沸々と怒りで煮える心に押し上げられ、薫は「どうせ私は普通の女じゃないですよ!」と、いきり立った。
「化け物だし、男女《おとこおんな》でもありますからねっ!」
「なんだ、急に怒りだしたな」
雅清は急に荒々しく立ち上がる薫に向かって、ボソリと突っ込む。
薫はその言葉にキッと引っ張られ、雅清の涼しげな顔をギロリと睨めつけた。
「普通じゃなくて、花影なんて言う面倒な女は除隊決定ですよね! 今までお世話になりましたっ、荷物を纏めて参ります!」
「待て」
あまりの鋭さと物々しい声音に、駆け出そうとしていた足が直ぐさまピタッと止まる。
「俺がいつ、お前に除隊処分なんて申しつけた?」
「……え?」
飛んで来た言葉に面食らい、薫は間の抜けた顔で雅清を見つめた。
雅清は出て行こうとする薫の姿を睨めつけ、「勝手に出て行こうとするな」と物々しく告げる。
「俺の許可なしに除隊出来るとでも思っているのか」
薫は飛んで来る威圧にビクリと身を縮め、「で、でも」と恐る恐る口を開いた。
「私なんか居ない方が」
「良いと? そんな事、俺は一言も言ってないぞ」
薫の言葉を荒々しく遮って先取ると、雅清は毅然と告げる。
「今も、これからもお前は枢木隊の一員だ」
分かったか! と、突然張り叫ばれる怒声に、薫は条件反射の如くビシッと素早く敬礼した。
「ハイッ!」
……って、思わずハイって答えちゃったわ!
薫は自分の口からポンッと飛び出してしまった言葉にハッとし、撤回しようとしたが。
「よし、ならこれで話は終わりだ」
と、淡々と打ち切られてしまった挙げ句
「明日の早朝訓練、お前は今日抜け出した罰からだからな。絶対に遅れるなよ」
と、地獄の宣告を下される。
うげっ……最悪だわ!
薫は纏まった話に思いきり顔を顰めた。そして何とか、この話を折り曲げようと策を練り始めるが……。
頭にポンッと軽やかに乗った手によって、ハッと薫の全てが止まった。
「お前が無事に戻ってきてくれて、本当に良かった」
自分だけに向けられる柔らかい微笑み、さっきの怒声とは打って変わった甘く優しい声。
薫の心が一気に塗り替えられたばかりか、バンッと弾ける。
「……う~、好きっ! 大好きですっ、枢木教官!」
前から溌剌とぶつけられた告白に、雅清はフッと笑みを零した。
「あんな鬼大っ嫌い、じゃなかったか?」
「そ、それは一時の感情って言うもので……」
薫はもごもごと弁解してから「本当は、大好きなんです!」と、張り叫んだ。
「今もこれからも私が枢木隊の一員である様に、私はずっと貴方が好きです! 憎まれ口も叩き続けるかもしれませんが、どんな事があっても嫌いになんてなりませんから!」
「……柚木、俺は」
「あっ、じゃあこれで失礼しますねっ! お時間頂きまして、ありがとうございましたっ!」
薫は前からの言葉を荒々しく遮り、口早にまくし立ててから、ダッと駆け出す。
そうして一人、ダダダッと夜道を駆けるが。とんとんと積み上がる後悔《おもし》によって、その足は緩やかに止まっていく。
嗚呼、もう。また一方的に告って、一方的に打ち切っちゃったわ。
薫は肩を上下させて、はぁはぁと小さくきれる息を整えた。
……でも、向こうの返事は「無理」だって決まっているから。
私はこうして逃げるしかないのよね。分かりきっている事とは言え、本人の口から聞くのは辛さと悲しさが格段に違うもの。
薫はふううと長々と息を吐き出して、天を仰いだ。
濃藍の空には満天の星が広がっていたが。まん丸と太った満月の側には、たなびく暗雲の姿があった。
そのちぐはぐさに、薫の胸にはじくりと不安が突き立てられる。
そうして、翌日。早朝訓練に出席した薫に待っていたのは、普段と何も変わらない態度の雅清と、地獄の訓練だった。
「柚木っ、最後まで気を張り続けろっ! 腕立て伏せ百回追加だっ!」
……ひゃ、百回追加? ! 信じられない、なんて鬼畜なの!
あの鬼教官、本当に大っ嫌い!
