私と先輩のキス日和

久子の炎上に関するネットニュースの記事を見たのは、笑理も同じであった。
クライマックスを迎える新聞連載小説の執筆の途中、参考資料を調べるためにネットを立ち上げたとき、記事の存在を知った。
「ああ、炎上してるよ」
笑理は呆れたように、記事を閲覧した。また、他のメディアやネットニュースでも、同じような内容で、久子の記事がアップされていた。誤字脱字や乏しい文章力を批判した久子のことが書かれている記事そのものが、誤字脱字や文章力が酷いのが何とも皮肉であると、笑理は記事を見ながら思っていた。と同時に、久子の担当をしている梢のことも心配になっていた。
「梢、大丈夫かな……」
久子のことを考えるとバカバカしいと思ったが、梢のこととなると話は別である。笑理はスマホを手にすると、梢を気にかけるLINEを送り、再び執筆作業に取り掛かった。

梢は、自ら久子の新作原稿をプリントアウトしたうえで一通り読み終わった後、その原稿を高梨にも渡した。高梨もその場で原稿を読み終えたようで、梢はミーティングルームに呼ばれた。
「悔しいが、作品のクオリティは間違いないな」
「ええ、私もそう思います」
梢も高梨も、その考えは同じであった。人間性に難ありな久子だが、やはり長年文芸の世界に足を踏み入れているだけあって、作品の質は期待以上のものだった。
「来月の出版会議では、形式的に承認を得ることにしよう。西園寺先生には、フライングしたことはちゃんと伝えておく。承認を得てから、山辺君も本格的に西園寺先生と作業を進めてくれ。だが今回は、作業時間を多めに見積もっておいた方が良いだろう。またどこで、炎上するか分からないからな」
「はい、よろしくお願いします」
ミーティングルームから戻った梢は、デスクに置いてあるパソコンで充電をしてあったスマホを手に取り、そこで初めて笑理からLINEが届いていることに気がついた。
『大丈夫? いつでも、うちにおいで』
短い一文ながら、梢は笑理から伝わる深い愛情を感じていた。今すぐにでも笑理に会いたい衝動に駆られた梢は、『今晩、マンション行っても良い?』と返信をした。するとすぐに、笑理からメッセージが届いた。
『OK。いつでも待ってるね』
週末ながら久子の炎上という爆弾と向き合わなければいけなかっただけに、今日の仕事終わりに笑理に会えるということは、梢にとっては何にも代えがたいプレミアムフライデーだった。
笑理のマンションに向かう途中で、梢はコンビニに立ち寄り、何本もの缶チューハイや、カルパスや柿の種などのおつまみを購入した。決してアルコールが強いわけではない梢だったが、久子の件もあり、今日は飲みたい気分だった。
「いらっしゃい」
ドアを開けて迎えた笑理を見るなり、梢は笑理に抱き着いた。
「会いたかった、笑理」
「はいはい。さ、上がって」
笑理に促され、梢はそのまま中へ入った。
「今日は随分飲むつもりなんだ。まあ、無理もないか。あのババアのこともあるんだから」
梢の持っているコンビニの袋を見て、笑理は苦笑して言った。
「だって、飲まなきゃやってられないんだもん」
梢は膨れっ面で呟く。
「今日は私も付き合ってあげる。さ、飲もう」
テーブルに缶チューハイとおつまみを並べ、梢と笑理は二人だけの飲み会を始めることになった。

