「薫っ!」
ひたすら駆け走る薫の耳に、自分の名を力強く呼ぶ声が貫いた。
その声にハッとして止まると、後ろからタタタッと慌てて駆け寄る足音が近づく。
「おい、一体どうしたんだよ。何でお前がこんな所を全力疾走してんだよ!」
ぐいっと肩に手を置かれるや否や、薫は強引に振り向かそうとする手より前にくるんっと身体をそちらに向け、ドスッとその胸の中に飛び込んだ。
「か、薫? おい、お前、本当にどうしたんだよ?」
篤弘は自身の胸に飛び込んできた薫にギョッと目を剥きながら、わたわたと問いかける。
刹那、薫のわなわなと震える口から嗚咽が零れ、ボロボロと頬に大粒の涙が滴り落ち始めた。
その涙に、篤弘は唇をキュッと真一文字に結んでから彼女の涙を覆い囲む様に、薫の身体を優しく抱きしめる。
ふわりと温かく、ギュッと力強い優しさに、薫は堪えきれずにバッと縋った。抱きしめ続けていた弁当も放り出し、彼の腕の中で「わぁぁぁぁっ!」と、全てを切り裂く様に泣き叫ぶ。
篤弘は、その叫びから逃げなかった。逃げ出そうともしなかった。
ただ黙って彼女の涙とまっすぐ向き合い、薫の身体をギュッと強く抱きしめ返していたのだった。
……四苦八苦して詰め込んだおかず達が、ぐちゃぐちゃっと無残な形で飛び出し、溢れる様にして広がっていたが。彼女がそれを気にかける事はなかった。
「そうかぁ」
涙ながらに紡がれた話に、篤弘は小さく頷いた。
「まぁ、大方東雲氏の力だろうな。そうじゃないと、枢木教官がお前との約束を蹴って出て行く訳がない。だから今回は間が悪かったと言うか、仕方ない事だったんだよ」
「……もう良いの、篤弘」
薫は横から滔々と紡がれる慰めを一蹴してから、「あの人にとっては、私なんてその程度って分かったから」と、抱える膝の間に顔を埋め込んで言った。
篤弘はその言葉に「そんな事ねぇって」と、力強く反論する。
だが、その反論に直ぐさま薫は「そんな事あるわ」と、刺々しく噛みついた。
「行ってから断るとか、早めに帰るとか出来るはずでしょ。それなのにそういう事をしようとしていなかったもの。あの人、戻ってくるつもりのない言い分だったもの」
「薫、あの人に言い寄ってんのは内務大臣東雲氏のご息女だぞ。そんな人を邪険に扱ってみろよ。父親の権力で、聖陽軍もろとも危なくなるんだぜ? あの人はそれを鑑みて、仕方なくついて行っただけだよ」
篤弘は剣呑な薫を優しく宥めにかかる。
すると薫は顔をあげて、「……もう東雲嬢と付き合えば良いんだわ」と淡々と言った。
正気も生気もない様な恐ろしい程冷たい声音に、篤弘は「薫」と小さく息を飲む。
だが、薫は何一つ気がつきもせずに、淡々と言葉を続けた。
「そうよ、あの人が東雲嬢と結婚すれば良いのよ。そうしたら問題ないわ」
「何言ってんだよ!」
篤弘はガシッと薫の肩に手を置き、虚ろな表情をする薫をまっすぐ見据えた。
「そうしたらお前の気持ちが」
「良いの」
薫は前からの叱責をバッサリと遮ると、胡乱な眼差しで篤弘を見据えて淡々と答える。
「もう辞めるから、あの人の事を好きで居るの」
「……は?」
「元々不釣り合いな恋だったし、これ以上辛い思いをするのも嫌だし」
「冷静になれよ、薫。こんなたった一回だけで」
「えぇ、そうね! たった一回だわ! でも、されど一回なのよ!」
薫はガタッといきり立ち、怒声を張り上げて反論を浴びせた。
「私の心を打ちのめすには、充分だったの! だからもう踏ん切りが付いちゃったの、諦めようって! もうあの人の事好きでいるのは辞めようって、心が決めちゃったのよ!」
止まっていたはずの涙が再び息せき切る様に流れ出し、じくじくと喉奥を熱が突き刺し始める。
「もう知らない、最低、大っ嫌いって心に並んじゃったのよ!」
薫は泣き叫ぶ様に訴える。
「辞める、もう辞めるの! あんな人なんかより、私、篤弘の方が」
「そこまでにしておけよ、薫」
篤弘は淡々と絶叫を遮り、ぐいっと立ち上がった薫の腕を引っ張った。
「もう辞めよう、この話は」
もう、辞めよう。と、無理やり座らせた薫の頭をトンッと優しく自身の肩へと抱き寄せた。
トスッと自分を温かく受け止める肩に、力強く抱き寄せる手に、薫の涙がじわりじわりと色を変えていく。
「……うん、うん。ごめん、篤弘。ごめん」
「良いって。俺は、分かってるから」
だからもう何も言うな。と、篤弘は囁く様に告げた。
薫はその言葉に、ぐすっと大きな嗚咽を零す。そして言われるがままに、彼の肩でポロポロと涙《おもい》を流したのだった。
最悪だった。東雲氏が急遽呼んでいるからと急いで会えと言う事で足を運べば、待っていたのは優衣子嬢の売り込み。「優衣子ほど良い女は居ないぞ」としつこい程食い下がられ、「若い二人で帝都を出かけたらどうだね」と、強引も強引に作られた時間で、優衣子嬢と帝都を巡らされた。
何とか退散しようとしたが。優衣子嬢に止められ、御者に「旦那様に言いつけられておりますから」と無理に引き止められ、帰るに帰れずにいたら……すっかり一日が潰れていた。
内心で振り返った一日に、雅清は苦々しく舌を打つ。
こんな事になるのだったら、さっさと柚木と出かけるべきだった。
雅清は今更嘆いても仕方が無い現実にはぁと小さく息を吐き出してから、薫の姿を思い浮かべる。
怒っている……だろうな。あんな目をして、俺を睨みつけていったばかりか。呼んでも立ち止まらずに、走って行ってしまったからな。
