花影は、今日も愛を叫ぶ

 あれからどんな話をしたのか、どんな取り決めがあったのか。私には分からないし、一つも知る由はないけれど。あの人が来る様になってから、毎日が辛くなった事は確かだわ。
 薫はボソリと内心で独りごちながら、朗らかな笑みを向ける優衣子とその笑みを軽やかに受け取る雅清の姿を見つめていた。

 滅多な事では女性が、ここに入れるはずないのに。毎日、毎日うちの隊だけに顔を出してきて……タオルとか渡したり、「訓練お疲れ様です」って弁当の差し入れをしてきたり、お茶くみを率先してしたりして。もう立派に、枢木教官の細君じゃないの。

 前まで、私が一番あの人の側に近かったのに。あんな人が横に居座り続けるなんてさ、ずるいわよ。
 薫はぶつぶつと並べ立てた文句に、はぁと長ったらしい息を吐き出して、がっくりと顔を落とし、膝をギュッと胸元に寄せ込んだ。

 はぁぁ、もうすでに花影なんて言う醜い化け物のくせに。最近はどんどん、その醜さに拍車がかかっているわ。
 こんな自分嫌い。うじうじ・ボソボソ、裏でしか大きく言えない弱虫。もう、本当に大嫌いだわ。

 はぁぁと、地面に向かってため息を吐き出す。さーっと砂利が横に流れ、不自然な白肌がぽっかりと出来た。

 薫が、その地肌をぼんやりと朧気な眼差しで見つめていると。上から「薫」と、聞き馴染みの声が降ってきた。
 薫はむっくりと顔をあげ、声のした方を伺う。
「篤弘」
「失礼だな、なんだって顔すんなよ」
「仕方ないでしょ。だってなんだ、ですもの」
 薫は淡々と打ち返すと、すぐに顔をがっくりと戻した。

 篤弘はそんな姿に小さく息を吐き出してから、ドサリと横に腰を下ろす。
「いい加減、休憩の度に木陰に入って一人落ち込むの辞めろよな。あの人が女性に好意を寄せられる姿なんてもう数え切れない程見て来たろ、お前も含めてさ」
 横からの投げやりな諫言に、薫はキュッと唇を結んでから膝を更に自分の方へ引き寄せて「今回は違うじゃない」と、つんけんと言い返した。

「いつもは、はいはいそうですかって冷たくあしらうくせに。今回は邪険にしていないし、側に居る事を許しているじゃない。でも、そうなって当然よね。あの人、もの凄く綺麗だもの。女の私でも惚れ込んじゃうもの、近くに居るだけで良い匂いもするしさ」
 口早に言い分を滾々と重ねると。篤弘は「まぁ、確かにあの女性は綺麗だよな」と、同意してから「でも、あの人の横に居るのは許して貰っている訳じゃないだろ」と、反論をぶつけた。

「あれは父親の威厳あってこそ、だ。だから枢木教官は邪険に扱えないし、押しかけ女房されても許さざるを得ないんだよ」
 分かるか、薫? と、篤弘は厳しい口調から一転、にこやかに問いかける。
「あの女性はお前と同じ押しかけ女房かもしれないが、お前とは違う。お前みたいに、こんな過酷な場所に飛び込んで、泣き言を言わずに訓練を積み続けている訳じゃないんだ。一人だけで一生懸命作り上げて、勝ち取ってきた場所じゃないんだ。自信を持てよ」
 力強くかけられる慰めに、薫は「篤弘」と彼の名を呼んで顔を上げた。

「それって……私でも大丈夫だよ、勝てるよって言う慰め?」
「勝てるとは言ってねぇよ」
 篤弘はズドンッと薫の頭に綺麗にチョップを落とし込む。

「ったぁ! 何すんのよ!」
 薫は直ぐさま頭を抑えて、篤弘に「信じらんない!」と猛々しく噛みついた。

「そう、そうやって馬鹿みたいにがむしゃらに、しゃにむに頑張る様な奴じゃないと。あの人の横は務まらねぇと思うし、なんか相応しくねぇなと思っちまうね」
 篤弘の言葉に、薫の沈み込んでいた心が温かいヴェールに包み込まれ、とぅくんと軽やかに力を持って跳ね上がる。

「篤弘……。あ、ありがとう。なんか嬉しいし、自信が湧いてきたわ。それに知らなかった、アンタがそこまで私を買ってくれていたなんて」
「ばぁか、お前を買っている訳じゃねぇよ。俺はあの人を尊敬しているからこそ、あの人に関わる全てがあの人を傷つけて欲しくないだけだ」
 篤弘はベッと舌を小さく出してから、スクッと立ち上がった。

「あと、たった一人の同期が毎日こうも落ち込んでると鬱陶しいからだよ」
「何よ、失礼ね! 私だって、落ち込みたい時があるのよ!」
 薫はガタッといきり立ち、篤弘の肩を思いきりバシッと叩く。
「いってぇな! 何すんだよ、この馬鹿力! 慰めてやった恩を仇で返すのか!」
「アンタなんかに慰められた覚えがないわよ!」
 と、怒った様に叫ぶが。その表情にはもう落ち込んでいる影はなく、朗らかに綻んでいた。

 そうして薫は「この野郎~!」と篤弘を追いかけ回し、篤弘も「お前、もうちょっとしおらしくしてろ! 可愛げのない女め!」と言い返しながら逃げ回っていた。
 すると「おっ、柚木が復活した!」と声が飛び、ぞろぞろと枢木隊の面々が「俺等もやるかぁ!」と、鬼ごっこに参加し始める。

「ちょっと先輩達! 何しれっと参加してるんですか、私一人で捕まえるなんて無理ですよ!」
「無理じゃない、お前はやれば出来る子だっ!」
「今そんな事言われても嬉しくないですっ!」
 薫はギャーギャーと叫びながら、「逃げろ~!」と楽しそうに逃げる背中を追いかけ回していた、その時だった。