一方、駅前にある個室居酒屋には、仕事終わりの高梨が来店していた。店員に席を案内されると既に久子が来ており、掘りごたつに足を延ばしながら、焼き鳥をつまみにして、中ジョッキのビールを飲んでいた。
「和彦、待ってたわよ」
高梨は呆れたように、向かい合うように座ると、
「だから、下の名前で呼ぶなって言ってるだろ。今日は、仕事のことで君に言いたいことがあって時間作ってもらったんだから」
店員に芋焼酎のソーダ割を注文すると、高梨は仕事の顔になった。
「今日、うちの山辺君宛に、最新作の原稿送っただろ?」
「あら、見てくれたの」
「相変わらずのクオリティで感心するよ、悔しいけどな」
「そりゃ、あなたのおかげで、私はここまで来れたんですもの」
久子は呑気そうに言っていたが、高梨は不機嫌そうに煙草を吸い始めた。
「作品のことは評価するさ。だが、まだ出版会議の承認も得てないのに、フライングで執筆するのはやめてもらえないか。作品ありきで企画を進めるようなことはしたくない」
「私たち、もう二十年近い長い付き合いなのよ。それぐらいのこと良いじゃない。あなただって、今や『ひかり書房』の文芸部長なんですから」
軽くあしらう久子に対して、高梨は続けて、
「でもな、お互いの立場を考えたうえで、もっとフェアに行かないと」
「あなたも変わったわね。昔は、置きに行くようなタイプじゃなかったのに」
お互い還暦を間近に控えて少しは落ち着いたかと思ったが、二十年近く経ってもかつての愛人の性格は全く変わっていなかったと、高梨は呆れ顔で久子を見つめていた。
何本も買った缶チューハイは、ほとんどが空き缶になっていた。
ゆっくり飲む笑理に対し、今日の梢のペースは速かった。
「梢、飲みすぎじゃない?」
笑理は心配そうに声をかけるが、梢はそれでも飲み続けていた。
「だって、今日は飲みたいんだもん」
メトロノームのように、体を左右に揺らしながら、梢は缶チューハイを飲み続けている。顔もほんのり赤くなっており、酩酊状態になるのも時間の問題で、笑理は心配そうに梢を見つめた。
「まあ、あの西園寺久子に振り回されたら、飲みたくなる気持ちも分からなくないけどね」
「でしょ。最初はさ、西園寺先生の作品が好きで、担当になったときは嬉しかった。でも、いざ仕事の付き合いを始めたら、自分勝手だし、感情の起伏激しいし、何より画が強いし……。もうあんな人に振り回されたくない」
梢が大きな溜息をついて顔を伏せると、笑理は優しく梢の頭を撫でた。
「苦労してるんだね、梢は……」
もう一度梢は勢いよく顔を上げた。
「ねえ笑理、キスしよう」
笑理が返事を返す前に、うつろな目になった梢から唇を奪われた。梢は笑理の首元に腕を回しており、しばらく唇を離さなかった。
「ありがとう」
ようやく唇を離し、デレデレと酔いが回った梢を見て、笑理はそんな梢の姿が愛おしく思えた。
「何か、暑くなってきちゃった」
梢はブラウスを脱ぎ、キャミソール姿になった。
「梢、今日はもう寝よう」
「うん」
笑理は、千鳥足になっている梢を抱えながら、寝室のベッドに寝かせた。あっという間に梢は、スヤスヤと眠ってしまった。梢に布団をかぶせ、梢の額におやすみのキスをした笑理は、そのままリビングに戻ると、空き缶やおつまみのごみを片付け始めた。

