星降る夜に、君を探して

冬の冷たい風が、学校の屋上を吹き抜けていった。空は澄み切っているが、その青さはどこか冷たく、孤独を感じさせるものだった。奏はコンクリートの床に座り、膝の上に置いた弁当箱を開けた。冷たい風が指先をかすめ、思わず身震いする。隣では茉莉が、いつもの明るい調子で話している。その声は快活で、まるで冬の寒さを跳ね返そうとしているかのようだった。
少し離れたところでは、八神空が黙って空を見上げている。彼の背中はどこか孤高で、奏にはその沈黙が重く感じられた。この三人で屋上で昼食を取るようになってから、一週間が過ぎていた。教室の息苦しさから逃れたい一心でいたあの日。空が転校してきたあの日だ。そのとき空が「屋上で食べない?」と誘ってくれたのが始まりだった。茉莉も自然とついてきて、なんとなくこのメンバーが固定化していた。
屋上での昼食は、奏にとって安らぎの場所であると同時に、小さな緊張を強いられる時間でもあった。特に茉莉との関係がぎこちなくなってから、その思いはさらに強くなっていた。
奏は弁当のふたを開けながら、茉莉の横顔を盗み見た。相変わらず明るく楽しそうに話す茉莉。その笑顔はいつも通りだ。しかし、その裏側に何か隠されているような気がしてならない。あの日、帰り道で何気なく口にした一言。それが二人の間に見えない溝を作ってしまったのかもしれない。
(本当は、もっと話したいことがあるんじゃないか)
奏はそう思いながらも、言葉を飲み込んだ。口を開けば、また何かを傷つけてしまうかもしれない。それならば、このまま沈黙を守っている方がマシだと思った。自分自身も、本当の気持ちを伝えられないでいる。その歯がゆさが胸の奥でじわじわと広がり、重くのしかかる。
「ねえ、奏。聞いてる?」
茉莉の声にハッとして顔を上げた。慌てて作り笑いを浮かべる。
「ごめん、ちょっとボーッとしてた」
「もう、聞いてよ。今度の土曜日、みんなでカラオケ行かない?」
茉莉は弾むような声で言った。その瞳には期待と楽しさが宿っている。しかし、その提案に奏は一瞬躊躇した。カラオケ――声を出すこと。それは奏にとって憧れであり、同時に恐れでもあった。人前で歌うことなど考えただけでも身震いする。
「う、うん……行けたら行く」
曖昧な返事しかできなかった。その言葉には、自分でも隠しきれない不安が滲んでいた。行きたい。でも怖い。その二つの感情が彼女の中で激しくぶつかり合い、自分自身を混乱させていた。
その様子を空がじっと見つめていた。その瞳には、奏の心の奥底まで見透かすような鋭さがあるように感じられる。それに気づいた瞬間、奏は居心地の悪さを覚えた。
「僕も行くよ。楽しそうだし」
空が静かに言った。その言葉には特別な感情は込められていないようだったが、それでも茉莉は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ると、奏の胸に小さな痛みが走る。
(私もあんな風に素直に笑えたらいいのに)
昼食が終わり、三人は教室へ戻るため階段を降り始めた。その間も微妙な沈黙が続いていた。茉莉との距離感、空への複雑な感情、自分自身の夢への葛藤――それら全てが絡み合い、奏の心を重くしている。
空は何も言わずに奏の隣を歩いていた。その沈黙は心地よくもあり、不安でもあった。ただ一緒に歩いているだけなのに、その存在感が大きすぎて息苦しくなる。
(どうしてこんなにも苦しいんだろう)
奏は自問自答した。しかし、その答えはまだ見つからない。ただ、このままではいけないということだけは分かっていた。それでも、一歩踏み出す勇気が湧いてこない自分自身にもどかしさを覚える。
教室へ戻ると茉莉はすぐ他のクラスメイトと話し始めた。その姿を見ると、自分だけ取り残されているような気持ちになる。奏は自分の席へ戻りながら窓際へ目線を移した。冬の日差しは弱々しく、それでも窓ガラス越しに冷たい光を落としている。
外を見ると灰色の曇り空が広がっていた。その空模様はまるで今の自分自身――晴れることなく曇り続ける心そのものだった。
授業開始を告げるチャイムが鳴り響き、生徒たちはそれぞれ席についた。先生の声だけが教室内に響いている。しかし奏にはその声すら遠く感じられる。教科書を開きながらも上の空だった。頭の中では茉莉との会話や空から向けられる視線、自分自身への問いかけ――それら全てがぐるぐると渦巻いていた。
(いつか、この苦しみから解放される日なんて来るんだろうか)
そんな思いだけが胸中に漂う。それでも授業中という状況下ではその感情さえ押し殺さざる得なかった。ただ静かに深呼吸することで自分自身をごまかすしか方法はなかった。その息遣いすらどこまでも冷たく重かった。
放課後になり校舎内から生徒達姿消える頃…再び屋上戻り一人静寂味わう事しか出来無かった。
冬の冷たい風が、奏の頬を刺すように吹き抜けていった。夜の帳が降り始めた空は、深い群青色に染まり、遠くの山々の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。奏はマフラーをぎゅっと首元に押し当てながら、目の前に広がる風景に足を止めた。
「ここだよ」
隣を歩いていた八神空が、静かにそう言った。彼の声は冷えた空気に溶け込むようで、まるでこの場所自体が空の声に応えるかのようだった。奏が顔を上げると、そこには古びた天文台が佇んでいた。雪化粧をまとったその姿は、どこか幻想的で、現実から切り離された異世界のようだった。
「これ…使われてないよね?」