 ピイッと鋭く笛が鳴り、和やかな雰囲気をビリビリッと容赦なく引き裂く。
 皆がその笛の音にビクッと身体を強張らせ、音に導かれる様にして顔をそちらに向けると。雅清が咥えていた笛をスッと口元から離し、蜘蛛の子が散った様に散らばる自隊の面々を見渡した。

「遊ぶ元気があって結構、だが、どこにそんな余力を残していたのか。甚だ疑問だ」
 雅清は物々しく告げてから、「総員、坂を五十周走ってこい」と端的に告げる。

 直ぐさまあがる声にならない悲鳴に、薫は弾かれた様に「待って下さい!」と声を張り上げた。
「これは遊んでいたんじゃありません! 皆、私を慰めてくれていただけです!」
「慰めていた?」
 雅清は張り上げられた反論に、軽く眉根を寄せて繰り返す。

 薫は「何故慰められる様な事がある?」と言わんばかりの雅清にムッとし、「そうです!」と剣呑な口調で言い返した。
「なので、皆に罪はありません! 私だけが罰を受けて参ります!」
 五十周、上等よ! と言わんばかりの勢いでダッと飛び出し、近くに構えていたお馴染みの坂道をダーッと駆け上り始める。

 皆は悪くないもの。だからこんなの、私一人で充分よ。

 って言うか、何なのよ。あの顔、何お前が落ち込む事なんかあるんだみたいな顔しちゃってさ。枢木教官が、あの綺麗な女性にデレデレとしているのが悪いんだろうがって言う話なのに!

 薫は轟々と唸る荒波と共に駆けていく。
 だが、坂道を下っていくと、じわじわと波が引いていき、運搬された石だけがゴロゴロとその場に残される。

 ……嗚呼、今頃、あの女性と二人で仲良くお喋りでもしているのかな。駆け出していった私の話で盛り上がったりしちゃっているのかも。
 私がきっかけになって、あの二人の距離が縮まっちゃったら……? 
 薫は「そんなの嫌、駄目!」と首を振り、重しを振り切る様にして再び坂を駆け上っていく。
 するとゴウッと波が勢いを取り戻した。

 私が噛ませ犬的な位置づけになるなんて、絶対に嫌! そんなの阻止よ、阻止!
 あの人の横には、私が居たい! ううん、私が居るの!
 そう、何もいじける事ないわ! だって、あの枢木教官大好きっ子篤弘が「あの人の横にはお前じゃないと」って認めてくれたもの!
 さぁ! 負けるな、柚木薫! 走れ、柚木薫! 頑張れ、柚木薫!

 そうして気分が激しい浮き沈みを繰り返しながらも、薫は何とか坂道五十周を駆け抜けたのだった。
それは過酷な訓練が終わり、夕飯後の風呂に向かおうとしていた時だった。

 桶を持って、足早に風呂を済ませようとしていた薫は、突然ぐいっと物陰に引っ張られる。
 気が完璧に抜けていた薫は、見事にその力に引っ張られ「わっ!」と、物陰に飛び込んでしまった。

 急いで気を張り直し、慌てて自分の陥った状況を確認すると……彼女の張り詰められた気は、一気に弛緩する。

「もう、先輩達……またこんな急に、本当に辞めて下さいよ」
 何事かと思うでしょ。と、ぞろりと揃った枢木隊の面々に、薫ははぁと嘆息して呆れた眼差しを向けた。

 すると中央に立っていた岡田史彦が「柚木よ」と、代表する様に薫の右肩をポンと叩く。
「俺達はこれから全面的にお前の補佐に回る」
「補佐? 何のですか?」
 えらく仰々しく告げられた言葉に、薫は怪訝に眉根を寄せた。

「決まってんだろ。お前が枢木雅清中佐を落とす為の、補佐だ」
 ポンッと軽やかに空いた左肩に手を置いて答えたのは、枢木隊の序列三位に当たる飛鳥隆久《あすかたかひさ》である。

 薫は彼の軽やかな手と言葉に、「ハァッ? !」と、愕然とした声を飛ばしてしまった。
 瞬時にダッと口元に伸びる手が「馬鹿、静かにしろ!」と、彼女の悲鳴を強制的に押さえ込む。

 薫は幾本も伸びる手から「ぷはっ!」と荒々しく離れてから、「どういう事ですか?」と怪訝に問いかけた。
「今日の事もあって、俺達は決めた訳だ」
「いい加減、俺達が妹を押し上げてやらにゃいけねぇってな」
「だが、甘ったれるなよ。俺達が補佐をしても、結局はお前の行動が全てとなる訳だからな」
 代わる代わるかけられる尊大な言葉に、薫は「は、はぁ」と呆気に取られながら頷く。
 刹那「そんな気の抜けた返事をするな!」と、厳しい諫言が噛みつく様に飛んだ。
 薫は条件反射で、その声にバッと背筋を伸ばし「ハッ!」と敬礼したが。「待って? なんでこんな急に、おかしな感じになっているの?」と自らの失態よりも、この事の異様さに疑問を持ち始めた。

 だが、それでも熱が籠もった言葉は止まらない。

「良いか、柚木。あの人を落とす為に、こっからは本気を入れるんだ!」
「俺達も出来る限り、お前を助けてやるから!」
「あ、ありがとうございます……?」
 薫はおずおずと敬礼を解きながら答えると、史彦がずいと顔を近づけ「柚木」と、物々しく告げた。

「填まり続けていた一隊士の枠を蹴破る時が来たんだよ。良いか、明日からお前も女らしい所をあの人に見せていけ!」
 憤然とした顔付きで告げられ、薫は「女らしい所?」と引き気味で繰り返す。
「で、でも。そんな事したら、枢木教官、烈火の如く怒りません? 貴様、訓練舐めてんのかって」
「馬鹿、休憩や食事の時間でやれって事だ!」
 訓練中になんかやったら、俺達にも飛び火するだろ! と、史彦は恐ろしいと言わんばかりの声音で突っ込んだ。
 薫はその声に「岡田先輩って本当に……」と、苦々しく思ったが。すぐに「まぁ、そうですよね」と頷いた。