「……高藤、柚木。以上、五名が俺の班だ。名を呼ばれなかった奴は、怜人の班だ。装備を整えた状態で、五分後には正門前に集合していろ」
分かったな。と、言い捨てて出て行く雅清の姿を目で見送ってから、薫はふうと小さく息を吐き出した。
また枢木教官の班かぁ……。
いやいや、嬉しいのよ。嬉しいのだけれど、花影って分かってからはずっとこうだから。同情って言うか、嫌な感じの特別を感じちゃうわ。
薫はぶすっと頬杖を突き、ふうと小さく息を吐き出した。
すると「また枢木教官の班だな」と、聞き馴染みのある声が頭上から降る。チラと見上げれば、篤弘がニヤリと口元を綻ばせていた。
「脱走負傷事件以来から、ずっとお前は枢木教官の班だ」
「わざわざ私が問題児だって言いに来たの?」
篤弘のにやついた笑みに、薫は「随分お優しいわね」と刺々しく噛みつく。
篤弘は「まぁ、そう噛みつくなよ」と、朗らかに笑って猛り始める薫を宥めた。
「ただ、あれから枢木教官と何かあったんじゃないかって思ってさ」
朗らかに紡がれた言葉に、薫は少しドキリとするが。「何か、なんてある訳ないでしょ」と、ピシャリと返す。
すると「なぁんだ」と、ひどく残念がった声が周囲から上がった。
ハッとして見れば、同班の先輩達がこぞって二人を囲い「絶対何かあるって思ったんだがなぁ」「あの人のあんな顔見ちまえばなぁ」「何か進展したんじゃねぇのかよぉ」などと、それぞれでやいのやいの言い始める。
薫は自分を囲って、好き勝手に言い始める先輩達に「皆して何を言ってるんですか!」と、声を荒げた。
「さっさと用意しないと怒られますよ! ハイ、解散解散!」
パンパンッと手を叩き、散会を促す。
だが、集い囲う彼等の足は微塵も進まず、にやついた笑みも依然としてそこにあった。
「お前なぁ、こういう時にお兄ちゃん達に頼っておかないと。ここぞって時に、良い援護が貰えねぇぞぉ?」
「誰がお兄ちゃん達ですか!」
「何言ってんだよ、柚木。お前は我ら枢木隊の可愛い妹だろ? だから俺達がお兄ちゃんって訳だ」
なぁ? と、一人が周りに同意を求めると。「そうだ、そうだ!」と同意が波打って、薫にぶつかった。
薫は、笑顔で言いのける先輩達を恨みがましい面持ちで睨めつける。
「最初は男女だなんだと邪険にして、虐めてきた人達のくせにっ!」
「それは昔の話、今はもうお前の素直さとひたむきに頑張る姿に胸打たれて改心したって」
「そうそう、だからこうして皆で妹として可愛がってんじゃないか」
朗らかな言い分が飛ぶと、またも「そうだ、そうだ!」と朗らかな同意が押し寄せた。
明らかに自分をからかい、楽しんでいる先輩達の姿に、薫は「先輩達!」と声を荒げる。
そして「いい加減準備に行く!」と、ビシッと出口を指さした。
するとようやく「はいはい」と、囲いをボロボロと崩し始め、やや駆け足気味に部屋を退出していく。
薫は「全くもう」と、廊下に消えていく背に向かって呻いた。
「隙あらば、人をからうんだから」
「いやぁ、それは先輩達から可愛がってもらってる証拠だよ」
羨ましいぜ。と、篤弘はポンポンと肩を叩いた。
薫はその手にキッと鋭い眼差しを向け、噛みつこうとするが。「まぁ、そんな事より」と、続けられる言葉によって口の中で文句が詰まった。
「いつまでもこんな所に居たらお前、集合ギリギリじゃないか?」
今日は訓練服を着替えないとだし。と、淡々とかけられる言葉で、薫は一気に青ざめていく。
「そうだったわ! 嗚呼、どうしよう! こんな所に居る場合じゃないわよ!」
急がなくちゃ! と、脱兎の如く駆け出し、廊下にわらわらと出始める人の間を縫って、自室へと向かった。
そうしてバッバッと嵐が来た様に支度を整え、まだ完璧に息が整わない状態でダッと駆け出し、集合場所へ向かう。
だが、薫が辿り着いた時にはすでに皆集い、鬼教官が鬼を越えた仁王と成っていた。
「柚木、遅刻だ。警邏終わりを楽しみにしておけ」
物々しく告げられる嫌な脅しに、薫は「最悪だぁ」とがっくりと肩を落としてしまう。周りのにやついた顔を見てしまうと、更に肩は落ち込んだのだった。
警邏後の罰を最後まで終え、薫は重なる疲労に押し潰されそうになりながら、午後の訓練に参加していた。
「脇が甘い! 踏み込み不足! 貴様、本当に自主鍛錬しているのか!」
雅清の怒声が道場内に響き、枢木隊の面々の掛け声が「ひー!」っと、悲鳴に移り変わり始める。
その時だった。木刀を持ち、次から次へと隊士達をなぎ払う雅清の元にビュンッと小鳥の式神が飛んで来る。
「宮地隊より応援要請! 宮地隊より応援要請! 緊急出撃予定部隊は直ちに出撃せよ!」
甲高い声が告げる応援要請に、隊士達の間にビリビリッと緊迫が走った。
「了解、枢木隊出撃する」
雅清は小鳥の式神に向かって端的に告げると、すぐにクルッと隊士達を振り返る。
「急いで出撃準備を整えろ!」
「ハッ!」
雅清から野太く飛ばされる檄に、隊士達は直ぐさま駆け出した。
薫も「ハッ!」と答えてから、装備を調える為に自室へ駆け戻る。そうして疾風の如く出撃装備を調えると、集合場所である正門へ駆けた。
そうして薫が到着するや否や、「行くぞ!」と雅清が胴間声を張り上げ、枢木隊が動き出す。
ダダダッと駆け足で、魁魔が出現した場所へと急ぐと。ぼこおんっどごおんっと荒々しい音が断続的に弾け、キャーキャー! と甲高い悲鳴が追随して聞こえた。
そして大地が大きく揺れ、彼等の到着予定地からぼごおんっとオオムカデの物の怪が姿を現す。
刹那、薫の背にぞわぞわっと嫌悪が這った。
「大きい虫の物の怪ほど、気持ち悪いものはないわ……」
しかも足がうぞうぞある奴。本当に無理、ああいうの。と、内心で苦々しく呻いてしまう。
「成程、あの宮地隊が苦戦する訳だ。アイツ等は数が多いからね」
と、飄々とした顔で走る怜人から朗らかに吐き出される言葉を聞くと、更にその嫌悪が増幅する羽目になった。
鉄鼠もそうだったけど、ああいう気持ち悪いのに限ってなんで数が多いのかしら!
薫の嫌悪が、徐々に当たり所のない鬱憤に塗り替えられた時だった。
「枢木隊、現着した!」
と、雅清の一声で薫はハッと我に帰る。
そして薫は視認した、目の前に広がる惨状を。
うぞうぞと下を好き勝手に這う百足の姿と、ぼごんっぼごんっと地中から現れては暴れ狂う三匹のオオムカデの姿。それらを須く討伐せんと奮闘する宮地隊の姿。そしてキャーキャーと逃げ惑う一般人の姿があった。
物の怪の数が多すぎて、避難に手を回せていないんだわ!