「嗚呼、本当に最悪だ」
雅清の心が、更にずしんと重たく沈んだ。
だが、どれだけ心が重たくとも、どれほど歩む事がしんどくても、雅清は薫が居る部屋へと進んでいた。
きちんと謝ろう、それで次の非番に埋め合わせを約束しよう。それならば、きっとこの重しも取れるはずだ。
「柚木は許してくれる」……そんな想いを抱きながら、雅清は薫の自室をコンコンッとノックする。
「……はい」
内から弱々しい、いや、泣き通してカラカラになった声が返ってきた。
ズキリと心に痛みが走るが、雅清はキュッと唇を真一文字に結んで堪えてから「柚木、俺だ」と投げかける。
すると直ぐさま「帰って下さい」と、地を這う程低い声で剣呑な言葉がぶつけられた。
雅清はその声にゴクリと唾を飲んでから「柚木」と、弱々しく声をかける。
「一度、出て来てもらえないか。今日の事をきちんと謝らせてくれ」
申し訳ないと言う心を露わにしながら扉の向こうに向かって投げかけた……が。
扉は頑として開かず、返ってきた声もしなくなった。
そしてその代わりと言う様に、トンッと雅清の横に降り立ったのは葛の葉で
「申し訳ありません、枢木様」
と、雅清に向かって淡々と告げる。
「どうか、お引き取り下さいませ。お嬢様は貴方様にお会いしたくないそうですから」
薫は現れず、式神の葛の葉だけが廊下に現れて言葉を述べる。
その姿で、雅清は自分の考えがとても甘く、もうすでに取り返しが付かない所にまで事態が進んでいるのだと思い知った。
雅清はグッと奥歯を噛みしめてから、現れた葛の葉に「何とか会えないだろうか」と弱々しく食い下がる。
「顔を見て、しっかりと謝りたいのだが」
「この扉の頑なさこそお嬢様のお心の現れ、故に貴方様を内へと入れる訳にはいきませぬ」
葛の葉は冷淡な微笑でにべもなく一蹴すると、「お引き取りを」と繰り返した。
「……しかし」
「失礼ながら枢木様、貴方様は許しを請えば楽になりましょう。しかしお嬢様にとっては、そんな謝罪を貰った所で何になりましょうか。謝罪を聞き、許しを与えねばならないと追い詰められる。ただの苦行にしかなりませんでしょう?」
葛の葉は淡々と言い詰めると、食い下がり続ける雅清を冷ややかに睨めつける。
「お嬢様のお心をこれ以上苦しめないで頂きたい」
毅然とぶつけると、葛の葉は「お引き取りを」と軽く頭を下げて引き下がる様に促した。
反論しようにも何一つ言い返す言葉がない正論に、雅清はグッと奥歯を噛みしめる。
……ここで食い下がり続けても、居座り続けても、何一つ好転しないだろう。寧ろ確実に悪化する、今は打つ手なしだ。
自分の中で導き出された最悪で最善の結論に、苦々しく顔を歪める。そして
「……本当に、すまなかった。次の非番にでも埋め合わせをさせてくれ」
と、扉の向こう側に向かって投げかけてから、雅清はゆっくりと扉から離れた。
どこかで声がかかり、この足を引き止めてくれるんじゃないか。
雅清はそんな期待を微かに抱いていたのだが。やはり扉は頑として開かず、渇望している声も最後まで発せられる事はなかったのだった。
翌日、二人は顔を合わせる事が出来たが。薫の態度が、明らかにいつもと違っていた。
薫から毎度零される愚痴や恨み辛みが一切吐き出されず、訓練終わりには向けられていた笑顔が向けられないまま終わる。
他の面々にもそうなのかと思えば、どうやらそれは自分一人らしいと雅清はすぐに理解した。
自分以外にはいつも以上によく笑顔を見せ、いつも以上に和気藹々としている。
早急にこの亀裂を何とかせねばと動き出そうとするも、薫はその前にするりと離れてドンドンと遠のいて行ってしまったのだった。
「ねぇ、もういい加減にしてくれないかな?」
怜人は雅清の自室に入るや否や、朗らかに笑いながら彼を窘めた。
雅清は笑いながらも、その裏に込められた激怒に、はぁと小さくため息を吐き出す。
「分かっている」
「いいや、分かってないよね。何一つ」
怜人は冷淡に打ち返すと、椅子に腰を下ろして雅清と真っ向から対峙した。
「女にうつつ抜かしているだけじゃなくて、気の抜けた馬鹿に成り下がっている奴に隊長を務めて欲しくないんだよ。隊の雰囲気は悪くなるし、士気も下がる。何よりうちの大事な戦力の一人をいたずらに削って欲しくないんだよね。だからさっさと割り切って、前に進んでくれない? そうじゃないと、本当に鬱陶しくって困るよ」
淡々と敷き詰められる厳しい言葉に、雅清は「お前……」と苦々しい面持ちで彼を見据えた。
怜人は「フフッ」と蠱惑的な笑みを零してから、片肘を突いてハッキリと告げる。
「優しく慰めに来たとでも思った? 残念、君の横に居る副官はそんな優しい男じゃないよ。まぁ、そもそもの話、君は慰めなんて貰える立場にないけどね?」
だって、自ら柚木さんを振って東雲嬢を選んだ男なんだから。と、大仰に肩を竦めた。
その一言に、雅清は「違う」と剣呑に言い返す。
「俺は東雲嬢を選んだ訳じゃ」
「ないって? 君自身にそんなつもりはなくてもね、あんな事をすれば、そういう形になるんだよ」
分からなかった? と、怜人は雅清の言葉を遮って訊ねた。
雅清はその問いにグッと言葉を詰まらせてから、口を開くが。その前に、怜人が淡々と言葉を継いだ。