「でも、先輩。女らしい所を見せるって何をしたら良いんですか?」
「そうだなぁ。弁当を作るとかぁ、ふとした瞬間に髪をこうふわっと掻き流してみるとかぁ」
 史彦がうーんと考えながら吐き出していく。

 すると「馬鹿、それじゃ東雲嬢の模倣だろ!」と、横から激しい突っ込みが飛び、「簡単だよ、柚木!」と、隆久がグッと親指を立てた。

「休日デェトに誘え! そうしたらお前は女らしさを存分に見せつけられるし、あの人もお前を女扱いして、嫌でもお前が女だと意識するはずだ!」
 その提案に、「おお、その手は良い!」と言う歓声と称賛。そして「いやいやいや!」と大絶叫の否定が飛んだ。

「デェトなんて無理です、無理! 絶対に無理!」
 薫は周囲から上がる称賛を強く押しのけて、ぶんぶんっと全身を使って力強く拒否する。
「って言うか、簡単でもないし! 絶対に無理ですよっ!」
「馬鹿野郎! お前、それでも柚木薫か!」
 突然張り上げられた怒声に、薫は「えっ?」と目を見開いて固まった。

 だが、隆久はそんな薫を歯牙にもかけずに「どんな事があっても、めげず、まっすぐぶつかっていく。それがお前だろ!」と紡ぎ続ける。
「こんなちっさな事で怯む玉じゃねぇはずだ! いつもの様にぶつかっていけ! それでも臆すと言うのならば、お前、あの女性に枢木隊長を取られても良いって事になるからな? !」
 隆久は目の前でぶんぶんと拒否する薫に力強く言い聞かせ、「あの人、取られちまっても良いんだな!」と物々しい脅しをかけた。

 その脅しに、薫の瞼裏に微笑んだ優衣子が雅清と腕を組んで、笑顔を振りまく姿が映る。そして彼等は仲睦まじそうに微笑み合い、颯爽と遠くへ歩き出してしまった。薫の手の届かない所に、ドンドンと。

 取られる、枢木教官が……あの女性に。そうしたら私はこんな風に、もう近くにすら居られなくなっちゃう。

 薫は描き映された恐ろしい想像にぶんぶんっと頭を振ってから、隆久をまっすぐ見据え、きっぱりと声を張り上げた。

「良くありません!」
「そうだ! 良く言ったぞ、柚木二等兵!」
 隆久は毅然と張り上げられた否定に、喜色を浮かべて答えてから「では、今すぐに休日デェトに誘ってこい!」と、命令口調で告げる。
「ハッ! 柚木薫二等兵、枢木雅清中佐を休日デェトに誘って参ります!」
「よし、行け! 俺達はお前の帰りをここで待っているぞ!」
「ハッ!」
 薫は力強い敬礼と共に答えてから、モーゼの十戒の如く綺麗に中央で割られた囲いから飛び出した。


 そうして桶を持ったまま薫は男子寮に突撃し、雅清の居場所を人に尋ねて、尋ねて、手繰っていく。
 すると「あれ?」と、朗らかな声が背後からかかった。
 薫はその声にハッとして振り向くと、やはりそこには怜人の姿があった。

 怜人は薫の姿を一瞥するや否や、フフッと柔らかく相好を崩す。
「柚木さん、こんな夜遅くにこんな所で何をしているのかな?」
 そんな桶まで持って。と、チラと手元に目を落とされると、薫の内でじわじわと照れと恥が生まれてくる。

 だが、デェトに誘うと言う熱く猛々しい意気を鎮めるまでには至らなかった。
 薫は湧き出た二つをグッと飲み込んでから「申し訳ありません、柊副教官!」と、並べ立てる。
「枢木教官に所用があり、こちらに参った次第なのです!」
「雅に所用?」
 怜人は不思議そうに繰り返してから、「そう」とにこやかに答えた。

「分かった、じゃあ俺が雅の元に連れて行ってあげるよ。君一人でうろうろするより、俺と居た方が好奇の目とかに晒されないからね」
「あ、ありがとうございます!」
「フフッ、気にしないで良いよ」
 怜人は面白そうに小さく笑みを零してから「おいで」とくるっと歩みだし、一人彷徨っていた薫を雅清の元へと先導し始めたのだった。
 怜人は部屋の戸を軽くノックすると「雅、今、ちょっと良い?」と問いかける。

「あぁ、構わんぞ」
 内から、何の躊躇いもない許可が下りた。

「良いって」
 怜人はフフッと薫に微笑みかけてから、「入るね」と部屋の戸を開き、薫の強張る背をポンッと叩く。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 薫は礼を述べると、開かれた内へと「失礼します」と恐る恐る入って行く。
 刹那「柚木? !」と、愕然とした声が飛んだ。

 そして薫の胸もドキリと痛い程に高鳴る。
 何故なら、彼女の惚けた目に入る雅清の姿が軍服ではなく、浴衣姿であるからだ。

 ひゃあああ! 浴衣、浴衣だわぁ! それに髪に水が滴っていて、とっても格好いいのだけれどっ!

 ぶわっと興奮が押し寄せ、薫を天高くまで舞い上がらせていくが。天に待ち構えていた「デェト」と言う大文字によって、薫はバシッと現実に叩き落とされた。

 あぁ! そうよ、そうよ! 私はこんな所で舞い上がっている場合じゃなかったわ! 早く次の休日のデェトに誘わなくちゃ!

