「な、なんだ。これは、一体! ?」
雅清は目を白黒させて、眼前にある状況を瞠った。
突如、下から真黒の棘がシュッと現れ、ドスッと鉄鼠を容赦なく貫いたのだ。
「じゅ、じゅう……」
ずぶりと太い棘に、身体の中央を貫かれた鉄鼠の短い呻きが雅清の耳に届く。
それと同時に棘からじわりと黒が広がり、鉄鼠の身体を大きく蝕み始めた。
そして天頂から足先までを黒色に染め上げると、しゅるんっと棘が引き抜かれる。それと共に、鉄鼠の巨躯も混ざり合って下がっていく。
とぷんと影に沈み、まるで何事もなかった家の景色だけを雅清の目に映した。
どういう事だ、鉄鼠の霊力が完璧に消えたぞ。
突然軍場に一人残された雅清は、眼前で起きた突飛な事態に呆然としてしまうが。鉄鼠以上の異変をぞわりと感じ、得体の知れない恐怖を背後から感じ取った。
ぞわわっと駆り立てられる不気味さに、バッと振り向く。
そうして、彼の目に映ったのは……ぺたりと膝をついて座り込む《《薫の姿》》。
「良かったぁ……」
薫は心の底からの安堵を零すが。雅清は、すぐにそれを「すまん、助かった。ありがとう」と受け取る事が出来なかった。
血の様に鮮やかな赤色で染まっている瞳を漆黒で囲っている左目。そして華奢な手を覆う、ゆらりゆらりと伸びて遊ぶ影の様な黒い靄。
変異とも呼べる彼女の異様な左目と左手に、雅清は唖然としてしまう。
「ゆ、柚木。お前……それは」
訥々と言葉を吐き出し、一歩を進めた。
その瞬間、薫は綻ばせていた口元をヒュッと素早く律し、バッと俯く。
「見ないで! 来ないでっ!」
初めて飛ばされる力強い拒絶に、雅清は面食らった。いや、ガツンと重たい鈍器で頭を殴られた様な心地に陥ったのだ。
そのせいで、彼の頭に並んでいた言葉が一気に霧散する。
「何があった」「どうしてそうなっているんだ」「大丈夫なのか」
どれ一つも発せられずに、雅清はただその場に佇んだ。
……俺は柚木の口から、俺に対する言葉を散々聞いている。
好きですと言う好意、格好いいだなんだと言う称賛。
そればかりか悪口も聞いたし、俺のしごきに対する不満と愚痴だって聞いた事がある。近頃では「大嫌い」「もう好きじゃない」とも飛ばされた。
でも、拒絶を貰った事は今まで一度もない。
なんやかんや言いつつも、俺の側に居続ける奴だった。
なのに、「見ないで、来ないで」……?
雅清は沸々とうずく想いをゆっくりと飲み込んでから、「柚木」と声をかけた。
「俺は、」
「さぁさ、お嬢様」
雅清の静かな声に、淑やかな声が堂々と重なる。
そしてひらひらっと蝶の形代が二人の間に飛んで入ると、その形代はくるっと宙返りして女性の姿に変わった。
彼女は、ストンッと軽やかに着地する。
キリッとしていながらも、黄金比の様な均整が取れた美しい相貌。スラッとした細身を上品な錦織の着物で包み、美麗に着こなしている。
しゃきっと伸びた背筋、凜とした佇まいが相まって、彼女の纏う雰囲気は美しいばかりでなく、実に気高いものだった。
「その様なお心のままではいけませんよ、どうか気を鎮められませ」
「……く、葛の葉」
薫は目の前に突然現れた女性の姿に、ボソリと呟く。
「はい、お嬢様。葛の葉が参りましたよ」
薫の弱々しい呼び声に、葛の葉はシャキシャキと答えた。
そしてすぐにクルッと身体の向きを変え、その場で呆然と佇む雅清と対峙する。
「この様な形では、お初にお目にかかりますね。私は土御門宗家に仕える式、葛の葉と申します。今はお嬢様、薫様のお付きとして従事しております」
葛の葉はペコリとお辞儀をしてから、「此度はお嬢様が大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」と丁寧に謝辞を述べた。
「加えて、何一つ礼をせぬまま、この場からお嬢様共々辞去すると言う無礼を働く事もどうかお許し下さい」
「は?」
唖然と大きく開かれた雅清の口から、困惑と怪訝に塗れた一言が零れる。
だが、それを気に掛ける素振りもなく、葛の葉はパンパンッと軽やかに手を打った。
すると彼女が蝶の式神として通ってきた軌道と同じ道を通って、人型の形代が飛んで来る。そしてクルッと宙返りすると同時に、見目麗しい青年の姿に変わった。
真面目そうな書生の姿をしているが、掴み所がない怪しげな雰囲気を纏わせている。
葛の葉はその青年を一瞥もする事もなく、雅清だけを見据えたまま「竜胆《りんどう》、お嬢様を」と端的に命じた。
「ハッ」
竜胆と呼ばれた青年は素早く薫を抱き上げ、自身の腕の中に収める。
その姿に、雅清は「おい」と鋭く声を上げた。
「柚木を」
「枢木様、どうかご安心を」
雅清の声に、葛の葉の声が重なった。その声は艶やかながらも、一瞬にして人を押し黙らせる力強さが込められていた。
「お嬢様には少々、我が家で安静になさっていただくだけです。此度はすぐに終わりましょうから、終わり次第、我々が責任を持ってお嬢様をそちらに送り届けます故ご安心を」
葛の葉がフッと小さく口角を上げると同時に、薫を抱き上げていた青年の姿がフッと消える。
そして葛の葉も「では、失礼致します」と、ぺこりと頭を下げてからフッとどこかへ消えてしまった。
寂れた家に、ポツンと雅清だけが一人残される。
瞬く間に舞い戻る静寂が、痛烈に身を突き刺した。