「だから柚木さんは君に踏ん切りを付けた。けど、君はどう? 曖昧な態度を取り続けて、おどおどと彼女の周りを彷徨うだけ。本当に柚木さんが可哀想で仕方ないし、見ているこっちも辛いもんだよ」
「……だから柚木を諦めろ、と?」
雅清は声を絞り出す様にして問いかける。
「諦める、なんて高尚な言い方は出来ないはずだけどなぁ。まぁ、でもそう言う事かな。君は東雲嬢を選んだ、なら選んだ方へ進むべきだよ。結婚して、めでたしめでたしだ」
「そんな心で結婚なんて出来るか。柚木だけじゃなく、東雲嬢も傷つけるだけじゃないか」
「あれ、今更君がそんな事を言っちゃう? あの二人が同時に同じ場所に立った時点で、どっちかは確実に君によって傷を負わされるんだよ」
だからさっさと東雲嬢とくっつきなって。と、怜人はひらひらと顔の前で手を振って言った。
雅清はそんな怜人からサッと目を落とし「でも、俺は……」と、口ごもる。
怜人はふうと小さく息を吐き出し「だからぁ、もううじうじしないでくれないかなぁ」と、呆れと苛立ちを滲ませて言い放った。
「自分の中で決まっているんだったら、決めた事にまっすぐ行けってば。簡単な話じゃないか、なんでそこでうじうじ立ち止まっちゃうんだよ」
はぁっと嘆息し、「柚木さんが良いんだろ?」と彼に向かってまっすぐ問いかける。
「だったら、そっちに向かって走って行きなよ。そりゃあ今更かもしれないけどさ、今更でも何でも決まっている道があればそっちに走るべきだよ」
呆れた口調で淡々と紡がれた言葉に、雅清はハッとする。バッと顔を上げて「怜人」と、呆れた面持ちの怜人をまっすぐ見据えた。
怜人はその眼差しを受け止めると、「言ったよね?」とフッと口角を上げて告げる。
「俺は慰めになんか来ていない。ただ、君の情けない背を容赦なく蹴り飛ばしに来たんだよ」
だからさっさとしゃんとしてくれよ、隊長。と、ポンッと彼の肩を軽やかに叩く。
「周りなんて気にしないで、ただまっすぐ進んでくれ」
雅清は目の前の笑みに、グッと奥歯を噛みしめた。
「……だが、俺が東雲嬢を振れば聖陽軍に迷惑が」
「まぁ、それは色々とやかく言われるかもしれないけど。結局の所、うちは内務大臣の庇護下にないからね。何とかなるでしょ。そんな事よりも、君を腑抜けのまま燻らせる方がうちにとっても、国にとっても大損害だよ」
君は自分を軽んじすぎだ。と、怜人は呆れをふうっと吹きかける。
……嗚呼、そうだ。怜人の言う通りじゃないか。
俺は、今まで本当に大切な事を見誤り、選択を間違え続けていた。大切なものを失うものかと奔走する道を悉く間違えていたのだ。
もう、間違えない。
雅清はキュッと唇を真一文字に結んでから、怜人をまっすぐ射抜いた。
「すまん、怜人」
「別に良いよ、これが副官の務めってもんだしね」
怜人は朗らかに笑ってから、スクッと立ち上がる。そして「じゃ、俺は戻るね」と、ひらりと手を振って、戸の方へと足を進めた。
その背に、雅清は「怜人」と声をかけて立ち止まらせる。
怜人はその声に「何?」と、立ち止まって軽く振り返った。
「今度酒を奢らせろ」
「安酒じゃなくて、上等な酒で頼むよ?」
「ああ、勿論だ」
雅清は力強く頷く。
その頷きにフッと微笑を零すと、怜人は「あ」と何かを思い出した様に口を開いた。
「あんなに頑なでまっすぐ過ぎる子をもう一度振り向かすのは、骨が折れる所の話じゃないと思うけど。まぁ、頑張ってね」
「ああ。そこは言われずとも、だ」
「そう、なら良かった」
怜人はフフッと上機嫌な笑みを浮かべてから、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
雅清はその背を見送ってから、「よし」と小さく独り言つ。
心も、進む道も決まった。
だからまず、俺がやるべき事は……。
薫の心は想いを消す為に闇を彷徨い、雅清の心は薫の心に向かって歩き出し、優衣子の心は雅清の心を追いかける。
それぞれの心が、それぞれの道をしっかりと歩み始めた。
だが、「歩くのが遅かったな」と言わんばかりに、突然道の中央に試練が立ち塞がる。
それは、逢魔が時。魁魔が盛んに動き出し、活発になる頃合いに行われる東雲誠造氏主催の舞踏会に、枢木隊が護衛として当たる様にと命を下されたのである。
「大丈夫か?」
薫は横から心配そうにかけられる声に、「え? 何が?」と、きょとんとして打ち返す。
「男女《おとこおんな》とか悪口を飛ばされる事? それとも、軍服を着ている女が居るなんて悍ましいって罵倒される事? そんなの、もう慣れたもんよ」
聖陽軍に入った頃はこんなもんじゃなかったわ。と、笑顔で付け足した。
「アンタだけが、普通に接してくれたのよ。知らなかった?」
「いや、知ってたけど」
篤弘は苦々しく答えてから、「そうじゃなくて」とあっけらかんと話す薫にはぁとため息を吐き出す。
そして「俺が大丈夫かって聞いたのは、この事」と、ふいっと目線を流した。
彼の視線を辿る様に、薫も目をそちらに移すと。豪華絢爛に飾られたダンスホールに、豪奢な仕立てで煌びやかに美しく着飾った女性陣。キリッと立派な燕尾服に身を包み、各々で小難しい言葉を交す男性陣が広がっている。
一流の楽団と謳われる程の楽団が部屋の一角を担い、先程から流麗な音楽を奏でているからか。場内の雰囲気は、殊更高級で豪勢なものになっていた。