奏は少し不安そうに尋ねた。天文台の壁にはひび割れが走り、ところどころ塗装が剥げ落ちている。それでも、その姿には不思議な威厳があった。かつてここで星々を見上げ、人々が何を考えていたのだろうと想像すると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「大丈夫、崩れたりしないから」
空は微笑みながら答えた。その笑顔には、不思議と安心感があった。奏は小さく頷き、空についていくことにした。
二人は慎重に階段を上っていった。一段一段踏みしめるごとに、古びた木材が軋む音を立てる。その音が静寂を切り裂き、奏の心臓の鼓動をさらに高めた。冷たい手すりに触れる指先から、冬の冷気がじんわりと伝わってくる。
「怖い?」
空が振り返って尋ねた。その瞳には優しさと少しの茶目っ気が混じっている。
「別に…大丈夫」
そう答えながらも、奏の声は少し震えていた。しかし、その震えには恐怖だけではなく、小さな期待も混じっていた。この場所で何か特別なものを見ることができるかもしれないという期待感。それは、自分でも気づかないうちに胸の奥で膨らんでいた。
天文台の屋上に辿り着くと、奏は思わず息を呑んだ。目の前には広大な夜空が広がっていた。街明かりから遠く離れたこの場所では、星々がまるで手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられる。その輝きは寒ささえ忘れさせるほど美しく、言葉では表現できないほどだった。
「すごい…」
奏は無意識にそう呟いていた。その声は白い息となって夜空へ溶けていく。
「きれいだろ?」
空が隣で言った。その声もまた静かで、この場所にぴったりと馴染んでいた。二人は屋上の端に腰を下ろした。コンクリート越しにも冷気が伝わってくるが、それでもこの景色を前にすると寒さなどどうでもよく思えた。
足元には街の灯りが小さく瞬いている。そして頭上には無数の星々。それらすべてが、この一瞬だけ二人だけのものになったような気がした。
「ねえ、奏」
空が静かに口を開いた。その声にはいつもの軽やかさとは違う真剣さが滲んでいる。
「君は、本当にやりたいことってある?」
その問いに、奏は戸惑った。本当にやりたいこと。それは彼女自身もずっと心の奥底に封印してきた言葉だった。この問いを投げかけられること自体、自分には許されないと思っていた。
「私は…」
言葉に詰まる奏。その視線は膝元へ落ち、その手はぎゅっと握られている。その様子を見て、空は優しく微笑んだ。
「無理に答えなくていいよ。でもね、自分らしく生きることって、とても大切なんだ」
その言葉はまっすぐで、それでいて柔らかかった。その一言一言が、凍てついた冬空から降り注ぐ雪のように静かに奏の心へ降り積もっていく。
「僕ね、昔は周りの期待ばっかり気にしてたんだ。でも、それじゃ本当の自分なんてどこにもなくなっちゃう」
空の声にはどこか寂しさと決意が混じっていた。その言葉には重みがあった。彼自身もまた、自分と戦いながらここまで来たということを感じさせるものだった。
「だから今は、自分の心に正直になろうとしてる。たとえそれが周りからどう見えるとしてもね」
その言葉に、奏の胸の奥で何かが揺れ動いた。自分らしく生きる。それは彼女自身ずっと避けてきたテーマだった。でも、この瞬間、その意味について考えずにはいられなかった。
夜が深まるにつれ、星々はさらに輝きを増していった。冬特有の澄んだ空気のおかげで、一つ一つの星が際立って見える。その光景を見つめながら、奏は自分自身と向き合おうとしていた。
「ねえ、空」
奏は小さな声で呼びかけた。その声には微かな震えと決意が混じっていた。
「私ね、本当は…声優になりたい」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど胸が軽くなった。それまで誰にも言えなかった夢。それを初めて誰かに伝えることができた喜びと解放感。そして、それ以上に、その夢を口にすることで自分自身を認められたような気持ちになった。
空は優しく微笑んだ。その笑顔には何も否定するものなどなく、ただ純粋な応援だけが込められていた。
「素敵な夢だね。その夢、大切にしてほしい。一歩ずつでいいから進んでいけばいい」
その言葉に、奏の目から涙がこぼれ落ちた。それまで押し殺してきた思い、それまで隠してきた自分自身。それら全てが溢れ出すようだった。
「でも…親には絶対反対されると思う」
涙声でそう呟く奏。その肩越しから見える星々もまた揺れているようだった。しかし空は穏やかな声で続けた。
「大丈夫。一気に変える必要なんてないよ。少しずつ、自分の思いを伝えていけばいいんだ」
その一言一言が暖かな灯火となり、凍えていた奏の心をそっと温めていった。この夜、この天文台という特別な場所で交わされた会話。それは彼女自身にとって、新しい一歩への扉となった。
星降る天文台――その夜空には無数の星々だけではなく、小さな希望という名の光もまた輝いていた。そして、その光こそ奏自身への贈り物だった。

冬の夜空が、再び奏と空を包み込んだ。前回訪れた時よりも寒さが増し、二人の吐く息は白く凍りついて消えていく。それでも、奏の心は温かさに満ちていた。前回の訪問で、自分の夢を初めて口にした解放感が、まだ胸の中で余韻を残していたからだ。
天文台の階段を上りながら、奏は空の横顔をちらりと見た。その姿は、まるで星空に溶け込んでいくかのようだった。
