬杖をつきながらそう声を漏らした。
 ピンポーンと音が鳴り、その音に反応して椅子から立ち上がった。
 俺がリビングに続く扉を開くと同時に、母がインターホンに向かって「はーい」と言った。
 インターホン越しに微かに「お母さん、蓮見です!こんにちは」という声が聞こえ、俺は玄関へ向かった。
 玄関の扉を開くとそこには学校用のものよりは少し小さいくらいのリュックを背負ったルナがいた。
「光くん、やっほー」
 彼女は小さく手を振りながらどこか恥ずかしそうに言った。
「入っていいよ、いつも通り手洗っといて」
「はーい」
 彼女はそう言って足早に洗面所に向かった。
 俺はキッチンに足を運び、ルナの分のお茶をコップに注いだ。
「お邪魔します」
「はーい」
「ルナちゃん!こんにちは」
 手を洗い終えたルナは両親に軽く会釈をしてから食卓に座った。
 今日は大晦日ということもあって、昼頃に集まってお昼ご飯から家族みんなで過ごそうということになっている。
「美味しそうですね」
 ルナは食卓に座ると両手を頬の隣で合わせながらそう言った。
 食卓には寿司や御節など、大晦日に食べるものランキングをそのまま反映した料理がズラッと並べられている。その光景にはかなり食欲をそそるものがあった。
「じゃあ早速食べようか」
 父のそんな言葉を合図にするかのように、俺達は手を合わせた。
「いただきます!」
 いつも通りの声がリビングに響き、食事が始まった。
 俺は真っ先に寿司に箸を伸ばし、サーモンを一貫取って醤油に浸けた。
「サーモンうま」
 俺はそう言ってどんどんサーモンだけを大量に胃袋に詰めていった。
「光くんサーモン食べ過ぎじゃない?」
「そうなんだよ、光はサーモン以外食べないんだ。安上がりの男だから、一緒に寿司に行けば楽だぞぉ」
 そんな父の言葉を無視しながら俺は残っていたサーモンを食べ尽くした。
「ちょ、光。父さんもサーモン好きなんだけど、いくら何でも食いすぎだろ」
「知らない。冷蔵庫にスーパーのサーモン入ってるよ」
「お前なぁ」
 そんな俺と父の会話にルナと母はふふっと笑みをこぼした。この約一ヶ月で、ルナもすっかりこの家族に馴染んだ。まるで昔からそこにいたようにすら感じるほどに。
 それから俺達は馬鹿みたいに話して、笑って、食べて。時にはバラエティ番組を見て皆で笑って。調子に乗った父さんがお酒を飲みすぎて酔っ払ってルナに絡んだり、それを母が恒例のチョップで止めたり、とにかく楽しんだ。
 まさに家族水入らずのひとときだった。
 年越しそばも食べて、いよいよカウントダウンの時間が訪れた。
「10!」
 テレビの音声に合わせるように俺達も声を上げる。
「9!」
 今年は本当に色々なことがあったな。
「8!」
 特に下半期、ルナと出会ってからだ。
「7!」
 急に消して欲しいなんて言われて。
「6!」
 歩道橋の上で問答をして。
「5!」
 父と仲直りというか、関係の再構築もできて。
「4!」
 カラオケに行って、そこで彼女のことを知って。
「3!」
 けんぱち、本当に喜んでくれたのかな。
「2!」
 一緒に小樽にも行ったな。
「1!」
 これからどうなるかは分からないけれど、間違いなく幸せな一年だった。
「0!」
 もし叶うことなら来年も―
「ハッピーニューイヤー!」
 テレビの音声に負けず劣らず俺達は声を発した。
「へっへっへぇ、年越したぞぉ」
 父は既に酔っ払い、母はそれに呆れ、ルナはそれを微笑ましく見つめている。
「じゃあ年も越したし、私達はもう寝るから。二人も早く寝なさいね」
 母はそう言って父に肩を貸しながら二階へ上がっていった。
 道中、「もう、ちゃんと歩いて」「ほら、足上げて」という母の声が聞こえてきたこと、そしてゴミ袋にまとめられたお酒の量からは父の酔っ払っている様子が容易に想像できた。
