消えたい君とただの僕

 とても歌なんて歌える空気ではなかった。でも、それでも俺は彼女の傍に座っていた。
 ただ隣にいるだけだ。俺にはそれしかできない。そんな自分が、心底嫌になった。
「ねえ」
 スピーカーから繰り返される音声に負けないように、いつもより少しだけ声を張ってルナが言った。
「何?」
「もうそろそろ帰らなきゃだね」
 その言葉に、俺は携帯の画面から現在時刻を確認する。そこには午後五時四十分と書かれていた。
「もうこんな時間か」
 彼女の言いたいことはなんとなくわかる。家に帰りたくないのだろう。でも、俺にはどうすることもできない。
「明日、空いてる?」
 せめて未来くらいには希望を持たせたいと思った俺はそう切り出した。
「うん」
「家、くる?幼なじみと俺の家で遊ぶ予定だから、ルナも一緒にどう?」
「いいの?」
 俺の誘いにルナは少しだけ目を輝かせた。そうだ、こうやって少しずつ生きる楽しさを与えていけばいいんだと思った。
 でも、それでももし彼女が死を選ぶなら、この期間は最期の瞬間を迎える俺達二人にとって、辛いものになるのではないか。そんな考えが頭をよぎったが、気のせいだと思うことにした。
「うん、いいよ」
「行く、行きたい」
 家に行きたいという言葉が頭の中で勝手に生きたいに変換された。
 きっと俺は、自分の行動が彼女を助けていると思いたいんだろう。
「わかった。なら今日はもう帰ろうか」
「うん」
 儚げな表情を浮かべるルナに俺は今何ができるかを考えてみた。そして、一つだけ彼女に喜んでもらえるかもしれないものを思い出した。
「そういえば」
 俺はバッグを漁り、一触りすれば一瞬でそれだとわかる物を取り出して言った。
「よかったらこれ」
「なに、これ」
 俺から手渡されたそれを見て、彼女はぽかんとした様子で声を上げた。そのリアクションが自然だろう。俺だってきっと、急に「けんぱち」を手渡されたらそんな反応になると思う。それくらい冷静に見てみれば不格好な物を選んでしまった。
「あー、えっと、街を歩いてたら偶然見つけて。いらなかったら返してくれていいんだけど」
 俺の言葉に彼女は首を横に振って微笑みを浮かべ、胸で俺の渡したそれをぎゅっと抱き締めて言った。
「ううん。大切にするね。ありがとう」
 彼女の言葉に俺はほっと胸を撫で下ろし、部屋から出た。
 まだ少し暗い表情をする彼女に僕がかけることができたのは、「また来よう」の一言だけだった。
「ありがとうございました」
 受付に辿り着くと、店員の愛想のいいお礼の挨拶が俺達を歓迎してくれた。その挨拶に軽くお辞儀を返したあと、自動精算機に伝票を投入した。
「俺が払うから」
 そう言って俺は千円札を精算機に入れ、確定ボタンを押した。「申し訳ないよ」というルナを差し置いてだ。俺なりの気遣いなのだが、果たしてよかったのだろうか。
「よし、行こう」
 精算機から出てきた小銭を財布にしまい、俺はそう言って店の出口へ向かった。
 エスカレーターを降りると、外が見えた。すでに外は真っ暗だった。
「危ないし、送っていくよ」
「いいよ、申し訳ないから」
 そう言って両手を振る彼女が俺は気に食わなかったので、殺し屋の立場を利用することにした。
「ターゲットの家を知っていれば殺しに役立つかもしれないだろ?」
「でも屋上でって決まって―」
「うるさい」
 ふふっと向かい合ってお互いに笑みをこぼした。
 はたから見ればかなり歪な関係だろうが、今はこれでいい。
「じゃあ、送ってもらおうかな」
「うん」
 そう言って俺達は外に出た。
 まだ雪は降っていないとはいえ、さすがに冷え込んでいる。彼女は寒そうに身を縮めた。
「これ、使うか?」
 俺はそう言って着ていたコートを脱いだ。彼女も一枚上着を羽織っているとはいえ、目の前で女子が寒そうにしているのに何もしないほど男は廃れていない。
「いやいいよ。それ私に貸したら光くんが寒いでしょ」
 俺は薄手のジャンパーを一枚着ているが、それだけで乗り切れるほど北海道の十一月は甘くはない。
「いや、全然平気。ほら」
 父の真似をするように、俺はそのコートを彼女に投げた。俺の取る行動は、基本全てが父か母の受け売りだ。
「ありがと」
 彼女はそう言って俺のコートを羽織った。俺の身長に合わせたそれは、彼女には何回りも大きく、足はかなりの面積が隠れ、手元は萌え袖のようになっていた。
「ふっ」
 俺はその光景が何だか面白くて、つい鼻で笑ってしまった。
「ねえ、今鼻で笑ったでしょ」
「いや、口です」
「どっちにしても笑ってるじゃん」
 彼女はそう言って頬を膨らませた。いつも通りの彼女の様子に俺は少し安心した。だが、一つだけいつもと違う点があった。それは、彼女の表情がとても自然になったということだ。
 前までの笑みが不自然だったかと言われればそうではないのだが、なんというか、表情を作らなくなったというのだろうか。自分の素の表情を出しているように見える。もしかすると彼女にとってはまだ素には程遠いのかもしれないが、少しでも彼女が楽になっていればいいなと思った。
「もう、光くんが貸したんだからね」
「わかってるよ」
 俺達は信号の前で立ち止まった。特に話すこともなく、俺達の間には沈黙が流れ、車の通る音だけが周囲を賑わせた。
「あ、そういえば」
「うん?」
「光って呼んでもいいんだね」
「あー、うん。まぁ色々あってな。俺は俺でいいと思ったんだ」
 俺の言葉に彼女は俯きながらどこか悲しそうに「そっか」と言った。
「ルナもルナでいいんだ」なんて言葉をもう一度伝えたかったが、どうやらあの時の俺は今の俺とは別人のようで、そんな言葉は口を開いても出てこなかった。
 そんなことを考えているうちに、信号が青になり俺達は歩を進めた。
「来週、席替えだね」
 歩いていると、彼女が唐突に話題を振ってきた。どうやら彼女は沈黙が好きではないようだ。いや、誰でもあまり親しくない人間との沈黙は気まずいものかもしれない。
「そうだな。ちゃんと授業受けたからいい席になるといいけど」
「光くんはどんな席がご所望なの?」
「うーん、一番後ろでできるだけ窓側か廊下側。今までが廊下側だったから今度は窓際が良いな」
「そっか、私は光くんの隣が良いな」
 予想していなかった言葉に、俺は一瞬浮かせた足を地面につけ直すのが遅れた。
「そっか、そうなるといいね」
「うん、光くんは友達とかと隣になりたいって思わないの、って友達いないのか」
「うるさいよ」
「図星じゃん」
「うるさいって」
 それから少しの沈黙が流れた。
「急に黙られると気まずいな」
「君がうるさいって言ったんじゃないの?」
「ごめんごめん」
「ごめんは一回!」
「ごめーん」
 ふざけて言ってみせると、彼女はふふっと笑みをこぼした。取り繕われていない、純粋な笑みだった。俺はこれが引き出せたことが何より嬉しかった。
「あ、歩道橋!寄っていこうよ」
 彼女はそう言って足元の見えづらい暗闇を走った。
 小学校の前を走っているということと、華奢な体格と子供らしい行動がまるで彼女を小学生のように思わせた。
 転ばないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
 階段も駆け上がり、彼女は歩道橋の中心に立った。俺はそんな彼女とは数歩分離れて辺りの景色を眺める。
「この前来たばっかりなのに、久しぶりに感じるな」
「そうだね、この前は明るいうちに来たのもあるかもね」
 街灯が歩道橋を微かに照らし、ヘッドライトが次々に通り過ぎていく。建物はすでに眠っているように暗く、窓から少し部屋の光が溢れている。それはどこか神秘的な光景だった。
「それで、君は私に何が聞きたいの?」
 デジャブを感じる言葉を彼女は呟くように言った。今の俺に聞きたいことがあることを見抜いたのか、はたまたふざけただけなのか。真偽は不明だ。
「それじゃあ質問を一つ」
 俺は一呼吸置いてから言った。
「どうぞ」
 彼女は辺りの景色を眺めるのをやめ、こちらを向いて言った。
「君は、何で笑ってるんだ?」
 きっと彼女はデジャブを感じただろう。俺なりの意趣返しだ。
「この間も言ったでしょ」
 そう言って彼女は続きを語ろうとしたが、俺はそれを遮って口を開いた。
「そうだな。笑っていたい理由は分かった。でも、無理に笑う理由にはなってない。そうだろ?無理に笑ったってただ辛いだけだ。それは不幸じゃないと言えることにはならないだろ」
 俺が言い終えると、彼女は俺の顔を見つめた。
「うん、そうかもしれないね。でも私は笑っていたいの」
「なんで?」
「本当に幼い頃の記憶だからもうあんまり覚えてないけど、笑顔がかわいいって誰かから言われたことがあるの。お母さんだったかもしれないし、スーパーの店員さんだったかもしれない。もしかしたらただの通りすがりの人かもしれない。でも、私はその言葉が嬉しかった。だから笑ってる」
「でも―」
 今度はルナが俺の言葉を遮って言った。
「そのほうがみんな好きでいてくれるでしょ」
と。
 その言葉は重かった。彼女は、誰かに心から好きでいてもらうために、愛されるために、自分の心を傷つけているのだ。
「俺は今のルナのほうが好きだよ」
 俺はまた自分の変化を感じ取った。聖に名前呼びを許した時と似た感覚だ。頭の中で何かがふっと抜けたような感覚。それに呼応して体も高揚するような、不思議な感覚。
「君がそう言ってくれるのなら、光くんの前では無理に作らなくてもいいのかもね」
 彼女は悲しそうに、でも嬉しそうに目を閉じて笑った。
 そんな彼女の瞳から一粒の涙が溢れたことを、俺は見逃さなかった。
 俺は、彼女との距離をつめた。
「え、どうしたの」
 俺のいきなりの行動に彼女がそう声を上げ、足を半歩後ろに下げた瞬間、俺は彼女の背中に両手を回した。
 着慣れたコートの少しザラッとした感触が、掌全体を覆った。
「大丈夫、俺以外にも三人はルナを認めてくれる人がいる」
 彼女は困惑した様子で「誰?」と声を上げた。
 俺の胸に埋もれた彼女の声はいつもよりも少しだけこもっていた。
「俺の幼馴染と俺の両親」
 奇しくもそれは彼女が感じたことがないであろう友愛、もしくは親愛と家族愛だった。人がほとんど触れたことがあるであろう愛は、他に恋愛が思い浮かんだ。
 俺が、桜が散るまでに彼女に恋愛を教える。
 誰に誓うでもなく、心のなかでそう決めた。俺は彼女のことが好きになったのかもしれない。彼女の可愛いところを見て好きになったとかそんな綺麗事を言うつもりはない。きっと同情かもしれない。でも、大事なのは好きになる理由より何をもって好きでい続けるかだと思う。
「そっか」
 彼女は震えた声で言いながら俺の胸元を掴んだ。
「明日、楽しみだな」
「うん」
 彼女の手が俺の背中に回された。
 冷え切った薄手のジャンパーを通して、彼女の手の温かさが伝わってくる。
 それからどのくらいの時間が経っただろうか。歩道橋の階段を登る足音を聞いて、俺たちの抱擁は自然と終わりを告げた。
「ここで大丈夫」
 彼女がそう告げて俺のコートを手渡したのは、大きい通りを跨いでしばらく歩いた後だった。
 そこにあったのは、白い建物を茶色や緑に染める錆やコケがそこら中にある二階建ての古いアパートだった。
「帰ったらちゃんとご飯食べてゆっくり休めよ」
「うん、ありがとう」
 彼女はそう返事をすると、すぐに階段を登っていった。
 彼女が部屋に入るまでしっかり見届けようと思っていた俺に、二階部分から声がかかった。
「光くん、ありがとう。また明日ね」
「あぁ、また明日」
 俺は微笑みながら手を振る彼女を見上げつつ、いつもよりも少し声を張って返事をした。
 そして彼女はそのまま二階を進み、一番端の部屋に入って行った。
 俺はそれを見届けて、自分の家を目指した。ここからは推定四十分ほど歩くが、彼女と一緒にいられる時間が増えたのなら、それでもいいと思うことができた。
「ただいま」
 俺はそう言いながらリビングに続く扉を開いた。
「おかえり、今日は楽しかった?」
 俺は先ほどの歩道橋での出来事を思い出し、バツが悪くなって「まぁ」とだけ返して洗面所へ向かった。
 手を洗い終え、手を拭きながら鏡を見る。
「やっぱり前髪邪魔かな」
 前髪を右に寄せてみるが、大していい面は拝めなかった。
「変わらないか」
 手を拭き終えた俺はリビングに戻った。すると食卓にいつも通り食事が用意されていた。相変わらずの用意の早さだ。
「いただきます」
 食卓に座った俺達は揃って声を上げた。
「ねえ光」
 母は改まるように箸を置いて口を開いた。
「何?」
「今日、なんかあったんでしょ」
 母の言葉に俺も箸を置いて答える。
「そうかもしれないね」
 事実何かあったことは認めるが、何があったかなんて話す気はなかった。泣いている女の子の頭を撫でたとか、抱きしめたとか、到底親に話せる内容ではないからだ。
「そっか。これだけは言っておくわね」
 母はいつにも増して真剣な表情と声色で言った。
「光が頑張った結果がどうなっても、光は悪くないから」
 母の言葉は今の俺に対する的確な助言と言うことができた。なぜなら今の俺の思考の大半は彼女を救いたい、でも救えなかったら俺が殺す。その結果はすべて俺が悪いというものだったからだ。
「ありがとう、頭の片隅には入れておく」
 俺はそう言いながら味噌汁を啜った。
「ごちそうさま」
 ゆっくり箸を進める母に対し、俺は早めに食事を終えて自室に戻った。もちろん食器は下げた。
 俺はいつも通りリュックを適当に放り投げ、机の上に勉強道具を広げた。
 今日はけんぱちを渡すことができてよかったと思っている。彼女が本心から喜んでくれたかは分からないけれど、人の思いは人を救えると何となく感じているからだ。
 そんなことを考えながら、俺はペンを持った。

 翌日、ピンポーンと音が鳴った。
 集合時間は午後二時と伝えていたのにも関わらず、時計の針は午後一時五十五分を指している。
「はい」
「えっと、蓮見ルナです。光くんのクラスメイトです」
 なんとなく予想はついていたが、インターホンの前にいたのはルナだった。
「あぁ、俺光だよ。鍵空いてるから入ってきて」
「あ、はい!」
 返事を聞いた後、俺は通話を終了して玄関へ向かった。玄関に続く扉を開けると、靴を脱ぎ終えたルナがいた。
 彼女は、黒ベースの縦に白のラインの入ったジャージに、鼠色の羽毛のような素材が使われた暖かそうな服を身にまとっていた。
 昨日とはまた印象の異なる姿に俺はつい魅入りそうになってしまった。
「入っていいよ。そこで手洗って」
「はい」
 彼女は知人の家に来訪することに緊張を感じているのか、何やら敬語が外れない様子だった。
「手洗いました」
 リビングで母にコップを手渡していると、入り口の方からそう声がかかった。
「あら、ルナちゃんこんにちは!」
 母は年齢に似合わない活力に満ち溢れた声でルナにそう声をかけた。
「はい、こんにちは」
 母のそんな声に圧倒されてか、彼女は体の前で両手を結びながらそう言った。
「母さん、威嚇しないで」
「威嚇とは失礼ね。ぺしっ」
 母はそう言って俺の頭に軽くチョップをかました。
「虐待だね。法廷で会いましょう」
「何を、このこのー」
 今度はそう言いながら俺の背中を握り拳で何回も殴ってきた。
「ふふっ」
 その様子にルナは笑みをこぼした。
 俺達はそれを見て小競り合いをやめ、コップにお茶をいれた。
「先に俺の部屋行ってて。そこだから」
 そう言って俺は玄関から向かって後ろ側にある部屋を指差した。
「わかった」
 俺達の様子に和んだのか、彼女から敬語は自然と外れていた。
 お茶の入ったコップを両手に一つずつ抱えて俺は自室に向かった。
「好きな飲み物とか聞かなくてごめん。お茶飲める?」
 俺の言葉に彼女は「うん」と頷きながら答えた。
 俺はその言葉に安堵し、彼女の前にあるテーブルにお茶を置いた。
「よいしょ」とおじさんのように言いながら座ってしまう癖がついたのは、きっと父の影響だろう。
「幼馴染さんはこないの?」
「あー、あいつは遅刻癖あるから多分もう少ししたら来るよ。悪いな。俺なんかと二人きりで」