屋上に辿り着くと、二人は無言で夜空を見上げた。星々は前回よりも輝きを増しているように見えた。しばらくの沈黙の後、奏は勇気を出して口を開いた。
「ねえ、空」
「うん?」
「空の夢は何?やっぱり俳優?」
空は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「天文学者だよ」
「天文学者?」
奏の声には驚きが滲んでいた。空は夜空を見上げながら、静かに語り始めた。
「星が好きなんだ。今見えている星の光は、実は何年、何十年、何万年と昔の光なんだよ」
「へえ……」
奏は思わず感嘆の声を上げた。空の言葉に、夜空がより神秘的に見えてきた。
「だから、もしかしたら今見えているこの光を放つ星は、もうその場所にはいないかもしれないし……消えてなくなっているかもしれない」
その言葉に、奏はドキッとした。何か重要なことを聞いているような気がした。
「消えて……なくなる」
奏の声は震えていた。それは寒さのせいだけではなかった。
「星の生命の終わりだね」空は静かに続けた。「でも、死んでなお、輝きを届けるって素敵だよね」
その言葉に、奏は深く考え込んだ。星の一生。そして、その死後も続く輝き。それは何か、人生について大切なことを教えてくれているような気がした。
しばらくの沈黙の後、空が突然奏に向き直った。
「ねえ、奏。僕と一緒に声優のレッスンをしないか?」
「え?」奏は驚いて目を丸くした。「どこで?」
「この天文台で」
空の提案に、奏は戸惑いを覚えた。しかし、同時に心の奥で小さな希望の火が灯るのを感じた。
「でも、こんな場所で……」
「大丈夫だよ。ここなら誰にも邪魔されないし、星空を見ながらの練習は、きっと特別なものになるはずだ」
空の言葉には確信があった。奏は迷いながらも、少しずつその提案に心が傾いていくのを感じた。
「わかった。やってみる」
その言葉を口にした瞬間、奏の中で何かが変わった気がした。これが、自分の夢に向かっての第一歩なのだと。
それから毎晩、奏と空は天文台で会うようになった。奏の母親には「茉莉のところで一緒に勉強する」と伝えてある。茉莉にお願いして、口裏を合わせてもらったのだ。
茉莉に相談した時、彼女は複雑そうな表情を浮かべた。しかし、最後には「いいよ」と言ってくれた。その言葉の裏に隠された思いを、奏は感じ取っていた。でも、今はこの機会を逃したくなかった。
天文台での練習は、奏にとって特別なものだった。星空を見上げながら、様々な感情を込めて声を出す。時には笑い、時には泣き、時には怒る。その度に、星々が奏の感情に呼応するかのように輝きを変えるように感じられた。
空は優しく、時に厳しく奏を指導した。その姿は、まるでプロの声優のようだった。
「もっと感情を込めて。星々に届くくらいの声で」
そんな空の言葉に励まされ、奏は少しずつ成長していった。
ある夜、練習を終えた後、二人は星空を見上げながら話をしていた。
「ねえ、空」
「うん?」
「私、少しずつだけど、自分の声に自信が持てるようになってきたの」
空は優しく微笑んだ。
「それは良かった。君の声は、きっと星々にも届いているよ」
その言葉に、奏は胸が熱くなるのを感じた。
「でも、まだ親には言い出せない」
「大丈夫。焦る必要はないんだ。星の光が地球に届くまでに、何年もかかることだってあるんだから」
空の言葉に、奏は少し安心した。そう、焦る必要はない。自分のペースで、少しずつ前に進めばいい。
星空の下、二人の姿は小さく見えた。しかし、その心の中には大きな夢が広がっていた。奏は、これからも空と一緒に、この特別な場所で練習を続けていくのだろう。そして、いつかきっと自分の声で、多くの人々の心に届く日が来ることを信じていた。
天文台は、奏にとって単なる練習場所ではなくなっていた。それは、夢への扉であり、自分自身と向き合う場所。そして何より、大切な人と共に過ごす、かけがえのない時間を紡ぐ場所になっていたのだ。

冬の夜空は、まるで黒いビロードのカーテンに無数のダイヤモンドを散りばめたかのように輝いていた。奏と空は、古びた天文台の屋上に腰を下ろし、息を呑むような美しさの星空を見上げていた。冷たい風が二人の頬を撫でていったが、それでも二人の心は温かさに満ちていた。
空が静かに口を開いた。「ねえ、奏。冬の星座って知ってる?」
奏は首を横に振った。「あまり詳しくないの」
空は優しく微笑んだ。その笑顔は、星明かりに照らされてより柔らかく見えた。「じゃあ、教えてあげるね」
空は右手を伸ばし、夜空の一点を指さした。「あそこに見える明るい星が3つ並んでいるのが分かる?あれがオリオン座の三つ星だよ」
奏は目を凝らして空の指す方向を見つめた。確かに、3つの明るい星が一直線に並んでいるのが見えた。「わぁ、本当だ」
空は続けた。「オリオン座は冬の代表的な星座なんだ。ギリシャ神話の狩人オリオンをかたどっているんだよ」
奏は空の言葉に聞き入りながら、星々を見つめていた。空の声は、静かな夜空に溶け込むように柔らかく、でも確かな情熱を秘めていた。
「そして、オリオン座の左上にある明るい星。あれがシリウスっていう星なんだ。全天で一番明るい恒星なんだよ」
奏はその星を見つけ、その輝きの美しさに息を呑んだ。「すごく綺麗...」
空は嬉しそうに頷いた。「そうだね。シリウスは『大犬座』の主星なんだ。オリオンの忠実な猟犬を表しているんだよ」
奏は空の解説に聞き入りながら、ふと疑問が湧いてきた。空がこんなにも星のことを熱心に語る姿を見て、ある違和感を覚えたのだ。