「な、なんでお前が。怜人は? いや、待て、そんな事よりも、お前」
 と、未だに驚きと困惑に填まり、辿々しい言葉を並べる雅清に向かって、薫は「あの!」と声を張り上げた。

 その大声に、雅清はビクッと身体を震わせてから「な、なんだ?」と問いかける。

「枢木教官は次の非番の日、何か用事が入っていらっしゃいますか?」
「次の非番の日? いや、特に何もないが」

 特に、何も、ないっ! ?
 薫は不審げに帰された答えに、ぱあっと顔を輝かせ「じゃあっ!」と、ずいっと前のめりに切り出した。

「私と外に出かけてくださいませんか!」
「べ、別に構わんが」
 別に構わんが……!
 すんなりと打ち返された答えに、薫は「やった~!」と大歓喜に包まれる。

 幾重にも飛ばされる万歳、ひらひらと舞う色鮮やかな花びら達。幸福のあやかしと称されるケサランパサランもふわふわと薫の周囲を飛び回り、幸せの鱗粉を振りまいていく。
 薫は幸せを噛みしめながら「本当に良いんですか? !」と、確認を入れた。

「それは別に良いのだが」

 やっ……いやいや、待って待って。良いのだが……だが?
 淡々と打ち返された言葉に舞い上がりそうになった己をバシッと押さえ込み、薫は「だが?」と恐る恐る先を促した。

 雅清は促されるまでもないと言わんばかりの顔付きで、ギロリと薫を睨めつけ「お前、まさか」とおどろおどろしい声音で言葉を継ぐ。
「そんな事を言う為に、こんな時間に、たった一人で、ここまで突っ込んで来たのか?」
 わざわざ物々しく言葉を区切り、雅清は冷ややかに言葉をぶつけた。

 マズい。これは鬼の説教モードに突入しかけているわ、急いで言い訳を考えないととっても恐ろしい事になるっ!

 薫はゴクリと唾を飲み込んでから「えぇと」と、急いで言い訳を考え始める……が。
「馬鹿か、お前はっ! こんな時間にたった一人で男子寮を彷徨うなっ!」
 張り叫ばれる説教に、「ひゃあっ!」と薫は身を竦めた。

「で、でも、枢木教官。私なんかが入った所で、誰も何もしませんよ。現に、柊副教官と会うまで何の問題もなかったですし」
「そういう問題じゃないっ!」
 おずおずと吐き出した反論も、直ぐさま力強く一蹴され、薫の身は更にしゅんっと縮こまる。

「お前は危機管理がなってなさすぎる! 自分がこの場ではどういう存在なのか、今一度よく考えろ! どうしてお前の部屋がここから離れた総帥室の階にあるのか、よくよく考えろっ!」
「は、ハイッ! 申し訳ありませんでしたっ!」
 薫はひいっと身体を竦めて涙声で謝ってから、「し、失礼しましたぁ」とおずおずと背を向けた……が。

「待て」
 鋭い制止が飛び、薫は「ま、まだお説教が……?」と弱々しく振り返った。
 そんな弱々しい小動物の様な姿に、雅清はフッと笑みを零してから「その非番の日は」と朗らかに問いかける。

「何時にどこだ?」
 薫はその問いに、ハッと口元に手を当てた。

 ど、どうしよう。何時にどことか、全く考えてなかったわ! それにどこへ行こうとかも、一切考えてなかったわよっ! 
 今の私にとっての最終目標は「一緒に出かける約束をする」だったもの!

 ええっと、どこが良いのかしら? それに、時間は何時くらいが一番良いの? 
 あんまり遅いのは嫌よね、じゃあ早めにして。あ、でも、早めって何時頃? そんなに早いと迷惑よね? 嗚呼待って、時間だけじゃなくて場所も考えなくちゃ。

 薫は「ええっと」と慌てふためきながら、デェトの時間と場所を考え出した。

 すると「お前、本当に考えなしに来たな?」と、半ば呆れ半ばからかい気味の声が飛ぶ。

 薫はおずおずとその声の主を伺うと。雅清はフッと柔らかく相好を崩し、薫を優しく見つめていた。
 その優しい眼差しに、その柔らかな微笑に、薫の胸はズキズキッと痛みが走る。そしてきゅううんと身体の中枢にまで深く震え、ほわほわと響いた。

「帝都からちょっと離れた所で骨休めに行くか?」
「は、ハイ!」
「じゃあ、正門に九時半だ。言っておくが、時間厳守だぞ」
「ハイッ! 勿論ですっ!」
 ありがとうございますっ! と、嬉しさをこれでもかと言う程ぶわっと飛ばして答えてから、薫は「失礼致しますっ!」とダッと駆け出した。

 雅清はその背に向かって「馬鹿、一人で行くな!」と、慌てて引き止めるが。その言葉も、手も、疾風の如く男子寮を駆け抜ける薫には何も届かなかった。
「何とか、デェトを取り付けられましたっ!」
 薫の喜色の富んだ報告に、枢木隊の面々は「おおおお!」と歓声をあげる。

 そして「やるじゃねぇか、柚木!」「良くやったぞ!」と次々と称賛を飛ばし、次から次へと薫の頭をわしゃわしゃと撫で回す手が伸びた。

 薫はその全てを「えへへっ」とはにかみながら受け止め、「本当に良かったですぅ」と喜びを零す。

 そんな中、「いや、まだそこまで喜んじゃ駄目だ」と、枢木隊の大歓喜に水を差す言葉がバシッと入った。

 皆がその声の主を見ると。村井毅《むらいつよし》が腕を組み、憮然とした表情を浮かべていた。

「ここは第一関門を突破したって所だろ。あの人の事だ、きっとこれがデェトなんて思ってないぜ」
 淡々と紡がれた諫言に、皆が揃ってハッと息を飲む。

 勿論、薫も愕然とした表情で息を飲んだ。

 そ、そうだわ。枢木教官、骨休めって言っていたもの……。

 喜びから一転、沈痛な面持ちになって目の前の事態に佇んでしまった。

 だが、「そんな深刻にならなくても大丈夫でしょ」と、朗らかな慰めが入る。
 皆でその声の方を見ると、囲いの後ろ側にいた篤弘が自分を見据える面々に向かってやれやれと肩を竦めた。
「始めはそんな雰囲気じゃなくても、段々とそういう雰囲気にしていけば良い話ですもん。だからお互い、気楽に集まった方が良いんじゃないか?」
 篤弘は周りの先輩、そして薫。それぞれに向かって、飄々と言葉を述べる。