 俺の言葉にお茶を飲んでいたルナはむっとした表情を向けながらコップを机に置いた。
「なんかって言い方よくないと思う」
「ごめん」
「分かればいいのです」
 ふふっと笑いながら目を閉じる彼女は、いつもよりも可愛く感じた。
「すまんすまん、遅れたわー」
 そのとき、そんな声がリビングの方から聞こえてきた。
「ちょっとごめん、行ってくる」
 俺は「よっこらしょ」と言って立ち上がり、リビングに続く扉を開いた。
「お、光。やっほー」
「うん、オレンジジュースは自分で汲めよ」
 それくらいやってあげてもいいじゃないと母がリビングのソファに腰掛けながら言った。
 それを言うなら母がやればいいのではないかと思った。
「いいんですよ。今に始まったことじゃないし」
 そう言って聖は慣れた手つきでキッチンに侵入し、食器棚からコップを、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して汲み始めた。
「よし、今行くわ」
 そう言って溢れんばかりのオレンジジュースを入れたコップを持ちながら早足でこちらに駆けてきた。
「溢れる溢れる、溢れるから」
「おぉ、悪い悪い」
 無事に俺の部屋まで辿り着いた聖と共に中へ入った。
 聖が俺の左隣に座り、男二人とルナが向き合う形になった。
「どうも、南川聖って言います。よろしくね」
「はい、蓮見ルナです。よろしくお願いします」
「敬語はなしで行こう。俺たち同い年だしな」
「あ、うん。わかった」
 陽キャ同士の会話はこんなにもスムーズに進んでいくのだなと感心していると、聖が俺の肩に手を回してきた。
「こいつ、無愛想だと思うけど悪いやつじゃないから仲良くしてやってくれよ」
 余計なお世話というやつだ。本当にこの幼馴染は厄介なことばかりしてくる。
「確かに少し無愛想だけど、意外にノリいいし、いい人だって分かってるよ」
 彼女の言葉に俺は目線を右下にそらしながらお茶を啜った。
 そんな様子に「ふーん」と聖が言った。顔こそ見ていないものの、いやらしい笑みを浮かべていることは想像に容易い。
「さて、俺は光と読書の話をしようかと思ってたんだけど、ルナちゃんは読書とかする?」
 コップいっぱいに汲まれたオレンジジュースを飲みながら聖が言った。
「あんまりかな。でも気にしないで話していいよ」
「いやいや、そうは行かないって。なあ?」
 そう言って聖は再び俺の肩に手を回してきた。とても不愉快だったので、俺はすぐにその手を振り払った。
「まぁ、せっかく三人で集まったしな」
「あー、じゃあ読書会でもするか。ほら、ルナちゃんもそこから何か本取っていいよ」
 まるで自分の部屋かのように聖はそう言った。聖のその言葉にじゃあ遠慮なくという様子でルナは自身の後ろに置いてあった本棚から適当に本を選ぼうとしていた。
「ルナ、俺にも一冊何か取って」
「うん、はいどうぞ」
 俺は彼女から手渡された本の表紙を見た。
 それは、俺が所持している小説の中でもかなりお気に入りの本だった。内容は病気の女の子と二ヶ月間を過ごすというもの。ラストは特に感動的で、読む度に泣いてしまう。
「うぅ」
 一時間半ほどの読書だった。やはり泣いた。
「うわ、それ読んだのか。そりゃ泣くわ」
 俺が机の上に置いた本を見て聖はそう納得しながら俺の肩に手を置いた。もちろん不愉快だったので即振り払ったが。
「そんなに感動的なの?」
 ルナも本を読み切ったようで、机の上に本を置きながら言った。
「そりゃもう最高だよ」
 俺達は声を揃えて言った。
 分かってるじゃんと俺達は拳を合わせ、その様子を見てルナが笑う。
「じゃあ感想会するか」
 俺の言葉に聖が「まだ読み終わってないんだけど」と言った。
「早くして」
 今度は俺とルナが声を揃えて言った。
「ふふっ、はははっ」
 俺達は聖を差し置いて二人で笑い合った。
 お互いに、心の底からの笑いだった。こんな何でもない会話で笑うことができるのは、きっと俺と彼女、そして聖との間に友愛があるからだろう。
 その事実が、何より嬉しかった。
 感想会も終わり、時刻は午後四時過ぎとなっていた。
「あー疲れた疲れた。ってか満足したから俺帰るわ」
「マジ?もっと話したかったわ」
 俺の言葉に聖は「また来てやるから」と言って俺の肩に手を回した。もちろん、振り払った。
「ははーっ、冷てえ」
 聖は目を腕で擦り、泣き真似をしながら言った。
「ひじくん、どんまい」
「ルナちゃん、ありがとう」
 感想会の間に二人の距離はグンと縮まっていった。とても喜ばしいことだ。
「じゃあ二人ともまたな」
「おう」
「またねー」
 俺達はそう言って手を振り、聖を見送った。
 リビングから「お邪魔しました」「はーい」なんて会話が聞こえたあと、俺達の間には静寂が訪れた。
「さて、何しようか」
 とりあえずそう言ってみるものの、女子と部屋で二人きりなんて経験が無いため、どうしていいかわからなかった。
「うーん」
 どうやらそれはルナも同じなようで、顎に手を添えながら唸っていた。
「ねえ」
「何?」
「隣、行っていい?」
 彼女はよく俺の想定を上回る事を平気で言ってくる。正直に言って、ドキドキしてしまうから勘弁して欲しい。
「うん。いいよ」
 そんな素振りを見せてしまってはいけないと思い、必死に平静を取り繕いながらそう返事をした。
「じゃあ」と言って彼女は俺の隣に座った。彼女が隣に座ると、女子特有のシャンプーの香りが鼻に伝わってくる。
「ねえ」
「はい」
「何で敬語?」
「何でもないです」
「ふーん」
 会話がどこかぎこちないものになってしまった。このままではまずいと思った俺は、話を切り出すことにした。
「そういえば、夕飯作ってくれるらしいけど食べていくか?」
 俺の言葉にルナは「え、いいの?」と嬉しそうに声を上げた。
「うん。両親も一緒だけど、それでいいなら」
「ぜひお願いします!」
「了解」
 一時的に場を凌ぐことはできたし、今後の予定を立てることにも成功したから結果オーライではあるのだが、再び沈黙が訪れた。
 聖との沈黙は一切気にならないというのに、ルナとの沈黙はなぜか気にしてしまう。
「ねえ」
 沈黙を切り裂くように、ルナが声を発した。
「何?」
 切り裂いた沈黙を、もとに戻すようにルナは黙った。そして、少し時間が流れてから言った。
「君は、私のことをどう思ってるの?」
 この問いは、安易に「友達だよ」なんて答えていいものには感じられなかった。
 俺は必死に頭を回した。何て答えるのが正解なのかと。
「…ターゲットだよ」
 俺は全てを誤魔化すようにそう言った。
「そっか」
 彼女はそう言うと俺の両頬に手を添え、俺を無理やり彼女の方に向かせた。
「どうした、いきなり」
 俺は目のやり場に困りながら慌ててそう返事をした。
「昨日の仕返し」
「…っ!」
 彼女は耳元まで顔を近づけてそう囁くように言った。そして、続けてこう言った。
「ちゃんと殺してよ」
と。
 俺はどこかで勘違いしていたのかもしれない。彼女は生きる選択をしてくれると。そんなの、これからどうなるかなんてわからないのに。
「君が桜が散るまで死にたいと思っていたらね」
 俺は緊張も何もかも忘れて、彼女の顔を見つめながらそう返事をした。
 彼女の顔は、俺の顔のすぐそばにあった。俺が拳二つ分くらい頭を前に進めてしまえば額と額が衝突するくらい、すぐそばに。
「ねえ」
 彼女は顔を離すことなく言った。
「何?」
 この会話を、俺達は何度繰り返したのだろうか。そして、これから何度繰り返していくのだろうか。
「君は私のヒーロー?殺し屋?それとも…」
 それから先が語られることはなかった。だから俺は二択で考えることにした。
 俺が彼女を殺すことはあっても、救うことはないだろう。確かに、俺は彼女を救いたいと願っているが、結局生きるか死ぬかは彼女次第で、彼女が生きることを選んだのならそれは彼女の強さだ。それはきっと、俺が救ったなんて言っていいものではない。
「殺し屋だ」
 悩んだ末に、そう返事をした。彼女は納得したように笑みを浮かべ、「じゃあ、よろしくね」と言って顔を離した。
「なあ」
「何?」
 言ったそばからこの会話だ。もっとも、今回は立場が逆だが。
「心臓に悪いことはしないでくれ」
「何のこと?」
 彼女はわざとらしい笑みを浮かべながら言った。
「分かってるだろ」
「知らなーい」
「お前なぁ」
 俺の言葉にふふっと彼女が笑った。
 俺は彼女が笑うと何も言い返せなくなる。彼女が楽しんでいてくれているのならそれでいいかと、そう思ってしまうのだ。
 それから、他愛ない会話を繰り広げながら夕食を待った。
 途中、キッチンから香ってくるカレーのいい匂いに「飯テロだー!」と嘆くルナの姿を見たが、気のせいということにしておこう。
「ご飯できたよー」
 母の言葉に、俺達は「はーい」と返し、リビングへ出た。すると、すでに食卓には四人分の皿が用意されていて、その上にはカレーライスが乗っていた。それも具材たっぷりの。
 二階から父も降りてきて、一家全員が揃った。
「いただきます」
 いつもより少し賑やかな挨拶がリビングに響き、食事が始まった。
「うーん!美味しいです!」
「そう?良かった」
「ははっ、ルナちゃんは本当にいい子だなぁ」
「父さん?ルナちゃんはって何?」
「はははっ、父さんちょっとよくわからないなぁ」
「母さん、チョップよろしく」
「エイヤッ」
「あひんっ」
 そんな俺にとっての日常が、ルナにとっては非日常だったのだろう。
 彼女は笑いながら泣いていた。
「ごめ、ごめんなさい。ご飯中に」
「ルナちゃん、気にしなくていい」
「うん、ここは我が家だと思っていいのよ」
 両親のそんな声に、俺の涙腺まで揺らいだのだから、当の本人は涙腺が崩壊するに決まっているだろう。
「うぅ、ありがとうございます」
 ルナはスプーンを置いて泣きじゃくっていた。 俺は、その様子がいたたまれなかったので、意を決して彼女のスプーンを手に取った。
 そして、彼女のカレーライスを多すぎない程度にすくった。
「ルナ、あーん」
 そう言って俺はルナの前にスプーンを置き、その下に手を添えた。
「あーん」
 泣いているからか、何の躊躇もなくルナは俺に差し出されたカレーをパクリと頬張った。
「美味しい?」
「美味しいよぉ」
「ははっ」
 そう言いながら俺はつい彼女の頭を撫でてしまった。俺はそこでハッとした。
 そう、両親がいることに気付いた。きっと煽られると思った。だが、俺のそんな予想とは真逆に、両親は見て見ぬふりをしながらカレーを食していた。
「ゆっくり食べよう」
 そう言って俺はスプーンを皿に置き直し、彼女の頭を撫で続けた。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
 それから少し経って、彼女はそう言葉を発してスプーンを手に取り、大きな口を開けてカレーを頬張り始めた。
「お、ルナちゃんいい食べっぷり。父さんも負けてられないなぁ」
 そう言って父さんは部屋着の袖を捲ってみせた。
「母さん、よろしく」
「エイヤッ」
「あひんっ」
 今度はその様子にルナも目を擦りながらも笑ってみせた。
「あははっ」
 そして、こちらを見てこう言った。
「ありがとう。光くん」
 何の疑念もない、純粋な笑みを見た。
 二度目のそれは、また涙に染まってはいたけれど、やはりとても綺麗だった。
 翌日、ついにその時は訪れた。
「よし、それじゃあ席替えするぞ」
 そう、席替えだ。これで俺の命運が決まると言っても過言ではない。
 さぁ、席を決める方法はなんだ。
「好きな人同士でーとか言っても余るやついるだろうし、くじ引きで決めるぞ」
 語り始めた時、先生がこちらをチラッと見たような気がするが、気のせいだということにしておく。
「よし、じゃあ窓側から引きに来い」
 窓側から、つまり俺は一番最後に引くことになる。残り物には福があるというし、気長に待つとしよう。
「えー、次の席どうなるかな」
「楽しみ!」
「でもちょっと怖いなー」
 そんな普通の会話が耳に入り、ふと彼女はどうしているだろうかと思い、目線を彼女の方に向けた。
 すると、ちょうどくじを引くために席から立ち上がっているところだった。
 彼女が立ち上がるとき、横を向く瞬間があった。その瞬間、俺達は目が合った。
 お互いに何の合図もなく目を逸らした。
 昨日も食事の後ルナを家まで送ったが、会話はゼロだった。
 理由は明白だ。昨日は少し、いやかなり距離が近かった。冷静になってから意識しないわけがなかった。
 だが、気まずいわけではない。なんというか、少しドキドキしてしまっているだけで、関わろうと思えば関わることができる。それは恐らく彼女も同じだろう。
 そんなことを考えながら机に突っ伏していると、先生から「おい、藤野。お前の番だ」と声がかかった。
 俺は教室の前まで行って、教卓の上に置かれた最後の一枚を手に取る。
 そこには、数字で五と書かれていた。
「よし、全員引き終わったな。それじゃあ今から黒板に席を書くぞ」
 そう言って先生は事前に書いていた座席表に、数字を当てはめていく。
 俺の数字はどこだと不安と期待を織り交ぜた感情が錯綜する。
「よし、これ見て席移動しろ。前の席に忘れもんするなよ」
 先生はそう言って教室の隅へはけた。
 そして、それによって数字で埋められた座席表があらわになった。
「よしっ」
 俺は思わずそう声を上げてガッツポーズをした。
 そこには、俺の引いた五が一番窓際かつ最後尾の席であるということが示されていた。
 俺の望み通りの結果だ。やはり残り物には福があったし、これはきっと俺が授業を真面目に受けたことで手繰り寄せた運勢、いや運命だ。
「うわ、まじかよ」
「お、やったー」
 など、各々感想を述べながら、次々に席を移動していく。その波に乗るように、俺は席を移動した。
 これで隣が女子でなければなおのこと素晴らしいと思った矢先、隣には女子が座った。
 そして彼女は嫌そうな表情を浮かべていた。俺が隣なことがそんなに嫌だったのだろうかと少し傷ついていると、彼女が口を開いた。
「先生、私目が悪いのでここだと授業受けれません」
 本当にそうなのか、はたまた俺が嫌だったのかはわからないが、彼女はそう言った。
「うーん、そうか。誰か変わってくれるやついるか?いないならもう一回やるしかないな」
 先生の言葉にみんなが「えー」、もしくは「よっしゃ」と声を上げる中、一人の生徒が手を挙げた。
「先生、私が変わりますよ」
 もう聞き慣れた声だった。
 俺は声のした方に目をやった。すると、彼女は黒板から一番近い席に座っていた。
「おお、蓮見ありがとう。佐藤もちゃんと感謝しろよ」
 先生の言葉に佐藤は「ありがとー」と適当に言いながら笑顔で席を立った。
 それからほとんど間もなく、ルナが俺の隣に座った。
「これからよろしく、光くん」
 教室の数ヶ所から「羨ましい」なんて声が聞こえた気がしたが、気のせいだということにしよう。そうではないと俺が学校に行きづらくなってしまう。
「うん。よろしく、ルナ」
 奇しくも、俺達二人の望みは叶った。
 神様がくれた最後のプレゼントなんて言葉が浮かんできたが、そんなことは考えなかったことにした。
 それから何事もなくホームルームが終わり、授業が始まった。そして、授業も何事もなく進んでいった。
 テストも近いし、たまにはノートもしっかり取ろうなんて考えていた矢先、誤字をしてしまった。
 俺は文字を修正しようと机の上にあるはずの消しゴムを掴もうとする。
「ん、あれ。ないな」
 だが、消しゴムは机の上にはなかった。慌てて机の下や周りも見てみるが、どこにも落ちていない。どうやら失くしてしまったようだ。
「悪いルナ、消しゴム二つ持ってないか?」
「うん、持ってるよ」
 俺達は先生に怒られないように小声でそう話した。そして、ルナから消しゴムを手渡してもらい、俺は無事に誤字を修正することができた。
「ふふっ」