雅清は薫が居た虚空を見つめるが、その瞳に映っていたのは最後に捉えた薫の姿。
ギュッと堅く瞑った目の端からポロポロと零れる涙、その涙を拭ってと言わんばかりに首元に顔を埋め、竜胆に抱きつく姿が、彼の目にはずっと残っていた。
ギリッと力強く奥歯を噛みしめ、手にしていた二刀をキンッと鞘に収める。
それでも尚、彼の心はざわざわと騒ぎ、争い、蝕んでいた。
その一方、薫はひゅおおっと風をきって飛んでいる竜胆の腕の中で「最悪、最悪」と抑えきれない涙を零し続けていた。
そんな薫に向かって、「お嬢様」と柔らかな声がかかる。
「どうかお心をお鎮め下さい、そのままでは本当に乗っ取られてしまいます」
「分かってるわよっ!」
薫はすぐ横を飛ぶ葛の葉に対し、噛みつく様に絶叫した。
「抑えようとしているの、でも、抑えられないの! 悲しくて、辛くて、苦しくて、涙が止まらないのよっ!」
止めようとしても止まらないの! と、吐き出すと。ジクジクと全身を這う辛苦が、グッと猛っていた語気を鎮め始めた。
薫は奥歯をキツく噛みしめてから、「本当に、もう……」と弱々しく吐き出す。
「もっと早くに抑えられていれば良かった。あの人に、こんな悍ましい姿見せたくなかったわっ」
「お嬢様」
薫の嘆きに、葛の葉が力強い声が飛んだ。
「貴女様に封じられているのは、この日の本を破滅へと追いやった巨悪。当時の陰陽連の総力を持ってしても封じるしか術がなかった物の怪ですよ」
葛の葉は窘める様に告げてから、ニコリと柔らかく相好を崩す。
「お嬢様の様にそこまで上手く制御出来る方は、他にいらっしゃいませんでした。故に、お嬢様、そうもご自身を卑下なさる必要はございません。貴女様は素晴らしいお方なのですよ」
「……そんな凄さ、何の意味もないわ」
薫はかけられた慰めを冷淡に一蹴した。
「それで、あの人の隣に並べる訳じゃないもの。それどころか、私はもう取り返しがつかない所まで落ちちゃったのよ。きっと枢木隊には、ううん、聖陽軍に居させてもらえなくなったわ」
「お嬢様、それは考え過ぎと言うものですよ」
「そうですよ、お嬢様。葛の葉様の仰る通りです」
彼女を抱きかかえて飛ぶ竜胆が、力強い同意を重ねる。
「それにお嬢様を抱えた俺を見るあの男の眼は、嫌いと言うものではなく」
「辞めて」
薫はピシャリと竜胆の言葉を遮り、「そんな慰めをかけられたら、もっと苦しくなる」と苦々しく告げてからガバッと再び首元に顔を埋めた。
そんな薫の姿を葛の葉は優しく見つめて「お嬢様」と、声をかける。
「今はそのお心に沈みなさっても構いません。ですが、人の心を決めつける事はお止め下さいませ。枢木様のお心が、貴女様の思う心と同じだと断定出来た訳ではありませんよ」
彼女はふうと小さく息を吐き出して区切ってから、「まぁ、お嬢様の事ですから」と、言葉を継いだ。
「こんな所で腐る訳がないと、葛の葉は存じておりますよ。貴女様はいつ如何なる時もまっすぐ、どんな事にも真剣にぶつかっていくお方ですからね」
「……」
薫は何も言わず、ただギュッと竜胆の首にしがみつく手を強める。
竜胆は弱々しく眉根を寄せて、「どうしましょう?」と目だけで葛の葉に訴えた。
葛の葉は小さく首を横に振ってから、前を向く。そうして何事もなかったかの様に、トンッと虚空を掴み、軽やかに跳ね上がって進んだ。
竜胆は「えぇぇぇ」と小さく嘆いてから、そそくさと空を飛び進む葛の葉の後をついて行ったのだった。
「その後、俺は部隊と合流し、問題の家を捜索しましたが。柚木の指していた母親らしき人間はおらず、完全なる空き家でありました」
雅清は目の前に居る人物、総隊長・海音寺剛造《かいおんじごうぞう》に淡々と述べた。
剛造は「そうか」と唸りながら、武骨な手で威厳の象徴と言わんばかりの顎髭を撫でつける。
そして重々しく背もたれにもたれかかり、厳めしい顔を更に厳めしくさせて「それは、何とも不可解だな」と、苦々しく答えた。
彼の巨躯を支える椅子が、ギイイと苦しげな悲鳴をあげる。
雅清は「ええ」とソレを軽く受け流してから「ですが、そんな事より」と、膝を進めた。
「俺が気になるのは、柚木の方です。何故柚木が、あんな状態に陥ったのか。何故、柚木に土御門宗家に仕える程の式神がついているのか。総隊長は存じているのでしょう? お願いですから、俺にその訳を教えて下さい」
お願い致します。と、詰問する様に頼み込んだ。
剛造は「むうぅ」と大きく唸り、目を右往左往させる。
どうしようかと考えあぐね、真実を明かす事に躊躇する姿に、雅清は「総隊長」と物々しく詰め寄った。
「何故そうも躊躇うのですか。柚木は俺の直属の部下ですよ。それなのに、何も知らされずと言うのは不条理ではありませんか」
「まぁ、それはそうなのだが……あまりにも事が重大で」
「重大? どういう事です?」
雅清の靴先がガツッと剛造の机を蹴り、ガタッと机が震えた。
剛造はその震えを気にする事なく、「いやぁ」と言葉を濁し続ける。
「これは土御門俊宣《つちみかどとしのぶ》総帥とロン・ウォーレン副総帥、そして俺の最高幹部組のみで収めておかねばならん話でなぁ」
雅清は並べられた上役の名前に、大きく面食らった。
その三人のみで収める、つまりその三人のみしか知る者を作ってはいけない……柚木の事情《アレ》は、そこまでの極秘事項だったのか?