「お父さん、酔っ払ってたね」
 お母さん大変、と彼女は微笑みながら言った。
「そうなんだよ。毎年毎年こんな感じだから俺はもう慣れたけどね」
 俺のそんな言葉にルナは辛そうな、悲しそうな表情を浮かべながら独り言のように呟いた。
「来年もそうなのかな」
と。
「一緒に確かめよう」なんて言葉は出てこなかった。なぜなら、こんな表情を浮かべながらこんな発言をする時点で、来年まで生きている自信がないと言っているようなものだと思ったからだ。
 君は生きたいんだろう?そう言いたかったが、残念ながら俺にそんな勇気はなかった。
 それを聞いてしまえば彼女の生死が確定してしまうような、そんな気がして恐ろしかったから。
「さて、今日はもう寝ようか。俺がソファで寝るからルナはベッドで寝てくれ」
 結局俺は彼女の呟きは無かったことにして、椅子から立ち上がった。
 だが、何かに服の袖を引っ張られた。もちろんそれをしたのは幽霊などではなく、ルナだった。
「ねえ」
 彼女は座ったまま絞り出すように言った。
「何?」
「一緒に寝よ?」
 心臓が飛び跳ねたかと思った。
 そして俺はまるでマネキンのようにその場に静止した。
 一体どうするべきなのだろうか。普通に考えれば断って俺はソファで寝るべきなのだろうが、彼女のこの言葉には何か意味がある気がしてならない。
「一緒に?」
 俺はとにかく思考を巡らせる時間を取るために言葉を紡いだ。
「うん、だめかな」
 彼女は俺の袖をより強く掴みながら言った。
「なんで一緒に寝たいの?」
「人の、君の温もりを知りたいの」
 そう話す彼女の手は震えていた。震えながらも、より強く俺の袖を握りしめていく。
「分かった。一緒に寝よう」
 俺はそう言って彼女の手を掴み、彼女を自室まで先導した。
 自室の扉を開き、ベッドまで歩を進める。
「まずは少し話そうか」
 そう言って俺はベッドに座り、隣をトントンと叩いた。
 彼女は俺の意図を理解し、俺の叩いた場所へ座った。
 彼女と俺の距離は肩と肩が触れ合うほど近かった。もはや、これを付き合っていないとは言えないほどに。でも、それでも俺達は恋人同士ではない。あくまでも殺し屋とターゲットだ。
「ねえ」
 彼女はそう言って俺の手の甲に手を被せた。
「何?」
 俺は彼女の手の上にさらに手を置きながら言った。
「もう一回、言って」
「…何を?」
「私のこと、どう思ってるかもう一回教えて」
 彼女はそう言うと俺の腕を抱き締めた。
「愛してるよ、この世の誰よりも」
 俺は何の躊躇も恥じらいもなく、そう答えた。きっと、以前の俺にはできなかったことだろう。
「ありがとう」
 彼女は申し訳なさそうな表情をしながら言った。俺にはそんな彼女の真意は分からなかった。
「ねえ」
「何?」
「殺してほしいの」
 彼女の言葉に俺は沈黙を返した。
 今の俺にはもう、前までのように確実に殺すと断言はできなかった。
 殺さなければいけないことは分かっている。でも、今はまだその現実に向き合いたくない。生きてくれると信じていたい。そう思ってしまうのだ。
「なんで、君は生きたいんじゃなかったのか」
 俺の言葉に彼女は苦しそうな微笑みを浮かべて言った。
「幸せは、永遠には続かないから。だから私は君が幸せにしてくれているうちに死にたい」
 彼女の言葉に俺は思考が追いつかなくなった。
 俺がいくら幸せを与えても、彼女は死んでしまうのだろうかと、そう思った。
「その話はまた今度聞くよ」
 俺は気が付けば現実から目をそらすようにそう言葉を放っていた。きっと、いつか俺達は似たような会話をするのだろう。でも、それは今じゃなくていい。
「うん、そうだね」