 隣から笑い声が聞こえてきた。一体何に笑ったのかと思って隣を見るも、すでに彼女は黒板を眺めていて、真相はわからなかった。
「ありがとう、助かったよ」
 笑い声のことなんてすっかり頭から抜けた頃、全ての授業が終わり、全員がリュックを背負って次々に教室を出ていく。
 そんな中で、俺は彼女に消しゴムを差し出した。
「うん。ふふっ」
 彼女は消しゴムを受け取ると同時に、またもや笑った。そんな彼女の目線は、俺の机の右前脚にあった。
 疑問に思った俺は、彼女の隣まで歩き、その地点から彼女の見つめていた場所を見てみる。
「あっ、俺の消しゴム」
 するとそこには、俺の消しゴムが落ちていたのだ。
「何で教えてくれなかったんだよ」
「私も気付かなかったなー。ごめんね?でもこれで貸し一つね」
 彼女はそう言って体の前に人差し指を立て、ふふっと微笑んだ。
「はぁ、わかったよ」
 俺は彼女の笑顔に弱い。それはどうやらいつまで経っても改善されないようだった。
「玄関まで一緒に帰ろ」
「あぁ」
 そして俺達は教室を出た。まだチラホラと人のいる廊下と階段を、俺達は二人で歩く。
「今週末も家来る?」
 俺の言葉に、こちらを見て彼女は目を輝かせた。
「いいの?行きたい!」
「うん。わかった。聖と両親に伝えておく」
「やったー!」
 彼女はそう言って階段の踊り場でくるりと舞ってみせた。
「踊り場を踊りの場所として使う人は初めて見たよ」
「うるさい」
 彼女はそう言って背負っていたリュックをわざわざ下ろし、両手で振りかぶって俺に叩きつけた。
「ちょ、それ普通に痛いから」
「ごめんごめん」
「ごめんは一回なんだろ?」
「ごめーん」
 二人揃ってふふっと笑みをこぼした。こんな瞬間が、俺はどうしようもなく幸せだ。
 彼女にとってはどうだろうか。彼女は少しでも幸せを感じてくれているだろうか。もしかしたら死にたい彼女にとっては、中途半端な幸せなんて覚悟を鈍らせるだけの枷でしかないんじゃないかと、なんとなく思った。
 そうこうしているうちに、俺達は玄関に辿り着いてしまった。そんな言い方になるのは、俺が彼女に質問をしたかったからだ。
「君は俺と関わっていて幸せなのか?」
と。
「じゃあ光くん、またね」
「あぁ、また」
 結局俺は質問をすることなくルナと別れた。
 翌日からも俺は変わらずルナと関わった。もちろん、学校では頭を撫でるなんて暴挙には走らない。そんなことをすれば殺し屋が一般人に殺されるという珍事が起きてしまう。
 そして、何事もなく学校生活を送り、日曜日が訪れた。
「いやー、それ本当に面白いよな。特に途中急にたい焼き食べだすところとかさ」
「ね!わかる」
 二人が楽しそうに感想を話しているのを横目に、俺は読書を続けている。
「そういえば光、最近勉強してんの?机の上に教科書広がってるけど」
 聖の言葉に俺はハッとした。しまった、片付け忘れていた。
「いや、まぁ、うん」
 俺の言葉にルナは「最近学校でも頑張ってるんだよ」と追い打ちをかけるように言った。
 これはまずい、と俺は確信していた。
「ふーん」
 案の定、含みのある笑みをこちらに向ける聖の面を拝むことができた。
「お前それ―」
「うるせえ!!」
 俺はそう言って聖に飛びかかり、取っ組み合いの争いが始まった。
「このっ!」
「黙れ、口を塞げ」
 聖の言いたいことは分かっている。俺がルナのことを好いていると言いたいのだろう。それ自体は否定しないが、ルナのいる前で話してほしくない。
 ルナに恋愛感情があると知られてしまうのが怖いということももちろんあるが、俺は彼女と恋人同士とかそんな関係には万が一にもなりたくない。
 俺が彼女と愛し合ってしまえば、俺は彼女に生きてくれと言ってしまう。それはダメなんだ。俺は彼女に生きて欲しい。でも、辛いなら殺すと確約したのだ。だから俺は彼女を愛するだけでいい。愛し合うなんて、そんなことはしなくていい。
「こら、喧嘩しないの」
 ルナがそう言って両手で机を叩いた。
 彼女のその行動に、俺達は大人しく正座した。
 きっと今俺と聖の思っていることは一緒だ。目を合わせて分かった。
「女子怖い」と顔が言っていた。
「さて、じゃあ俺は今日も先帰るわ」
「了解、またな」
「またね、ひじくん」
「またなー」
 そして聖は部屋を出ていった。
 そして俺は脱力し、地面に倒れた。なんというか、疲れたのだ。もちろん、聖に対してではない。それも多少あるが、それよりも一週間真面目に過ごしたことが大きい。昨日に関してはほとんど一日中勉強していたような気がする。
「お疲れだね」
 彼女はそう言って俺の隣に腰を下ろした。
「うん」
「最近頑張ってるもんね」
「うん」
 俺は疲れのせいか、適当な返事をすることしかできなかった。
「今日も夕飯食べていくか?」
「うん!食べたい」
「了解。そうだと思って先に伝えてあるから」
 俺たちの間に沈黙が流れた。何か話しかけたいが、特に話題が思い浮かばないまま、俺は目を閉じた。
 すると、その瞬間、一度嗅いだことのあるシャンプーのいい匂いが俺の鼻を刺した。
「うお」
 そして、そう声を上げると同時に俺の二の腕には彼女の頭が置かれていた。顔が同一方向を向いているのが唯一の救いだ。
「あ、あの、ルナさん?一体どうしたんでしょうか?」
「気分」
「そ、そうですか」
 気分でこんなことをしてくれるなよと思いつつ、俺は深呼吸をして平静を取り戻そうと考え、鼻から深く息を吸った。その瞬間、俺の鼻はいい匂いで満たされ、息を大きく吐き出すことも忘れてしまった。
「ねえ、匂い嗅いだ?」
「ち、ちが、断じて違う」
 俺はそう言って彼女の頭部からできる限りの距離を取った。
「ねえ」
「な、何?」
この会話は、もはや俺達の中では恒例というか、おなじみの会話になってきている。
 おかげで、どうにか平静を取り戻すことができた。
「今日の夕飯何かなって」
「確かハンバーグって言ってた気がする」
 俺の言葉に彼女は嬉しそうに声を弾ませながら言った。
「ほんと!?手作りのハンバーグ食べてみたかったんだ」
 彼女のその言葉は、一見すると無邪気なものに見えるが、手作りのハンバーグを食べたことがないというのはとても悲しいことだと思った。
「俺の分も半分あげるよ」
「えー、そんなに食べれるかなぁ」
 貰えないよ、とかではなく食べられるかどうかの心配をする辺り、本当にハンバーグが食べたいんだろう。
「ねえ」
「何?」
 先ほどまで築いた明るい空気を切り裂くように、彼女は落ち着いた声色で言った。
「私、君と一緒にいると落ち着くよ」
 そう言って彼女は両手で俺の手を掴んだ。
 俺は彼女のその行動に、握り返すことはせずにただただ無抵抗のままでいた。
「そっか」
 なんて言葉を返していいのかわからず、俺はただそう一言呟いた。
「君は私と一緒にいるの嫌?」
「俺も落ち着くから嫌じゃないよ」
 俺はそう即答した。実際、彼女の前では急に横になってしまうくらい気を緩めてしまっているわけだし、落ち着くというのは事実だ。
「よかった」
 そう言った瞬間、彼女の俺の手を握る力が少し強まった。
「ねえ」
「何?」
「どうしたらいいのかな、私」
 震えた声で、彼女はこぼすように言った。
 きっと彼女は自分の生死を天秤にかけているのだろう。どうすればいいのか、その答えは俺にもわからなかった。
「ゆっくり考えればいい。君の命の花はまだ咲いてもいないんだから」
「そうだよね」
 俺は彼女の手を握り返した。特に他意はないが、今俺にできることなんてその程度しかないということに気づいたからだ。
「ちゃんと、私を消してくれるんだよね」
「あぁ、約束する」
 俺の宣言に彼女は震えた声で「ありがとう」と漏らすように言った。
 でももしその時が訪れたら、俺は本当に彼女を殺すことができるのだろうか。答えは分からなかった。だから、今俺にできることは、彼女が死を選んだとしても生きててよかったと思えるようにしてやることと、常に殺す覚悟を研ぎ澄ますことだけだった。
 しばらくそのまま横たわっていると、リビングの方から「ご飯できたよー」と母の声が聞こえてきた。
 俺たちは母の声を合図に立ち上がり、リビングに向かった。
「わあ」
 食卓の上においてあったそれを見て、彼女はプレゼントを渡されたときの子供ような反応を見せた。
 食卓の上には、三分割されたプレート皿が四皿置いてあり、その上にはそれぞれ米、ハンバーグ、ブロッコリーのサラダが盛り付けられていた。
「いただきます」
 俺達は四人で声を揃えて言った。
 そして、ハンバーグに箸を入れる。その瞬間、ハンバーグからは肉汁が溢れ出し、皿を汚した。
 思い切ってそれを口に放り込むと、その熱さに思わず口の中でハンバーグを踊らせてしまった。
「ぷはっ」
 俺は目の前においてあったコップの水を一気飲みし、難を逃れた。
 今度はしっかり息を吹きかけてからもう一度口にそれを放り込むと、今度はしっかり味を感じることができた。
 圧倒的な肉の旨味、ジューシーさ、そして噛む度に溢れ出す肉汁、さらにそれに加えてデミグラスソースの味わいが口の中だけでなく体全体を幸せにするようだ。
 食べ慣れた俺ですら毎回幸せを感じるこの味を、彼女が食べたらどうなるだろうか。その答えはすぐ隣にあった。
 幸せそうな笑みを浮かべながら、頬が膨らむくらいハンバーグや米を口に詰め込んでいる。
「おいひい」
「ふっ、ちゃんと喋れるようになってから言えよ」
「うふさい」
「なんて?」
「んー!!」
 彼女は箸を置いてぽこぽこと俺の肩を叩く。まるで子供を相手にしているかのような気分になった。
「うふふ、二人は本当に仲良しね〜」
 その言葉に、俺達二人は否定することはなく、食事を続けた。
「そういえばもうすぐ冬休みか」
「まだまだ先でしょ、気が早いよ」
「一ヶ月なんてあっという間だぞー?二人は冬休みどっか行かないのか?」
 父の言葉に俺は「あー」と声を上げる。
「ルナは行きたいところある?」
 俺の言葉に彼女は焦ることなくゆっくり咀嚼し、しっかり飲み込んでから口を開いた。
「イルミネーションとか見てみたい」
「イルミネーションか」
 地元でも見ることができるが、綺麗ではあるものの、正直どこか物足りなさを感じるレベルのイルミネーションしかない。
「あー、それなら小樽とか行けばいいんじゃないか?」
 父の言葉に俺は中一の頃の記憶を想起させた。
 小樽で自主研修をすることになった俺達は、学校から支給されたパンフレットを見ていた。そこには、小樽運河の冬のイルミネーションは絶景であるということが書かれていた。
 当時の俺達は、自主研修は夕方までで、確実に見ることができないのに書かれていたそれに行き場のない怒りを感じていた。
「なるほど、確かにいいかもしれないな。ルナ、行ってみるか?」
「うん、行きたい!いついく?」
「うーん、それは追々決めようか」
「了解、私はいつでも大丈夫だよ!」
 そんな会話をしながら、俺達は箸を進めていった。
 一家団欒の食事は、まさに幸せと言えるだろう。
「今日も送っていくよ」
 食事も終えて、家を出ようとするルナに俺はそう声をかけた。
「いいよ、毎回毎回送ってもらうのは悪いから」
「でも」
「子供じゃないんだから、少しくらい信用して」
 彼女が拗ねたように言ったので、俺はそれを了承することにした。
「分かったよ。気をつけてね」
「うん、また明日学校で!」
 がチャッと音がして、扉が閉まった。俺はそれを合図に自室へ足を運んだ。
「小樽か」
 ベッドに横たわりながら小樽について携帯で調べていく。
 イルミネーションが見たいということだったから、日が暮れてから小樽運河に行くのは確定として、それ以外は何をしようか。
 おすすめの観光スポットとか、観光プランとか、美味しい食べ物とか、穴場スポットとか。とにかく調べられることは調べて、俺はプランを決めていく。
 数時間ほど納得が行くまで調べて、俺は眠りについた。
 そして、翌日からも何も変わらない日々が続いた。テストが近いということもあり、平日は真面目に授業を受けて、たまにサボってそれをルナに注意されて。休日はみんなで読書したり雑談したりして、その後はルナと、たまに聖も混ぜて夕食を食べて解散。
 着実にルナが聖や両親との距離を縮めていく。そんな日々が数週間続き、テストも終わり雪が積もり始めた頃、三者面談の時期が訪れた。
「光、最近頑張ってるんでしょ?」
「まぁ、うん」
「ならきっと先生からも褒めてもらえるわよね。楽しみだわ」
「頑張ってるって言ってもただ授業受けてるだけだし、そんな期待しないほうがいいんじゃない?」
 そんなふうに、俺は廊下で母と雑談しながら待ち時間を潰していた。そんなとき、いよいよ前の家族が教室から出てきて、俺達が呼ばれた。
 用意されていた席に座り、俺達は先生と向かい合った。
「お母さん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
 大人同士の礼儀正しく、そして笑顔を交えた挨拶が交わされた。
「早速本題に入っていきますね」
 俺はその言葉に息を呑んだ。今の俺の心境を最も表す日本語を知っている。緊張だ。いくら真面目に授業を受けているとは言え、サボっている期間が長すぎたため、とても不安だ。
「藤野くんですが、えー、前までは授業に顔を出さないことが多かったのですが、最近ではしっかり授業に顔を出すようになりまして、えー、しっかり頑張っていると思います」
 俺は先生のその言葉にホッとした。だが、それもつかの間、先生は再び口を開いた。
「それに、前までは教室で友達と話すことなんてほとんどなかったのに、最近では蓮見という生徒と仲良くやっているようで、個人的には安心しました」
 その言葉を聞きながら、俺は母の方へ目線を向けた。何だか一瞬ニヤついた表情をこちらに向けた気がするが、見間違いということにしておこう。
「そうなんですね。よかったです。母親としても安心です」
「成績の方もですね、この間あった期末テストの結果もまぁまぁで、英語は七十点、数学が七十八点、社会が八十五点、理科が八十点、国語が九十点とかなりいい結果です。やはりお家でも勉強している様子でしたよね」
「そうですね、たまに椅子に座ったまま寝てるときもあったくらいで」
「はははっ、頑張ったね、藤野くん」
 普段の担任らしくない発言に、社交辞令はやめろと思ったが、今回は一応素直に受け取っておこうと思い、俺は「ありがとうございます」と返事をした。
「えー私からはこんなところですね。藤野さんの方から聞いておきたいこととかはありますか?」
「特にありません」
「では、これで以上となります」
 思っていたよりも平和かつスマートに俺の三者面談は終わりを迎えた。まぁそもそもが高校生の三者面談なのだから当たり前なのだろうか。
 だが、俺は忘れていた。今、この瞬間だけはルナも母親と一緒にいるであろうということを。
 扉を開け、ふと次に待っていた家族に目をやると、そこにはルナと、その隣にはかなり化粧の濃い金髪の女性が座っていた。
「あっ」
 俺達は思わず声を漏らした。
「ん、何。知り合い?」
 ルナの母親らしき人物がそうルナに問いかけるも、ルナは俯きながら「あ、えっと」と言葉を詰まらせていた。
「こんにちは。ルナのクラスメイトの藤野です」
 俺は勇気を出して二人との距離を詰め、そう声を発した。
「あぁ、はい。どうも」
「じゃあ」と言って母親らしい人物は席を立ち、ルナの腕を引っ張った。それもかなり力強く。
 物語の勇気ある主人公ならこの場面で母親の腕を掴みに行くところだろうが、さすがに俺には他人の家庭にそこまで首を突っ込むことはできなかった。
 母ももどかしそうな表情で拳を握っていたが、これが現実だ。他人の家族のことは俺達にはどうしようもできない。だからこそ、俺達はそれ以外で幸せを与えるしかないのだ。彼女に、生きる希望を持ってもらえるように。
 翌日からも普通の毎日が続くと思っていた。だが、そうはいかなかった。彼女が学校に来なかったのだ。
 メッセージを送ろうかとも思ったが、それで変に彼女にプレッシャーを与えることになってはよくないとか、そんな言い訳ばかりが浮かび、結局連絡することもできなかった。