「た、確かに。そうだな」「う、うん。篤弘の言う通りだと思うわ」
 次々とあげられる賛同に、篤弘は「でしょ」と答えてから「じゃあ俺、もう戻りますね」と軽やかに背を向け、一人囲いから離れて行った。

 ……篤弘。アンタ、本当に良い奴よね。
 薫は一人颯爽と戻ってしまう背に「ありがとう」と口元を柔らかく綻ばせてから、「アイツ、いつの間にあんなに格好良くなったんだ?」とやいのやいの言い始める先輩等に向かって「先輩!」と声をあげた。

「篤弘の言い分もありますけど。私が何をしたら、枢木教官をときめかせられると思いますか? 男の人って、どういう所でグッとくるとか……色々と、教えて下さいよ!」
 ずいっと前のめりになって尋ねる薫。

 そんな薫に、枢木隊の面々はニマッと顔を綻ばせる。そして全員を代表する様に、隆久が「よっしゃ、お前等!」と声を張り上げた。

「我ら枢木隊の可愛い妹の為だ! 精一杯考えて、最高のデェトにしてやろうぜ!」
「おおおおっ!」

 夜と言う閑静の包みを抜けない様に、少し押さえ込まれた胴間声が上がる。
 だが、次々と上がる力強い拳は瞬く星に負けじと高く突き上げられていた。

 そしてどんどんと熱さを増していく討論に押され、巣で眠りこけていたはずの鳥やリスが慌てて目覚め、わたわたとその場から遠のいていく。
 彼等は、周りの異変なぞ何一つ気付かなかった。いや、薫と言う妹の為に一丸となっている彼等には、そんな事、どうでも良かったのである。
「十五分、休憩」
 雅清は前でへばっている面々に向かって端的に告げる。

 するとその声に「待ってました!」とばかりに、隊士達が皆揃ってバッと雅清から離れた。それも少しの距離と言うのではなく、念には念をと言う様な遠くの木陰。そんな所に全員身を寄せ、薫を中心にして何やら熱心に語り合っている。

 ……急に非番の日に出かけないかと言い出したから何事かと思えば。成程、アイツ等の入れ知恵だったのか。

「偶には良い入れ知恵をしてくれるもんだな」
 雅清はフッと独りごちて、遠くでわいわいと騒ぐ自隊の面々を見つめた。

 すると「あら」と、朗らかな怪訝が後ろから飛ぶ。
「また皆様、雅清様から離れてお話されておりますのね」
 振り向くまでもなく、優衣子が雅清の横に立って「先日まで、全くそんな事ございませんでしたのにね」と、不思議そうに呟いた。

 雅清は「どうしたのでしょうね」と、小さく口元を綻ばせて答える。
「何か、俺には気付かれてはいけない企みでもあるのかもしれません」
「まぁ、企み事ですか。一体、何を図っておられるのでしょう?」
 優衣子はうーんと可愛らしく手を顎に当てて言った。

 雅清はその姿を一瞥もせずに「何でしょうね」と流して答えてから、何かを言われ愕然とする薫の姿を見つめる。

 何を言われたのかは分からないが、お前はそのままで良いからな。
 フッと相好を崩して遠くから見守っていると、突然「げっ」と顔が嫌に歪んだ。

 怜人の野郎、何しれっと参加してやがる……しかもあの野郎、俺が見ているって気がついて参加してやがるな?
 雅清は「これ以上変な事を吹き込まれたら敵わん」と内心で苦々しく呻いてから、怜人を成敗しに動き出そうとした。

 しかしその時に、「雅清様」と横から朗らかな声が自分の動きを封じ込める。

 また嫌な時に。と、雅清は彼女に聞こえない様に小さく舌を打ってから「はい?」と、彼女と対峙した。

「次の非番の日、何か御用時がありまして? もしよろしければ、観劇にでも出かけませんこと? いえね、私達、ここではよく会いますけれども。外で改まって会う機会が今までなかったと思いまして」
 きゅるんと大きな瞳を更に煌めかせた可愛らしい上目遣いで、優衣子は可愛らしく問いかける。
 それだけで、もう幾人の男達を虜に出来そうであったが。この男は、違っていた。

 雅清はニコリと口角だけを上げて「申し訳ありませんが」と答える。
「先約がございます。先約がなかったとしても、こんな男が帝都で貴女様の隣を歩く訳にはいきませんよ」

 貴女とは出かけられない。と、雅清は暗に力強く突きつけた。

 だが、優衣子は「先約」と言う一言で頭を占拠されたのか、「そうでしたのね」と素直に肩を落としてから「またお誘い致しますわ」と、笑顔で投げかける。

 本当にまるで手応えがないな、こっちも……《《あっち》》も。

 雅清は薫を目の端でチラと窺ってから、優衣子に向かって「身体が空いておりましたら」と目を細めて答えたのだった。
東雲優衣子は、父があまり好きではなかった。穏やかでおっとりとした優衣子と比べて、彼女の父・誠造《せいぞう》は常にピリピリと苛立ち、ズバズバと物を言う御仁であった。

