ワニくん

教室に入ると、いつもよりざわざわとしているような気がした。
「おはよ」
窓際まで行き、その理由に気がつく。和邇の席の周りには女の子がたくさんいて、前の席の椅子に座るのも一苦労だった。
「ケツどかして」邪魔な女子に言うと睨まれた。

机につき、マグボトルから水を飲んで一息ついてから机に突っ伏す。
昨日はやり過ぎた。涼真と和邇、男を二人はしごして体力を消耗した。
「悠莉、六郷起こして」
「六郷、ワニが呼んでる」同じクラスの女子に肩を揺すられる。
「眠い…」
「アキラが三厨も誘って大学遊びに来いって」
「……いつ?」
「週末の大学バスケチームの自由練習の日」
「大学にバスケしに遊びに行くってこと?俺バスケ得意じゃねえし」
「来いよ。タマちゃんも三厨もみんな来る」
起き上がって後ろを振り向く。
「え、お前髪どうした」
「昨日の夜にアキラの友達が来て、練習台」
和邇の髪は乱れたくせ毛だったのが前髪長めのツーブロックになり、ずいぶんスッキリした。
「ツーブロック久しぶりで、首が寒い」
「髪切るとお兄さんと似てるかと思ったけど、全然違うな」
「ワニってお兄さんいるんだ」
このあいだワニの膝に乗っていた女の子がいった。
「新しい髪型似合うね」女の子の白く細い手が和邇の髪を梳いた。
昨日、風呂上がりの髪にドライヤーをかけたのは自分だと思うと、気に入らなかった。取り巻きの女の一人になったようで気分が悪い。

予鈴が鳴り、女の子たちは消えた。
涼真から体調を心配するメッセージが来ていて、大丈夫と返す。思いの外優しい。

ぼんやりと窓の外を見る。
学校や病院から散々連絡をしたのに、結局、父からは自分に連絡はなかった。
昼は相変わらず嶋原と食べ、和邇は離れたところで女子に囲まれているのを見ないようにする。
新しい髪型は好評のようだ。

昼を食べて教室に戻ると外が急に暗くなり、雨も降り出した。
後ろの席に戻って来た和邇にくっついて来た女の子が何か話してはゲラゲラ笑っている。
急にからだがだるくなり、机に突っ伏した。
寒気もする。
「六郷」後ろから背中をなでられ、ため息をつく。
「なに」
「こっち来て」
「立ち上がれないくらいだるい」
和邇が立ち上がった気配がした。
「六郷気分悪い?」
「少し」
「保健室行こう」
支えられながら立ち上がり、何とか歩いて教室を出る。
「六郷、また『アレ』が近くまできてる」
「また?」
「憑いてるわけじゃないから祓えない。俺にくっついて」
仕方なくもたれかかると気分が少し良くなった。

骨折した生徒と病院に行ったらしく、保健室には養護の先生はいなかった。
無人の保健室で抱き合って、何度かキスをすると気分は回復した。
「消えた」
「よかった。なんで来た?」
「わかんねーけど、こんなに何回も出るのは変」
「教室戻ろう」
「少しだけ…念の為」
「キスするいい言い訳だな」和邇に抱きついて思う存分キスした。
シャツに手が入り胸を揉まれる。女の子と違ってそこには揉むほどのものは無い。
二人揃って教室に戻り、授業が終わるなり一緒に家に帰った。
「俺の家でいいよな。ゴム持ってる?」
和邇は表情にほんの少し驚きを出した。
「持ってない」
「商店街で買うとからかわれるから和邇が買ってきて」
「いきなり平気?六郷は…」
「俺は経験済み。嫌ならしない」
「今日じゃなくてもいい」
「抵抗あるか?女の子のほうがいいだろ」
その後は無言になる。
「和邇はどこかで1時間くらい時間つぶしてから来い。準備がいるから」
「俺は手伝えない?」
「無理」
「じゃあ一度家に帰って自転車で行く」
確かに隣駅で、自転車で行き来したほうが早かった。