 休日も彼女が家に来ることはなく、一週間が過ぎた。そして、遂に終業式当日、十二月二十五日が訪れた。
 俺は彼女の家の前に立っている。雪の積もった古びたアパート、その前に。
 俺は意を決して階段を登る。
 錆びた金属製の階段は、俺が一段を登る度にガコンと音を鳴らしながら軋む。その様子は今にも崩れてしまいそうに思えた。
 階段を登り切り、二階の角部屋へ歩を進める。
 カコン、カコンという無機質な足音は、俺の緊張感を高めていく。
 不安に思わないわけがない。もちろん、急に訪問したことを怒られないかという不安もあるが、もし彼女の身に何かあったのなら、今俺はその事実を知ることになる。それがたまらなく不安で仕方がなかった。
 角部屋にたどり着き、インターホンを鳴らす。
 中から足音が聞こえてきて、それから数秒後に鍵の開く音がした。そして、それとほぼ同時に扉が開いた。もし母親が出てきたらどうしようかと思っていたが、その心配は杞憂に終わった。
「はい」と怖がった様子の彼女がドアを一足分にも満たない程度に開いた。
「おはよう」
 俺の声にルナはびっくりしたという様子で目を見開き、扉を開いた。
「何しに来たの」
 そう言う彼女の声は、初めて会話をしたとき、そしてカラオケのときのように暗いものだった。
「会いに来たんだけど」
「学校は?」
「これから行くつもりだけど」
 俺の言葉に彼女はどこか辛そうに、悲しそうに目を細めながら「じゃあ早く行って」と言って扉を閉めようとした。
 俺はそんな彼女に反して、扉を開いて口を開いた。
「何があった。中に親いる?」
「いない」
「じゃあ話してくれないか?」
 俺の言葉に、彼女は一拍の沈黙のあと、悲しそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「先生から褒められた。蓮見さんはすごく頑張ってるって。でもお母さんは微塵も興味を持たなかった。それどころか終わってから『私の娘のくせに』って言った。私、お母さんに認められたくて頑張ってたのにね。もう頑張る意味ないなって」
 まただ、彼女を悲しませるのはまた母親だった。
「私、もうなんで頑張ってるのかわかんないよ。なんで誰も認めてくれないの?なんで」
 彼女は泣きながら言った。
 彼女の気持ちは少しだけわかる。誰かに認めてほしいなんて多分、当たり前のことだ。そして、それが一切叶わない人はそうそういない。少し叶わないだけで泣く人もいるというのに、唯一認めてくれたのは先生だけ。しかも、それも表面的な頑張りに対する評価でしかない。これが一体どれだけ辛いか、俺には分からなかった。
「ルナは頑張ってるよ。それは俺が見てる。辛くても頑張って生きてきたんだよな。わかってる。だからもう無理しなくたっていい。無理に笑わなくたっていい。自由に生きたっていい。俺がそれを認める。聖も、父さんも母さんも認める。頑張ったときは、頑張ったことも認める」
 俺の言葉に、ルナは泣きながら頷いた。
「だから、母親に捕らわれるな。ルナには俺達がいるだろ」
 その言葉に彼女は泣き崩れた。
 随分口が達者になったなと、自分で思った。以前の俺なら泣いている彼女を泣き止ませることはできても、苦しい彼女から涙を出させるなんて事はできなかった。
 俺は泣き崩れた彼女に目線が合うようにしゃがんで、肩に手を置いた。
 その光景は、いつかカラオケで見た光景を連想させるものだった。でも、あの頃とは俺もルナも違う。
「女の子を泣かせたなら、責任を取れ」、父の言葉だ。それに、いつか小説で読んだことのある一節でもある。
 俺は何度自分の言ったことを曲げただろうか。
「ルナ」
「何?」
「愛してる。この世の誰よりも」
 俺の言葉に彼女は目を見開いた。そしてそれと同時に俺に飛びついてきた。それによって俺の体勢が崩れ、あぐらの姿勢になる。
 俺は頭と背中に手を回し、彼女を抱きとめた。
 彼女に愛を伝えるつもりなんてなかった。もしかしたらどこかで伝えたいとは思っていたのかもしれない。でも、実際に伝えるつもりはなかった。
 それでも俺は彼女を心の底から愛したくなった。それは俺が誰よりも近くで彼女を支えるために必要なことだったから。
 俺はあの時、カラオケでルナに誓約した。生きてて良かったって思えるくらいの思い出を作るって。それを果たすためなら、俺は何を曲げたっていい。
 しばらくの間抱きしめ合って、彼女が泣き止んだ頃、抱擁は終わりを告げた。
「それじゃあ私、学校行く準備してくる」
 あくまでももう大丈夫だと言うように平静を気取った彼女の手を俺は掴んだ。
「いつでもいいって言ったよな」
「えっ?」
「小樽行くの、いつでもいいって言ったよな」
「うん、でもそれは冬休み入ってからって話で―」
「今日、行かないか?」
 俺の言葉に彼女は困惑した表情を浮かべた。
「でも、学校行かないと」
「いいだろ、別に。俺と学校、どっちが大事?」
 その質問に彼女は一瞬困惑したように目を見開いた。それはそうだろう。この質問をした俺ですらまた自分の中で何かが変化した感覚があったのだから。
 でも、彼女は堂々と答えた。
「君!!!」
 そう宣言した彼女は、とびっきりの笑みを浮かべていた。
 俺は、それを引き出せたのならここに来て、ここで彼女に愛を伝えてよかったと思うことができた。
「じゃあ、行こう」
 そう言って俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
 エスカレーターを登ると、辺りには轟音が響いていた。
 平日の日中、それにクリスマスシーズンということも相まって、聞こえてくる話し声はどれも日本語ではないものばかりだった。
 それらは、俺達の緊張感をこれでもかというくらいに高めると共に、みんなが学校に行っている時間から旅行に行く自分達に背徳感を感じさせた。
「地下鉄以外の電車、初めて乗るから緊張する」
 彼女の言葉に、何の合図があるわけでもなく俺は彼女の手を握った。お互いにお互いの不安を解消するためだ。
 きっと、他意はないはずだ。
 異性と手を握るというのは、普通に考えればより緊張しそうなシュチュエーションだが、俺はなぜか落ち着きを感じていた。
「俺も間違った電車乗らないか不安だ」
 俺の言葉に彼女はふふっと笑って「エスコートしてよ」と言った。まるでデートのようだ。
 呼吸をする度に、白い息が吐き出される。まだ駅構内だというのにも関わらず、俺は寒気を感じていた。
「寒いの?」
 俺の手の震えを感じたのか、彼女がそう言った。
「まぁ、少しだけ」
 俺の言葉に彼女は黙り込んだ。俺は嫌な予感がした。きっと何か企んでいると思った。
 そして、その予感は的中した。
「ふうー」
 俺の耳元に、温かい風が送られた。それと同時に、彼女が吐き出したであろう息が視界に入る。
「うっ」
 俺がそう声を上げると、彼女は微笑みながら「温まった?」と言った。
「なあ」
「何?」
「心臓に悪いことはやめてくれ」
「ふふっ、それ前も聞いたー」
 そんな他愛ない会話をしながら、電車の到着を待った。
 それから数分経って、「お待たせしました」とアナウンスが入った。どうやらいよいよ乗車の時間ようだ。
 お互いにお互いを握る手の力がぎゅっと強くなる。
 電車に乗り込み、適当な席に座った。
 それから間もなく、電車が発車し、身体が後ろに引っ張られる。構内から出た電車は、陽の光を大量に取り込み、ピカピカと照らされる。
 太陽に照らされる雪に染まった街並み、群青色に光る空。流れ行く景色は、まるで何かの映画のワンシーンのようだ。
 そんな景色を眺めながら、俺達は手を繋いでいた。
 周りの聞き取れない話し声だけが響く車内で、俺は思考を巡らせる。
 俺はあの時「愛してる」と伝えた。それは間違いなく、告白と捉えられるものだ。だが、俺たちの関係は変わっていない。殺し屋と依頼主、もしくはターゲットのままだ。この関係はきっと、一生変わることはないだろう。
 変わってしまえば、俺は彼女を殺すことができなくなる。
 彼女はきっとまだ迷っている。生に希望を見出すのか、死に希望を見出すのか。彼女が迷っている以上、俺はいつでも彼女を殺せなくてはならない。
「綺麗だね」
 流れ行く景色を眺めながら、彼女はぼーっと呟くように言った。
「そうだね。でももう少し進んだら海も見えるよ」
「海!初めて見るなぁ、楽しみ!」
 そんな会話に俺は、きっと幼い娘を旅行に連れて行ったらこんな反応をするのだろうなと何となく思った。
「俺も海は何回かしか見たことないから楽しみだよ」
 それから特に会話もなく、俺達は辺りの喧騒に身を隠すように沈黙した。
「ねえ」
 そんな沈黙を切り裂くように、彼女は声を上げた。
「何?」
「これからも、君は私と一緒にいろんなところを見に行ってくれる?」
 彼女がそう問いを投げかけたとき、外から微かに踏切の音が聞こえてきた。その音も、流れるように一瞬で聞こえなくなってしまったけれど。
 これからも、その言葉は彼女にとっては常人の何倍も重たい言葉だろう。
 未来を嘆く彼女にとって、未来を語ることは、生きたいと言っているようにも聞こえる。
「うん。何度だって、どこへだって一緒に行くよ」
「そっか、ありがとう」
 彼女はそう言って微笑みを浮かべ、外に顔を傾けた。彼女のそんな微笑みは、本心の読み取りにくいものだった。
 それからしばらく経って、彼女があっと声を上げた。
 建物がなくなり、辺りには海が広がったのだ。
 縹色の水に、群青色の空、まるで地上にも空にも海が広がっているようだった。
 地平線に広がる真っ白な雲は、世界の広さを実感させ、何段にも連なって押し寄せる波は、音こそ聞こえないものの、まるで海のそばにいるような感覚にさせる。
「綺麗」
 彼女は漏らすように声を上げた。
 俺達はこの頃にはもう緊張も背徳感も忘れて、ただひたすら景色に魅入っていた。
 それからしばらく海を眺めて、やっと小樽の景色が見えてきた。
「大変お待たせいたしました。終点、小樽です」
 アナウンスで皆が下車準備を始める。それに乗じて、俺たちも忘れ物がないかをしっかり確認する。
 身体が前に引っ張られ、扉が開く。そして、人々が次々と降りていく。俺はルナよりも先に立ち上がり、手を差し伸べる。
 彼女は俺が差し出した手を掴み、立ち上がった。俺達はそのまま手を繋ぎながら駅構内を歩いていく。
 改札を出て、たくさんのガラス細工に飾られた出入り口をくぐる。
 左右にはマンションやビルが綺麗に一列に立ち並んでいて、正面には海が見えている。俺たちはまず海の方へ歩を進めた。
 巨大な交差点で人だかりに飲まれながら、はぐれないように手をぎゅっと握る。人だかりを抜けてもなお、手は握られたままだった。
 雪に飾られた街をしばらく歩き、観光地として有名な旧手宮線があるはずの場所にたどり着いた。
 はず、なんて言い方になるのはそこには雪が積もり、子供達の遊び場と化していたからだ。
「雪がないと結構いい場所なんだよ」
 なぜここに連れてきたの?という様子の彼女にそう声をかけると、彼女はまるで母親のような笑みを浮かべ、子供たちを見守りながら「これもこれでいい場所だけどね」と言った。
「さて、行こうか」
 俺がそう声をかけて身を翻すと、彼女が俺の手を離した。なぜ手を離したのか、なんて答えは問いかけるまでもなく分かった。
「えい!」
 彼女は手を真っ赤にしながら雪玉を握り、俺に投げつけた。
「お前、やったな」
 そう言って俺もすぐにその場にあった雪をつかみ、彼女に投げつける。
「あは!あはは!」
 本当に、彼女は何も知らない子供のように笑う。そんな様子を間近で見れることが、俺は何よりも幸せだった。
 はしゃぎまわって腹をすかせた俺たちは、堺町本通りに足を運ぶことにした。
「さて、何食べる?」
 俺の言葉にルナはうーんと唸って少し考えたあと、閃いたように言った。
「あっ、まずガラス細工が見たい!」
「了解、すぐ近くにあるから行こう」
 そう言って俺はお楽しみの小樽運河を先に見ないよう裏道を通って目的の場所へ向かった。
 古い木の看板に「小樽大正硝子館」と書かれた古風な建物にたどり着いた。
 俺は、木のスライド扉を開けて中に入る。
 中に入ると、店員の代わりに季節外れのチリンチリンという風鈴の音が俺達を歓迎した。
「わあ!綺麗」
 そういった彼女の目線は一箇所に留まってはいなかった。様々な色、模様のガラス細工を見て、子供のように店内をはしゃぎ回る彼女の後ろをついて、俺も店内を巡る。
 まるで舞を踊るかのように店内を歩いた彼女は、不意に立ち止まった。そんな彼女の目の前にあったのは、角一輪挿しだった。
「これ良いなぁ」
 彼女はそう言って目を輝かせる。俺はその様子に値段を確認してみる。すると、そこに書かれていたのは二千二百円という文字だった。ガラス細工にしてはかなり値が張るが、彼女が欲しいなら買ってあげたいと思った。
「欲しいの?」
「うん」
 彼女は儚げな表情を浮かべながら言った。きっと自分の財布では手が届かないのだろう。
「買ってあげようか」
「いいよ、だってどうせ壊されるし」
 彼女の表情の理由は値段でも何でもなかった。その理由は、ただひたすらに悲しいものだった。
「そっか。ならいつか買いに行こう」
「うん」
 そして俺は彼女の表情も確認せずに店の外に出た。自分の放った言葉にも意識はしていなかった。
 堺町本通りの方に少し歩くと、凍った川があった。川の上にはキャンドルが吊るされていて、きっと夜になれば綺麗なのだろうなと思った。
「ねえ、写真撮ろ」
 彼女の言葉に俺は少し疑問を感じた。
「いいのか?凍ってるし、いい画にはならないだろ」
「君と二人なら、どこだっていい画だよ!思い出作りに!」
 彼女の言葉に俺は「そっか」とだけ言って凍った川を背景に携帯を構えた。
「ほら、隣こないの?」
「いく!」
 彼女はそう言って笑顔を浮かべながら俺の隣まで歩いた。
 パシャッとシャッター音が鳴り響き、カメラに俺たちの顔が収められた。
 彼女は満面の笑みで、俺は少しぎこちない笑みで笑っている写真が撮れた。
「後で共有してね!」
 彼女はそう言って歩き出した。
 俺たちが次に向かったのは、「小樽出世前広場」だ。かなり美味しい食べ物が買える場所なので、中学生の頃自主研修でも足を運んだが、彼女はどうだろうか。
「来たことある?」
「ううん、そもそも私、小樽来たことないから」
 俺の問いかけに帰ってきたのは、想像もしていなかった答えだった。
「自主研修とかで行かなかったのか?」
「自主研修かぁ。行ってないんだよね。お金出してくれなかったから。だから今日は私の人生貯金が火を吹いてるよ!もう三割くらいなくなったけど」
 まだ片道分の交通費しか使っていないのに人生で貯金した額の三割が持っていかれている。その事実に俺は驚愕した。
「食べたいもの言って。俺が買うから」
「え、いや、申し訳ないよ」
「いいから、言って。今日だけはルナに贅沢して欲しい」
「でも」
「消しゴムのときの借り、これで返したいから」
 俺の言葉に彼女はふふっと笑って言った。
「なにそれ、全然釣り合ってないじゃん」
と。確かにそうだ。だが、それでいいんだ。
「あの時、実は消しゴムの角使ったんだ」
「え!それなら話は別だよ!しょうがない、今日一日私にお金を使いなさい!」
 彼女は納得したように、半ば諦めたようにそう言った。
「承知しました」
 そして、俺達は列に並んだ。前の人が注文している間に、俺達はでかでかと飾られたメニューを眺める。
「何がいい?」
「うーん、オススメは?」
「カリカリじゃがバターチーズスティック」
「じゃあそれ!」
 彼女がそう宣言したとき、狙いすましたかのように店員から「次の人どうぞー」と声がかかった。
「カリカリじゃがバターチーズスティック一つください」
「トッピングは何にしますか?」
「ケチャップで」
 俺の言葉に店員は「かしこまりました」と言って、後ろにいた店員に「じゃがバタ一本」と伝えていた。
「一本?」