 そうした性格の差異もあるのだが、彼女が一番に父を厭う部分は家での姿である。

 長らく家を空け、顔を合わせない事が多いにも関わらず。家ではひどく尊大になって彼女や彼女の母に喚き散らし、口を挟んで欲しくないと思う所でいつも詰め寄ってくるのだ。

 だからこそ優衣子は彼を厭う様になり、なるべく顔を付き合わせない様にしているのだが。運悪く、彼女が聖陽軍基地から帰宅すると、彼の姿がそこにあり、自然と話をする流れになってしまったのだ。

 優衣子は嫋やかな所作で手にした、紅茶が入ったティーカップにふーっと息を吹きかける。

 もくもくと立っていた白煙が、ゆらりゆらりと大きく揺らめいた。
 彼女は小さくカップを傾けて一口飲み、音を立てずにカップを受け皿に置く。

「それで……お父様、お話とは一体何の事ですの?」
「決まっているだろう、お前と枢木中佐の事だ」
 誠造は物々しく告げてから、「優衣子」と彼女を厳しく射抜いた。

「私はね、嫁入り前のお前をあんな所には行かせたくはないのだよ。とは言え、そのおかげで彼もお前に惹かれたのも事実だろう。だからいい加減、縁談を纏めるべきじゃないのか」
「……惹かれた、のでしょうか?」
 優衣子は小さく息を吐き出し、憮然と腕を組む父親を弱々しく見つめる。

「お父様。私、雅清様のお心がすでに別の所にある気が致しますのよ」
「馬鹿を言うな、お前ほどの良い女に惹かれない男がいるものか」
 誠造は「全く、お前は昔からうじうじと考え過ぎなのだよ」とピシャリと言い返した。

 だが、それでも優衣子は「でも」と弱々しく食い下がり続ける。
「今度の非番の日にだって、一緒に過ごせませんわ。私、雅清様と一緒に過ごしたかったのですけれど。先約があるからと、お断りされてしまいましたの」
「先約だと? どうせ下らん事のくせに、そんなものでお前の誘いを断ったと言うのか!」
 ぐぐっと一気に誠造の目が吊り上がり、ぐわっと気色ばみ始めた。

「軍人風情に、いつまでも大きい顔をさせる訳にはいかん!」
「で、でもお父様。私の事で、彼の先約を潰してしまうなぞいけませんわ」
 優衣子は怒り心頭になり始める父をおどおどと宥めるが。「駄目だ!」と、彼女の弱々しい宥めを一蹴し、誠造は憤然といきり立った。

「優衣子、奴の非番はいつだ! 言え!」
 優衣子は目の前の剣幕にビクリと身体を縮込ませて、「あ、明日のはずですわ」と白状してしまう。

 日付を聞いた誠造は「よし!」と息巻き、優衣子にニコリと笑みを向けた。

「安心しなさい、優衣子。私があの男と終日過ごせる様に計らってやる」
 数秒前の怒声とはガラリと打って変わった、不気味な程に優しい声音。

 そんな甘い囁きに、優衣子は「どうしましょう」と佇んでしまう。

 このままでは、私のせいで雅清様の先約を潰してしまう事になってしまう。そうすればきっと雅清様は私の事をあまり良く思わなくなってしまうかもしれないわ。

 ぶわりと罪悪感が広がるが、彼女の心にふつと想いが湧いた。

 ……でも、私、雅清様と過ごしたい。出来るならば、二人きりで過ごしたいわ。

 ぐーっと込み上げる想いに押し上げられ、優衣子は「お願いしますね、お父様」と頼み込んでいたのだった。
 いよいよ、今日が! 待ちに待ったデェトの日!

 薫はバッと身体を跳ね上げる様にして起こすと、急いで髪に櫛を入れてから、ダッと台所に向かって駆け出した。
 そしてちらほら起きだしてきて、食堂に顔を出す面々を抜けながら台所に飛び込み、使っても良いと言われた場所に滑り込んだ。

「良いか、まずは弁当だ。東雲嬢の豪勢な弁当とは違う味を出して、枢木隊長の胃袋を掴め!」
 ぐわっと意気込む隆久が命じる姿が脳裏に蘇り、薫は「ハイッ」と小さく答えてからいそいそと弁当作りに取り組む。

 隊一番の料理上手、村井先輩の元で修行を積んだ日々を思い出して……とびきり美味しい弁当を作ってみせるわ!
 憤然とした薫は、まず卵焼きに取りかかった。

 卵をぱかっ、ぱかっとぼうるに割り入れる……が。
「あっ、殻が入っちゃった! 早く取らないと!」
 わたわたと殻を取り出すと、カチャカチャと素早く菜箸で溶き始める。
 しかしまたすぐに「わっ、零れたっ!」と呻きを零し、小さなフライパンを用意して油を引こうとすれば「わわっ、多すぎたっ!」と悲鳴をあげ、熱々になったフライパンにじゅっと卵を流し入れると「入れ過ぎちゃったわ! どうしよう!」と涙声になり……卵焼き一つで、悲鳴や叫びが断続的にあげられていた。

 四苦八苦して作り終えると、黄身と白身が美しく混ざり合って生まれる黄色の衣はぼろぼろに剥がれ落ちているばかりか、黒《こげ》と言う斑点を刻んでいた。
「ま、まぁ。卵焼きは修行でも上手く作れた試しがないからね。うん、まぁ、こんなもんよ」
 薫は訥々と目の前の卵焼きもどきに言い訳を述べてから、「次っ!」と颯爽と次のおかずに取りかかる。

 だが、やはりどんなおかず作りでも悲鳴や呻きが弾けた。それも一つにつき一つと言う配分ではない。一つにつき、最低でも五回は「ああっ!」と悲痛な声が弾け、「これ、作り直した方が良いかしら?」と言う不穏な言葉も呟かれる位だった。

 だが、何はともあれ、薫は二人分の弁当箱に手作りのおかずを詰める事に成功する。

「桜でんぶの乗ったご飯、卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたし、ジャガイモの煮っ転がし、トマト」
 ビシッ、ビシッと作り上げたおかずを指さしていくと。薫の顔は「うーん」と苦々しく歪んだ。