雅清は剛造に見えない所で、グッと拳を作ると。「だから俺には教えられない、と?」と静かに投げかけた。
「俺はアイツが居る隊の長であり、教官でもあるのですよ?」
剛造は、滾々と重ねられる言葉にふうと息を吐き出し、徐に顔の前で手を組んで言う。
「……誰にも、副官を務める怜人にも言わず、己の内で留めておけるならば話してやろう」
突然吐き出された譲歩に、雅清は目を見開いた。
「勿論、それは出来ますが……よろしいのですか?」
聞いておいて何ですが。と言う様に、顔を少々歪めて訊ねると。剛造は「まぁ、仕方あるまい」と、ふううっと嘆息した。
「その目で、しっかりと見てしまったのだからなぁ」
隠し立ては、もう不可能だろ? と、困り果てた様な微苦笑を零す。
雅清はその言葉に「ありがとうございます!」と、バッと頭を下げた。
剛造は目の前で深々と下がった頭に「良い良い」と、軽やかに手を振ってから、言葉を紡ぎ始める。
「我が聖陽軍が、いや、聖陽軍の前身である陰陽連達が存在を隠し消した一匹の物の怪が居る。幕末・明治維新期と言う混沌に生き、あまねく生物を脅かした恐怖の王。名を影王《えいおう》と言い、全てを無に帰す影から生まれた物の怪だ」
「影……」
雅清の脳裏に、突如鉄鼠を串刺し吸収して消えた黒色の棘、そして薫の腕に纏った黒い靄が思い返された。
剛造は「そうだ」と力強く頷くと、「そいつは」と泰然と続ける。
「人だけでなく、魁魔を淘汰し、吸収し続けた。その為に、奴の力は強大になり、日本帝国を大きく脅かす存在となった。奴を討伐すべく、当時の陰陽連が対峙したのだが……敵わなかったのだ。しかしながら、このまま倒す事が出来ずに野放しと言う事も出来ない。故に、当時の陰陽連達は奴を封じ込めると言う手段を取り、彼等は四苦八苦して影王を封じ込める事に成功した。当時、最も霊力が強かった一人の女性を人柱として使ってな」
重々しく紡がれる話に、雅清の目が「まさか」と、じわじわと大きく開かれる。
「彼女は影王を封じ込める器として花影《はなかげ》と呼ばれ、土御門家で一生涯を過ごした。暴走しても押さえ込める様にする為、そして影王を封じるしか出来なかった陰陽連の敗北を周りから隠す為にな」
今も尚、それは続いている。と、重々しく言葉を区切った。
「花影の内側で生き続ける影王を野に放たぬ様に、陰陽連達は霊力が高い者を次々と花影に宛がっているのだ」
……もう、分かるな? と、剛造は戸惑う雅清をまっすぐ射抜く。
「影王を押さえ込む為だけに生きる、現在の花影。それが、柚木薫だ」
そうだと分かっていたが、そうであって欲しくなかった真実に、雅清はグッと奥歯を噛みしめた。
そしてその悲しい真実に向かって「だから」と、小さく吐き出す。
「女である柚木を我が軍に入隊させたのですか。歴代の花影を土御門家に縛り続けたのと同様に、対魁魔に特化したウチならば影王の暴走でも早めに対応出来るからと?」
剛造は、目の前の沈痛な面持ちにキュッと唇を結んでから「そうだ」と、頷いた。
「だから総帥はお前の所に、柚木を入れる事にしたのだ。我が軍一の剣士であるお前ならば、早めに処理も出来るであろうと言う事でな」
剛造は淡々と告げる。
「処理」
雅清はボソリと、小さく呻く様に繰り返した。雅清の手の平に突き立てられる爪が、更に深々と手の平の肉を抉る。
「……万が一の時は、俺が柚木を斬れと?」
「そういう事だ」
剛造は否定する事なく、重々しく頷く。
雅清は前から打たれる残酷な相槌に、目を伏せって閉口した。
……最高幹部等にとっては、ここで柚木に封じられた影王を片付けられたら万々歳と言う事か。
その為に俺が当てられ、柚木もここへ投げ捨てられた。
……冗談じゃない。俺はアイツを斬る為に力を付けた訳じゃないぞ。
ギリリッとキツく噛み合わされた奥歯が唸った。堅く作られた拳からも、ギチギチッと骨が怒りを叫ぶ。
「雅清」
剛造は彼の名を静かに呼んだ。
その呼び声に、雅清は顔をゆっくりとあげる。
サラサラと流れていく前髪の隙間からのぞく瞳が、まっすぐ自身を貫く瞳とぶつかり合った。
「全てに上の魂胆がある訳ではないのだ。お前の側に居たいからここに居続ける、それは紛う事なき柚木本人の望みだぞ」
剛造からまっすぐ渡される言葉に、上がった顔が直ぐさま落ちる。
雅清はキュッと唇を一文字に結んでから「分かっています」と吐き出した。
だが、それでも落ち込んだ顔は上がらない。
剛造はふううと小さく息を吐き出してから、「雅清」と重々しく投げかけた。
「事情を知ってしまったからこそ、酷なものがあると思う。だから今ここで、お前が隊から柚木を外しても文句を言わんぞ」
「いえ」
雅清は顔をガバッと上げ、前からかけられた優しさを直ぐさま断る。
「柚木は、俺の隊で面倒を見続けます。見続けさせてください」
今回の件で、俺は痛感した。だからこそ柚木は、もう誰にも渡せない。渡したくない。
「……良いのか?」
剛造はおずおずと尋ねる。
雅清は自身の心を図ろうとする剛造に「はい」と、力強く頷く。
その頷きに、剛造は「そうか」と重々しく頷き返した。
「では、引き続き柚木を頼む。枢木雅清中佐」
「ハッ」
雅清は改まって告げられた命に、バッと敬礼して答える。
そして彼は剛造の部屋から丁寧に辞去し、パタンと扉を閉めた。
「はぁ」
顔をあげ、吐き出した吐息が揺蕩う。しかしその先はどこにも見えず、どこに消えたかも分からなかった。
雅清は顔を戻して、もう一度嘆息する。
そうしてゆらりと一歩を踏み出した、その時だった。
ようやく進められた足が、突然地面に縫い付けられた様にビタッと固まる。そして目も大きく開かれた、まるで今この目が映すのは幻ではないと言い聞かせる様に。
だが、それでも信じ切れない雅清の口から、名が小さく呟かれた。
「柚木」
廊下の中央で、おずおずと気まずそうに立つ薫は「はい」と小さく頷いてから、「く、葛の葉に送ってもらったら。こんな所に出てしまって。あの、突然で驚かれたのは、実はこっちもでして」と訥々と言葉を並べ出す。
「……そうだったか」
「は、はい。ご心配をおかけしまして、申し訳ありませんでした……それで、枢木教官、少しだけ、お話……よろしいですか」
昼間はバシバシッと木刀が打ち合う音がして、勇ましい掛け声がひっきりなしに飛んで、常に賑やかなのに。夜の道場は、こうも違うのね。
月明かりも差し込まず真黒に包まれ、静まり帰りすぎてシンッと静寂が研ぎ澄まされている道場に、薫は小さく息を飲んだ。
「柚木」
「あっ、ハイッ」
前からの呼び声に、立ち止まっていた足が慌てて真黒に飛び込む。
そして雅清の背を追うと、彼は道場の脇に付けられた縁側こと屍の間に回り、そこへ腰を下ろした。(訓練で屍と化した隊士達が倒れ込む場であるから、屍の間と言うのである)
「あ、あの」
「まず座れ」
雅清は薫の弱々しい言葉をピシャリと遮って告げる。
彼の横に棒立ちになっていた薫は「え」と固まってから、「し、失礼します」と恐る恐る腰を下ろした。
人一人と少し分を空け、薫は雅清の横に並ぶ。
……ねぇちょっと待って、ちょっと待って! まさかこんな風に、枢木教官と並んで座るなんて思っていなかったんだけれど! ?