薫は目の前の惨状にゴクリと息を飲んだ。
すると雅清がくるっと振り返り、隊士達に檄を飛ばす。
「斎藤、村井、岡田、高藤、柚木は一般人の避難・救助に回れ! 行くぞ!」
「ハッ!」
役割を与えられるや否や、枢木隊は直ぐさま各自のすべき事に動き出した。
一般人の避難・救助を申しつけられた薫も、急いで「こっちへ!」と逃げ惑う人々の扇動に走る。
「こっちへ、皆さん落ち着いてついてきてください!」
散り散りに飛ぶ悲鳴に負けじと声を張り上げ走った。すると「待ってくれ、アンタ!」と、悲痛な懇願が飛ぶ。
ハッとして見れば、その声を上げたであろう老人が転倒し、足首を押さえて顔をぐにゃりと痛みで歪めていた。
薫は急いでそちらに駆け、「背負います!」と転倒している老人の腕を肩に回す。
そしてヨイショ! と、老人を軽々と背負った。
その次の瞬間
「柚木っ、そっちに抜けたぞ!」
と、先輩隊士・岡田史彦《おかだふみひこ》の警告が鋭く飛んだ。
薫はその声に弾かれる様にして、バッと後ろを向く。
するとオオムカデの一匹が、食い止めている宮地隊の刃をしゅるりとくぐり抜けて、がぁぁっと鋭い牙を向けて襲いかかってきていた。
マズい!
薫の本能が危機を走らせるよりも前に、身体がバッと動きだすが。その牙は、無情にも彼等に迫った。
刹那、背後から「ギャギャギャッ!」と醜い呻きが上がる。
薫は背後で起きた事態を確認しようと、足を止めてクルッと振り返った。
それと同時にオオムカデの身体がずしいんっと地に倒れ込み、ばふんっと上がる土煙に包まれる。
な、何が起きたの? !
薫が目を白黒とさせると、「ぼさっとするなっ!」と聞き覚えのある怒声が前から浴びせられた。
「さっさと走って、避難所に向かえっ!」
斬り伏したオオムカデの身体からストンッと降り立つと、雅清は「早く行け!」と更に叱責する。
薫は「は、ハイッ!」と答えてから老人を背負い直し、急いで駆け出した。
そうしてすぐに先頭に戻り「皆さん、こっちへ!」と、避難民を誘導する。
「薫! お前はここの護りと救護に回ってくれって!」
後から追いついてきた篤弘が、薫に向かって張り叫ぶ。
薫は「分かったわ!」と、すぐに答え、避難所とした広場を端から端まで動き回り始めた。
「怪我をしている方がいたら教えて下さい! まだまだ人が来るので、場所を少しでも空けて下さい! あ、ちょっと! 駄目です、戻ろうとしないで!」
「キャーッ!」
張り叫ばれる悲鳴を聞きつけ、雅清は目の前の百足をザシュッと斬り捨ててから急いでそちらに向かった。
見れば、ぼごんっと地中から現れたオオムカデが桃色の美しいドレスに身を包んだご令嬢に狙いを付けている。
「光焰付呪、炎走《えんそう》!」
雅清が振り下ろす一太刀と共に、ゴウッと炎が矢の如く飛び、オオムカデの身を貫いた。
オオムカデは「ギャギャッ!」と醜い呻きをあげてのたうつが、ジュウジュウと身を焼く橙の炎に包まれる。
雅清はその隙に「さぁ、急いで!」と令嬢の手を取って救出し、丁度戦場に駆け戻ってきた村井に「彼女を頼む!」と避難誘導を任せた。
そうして令嬢を任せるや否や、残る一匹のオオムカデがぼごんっと地中に戻る。
するとうぞうぞと残っていた百足の物の怪数匹も一斉に地中に飛び込み、撤退し始めた。
その姿に、奮闘していた聖陽軍の面々から安堵と歓喜の声があがる……が。
「どういう事だ?」
雅清は突然の撤退に眉根を寄せ、物の怪の霊気を探り始めた。
刹那、彼はハッと息を飲む。それと同時に、「まだだ!」と怜人が鋭く声を張り上げた。
その表情に、いつもの朗らかさはない。蒼然と切羽詰まり、一瞥だけで「緊急事態」だと分かった。
「連中が避難所の方に移動していく!」
この場で一番、霊気探知に長けた怜人の発言に、弛緩していた全てが一気に戻り、ピンッと太く鋭く張りつめる。
雅清は「まさか!」と、真っ先に走り出した。
その背に、怜人を始め枢木隊、宮地隊の面々が続く。
「どうして突然狙いを変えたんだろう?」
おかしいよ。と、雅清の横を走り並ぶ怜人が独りごちる様に問いかけた。
雅清は「分からん」と苦々しく答えるが。彼の頭では、すでに答えに近い推測が出ていた。
聖陽軍を抜け、避難誘導に当たっていた柚木を狙ったオオムカデの姿で「まさか」とは思ったが。これで決定的になった。避難所の方に柚木が、《《花影が居る》》と分かったからここを捨て置き、そっちへ向かったんだ。そこに留まり、護りも手薄となった花影を喰らう為に。
雅清はグッと奥歯を噛みしめ「兎に角急ぐぞ!」と、駆ける足を更に速めた。
「大丈夫ですよ、皆さん。落ち着いて、もうすぐ片が付くはずですから」
薫はざわざわと不安を零し、不満を募らせ続ける町人を宥め回る。
「頼む! 俺の家がどうなっちまったか、見に戻らせてくれ!」
「駄目ですよ! 家よりも命を大切にしなくちゃ、命があればどんな問題だって必ず何とかなります!」
ねっ! と、立ち上がった男性を宥めた、その時だった。
薫の足裏から「ぼこぼこっ」と、地面の胎動が伝う。
……地震、かしら?
薫は不気味に揺れ立つ地面に眉根を寄せたが、すぐにこの揺れが地震ではないと分かった。
ぞわぞわと近寄ってくる百足の霊気を肌で感じ、ガタガタと這い進む嫌な音が耳に突き刺さる。
まさか、こっちに向かってきているの? !