そんな華美な世界で一際目立っているのが、美しい橙色のドレスに身を纏った優衣子。そして、彼女の傍らに立つ雅清と怜人であった。
薫はその姿を捉えるや否や、すぐにふいと目を逸らして「別に」と答える。
「全然、平気も平気よ」
なんて事ないわ。と、腰に差した剣の鍔をカチャンと押し上げてから、パッと手を離した。
カチャンッと鞘と鍔が当たる金属音が、艶やかな音楽の裏打ちの様に小さく弾ける。
「あの二人が今、あの人の側に居るのは護衛の顔合わせみたいなもんだからな」
「分かっているわよ」
薫は淡々と答えてから、「篤弘」と、彼をまっすぐ見つめる。
「もう私は平気なの、だって好きじゃないんだから」
訓練の時だって、平気でこなしているでしょ? と、フッと口角をあげて答えた。
篤弘は「どこがだよ」と、はぁと小さく息を吐き出してから言う。
「枢木教官が話しかけようとしたら、すぐ逃げていくじゃねぇか」
あの人をあんまり傷つけるなよな。と、呆れ混じりに付け足され、薫は「篤弘、アンタ、どっちの味方なのよ」と物々しく突っ込んだ。
篤弘は横からの刺々しい威圧に「どっちもだよ」と、軽やかな笑顔で受け流す。
「でも、まぁまぁお前寄りかな」
薫はその笑顔を見ると、「当然よっ」とぷいっとそっぽを向いて腕を組んだ。
そしてしばらく間を置いてから、「ねぇ」と囁く様に声をかける。
「……篤弘」
「何だよ」
「こんな所で打ち明けるのもなんだけどさ。私、近々異動願いを出そうかなって思うの」
「は?」
篤弘はなんでもない様にサラリと告げられた話に愕然としたが、すぐに「何言ってんだよ」と、怒った様に言葉を続ける。
「異動って、枢木隊を出るって言うのか?」
「そう。除隊はしたくないから、異動願いを出して他に隊を移ろうかなって」
「馬鹿言うなよ。いや、そもそもの話、そんなの枢木教官が許す訳ないだろ」
「そこは大丈夫だと思うわ。だって、土御門総帥に直接出すつもりだもの」
土御門総帥とは色々縁があるから、私の願いを絶対に聞いてくれるはずよ。と、薫は小さくふんっと鼻を鳴らして答えてから、「でも」と、しゅんと肩を落とした。
「篤弘とここの先輩達と離れるのは、とっても嫌なの。柊副教官も優しくて好きだし」
「じゃあ、このまま枢木隊にいれば良いだろ」
篤弘は力強く言い聞かせる様に返してから、「これ以上、馬鹿な事言うなよな」と、薫を厳しく睨めつける。
薫はその厳しい眼差しに、うっと身体を強張らせ、ばつが悪い表情で「でも」と反論を紡ぎ出そうとした。
その時だった、流麗な音楽がピタリと止まり、上座から中央へカツカツと尊大に歩き出す御仁が一人。
その姿に、ざわざわと飛び交っていた会話もピタリと止まり、厳かな静寂が広々としたホールに漂った。
「……あれが、内務大臣の東雲氏?」
薫は訪れる静寂を破らない様に、コソッと篤弘に耳打ちして尋ねる。
「そうだ」
篤弘はコクリと頷き、彼の一挙手一投足を見据えた。
薫も、そんな彼に倣ってカツカツと尊大な一歩で中央へと歩む東雲誠造を見つめる。
皆の注目を一身に集めている彼は、中央に到着するや否や、ごほんっと大きくわざとらしい咳払いをした。
「当家が主催する舞踏会にお集まり頂きまして、誠にありがとうございます! 皆々様、どうぞ本日は心ゆくまで、麗しい一夜をお過ごしくだされ!」
誠造は上機嫌に宣誓すると、「そんな今宵の始まりは!」と、バッと中央の近くで佇んでいた優衣子と雅清の方へ手を伸ばした。
「我が娘とその婚約者殿に務めて頂きましょう!」
朗々とした宣誓があがると、注目の的となった彼等二人にドッと称賛や羨望がかけられる。
「始まりに相応しい方々だわ」「うむ、実に絵になる二人じゃないか」「あんな方と結婚出来るなんて羨ましいわ」「子が出来るのが実に楽しみな二人ではないか」
場内の壁と化している薫達の所にまで、彼等に向けられる声が次々と耳に入り込んで来た。
薫はグッと奥歯を噛みしめ、目の前の状況を睨めつける。
その禍々しい目に気がついたのか、篤弘は「あの親父、枢木教官を無理やり結婚させるつもりかよ」と、苦々しく呻いた。
「薫。これは縁談に渋る枢木教官をこうして周りの目と共に囲って、更に断りにくい状況を作り上げるだけだからな。枢木教官が結婚するって決まった訳じゃないからな」
「もう良いってば」
どうせ、あの二人は結婚するのよ。と、薫はぶすっと尖らした唇で噛みついた。
そんな薫に、篤弘は「馬鹿」とバシッと肩を叩いて、「よく見ろよ」と前をしっかりと見る様に促す。
「枢木教官が、東雲嬢との結婚に乗り気な顔してるかよ? あれは、本気で嫌な顔だぞ」
「……人が垣根になってて見えない」
「こっち来てみろ」
薫の弱々しい反論を素早く封じ、ぐいっと薫の身体を引っ張り立たせた。
引っ張られた薫は「もう良いってば!」と、声を少々荒げて噛みつくが。ふらりと揺れ動いた薫の目は、しっかりと映してしまった。
手を差し伸べ、優衣子と踊り出そうとする雅清の姿を。
その姿に、ズキリと胸に大きく傷が入り込んだ。だが、その一つでは終わらないと言わんばかりに、鳴り止んでいた音楽が流れ出し、二人がゆったりとしたスローワルツに乗って優雅に踊り出す。
……あの人は、美しく着飾った女性の手を取って、あんなに密着して踊っている。
でも、私はこうして遠い場所で、こんな格好でそんな二人を見つめるしか出来ない。
嗚呼、もう本当に嫌……!