 彼女の言葉にほっとしていると、彼女は言った。
「ねえ」
「…何?」
「お願いがあるの」
 彼女は俺の顔を見つめながら言った。顔を見られているはずなのに、なぜか目が合わないのはなぜだろうか。彼女は一体どこを見ているのだろうか。
「キス、して?」
* * *
 私は気が付けばそう言葉に出していた。
 無茶な願いだと分かっていた。添い寝を了承してくれただけでも十分だと分かっていた。
 でも、私は彼にキスをしてほしかった。そうすればきっと、彼を信じて生きることができると思ったから。
「それは僕には叶えられない」
 彼は申し訳なさそうに目を細めながら言った。
 彼以外にこんな願いを叶えて欲しい人はいないのに、僕にはなんて言い方をされたのが私は嫌だった。
 そして、何よりも彼にキスを拒絶されたことが辛かった。幸せになっていいって、そう思いたかったのに。
「そう、だよね」
 私は何だか何もかもが嫌になってこの場を立ち去ろうと思った。
 そして、立ち上がった瞬間、扉を捉えていたはずの私の視界は上を向いた。さらに、天井が見えるはずの私の視界には、彼の顔しか映っていなかった。
「でも、そばにいることだけはできる」
 彼はそう言って覆い被さるようにして私を抱き締めた。
 私は訳も分からず彼を抱き締め返した。
 そして、やっと理解した。彼は私が嫌でキスをしなかったんじゃないことを。彼には彼なりの考えがあって、その上でキスをしなかった。ただそれだけの話だったんだと。
「ありがとう」
 私は彼を強く抱き締めた。それに呼応するように彼も私を強く抱き締める。風呂上がりのシャンプーの匂いが私を包み込んでいった。
 やっぱり、彼を信じてもいいのかもしれない。彼は私のことを想い続けてくれると。でも、そんなのはまやかしだ。
 私は覚悟した。春まで生きることを。そして、私の命の花が散れば、彼に殺してもらうことを。
 普通なら彼に殺させないことを覚悟するところなのかもしれないが、それは彼にとっては逆効果だ。
 彼はきっと常に私を殺す覚悟を必死に研いできたと思う。それも潮風にさらされた金属のように、何度も錆びて、何度も研ぎ直して。
 だから私は彼に殺してもらわなければならない。一人で死ぬなんてことをすればそれこそ彼はきっと壊れてしまうから。
「ちゃんと、殺してよ」
 私の問いに返ってきたのはより強い締め付けと、一度聞いたことのある言葉だった。
「君が桜が散るまで死にたいと思っていたらね」
 彼はそう言った。
 死を覚悟したはずなのに、私はまた彼を信じたいと思ってしまった。彼が私を生かしてくれるんじゃないかって。
「君が私を生かしてくれるの?」
 私は気がつけばそう言葉を漏らしていた。
 彼は少し起き上がって、私の顔を見つめながら言った。
「僕は君だけの殺し屋だ。それは永遠に変わらない。僕は絶対に消えたい君を殺す」
 彼はそう断言した。そんな彼の表情は、今まで見たこともないほど真剣だった。
「ありがとう」
 彼の言葉に嘘はないことは分かった。この状況で安易に肯定の言葉を返す人間は大抵嘘つきだ。少なくとも軽い気持ちでそれを言っている。
「ねえ、光くん」
「何?」
「私も君のこと愛してるよ。だーいすき」
 私がそう言うと、彼はようやくベッドに仰向けに寝転がった。
 そして、こちら側に向き直って再度私を抱き締めた。それに合わせて私も彼の方を向いて彼を抱き締める。
 気が付けば小鳥が鳴き、カーテンのすき間から日差しが入ってきた。
 私達の姿勢は、昨夜のまま変わっていなかった。
 私が少し姿勢を変えると、それに反応して彼が「んん」と唸り声を上げて目を開いた。
「あ、ごめん。起こしちゃったね」
 彼は寝ぼけ眼のまま「おはよう」とかすれた声で言った。