「ねえ、空」奏は少し躊躇いながら口を開いた。「空はなぜ、みんなの前で自己紹介をするときに星が好きだって言わなかったの?」
空は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。その瞳には、星空が映り込んでいるようだった。
「それはね...」空は少し言葉を選ぶように間を置いた。「本当に好きなものは、大事な人とだけ共有したいから」
その言葉に、奏は胸が高鳴るのを感じた。自分が空にとって「大事な人」なのだと知った喜びと、同時に何か切ない感情が胸の中で渦巻いた。
空は続けた。「星のことを語るのは、僕にとってとても特別なことなんだ。だから、本当に大切な人と、こうして静かな夜に二人きりで共有したかったんだ」
奏は言葉を失った。空の言葉の一つ一つが、冬の夜空の星のように、彼女の心に深く刻まれていくのを感じた。
「それに」空は少し照れくさそうに言った。「君と一緒に星を見ながら話すのが、すごく楽しいんだ」
奏は顔が熱くなるのを感じた。寒い冬の夜なのに、頬が火照るのが分かった。「私も...すごく楽しい」
二人は再び夜空を見上げた。星々は以前よりも明るく、近くに感じられた。奏は、この瞬間を永遠に記憶に留めておきたいと思った。
空が再び星座の解説を始めた。「あそこに見える、W字型の星の並びが『カシオペア座』だよ」
奏はその形を見つけ、小さく歓声を上げた。「本当だ!Wの形に見える!」
空は嬉しそうに頷いた。「ギリシャ神話に出てくる美しい王妃をかたどった星座なんだ」
奏は空の横顔を見つめた。星空を語る時の空の表情は、いつもより生き生きとしていて、目が輝いていた。その姿に、奏は心を奪われていた。
「ねえ、空」奏は小さな声で呼びかけた。「私も、もっと星のことを知りたいな」
空は優しく微笑んだ。「うん、一緒に勉強しよう。星のこと、宇宙のこと、もっともっと」
その言葉に、奏は心が温かくなるのを感じた。二人で共に学び、成長していく。その未来が、とても眩しく感じられた。
夜が更けていく中、二人は星座や星の話に夢中になった。時折吹く冷たい風も、二人の間に芽生えた温かな感情を冷ますことはできなかった。
奏は、この天文台での時間が、自分にとってかけがえのないものになっていることを実感していた。声優の練習だけでなく、空との対話、そして星空との出会い。全てが彼女を少しずつ変えていっているような気がした。
「ありがとう、空」奏は心からの感謝を込めて言った。
空は少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しい笑顔を見せた。「何のお礼?」
「こんな素敵な世界を見せてくれて」奏は星空を指さしながら言った。「そして、私だけに教えてくれて」
空は照れくさそうに頭をかいた。「僕こそ、君と一緒にこの景色を見られて幸せだよ」
二人は再び夜空を見上げた。無数の星が、まるで二人を祝福するかのように輝いていた。奏は、この瞬間が永遠に続けばいいのにと思った。
しかし、現実の時間は容赦なく過ぎていく。やがて帰る時間が近づいてきた。
「そろそろ帰らないと」空が静かに言った。
奏は少し寂しそうに頷いた。「うん...」
二人は立ち上がり、最後にもう一度夜空を見上げた。
「また明日も来るよね?」奏が期待を込めて尋ねた。
空は微笑んで頷いた。「もちろん。君と一緒に星を見るのが、毎日の楽しみになってるから」
その言葉に、奏の心は喜びで満たされた。明日への期待が、彼女の中で大きく膨らんでいった。
天文台を後にする二人の背中に、星々は優しく光を投げかけていた。それは、まるで二人の未来を照らす道標のようだった。
奏は空を見上げ、小さくつぶやいた。「明日も、素敵な星空が見られますように」

冬の陽光が教室の窓から差し込み、奏の机の上で淡い光の模様を作っていた。昼休みを告げるチャイムが鳴り、クラスメイトたちが賑やかに立ち上がる中、奏はゆっくりと弁当箱を取り出した。その瞬間、茉莉が軽やかな足取りで近づいてきた。
「ねえ、奏。今日も屋上で食べる?」茉莉の声には、いつもの明るさがあった。
奏は小さく頷いた。「うん、そうしよう」
二人が教室を出ようとしたとき、空が静かに近づいてきた。彼は特に何も言わず、ただ二人についてくるだけだった。この三人で屋上で昼食を取るのは、最近では珍しくないことになっていた。
階段を上がりながら、奏は空の後ろ姿を見つめていた。学校では、空は特別奏と親しげにすることはなかった。それでも、この昼食の時間だけは一緒に過ごす。その関係が、奏の心に微妙な揺らぎを与えていた。
屋上に出ると、冷たい風が三人を迎えた。空は高い柵に寄りかかり、遠くを見つめている。茉莉は明るく話しかけながら、弁当箱を開いた。奏は二人の間に座り、静かに箸を取った。
しばらくの間、三人は穏やかな空気の中で食事を楽しんでいた。遠くから聞こえる運動場の声や、時折吹く風の音だけが、この静寂を彩っていた。
突然、茉莉が奏に向かって尋ねた。「ねえ、奏。空くんとの仲、どうなの?」
その質問に、奏は一瞬息を飲んだ。箸を持つ手が微かに震える。「え?どういうこと?」
茉莉は少し首を傾げ、「だって、毎晩空くんと二人で会ってるじゃん。実際何してんの?」と、興味深そうに尋ねた。
奏は言葉に詰まった。確かに、天文台での夜の時間は特別なものだった。しかし、それをどう表現すればいいのか。自分でも、空との関係をどう定義すればいいのか分からなかった。
「別に...何もないよ」奏は曖昧に答えた。その声には、自分でも気づかない戸惑いが混じっていた。