沸々と滾ってくる苦しい想いに、薫は堪りかねずバッと身を翻した。
「ごめんっ、ちょっと外れる! 一人にさせて!」
後ろから「おい!」と慌てた声がしたが、薫の足は引き止めるものを全て振り払って駆け出す。
無我夢中になって、舞踏会の流れ出る音から、煌々と照らす光から必死に逃げた。
そうして聞こえてくる音が微かになり、仄暗い暗闇を感じると、唐突に薫の全てがハッと我に帰る。
小さく肩を上下させてハッハッと短くなった息を整えながら、周りを見渡すと……そこは丁寧に手入れされた薔薇が咲き誇る庭園であった。
「……私ってば、外まで飛び出しちゃったのね」
仕事があるのに。と、思った以上に遠くまで駆け走ってしまった自分を責め立てるが。フッと蘇るあの二人の姿に、薫は免罪符を得た気がした。
うん、うん。そうよ。ちょっとこうして一人で気持ちを作った方が良いもの。
ふうと小さく息を吐き出し、込み上げる涙をググッと掌底で拭った。
その時だった。
「おや、先客が居ましたか」
後ろからかかる、艶やかな低い声音に、薫はハッとし身を翻す。
見れば、闇を縫うようにして一人の男性が現れた。少し離れた所からでも、ふわりと漂う上品な香水。カッチリとした燕尾服に身を纏い、胸ポケットに上質な白色のハンカチを入れている。
短めの黒髪を後ろに撫でつける様にして固め、キリッと上品な髪方をしているが。彫りの深い、端正な相貌で充分凜々しさが感じられた。
な、なんか枢木教官とはまた違った格好良さだわ。魅惑的な何かを感じちゃう……。
薫は現れた男性に息を飲んでから、「し、失礼します」とおずおずと脇を抜けて行こうとした……が。
「そうも慌てて行こうとしないで下さいよ、お嬢さん」
男性は歩き出した薫の足を素早く且つにこやかに止めて、「折角ですからお話でもしませんか」と、朗らかに促した。
「今宵を楽しみにしてこちらを訪れたのですが、人酔いしてしまいましてね。しかしこのまま誰とも話さず、薔薇と話すだけは寂しいと思っていた所なのですよ」
眉根を寄せ、小さく肩を竦めて話す彼に、薫は「そうだったんですか」と足を止めて、おずおずと向き合った。
「でも、私、仕事を少し抜け出してしまった所なので……」
「では、少しだけお付き合い下さい」
男性はニコリと指先で「少し」と言うジェスチャーをして訴えかける。
キリッとしていながらも、可愛らしい雰囲気に薫は「で、では少しだけ」と弱々しく白旗を揚げてしまった。
こんな所まで一人で抜け出したのがバレただけでも怒られそうなのに、こんなサボりなんてもっと怒られそう……でも、今は、ちょっと位許されるわよね?
いや、許されるべきよ。と、薫は内心で刺々しく独りごちてから、男性と対峙した。
男性は話し相手となる事を承諾した薫に向かって「ありがとうございます」と、ふわりと微笑んで礼を述べた。
薫はその礼に「いえ」と口元を綻ばせて答えてから、「でも、逆によろしいのですか?」と問いかける。
「こんな軍服を着た男女《おとこおんな》と、こんな所で二人きりになっても」
「男女《おとこおんな》、ですか? 私には貴女が実に可愛らしい女性にしか見えないので、正直この状況は喜ばしい事この上ありません」
こうなっては、人酔いして良かったと心底思いますよ。と、男性はあっけらかんと打ち返した。
思いも寄らない答えに、薫は「へっ」と素っ頓狂な声を上げてしまう。
初めての男性からは百発百中と言って良い程に、悪口か罵倒が飛んで来るのに? ! 私を可愛らしいって褒めた? !
薫は雷に打たれた様な衝撃に愕然とし「わ、私が、ですか?」と目を見開いて訊ねる。
男性は、何もおかしい事は言っていないと言わんばかりに相好を崩して「えぇ」と柔らかく首肯した。
「薔薇も相まって、実に麗しい」
フフと艶やかに微笑むと、カツカツと一歩ずつ距離を確実に詰め始める。
薫はドギマギと暴れる内心を抑えるのに必死で、詰められていく距離にはどうにも出来なかった。
見目麗しい顔が近づき、スッと頬に向かって伸ばされる手にただただドキリドキリと胸が跳ねる。
「ああ、本当に貴女は夜が良く似合いますね」
ツツツと冷たい指先が、ほんわりと温かい頬をなぞった。
「暗闇が黒ければ黒い程良い。こうした真黒でないと、花影の貴女には相応しくないですから」
……花影の貴女?
ドキドキと胸を打っていた薫はあまりにも泰然と吐き出された言葉に、一拍遅れて気がつく。
ハッと息を飲み、怪訝を声高にぶつけようとした……刹那。薫の意識がぶわっと黒に染まり、身体を支えていたものがブチブチッと切れて弛緩する。
……な、何が起きたの。
黒に飲まれまいと、薫は必死に抗いながら思ったが。その思考も、遂にブツリと寸断されてしまった。
だが、全てが途切れる前に、薫の耳は遠くから発せられる冷たい声を拾っていた。
「クククッ……実に愚かな花影よ」
雅清はぶわっと感じる悍ましい霊気に、ハッとして固まった。前からのリードが止まった優衣子は怪訝な顔をして「雅清様?」と訊ねる。
その時だった。
「避難誘導班は直ちに動け!」
霊気探知に長けた怜人が荒々しく檄を飛ばした。
突如張り上げられた異変に、華族達は「何だ、何だ」と困惑し、混乱に陥るが。飛ばされた檄に弾かれた様にして、決められた班の面子が素早く避難誘導を開始し始めた。
「ま、雅清様!」
優衣子はガバッと雅清に抱きつき、自分の恐れを拭ってもらおうとしたが。雅清は優衣子を素早く剥がして「早く避難を! 魁魔が来ます!」と端的に促した。
そして「そんな! 恐ろしいわ!」と縋り付きそうになる優衣子をにべもなく退けてから「総員、迎撃準備!」と、声を張り上げて剣を抜く。
刹那、バリイィィンッと天井が割れ、悍ましい魁魔の群れがわらわらとダンスホールに突っ込んできた。
百鬼夜行だと! ? 馬鹿な、ここに集中して突っ込んで来るなんて……まさか!