「薫! 出るぞ!」
共に警護に回っていた篤弘が刀を引き抜き、声を張り上げた。
薫は「うんっ!」と頷き、シャッと刀を引き抜き「皆さん、絶対に動かないでくださいね!」と釘をしっかりと刺してから、篤弘と共に駆け出す。
高い警戒を纏い、避難所から少し離れた場所で彼等は待ち構えた。
薫はギュッと柄を握りしめ、ゴッゴッと徐々に強まる胎動にゴクリと息を飲む。
その次の瞬間だった。ボコボコッと眼前の地面が突如隆起し、「ウギャギャッ!」とオオムカデの物の怪が姿を現す。
「薫! 俺が奴を斬るから援護を頼む!」
「分かったわ!」
篤弘の声に答えるや否や、薫はふうっと小さく息を吐き出し、自身の霊力を刀の方へ流し込み始めた。
「雷電付呪! 豺牙!」
バチバチッと紫電が纏った刀身をぶんっと振り下ろすと同時に、ダダダッと地を駆ける豺《やまいぬ》が形成され、「ガオオッ!」と轟く吠え声と共にバッと襲いかかる。
豺は一歩も足を緩める事なく突進し、オオムカデの身体に飛び込んだ。
刹那、オオムカデの腹部からバチバチッと鋭い紫電が貫く。
「ギャッギャッ!」とオオムカデの醜い悲鳴があがり、黒光りした身体にバチバチッと紫電が幾筋も迸った。
「篤弘!」
「わーってる!」
篤弘はダンダンッと力強く屋根の上を駆け、バッと虚空へと身を投げ出す。
「水雪付呪《すいせつふじゅ》!」
猛々しい叫びに呼応して、鈍色の刀身が一気に青緑色へと色を変え、ヒュオオッ! と鋭い冷気を纏い始めた。
「氷鋭斬《ひえいざん》!」
重力と共に振り落とされる一撃は、オオムカデの頭上を直撃し、斬り込んでいく。
斬り込まれた刀傷から、ビキビキッと氷つき、オオムカデの身体が両断されながら固まっていった。「ウギャギャ」と醜い呻きも消え入り、オオムカデの生がピシシッと緩やかに止まっていく。
薫はその姿に「やった!」と歓声をあげ、刀を鞘に収めて「篤弘~!」と駆け出した。
そしてトンッと軽やかに着地した篤弘に向かって、「やるじゃない!」と飛びかかる。
篤弘は「うおっ、危ねぇよ!」と抱きついてきた薫に慌てて刀を避けて、受け止めた。
だが、そんな気遣いもつゆ知らず、薫はバシバシッと背中を力いっぱい叩き「私の援護のおかげだけど! 凄いじゃない!」と、称賛を送る。
篤弘は「いってぇよ!」と、渋面で非難し、薫の腕をバッと振り払った。
そしてキンッと刀を鞘に収めてから、薫の前でフンッと大きく鼻を鳴らす。
「枢木雅清中佐直々に鍛えてもらってんだから、こんなの出来て当たり前だっての」
けどあの人なら、もっと軽やかに倒せていただろうからなぁ。俺はまだまだだ。と、くうっと拳を作って悔しがりだした篤弘に、薫の顔がぎこちなく引きつり始める。
枢木教官大好きっ子だから、本当にどんな時でもあの人を引き合いに出してくるわね。おかげで、私のおかげって言い張った私が図太くて恩着せがましい奴になっちゃったじゃないの。
薫は求めていた突っ込みが飛んでこない事に、はぁと肩を落としてから「はいはい」と前から語られる憧れを流した。
そして「もう戻るわよ」と、くるっと背を向けて歩き出す。篤弘も「待てよ、まだ俺の話が途中」と、その背を慌てて追う。
その時だ、バッバッとオオムカデが現れた穴から百足の物の怪が飛び出した。
「? !」
二人が反応し、バッと後ろを向いた時には、全ての百足が薫の眼前に迫っていた。
慌てて腰に差さった刀に手が伸びるが、もはや迎撃は間に合わない。
マズい!
薫の顔が切羽詰まった焦りと自らの失態に対する後悔で、ぐにゃりと歪み……腹部が、ズキズキッと熱を持ってうずき出す。
『カオル』
意地悪くニタリと綻ばされる口が、自身の名を蠱惑的に囁いた。
すると同時に、襲いかかる百足達の身体に異変が走る。
ビリビリッと赤い雷に纏われる者、旋風に突き上げられながら微塵にされる者。そしてゴウッと橙の火柱に囚われ、じゅうじゅうと身を焼かれる者。
「これって……!」
眼前で突然のたうつそれぞれに、薫は目をカッと見開いた。
すると物の怪の背後から「柚木っ!」と、雅清の声が飛ぶ。
薫はその声にハッとし、導かれる様にしてそちらを向いた。
「「枢木隊長! 柊副隊長!」」
ダダダッとこちらに向かって駆け走る上官達の姿に、薫と篤弘は歓声をあげる。
「柚木! 高藤も、大事ないか? !」
二人の前に立つや否や、雅清は鋭い声音で訊ねた。
二人はその声音に、小さくビクッとしてしまったが。すぐに「大丈夫です」と、しっかりと答えた。
「そうか、なら良かった……が。すぐに刀を抜けない事態に陥るとは何事だ! 最後まで気を抜くなといつも言っているだろう! だから反応に遅れるんだ!」
全てが安全と確認出来るまで二度と気を緩めるな! と、零された安堵が瞬く間に厳しい叱責に移り変わる。
二人は目の前から浴びせられる怒声に身をヒュンッと縮め「は、ハイッ! 申し訳ありませんでした!」と、バッと揃って頭を下げた。
「まぁまぁ、叱りつけるのもそこまでにしておこうよ」
怜人が朗らかに仲裁に入り「二人は俺達の尻拭いをしてくれたんだしさ」と、二人の擁護に回る。
「よくオオムカデの物の怪を討伐出来たね。一人の力じゃなかったとしても、何も恥じる事はないよ。二人で協力してあの物の怪を倒した事は、とても立派な事だ」
よく頑張ったね、二人とも。と、怜人は薫と篤弘に向かって仏の様に優しく、柔らかな微笑を零した。
その柔らかな微笑と温かな称賛に、「ひ、柊副隊長~」と、薫と篤弘の口から情けない声が発せられ、じわじわっと目から嬉しさが込み上げる。
「ったく、お前等は……」
雅清がはぁと苦々しくため息を吐き出すと、「お~い」とほのぼのとした声が飛んだ。
「柚木ちゃんは無事~?」
のらりくらりとした足取りで、雅清の横に並ぶ男。宮地隊隊長・宮地澄春《みやじすみはる》だ。ほのぼのとした雰囲気を常に放ち、一瞥だけでどんな毒気でも抜いてしまう様な相貌。
しかしながらそんなふにゃふにゃとした容貌とは打って変わって、彼の実力は凄まじく恐ろしい。彼の刃に捉えられた者は須く粉微塵にされ、澄春の戦場では必ず血の雨が降ると言わしめる程だ。
そっか、風の攻撃があったのはこの人がいたからだったのね!