 ほうれん草のおひたしは上手く出来た気がするけれど。か、唐揚げがほとんど真っ黒だわ。それに卵焼きも焼きが甘かったのか、丸めるのが下手くそだったのか。包丁入れたら結構崩れちゃったし……。こんな弁当で大丈夫かしら……いや、あんまり大丈夫じゃない気がするわ。

 顔に広がる苦みが、益々深刻になっていくが。刻一刻と待ち会わせ時間に迫っていく時計によって「ま、まぁ。愛情はたっぷりだから!」と、広がっていた悩みと苦みに終止符が打たれた。

 薫は「よしっ!」と蓋をギュッと押し込み、パチンと紐で抑えてから風呂敷に包み込む。
 そして包み込んだ弁当を大切そうに抱きしめて、薫は使わせてもらっていた台所から出て行った。

 次は着替えと化粧ね! 葛の葉、もう準備万端かしら?

 薫は今頃自室で待ち構えている葛の葉の姿を想像しながら、スタスタと足早に歩を進めた。

 葛の葉は、有事の時のみに姿を現す監視式神だが。このデェト作戦に、彼女も参加する事になったのである。
 これには、男達が服と化粧と言う難点にぶつかり「そんな所までは知らねぇからなぁ」と、お手上げ状態に陥った背景があった。「どうした方が良いのか?」と悩んでいた時に、薫が「そこは知り合いに当たってみます、良い人が居るんです!」と、葛の葉に白羽の矢を立てたのである。

「葛の葉、話を聞いていたわよね?」
 彼等の会議から、戻った薫は直ぐさま葛の葉を呼び出して問いかけた。

 姿を現した葛の葉は「勿論でございます」と、口元をにこやかに綻ばせて首肯する。
「お嬢様、この葛の葉に一切をお任せ下さい。必ずや、枢木様がお嬢様の魅力により惹かれる容相へと仕立ててみせましょう」
 葛の葉は言うや否や、パチンと華奢な指を滑らせ、ポンッポンッとどこからともなく服を取り出した。

 和装だけでなく洋装まで揃えており、そのどれもが上質で実に見事な誂え。そして薫の良さを際立たせる鮮やかな色合いばかりであり、薫の意向に沿った形ばかりであった。

「凄いわ、葛の葉。こういう事で貴女の右に出る者は、この世にいないわね」
「もったいのうお言葉にございます」
 葛の葉は婉然と謙ると、「さぁさ、お嬢様」といそいそと薫に服を合わせ始める。

「如何致しましょうか。お嬢様のお体には、洋装であれ和装であれ、大変お似合いになると思いますが……葛の葉と致しましては、お嬢様は和装の方がよろしいかと」
 薫は葛の葉の笑みに含められた真意に気がつき、ハッとして「そ、そうね。流石、葛の葉だわ」と頷いた。

 その頷きに、葛の葉は「では」と微笑み、パチンと指を鳴らして洋装を消してからぽんっぽんっと新たに上質な着物を薫の前に並べる。

「この他にも、まだ沢山ございますので。お嬢様のお気に召す一着が見つかるまで、じっくりと選びましょうね」
 そうして服を決めると、化粧と髪結いは葛の葉に当日一任すると言う流れになったのだ。

「早く行って用意してもらわなくちゃ!」
 薫はできたての弁当をギュッと抱きしめながら、階段を駆け上る。

 その時だ、「「あっ」」と驚きの一言が重なった。

「柚木」
「おはようございます、枢木教官」
 薫は前から急いで駆け下りてきた雅清に挨拶を述べるが、すぐに「あれ?」と小さく戸惑いを零す。

「せ、制服で出かけるのですか?」
 いつもの軍服姿に困惑しながら問いかけると、雅清から「すまん」と苦しげな謝罪を述べられた。

「火急の用が入ってしまった。終わり次第すぐに戻ってくるつもりだが、午前のうちに戻るのは厳しいだろう。本当にすまん」
 滔々と流れる言葉に何一つ付いて行けず、薫は「え、えぇ?」と呆気に取られる。

 だが、雅清はそんな薫に一言一句説明する時間もないと言う様に小脇を駆け抜け、颯爽と昇降口へと向かっていってしまった。
 その姿で、ようやく薫は目の前の事態を飲み込み「ま、待って下さい!」と、声を張り上げて駆ける足を慌てて引き止める。

「今日は非番だったじゃないですか! それなのに火急の用って、一体どんな用事ですか! 先に約束したのはこっちですよ! ?」
 ギュッと風呂敷を抱きしめながら詰問すると、雅清はくるりと振り返った。

 そして目を伏せながら「本当にすまない」と、謝罪を述べる。
「次の非番には必ず」
「そうじゃなくって! 一体どうしてですかって、私は聞いているんです!」
 もう謝罪も結構ですから訳を話して下さいよっ! と、薫は前からの言葉をバッサリと遮って、声高に責め立てる。

「……それは」
「雅清様っ!」
 口ごもる雅清の言葉に重なる様にして、可愛らしくも切羽詰まった声が彼の背後から飛んだ。

 そして立ち止まる雅清の後ろから、タタタッとドレス姿の優衣子が慌てて駆け寄ってくる。

 薫はいつも以上に可愛らしく整えられた彼女の姿にハッとして、呆然と彼女を見つめた。

 現れた優衣子は雅清を一瞥してから、薫の方をまっすぐ捉えて「ごめんなさいね、薫さん」と申し訳なさそうに眉根を寄せる。

「雅清様は、私と急いで出かけなければいけませんの。ご用件でしたら、また帰ってきてからにしてくださいます?」
 優衣子はおずおずとしながらも、きっぱりとした口調で口早に告げてから、立ち止まる雅清の腕を「さぁ、お早く!」と引っ張った。