雅清は現れた百鬼夜行の姿に愕然とするも直ぐにハッとし、悲鳴と人が錯綜する場内を見渡した。
柚木、柚木はどこだ? !
剣を振い、向かってくる敵を斬り伏せながら薫の姿を探す。
だが、どこに目を向けても薫の姿を捉える事は出来なかった。
クソ、どこだっ! 柚木、お前は迎撃班としてこの場に居るはずだろ! どこに居るんだ!
「炎走!|《えんそう》」
苛立ちと共に繰り出した攻撃が、辺りの百鬼夜行を一気に仕留める。
ギャアギャアと敵は焼け焦げていくが、雅清の心は何一つ鎮まらなかった。
「怜人、柚木はどこだ!」
近くで剣を振っていた怜人に向かって怒声を張り上げると。怜人は「えっ、そこら辺に居ない? !」と愕然と敵を斬り伏せてから、辺りを軽く見渡した。
「おかしいな、どこに行っちゃったんだろう?」
怜人が自分と同じ疑問を持ったと分かるや否や、雅清は「おい!」と迎撃に当たっている自身の隊士達に向かって声を張り上げる。
「柚木がどこに居るか、知っている者はいるか!」
その一声に、ざわっと困惑と怪訝が広がった……が。「枢木隊長!」と、篤弘が敵を払いながら、ダダダッと駆け寄って来た。
「高藤、柚木の行方を知っているのか? !」
「も、申し訳ありません! 薫は、すぐに戻るからと言って、先程どこかへ出て行ったっきりなのです」
おずおずと告げられた告白に、雅清は「何だと? !」と、ひどく愕然とする。
「一人で出て行ったのか? !」
篤弘に向かって、鋭く訊ねると。篤弘はキュッと唇を結び、何とも言い難い表情で頷いた。
その時だ、ギャアギャアと雄叫びをあげながらダンスホールを暴れ狂っていた百鬼夜行の群れがくるりと踵を返し、一気に退き始める。
作り上げた天井の大穴からわらわらと抜けだし、戦い途中であった者共もピタリと戦いを辞めて、そちらに向かって行くのだ。
先日の物の怪共と同じ様な退き方に、皆「まさか」と不穏を抱くが。
「いや。集まっていた霊気が一気に散り散りになっているから、これは本当に逃げ帰っているよ」
淡々と告げる怜人の言葉に、隊士達の間でホッと安堵が広がった。
だが、雅清だけは依然そのまま。不安ばかりか、じくじくと焦燥まで込み上げ始める。
……奴等の狙いは柚木ではなかったのか? いや、だが、百鬼夜行が一点に集中して襲ってくるなど稀だ。
恐らく、花影である柚木を目当てにやって来たのだろう……が。柚木目当てであれば、柚木がここに姿を見せぬまま撤退した事には違和感が残る。
言い知れぬ違和感を覚えた刹那、雅清の頭にハッと稲妻が走った。
奴等の狙いが、柚木ではなく、俺達の足止めだと考えると……奴等の行動が全て合致するんじゃないか。
そして奴等にとっての「目的」を達成したから、俺達の前から撤退した。そう考えるとこの襲撃も、不気味な撤退も、柚木が姿を見せない訳も、全て頷ける!
雅清はバッと顔をあげ、「柚木を探すぞ!」と檄を飛ばす為に口を開いた。
しかし、開かれた口からは檄が飛ばず、「ハッ」と小さく息を飲む音に変わる。
雅清の目が、キリッとした相貌の書生、竜胆の姿を捉えたからだ。
アイツは、柚木についていた式神!
竜胆は雅清が自分に気がついたと分かると、くいっと顎で外へ出る様に命じた。
雅清は直ぐさま「怜人」と、目の前に居る副官に鋭く声をかける。
「ここはお前に任せる」
怜人は端的に告げられた命令に、目を見開いたが。コクリと静かに頷き、「雅は?」と手短に訊ねた。
「俺は柚木を迎えに行く!」
雅清は言い捨てる様に答えてから、ダッと駆け出す。
そして竜胆が待つ場所へと走って行くと、竜胆が先導する様に走り出した。
「とんだ愚鈍が隊長を務めているものだな。お嬢様は連れ去られたぞ、間抜け」
肩越しに刺々しくぶつけられる言葉に、雅清は「やはり」とグッと奥歯を噛みしめる。
自分の不甲斐なさ、すぐに事を見抜けなかった愚鈍さ……様々な苦みが、一気に押し寄せるが。彼はグッと堅く作る拳でそれを押しのけ返し、「柚木は、どこに居る?」と鋭く訊ねた。
「葛の葉様が追っていらっしゃる。俺達はその後を辿って行く」
竜胆は淡々と打ち返す。そして「良いか、鈍間《のろま》」と尊大に言葉をぶつけた。
「お嬢様を傷つけ続けるお前を連れて行くのは、お前がお嬢様の事情を知っているからだ。思い上がるなよ」
傷つけ続ける、その一言で更に雅清の心にのしかかっていた苦みが力を増す。
雅清はグッと奥歯を噛みしめてから、「今は早く連れて行ってくれ」と声を絞り出す様にして頼み込んだ。
「俺はこれ以上、後手に回る訳にはいかないんだ」
竜胆は後ろからの苦しげな声に、ふんと小さく鼻を鳴らすと。にょろにょろっと姿を変えだした。