茉莉はさらに追及するように、「でも、なんだか二人の間に秘密があるみたいじゃない?」と言った。
その言葉に、奏は心臓が高鳴るのを感じた。確かに秘密はあった。でも、それは声優の練習のことだけではない。星空の下で交わした言葉、共有した時間。それらは全て、奏の心の奥深くにしまわれた大切な宝物だった。
「そんなことないよ」奏は微かに頬を赤らめながら答えた。「ただの...友達だよ」
その言葉を口にした瞬間、奏は自分の心の中で何かが引っかかるのを感じた。「友達」という言葉で表現できるほど単純なものではない。でも、かといって他の言葉で表現することもできない。
空は、この会話の間ずっと黙って遠くを見つめていた。時折、奏の方をちらりと見る。その視線に気づくたびに、奏の心はさらに混乱した。
茉莉は、まだ納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。「そっか。でも、何かあったら教えてね」
奏は小さく頷いた。胸の中では、言葉にできない感情が渦巻いていた。
昼食が終わり、三人は教室に戻る。階段を降りながら、奏は自分の気持ちを整理しようとしていた。空との関係。それは友情なのか、それとも別の何かなのか。答えが見つからないまま、奏の心は揺れ続けていた。
教室に戻ると、空はいつものように自分の席に座り、周りのクラスメイトと普通に会話を始めた。その姿を見て、奏は少し寂しさを感じた。学校では、空は特別奏と親しくしているわけではない。それなのに、なぜ夜の天文台では違うのか。
授業が始まり、奏は教科書を開いた。しかし、頭の中は空のことでいっぱいだった。黒板の文字も、先生の声も、どこか遠くに聞こえる。
窓の外を見ると、冬の空が広がっていた。その青さが、天文台で見た夜空を思い出させる。星々の輝き、空の優しい声、共に過ごした時間。それらの記憶が、奏の心を温かく包み込む。
(私と空の関係って、なんなんだろう)
その問いは、授業が終わっても、放課後になっても、奏の心から離れなかった。
帰り道、奏は一人で歩いていた。いつもなら茉莉と一緒なのに、今日は何となく一人になりたかった。冷たい風が頬を撫でていく。その感触が、天文台での夜を思い出させる。
空を見上げると、まだ薄明るい空に、かすかに星が見え始めていた。その光が、奏の心に小さな希望を灯す。
(きっと、いつかわかるはず)
そう思いながら、奏は家路を急いだ。今夜も、天文台で空と会う約束がある。その時間が、少しずつ自分の中の答えを導いてくれるかもしれない。
家に着くと、奏は急いで部屋に向かった。鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。そこには、少しずつ変わりつつある自分の姿があった。声優になりたいという夢。空との特別な時間。それらが、奏を少しずつ、でも確実に変えていっているのを感じた。
夜になり、奏は再び家を出た。母には茉莉と勉強すると伝えてある。その嘘が胸に引っかかるが、今はそれしか方法がない。
天文台に向かう道すがら、奏は自分の気持ちと向き合おうとしていた。空との関係。それは単なる友情ではない。でも、恋とも違う。それは、お互いの夢を共有し、支え合う特別な絆。
天文台が見えてきた。そこに立つ空の姿が、奏の心を高鳴らせる。
「やあ、奏」空の声が、夜の静けさを優しく破る。
「うん」奏は小さく返事をした。
二人は並んで星空を見上げる。その瞬間、奏は思った。この関係に名前をつける必要はないのかもしれない。ただ、こうして一緒にいられることが大切なんだと。
星々が、二人の上で静かに輝いていた。その光は、奏の心の中にある答えを、少しずつ照らし出しているようだった。
冬の夜空が、天文台の屋上を優しく包み込んでいた。星々の輝きは、まるで奏と空の会話を見守るかのように、静かに瞬いていた。二人は肩を寄せ合い、冷たい風を感じながら、互いの吐く息が白く凍りつくのを眺めていた。
空が静かに口を開いた。「奏は何で声優になりたいの?」
その質問に、奏は少し驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「小さいころに音読をしていて楽しいって思ったんだ。あと……」奏は少し言葉を詰まらせた。「私一人っ子だったから、一人で人形遊びしていて。人形は何人もいるけど、全部演じるのは自分だったの。演じ分けるって楽しいなってその時思って、それで」
奏の言葉には、懐かしさと同時に、どこか切なさも混じっていた。幼い頃の純粋な喜びと、それを今まで誰にも打ち明けられなかった寂しさが、その声に滲んでいた。
空は静かに頷いた。「そうか」
その言葉には、奏の思いを全て受け止めるような温かさがあった。
しばらくの沈黙の後、空が再び口を開いた。「ご両親にはまだ話せない?」
その問いに、奏の表情が曇った。両親の顔を思い浮かべると、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。声優のことを気持ち悪いと吐き捨てた記憶が、鮮明によみがえる。
「だって……」奏は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。「言える……雰囲気じゃないよ」
その言葉の裏には、言い尽くせない思いが隠されていた。小学生の頃、ケーキ屋さんの前でケーキ職人になりたいと言ったときの記憶が蘇る。母親の冷たい声が、今でも耳に残っていた。「あんなの、勉強に失敗した人がやる仕事よ」