「うん、おはよう。朝ごはん食べに行こっか。今日は初詣行くんだし、ちゃっちゃと準備しちゃおー!」
 私の言葉を無視するように彼は再び目を閉じた。どうやら寝起きはあまり良くないようだ。もしくはあまり眠ることができなかったのかもしれない。
「はいはい、起きて起きてー」
 私はベッドから起き上がって彼の肩を叩きながら言った。
「んう、あとちょっと寝かせて」
 先程よりかすれてはいない、だからこそ幼く聞こえる声で彼は甘えるように言った。
 どうやら私は甘やかしたい性格のようで、ついついしょうがないなーなんて言ってしまいそうになったが、ぐっとこらえて彼の腕を引っ張る。
「起きてー、朝だよー」
 半ば無理やりベッドの上に座らせ、彼の目がはっきり開くのを待つ。
 彼の長い髪は寝癖でボサボサで、そんなことは意にも介さず目をこすっている。
「全く、将来が心配だなぁ」
 最近は少し大人びた彼の様子ばかり見ていたからか、年相応な彼の姿にどこか親近感を覚えた。もっとも、私の寝起きはかなりいいほうだけれど。
 私は机の上にあった櫛と雪模様のヘアピンを取り、適当に彼の髪をとかしていく。
 寝癖がほとんど無くなってから、前髪を右に寄せてヘアピンを付けた。
 この間彼はブラッシングされている犬のように大人しかった。
 そんな彼と共にリビングに足を運ぶと、二日酔いでしんどそうに椅子に座るお父さんと、キッチンで朝食を作るお母さんがいた。
「お父さん、お母さん、おはようございます」
 私は思い切ってリビングに自分の声を響かせた。すると、気だるそうな「おはよう」と、活気にあふれた「おはよう」が返ってきた。
 朝食を終え、少し元気になったお父さんを連れてみんなで車に乗り込んだ。これから神社に向かうのだ。
 今から私達が向かうのは街の一角に位置する神社で、北海道でも有数の大きさがあるわけではないが、初詣をするには十分なサイズがある。
 近くには思い出の歩道橋やカラオケもあって、何度か通ったことのある道にその神社は位置していた。
 普段はそれほど栄えているわけではない神社には、参拝客が多く訪れていて、周囲は喧騒に包まれていた。
 その喧騒の中で、「願い事何にする?」という一度は耳にしたことのある言葉が私に届いた。
「お父さんとお母さんは願い事何にするんですか?」
 私は腕を組みながら前を歩く二人にそう声をかけた。
「そうだなぁ、家内安全とかかな。あ、もちろんルナちゃんも含めてな」
 お父さんは親指をピンと立て、こちらにウインクしながら言った。
「そうねえ、私も一家安泰かしら。あ、あとは光の合格祈願かな」
「母さん、流石に気が早すぎるよ。それは再来年の初詣でいいと思う」
「えー、三年間お祈りしたらその分効果あるかもしれないでしょ?」
「そもそも祈ったって俺の努力次第なんだから変わらないと思うけど」
 彼の言葉に私は確かにと思った。
 祈ったところで入試の点数が上がるわけでもないのに、なぜ神に合格を祈願するのだろうか。
 きっと気休め程度のものだと誰もが理解しているのだろうけれど、それでも祈ることで確率が少しでも高まると思いたいのだろう。
「光くんは何を祈るの?」
 私の言葉に彼は頭を悩ませることもなく即答した。
「内緒」
「えーなんで」と言う私の言葉には何も返事もくれず、私達は歩いた。
 鐘の音が聞き飽きるほど何度も鳴って、いよいよ私達の番がやってきた。
 賽銭箱に小銭の落ちるチャリンという音が四回響き、私達は二回お辞儀をした後に手を二回叩いた。
 そして、私はこう祈った。
 彼がこんな私をちゃんと消してくれますように、と。
 この時、無意識のうちに殺してくれますようにとは祈らなかったことは、私の命の花が散ってから気付いた。
 そして雪も溶け、いよいよクラス替えの季節がやってきた。