ドコドコッと薫の心臓が大太鼓以上の爆音で暴れだし、ギュルギュルと加速する血液で貧血状態とは似て非なる状態に陥り始めた。
どうしよう、真剣に話さなくちゃいけない事があるのに。こんな幸運な状態で、まともに話なんか出来る? いや、出来ない!
ぎゃーっ! と、可愛さの欠片も無い歓喜の悲鳴が、薫の内心で高らかに上がる。
その時だった。
「……もう、大丈夫なのか?」
静かにかけられた一言に、内心で大暴れをしていた薫がハッと我に帰る。そして「やばい、早く答えなきゃ!」と慌てて口を開いた。
「あっ、ハイ! そりゃあもう元気です!」
もつれながら飛んだ早口に、ただでさえ加速している血液にカーッと羞恥が走り込みだす。
ちょっと! こんなの落ち着きなさ過ぎだわ! もっと落ち着いて答えなさいよ、私!
薫は変に口走った自分を殴り飛ばし、荒々しく宥めた。
だが、雅清はあわあわと荒ぶる薫に気づきもせずに「そうか」と、飛び出した答えを淡々と受け取る。
そして「あの後の事は心配しなくて良い。母親の姿はどこにもなかったし、隊の連中にも柚木は負傷して式で病院へ送ったと伝えている」と、泰然と言葉を継いだ。
あまりにも落ち着き払って言葉をかける姿に、薫の興奮に冷静がずぶりと差し込み、じわじわと広がっていく。
……嗚呼、もう。今は大切な話をする時よ。それなのに、こんな風に興奮しているなんて、ただの馬鹿じゃないの。
『私が話を持ちかけたのだから、ちゃんとしなくちゃ駄目よ』
薫は「ありがとうございます、枢木教官」と前を向いて答えてから、ふうと小さく息を吐き出した。
「もしかしたら、お聞き及びかもしれませんが。枢木教官、私」
「お前が花影と言う事は、先程総隊長から聞いた。だからお前の口から改まって言う必要はない」
重たい口から紡がれる言葉を遮り、雅清が淡々と先取って答える。
花影。ごく一部しか知らないはずの隠された単語が、彼の口からしっかりと告げられ、薫の内心にガツンと鈍い衝撃が走った。
いつもとは違う、険しい顔をしているから。そうじゃないかなって思っていたけれど……知らないでいて欲しかった。真実を隠し通していたかった。知ってしまったとしても、この悍ましい正体は自分の口から話したかったのに。
ぐちゃぐちゃと乱雑に言葉が並ぶだけに留まらず、一つの心に矛盾がバチバチと生じる。
薫はそんな心を抑える様に、ギュッと服を巻き込みながら胸の前で拳を作った。そして「や、やっぱり」と、無理やり口角をあげて答える。
「そ、そうですよね! えぇ、実はそうなんです。今まで隠していて、本当に申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げてから、「こんな悍ましい化け物が隊に居て、ゾッとしましたよね。本当に申し訳ありません」と軽やかに笑い飛ばした。
すると横から「ゾッとなんてしていない」と、力強い否定がかけられる。
薫はその否定に「え」と目を見開き、彼の横顔を見据えた。
雅清は「何かおかしい事を言ったか?」と言わんばかりの表情で、薫を見つめ返す。
その眼差しに薫は少々呆気に取られるが、すぐに頭を振って「いやでも」と食い下がった。
「いつ暴走するか分からない化け物を内に封じているんですよ? それって怖くて、気持ち悪いじゃないですか!」
あの目と左手を見ましたよね? ! と、声を荒げて噛みつく。
その次の瞬間、雅清は「馬鹿か」と冷淡に彼女の反駁を打ち落とし、憮然と腕を組んで言った。
「俺は数多の魁魔と対峙し、討伐してきた男だぞ。それを見た所で、お前が花影だと分かった所で、そんな思いを抱く訳がないだろう」
はぁと大きく嘆息すると、「今の反論は、俺への侮辱と受け取れる位だ」と苦々しく呻く様に付け足す。
薫はその言葉に「そんなつもりじゃ!」と、ぶんぶんっと慌てて首と手を横に振った。
「で、でも、あの時、枢木教官、顔を引きつらせていらっしゃったから……」
「引きつらせていた?」
雅清は薫の言葉に首を傾げてから、「引きつっていたつもりはないんだが……」と泰然と言葉を継ぐ。
「何がどうしてそうなっているのか分からなくて、混乱していたって言うのが半分。お前の身体が心配で焦っていたって言うのが半分って心だったから、そうなったのかもしれん」
「心配……?」
サラリと流れた一言だったが。薫はハッと引っかかり、信じられないと言わんばかりの顔で雅清を見つめた。
「わ、私を?」
ビシッと人差し指で自分の顔を指し、確認を入れる。
「突然あんな姿になれば、そりゃあ心配するだろ」
雅清は淡々と打ち返してから、「お前、俺をそんな冷血漢だと思っているのか?」と冷ややかに問いかけた。
薫はギクリと小さく身を強張らせ、顔を気まずそうに逸らす。
「……いいえ」
「おい」
「まぁ、そんな事よりもですね。枢木教官」
直ぐさま物々しく飛んで来た突っ込みを強引にいなし、話を自分の流れに乗せて進める。
「本当に、分かっていらっしゃいますか? 今、貴方の側に居る女は、普通の女じゃないんですよ?」
「花影と分かる前も今も、俺はお前を普通の女だと認識した事はない。間違いなく、お前は普通の女じゃない」
普通の女だったら、こんな所一日と経たずに出て行くし、そもそも入隊しようとせん。と、雅清は弱々しく噛みつく言い分をピシャリと一蹴した。
薫はきっぱりと力強い宣告に、うっと言葉を詰まらせる。
「そ、それは……枢木教官の側に居たい一心故の事で」
おずおずと人差し指同士をくっつけて離してを繰り返し、俯きがちに答えると。雅清から、フッと微笑が零れた。
「だからと言って、本当にこんな所まで来たのはお前が初めてだからな?」
お前は本当に普通の女じゃない。と、彼は肩を竦める。
ずけずけと重なる「普通じゃない」に、ムムッと薫の頬が膨らみ始めた。
何よ、何よ! これは乙女の可愛い恋心なのに! それを「普通じゃない、普通じゃない」って馬鹿にするなんて!