その言葉が、奏の心に深い傷を残していた。夢を語ることさえ許されない環境。それが、奏の心を縛り付けていたのだ。
空はそっと奏の肩に手を置いた。「そっか……」それ以上は何も言わなかったが、その沈黙には深い理解が込められていた。
しばらくの間、二人は無言で星空を見上げていた。やがて空が、いつものように星の解説を始めた。その声は、奏の心を少しずつ和ませていった。
解説が終わると、空が突然奏の名を呼んだ。「奏」
「何?」奏は少し驚いて空を見た。
空の目には、真剣な光が宿っていた。「奏はね、すごく魅力的な人だよ。わかってる?」
その言葉に、奏は思わず目を逸らした。「そんなこと……」
「あるよ」空の声は、揺るぎない確信に満ちていた。
奏は小さく首を振った。「空に比べたらたいしたことないよ」
空はそっと奏の顔を覗き込むように身を寄せた。「じゃあ、それでいい。君が認めてくれる八神空が認めた桐島奏はすごい人だよ。僕が証明する」
その言葉に、奏は思わず顔を赤らめた。「突然何? 変だよ、空」
しかし、その言葉とは裏腹に、奏の心の中で何かが温かく広がっていくのを感じた。
空は真剣な眼差しで奏を見つめ続けた。「奏、自分らしく生きて」
「え」奏は、その言葉の重みに息を呑んだ。
「自信をもって。不安になったときは、僕が傍にいるから」
空の言葉は、冬の夜空に響く鐘の音のように、奏の心に深く刻まれていった。それは、これまで誰からも言われたことのない、温かく、力強い言葉だった。
奏は、目に涙が浮かぶのを感じた。それは悲しみの涙ではなく、長い間押し殺してきた自分自身を、やっと解放できたような喜びの涙だった。
「ありがとう、空」奏はかすれた声で言った。
空は優しく微笑んだ。その笑顔は、まるで夜空に輝く一番星のように、奏の心を照らしていた。
二人は再び星空を見上げた。無数の星々が、まるで二人の未来を祝福するかのように輝いていた。奏は深く息を吸い込んだ。冷たい夜気が肺に染み渡る。しかし、今はその冷たささえも、新しい始まりを告げるものに感じられた。
「空」奏は小さな声で呼びかけた。
「うん?」
「私、頑張る。自分の夢に向かって、一歩ずつでも進んでいく」
空は静かに頷いた。「うん、一緒に頑張ろう」
その言葉に、奏は心の中で固く誓った。たとえ周りの理解が得られなくても、自分の道を歩んでいこうと。そして、いつか必ず、自分の声で多くの人々の心に届けられる日が来ることを。
天文台を後にする二人の背中に、星々は優しく光を投げかけていた。それは、まるで二人の未来を照らす道標のようだった。奏は空を見上げ、小さくつぶやいた。
「これからも、こんな素敵な星空が見られますように」
その願いは、きっと星々に届いたに違いない。そして、その星々の光は、奏の心の中に灯された小さな希望の炎を、優しく包み込んでいた。

冬の朝の冷たい空気が、奏の頬を刺すように撫でていった。息を吐くたびに白い霧が立ち昇り、すぐに消えていく。学校への道すがら、奏の足取りは普段よりも少し速かった。心の中で、空との再会を期待していたからだ。
教室に入ると、奏の目は自然と空の席を探していた。しかし、そこには空の姿はなかった。机の上には誰の荷物も置かれておらず、椅子は整然と机の下に収まったままだった。奏の胸に、小さな不安が芽生える。
「八神くんは風邪で休みです」
担任の先生の言葉が、教室に響いた瞬間、奏の心に落胆が広がった。風邪。たった二文字の言葉が、奏の胸に重くのしかかる。それは単なる病気の名前以上の意味を持っていた。空との大切な時間が、一時的にせよ奪われてしまったのだ。
窓の外では、灰色の空が広がっていた。細かな雪が、静かに舞い落ちている。その光景が、奏の心の中の寂しさを映し出しているかのようだった。雪の結晶一つ一つが、空との思い出のかけらのように感じられた。
(空、大丈夫かな...)
その思いが、奏の心を占めていた。授業中も、奏の心はどこか上の空だった。黒板に書かれる文字も、先生の声も、どこか遠くに聞こえる。まるで水中にいるかのような感覚だった。頭の中は、空のことでいっぱいだった。
昼休み、いつもの屋上での食事。しかし、空がいない今、その場所は妙に広く、寒々しく感じられた。いつもは三人で分け合っていた空間が、今は二人きりになってしまった。風が吹くたびに、奏は身を縮めた。それは寒さからだけではなく、空の不在が作り出す心の隙間を埋めようとする無意識の動きだった。
茉莉が明るく話しかけてくるが、奏の返事は上の空だった。言葉の意味は理解しているのに、それに対する適切な反応ができない。まるで、自分の心と体が別々に動いているかのようだった。
「奏、大丈夫?」茉莉の声に、奏は我に返った。その声には、心配と優しさが混ざっていた。
「ごめん、ちょっと考え事してて」奏は小さく微笑んだが、その笑顔は心からのものではなかった。
茉莉は心配そうな目で奏を見つめた。「空くんのこと?」
その言葉に、奏は思わず顔を上げた。自分の気持ちがそんなに簡単に読み取られてしまったことに、少し戸惑いを覚える。同時に、自分の感情があまりにも表に出ていることに気づき、頬が熱くなるのを感じた。
「うん...ちょっと心配で」奏は小さな声で答えた。その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
茉莉は優しく微笑んだ。「きっと大丈夫だよ。ただの風邪なんでしょ?」
奏は小さく頷いた。しかし、心の中では別の思いが渦巻いていた。
(私のせいかもしれない...)