 彼女は訝しむように言った。
「あぁ、俺は外でご飯食べれないんだ。なんか焦っちゃって吐き気するから」
 俺の言葉に彼女は「ふーん」と不満げに声を上げた。何やらまた嫌な予感がするが、気のせいだと思いたい。
「じゃがバターのお客様」
 数分待っているとそう言って注文の品が出された。
 品物を受け取り、店の横にあった食事スペースに腰を下ろした。
 寒い冬の中で蒸気を上げる袋に包まれたそれは想像の二倍くらい長かった。五十センチはあるだろうか。それは、外食が苦手な俺でも一口くらい食べたいと思わせるものがあった。
「はい」
 そんなことを考えていると、彼女がそう言ってそれを俺に差し出した。
「ん?」
「ん?じゃないよ!一口あげる」
 彼女はそう言って更にこちらにそれを近づける。
「一口くらいなら食べられるでしょ?どうぞ」
 そう言って彼女は袋からそれを一口分引っ張り出し、俺の口元まで近づけた。
「いや、あの」
「この前私にもしたよね、はい、あーん」
「あ、あーん」
 俺は勢いに負けてそれを頬張った。
 春巻きのようなサクサクの生地に、じゃがいもの新鮮な味わい。それをチーズとケチャップが引き立てている。
「どう?美味しい?」
「おいひいれす」
「ふふっ、喋れるようになってから言いなよ」
 彼女のその言葉に俺は急いで口の中に入ったそれを噛み砕き、飲み込んで言った。
「ルナが聞いてきたんだろ」
「知らなーい」
 そんな会話をしながら、彼女は俺が食べたあとのそれを自分のもとに戻し、大きく口を開けた。
 分かってはいたが、間接キスというやつだ。意識しないわけないが、彼女が気にしていない素振りを見せるものだから、俺もそれに合わせて平静を装う。
「うん、おいしいね」
「うん」
 俺の目線は自分の手元を映していた。その様子を見た彼女は小悪魔のように微笑み口を開く。
「え、何?意識しちゃったんだ〜」
「断じて違う。ほら、ゆっくり食べろ」
「そこはさっさと食べろとかじゃないんだね」
 そんな会話をしながら、彼女は着々と食事を進めていく。五十センチほどあったそれは、気が付けば最後の一口になっていた。
「はい、どうぞ」
 彼女はそう言って袋から残ったそれを取り出し、手で掴んで俺の口元まで持ってくる。寒さのせいか、その手は少し震えていた。
 ここで躊躇してはまた煽られると思った俺は、堂々とそれを口で受け取った。
「よしよし」
 彼女はそう言って俺の前の空気を撫でてみせた。
「俺、犬じゃないんだけど」
「じゃあ猫」
「ペットじゃないって」
 そんな会話をして、俺たちは席を立った。
「次はどこ行くの?」
「お土産買いたいからこのまま堺町を進もう」
 彼女の問いに俺は即答し、歩き始めた。
 観光名所ということもあり、街並みは小樽独特の美しさを醸し出していた。
 石造りの洋風、和風の建築に、古き良き木造建築。まさに和洋一体と言えるその光景は、一度目にしたことがある俺にとっても綺麗なものだった。
 家族用の土産を買うために、いくつかお菓子屋を巡ったあと、ふと目に入ったアクセサリー店に足を運んだ。
「私も色々見てくるね」
 彼女はそう言って俺から離れた。
 彼女に何か買いたかった俺にとってそれは好都合だったので、俺はそれを快諾した。
 彼女に似合うアクセサリー、イヤリングがいいだろうか、ネックレスがいいだろうか。
 彼女は顔立ちは整っているし、わざわざ顔を着飾る必要はないと考えた俺はネックレスを選ぶことにした。
 そんな俺の目についたのは、二千円と少し値は張るものの、薄花桜色と紺青色が混じり合って輝くネックレスだった。
 どうやら光に当たると綺麗に輝くダイクロガラスというものが使われているらしい。
 俺は迷うことなくそのネックレスを手に取り、レジへ足を運んだ。
 レジを見ると、彼女が先に並んでいる。どうやら会計が終わった直後のようで、彼女はこちらに向き直り目を見開いた。
「何買ったの?」という俺の問いに返ってきたのは、「内緒!」と言いながら人差し指を口の前に立てる彼女の笑顔だった。
 無事にアクセサリーを買い終え、時刻を確認すると、午後四時となっていた。そろそろ日が暮れてきたころだと思い外に出ると、案の定空はオレンジ色に燃えていた。
 ここから小樽運河に向かえばちょうど日が落ちる頃だろうか。
「そろそろ行こうか」
 俺はそう言って彼女に手を差し出した。
「うん」
 彼女は俺の言葉にそう返事をして俺の手の上に手を乗せた。俺は乗せられた手をぎゅっと握りしめ、歩き出した。
 先刻まで真っ白だった世界は、まるで絵の具をこぼされたようにオレンジ色に染まっていた。
 彼女の頬が赤く染まっているのも、その影響だろうか。
 来た道を戻り、小樽運河を目指していると、来た当初に写真を撮った凍った川が見えた。
 日没によって眠るはずのそれは、照り輝いていた。
 数多くのキャンドルが光り、その光を氷が反射し、まだ微かに明るい空と光の強さを競い合っている。
「綺麗だね」
 彼女は俺の手を強く握りながら言った。
 この旅行も終わりが近づいてきたということを実感したのだろうか。
「そうだね」
 俺はそう一言だけ言って、彼女の手を強く握り返した。それに呼応するように、彼女の手の力も強くなる。
「写真撮るか」
「うん」
 彼女は微笑みを浮かべながら俺の隣でピースサインをしてみせた。だが、その表情はどこか寂しそうだ。
「なあ」
「何?」
「四引く二はー?」
「にー?」
 彼女がそう口を開いた瞬間を狙って、俺はシャッターを切った。
「あ!ちょっと、今の消して、絶対変な顔してるから」
 そう言って彼女は俺から携帯を奪おうとする。俺は携帯を奪われないために背伸びをしながら携帯を空へ伸ばす。
「嫌だ、いい写真だから」
「だめ!ちょっと―」
 そう言って彼女が跳ねたとき、彼女は前のめりに転倒した。雪で滑ったのだろう。
 俺は慌てて彼女を受け止める姿勢を取った。
「うわ」
「きゃっ」
 俺は大の字になって彼女の下敷きになった。
「無事?」
「うん、光くんこそ」
 そう語る俺達の距離は、今までに無いほど近かった。少しでも顔を動かせば唇と唇が当たってしまいそうな、そんな距離。
 不思議と心拍数は上がらない。ただ目の前にある彼女の顔を見つめ、同様に彼女に見つめられる。
 しばらく見つめ合った後、俺達は自然と距離を取り、立ち上がった。
 人の下敷きになったのだから、多少身体は痛むものの、地面に雪が敷いてあったお陰か、すぐに立ち上がれるほどの痛みだった。
 彼女も俺に続いて立ち上がり、小樽運河へと歩を進め直した。
 小樽運河の橋の上に着くと、既に日はほとんど落ちていたが、まだイルミネーションのライトアップはされておらず、建物から漏れ出る光だけが辺りを照らしていた。その景色は、既にどこか幻想的だった。
 俺達のあとに続くように続々と観光客が辺りに集まってきた。もう少し後にたどり着いていたら、いいポジションは確保できなかっただろう。
「早めに着いてよかったな」
「うん」
 俺達は手を握りあったまま、周りの人々の声に耳を傾けるだけだった。
「ねえ」
「あっ」
 俺達は同時にそう声を上げた。
「光くん、何?」
「いや、ルナこそ何?」
「あ、えっと。渡したいものがあるんだ」
 彼女はそう言いながら横髪を指で弄っていた。
「奇遇だね。俺もだよ」
「え、ほんと?」
「うん、本当」
「じゃあ」と言って彼女がポケットに手を突っ込んだ時、辺りがピカッと光った。
 その眩しさに思わず目をつぶり、次に目を開くとそこにあったものはまさに神秘的な光景だった。
 青や紫を主体とした色合いの電球が運河の周りを形作っていて、水面にはそれらがまるで必死に背伸びをしているかのように映っている。
 色を失いかけていた世界が、今この瞬間に色づいたのだ。
「綺麗、だね」
 彼女はその光景にまるで言葉を失いかけたかのようにそう言った。
「メリークリスマス、ルナ」
俺はそう言って呆ける彼女の手を離し、一足分距離を取ってから手に持っていた小袋を差し出した。
 彼女のほうが先にプレゼントに手をかけていたはずなのに、俺が先にプレゼントを渡すことができたのは、おそらく彼女が心の底からこの景色に魅入っていたからだろう。
「開けてもいい?」
「いいよ」
 俺の回答にじゃあ早速という様子で彼女は小袋を開いた。
「わあ、ネックレス?」
「うん、気に入らなかったら捨ててもいいよ」
 俺の言葉に彼女は俺を睨みながら言った。
「そんなことしない」
「ごめん」
「いいの。あ、でもせっかくだし許さない」
 せっかくだし、という言葉に本日三度目の嫌な予感がしたが、果たして的中するのだろうか。
「何をご所望でしょうか」
「光くんに着けてほしい」
 そんなことか、と俺は少し頬が緩んだ。どうやら嫌な予感は外れてくれたようだ。
「承知しました」
 俺はそう言って差し出されたネックレスを両手で持ち、彼女の首に手を回す。
 ネックレスなど着けたことがない俺は少し不手際な動きになってしまい、何度か首に触れてしまうが、彼女はそれを意にも介さなかった。
「着けたよ」
「うん、ありがとう」
 彼女はそう言って胸元に両手を置いた。
 俺のあげたネックレスはイルミネーションの光を吸収し、より深い青や紫となって輝いていた。そして、それは彼女もだった。
 イルミネーションの光に照らされながら目をつぶり、微笑みを浮かべる彼女はまるで恋愛映画のヒロインのようだ。
「じゃあ次、私の番ね」
 その姿に見惚れていると、彼女がそう言って何かをポケットから取り出した。
「はい、これ」
 彼女はそう言って俺の手を掴み、取り出した何かを握らせた。
 受け取った何かを見てみると、イルミネーションに照らされて少しだけ光を発している。全体に雪の装飾が施された小さなそれは、製作者のこだわりを感じる。
「ヘアピン?」
「うん、光くんの前髪、読書するのに邪魔そうだったから」
 偶然にもそれは俺が失念していたことだった。いや、彼女のことだから俺をよく観察した上で生み出した必然なのかもしれない。
「ありがとう」
 そう言って俺は早速もらったヘアピンを着けてみる。
 すると、俺のヘアピンをつけた姿を見て彼女が吹き出した。
「あはは、何それ」
「変かな?」
「全然ダメ、しょうがないな、私がつけてあげる」
 彼女はそう言って俺の前髪につけられたヘアピンを外し、左側に前髪を寄せながら、慣れた手際でヘアピンをつけ直す。
 異性に顔を触られるというのは何というか、少しだけ緊張する。その緊張を誤魔化すため、俺は目を閉じた。
「はい、できたよ。髪上げると格好いいね」
 彼女の言葉に目を開いた。そこには、普段の二倍以上の視界が広がっていた。彼女の笑顔も、イルミネーションも、周りの観光客の様子だって、いつもよりもずっと見やすかった。
「ありがとう、大切にする」
 俺はそう言って体を橋の塀の方へ体を向き直した。それに呼応するように彼女も体の向きを変える。
 俺達はお互いを見ることもなく、手を繋いだ。
 それは、俺みたいな根暗な人間の人生でこれから先一回あるかどうかも怪しいほど、ロマンチックな手繋ぎだった。
 今、この瞬間だけは周りの何もかもがぼやけて、世界のスポットもピントも全てが俺達に当たっているような、そんな感覚がした。
「ねえ」
「何?」
 本当に、何度繰り返したかもわからない会話だ。でも、俺達にとってこの会話には特別な何かがあると、何となくそう思った。
「私、生きたいよ」
 俺はその言葉に思わず目を見開いた。
 彼女の方に目をやると、そこには俺のあげたネックレスを左手で掴みながら涙を浮かべる彼女の姿があった。
「そっか」
 俺が今世界で一番喜ぶべき言葉のはずなのに、なんて言葉を発していいのか、俺には分からなかった。
「うん、だって幸せだから」
「それは、よかったよ」
 俺がそう言うと彼女は目を閉じた。そして、青と紫の混じった雫をこぼした。彼女のこぼしたそれは、ネックレスと同じ綺麗な色だった。
 彼女がなぜ泣いているのか、俺には全くわからなかった。生に希望を見出す事ができたのなら、それは喜ばしいことなのではないのだろうか。
 もしかして、彼女は心のどこかではまだ死を願っているのだろうか。俺が与えた幸せが中途半端なものだったから、縛り付ける枷になっただけで、本心では死にたいと思っているのだろうか。
 俺には何もわからなかった。だから俺には、彼女の手をぎゅっと握りしめること以外にできることはなかった。
「ねえ」
 震える声で彼女は言った。
「何?」
「私も君のこと、世界で一番愛してるよ」
 そう宣言した彼女は、とても綺麗な笑顔を浮かべていた。
 光に照らされる目元と頬、胸元に当てられた手の真上で光り輝くネックレス。それに加え、今まで浮かべてきた満面の笑みと比べても最高の満面の笑み。
 全てが相まって、この瞬間、彼女はきっと世界で一番綺麗な笑顔を浮かべていただろう。
 今、私達が乗っている電車は、海も空も眠りについた世界を走っている。
 通学通勤などでもはや当たり前だという人もいるかもしれないが、私にとって今この瞬間は、とても幻想的に感じるのだ。
 暗闇の中で月に照らされて微かに光の揺らめく海を見つめながら、ぼーっとしていると、肩に何かが乗った。
 それは、彼の頭だった。
 私はそれをどかすことなく、静かに彼の顔を眺める。
 いつもは隠されていた目鼻立ちは、ヘアピンをつけたことによってあらわになっている。目を閉じていてもわかるほどかなり整っている彼の顔立ちは、俗に言うイケメンというものだった。
「ちゃんと髪切ればいいのに」
 私はそう小さくつぶやきながら彼の前髪をそっとなぞった。
「んん」と唸り声を上げる彼を見て、慌てて私は窓の外を眺めるも、どうやら起きてはいなかったようでほっとした。
 私は今、一人だ。隣には彼がいるけれど、手を握り返してくれるわけでも、話を聞いてくれるわけでも、もちろん話しかけてくれるわけでもない。
 その環境は私の頭を冷静に働かせ、思考を巡らせる。
 私は生きたい。でも、それと同時にこのまま死にたいと思ってしまう。
 私には幸せになる権利がないからだ。生まれた時から私は何かを失い続けてきた。
 友人からもらったプレゼントも、それをくれた友人も、新しく作った友人も、好きな人も、父親も、母親すらも。
 私より恵まれていない人なんて世の中にはごまんといると思う。でも、だからって私が我慢できるなんて道理はない。
 それでも私は生きてきた。でも、もう嫌になった。
 彼と初めて会話を交わしたあの時、私のいない教室で友人だと思っていた彼女達は私のことを貶していた。もしかしたらよくあることなのかもしれない。でも、私にはそれが重かった。
 そして、それでようやく理解したんだ。私には幸せになる権利がないんだって。
 だからきっと彼も蜃気楼のようにどこかへ消えていってしまうんだ。
 それなら私はいっそのこと、幸せを感じることができている間に死んでしまいたい。
 きっと大半の人間は私に対して生きていたらいつか幸せになれるとか、生きていればいつか必ずいいことがあるとか、そんなことを言うのだろう。
 そんな期待は私だってしてきた。実際何度か生きてて良かったと思えた瞬間もあったのかもしれない。でも、それは全て私の前から消えていったんだ。まるで最初からなかったように。
 だから、もういいんだ。もういいんだよ。
 私は、幸せなうちに死にたい。後悔がないように、生きてて良かったって思えるように。
 だから私は、きっと桜が散れば彼にこう言うだろう。
「ねえ、君。私のこと消してよ」
と。
 彼はきっとそれを了承する。なぜなら彼は優しいから。
 もし彼が私を殺さなかったら、その時私は自ら死を選ぶだろう。それほどに、私にとってこの幸せは身に余るものなんだ。夢からはいつか覚めなきゃいけないように、私はこの幸せを味わい続けていい人間ではない。
 でも、もし彼が私を愛し続けてくれるというのなら、それも悪くはないかもしれない。
 最後に一度だけ、人を、彼を信じてもいいのかもしれない。
「ねえ、君は私のヒーロー?殺し屋?それとも…」
 恋人に、なってくれるの?
