「ただいま……」
疲れ切った恵が家に帰っても迎える人間は誰もいない。恵は大きなため息を吐いた。それは失望からではなく、安堵の息だ。誰もいない方が楽でいい。母がいてもストレスがたまるだけだ。
両親の仲は冷え切っている、と恵は思っている。それどころか完全に崩壊しているとすら。父である洋太は家に金を入れこそするものの単身赴任の地から全く帰ってこない。そもそも単身赴任に行く前から仕事ばかりで家に寄りつこうとしなかった。恵は生活費とは別に自分名義の口座へ定期的に父から振り込まれる金額を思い出してため息を吐く。きっと父は会社員としては優秀なのだろう。しかし父親としては、母の夫としてはどうなのだろうか。
恵の母、玉緒は男に依存しないと生きていけない人間である。恵が幼いころは夜中にしか帰ってこない洋太を毎日のように怒鳴りつけていた。洋太は何も言い返さなかったが、恵にはうんざりした顔をしていたように思えた。怒りをぶつけられるのを嫌ったのか、洋太は家にどんどん寄り付かなくなり最終的には単身赴任を勝手に決めてしまった。そして依存先がなくなった玉緒は外に男を求めた。自宅にまで連れ込むようになったのは、もしかしたら自分を壊した洋太への復讐なのかもしれない。
恵は嫌な記憶を振り払うように首を横に振る。今は二人の心情やら事情を考えている暇はない。とにかく母が帰ってくる前にご飯を準備して、できれば寝る支度まで済ませてしまいたい。そう思い恵が冷蔵庫を開けたところで、玄関のドアが開く音がした。
「ね、寄ってってよぉ」
「えー、旦那さん怒らないの?」
「帰ってこないんだから大丈夫よぉ。ね、まだ亮君と一緒にいたいなぁ」
しまった、母が帰ってきた。それも浮気相手と一緒に。恵は慌てて冷蔵庫からハムのパックを掴んで階段をのぼる。母と顔を合わせると面倒だ。それも男を連れて帰ってきた時は殊更。どうにか母に見つからず部屋に入るとできるだけ音を立てないようドアを閉める。どうにかこの家にもう一人いることに亮君とやらが気が付きませんように。恵は必死に祈ったが、祈りむなしく男の声が階下から聞こえた。
「なんか音しなかった?」
「……気のせいでしょ。さ、これからどうしましょう。とりあえずワインでもいかが?」
「んー、酔っちゃうとできないかもしんないから、シャワーがいいな」
「えー、若いんだから大丈夫でしょ?」
「うーん。なら玉緒さん一緒に入ろ。ワインは終わってからでもいいじゃん」
「あら、亮君たら手が早いわね」
二人の声が浴室の方へと消えていくのを聞いて、恵は安堵の息を吐いた。どうやら母の怒りから逃れることはできたらしい。しかしシャワーと性交渉、それから晩酌。私はその間母の浮気相手に見つからないように息を殺していないといけないのか。恵はすっかり空っぽな腹をさする。部活終わりの空腹を満たすのにハム四枚では全く足りない。しかし二人が風呂に入っているからと台所へ忍び込むのは怖かった。
母親の新たな恋人と思しき男に存在を気取られないよう、恵は細心の注意を払いながら布団に潜り込む。そしてサイドボードに手を伸ばすと百円均一で買った耳栓を耳に突っ込んだ。音を立ててはいけないが、静かにしていると階下の音が聞こえてしまう。母や見知らぬ男の盛りがついた声など、恵は絶対に聞きたくなかった。恵は空腹で鳴りそうになる腹をぐっと押さえつけながらスマートフォンの画面に表示された時刻を睨む。今日、亮君とやらは家に帰ってくれるのだろうか。それともこの家に泊まっていくのだろうか。泊まるにしても何時に出ていくだろう。私は朝練に行けるだろうか。いやそれどころか登校すらできないかもしれない。恵の悩みは尽きない。