その思いが、奏の心を重く圧迫する。毎晩、寒い夜に天文台で過ごしていたこと。空が自分の練習に付き合ってくれていたこと。それらの記憶が、奏の心を重くしていく。自分の夢のために、大切な人を犠牲にしてしまったのではないか。その罪悪感が、奏の心を蝕んでいった。
放課後、奏は決心した。空の家に行こう。お見舞いに。その決断には、心配だけでなく、自分の気持ちを確かめたいという思いも込められていた。
しかし、すぐに壁にぶつかった。空の家がわからないのだ。その事実に気づいた瞬間、奏は自分がいかに空のことを知らないかを痛感した。
「ねえ、空……八神くんの家知ってる?」
クラスメイトに聞いても、誰も知らないという。その度に、奏の心は沈んでいく。まるで、空という人物が幻だったかのような不安さえ感じ始めた。
(私、空のこと何も知らないんだ...)
その気づきが、奏の胸を締め付けた。毎晩一緒に過ごし、大切な時間を共有してきたはずなのに。空は奏のことをよく知っているのに、奏は空のことを何も知らない。その不均衡さに、奏は深い後悔を覚えた。
夕暮れ時、奏は一人で帰路についた。街路樹の影が長く伸び、その先端が奏の足元をかすめていく。その影は、奏の心の中の不安の影のようにも見えた。空を見上げると、まだ薄明るい空に、かすかに星が見え始めていた。その星々が、奏に何かを語りかけているようにも感じられた。
(空、今頃何してるんだろう...)
その思いが、奏の心を占めていた。家に着くと、奏は急いで部屋に向かった。窓から見える夜空は、いつもより寂しく感じられた。天文台での時間を思い出す。空の優しい声、星々の輝き、二人で過ごした特別な時間。それらの記憶が、今は奏を苦しめるものとなっていた。
奏は深いため息をついた。胸の中で、後悔と心配が入り混じる。もっと空のことを知ろうとすべきだった。もっと空に聞くべきことがあった。その思いが、奏の心を重くしていく。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。そこには、空との思い出が映し出されているかのようだった。星座の話、声優の練習、そして何より、空が奏に向けてくれた優しい言葉。
「自分らしく生きて」
その言葉が、今も奏の心に響く。しかし同時に、その言葉の重みを感じる。自分らしく生きるとは何なのか。それは他人を犠牲にしてもいいということなのか。そんな疑問が、奏の心を揺さぶる。
(私は、本当に自分らしく生きられているのかな...)
その問いかけが、奏の心の中で繰り返し響く。答えは見つからないまま、奏は眠りについた。
翌朝、奏は早めに家を出た。いつもより少し遠回りをして、空の家があるかもしれない地域を歩いてみる。朝もやの立ち込める街を、奏は必死に探し回った。しかし、どの家も見知らぬ家ばかり。空の姿は見つからない。その事実が、奏の心にさらなる寂しさを植え付けた。
学校に着くと、またしても空の席は空いたままだった。奏の心に、さらなる不安が広がる。その空席が、奏の心の中の空白を象徴しているかのようだった。
授業中、奏は窓の外を見つめていた。冬の陽光が、教室の中に淡い光の模様を作っている。その光が、まるで空からのメッセージのように感じられた。光の粒子一つ一つが、空の言葉を運んでいるかのように。
(空、早く元気になって...)
その祈りが、奏の心の中でずっと繰り返されていた。
放課後、奏は再び天文台に向かった。空がいなくても、ここなら空との繋がりを感じられるような気がした。それは奏にとって、空との約束の場所であり、二人だけの秘密の空間だった。
天文台に着くと、奏は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に染み渡る。その冷たさが、奏の心の熱を少し和らげてくれるようだった。星々が、少しずつその姿を現し始めていた。それぞれの星が、空との思い出を象徴しているかのように輝いていた。
奏は静かに声を出した。まるで空に聞かせるかのように。
「空、私ね、あなたのことをもっと知りたいの。だから、早く元気になって戻ってきて」
その言葉が、夜空に吸い込まれていくようだった。星々が、その願いを受け止めてくれたような気がした。奏の心に、小さな希望の灯りが灯った。
奏は再び家路についた。明日は、きっと空が戻ってくる。そう信じながら歩を進める。その信念が、奏の足取りを少し軽くした。
家に着くと、奏は窓辺に立ち、夜空を見上げた。そこには、いつもの星々が輝いていた。その光が、奏の心に小さな希望を灯す。それぞれの星が、空からのメッセージを運んでいるかのように感じられた。
(きっと大丈夫。空は必ず戻ってくる)
そう思いながら、奏は静かに目を閉じた。明日への期待と不安が入り混じる中、奏の心は少しずつ落ち着いていった。空との再会を信じる気持ちが、奏の心を温かく包み込んでいく。
星々の光が、奏の顔を優しく照らしている。それは、まるで空からの励ましのようだった。その光の中に、奏は明日への希望を見出していた。

冬の朝、冷たい風が校庭を吹き抜け、奏の頬を刺すように撫でていった。その冷たさに思わずマフラーを引き寄せながら、奏は学校への道を急いだ。胸には小さな期待が膨らんでいた。今日こそ、空が学校に戻ってきているかもしれない。三日間、空の姿を見ないだけで、こんなにも心がざわつくものなのかと、自分でも驚いていた。