沸々と怒りで煮える心に押し上げられ、薫は「どうせ私は普通の女じゃないですよ!」と、いきり立った。
「化け物だし、男女《おとこおんな》でもありますからねっ!」
「なんだ、急に怒りだしたな」
雅清は急に荒々しく立ち上がる薫に向かって、ボソリと突っ込む。
薫はその言葉にキッと引っ張られ、雅清の涼しげな顔をギロリと睨めつけた。
「普通じゃなくて、花影なんて言う面倒な女は除隊決定ですよね! 今までお世話になりましたっ、荷物を纏めて参ります!」
「待て」
あまりの鋭さと物々しい声音に、駆け出そうとしていた足が直ぐさまピタッと止まる。
「俺がいつ、お前に除隊処分なんて申しつけた?」
「……え?」
飛んで来た言葉に面食らい、薫は間の抜けた顔で雅清を見つめた。
雅清は出て行こうとする薫の姿を睨めつけ、「勝手に出て行こうとするな」と物々しく告げる。
「俺の許可なしに除隊出来るとでも思っているのか」
薫は飛んで来る威圧にビクリと身を縮め、「で、でも」と恐る恐る口を開いた。
「私なんか居ない方が」
「良いと? そんな事、俺は一言も言ってないぞ」
薫の言葉を荒々しく遮って先取ると、雅清は毅然と告げる。
「今も、これからもお前は枢木隊の一員だ」
分かったか! と、突然張り叫ばれる怒声に、薫は条件反射の如くビシッと素早く敬礼した。
「ハイッ!」
……って、思わずハイって答えちゃったわ!
薫は自分の口からポンッと飛び出してしまった言葉にハッとし、撤回しようとしたが。
「よし、ならこれで話は終わりだ」
と、淡々と打ち切られてしまった挙げ句
「明日の早朝訓練、お前は今日抜け出した罰からだからな。絶対に遅れるなよ」
と、地獄の宣告を下される。
うげっ……最悪だわ!
薫は纏まった話に思いきり顔を顰めた。そして何とか、この話を折り曲げようと策を練り始めるが……。
頭にポンッと軽やかに乗った手によって、ハッと薫の全てが止まった。
「お前が無事に戻ってきてくれて、本当に良かった」
自分だけに向けられる柔らかい微笑み、さっきの怒声とは打って変わった甘く優しい声。
薫の心が一気に塗り替えられたばかりか、バンッと弾ける。
「……う~、好きっ! 大好きですっ、枢木教官!」
前から溌剌とぶつけられた告白に、雅清はフッと笑みを零した。
「あんな鬼大っ嫌い、じゃなかったか?」
「そ、それは一時の感情って言うもので……」
薫はもごもごと弁解してから「本当は、大好きなんです!」と、張り叫んだ。
「今もこれからも私が枢木隊の一員である様に、私はずっと貴方が好きです! 憎まれ口も叩き続けるかもしれませんが、どんな事があっても嫌いになんてなりませんから!」
「……柚木、俺は」
「あっ、じゃあこれで失礼しますねっ! お時間頂きまして、ありがとうございましたっ!」
薫は前からの言葉を荒々しく遮り、口早にまくし立ててから、ダッと駆け出す。
そうして一人、ダダダッと夜道を駆けるが。とんとんと積み上がる後悔《おもし》によって、その足は緩やかに止まっていく。
嗚呼、もう。また一方的に告って、一方的に打ち切っちゃったわ。
薫は肩を上下させて、はぁはぁと小さくきれる息を整えた。
……でも、向こうの返事は「無理」だって決まっているから。
私はこうして逃げるしかないのよね。分かりきっている事とは言え、本人の口から聞くのは辛さと悲しさが格段に違うもの。
薫はふううと長々と息を吐き出して、天を仰いだ。
濃藍の空には満天の星が広がっていたが。まん丸と太った満月の側には、たなびく暗雲の姿があった。
そのちぐはぐさに、薫の胸にはじくりと不安が突き立てられる。
そうして、翌日。早朝訓練に出席した薫に待っていたのは、普段と何も変わらない態度の雅清と、地獄の訓練だった。
「柚木っ、最後まで気を張り続けろっ! 腕立て伏せ百回追加だっ!」
……ひゃ、百回追加? ! 信じられない、なんて鬼畜なの!
あの鬼教官、本当に大っ嫌い!
「……高藤、柚木。以上、五名が俺の班だ。名を呼ばれなかった奴は、怜人の班だ。装備を整えた状態で、五分後には正門前に集合していろ」
分かったな。と、言い捨てて出て行く雅清の姿を目で見送ってから、薫はふうと小さく息を吐き出した。
また枢木教官の班かぁ……。
いやいや、嬉しいのよ。嬉しいのだけれど、花影って分かってからはずっとこうだから。同情って言うか、嫌な感じの特別を感じちゃうわ。
薫はぶすっと頬杖を突き、ふうと小さく息を吐き出した。
すると「また枢木教官の班だな」と、聞き馴染みのある声が頭上から降る。チラと見上げれば、篤弘がニヤリと口元を綻ばせていた。
「脱走負傷事件以来から、ずっとお前は枢木教官の班だ」
「わざわざ私が問題児だって言いに来たの?」
篤弘のにやついた笑みに、薫は「随分お優しいわね」と刺々しく噛みつく。
篤弘は「まぁ、そう噛みつくなよ」と、朗らかに笑って猛り始める薫を宥めた。
「ただ、あれから枢木教官と何かあったんじゃないかって思ってさ」
朗らかに紡がれた言葉に、薫は少しドキリとするが。「何か、なんてある訳ないでしょ」と、ピシャリと返す。
すると「なぁんだ」と、ひどく残念がった声が周囲から上がった。
ハッとして見れば、同班の先輩達がこぞって二人を囲い「絶対何かあるって思ったんだがなぁ」「あの人のあんな顔見ちまえばなぁ」「何か進展したんじゃねぇのかよぉ」などと、それぞれでやいのやいの言い始める。
薫は自分を囲って、好き勝手に言い始める先輩達に「皆して何を言ってるんですか!」と、声を荒げた。
「さっさと用意しないと怒られますよ! ハイ、解散解散!」
パンパンッと手を叩き、散会を促す。
だが、集い囲う彼等の足は微塵も進まず、にやついた笑みも依然としてそこにあった。
「お前なぁ、こういう時にお兄ちゃん達に頼っておかないと。ここぞって時に、良い援護が貰えねぇぞぉ?」
「誰がお兄ちゃん達ですか!」
「何言ってんだよ、柚木。お前は我ら枢木隊の可愛い妹だろ? だから俺達がお兄ちゃんって訳だ」