薫は現れた澄春に「宮地隊長! 助けていただき、ありがとうございました!」とバッと敬礼を作った。
澄春は「良いの良いの~」とニコニコと手を朗らかに左右に振る。
「逃がしたこっちがごめんねぇって感じだしねぇ。それにしても不思議だねぇ。どうして柚木ちゃんだけ狙われたんだろうねぇ?」
薫は彼の口から安穏と紡がれた疑問に、小さく身を強張らせてしまった。
「そ、それは、多分……」
「高い霊力を持つ女だったからだろ」
薫のおずおずとした言葉をバッサリと遮り、雅清が淡々と答える。
その答えに、澄春は「あ~、そっか~」と朗らかに納得した。
「雅清君のせいで、ついつい忘れちゃうけど。柚木ちゃんも女の子だったねぇ」
「……んん、宮地隊長? それはどういう意味でしょうか?」
ほのぼのとした言葉に、薫は鋭く突っ込むが。悪気も毒気も一切無い澄春は「そのままの意味だよ~」と、にこやかに打ち返した。
「可愛い女の子だったよねって事さぁ~」
か、かか、可愛い女の子! ?
突然告げられた「可愛い」に、薫は思いきり面食らい、ボフッと沸騰してしまった。
すると怜人が「もうそれ以上は辞めてね、澄」と、軽やかに突っ込む。
「これ以上君が何か言ったら、うちの隊長と隊員の関係が大変になっちゃうからさ」
「え~、それってどういう事ぉ?」「何を言ってんだ、お前は!」
怜人の朗らかな言葉に、興味津々の疑問と猛々しい怒声が同時に弾けたが。怜人はどちらも気にする事なく「さっ、篤弘。柚木さん」と、事を呆然と静観していた部下を促した。
「俺達は避難した人達の解放に行こうか」
「怜人、何を勝手に……! おい、俺を無視して行こうとするなっ!」
あんな報告書を出せば、総隊長に呼び出されるだろうと予測していたが。まさか、その上……土御門総帥から呼び出されるとは。
雅清は自身の前に聳え立つ扉に、ゴクリと唾を飲んだ。
数々ある部屋の入り口とは少し違い、高級感がある漆を塗り込まれた木製の扉。どことなく重厚感がある扉の上部には、まるでこの扉をくぐる者を値踏みするかの様に「総帥室」と、カッチリとした明朝体で刻まれた金縁のプレートが填められていた。
雅清はふうと小さく息を吐き出して、目の前の扉をゆっくりとノックする。
扉の重厚感とは裏腹に、コンコンッと甲高い音が軽やかに響いた。
「入れ」
扉の向こうから飛んできた重々しい声に、雅清はゴクリと息を飲んでから「失礼します」とノブに手をかけて、ギイイと扉を押し出す。
そこは隊長格が使う執務室と似ているが、また違う雰囲気で拵えられた部屋造りであった。確実とは言い難いが、恐らく置かれている家具はどれもこれも、目を見張る程の一級品であろう。だが、そこに華美を感じるのではなく、身を弁えている様な慎ましさを感じるのだ。
そして彼が座する背後には、日の丸と聖陽軍の紋章が入った旗が交差してたてられている。まるで、自分がこの日の本を護っている男だと言わんばかりの剛健さだ。
雅清は部屋の雰囲気に圧倒されつつも、「失礼致します」と足を内へと進める。
すると奥のデスクに鎮座する男が、彼を見据えて「あぁ、君か」と手をあげた。
「忙しい時に呼び出してすまないな」
土御門俊宣、聖陽軍総帥に座しながら、土御門宗家の当主でもある男だ。葛の葉・竜胆と言った土御門家に仕える数多の式神の主であり、歴代きっての豪腕と敏腕さで土御門家の威信を少しも落とさず、磨き続けている男でもある。
年は六十四と中高齢の分類に当たるが、見目は四十代の様に溌剌としていて若々しい。鍛え上げられた逞しい体つき、キリッと厳めしい相貌が、若さを上手く演出しているのだろう。
「いえ、総帥のご心配には及びません」
雅清は丁寧に答えてから、彼が座すデスクの前でピンと背筋を伸ばしてカッチリとした姿勢で佇む。
そんな彼を見据えながら、俊宣は「君に二つ、話があってね」と、前置きしてから話始めた。
「一つめは、薫の事だ。君が海音寺君に提出した報告書を読んだよ」
雅清は「やはりその話か」と内心で独りごちてから、「はい」と頷く。
「物の怪が、柚木のみを狙った動きを見せました。恐らく、柚木が影王を封じた花影であると分かっていたからこその動きだと思われます……前までは、他を邪険にしてまで柚木を狙うと言う事はありませんでしたから」
雅清の言葉に、俊宣は「そうか」と重々しいため息交じりに答えた。
「短時間であったとは言え、力が外に漏れ出た為に薫を認識し、アレに眠る力を狙い始めた魁魔が現れたのかもしれんな」
だからあの子には、我が家に居続けて欲しかったのだが。と、小さく肩を竦める。
「まぁ、今更だ。薫は今まで通り、君の隊に居てもらおう」
雅清は前から呆れ混じりに告げられた命に「それは勿論とお受け致しますが」と、きっぱりと答えてから問いかけた。
「今後の警邏は如何致しますか、柚木のみこちらに居させますか?」
「いや」
俊宣は物々しく首を振り、弱々しく問いかけた雅清をまっすぐ射抜く。
「今まで通りで良い。へたに特別扱いをすれば邪推する者も出てくるであろうし、隊内の不和を起こしかねんからな」
「ですが、狙われているとあれば」
「薫はそれを承知で聖陽軍に入隊し、こうなる事態を覚悟して影王の力を解放したのだよ。あの子が全て自分で進み蒔いた種だ、それを摘む時も自分でなくてはならない」
我々がそこまで面倒を見る必要はないと言う事だ。と、食い下がった雅清を遮り、ピシャリと払いのけた。
雅清は、その冷酷な言い分に唖然としてしまう。
自分の行いだから仕方ないと言う言い分は分からなくもないが。数多の魁魔から狙われる身になったかもしれないとなった状況でも、そんな事を言うか?