翌朝、目を覚ました梢が体を起こそうとすると、激しい頭痛に襲われた。
梢は昨晩の記憶が曖昧で、自身がキャミソール姿のまま眠っていることに驚いていた。そこへ笑理が入ってきた。
「おはよう、起きた?」
「私……昨日、何かした?」
「覚えてないの、昨日のこと?」
「うん」
「私にキスしたんだよ。しかも私の首の後ろで腕組んで、しばらく唇離さなかったんだから」
笑理は苦笑しながら話した。
「嘘……」
梢は唖然顔になった。
「それに、暑くなってきたって言って、自分から服脱いでさ。私、ちょっとドキッとしちゃったよ」
「……ごめんなさい」
笑理に向かって、梢は深々と頭を下げた。
「良いよ。昨日は、飲みたかったんだもんね」
梢は小さく頷いた。
小さくソファーに座っている梢の元に、笑理がインスタントの味噌汁を運んできた。
「はい、しじみの味噌汁。飲むとスッキリするよ」
「ありがとう。作ってくれたの?」
「まさか。さっき、コンビニ行って買ってきたの」
梢は味噌汁を一口飲むと、ホッと溜息をついた。
「美味しい」
「昨日は相当飲んでたね」
久子の愚痴を言いながら缶チューハイをいくつも飲んだことは覚えているが、いつ自分がブラウスを脱いだのか、どうやって寝室まで行ったのか、梢の記憶は途中から曖昧だった。
昨晩の記憶を思い出そうとしていると、梢は突然笑理から肩を抱かれた。
「ねえ、今お風呂沸かしてるの。一緒に入ろうか?」
「えッ……一緒に?」
激しく梢は動揺し、胸の鼓動が早くなる。
「人前でブラウス脱いだ人が、そんなに動揺する?」
笑理がからかうように言った。
「それは言わないでよ……」
「私たち、付き合ってるんだよ。裸の付き合いもしなきゃね」
笑理に言われるがまま、梢は一緒に風呂に入ることになった。
浴槽の中で背後から笑理に抱き着かれている梢は、緊張と幸福の二つの感情が交差し、風呂湯の暖かさと笑理の体の暖かさを同時に肌で感じながら、うっとりしていた。
「たまには、こういうのも良いでしょ」
耳元で笑理にささやかれて、梢は照れながらも大きく頷いた。
「うん。ちょっと恥ずかしいけど」
「私は全然恥ずかしくないよ」
「すごいね、笑理は」
「これからも、うちに泊まりに来たときは、一緒にお風呂入ろうね」
梢と笑理はお互いにじっと見つめ合うと、優しく唇を重ね合わせた。笑理と一緒にいるときは、仕事のことも何にもかも忘れることができ、改めて自分にとっての大切な人であることを実感していた。
「酔った時の梢って、結構積極的なんだね」
「え?」
自分から笑理にキスをした記憶も、梢はうる覚えだった。
「シラフの時も、梢からキスされたいな」
「私だって、やろうと思えば、それぐらい……」
「本当に?」
笑理から挑発するような目で見られた梢は、笑理の両頬に優しく手を当てると、ゆっくりと顔を近づけて唇を奪った。
笑理は一瞬驚いた様子だったが、
「何だ、やればできるじゃん」
「当たり前でしょ」
「あ……来週、どっか一緒に出かけようよ」
すると笑理は思いついたように思いがけない提案をしてきた。
「それって、デートってことで良い?」
「ああ、確かにデートだね」
梢にとって、笑理とのデートと言う、新たな楽しみができた瞬間であった。
笑理のもとで酔いつぶれた事件からの一週間、梢は土曜日に控える笑理とのデートを楽しみに、仕事に打ち込んでいた。久子への対応も、都度高梨に相談をしながら一緒に行うことができたので、少し気が楽になっていた。
仕事をしながらも、頭の中に笑理のことを浮かべてしまっているのか、ある日高梨から不意に、
「何か良いことでもあったのか?」
と、尋ねられたことがあった。
笑理とデートをするなど、上司には言えなかった。
「いえ……西園寺先生の件で、高梨部長が間に入ってくださってるので、安心しちゃってるんです」
もっともらしいごまかしができたと、梢は我ながら思った。
「経験として、西園寺先生の担当を山辺君に任せようと思ったんだが、やっぱり気が重い仕事だったかな」
「そんなことありません。西園寺先生のような大物作家の担当をさせていただけて、ありがたいと思ってます」
「まあ、君がそう言うなら良いが、無理はしないようにな。これからも、彼女のことで何かあったら、俺に相談してくれ」
「ありがとうございます」
ここ数日、久子の言動は割かし大人しくなっていた。恐らく高梨が、久子に何か言ったのだろうとは梢にも想像ができていた。
「西園寺先生に、何か仰ったんですか?」
「別に。大したことは言ってないさ」
高梨は苦笑したが、上手く説得をしたのではと梢は思っていた。