家の前まで来ると、ベビーカーと女の人が立っていた。
商店街の中にある家だ。家の前に誰かがいてもおかしくはない。
避けて家に入ろうとすると声をかけられた。
「六郷蒼くんですか」
「……」最初見た時は若いと思ったが、間近で見ると思ったより年齢が行っている。
ベビーカーにはかなり大きめの男の子が座っていて目が合う。赤ちゃんという大きさでは無かった。
女の人の表情に嫌なものを感じ、後ずさる。
「違います」
「嘘だよねー?」
妙に甘ったれた年齢不相応な喋り方。走って逃げ出したいが、足が動かない。
「会社の口座が凍結されたの。意味わかる?」
首を横に振る。
「あんたが父親を訴えたんでしょ?散々甘やかされてさぁ、父親の邪魔するんだ?」

この女に会った事がある、と気がついた。
小学3年の時に、家の前で待ち伏せされて腕をつかまれた。
『お母さんが死んだならあんたも死になさいよ!』と叫ばれて、通りすがった商店街で働いているおじさんがこの女を一喝して追い払い、祖母が警察を呼んだはずだ。
その後どうなったかはわからない。
女はあの時と同じ服を着ている。
変な服…妙にぴっちりした薄いピンク色のスカートにストッキングを履いて、ものすごく化粧が濃い。オレンジがかった妙な色の唇。
赤っぽく染めた長い髪は大きなカールがついていて、嫌なニオイ、香水の甘ったるいニオイがする。爪も服と同じように派手だ。足元はヒールのある靴だから早く追いかけて来る事は、できないだろう。ベビーカーに座る幼児を見る。
手に何かを持っていて、口の周りが汚い。こちらを見た幼児と目が合った。

「弟。わかる?おとーと。弟に自分と同じように何不自由なく育ってほしいと思わないわけ?!何とか言いなさいよ!」
「……」

「揉め事?」涼真だった。
「親子喧嘩!あっち行って!」
「お前みたいなブスからアオが生まれるわけねえだろ。……本町仲通り駅前の五番街の富士見通りで変な女が暴れてるからすぐ来てください。アオ、この女から何かされたか」スマホを出して涼真が通報した。
「『お母さんが死んだならお前も死ね』って言われた」あの時、祖母には言えなかった。祖父と母が立て続けに亡くなって、悲しませたく無かった。
「おまわりさん、女が『死ね』って言って暴れてる。早く来て」

女は叫びながら涼真につかみかかり、押しのけられて転んで商店街とは逆の方向へ早足で立ち去って行った。
「ババア!クソガキ忘れてんぞ!」
涼真が女から殴られた肩の辺りを抑えながら後ろから叫んだが、振り向きもしなかった。

「おい、アオ、大丈夫か」
「涼真は」
「俺は平気」
警察官が集まってきて、大きな門を開けて警察官には中に入ってもらい、置き去りにされた幼児のシートベルトを外してベビーカーから下ろした。
ベビーカーに下げられたままのバッグにはおむつとおやつが入っていた。
幼児は泣きもせず、口も利かなかった。
「おむつ替えたほうがいいのかな」
「僕トイレ出来るよ」
「しゃべれんのかよ」涼真がいった。
「うん。これも出来る」弟らしい幼児は涼真にピースしてみせた。
商店街の知り合いがどんどん集まってきて、弟(仮)は顔をぬらしたタオルで拭かれ、おむつは履きたくないと言い出したので、どこかから綺麗な幼児の服と下着が届き、こざっぱりとした服に着替えた。
話を聞くと、駅の反対側の保育園に行っていて、父は意外に近くに住んでいた事を知る。
涼真は一通り事情を説明し、店が終わってからまた警察で説明すると言って出ていった。

「こんにちはー?」和邇が門から顔を出した。
「和邇!」縁側の窓を全部開けていたから、部屋の中からも門から和邇が自転車を押しながら入って来るのが見えた。
和邇は縁側に座った。
「事件?六郷は無事?」
「うん」庭を駆け回っていた弟が縁側の和邇の横に座った。
「でっけーウルトラマン?」
「うん。君は」
「六郷善。3歳」
「へぇ。ここで何してるの」
和邇はこの状況が何でも無い事のように、隣に座る小さな少年に話しかけた。
「ママがお兄ちゃんぶっ殺しに行こうねって言ったから来た」
辺りは静かになった。
「へぇ。何でぶっ殺すの」
「ホーチョー」
「ママはホーチョー持ってるんだ」
「バッグに入れてた」弟はピースした。
「2個」
「包丁を“2個”入れたんだ」
弟は頷いた。