「ぼく、は、きみ、の」
 彼は絞り出すような声で言った。でも、続きが語られることはなかった。
 彼は再びすーすーと寝息を立て始めた。その様子に私はただ純粋に可愛いと思った。まるで子供を見ているような気持ちになった。それと同時に、私はこんな子に殺しを頼んでいるんだと自覚した。
「ごめんね」
 返ってくるはずもないのに、私はそう小さくつぶやいた。きっと、物語だったらここで返答が返ってくるのだろうななんて思った。
「大好きだよ、光くん」
 私はそう言って眠る彼の手を握った。
 私は彼が大好きだ。愛している。
 こんな私を愛してくれて、私に対して無責任な言葉をかけたことなんて一度もない。いつも彼は私を心の底から思いやって言葉を紡いでくれた。いつかの話はほとんどしなかった。今日、一度だけされたけれど、それはきっと彼の本音なのだろう。いつまでも私と一緒にいたいという、彼の本音。
 でも、私はそれを心から信じることができない。いつまでも一緒だ、なんて言葉を吐いてすぐに私を捨てた人を何人も知っている。彼を信じていないわけではない。彼のことはこの世界で一番信頼している。でも、人間は必ず裏切る。
 だから私は彼と愛し合うことができない。いつか終わりが来てしまうから。終わりのない愛なんて、物語の中にしか存在しないと理解しているから。
 だから私は、死を選ぶ。どうなるかわからない生に希望を見出すよりも、幸せな死を選ぶのがきっと私に相応しい。
 そう思わせてくれた彼だからこそ、私は彼が大好きだ。
 以前の私なら、生よりも楽だから、苦しい思いはしたくないから、そんな理由だけで死を選んでいた。でも、彼はそんな私を変えてくれた。
 だから、私は彼が大好きだ。
「ありがとう、光くん」
 大好きだよ。
* * *
「間もなく、札幌、札幌です」
 その声に俺は視界に光を取り込んだ。少しだけ眩しい。どうやら寝てしまっていたようだ。
「あ、光くんおはよう」
「あぁ、おはよう」
 まるで声帯が錆びているかのように上手く声が出せないまま、俺はそう返事をした。
 ふと外を眺めると、空は暗闇に染まっていて、そんな暗闇に負けないように、街は光を放っていた。いつも目にしているはずのただの夜景なのに、どこか綺麗に感じるのはなぜだろうか。
 そんなことを考えていた時、身体が前に引っ張られた。どうやら到着したようだ。
「行こう」
「うん」
 俺達は手を繋いだまま駅を歩いた。エスカレーターを降りる時も、電車を乗り換える時も。
「もう暗いし、今日は送っていくよ」
 外に出た俺はそう言った。
「いやいや、逆に私が光くんを送っていくよ」
 こうなってしまっては泥沼の争いだ。俺は間を取ることにした。
「なら、今日はここで解散しようか。もし変な人に声かけられたりしたら連絡して。すぐに駆けつけるから」
「私は光くんの子供かな?心配し過ぎだよ。でも、ありがとう」
「じゃあ、また明日…ってもう冬休みなのか」
「そうだね。あっ、一緒に年越さない?」
 彼女の言葉に俺は動揺した。もちろん、表には出さなかったが。
「それは俺の家に泊まるってこと?」
「うん、ダメかな?」
 両親に確認をと言おうと思ったが、確認するまでもなくあの二人なら喜んでそれを了承することに気づいてしまった。
「まぁ、いいよ。聖も呼ぶか」
「そうだね、そうしよっか」
 彼女は何か思うことがありそうな表情をしながら笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
 彼女はこちらに大きく手を振りながら身を翻した。
 俺は彼女が道を曲がるまで見守ってから自分の家へ歩き始めた。
 空はもう真っ暗で、辺りは街灯と部屋から漏れ出る光によって照らされている。
 街灯のおかげで白色だと認識できるきめ細かい粒の上を俺は歩いた。
 歩くたびにボフ、ボフと音が鳴る。今年の雪はいい雪だ。だが、正直言ってそんなことはどうでもいい。
 俺はウィンタースポーツになんて微塵も興味がないし、どんな質の雪が降ろうと関係ない。というかそもそも雪なんて降らないでほしい。歩く負担が倍増するのだ。
 でも、今年だけは冬が明けないことをどこかで願っている自分がいる。
 彼女は生きたいと言った。でも、春が来て、桜が散ってしまえばもしかしたらその時は訪れるかもしれない。
 俺は怖い。彼女をこの手にかけなければならないかもしれないことが。でも、それでももし彼女が死を選ぶのなら必ず殺さなくてはならない。
 それが彼女との約束なのだから。
「私も愛してる、か」
 彼女の言葉が、表情が、笑顔が俺の思考を埋め尽くしていた。
 次に彼女が満面の笑みを浮かべるのなら、その時は絶対に涙は流させないと、心の中で誓った。
 夜の闇は、俺の心までも黒く染めようとしてくるようで、俺の思考はどんどん加速した。
 そもそもなんで俺は彼女にここまでするのか。答えは好きだから、愛しているから。
 じゃあなぜ愛しているのか。
 それはきっと同情からだったと思う。あまりにも恵まれない彼女を見て、彼女の涙を見て、俺がこの子を助けないといけないんだと思った。
 でも、今は違う。彼女の笑顔も、怒った顔も、拗ねた顔も、涙だって好きだ。顔だけじゃない、その顔を形作っている彼女の内面も好きだ。人よりも一生懸命生きようと頑張っているところ、物事に熱心に取り組むところも、少しあどけないところも、弱いところも含めて好きだ。愛していると断言できる。
 だから俺は、彼女を救いたい。
 だから俺は、彼女を殺す。
 それが俺にできる救済なら、他に方法がないのなら、必ず―。
 それから特に何事もなく、大晦日が訪れた。
 聖も誘ってみたが、どうやら年末年始は家族旅行に行くようで来れないとのことだった。
 つまり、ルナと俺の二人きりで過ごすことになる。
「まあ、両親もいるし大丈夫か」
 自室でたった一人、机で頬杖をつきながらそう声を漏らした。
 ピンポーンと音が鳴り、その音に反応して椅子から立ち上がった。
 俺がリビングに続く扉を開くと同時に、母がインターホンに向かって「はーい」と言った。
 インターホン越しに微かに「お母さん、蓮見です!こんにちは」という声が聞こえ、俺は玄関へ向かった。
 玄関の扉を開くとそこには学校用のものよりは少し小さいくらいのリュックを背負ったルナがいた。
「光くん、やっほー」
 彼女は小さく手を振りながらどこか恥ずかしそうに言った。
「入っていいよ、いつも通り手洗っといて」
「はーい」
 彼女はそう言って足早に洗面所に向かった。
 俺はキッチンに足を運び、ルナの分のお茶をコップに注いだ。
「お邪魔します」
「はーい」
「ルナちゃん!こんにちは」
 手を洗い終えたルナは両親に軽く会釈をしてから食卓に座った。
 今日は大晦日ということもあって、昼頃に集まってお昼ご飯から家族みんなで過ごそうということになっている。
「美味しそうですね」
 ルナは食卓に座ると両手を頬の隣で合わせながらそう言った。
 食卓には寿司や御節など、大晦日に食べるものランキングをそのまま反映した料理がズラッと並べられている。その光景にはかなり食欲をそそるものがあった。
「じゃあ早速食べようか」
 父のそんな言葉を合図にするかのように、俺達は手を合わせた。
「いただきます!」
 いつも通りの声がリビングに響き、食事が始まった。
 俺は真っ先に寿司に箸を伸ばし、サーモンを一貫取って醤油に浸けた。
「サーモンうま」
 俺はそう言ってどんどんサーモンだけを大量に胃袋に詰めていった。
「光くんサーモン食べ過ぎじゃない?」
「そうなんだよ、光はサーモン以外食べないんだ。安上がりの男だから、一緒に寿司に行けば楽だぞぉ」
 そんな父の言葉を無視しながら俺は残っていたサーモンを食べ尽くした。
「ちょ、光。父さんもサーモン好きなんだけど、いくら何でも食いすぎだろ」
「知らない。冷蔵庫にスーパーのサーモン入ってるよ」
「お前なぁ」
 そんな俺と父の会話にルナと母はふふっと笑みをこぼした。この約一ヶ月で、ルナもすっかりこの家族に馴染んだ。まるで昔からそこにいたようにすら感じるほどに。
 それから俺達は馬鹿みたいに話して、笑って、食べて。時にはバラエティ番組を見て皆で笑って。調子に乗った父さんがお酒を飲みすぎて酔っ払ってルナに絡んだり、それを母が恒例のチョップで止めたり、とにかく楽しんだ。
 まさに家族水入らずのひとときだった。
 年越しそばも食べて、いよいよカウントダウンの時間が訪れた。
「10!」
 テレビの音声に合わせるように俺達も声を上げる。
「9!」
 今年は本当に色々なことがあったな。
「8!」
 特に下半期、ルナと出会ってからだ。
「7!」
 急に消して欲しいなんて言われて。
「6!」
 歩道橋の上で問答をして。
「5!」
 父と仲直りというか、関係の再構築もできて。
「4!」
 カラオケに行って、そこで彼女のことを知って。
「3!」
 けんぱち、本当に喜んでくれたのかな。
「2!」
 一緒に小樽にも行ったな。
「1!」
 これからどうなるかは分からないけれど、間違いなく幸せな一年だった。
「0!」
 もし叶うことなら来年も―
「ハッピーニューイヤー!」
 テレビの音声に負けず劣らず俺達は声を発した。
「へっへっへぇ、年越したぞぉ」
 父は既に酔っ払い、母はそれに呆れ、ルナはそれを微笑ましく見つめている。
「じゃあ年も越したし、私達はもう寝るから。二人も早く寝なさいね」
 母はそう言って父に肩を貸しながら二階へ上がっていった。
 道中、「もう、ちゃんと歩いて」「ほら、足上げて」という母の声が聞こえてきたこと、そしてゴミ袋にまとめられたお酒の量からは父の酔っ払っている様子が容易に想像できた。
「お父さん、酔っ払ってたね」
 お母さん大変、と彼女は微笑みながら言った。
「そうなんだよ。毎年毎年こんな感じだから俺はもう慣れたけどね」
 俺のそんな言葉にルナは辛そうな、悲しそうな表情を浮かべながら独り言のように呟いた。
「来年もそうなのかな」
と。
「一緒に確かめよう」なんて言葉は出てこなかった。なぜなら、こんな表情を浮かべながらこんな発言をする時点で、来年まで生きている自信がないと言っているようなものだと思ったからだ。
 君は生きたいんだろう?そう言いたかったが、残念ながら俺にそんな勇気はなかった。
 それを聞いてしまえば彼女の生死が確定してしまうような、そんな気がして恐ろしかったから。
「さて、今日はもう寝ようか。俺がソファで寝るからルナはベッドで寝てくれ」
 結局俺は彼女の呟きは無かったことにして、椅子から立ち上がった。
 だが、何かに服の袖を引っ張られた。もちろんそれをしたのは幽霊などではなく、ルナだった。
「ねえ」
 彼女は座ったまま絞り出すように言った。
「何?」
「一緒に寝よ?」
 心臓が飛び跳ねたかと思った。
 そして俺はまるでマネキンのようにその場に静止した。
 一体どうするべきなのだろうか。普通に考えれば断って俺はソファで寝るべきなのだろうが、彼女のこの言葉には何か意味がある気がしてならない。
「一緒に?」
 俺はとにかく思考を巡らせる時間を取るために言葉を紡いだ。
「うん、だめかな」
 彼女は俺の袖をより強く掴みながら言った。
「なんで一緒に寝たいの?」
「人の、君の温もりを知りたいの」
 そう話す彼女の手は震えていた。震えながらも、より強く俺の袖を握りしめていく。
「分かった。一緒に寝よう」
 俺はそう言って彼女の手を掴み、彼女を自室まで先導した。
 自室の扉を開き、ベッドまで歩を進める。
「まずは少し話そうか」
 そう言って俺はベッドに座り、隣をトントンと叩いた。
 彼女は俺の意図を理解し、俺の叩いた場所へ座った。
 彼女と俺の距離は肩と肩が触れ合うほど近かった。もはや、これを付き合っていないとは言えないほどに。でも、それでも俺達は恋人同士ではない。あくまでも殺し屋とターゲットだ。
「ねえ」
 彼女はそう言って俺の手の甲に手を被せた。
「何?」
 俺は彼女の手の上にさらに手を置きながら言った。
「もう一回、言って」
「…何を?」
「私のこと、どう思ってるかもう一回教えて」
 彼女はそう言うと俺の腕を抱き締めた。
「愛してるよ、この世の誰よりも」
 俺は何の躊躇も恥じらいもなく、そう答えた。きっと、以前の俺にはできなかったことだろう。
「ありがとう」
 彼女は申し訳なさそうな表情をしながら言った。俺にはそんな彼女の真意は分からなかった。
「ねえ」
「何?」
「殺してほしいの」
 彼女の言葉に俺は沈黙を返した。
 今の俺にはもう、前までのように確実に殺すと断言はできなかった。
 殺さなければいけないことは分かっている。でも、今はまだその現実に向き合いたくない。生きてくれると信じていたい。そう思ってしまうのだ。
「なんで、君は生きたいんじゃなかったのか」
 俺の言葉に彼女は苦しそうな微笑みを浮かべて言った。
「幸せは、永遠には続かないから。だから私は君が幸せにしてくれているうちに死にたい」
 彼女の言葉に俺は思考が追いつかなくなった。
 俺がいくら幸せを与えても、彼女は死んでしまうのだろうかと、そう思った。
「その話はまた今度聞くよ」
 俺は気が付けば現実から目をそらすようにそう言葉を放っていた。きっと、いつか俺達は似たような会話をするのだろう。でも、それは今じゃなくていい。
「うん、そうだね」
 彼女の言葉にほっとしていると、彼女は言った。
「ねえ」
「…何?」
「お願いがあるの」
 彼女は俺の顔を見つめながら言った。顔を見られているはずなのに、なぜか目が合わないのはなぜだろうか。彼女は一体どこを見ているのだろうか。
「キス、して?」
* * *
 私は気が付けばそう言葉に出していた。
 無茶な願いだと分かっていた。添い寝を了承してくれただけでも十分だと分かっていた。
 でも、私は彼にキスをしてほしかった。そうすればきっと、彼を信じて生きることができると思ったから。
「それは僕には叶えられない」
 彼は申し訳なさそうに目を細めながら言った。
 彼以外にこんな願いを叶えて欲しい人はいないのに、僕にはなんて言い方をされたのが私は嫌だった。
 そして、何よりも彼にキスを拒絶されたことが辛かった。幸せになっていいって、そう思いたかったのに。
「そう、だよね」
 私は何だか何もかもが嫌になってこの場を立ち去ろうと思った。
 そして、立ち上がった瞬間、扉を捉えていたはずの私の視界は上を向いた。さらに、天井が見えるはずの私の視界には、彼の顔しか映っていなかった。
「でも、そばにいることだけはできる」
 彼はそう言って覆い被さるようにして私を抱き締めた。
 私は訳も分からず彼を抱き締め返した。
 そして、やっと理解した。彼は私が嫌でキスをしなかったんじゃないことを。彼には彼なりの考えがあって、その上でキスをしなかった。ただそれだけの話だったんだと。
「ありがとう」
 私は彼を強く抱き締めた。それに呼応するように彼も私を強く抱き締める。風呂上がりのシャンプーの匂いが私を包み込んでいった。
 やっぱり、彼を信じてもいいのかもしれない。彼は私のことを想い続けてくれると。でも、そんなのはまやかしだ。