 その姿に、プツンッと弾ける。薫がひたすら大切に持ち続けていたものが、パンッと堪らずに弾けてしまったのである。

 嗚呼、何だ。《《そういう事》》……。

 薫はグッと奥歯を噛みしめ、雅清をギロリと睨めつけてからクルッと背を向け、一気にダッと駆け出す。
「柚木っ!」
 雅清の口から鋭い声が飛ぶが、いつもはすぐに止まるはずの足が止まらなかった。それどころか、更にその足は加速し、どんどんと彼から離れていく。
 どこに向かっているのか、薫は分からなかった。ただひたすら、彼等から離れていきたかったのだ。
「薫っ!」
 ひたすら駆け走る薫の耳に、自分の名を力強く呼ぶ声が貫いた。

 その声にハッとして止まると、後ろからタタタッと慌てて駆け寄る足音が近づく。
「おい、一体どうしたんだよ。何でお前がこんな所を全力疾走してんだよ!」
 ぐいっと肩に手を置かれるや否や、薫は強引に振り向かそうとする手より前にくるんっと身体をそちらに向け、ドスッとその胸の中に飛び込んだ。

「か、薫? おい、お前、本当にどうしたんだよ?」
 篤弘は自身の胸に飛び込んできた薫にギョッと目を剥きながら、わたわたと問いかける。
 刹那、薫のわなわなと震える口から嗚咽が零れ、ボロボロと頬に大粒の涙が滴り落ち始めた。

 その涙に、篤弘は唇をキュッと真一文字に結んでから彼女の涙を覆い囲む様に、薫の身体を優しく抱きしめる。

 ふわりと温かく、ギュッと力強い優しさに、薫は堪えきれずにバッと縋った。抱きしめ続けていた弁当も放り出し、彼の腕の中で「わぁぁぁぁっ!」と、全てを切り裂く様に泣き叫ぶ。

 篤弘は、その叫び(なみだ)から逃げなかった。逃げ出そうともしなかった。
 ただ黙って彼女の涙とまっすぐ向き合い、薫の身体をギュッと強く抱きしめ返していたのだった。

 ……四苦八苦して詰め込んだおかず達が、ぐちゃぐちゃっと無残な形で飛び出し、溢れる様にして広がっていたが。彼女がそれを気にかける事はなかった。
「そうかぁ」
 涙ながらに紡がれた話に、篤弘は小さく頷いた。

「まぁ、大方東雲氏の力だろうな。そうじゃないと、枢木教官がお前との約束を蹴って出て行く訳がない。だから今回は間が悪かったと言うか、仕方ない事だったんだよ」
「……もう良いの、篤弘」
 薫は横から滔々と紡がれる慰めを一蹴してから、「あの人にとっては、私なんてその程度って分かったから」と、抱える膝の間に顔を埋め込んで言った。

 篤弘はその言葉に「そんな事ねぇって」と、力強く反論する。

 だが、その反論に直ぐさま薫は「そんな事あるわ」と、刺々しく噛みついた。

「行ってから断るとか、早めに帰るとか出来るはずでしょ。それなのにそういう事をしようとしていなかったもの。あの人、戻ってくるつもりのない言い分だったもの」
「薫、あの人に言い寄ってんのは内務大臣東雲氏のご息女だぞ。そんな人を邪険に扱ってみろよ。父親の権力で、聖陽軍もろとも危なくなるんだぜ? あの人はそれを鑑みて、仕方なくついて行っただけだよ」
 篤弘は剣呑な薫を優しく宥めにかかる。

 すると薫は顔をあげて、「……もう東雲嬢と付き合えば良いんだわ」と淡々と言った。
 正気も生気もない様な恐ろしい程冷たい声音に、篤弘は「薫」と小さく息を飲む。
 だが、薫は何一つ気がつきもせずに、淡々と言葉を続けた。

「そうよ、あの人が東雲嬢と結婚すれば良いのよ。そうしたら問題ないわ」
「何言ってんだよ!」
 篤弘はガシッと薫の肩に手を置き、虚ろな表情をする薫をまっすぐ見据えた。
「そうしたらお前の気持ちが」
「良いの」
 薫は前からの叱責をバッサリと遮ると、胡乱な眼差しで篤弘を見据えて淡々と答える。

「もう辞めるから、あの人の事を好きで居るの」
「……は?」
「元々不釣り合いな恋だったし、これ以上辛い思いをするのも嫌だし」
「冷静になれよ、薫。こんなたった一回だけで」
「えぇ、そうね! たった一回だわ! でも、されど一回なのよ!」
 薫はガタッといきり立ち、怒声を張り上げて反論を浴びせた。

「私の心を打ちのめすには、充分だったの! だからもう踏ん切りが付いちゃったの、諦めようって! もうあの人の事好きでいるのは辞めようって、心が決めちゃったのよ!」
 止まっていたはずの涙が再び息せき切る様に流れ出し、じくじくと喉奥を熱が突き刺し始める。

「もう知らない、最低、大っ嫌いって心に並んじゃったのよ!」
 薫は泣き叫ぶ様に訴える。

「辞める、もう辞めるの! あんな人なんかより、私、篤弘の方が」
「そこまでにしておけよ、薫」
 篤弘は淡々と絶叫を遮り、ぐいっと立ち上がった薫の腕を引っ張った。
「もう辞めよう、この話は」
 もう、辞めよう。と、無理やり座らせた薫の頭をトンッと優しく自身の肩へと抱き寄せた。

 トスッと自分を温かく受け止める肩に、力強く抱き寄せる手に、薫の涙がじわりじわりと色を変えていく。

「……うん、うん。ごめん、篤弘。ごめん」
「良いって。俺は、分かってるから」
 だからもう何も言うな。と、篤弘は囁く様に告げた。

 薫はその言葉に、ぐすっと大きな嗚咽を零す。そして言われるがままに、彼の肩でポロポロと涙《おもい》を流したのだった。