先週、仕事終わりに個室居酒屋の久子のもとを訪れていた時、高梨は強く忠告をしていたのだ。
「は? 本気でそんなこと言ってるの?」
久子は呆れ顔で言ったが、高梨は動じず、
「俺は文芸部長として、『ひかり書房』の小説部門の統括をしなければならない。立場上、部下や後輩を守らなきゃいけない責任もある。だからこそ、これ以上、うちの社員を困らせるようなことをすれば、今後『ひかり書房』で、西園寺久子の小説は出版させない」
久子は一瞬ムッとしたが、すぐ鼻で笑った。
「そんな権限まで持てるようになったんだね。相変わらず、誰かを庇うためなら一人の人間も犠牲にするんだね」
かつての愛人から言われたこの言葉は、高梨にとっては耳の痛いことだったが、今は何よりも梢をはじめ、部下や後輩を守ることが最優先だった。久子の作品を出版しないとなれば、それこそ上層部から何を言われるかは大いに予想できた。しかし、久子に振り回されてまで、彼女の作品を『ひかり書房』で出版する必要はないというのは、高梨にとっては本音に近い考えであった。
金曜日の晩から、梢は明日のデートが楽しみで、まるで小学生の遠足前日のように寝付くことができなかった。笑理と再会してからというもの、マンションでお泊まりをしたり、笑理の小説を借りるのを口実に公私混同で会っていたが、デートというのは初めてであった。
そして翌日。寝不足ながらも早起きした梢は、私服選びに苦戦していた。笑理とは何度も会っているが、デートとなると話は別で、街を笑理と一緒に歩いて恥ずかしくないものにしなければいけないと、使命感のようなものがあった。
髪をセットし、化粧も完璧にした梢は急ぎ足で、集合場所である駅に向かった。

改札口を出た梢は、遠目ながらも噴水の前で佇む笑理の姿に気が付いた。クリーム色のシャツに、紺色のテーパードパンツ姿の笑理は、スタイリッシュな大人コーデで、細く見えるシルエットがより魅力的だった。かたや時間をかけて決めた梢のファッションは、デコルテから肩までが出ている白のオフショルダートップスに、デニムのロングスカートである。
「笑理!」
と、梢が大きく手を振ると、気づいた笑理も微笑んで手を振り返した。
「ごめんね、遅くなって。服装どうしようかと思ってたら、時間かかっちゃって」
「可愛いよ」
笑理にそう言われると、梢の顔には思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
笑理に手を握られ、梢は一緒に街を歩き始めた。

土曜日の街は、家族連れや友人連れ、カップルなど、人ごみであふれていた。その中で、梢と笑理が手を繋いで歩いていても、決して違和感はなかった。
映画館で映画を見た後、二人はオープンカフェに足を運んだ。注文したパンケーキを食べながら、笑理がふと呟いた。
「私ね、いつか自分の書いた小説がメディアミックス化されるのが夢なんだ」
「笑理の小説……いや、三田村理絵先生の小説なら、そろそろ映像化されても良いのにね」
「まあ、世の中そんなに甘くないか。恋愛小説なんて、この世に五万とあるわけだし」
「知名度をもっと上げて、今にいろんな作品が映像化されるのが当たり前みたいになれるように、私も編集者として頑張るから」
「ありがとう。梢は、何か夢とかあるの?」
笑理に尋ねられ、梢は考え込んだ。編集者という仕事を天職と思っている梢には、具体的な夢がなかったのだ。
「何だろう……一つでも多く作品を世に出したい、かな」
「さすが編集者だね」
「まあね」
梢は微笑みながら、アイスコーヒーを飲み干した。
喫茶店の帰り道、梢と笑理はアンティーク雑貨店に足を運んだ。陶器やステンドグラス、ガーデニング用品、アクセサリー等、豊富な品揃えで、二人にとっては目の保養になっていた。
商品を見ていくうち、笑理はバラの花をあしらった合金製のブレスレットを見つけた。
「これ、二つください」
と、笑理は店員に頼み、ラッピングをしてもらった。ふと振り返ると、梢は物珍しそうに、陳列されている食器を眺めていた。笑理が梢の元にやってくると、
「何か、気になるものあった?」
「可愛い食器だなと思って。せっかくだから、二枚買っちゃおう」
「二枚?」
「笑理がうちに遊びに来てくれた時、お揃いの食器があったら良いでしょ」
梢は嬉しそうに言うと、金色のステンシル柄が縁取りされた白い皿を持って、レジへ向かった。