なぁ? と、一人が周りに同意を求めると。「そうだ、そうだ!」と同意が波打って、薫にぶつかった。
薫は、笑顔で言いのける先輩達を恨みがましい面持ちで睨めつける。
「最初は男女だなんだと邪険にして、虐めてきた人達のくせにっ!」
「それは昔の話、今はもうお前の素直さとひたむきに頑張る姿に胸打たれて改心したって」
「そうそう、だからこうして皆で妹として可愛がってんじゃないか」
朗らかな言い分が飛ぶと、またも「そうだ、そうだ!」と朗らかな同意が押し寄せた。
明らかに自分をからかい、楽しんでいる先輩達の姿に、薫は「先輩達!」と声を荒げる。
そして「いい加減準備に行く!」と、ビシッと出口を指さした。
するとようやく「はいはい」と、囲いをボロボロと崩し始め、やや駆け足気味に部屋を退出していく。
薫は「全くもう」と、廊下に消えていく背に向かって呻いた。
「隙あらば、人をからうんだから」
「いやぁ、それは先輩達から可愛がってもらってる証拠だよ」
羨ましいぜ。と、篤弘はポンポンと肩を叩いた。
薫はその手にキッと鋭い眼差しを向け、噛みつこうとするが。「まぁ、そんな事より」と、続けられる言葉によって口の中で文句が詰まった。
「いつまでもこんな所に居たらお前、集合ギリギリじゃないか?」
今日は訓練服を着替えないとだし。と、淡々とかけられる言葉で、薫は一気に青ざめていく。
「そうだったわ! 嗚呼、どうしよう! こんな所に居る場合じゃないわよ!」
急がなくちゃ! と、脱兎の如く駆け出し、廊下にわらわらと出始める人の間を縫って、自室へと向かった。
そうしてバッバッと嵐が来た様に支度を整え、まだ完璧に息が整わない状態でダッと駆け出し、集合場所へ向かう。
だが、薫が辿り着いた時にはすでに皆集い、鬼教官が鬼を越えた仁王と成っていた。
「柚木、遅刻だ。警邏終わりを楽しみにしておけ」
物々しく告げられる嫌な脅しに、薫は「最悪だぁ」とがっくりと肩を落としてしまう。周りのにやついた顔を見てしまうと、更に肩は落ち込んだのだった。
警邏後の罰を最後まで終え、薫は重なる疲労に押し潰されそうになりながら、午後の訓練に参加していた。
「脇が甘い! 踏み込み不足! 貴様、本当に自主鍛錬しているのか!」
雅清の怒声が道場内に響き、枢木隊の面々の掛け声が「ひー!」っと、悲鳴に移り変わり始める。
その時だった。木刀を持ち、次から次へと隊士達をなぎ払う雅清の元にビュンッと小鳥の式神が飛んで来る。
「宮地隊より応援要請! 宮地隊より応援要請! 緊急出撃予定部隊は直ちに出撃せよ!」
甲高い声が告げる応援要請に、隊士達の間にビリビリッと緊迫が走った。
「了解、枢木隊出撃する」
雅清は小鳥の式神に向かって端的に告げると、すぐにクルッと隊士達を振り返る。
「急いで出撃準備を整えろ!」
「ハッ!」
雅清から野太く飛ばされる檄に、隊士達は直ぐさま駆け出した。
薫も「ハッ!」と答えてから、装備を調える為に自室へ駆け戻る。そうして疾風の如く出撃装備を調えると、集合場所である正門へ駆けた。
そうして薫が到着するや否や、「行くぞ!」と雅清が胴間声を張り上げ、枢木隊が動き出す。
ダダダッと駆け足で、魁魔が出現した場所へと急ぐと。ぼこおんっどごおんっと荒々しい音が断続的に弾け、キャーキャー! と甲高い悲鳴が追随して聞こえた。
そして大地が大きく揺れ、彼等の到着予定地からぼごおんっとオオムカデの物の怪が姿を現す。
刹那、薫の背にぞわぞわっと嫌悪が這った。
「大きい虫の物の怪ほど、気持ち悪いものはないわ……」
しかも足がうぞうぞある奴。本当に無理、ああいうの。と、内心で苦々しく呻いてしまう。
「成程、あの宮地隊が苦戦する訳だ。アイツ等は数が多いからね」
と、飄々とした顔で走る怜人から朗らかに吐き出される言葉を聞くと、更にその嫌悪が増幅する羽目になった。
鉄鼠もそうだったけど、ああいう気持ち悪いのに限ってなんで数が多いのかしら!
薫の嫌悪が、徐々に当たり所のない鬱憤に塗り替えられた時だった。
「枢木隊、現着した!」
と、雅清の一声で薫はハッと我に帰る。
そして薫は視認した、目の前に広がる惨状を。
うぞうぞと下を好き勝手に這う百足の姿と、ぼごんっぼごんっと地中から現れては暴れ狂う三匹のオオムカデの姿。それらを須く討伐せんと奮闘する宮地隊の姿。そしてキャーキャーと逃げ惑う一般人の姿があった。
物の怪の数が多すぎて、避難に手を回せていないんだわ!
薫は目の前の惨状にゴクリと息を飲んだ。
すると雅清がくるっと振り返り、隊士達に檄を飛ばす。
「斎藤、村井、岡田、高藤、柚木は一般人の避難・救助に回れ! 行くぞ!」
「ハッ!」
役割を与えられるや否や、枢木隊は直ぐさま各自のすべき事に動き出した。
一般人の避難・救助を申しつけられた薫も、急いで「こっちへ!」と逃げ惑う人々の扇動に走る。
「こっちへ、皆さん落ち着いてついてきてください!」
散り散りに飛ぶ悲鳴に負けじと声を張り上げ走った。すると「待ってくれ、アンタ!」と、悲痛な懇願が飛ぶ。
ハッとして見れば、その声を上げたであろう老人が転倒し、足首を押さえて顔をぐにゃりと痛みで歪めていた。
薫は急いでそちらに駆け、「背負います!」と転倒している老人の腕を肩に回す。
そしてヨイショ! と、老人を軽々と背負った。
その次の瞬間
「柚木っ、そっちに抜けたぞ!」
と、先輩隊士・岡田史彦《おかだふみひこ》の警告が鋭く飛んだ。
薫はその声に弾かれる様にして、バッと後ろを向く。
するとオオムカデの一匹が、食い止めている宮地隊の刃をしゅるりとくぐり抜けて、がぁぁっと鋭い牙を向けて襲いかかってきていた。
マズい!
薫の本能が危機を走らせるよりも前に、身体がバッと動きだすが。その牙は、無情にも彼等に迫った。
刹那、背後から「ギャギャギャッ!」と醜い呻きが上がる。
薫は背後で起きた事態を確認しようと、足を止めてクルッと振り返った。
それと同時にオオムカデの身体がずしいんっと地に倒れ込み、ばふんっと上がる土煙に包まれる。
な、何が起きたの? !