疲れ切った恵が家に帰っても迎える人間は誰もいない。恵は大きなため息を吐いた。それは失望からではなく、安堵の息だ。誰もいない方が楽でいい。母がいてもストレスがたまるだけだ。
両親の仲は冷え切っている、と恵は思っている。それどころか完全に崩壊しているとすら。父である洋太は家に金を入れこそするものの単身赴任の地から全く帰ってこない。そもそも単身赴任に行く前から仕事ばかりで家に寄りつこうとしなかった。恵は生活費とは別に自分名義の口座へ定期的に父から振り込まれる金額を思い出してため息を吐く。きっと父は会社員としては優秀なのだろう。しかし父親としては、母の夫としてはどうなのだろうか。
恵の母、玉緒は男に依存しないと生きていけない人間である。恵が幼いころは夜中にしか帰ってこない洋太を毎日のように怒鳴りつけていた。洋太は何も言い返さなかったが、恵にはうんざりした顔をしていたように思えた。怒りをぶつけられるのを嫌ったのか、洋太は家にどんどん寄り付かなくなり最終的には単身赴任を勝手に決めてしまった。そして依存先がなくなった玉緒は外に男を求めた。自宅にまで連れ込むようになったのは、もしかしたら自分を壊した洋太への復讐なのかもしれない。
恵は嫌な記憶を振り払うように首を横に振る。今は二人の心情やら事情を考えている暇はない。とにかく母が帰ってくる前にご飯を準備して、できれば寝る支度まで済ませてしまいたい。そう思い恵が冷蔵庫を開けたところで、玄関のドアが開く音がした。
「ね、寄ってってよぉ」
「えー、旦那さん怒らないの?」
「帰ってこないんだから大丈夫よぉ。ね、まだ亮君と一緒にいたいなぁ」
しまった、母が帰ってきた。それも浮気相手と一緒に。恵は慌てて冷蔵庫からハムのパックを掴んで階段をのぼる。母と顔を合わせると面倒だ。それも男を連れて帰ってきた時は殊更。どうにか母に見つからず部屋に入るとできるだけ音を立てないようドアを閉める。どうにかこの家にもう一人いることに亮君とやらが気が付きませんように。恵は必死に祈ったが、祈りむなしく男の声が階下から聞こえた。
「なんか音しなかった?」
「……気のせいでしょ。さ、これからどうしましょう。とりあえずワインでもいかが?」
「んー、酔っちゃうとできないかもしんないから、シャワーがいいな」
「えー、若いんだから大丈夫でしょ?」
「うーん。なら玉緒さん一緒に入ろ。ワインは終わってからでもいいじゃん」
「あら、亮君たら手が早いわね」
二人の声が浴室の方へと消えていくのを聞いて、恵は安堵の息を吐いた。どうやら母の怒りから逃れることはできたらしい。しかしシャワーと性交渉、それから晩酌。私はその間母の浮気相手に見つからないように息を殺していないといけないのか。恵はすっかり空っぽな腹をさする。部活終わりの空腹を満たすのにハム四枚では全く足りない。しかし二人が風呂に入っているからと台所へ忍び込むのは怖かった。
母親の新たな恋人と思しき男に存在を気取られないよう、恵は細心の注意を払いながら布団に潜り込む。そしてサイドボードに手を伸ばすと百円均一で買った耳栓を耳に突っ込んだ。音を立ててはいけないが、静かにしていると階下の音が聞こえてしまう。母や見知らぬ男の盛りがついた声など、恵は絶対に聞きたくなかった。恵は空腹で鳴りそうになる腹をぐっと押さえつけながらスマートフォンの画面に表示された時刻を睨む。今日、亮君とやらは家に帰ってくれるのだろうか。それともこの家に泊まっていくのだろうか。泊まるにしても何時に出ていくだろう。私は朝練に行けるだろうか。いやそれどころか登校すらできないかもしれない。恵の悩みは尽きない。