そして黒の鱗と金色の背毛が美しい、細長い龍の姿に変わると「乗れ」と、雅清に向かって端的に促す。
雅清は何も言わず、直ぐさまバッと竜胆の身体へ飛び乗った。
竜胆は雅清を乗せるや否や、グッと速度を上げて屋敷を駆ける。そしてバッと力強く飛翔し、ぽんぽんっと生まれる浮雲を鋭いかぎ爪で掴みながら空を駆け上った。
……もっと早く伝えるべきだった、もっと早くまっすぐ向き合うべきだった。今更しても仕方ない、たらればばかりが生まれる。
だが、いつまでもそんなものに浸っている訳にはいかないんだ。
もう後悔はしたくない、もう後れは取らない。
柚木。お前が想いをまっすぐ受け取ってくれるまで、俺はお前を諦めないぞ。
薫はまどろんでいた世界から、じわじわと浮かび上がっていく。
ゆっくりと瞼をあげると、知らない世界が広がっていた。
最小限の火が灯された薄暗い部屋。先程いたダンスホールに似て、高さも広さもあるが。家具の一切が取り払われているせいで、がらんとした寂しさがひどく押し寄せた。
だから、まるで使われていない部屋なのかと思えば。床に積み重なる埃は一切なく、かび臭い匂いも一切しなかった。
「何、ここ」
薫はボソリと独りごち、重たい頭を抱えようと手を動かそうとする。
刹那、カチャンと甲高い金属音が鳴り、手首がガツンッとその場に抑えつけられた。
朧気になっていた意識が、一気に鮮明になる。
薫は明朗になった意識を慌てて自分に向けた。
見れば、手首と足首にじゃらじゃらと重たい金属の鎖が填められ、床から少し離れた所で吊されていた。
行動の自由を奪われているばかりか、強制的に服従の姿勢を取らされている自分の姿に警戒音がけたたましく鳴り響く。
ここがどこだか、私がどうしてこうなっているのかも分からないけれど。兎に角、これだけは言える。
「マズいわ」
蒼然と吐き出した、刹那。「何もマズくありませんよ」と、あの声が聞こえた。
意識が途切れる寸前まで聞いていた声、そしてあの時の様に闇を縫って、あの男が現れる。
「どうも、花影様。やっと目覚めてくれて嬉しいですよ」
カツンと踵を打ち鳴らし、自分の前に婉然と立ちはだかった男。その男が纏う気に、薫はゾクゾクッと総毛立った。
「あ、貴方……人間じゃなかったのね」
「仰る通り、私はあやかし。この国では吸血鬼と括られ、祖国ではヴァンパイアと呼ばれる、アレン・ロンバートと申す者です」
ニコリと妖しげに綻ぶ口元から、キラッと鋭い犬歯がのぞく。
明らかに人ではない鋭利な歯に、薫はゴクッと息を飲んでから「何故」と、虚勢を張って訊ねた。
「あの時、あやかしの気がしなかったのに」
「今はする……そうも不思議がる事ではありません、簡単な話です」
アレンは薫の言葉を淡々と遮って言うと、フッと小さく鼻で笑う。
「我々はあやかしでありながら、人に近しい生物。故に、霊気を押さえ込める事が出来るのですよ」
とは言え、いつまでも隠し続ける事は出来ませんよ。と、大仰に肩を竦めて言った。
「貴方を連れ去る時の様に本性を露わにしてしまえば、いかに隠そうとも邪悪は隠しきれません……貴女とは違って、ね」
薫は最後に付け足された一言で、全てを察する。
「狙いはコレ?」
スッと側めた目を腹部に落として訊ねると、アレンは「左様です」と満足げに大きく頷いた。
「影王、同じ闇に住まう物の怪でありながら、圧倒的な力で畏れられている存在。私はその力を知りたかったし、何より自分の元に欲しかった。ですから、わざわざこちらに渡ってきたのですよ」
それからはずっと貴女を探り、貴女だけを狙ってきた。と、ふふふと蠱惑的な笑みを零すと、ぬるぬると立体的に伸びる影が女の子、背を丸めた老人の姿にゆっくりと変わっていく。
薫は現れた顔見知り二人の姿に、ハッと息を飲んで怒声を張り上げた。
「あの時の鉄鼠も百足も、全部アンタの仕業だったのね!」
「えぇ。全く、骨が折れましたよ。貴女はなかなか堅固な護りから抜けないし、抜けたと思えば想像以上に強かったのでね。操り人形だけでは上手く捕らえられなかった」
やはり大義を成すには、自分で直接動かねばと言う事でしょうね。と、アレンは大仰に肩を竦めて、ふうとわざとらしいため息を吐き出す。
その姿に、薫の中の怒りが沸々と湧き上がった。
あんなに大勢の人達が暴れ狂う物の怪に苦しんで、怖い想いをした。
知られたくない秘密を好きな人に晒さねばならなかった。
好きな人の好きな人が現れて、私は側から離れなきゃいけなくなった。
全部、全部、自分勝手なコイツのせいだった! コイツがいなきゃ、コイツがこんな事を望まなきゃ、今頃私は……!