薫が目を白黒とさせると、「ぼさっとするなっ!」と聞き覚えのある怒声が前から浴びせられた。
「さっさと走って、避難所に向かえっ!」
斬り伏したオオムカデの身体からストンッと降り立つと、雅清は「早く行け!」と更に叱責する。
薫は「は、ハイッ!」と答えてから老人を背負い直し、急いで駆け出した。
そうしてすぐに先頭に戻り「皆さん、こっちへ!」と、避難民を誘導する。
「薫! お前はここの護りと救護に回ってくれって!」
後から追いついてきた篤弘が、薫に向かって張り叫ぶ。
薫は「分かったわ!」と、すぐに答え、避難所とした広場を端から端まで動き回り始めた。
「怪我をしている方がいたら教えて下さい! まだまだ人が来るので、場所を少しでも空けて下さい! あ、ちょっと! 駄目です、戻ろうとしないで!」
「キャーッ!」
張り叫ばれる悲鳴を聞きつけ、雅清は目の前の百足をザシュッと斬り捨ててから急いでそちらに向かった。
見れば、ぼごんっと地中から現れたオオムカデが桃色の美しいドレスに身を包んだご令嬢に狙いを付けている。
「光焰付呪、炎走《えんそう》!」
雅清が振り下ろす一太刀と共に、ゴウッと炎が矢の如く飛び、オオムカデの身を貫いた。
オオムカデは「ギャギャッ!」と醜い呻きをあげてのたうつが、ジュウジュウと身を焼く橙の炎に包まれる。
雅清はその隙に「さぁ、急いで!」と令嬢の手を取って救出し、丁度戦場に駆け戻ってきた村井に「彼女を頼む!」と避難誘導を任せた。
そうして令嬢を任せるや否や、残る一匹のオオムカデがぼごんっと地中に戻る。
するとうぞうぞと残っていた百足の物の怪数匹も一斉に地中に飛び込み、撤退し始めた。
その姿に、奮闘していた聖陽軍の面々から安堵と歓喜の声があがる……が。
「どういう事だ?」
雅清は突然の撤退に眉根を寄せ、物の怪の霊気を探り始めた。
刹那、彼はハッと息を飲む。それと同時に、「まだだ!」と怜人が鋭く声を張り上げた。
その表情に、いつもの朗らかさはない。蒼然と切羽詰まり、一瞥だけで「緊急事態」だと分かった。
「連中が避難所の方に移動していく!」
この場で一番、霊気探知に長けた怜人の発言に、弛緩していた全てが一気に戻り、ピンッと太く鋭く張りつめる。
雅清は「まさか!」と、真っ先に走り出した。
その背に、怜人を始め枢木隊、宮地隊の面々が続く。
「どうして突然狙いを変えたんだろう?」
おかしいよ。と、雅清の横を走り並ぶ怜人が独りごちる様に問いかけた。
雅清は「分からん」と苦々しく答えるが。彼の頭では、すでに答えに近い推測が出ていた。
聖陽軍を抜け、避難誘導に当たっていた柚木を狙ったオオムカデの姿で「まさか」とは思ったが。これで決定的になった。避難所の方に柚木が、《《花影が居る》》と分かったからここを捨て置き、そっちへ向かったんだ。そこに留まり、護りも手薄となった花影を喰らう為に。
雅清はグッと奥歯を噛みしめ「兎に角急ぐぞ!」と、駆ける足を更に速めた。
「大丈夫ですよ、皆さん。落ち着いて、もうすぐ片が付くはずですから」
薫はざわざわと不安を零し、不満を募らせ続ける町人を宥め回る。
「頼む! 俺の家がどうなっちまったか、見に戻らせてくれ!」
「駄目ですよ! 家よりも命を大切にしなくちゃ、命があればどんな問題だって必ず何とかなります!」
ねっ! と、立ち上がった男性を宥めた、その時だった。
薫の足裏から「ぼこぼこっ」と、地面の胎動が伝う。
……地震、かしら?
薫は不気味に揺れ立つ地面に眉根を寄せたが、すぐにこの揺れが地震ではないと分かった。
ぞわぞわと近寄ってくる百足の霊気を肌で感じ、ガタガタと這い進む嫌な音が耳に突き刺さる。
まさか、こっちに向かってきているの? !
「薫! 出るぞ!」
共に警護に回っていた篤弘が刀を引き抜き、声を張り上げた。
薫は「うんっ!」と頷き、シャッと刀を引き抜き「皆さん、絶対に動かないでくださいね!」と釘をしっかりと刺してから、篤弘と共に駆け出す。
高い警戒を纏い、避難所から少し離れた場所で彼等は待ち構えた。
薫はギュッと柄を握りしめ、ゴッゴッと徐々に強まる胎動にゴクリと息を飲む。
その次の瞬間だった。ボコボコッと眼前の地面が突如隆起し、「ウギャギャッ!」とオオムカデの物の怪が姿を現す。
「薫! 俺が奴を斬るから援護を頼む!」
「分かったわ!」
篤弘の声に答えるや否や、薫はふうっと小さく息を吐き出し、自身の霊力を刀の方へ流し込み始めた。
「雷電付呪! 豺牙!」
バチバチッと紫電が纏った刀身をぶんっと振り下ろすと同時に、ダダダッと地を駆ける豺《やまいぬ》が形成され、「ガオオッ!」と轟く吠え声と共にバッと襲いかかる。
豺は一歩も足を緩める事なく突進し、オオムカデの身体に飛び込んだ。
刹那、オオムカデの腹部からバチバチッと鋭い紫電が貫く。
「ギャッギャッ!」とオオムカデの醜い悲鳴があがり、黒光りした身体にバチバチッと紫電が幾筋も迸った。
「篤弘!」
「わーってる!」
篤弘はダンダンッと力強く屋根の上を駆け、バッと虚空へと身を投げ出す。
「水雪付呪《すいせつふじゅ》!」
猛々しい叫びに呼応して、鈍色の刀身が一気に青緑色へと色を変え、ヒュオオッ! と鋭い冷気を纏い始めた。
「氷鋭斬《ひえいざん》!」
重力と共に振り落とされる一撃は、オオムカデの頭上を直撃し、斬り込んでいく。
斬り込まれた刀傷から、ビキビキッと氷つき、オオムカデの身体が両断されながら固まっていった。「ウギャギャ」と醜い呻きも消え入り、オオムカデの生がピシシッと緩やかに止まっていく。
薫はその姿に「やった!」と歓声をあげ、刀を鞘に収めて「篤弘~!」と駆け出した。
そしてトンッと軽やかに着地した篤弘に向かって、「やるじゃない!」と飛びかかる。
篤弘は「うおっ、危ねぇよ!」と抱きついてきた薫に慌てて刀を避けて、受け止めた。
だが、そんな気遣いもつゆ知らず、薫はバシバシッと背中を力いっぱい叩き「私の援護のおかげだけど! 凄いじゃない!」と、称賛を送る。
篤弘は「いってぇよ!」と、渋面で非難し、薫の腕をバッと振り払った。
そしてキンッと刀を鞘に収めてから、薫の前でフンッと大きく鼻を鳴らす。
「枢木雅清中佐直々に鍛えてもらってんだから、こんなの出来て当たり前だっての」
けどあの人なら、もっと軽やかに倒せていただろうからなぁ。俺はまだまだだ。と、くうっと拳を作って悔しがりだした篤弘に、薫の顔がぎこちなく引きつり始める。
枢木教官大好きっ子だから、本当にどんな時でもあの人を引き合いに出してくるわね。おかげで、私のおかげって言い張った私が図太くて恩着せがましい奴になっちゃったじゃないの。
薫は求めていた突っ込みが飛んでこない事に、はぁと肩を落としてから「はいはい」と前から語られる憧れを流した。
そして「もう戻るわよ」と、くるっと背を向けて歩き出す。篤弘も「待てよ、まだ俺の話が途中」と、その背を慌てて追う。
その時だ、バッバッとオオムカデが現れた穴から百足の物の怪が飛び出した。
「? !」
二人が反応し、バッと後ろを向いた時には、全ての百足が薫の眼前に迫っていた。
慌てて腰に差さった刀に手が伸びるが、もはや迎撃は間に合わない。
マズい!