普通じゃない。と、雅清は内心で苦々しく独りごちてから「誠に失礼ながら、総帥」と、反論を述べ出した。
「数多の魁魔から狙われているとあらば、任務の危険度が違ってきます。外に出れば、彼女は常に身を危険に晒す事になり、万が一と言う事態も引き起こしかねません」
俊宣は前からぶつけられる反論に「ほう?」と目をスッと側める。そして徐に顔の前で手を組み、「万が一、とは?」と冷ややかに訊ねた。
「彼女が魁魔に攫われるか、彼女の力が魁魔に渡ってしまうなどの事態です」
雅清は冷ややかにぶつけられる問いに一歩も臆する事なく、毅然と答える。
俊宣はその答えにふむと唸ってから「それは最悪だ」と、独りごちる……が。
「では、そうならない為に、君があの子を今まで以上にしっかりと鍛えてやってくれ。薫自身が強くなれば、何も問題はない」
きっぱりと打ち返されたのは、他人任せの拒絶。
背負った不都合は、どこまでも柚木自身の責任にするつもりか。
雅清の手が、死角になるデスクの影でグッとキツく丸まった。ギチギチッと丸められた拳が唸り、決心を強く固めていく。
そうだ。護る気がない奴等に柚木を任せるよりも、柚木自身を強くさせるよりも、俺が柚木を護る。必ず、護り抜いてやる。
雅清の内で、メラメラと決意が燃え盛った。だが、そんな燃ゆる炎に気付く事なく、俊宣は淡々と言葉を継ぐ。
「まぁしかし、あの子はただではやられんよ。狙われても、影王の力を上手く使って撃退するだろうし、そんな万が一は起きないと思うがね」
影王の力を出すなと言っておきながら、いざとなったら影王で対処出来るから心配しないと。結局どんな事になっても全ては柚木任せじゃないか。
雅清は煮え立つ想いをグッと押さえ込みながら「分かりました」と、淡々と答えた。
「では、今までと変わらず警邏に出させます」
ひどく淡々とした口調であったが。勿論、その奥にはメラメラと燃え盛るままの決意がある。
しかしながら、やはり、俊宣はその炎に気がつく事はなかった。満足げに「そうしてくれ」と頷き、「頼りにしているよ」と雅清を労う。
雅清は「ハッ」と敬礼して答えた。
そして「では、失礼します」と急いで隊に戻ろうと足を動かそうとした、その時だ。
「一つめはそうとして、二つめの話なんだが」
と、二つめを切り出される。
薫の話に頭を占拠されていた雅清は、すっかり二つめの存在を忘れていた。サッと動き出した足を素早く戻し「はい」と、向き直る。
「君。先日の物の怪騒動で、ご令嬢を助けただろう?」
ガラリと話が変わったばかりか、唐突に投げかけられる問いに、雅清はキュッと眉根を寄せてしまった。
……ご令嬢? 令嬢なんて助けただろうか? 柚木を助けた事は覚えているが、他は討伐やら物の怪の動向やらに集中していたせいでまるで覚えがないな。
雅清は記憶をたぐり寄せながら、ボソリと突っ込んでしまうが。そんな事を正直に上官に打ち明ける訳にもいかないので、「そうでしたでしょうか?」と首を傾げるだけに留めた。
そんな雅清に対し、俊宣は「嗚呼、間違いないそうだ」と答えてから「それでな」と、泰然と言葉を続ける。
「そのご令嬢と言うのが、現内務大臣東雲氏のご息女であったのだ」
「……そうでありましたか」
「あぁ。二人とも君の働きにひどく感謝しているばかりか、大変君を気に入ってなぁ。東雲氏から、是非我が娘と縁談をと言われたよ」
「縁談?」
前から告げられた頓狂な話に、雅清は「はぁ?」と思わず顔を顰めてしまった。だが、すぐにその歪みを解き、「総帥」と口を開いた。
「私は聖陽軍士として当たり前の事をしたまでです。有り難いと感謝して下さるのは嬉しいですが、それで縁談をと言うのは恩が些か過剰になっていると思ってしまいます」
「まぁ、その気持ちも分かるがなぁ」
俊宣はきっぱりと紡がれた拒否に険しく唸ってから「だがなぁ」と、煮え切らない言葉を続ける。
「君も二十七だろう? ここらで身を固めても」
「恐れながら、私は自分の事で手一杯の未熟者でありますので。東雲氏のご息女とあらせられる方とは、不釣り合いであり、不似合いであります。なので、ここで無理に縁談を組んでしまえば、東雲嬢の名と体裁を傷つけるばかりになってしまうかと」
雅清は俊宣の言葉を遮って反論をぶつけると、「どうか、お断りして頂けますか」と頭を下げて頼み込んだ。
だが
「まぁ……そう言わず、一度会ってみてはどうだ?」
と、前から「了承」は吐き出されなかった。そればかりか、「東雲嬢はとても可愛らしくて、どこに出しても恥ずかしくない程のよく出来たお嬢さんだそうだぞ」と、売り込まれていく。
そこで雅清は、ようやく断れない立場に立たされていると分かった。
自分だけでなく、この目の前の男も。
東雲家は侯爵と言う立派な爵位を持ち、政界を始めとする社交界で顔が広く効く。大変誉れ高い家である。
土御門家も、古くから続く長い歴史と格式高い家柄を持ち、積み上げた功績があって爵位を持っているが。侯爵である東雲とは格下の子爵であり、日本を護る立場とあっても政界や財界からは頭が上がらない立場なのだ。