薫はグッと奥歯を噛みしめ、荒々しく拳を作ると。ガチャンッと鎖を大きく鳴らし、全身で怒りを表した。
その姿に、アレンは「怖いですねぇ」とニヤリと口角を上げる。
闇夜にキラリと光る牙が、闇を鮮やかに嗤う姿が、薫の堪忍袋の緒を完璧にブチブチッと切らした。
だが、そんな事にも気がつかず、アレンは「さて、そろそろ封印を解きますか」と、艶やかな笑みで続ける。
その笑みに、薫は「封印を解く?」と冷笑を浮かべた。
「えぇ、出来ないと思いましたか? かなり苦労しましたが、封印を解く術を見つけたのですよ」
「あら、残念ね。その苦労、今この瞬間で全部無駄になったわよ」
「どういう事でしょう?」
アレンは眉根をキュッと寄せて訊ねる。
刹那、ゴゴゴゴッと大地が大きく揺れだし、ガタガタッと空気までも大きく顫動する。
「こんな所で良かった、皆が……あの人が居なくて本当に本当に良かったわ!」
薫が張り叫んだ、次の瞬間。ぶわりと薫の身体に漆黒が纏い、ギランッと悍ましい赤に両目が染まる。
「存分に後悔なさい! 私をこんな所に連れ去ってしまった事をね!」
高らかに張り叫ばれる声に呼応して、ぶわりと部屋の闇が、彼女を覆う影が一気に黒を強めた。
そしてガタガタと震える空気に耐えきれず、バリィンッと悲鳴をあげて窓ガラスが次々と割れていく。
「おお、おお! これが夢にまでみた影王の力かっ!」
素晴らしい! ますます欲しくなった! と、深まるばかりの闇に比例して、アレンは顔を煌々と輝かせ、バッと手を前の闇に伸ばした。
まるで、望みの玩具を手にした子供の様であった……が。アレンの輝きがみるみると薄れ、弾けていた狂喜も突如ブツリと途切れた。
「……what?」
アレンの口から単語が小さく零れ、つうっと顎に何かが滴る。
アレンは怪訝に眉根を寄せて、目をそちらに落とすと。いつの間にか、自分の腹部にどすりと大きな黒の棘が聳え立っていた。
そこで初めて、アレンは顎を滴るのが自分の血であり、ズキズキと這いだした何かが痛みだと分かる。
『嗚呼、やはり貴様如きの薄き黒では……まるで足らぬわ』
ゾクリと肌が粟立つ以上に恐ろしく、全てを慴伏させてしまう様な低い声が発せられた。
その声に導かれる様にして、アレンはゆっくりと顔を上げる。
上げた視線の先に、薫の姿はなかった。
何もかも潰し消す漆黒に悍ましい朱色が二つ光り、ぼわぼわと僅かに人の形を取っている様な存在がいるだけ。
「なんと、影王とは。影、そのものだったのか」
『この我を貴様如きの薄っぺらい黒と同列に語ったばかりか、愚かにも我の力を我が物にしようとした……貴様ほど飛び抜けた愚者はそうそうおらぬ』
薫の身体を乗っ取って現れた影王は、アレンの言葉に何一つ耳を貸さず、滔々と自分の言葉を並べていく。
『この我が下に見られるとは、耐え難き屈辱……だがまぁ、直に失す事よ』
我は貴様を忘れてしまうからな。と、ニタリと朱色の目玉が不気味に細められた。
その言動に、アレンはヒッと大きく息を飲む。
しかし、やはり影王は、彼を歯牙にも掛けていなかった。
『いや、我が忘れてしまうのではないな。貴様が自ら消えていくのだ。我より強い黒ではなかったが為に飲まれて終わる』
至極真っ当の、道理だ。と、尊大に告げるや否や、アレンの身体を貫いた棘からじわりじわりと黒が蝕み始める。
「や、辞めろ!」
アレンは頓狂な声で叫ぶと、自らに貫く棘を引き抜こうと慌てて動きだした。
だが、棘はまんじりとも動かずに黒を流し続ける。そればかりか、棘に触れた手が黒点を作り、瞬く間にぶわりと黒を広げた。
アレンは「アアアアッ!」と甲高い悲鳴をあげ、その手を大きく掲げて暴れ出すが。アレンを食む漆黒は少しも止まらず、加速していった。
『何とも醜く愚かしい、実に好感が持てる姿だ……が。それだけではカオルを刺激し、我の眠りを妨げてくれた罪を贖う事は出来んな』
影王は、初めて目の前の「彼」に反応するが。そこには興味も救いもなく、ただ酷薄なものであった。
影王からの容赦が一切なく、アレンは漆黒に飲み込まれ、棘に収縮されていく。
そうして彼の口からあがっていた絶叫がブツッと途切れ、彼であった姿も見事にその場から、いや、現世からなくなった。
『薄すぎる……これでは腹がちいとも膨れん』
影王はむうっとない頬を膨らませて言うと、しゅるんっと「ナニカ」を刺していた棘を自らに引き寄せてとぷんっと溶け込ませる。
すると突然影王はクククッと、喉奥から楽しげな笑いを零し始めた。
『女狐よ、我が読めていないとでも思ったか?』
言うや否や、影が蛇の様に素早く飛びかかり、ぼごおんっと壁と煉瓦造りの暖炉の一部が荒々しく崩壊する。
もくもくとあがる土煙。その中央から煙を引き裂く様にして、葛の葉が現れた。毅然とした歩みで距離を詰め、キリッと鋭い眼差しで影王を射抜く。
「敵を倒し、お嬢様をお救いしてくださった事はお礼を申し上げます。しかしながら、これ以上貴方様がこちらに出る必要はない。今すぐにお嬢様をお返し下さい。さもなければ」
『鍵を使って強制封印すると? 馬鹿を言うな、女狐。久方ぶりにカオルが沈んだのだぞ』
もう少しシャバを愉しんでも良かろう。と、しゅるんと影の蛇たちが床の黒から数匹現れ、うねうねと鎌首をもたげた。
「なりませんよ、貴方様にはすぐにお戻りいただきます」
『相も変わらず、融通が効かん女狐だ。貴様も元は我と同じ物の怪だろう、シャバを豪快に愉しみたい心は理解出来るはずだ』
片方の朱眼がスッと側められ、ぶわっと冷たい殺気が放たれる。
しかし葛の葉はしゃきりと背筋を伸ばしたまま相対し、「理解は出来ますが、承諾は出来ません」と淡々と打ち返した。
「お嬢様を返して頂きましょう」
葛の葉はサッと着物の袖を抑えて、右手を掲げる。
するとボッボッと彼女の華奢な指先が、美しく透き通った青色の炎を纏った。
『……この我が、おいそれと鍵をかけさせるとでも?』
「こちらが、幾らでもかけさせていただきます」
触れれば勝ちとは、何とも有利なものです。と、葛の葉は嫋やかに口角をあげる。
『女狐。この我を前にして有利とは、頓狂な事をぬかしよるの』
影王が言い終わるや否や、びゅんびゅんっと鎌首をもたげていた影の蛇が葛の葉に向かって一斉に飛びかかった。
葛の葉の眼前に、邪悪の牙が差し迫る……が。突如、真黒の蛇と葛の葉の間を螺旋状の炎がゴウッと分断した。咆哮の様に轟々と唸り、速度を緩めきれなかった真黒の蛇達を飲み込んで行く。
影王は、突然横から貫いた炎に大きく舌を打ち、横やりを入れてきた人物に『誰だ!』と憤懣としながら、そちらを向いた。
すると怒りに見開いていた目が「おお」と、ニタリとゆっくり細められる。
『これはこれは……カオルの想い人ではないか』