夕方になり、梢と笑理は水族館を訪れた。水中を泳ぐイルカをガラス越しに眺める笑理の横顔が美しく見え、梢は思わず見とれていた。そんな視線に気づいたのか、笑理は梢の方を振り向いた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
梢は慌てて首を横に振った。だが、それでも梢は、笑理の横顔を眺め続けていた。
一通り水族館を回り終わって外に出ると、辺りは薄暗くなり始めていた。
「ちょっと早いけど、夕飯食べに行こうか」
「うん」
「何食べたい?」
「ええ、何だろう。お肉かな」
梢が少し考えてそう言うと、笑理は手を一回叩き、
「肉バルとか、どう?」
「賛成!」
「ちょっと待ってね、すぐ調べるから」
マップアプリを起動させると笑理は歩いていき、梢も後に続いた。

土曜日ということもあり店は少し混んでいたが、数分待つとすぐに席へ案内された。
赤ワインで乾杯をした後、梢と笑理は注文した肉の盛り合わせやアヒージョを食べ始めた。
「美味しそうに食べるね、梢は」
「だって美味しいんだもん」
「そうやって美味しそうに食べる梢の顔、好きだわ」
じっと笑理に見つめられ、梢は照れくさそうにうつむいた。
「笑理だって、さっき水族館でイルカ見てたときの横顔、美しすぎたよ」
「そんなことないって」
「推しが尊いって、こういうこと言うんだろうなぁって」
「おんなじ言葉、そっくりそのまま返す。私にとっての推しは、梢だから」
ワインを飲んだことで、お互い饒舌になったのか、梢も笑理も雰囲気を楽しみながら食事を共にした。梢はもはや、笑理が部活の先輩であり、自分が編集担当をしている作家であることも忘れるほどだった。
夕飯を終えた梢と笑理は、美しい夜景が輝く港沿いの広場を歩いていた。途中、立ち止まって、そよ風を受けながら港を眺めていると、梢は、
「そういえば、今日雑貨店行った時、何買ったの?」
と、尋ねた。すると笑理は紙袋を開け、購入したバラのブレスレットを見せた。
「これ買ったの」
「可愛いじゃん」
「手、出して」
笑理に言われ、梢が手を前に差し出すと、手首にブレスレットをつけられた。
「私に?」
笑理も自分の手首にブレスレットをつけ、
「二つ同じやつ買ったの。お揃いにしたくて」
「笑理……」
アクセサリーをもらった梢は嬉しく、じっとブレスレットを見つめた。
「写真撮ろうよ。最初のデート記念に」
「うん」
笑理がスマホのカメラを自撮り機能にすると、梢は自分もカメラに映るように笑理にべったりと体をくっつけた。幸せそうにカメラに映る梢と笑理は、まさに付き合いたてのカップルそのものであった。
「ねえ、ここでキスしようか」
梢はハッとなった。
「え、ここで?」
「この時間になると、全然人もいないしさ」
梢は辺りを見回した。夕方はカップルが多いこの場所も、夜も九時半を回れば、人影は全く見受けられない。自分たちしかいないことを再度確認すると、
「うん……良いよ」
梢は瞼を閉じると、ゆっくりと顔を近づけてキスをする笑理を受け入れた。夜の気分ということもあるのか、梢はまだ笑理と一緒にいたい気持ちに駆られた。
「そろそろ、帰ろうか」
「笑理……。今日は、まだ笑理と一緒にいたい」
「一緒にいてくれるの?」
「うん」
笑理は一瞬何かを考えると、目の奥から真剣な眼差しとなった。
「あのさ……。私、梢と一緒に行きたいところがあるの」
「行きたいところ?」