雅清の内心で、大きくチッと舌が鳴る。
そうして煮え立つ憤懣をグッと飲み込み、苦々しく答えた。
「分かりました。ですが、会うのは一度だけですよ」
「あぁ、そう伝えておこう。君も忙しい身だからね」
ようやく吐き出された「了承」に、雅清は更に苛立ちを覚え、俊宣は胸をなで下ろす。
ちぐはぐの思いを抱いたが、双方の心は「まぁ、無理な話だろうな」と一致していたのだった。
く~、朝練がない朝って本当に最高。それだけでもかなり幸せな始まりなのに、こうして食堂から香ばしく漂う味噌汁の良い匂いよ……う~ん、最高。
薫はうーんと背筋を伸ばしながら、食堂に入っていく。
「おはようございまぁす」
幸せに満ちた声でふわぁんと挨拶した、刹那。ダダダッと荒々しい足音が徐々に接近し、「おいっ! 大変な事になったぞ!」と、目の前で悲鳴混じりの大声を浴びせられた。
薫は突然の猛々しい囲いにビクッと飛び跳ね、幸せな夢見心地の気分が引き裂かれてしまう。
「あぁ、もう、ビックリしたぁ。先輩達、朝っぱらからそんなに騒がないでくださいよ」
「そんな悠長な事を言ってる場合か!」
囲いの中央に居る岡田史彦が薫の批判じみた文句をピシャリと封じてから、「見ろ、コレ!」と荒々しく薫の眼前に突きつける。
「今朝の朝刊? え~岡田先輩、新聞取って読む人だったんですね。意外です」
「あぁ、俺ってこう見えても実は結構知的で……って、そうじゃねぇんだよ!」
関東出身ながらも、史彦は立派なノリ突っ込みをしてから「さっさと読め!」と、バシバシッと紙面を叩いた。
薫は「はいはい」と小さく肩を竦めてから、「どれどれ」と読み始める。
が、その紙面全体に目を通すまでもなく、でかでかと飾られた大見出しの一文で絶句し、一気に顔から血の気が失せた。
「東雲優衣子《しののめゆいこ》嬢がご婚約、お相手はあの氷炎の貴公子・枢木雅清……?」
先程まで感じていた幸せが内から霞となって消え失せると、新たに絶望がどっしりと空いた座席に居座る。
「嘘」
薫はボソリと呟く様に吐き出すと、史彦は「俺等もよく分かんねーんだよ」と慰める様に答えた。
その慰めに続き、彼女を囲っている面々が次々と口を開き始める。
「こんな浮ついた話は間違いだと思うけどなぁ」「そうそう、柚木がウチに来てから殊更女泣かせになってるからな」「んな。だから女嫌いで男好きって言うとんでもない噂も飛び交う位だ」「だからコレも何かの間違いだと思うが」「お相手が、あの内務大臣のご息女だからなぁ」「どうなんだろうなぁ」
徐々に不穏混じりになってくる声達に、薫にのしかかる闇が更にズシンと重さを増し始めた。
すると「先輩等」と、囲いの少し後ろから声が飛ぶ。
「それじゃあ、慰めになってませんよ。薫の不安を煽ってるだけですって」
皆がバッと声の飛んだ方を見つめると。数多の視線を一身に集めた篤弘は、薫だけをまっすぐ見つめて言った。
「こんな文字じゃなく、俺はあの人の口から並ぶ言葉を信じる。だからお前も、あの人から話を聞くまでこんな話を鵜呑みにすべきじゃない」
「……篤弘」
薫は前からまっすぐ飛んで来た言葉に、胸をグサリと貫かれる。
嗚呼、そうよ。篤弘の言う通りだわ。こんな新聞なんかより、私はあの人の口から語られる真実を信じるべきだし、あの人から語られるまで落ち込むなんてすべきじゃないのよ。
薫は生まれた絶望を「情けない!」と一喝してから、外へと叩きだした。
そしてキュッと唇を結んでから、自分の間違いを正してくれた同期をまっすぐ見据える。
「ありがとう、篤弘」
「いやぁ、お前格好良いじゃねぇか!」「流石、枢木隊長大好きっ子だな!」「でも、コレでお前がモテる理由が分かった気がするわ」「まぁ、そう言う訳で柚木! 前を向こうぜ!」「おい、後輩の格好いい言葉が台無しだろ!」
薫の感謝に続く、朗らかな野次。そんな野次に囲われ、篤弘は「辞めて下さいよ」と照れ臭そうにいなし続ける。
緊急事態に切羽詰まっていた枢木隊が、朗らかに団らんし始めた。
その時だった。
「全く、食堂でこんなに騒ぐなんて。ウチの隊は本当に賑やかになったものだね」
薫の背後からヌッと現れた怜人の姿に、騒いでいた面々は皆飛び上がり、薫を生け贄に差し出す様にしてからザッと整列した。
押し出された薫は「ちょっと、ズルいわよ!」と先輩達に噛みつきながらも、「お、おはようございます! 柊副教官!」と挨拶を述べる。
怜人は「うん、おはよう」と苦笑交じりに返してから、一気に息を潜めて顔色を悪くする自隊の面々を見据えた。
「それにしても何の騒ぎだったのかな? まぁ、柚木さんが居るから雅絡みだよね?」
雅が今この場に居なくて良かったね、お前達。と、薫の背後に冷ややかな眼を向ける怜人。
そんな怜人にヒュッと息を飲んでから、おずおずと「い、いやぁ、あの実はですねぇ」と、新聞を手にしている史彦が切り出した。
「ほ、本日の朝刊に、こ、こんな記事が一面となっておりまして……そ、それで、こ、この騒ぎになっていた次第でして」
「記事?」