 私は覚悟した。春まで生きることを。そして、私の命の花が散れば、彼に殺してもらうことを。
 普通なら彼に殺させないことを覚悟するところなのかもしれないが、それは彼にとっては逆効果だ。
 彼はきっと常に私を殺す覚悟を必死に研いできたと思う。それも潮風にさらされた金属のように、何度も錆びて、何度も研ぎ直して。
 だから私は彼に殺してもらわなければならない。一人で死ぬなんてことをすればそれこそ彼はきっと壊れてしまうから。
「ちゃんと、殺してよ」
 私の問いに返ってきたのはより強い締め付けと、一度聞いたことのある言葉だった。
「君が桜が散るまで死にたいと思っていたらね」
 彼はそう言った。
 死を覚悟したはずなのに、私はまた彼を信じたいと思ってしまった。彼が私を生かしてくれるんじゃないかって。
「君が私を生かしてくれるの?」
 私は気がつけばそう言葉を漏らしていた。
 彼は少し起き上がって、私の顔を見つめながら言った。
「僕は君だけの殺し屋だ。それは永遠に変わらない。僕は絶対に消えたい君を殺す」
 彼はそう断言した。そんな彼の表情は、今まで見たこともないほど真剣だった。
「ありがとう」
 彼の言葉に嘘はないことは分かった。この状況で安易に肯定の言葉を返す人間は大抵嘘つきだ。少なくとも軽い気持ちでそれを言っている。
「ねえ、光くん」
「何?」
「私も君のこと愛してるよ。だーいすき」
 私がそう言うと、彼はようやくベッドに仰向けに寝転がった。
 そして、こちら側に向き直って再度私を抱き締めた。それに合わせて私も彼の方を向いて彼を抱き締める。
 気が付けば小鳥が鳴き、カーテンのすき間から日差しが入ってきた。
 私達の姿勢は、昨夜のまま変わっていなかった。
 私が少し姿勢を変えると、それに反応して彼が「んん」と唸り声を上げて目を開いた。
「あ、ごめん。起こしちゃったね」
 彼は寝ぼけ眼のまま「おはよう」とかすれた声で言った。
「うん、おはよう。朝ごはん食べに行こっか。今日は初詣行くんだし、ちゃっちゃと準備しちゃおー!」
 私の言葉を無視するように彼は再び目を閉じた。どうやら寝起きはあまり良くないようだ。もしくはあまり眠ることができなかったのかもしれない。
「はいはい、起きて起きてー」
 私はベッドから起き上がって彼の肩を叩きながら言った。
「んう、あとちょっと寝かせて」
 先程よりかすれてはいない、だからこそ幼く聞こえる声で彼は甘えるように言った。
 どうやら私は甘やかしたい性格のようで、ついついしょうがないなーなんて言ってしまいそうになったが、ぐっとこらえて彼の腕を引っ張る。
「起きてー、朝だよー」
 半ば無理やりベッドの上に座らせ、彼の目がはっきり開くのを待つ。
 彼の長い髪は寝癖でボサボサで、そんなことは意にも介さず目をこすっている。
「全く、将来が心配だなぁ」
 最近は少し大人びた彼の様子ばかり見ていたからか、年相応な彼の姿にどこか親近感を覚えた。もっとも、私の寝起きはかなりいいほうだけれど。
 私は机の上にあった櫛と雪模様のヘアピンを取り、適当に彼の髪をとかしていく。
 寝癖がほとんど無くなってから、前髪を右に寄せてヘアピンを付けた。
 この間彼はブラッシングされている犬のように大人しかった。
 そんな彼と共にリビングに足を運ぶと、二日酔いでしんどそうに椅子に座るお父さんと、キッチンで朝食を作るお母さんがいた。
「お父さん、お母さん、おはようございます」
 私は思い切ってリビングに自分の声を響かせた。すると、気だるそうな「おはよう」と、活気にあふれた「おはよう」が返ってきた。
 朝食を終え、少し元気になったお父さんを連れてみんなで車に乗り込んだ。これから神社に向かうのだ。
 今から私達が向かうのは街の一角に位置する神社で、北海道でも有数の大きさがあるわけではないが、初詣をするには十分なサイズがある。
 近くには思い出の歩道橋やカラオケもあって、何度か通ったことのある道にその神社は位置していた。
 普段はそれほど栄えているわけではない神社には、参拝客が多く訪れていて、周囲は喧騒に包まれていた。
 その喧騒の中で、「願い事何にする?」という一度は耳にしたことのある言葉が私に届いた。
「お父さんとお母さんは願い事何にするんですか?」
 私は腕を組みながら前を歩く二人にそう声をかけた。
「そうだなぁ、家内安全とかかな。あ、もちろんルナちゃんも含めてな」
 お父さんは親指をピンと立て、こちらにウインクしながら言った。
「そうねえ、私も一家安泰かしら。あ、あとは光の合格祈願かな」
「母さん、流石に気が早すぎるよ。それは再来年の初詣でいいと思う」
「えー、三年間お祈りしたらその分効果あるかもしれないでしょ?」
「そもそも祈ったって俺の努力次第なんだから変わらないと思うけど」
 彼の言葉に私は確かにと思った。
 祈ったところで入試の点数が上がるわけでもないのに、なぜ神に合格を祈願するのだろうか。
 きっと気休め程度のものだと誰もが理解しているのだろうけれど、それでも祈ることで確率が少しでも高まると思いたいのだろう。
「光くんは何を祈るの?」
 私の言葉に彼は頭を悩ませることもなく即答した。
「内緒」
「えーなんで」と言う私の言葉には何も返事もくれず、私達は歩いた。
 鐘の音が聞き飽きるほど何度も鳴って、いよいよ私達の番がやってきた。
 賽銭箱に小銭の落ちるチャリンという音が四回響き、私達は二回お辞儀をした後に手を二回叩いた。
 そして、私はこう祈った。
 彼がこんな私をちゃんと消してくれますように、と。
 この時、無意識のうちに殺してくれますようにとは祈らなかったことは、私の命の花が散ってから気付いた。
 そして雪も溶け、いよいよクラス替えの季節がやってきた。
 雪解け水に満たされた道を歩いた。
 切り取られた空の断面の上を歩いた。
 その情景に俺はいよいよ冬が明けてしまったことを自覚した。
 一ヶ月ほど袖を通していなかった制服は少しだけ窮屈に感じるようになっていた。それには自分がまだ成長期の少年であるということを自覚させられた。
 春といえば出会いの季節だろうか、別れの季節だろうか。はたまたその両方だろうか。
 人にとってはどうかわからないが、俺にとって春は別れの季節になりそうだ。
 クラスが変わればそう思うこともなくなるのだろうか。そんなことを考えながら、押しボタン式の信号を待つ。
 雪が積もっていた頃はかなり低い位置にあったボタンも、今ではもう肩より少し下くらいの位置にある。
 まだ雪が積もっていた頃は滑って転びそうで怖かった歩道橋も、今ではもうただの階段と相違ない。
 車の走行に合わせて歩道橋が左右に揺れ、空気の流れが変わるのを感じる。この感覚も久しぶりだ。老朽化によって床でも抜けてしまうんじゃないかと何度も妄想していたことを思い出す。
 学校にたどり着き、下駄箱に外靴を入れる。そして上靴を取り出そうとしたその時、デジャブを感じるタイミングで俺の耳にいつも通りの声が入ってきた。
「おはよー」
 その声に俺は思わず手を止めた。
「おはよう」
 やはりデジャブを感じる会話だったが、特に気にしないことにした。
「私とクラス離れちゃうかもしれなくて寂しい?寂しいでしょ」
 彼女は冗談を言っているかのように声高らかにそう言った。
「そうだね」
 俺はそんな彼女を動揺させるためにあえてそう言った。そして、彼女が「えっ」と動揺を見せたところで口を開いた。
「君のやかましい声がないと生活は静かで、ある意味寂しいだろうね」
 俺の言葉に彼女は上靴も履かずに無言でローキックをかましてきた。
「冗談だよ。多少は寂しいかもね」
「あっそ。じゃあね」
 彼女は拗ねたように言ってそのままその場を立ち去ってしまった。
 少しやり過ぎたかもしれないが、彼女とのこれからを考えればこれくらい、と思っていた時、約束を思い出した。
 桜が散っても死にたかったら殺すという約束だ。
 そう、俺達には時間がなかったんだ。
 救うと意気込んではいるものの、死んでしまう、いや、殺さなければいけない可能性があるというだけで俺の気は休まらなかった。その事実を思い出したのだ。
 教室にたどり着き、拗ねたように窓を眺める彼女に俺は声をかけた。
「なあ」
「何」
「ごめんね」
 俺の真剣な声色に驚いたのか、彼女は目線をこちらに向けた。
「やだ」
 しかし、どうやらそんな程度で許されるなんてことはなかったようだ。
「もうクラス替えだな」
 これは何も無かったかのようにそう話してみた。しかし、彼女から返ってきたのは「うん」というたった一言だけだった。
「ごめんね」
「別に、もう気にしてないよ」
「じゃあ何でそんなに不貞腐れた態度なの?」
「何でもない」
 そんな会話をしているうちに、チャイムの音が鳴った。こんなにこの音を聞きたくなかったことなんて今までにあっただろうか。
 辺りには「いよいよだな」「クラス変わってもずっと友達だよ」なんて声が響いていた。
「よーし、クラス替え発表するぞー」
 そんな担任の手には巻物のように巻かれた大きな紙が握られていた。
「一人ずつ読み上げるのも面倒だし、黒板に貼っておくから各自見て移動するように」
 担任の言葉に、クラスメイトは一斉に立ち上がった。混雑する黒板前で、俺は何とか自分のクラスを把握した。ついでに、ルナのクラスも。
 俺たちのクラスは別々だった。
 俺は隣に立っていたルナに声をかけた。
「なあ」
「何?」
「桜、見に行こうか」
 俺の言葉に彼女は目を見開いてから「うん!」と元気よく返事をした。
 俺達の会話にクラスの男子の一部がざわついていたのを感じたが、気のせいだと思うことにした。
「あーあ、クラス離れちゃうんだなー」
 彼女は思い出したかのようなタイミングでそう言った。
「帰りくらいなら送ってあげるよ」
 俺の言葉に彼女は「え!いいの!」と嬉しそうに言ったあとに「いやでも申し訳ないなー」と悩み始めた。
「まぁ毎日とは言わないけどね。あと、昼休みも話そうと思えば話せるだろうし」
「そうだね!それならあんまり寂しくないかも!」
 彼女は何かを誤魔化すように明るく笑顔を貼り付けているように見えた。
 笑顔を浮かべているのではなく貼り付けていると感じるのは出会ったばかりの頃以来だった。
 その光景に俺は二つの意味でため息をつきながら彼女の方に手を伸ばした。
「えっ、あっ」
 俺の思わぬ行動に彼女はそう声を上げた。
 俺の手は彼女の髪に、頭に触れていた。学校でこんなことをすれば殺し屋が一般人に殺される珍事が起きるなどと言っておきながらだ。
「大丈夫、ルナは一人じゃないよ」
「うん」
 彼女は俺の言葉に微笑みながら言った。
 そんな彼女の顔からはまるで仮面が外れたように貼り付けられた笑みなんてもう消え去っていた。
 幸いなことに、多くのクラスメイトは既に教室を出ていたし、残っていた生徒もほとんどが黒板に貼られたクラス表を凝視していたおかげで、俺が殺されることはなかった。
「さて、じゃあまたな」
 俺はそう言って彼女の頭から手を離した。
「うん、またね」
 後ろを振り返ることはせずに教室を出たが、彼女は一体どんな表情をしていたのだろうか。
 新しい教室にたどり着き、黒板に貼られた座席表を見て席に向かった。
 俺の座席は最前列の黒板前という俺の望みとは遠くかけ離れたものだったが、仕方なく着席した。
 新しいクラスでの日々はごく普通に過ぎていった。
 二年生に上がったのだからきちんと授業を受けて、でもやっぱり面倒でたまに授業をサボって。時折階段の踊り場でルナと遭遇して、数時間分授業を一緒にサボったり、たまに彼女と一緒に帰ったり。新しい友人はできなかったけれど、かなり平和に時間が過ぎていった。
 だからこそ、俺は何もかもを忘れてしまいそうになっていた。そんなある朝、薄紅梅色の吹雪が舞い始めた。
 時々花弁の一枚一枚が頬に当たって少しくすぐったい。
 俺は少し不思議な気持ちで放課後を迎えた。
 そして、俺達は今二人でバスを待っている。人通りの多い大きな通りに位置するバス停で、まるで二人だけの世界を築くように手を繋いで、バスを待っている。
「ねえ」
 彼女は神妙な面持ちで口を開いた。
「何?」
「何で、誘ってくれたの?」
 彼女は申し訳なさそうな顔をしながら言った。
「なんでだろう。なんとなくそうしたほうがいいと思ったんだ」
 彼女と共に見るのはこれで最初で最後になるかもしれない春を告げる自然の鐘を、俺は彼女と一緒に見たかった。
 そして、覚悟をしたかった。俺の願いが叶わなかった時、彼女を殺す覚悟を。
「そっか。バス、乗り間違えないでよ?」
「ずいぶん他力本願だね。まだ貸しがあったかな?」
 右目が前髪で覆われた俺の視界には、太陽に照らされて紺青色のほうが強く輝きを放っているネックレスを身に纏った彼女の姿があった。
「うーん、そうだな」と悩んでから、彼女は思いついたように「あっ」と声を上げた。
「ヘアピン、持ってる?」
「うん、持ってるよ」
 俺は彼女の言葉に肩から下げられたショルダーバッグの中から雪模様のヘアピンを取り出した。
 すると、彼女は俺からヘアピンを半ば強引に奪い去り、周りの目なんて気にせずに俺の前髪をいじり始めた。
「どうせ君、ヘアピン付けれないんでしょ」
「う、うん」
 そんな話をしているうちに、彼女はあっという間に俺の視界を広々としたものにさせた。
「やっぱこっちのほうが格好いい!はい、これで貸し一つね」
 彼女は気持ちがいいほどの笑みを浮かべながらそう言った。どうやら、彼女の笑顔に弱いのは本当に変わらないらしい。
「承知しました。それでは本日もエスコートさせていただきます」
 俺はそう言って背中に左手を付け、彼女に右手を差し出した。
「苦しゅうない」
 彼女がそう言って俺の手を取った時、ちょうどバスが到着した。
 乗り間違えていないか少し不安に思いながらバスに乗車し、適当な席に座る。もちろん、景色を楽しんでもらうために彼女が窓側だ。
 俺達は会話もなくぎゅっと手を握りしめた。
 沈黙を全く苦に思わないどころか、落ち着きを感じ始めているのは一体なぜだろうか。
 それからしばらく景色を眺めているうちに、「間もなく、モエレ沼東口です」とアナウンスが入った。
 俺はあらかじめポケットに突っ込んでおいた小銭を取り出し、空いている方の手で握り締めた。
 彼女も俺のそんな様子につられて、腹に抱えたリュックから片手で財布を取り出した。
 繋いだ手を離してしまえばきっと小銭も取り出しやすいはずなのに、それでも彼女は俺の手をぎゅっと握りしめながら小銭を取り出し、財布をリュックにしまった。
 それから少し経って、車内の揺れが収まり、扉の開くしゅこーという独特な音が鳴った。
 俺は彼女の手を引いて出口まで向かった。
 小銭を投入口に適当に入れながら車内の階段を降り、地面に足を下ろした。
 少しだけまだ身体が揺られているような感覚に襲われながらも、道を歩いていく。
 もちろん、隣には緊張しているのかより強く手を握りしめる彼女がいる。
 しばらく歩いて、橋にさしかかった。この橋を越えればモエレ沼公園だ。