「ひろーい!」
梢はダブルベッドにダイブした。笑理が行きたいと言っていた場所は、繁華街の中にあるラブホテルだった。
「真面目な顔するから、どこかと思っちゃったじゃん」
「梢に、ラブホテルに行きたいって言ったら、断られるんじゃないかと思ってさ」
「好きな人と一緒に行くんなら、問題ないでしょ」
梢は仰向けになると、体を大の字に伸ばした。するとその上から笑理が迫ってきた。
「梢。私、我慢できない」
笑理が勢いよくキスをしてきたので、梢は驚いて拒んでしまった。だがそれでも笑理が、梢の両腕を頭上で押さえつけ、自らの足で梢の両足も押さえ、何度も唇を重ねていくことに対して、梢も次第に笑理の積極性を受け入れてしまった。
シャワーを浴びた後、梢は脱衣所にあるバスローブに身を包んだ。睡眠時はパジャマしか着たことがなかった梢にとって、初めてのバスローブだった。
ベッドのほうへ戻ってくると、先にシャワーを浴びた笑理が、同じようにバスローブ姿で小さく座り込んでいた。
「どうしたの、笑理?」
「ごめんね、さっきは」
「何で謝るの?」
梢は微笑むと、笑理の太ももの上に跨った。
「梢……」
「さっきは心の準備ができてなかったけど、今なら大丈夫だよ」
「良いの?」
「うん」
優しく梢が頷き、二人はそのままベッドに横たわった。
「梢って、前よりずっと可愛くなったね。いや、綺麗になった」
笑理に唇を撫でられて、梢は照れくさそうに微笑んだ。
「笑理といるんだもん、美意識ってうつるのかもしれないね」
笑理はまず、梢の額に一度キスをすると、そのまま唇、そして首筋にキスをした。笑理からの愛撫を受けている梢には、これまで感じたことのないゾクゾクした感触が襲い、思わず息が漏れてしまった。笑理は愛撫を続け、梢は鼻息を荒くしながらもグッとシーツを強く握りしめた。

翌朝、床には二枚のバスローブが落ちていた。
ベッドで笑理と体をくっつけて眠っている梢が、ゆっくりと目を覚ました。目の前に映る笑理は、まだぐっすりと眠っていた。梢はふと、昨晩の情事を通じて本当に笑理と結ばれたものだと実感していた。また、自分の手首のブレスレットと、笑理の手首についている同じものを見つめ、昨日のデートの余韻に浸っていた。
すると腕を伸ばして大きなあくびをしながら、笑理が目を覚ました。
「おはよう」
梢がささやくように言い、笑理も微笑んで、
「おはよう。よく寝たわ」
「朝風呂入ろうよ。ほら、浴槽大きかったじゃん」
「うん、入ろ」
浴槽の湯が溜まり、風呂に入った梢と笑理はお互いに足を伸ばした。
「あのさ、笑理。またデートしてくれる?」
「当たり前じゃん」
「やったー!」
梢は腕を高らかに上げた。これでまた、仕事をするための張り合いができたのだ。自然と笑みが顔に浮かんでくる。
「梢、ちょっとおいで」
笑理に手招きをされて梢が体を近づけると、そのまま笑理にキスをされた。
「おはようのキス、してなかったなと思って」
「じゃあこれからは、おやすみのキスもしてくれる?」
照れながらも梢が尋ねると、笑理は大きく頷いて、
「うん、ちゃんとする」
笑理に抱き着いた梢は、笑理との関係性が日に日に深まっていくことを何よりも肌で感じていた。