薫の顔が切羽詰まった焦りと自らの失態に対する後悔で、ぐにゃりと歪み……腹部が、ズキズキッと熱を持ってうずき出す。
『カオル』
意地悪くニタリと綻ばされる口が、自身の名を蠱惑的に囁いた。
すると同時に、襲いかかる百足達の身体に異変が走る。
ビリビリッと赤い雷に纏われる者、旋風に突き上げられながら微塵にされる者。そしてゴウッと橙の火柱に囚われ、じゅうじゅうと身を焼かれる者。
「これって……!」
眼前で突然のたうつそれぞれに、薫は目をカッと見開いた。
すると物の怪の背後から「柚木っ!」と、雅清の声が飛ぶ。
薫はその声にハッとし、導かれる様にしてそちらを向いた。
「「枢木隊長! 柊副隊長!」」
ダダダッとこちらに向かって駆け走る上官達の姿に、薫と篤弘は歓声をあげる。
「柚木! 高藤も、大事ないか? !」
二人の前に立つや否や、雅清は鋭い声音で訊ねた。
二人はその声音に、小さくビクッとしてしまったが。すぐに「大丈夫です」と、しっかりと答えた。
「そうか、なら良かった……が。すぐに刀を抜けない事態に陥るとは何事だ! 最後まで気を抜くなといつも言っているだろう! だから反応に遅れるんだ!」
全てが安全と確認出来るまで二度と気を緩めるな! と、零された安堵が瞬く間に厳しい叱責に移り変わる。
二人は目の前から浴びせられる怒声に身をヒュンッと縮め「は、ハイッ! 申し訳ありませんでした!」と、バッと揃って頭を下げた。
「まぁまぁ、叱りつけるのもそこまでにしておこうよ」
怜人が朗らかに仲裁に入り「二人は俺達の尻拭いをしてくれたんだしさ」と、二人の擁護に回る。
「よくオオムカデの物の怪を討伐出来たね。一人の力じゃなかったとしても、何も恥じる事はないよ。二人で協力してあの物の怪を倒した事は、とても立派な事だ」
よく頑張ったね、二人とも。と、怜人は薫と篤弘に向かって仏の様に優しく、柔らかな微笑を零した。
その柔らかな微笑と温かな称賛に、「ひ、柊副隊長~」と、薫と篤弘の口から情けない声が発せられ、じわじわっと目から嬉しさが込み上げる。
「ったく、お前等は……」
雅清がはぁと苦々しくため息を吐き出すと、「お~い」とほのぼのとした声が飛んだ。
「柚木ちゃんは無事~?」
のらりくらりとした足取りで、雅清の横に並ぶ男。宮地隊隊長・宮地澄春《みやじすみはる》だ。ほのぼのとした雰囲気を常に放ち、一瞥だけでどんな毒気でも抜いてしまう様な相貌。
しかしながらそんなふにゃふにゃとした容貌とは打って変わって、彼の実力は凄まじく恐ろしい。彼の刃に捉えられた者は須く粉微塵にされ、澄春の戦場では必ず血の雨が降ると言わしめる程だ。
そっか、風の攻撃があったのはこの人がいたからだったのね!
薫は現れた澄春に「宮地隊長! 助けていただき、ありがとうございました!」とバッと敬礼を作った。
澄春は「良いの良いの~」とニコニコと手を朗らかに左右に振る。
「逃がしたこっちがごめんねぇって感じだしねぇ。それにしても不思議だねぇ。どうして柚木ちゃんだけ狙われたんだろうねぇ?」
薫は彼の口から安穏と紡がれた疑問に、小さく身を強張らせてしまった。
「そ、それは、多分……」
「高い霊力を持つ女だったからだろ」
薫のおずおずとした言葉をバッサリと遮り、雅清が淡々と答える。
その答えに、澄春は「あ~、そっか~」と朗らかに納得した。
「雅清君のせいで、ついつい忘れちゃうけど。柚木ちゃんも女の子だったねぇ」
「……んん、宮地隊長? それはどういう意味でしょうか?」
ほのぼのとした言葉に、薫は鋭く突っ込むが。悪気も毒気も一切無い澄春は「そのままの意味だよ~」と、にこやかに打ち返した。
「可愛い女の子だったよねって事さぁ~」
か、かか、可愛い女の子! ?
突然告げられた「可愛い」に、薫は思いきり面食らい、ボフッと沸騰してしまった。
すると怜人が「もうそれ以上は辞めてね、澄」と、軽やかに突っ込む。
「これ以上君が何か言ったら、うちの隊長と隊員の関係が大変になっちゃうからさ」
「え~、それってどういう事ぉ?」「何を言ってんだ、お前は!」
怜人の朗らかな言葉に、興味津々の疑問と猛々しい怒声が同時に弾けたが。怜人はどちらも気にする事なく「さっ、篤弘。柚木さん」と、事を呆然と静観していた部下を促した。
「俺達は避難した人達の解放に行こうか」
「怜人、何を勝手に……! おい、俺を無視して行こうとするなっ!」