「わあ!川だ。綺麗」
 彼女は手を離して橋の中心まで走り、川の方に身体を向けた。
 塀に両手をつけてワクワクに満ちた笑顔を覗かせる彼女の顔は、まさにあどけないという言葉が相応しいだろう。
 そんな彼女のそばに駆け寄り、俺も川を眺めてみる。
 そこに広がっていたのは、俺たちを照らすことに少し疲れを覚え始めた頃だろう太陽にしっかりと照らされ、水面が揺れるたびにそれと連動して光がピカピカと動く、確かに綺麗な川だった。
 左手にはガラスのピラミッド、正面には広々とした空間が遥か先まで見通せるほど広がっていて、ほうきでさっと掃かれたように広がる雲は、季節の変わり目を感じさせる。
 彼女はしばらくその景色に見入った後、何かを決心したように身体の向きを園内へと変更した。
 身体の向きを変えただけで、決して歩き出さない彼女に違和感を覚えていると、彼女が「んっ」と言って左手を差し出した。
「ちゃんと言葉にして伝えてくれないとわからないよ」
「言葉にされなくても分かってよ」
「今日だけだよ。それでは、お手を拝借」
 俺の言葉に彼女は満足げに大股で歩を進めていった。
「さて、まずはどうする?もう桜見る?」
 俺の問いに返ってきたのは想像通りの言葉だった。
「ううん!まずはガラスのピラミッドに行きたい」
「そこ、ポテトとアイスが美味しいんだよ」
 彼女の言葉を予想していた俺はそう即答した。
「まだちょっと肌寒いしアイスはいいや」
「じゃあポテトでも買ってあげようか?」
「ううん。ただピラミッドの中を見るだけで十分だよ」
 それならと俺達はガラスのピラミッドへ足を運んだ。
 真っ白な地面に、ガラス越しに空色の壁が広がっているその光景は、美しいの一言に尽きるものだった。
「わあ!すごい、すごいね、光くん」
 彼女は広場の中央でくるりと一回転しながら言った。
「周りのお客さんの迷惑にならないようにな」
 俺の言葉に彼女はもちろんと言いながらまるで子供のように辺りを見回していた。
 そんなところもやっぱり可愛いななんて思いながら俺は近くにあったベンチに腰を下ろした。
 折角彼女がはしゃいでいるのだから、写真に収めておかないと損だと思い、俺は携帯を構えた。
 しっかりとシャッター音は消して、静かにシャッターは切られた。
「光くん!」
 彼女の呼びかけに俺は慌てて携帯を下げ、「何?」と返事をする。
「満足した!」
 随分早い満足に本当に子供みたいだなと思いながら腰を上げ、彼女に近づいて手を取った。
 ガラスのピラミッドを出て俺達が次に向かったのは、サクラの森だ。
 文字通り、桜が咲き誇っている場所で、モエレ沼の春といえばここと言えるほどの名所である。
 サクラの森に着くと、薄桜色と鴇色の並木道が俺たちを歓迎した。
「綺麗!」
 彼女がそう言うと、まるで彼女が来ることを待っていたかのように風が吹いた。
 春を感じる少し暖かな風は、とても心地の良いものだった。
 汚れを知らない彼女達は、舞って舞って、舞い散った後無情にも踏まれていく。
 並木道を抜けると、様々な遊具のある広場にたどり着いた。
 大人や子供が年齢を問わず楽しそうにはしゃぎ回るそこは、桜色に囲まれていることも相まって、まさに桃源郷と言えるだろう。
 俺達は颯爽と広場を抜け、桜と緑に包まれた空間を訪れた。
 少し背の高い草は、やっと履くことができたスニーカーの背丈を超えて俺達の足首をくすぐってくる。
 しかし彼女はそんなことはお構い無しというように笑いながらそこら中を駆け回っていた。その様はまさに運命の王子にでも連れ出された囚われのお姫様でも見ているかのようだった。
 白色のワンピースを身に纏った彼女は桜との相性が良く、本当に桜のお姫様のようだ。
 風が吹くたびに彼女は「少しも寒くないわ!」と言って風向きに合わせて手を上げ、あたかも自分が桜吹雪を操っているかのように見せた。
 そんな彼女の姿をしっかりと写真に収めながら、俺は彼女について回った。
 数分、あるいは十数分ほどはしゃぎ回った後、彼女はふと我に返ったようにピタッと立ち止まった。
 周りの木々からは孤立した、一本の太い桜の木に彼女は手を伸ばした。
 幹に触れ、まるで慰めるように優しく撫でる彼女の姿は、豊穣の女神のようだった。
 でも、彼女は一人の人間だ。この世で彼女にしか味わうことのできない苦しみを抱えた、たった一人の女の子だ。
「ねえ」
 彼女は静かにそう声を発した。
「何?」
「この花が全部散ったらね、私は死んじゃうんだ」
 彼女が口にしたのは、どこかの物語で耳にしたことのあるフレーズだった。
「なんてね」なんて言葉が聞こえてくることはなく、彼女はただ一人で幹を眺めていた。
 彼女の本心、それどころか表情すらわからない俺には、なんて声をかけていいのか分からなかった。
 いっそのこと生きようなんて言葉をかけられるほど、俺は彼女と話ができていない。
 俺は彼女のことをまだまだ何も知らなかった。そのことを改めて実感した。
「なあ」
 色々考えた末に、俺はそう言葉を発した。
「何?」
「この花が全部散ったら、俺は君を殺すんだ」
 本心、とはもはや言い切れない言葉だった。
 でも、俺は彼女に本音を話すことができない。愛しているから生きてほしいなんて無責任な言葉を俺は彼女に伝えることができない。
 彼女はふふっと微笑みながら振り向くと、どこからともなく舞ってきた桜吹雪が彼女を覆った。もしくは、俺の両目が覆われたのかもしれない。
「―」
 彼女は小さく何かを呟いた。でも、その呟きは俺の耳に届くことも、目に入ることもなかった。
 彼女が一体何を言ったのか、何を思っていたのかすらも、この時の俺には分からなかった。
 それを聞く勇気すら、俺には起きなかった。

 でも、今の俺には分かる。彼女が何を言おうとしたのか。
 それは―

 君の命の花が散る頃に、俺は呼び出された。普段は閉鎖されているはずの屋上に。
 いつかと同じ部活動休養日の学校は、窓から差し込む夕陽によって照らされていた。
 最上階の隅にある古びた金属製の扉に手をかけた。
 開かないことを期待しながらドアノブを捻るも、カチャッと音を立てて扉は開いた。
 小さな足跡だけが付いた薄暗く小汚い階段を登る。
 屋上に続く扉の小窓から入る暖色の光は、小さな埃の粒を扇形に映し出している。
 階段を登り切り、屋上へ続く扉に手をかけた。
 バクッバクッという音が耳に届くほど、心臓が大きな音を鳴らしている。
 怖い、逃げたい。そんな気持ちが頭の中を支配していく。それでも、俺の心はそれを許さなかった。
 そして、俺は扉を開けた。
 落下防止柵なんてものはなく、開けた視界を向日葵色の空が覆っている。
 左手には太陽が沈んでいるのが見えて、右手には人影があった。
 過酷な環境下でも毎日必死に手入れしているであろう髪は、太陽の光をしっかりと反射し、オレンジ色に光っている。
「来ないかと思ったよ」
 彼女は振り返ることもなく穏やかな声でそう言った。
「じゃあ、早速用件を言うね」
 この言葉に、俺は聞き覚えがあった。
 次に放たれる言葉にも、見当がつく。
「君、私のこと消してよ」
「…」
 彼女の言葉に俺が真っ先に返したのは沈黙だった。
「私のことを消してって言った?」
「…うん」
「分かった。君を殺すよ」
 俺はそう言って屋上の端に佇む彼女に近づいた。
 俺が彼女に手を伸ばした時、彼女が思い出したように言った。
「あ、そうだ。これだけは伝えておかないとね」
「何かな?」
「私、君と一緒なら生きてもいいと思ったよ。でもね、私はずっと一緒なんて言葉を信じられないの。だから私は幸せなうちに死にたかったんだ。だから、君が君の手で私を幸せにしてくれている間に、君が、君の手で私を殺して」
 ようやく彼女の本音が聞けたと思った。
 でも、それはもう俺にとっては遅かった。
 今更生きてもよかったなんて言われても、もう俺には彼女を殺すことしかできない。
「うん、任せて」
 彼女は俺の言葉に肩を震わせ始めた。そして、そんな自分を落ち着かせるためか何なのか、深く息を吸って吐いてを繰り返している。
「最期に何か言い残すことは?」
「光くんのこと、愛してる」
 そう即答した彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちたことを俺は見逃さなかった。
 俺は手を伸ばした。
 両手を彼女の背中に当てた。このままぽんっと押してしまえば彼女は真っ逆さまに落下するだろう。
「あっ」
 彼女は声を上げた。
「俺も、君を愛してる」
 俺は彼女を強く、殺してしまうんじゃないかと思うほどに抱き締めた。
「なん、なんで」
 彼女は困惑したように、怒ったように言った。
「何でって何?」
「だって、君は私が何を言っても絶対に殺すとしか言わなかった。だから私は覚悟してた。幸せな死を覚悟してた。なのに、なのに何で君は私を抱き締めてるの!!」
「ごめん。それは俺が悪かったよ。でも、本心で話すのが怖かったんだ。俺は大晦日の夜からずっとこうしたいと思ってた。もちろん、君がそれでも死にたいというのなら俺はしっかりと君をここから突き落とすよ」
 俺の言葉に彼女は俺の腕をガシッと掴みながら言った。
「じゃあ、君の本心は何なの?ずっと一緒にいるとか、永遠に君を愛するとか、そんな言葉を言うの!?」
 彼女にとってその言葉はきっといつか解ける魔法のようなものなんだろう。だから俺はそんな事は言わない。
「君を、一生殺し続けるよ」
「え?」
「消えたいと思う君を、死にたいと願う君を、僕はずっと殺し続ける。もし殺せなくなったら、その時は必ず僕が君をここから落とす」
「僕は、一生君だけの殺し屋だ。君だけを殺し続ける。だって、報酬も約束されているしね。ただ働きってわけじゃないし、今まで君を粗末に扱ってきた連中よりは信頼があるんじゃないかな」
「でも、もし仮に私のことを殺し続けてくれるとしても、それを続ける限り報酬は支払えないよ」
「じゃあ、先払いしてもらおうか」
「えっ―」
 僕は彼女の唇を奪った。
「んっ」
 彼女は目を見開いた後、目を閉じた。その目からは、涙が滴り落ちていた。
 プルプルと震えていた彼女の身体も、手も、唇も、瞳も、次第に大人しくなっていった。
 何秒、何十秒、何分間キスをしていただろうか。俺達は自然と距離を取った。
「困ったな、こんなんじゃ支払い切れないよ」
 彼女はそう言って笑ってみせた。
 そんな彼女には既に生きる希望があるように見えた。でも、まだ足りない。
「なら、もう一つ先に支払ってもらおうかな」
「何?」
「君の一生を俺にくれないか?」
 彼女は目を見開いた。混乱しているように。でも、そんな彼女の瞳はすぐにキラキラと輝いた。
「そんなことでいいの?」
「あぁ。それに、それが報酬なら俺はずっと君のそばにいなきゃいけなくなるだろ?」
「何その言い方。私と一緒にいたくないの?」
「ううん。ずっと一緒にいたいよ」
「信じられないかも」
 彼女はそう不安そうに言った。
 これは失敗したと思った俺は、すぐに挽回することにした。
 俺は再び彼女の唇を奪った。
 先程よりも潤った唇は、俺の唇を快く受け入れてくれる。
 しばらくの間抱き締めあった後、俺たちは距離を取った。
「これで信じてくれるか?」
「私、馬鹿だから君のことほんとに信じちゃうよ?」
「うん」
「浮気したら突き落とすよ」
「うん」
「私、重たいよ」
「うん」
「私、世界で一番君のことが好きだよ」
「うん、俺も好きだよ」
 俺の言葉に彼女は俺に飛びついた。
 不意を突かれた俺は尻餅をつくが、そんなことは気にも留めずに彼女を抱き締め返した。
 俺はこのときこの瞬間に、消えたい君を殺した。そして、これからも何回だって殺してやると誓った。
 夕陽に染まる目も、涙の筋も、彼女の全てを俺は愛すると誓った。
「ねえ」
「何?」
「ありがとう、光くん」
 彼女は今まで見たどんな笑顔よりも素敵で綺麗な満面の笑みを浮かべていた。
 次は泣かせないという誓いを果たすことはできなかったけれど、これは不可抗力というやつだろう。
 これからの長い人生で、一度も彼女を泣かせなければいい。ただそれだけの話だ。
「ルナ」
「何?」
「愛してる」
「私も愛してる!」
 俺は、君の命の花が散る頃に、消えたい君を殺した。
 そして、これからも―。
 あの日からもう十年以上が経った。
 俺は今でも両親、聖、そしてルナと仲良くやっている。
 さすがに両親はそろそろ歳だけど。
 俺はルナと同じような境遇の人を一人でも救いたいと思い、カウンセリングの仕事を始めた。
 始めたばかりの頃は色んな人間が彼女とリンクして辛くなったけれど、今ではやりがいを感じている。
 でも、勘違いしないでほしい。
 俺は死ぬことが間違っているとは思わない。
 どうしても辛いのなら死ぬこともやむを得ないと思う。でも、それでも俺は今日死ぬ勇気よりも明日を生きる勇気を出してほしいと願っている。
 その上で死にたいと心の底から思ったのなら、それは仕方がないと思う。
 でも、まだ未来に希望を少しでも持っているのなら、俺は生きてほしい。
 この世界に価値のない人間なんていないし、幸せになる権利がない人間なんて居ないのだから。
 これは綺麗事じゃない。それを証明するように、俺は今でもルナを愛し続けている。
 今日も、家に帰ったら彼女が夕飯を作って待ってくれている。
 もちろん、休日はしっかり家事をやっているし、部屋の片付けも定期的に行っている。決して亭主関白などではない。
「いやぁ、最近は電子書籍化が進んできたな」
 俺は今、聖と居酒屋に来ている。
 聖は今でも七三カットが特徴的なままだ。
「そうだな。近くの本屋も軒並みなくなっちゃうし」
「いやほんとになー。街まで行かないと本屋無いんだから。大変な世の中だ」
「それはそうと、今度はルナちゃんも連れて三人で飲みに行きたいな。昔みたいに感想会しようぜ」
 こいつはいくつになっても本当に変わらないななんて思いながら「そうだな」と返事をした。
「じゃあルナが待ってるからそろそろ帰るわ、また誘ってくれ。俺からも誘うから」
「うい!またな!」
 そう言って俺は帰路についた。
 今年の春も変わらず桜吹雪が宙に舞っている。
 今ではもう桜には綺麗だなと言う感想しか浮かばなくなってしまったが、それでもこの季節になるとあの日のことをまるで昨日のことのように思い出す。
「約束、ちゃんと守ってるだろ?」
 誰に言うわけでもなくそう呟くと、まるで頷くように木々が揺れ動き、再び桜吹雪が舞った。
 少しいい気分で家の門を開き、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
 リビングにいるであろう彼女に届くくらいの声量で言うと、ダッダッダッと駆けてくる足音が聞こえる。
 そして、リビングに続く扉が開いた。
 後ろで綺麗にまとめられた長い髪の毛に、綺麗な笑顔が特徴的な彼女は俺を見るなりこう言った。
「おかえり!」
と。

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