怜人は怪訝に眉根を寄せて、差し出された朝刊を受け取る。そして「わお」と小さく驚きを零した。
その姿に、薫は「あれ?」と首を傾げ、「あ、あの」とおずおずと切り出す。
「ひ、柊副教官もご存じなかったのですか?」
「う~ん、知っている様で知らなかったって所かな」
何とも曖昧な言い方に、薫の傾げた首は更にカクンッと角度が付けられ、顰められた眉根も更にギュッと寄った。
「どういう事ですか?」
怪訝一色に染まった問いかけに、怜人は「うーん」と苦笑を浮かべて答える。
「昨日の夜にね。雅が総帥に呼び出された後に俺の部屋に来て、ちょっと話をしたんだけどさ。その時に」
「これは一体、何の騒ぎだ」
怜人の苦々しい答えに、物々しい威圧が重なった。
薫はハッとして、声が飛んだ方を見ると。そこには「また柚木か?」と言わんばかりの顔つきをした雅清が、憮然と腕を組んで立っていた。
その姿に、彼等は怜人が現れた時以上に蒼然とし、そして「修羅場だ……」と言わんばかりの苦しげな表情に変わっていく。
現れた雅清はそんな隊士達を見るや否や、はぁと大きく息を吐き出した。
「柚木。お前、今度は何を叫んで騒いでいたんだ?」
呆れながらぶつけられる問いに、薫は「ハッ! ?」と素っ頓狂な声をあげて噛みつく。
「これは、私のせいじゃありません!」
「騒ぎの中心には、いつも決まってお前がいる。だから今回もどうせお前だろう」
……何、この失礼な言い分! って言うか、自分のせいでこんな大騒ぎになっているのに一人飄々としている感じが、なんかムカつくんだけど!
雅清から打ち返される冷淡な言葉に、薫の怒りがゴウッと唸った。
だが、それが爆発と言う形で吐き出される前に「今回の騒ぎの原因は柚木さんじゃないよ」と、毅然とした反論が二人の間に割って入る。
「今回ばかりは君のせいだ」
怜人が朗らかに答えると、直ぐさま「は?」と物々しい一言が噛みついた。
「怜人、それは」
「ハイ、どうぞ」
前からの猛々しい苛立ちをひょいといなす様にして、怜人は軽やかに手にしていた新聞を雅清に渡す。
新聞を受け取った雅清はチッと怜人に舌を打ってから、目を落とした。
すると……すぐにぐにゃりと顔が歪み、「何だこれは」と嫌悪に塗れた一言が零れる。
それを聞くや否や、薫の怒りはしゅんっと鎮まり、期待がぐわっと加速して駆け上がった。
「って言う事はこの記事、嘘、ですよね? !」
「ああ」
苦々しい面持ちで繰り出された首肯に、薫の内心で高らかに「バンザーイ!」と両手が上がる。
やったわ、やったわ! やっぱりそうよね、そうだったのよね! こんな記事、出鱈目も出鱈目! 全くもう、本当に文屋って嫌な奴等だわ! こんな嘘まみれの記事を書くなんて、とんでもないわよ!
先程の絶望はどこへやら、薫の内心は大歓喜でお祭り騒ぎになった……が。
「縁談をとは言われたが、婚約なぞした覚えがない」
え、待って。待って。待って……?
力強く落ちてきた隕石に中央部を当たられ、がっつりと抉られてしまい、開催していたお祭りがすぐにぶち壊されて閉会してしまった。
薫は「縁談をとは言われたが……?」と、消えいりそうな声で前からサラリと流された言葉を静かにぐいっと引き戻す。
「く、枢木教官。え、縁談、しちゃうんですか……?」
苦しげな声が零れ出た刹那、薫は凄まじい後悔に襲われた。
嗚呼、私ってば、なんでこんな事を聞いちゃったのよ。聞く必要もなかったのに、「縁談なんて辞めて下さい」なんて言える立場でもないのに。
私ってば、どうして、どうしてそんな事を聞いちゃったのよ。
薫はサッと目を伏せ、「申し訳ありません、出過ぎた事を伺ってしまいました」と蚊の鳴く様な声で謝った。
そして無理やり口角を上げてから、伏せった目を無理やり彼の元へ向ける。
「りょ、良縁だと」
「縁談なぞしない」
良いですね、と続く言葉がバッサリと冷たい拒否に重なった。
薫は前からハッキリと紡がれた否定に「え?」と、呆気に取られる。
すると雅清は、小さくため息を吐き出してから「東雲嬢とは、一度会うだけだが」と、毅然と答えた。
「それで終わりだ。縁談も婚約もするつもりはないし、しようとも思わん」
「ほ、本当ですか?」
薫は「また後に嫌な言葉が続くんじゃないか」と不安を抱えながら、おずおずと訊ねる。
だが、その不安を一蹴する様に「ああ」と力強い肯定で結ばれた。
「お前等で、特にお前と言う問題児で手一杯の今に結婚なぞ出来るか」
雅清はフッと微笑を零して告げる。
薫はその笑みにドキッと胸を高鳴らせるが。「わ、私は問題児じゃありませんっ!」と唐突に紡がれた悪口に慌てて噛みついた。
「寝言は寝て言え」
雅清は前からの反論を真顔でバシッと打ち落としてから、「お前等も、こんな事でいちいち騒ぐな」と薫の後ろに居る面々を睨めつける。
「だが、朝からこうも騒ぐ元気と体力がある事は分かった。今日の訓練、実に期待しているぞ」
ニタリと口角を上げて告げる禍々しい鬼の姿に、薫達は皆揃って声にならない悲鳴をあげた。
ふふふと柔らかな笑みを零し「良かったねぇ」と安穏としていたのは、怜人だけである。