教室の扉を開けると、奏の目は自然と空の席を探した。そして、そこには確かに空が座っていた。三日ぶりに見るその後ろ姿は、どこか頼りなく見えたが、それでもそこに空がいるという事実だけで奏の胸は温かくなった。
「おはよう、八神くん!」
クラスメイトたちが明るく声をかける中、空は軽く手を挙げて応えた。その仕草はいつも通りだったが、奏には何か違和感があった。彼の肩はどこか力なく落ちていて、その顔色も優れないように見えた。
奏は自分の席につきながら、ちらりと空を見やった。彼と目が合うと、空は少し照れくさそうに微笑んだ。その笑顔はいつものように柔らかかったが、その奥に隠された疲労感を奏は見逃さなかった。 昼休みになり、いつものように茉莉と三人で屋上へ向かった。冬の冷たい風が吹き抜ける中、奏は空の隣に座りながら、おそるおそる尋ねた。
「八神くん、大丈夫?まだ顔色がよくないよ」
その言葉に、空は一瞬だけ目を伏せ、それから曖昧な笑みを浮かべた。「大丈夫だよ。ただちょっと寝不足なだけ」
その答えに、奏はさらに不安を覚えた。寝不足というには、その顔色はあまりにも悪すぎた。しかし、それ以上追及することもできず、彼女は小さく頷くだけだった。
弁当を食べながらも、奏の視線は何度も空へ向かった。茉莉が明るい声で話しかけても、空はどこか上の空で、それでも無理に笑顔を作って応じている。その姿を見るたびに、奏の胸には小さな棘が刺さるような痛みが広がっていった。 昼食を終えた後、屋上から教室へ戻る途中で、奏は意を決して言葉を口にした。
「ねえ、空。本当に無理してない?まだ全快していないなら、夜会うのはしばらくやめようか」
その提案には、自分自身への戸惑いも含まれていた。天文台で過ごす時間。それは奏にとって特別なものであり、大切なひとときだった。それでも、それ以上に空の体調が心配だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、空の表情が一瞬だけ硬くなった。そしてすぐに笑顔を浮かべ、「大丈夫だよ」と力強く答えた。その声には妙な説得力があり、それ以上反論する余地を与えてくれなかった。
「でも...」奏が続けようとすると、空は軽く手を振って遮った。「本当に大丈夫だから。むしろ早く天文台で星を見たいよ」
その言葉には確信めいたものがあった。しかし、その頑なな態度にはどこか違和感も感じられた。それでも奏はそれ以上何も言えず、小さく頷くだけだった。 夜になり、冷たい風が街路樹の枝を揺らしていた。月明かりが雪道を淡く照らし、その光景はどこか幻想的だった。奏はマフラーを巻き直しながら天文台へ向かった。
(本当に大丈夫なのかな...)
歩きながらも、その思いが頭から離れなかった。昼間の空の様子。その曖昧な笑顔。その頑なな態度。それら全てが心配となって胸に残っていた。しかし、それでも天文台へ向かわずにはいられなかった。あの場所で過ごす時間。それは彼女にとって欠かせないものになっていた。
天文台に着くと、そこにはすでに空の姿があった。彼は柵にもたれかかりながら夜空を見上げていた。その背中にはいつもの余裕や落ち着きではなく、一抹の疲労感が漂っているようにも見えた。
「遅かったね」振り返った空は柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔を見るだけで、奏の胸には安堵感と同時に新たな不安が広がった。
「ごめんね。でも、本当に大丈夫なの?」奏は思わず問い詰めるような口調になった。
「大丈夫だよ」空は軽く肩をすくめて答えた。「星を見る時間を減らすなんて考えられないからね」
その言葉には確かに情熱が込められていた。しかし、その情熱の裏側には何か無理をしているようにも感じられた。それでも奏はそれ以上何も言えず、小さく頷くだけだった。 二人で並んで星空を見上げる。その光景はいつも通り美しく、それだけで心が満たされるようだった。しかし、その美しさとは裏腹に、奏の胸には妙な重さが残っていた。
「今日も星座教えてよ」奏がそう促すと、空は少し考える素振りを見せ、それから夜空を指差した。「あそこに見える五角形。それが『ぎょしゃ座』だよ」
「ぎょしゃ座?」奏は初めて聞く名前に興味津々だった。
「そう。馬車使いという意味なんだ。この五角形の中でもひときわ明るい星、『カペラ』っていうんだよ。この星座全体では王様エリクトニウスという人物ともされていてね」
「王様...?」奏の目には驚きと好奇心が混じっていた。「そんな星座もあるんだ」
「うん。そしてこのカペラって星ね、人類史上最初期から観測されている星なんだよ」
その説明にはいつもの情熱的な語り口調が戻っていて、一瞬だけ安心した。しかし、その声にも微かな疲労感が混ざっていることに気づいてしまう自分もいた。 夜風が二人の間を吹き抜ける。その冷たい風にも負けず、星々は静かに輝いていた。その光景を見るだけで、不思議と心が落ち着いていく。しかし、その落ち着きとは裏腹に、奏の胸には新たな決意も芽生えていた。
(もっと空のこと知りたい...)
それは単なる好奇心ではなく、大切な人として彼を支えたいという願いから生まれた思いだった。そしてその思いこそ、この夜空よりも深く広いものだということを感じていた。 帰り道、一緒に歩く二人。それぞれ抱える想いとは裏腹に、その光景だけを見る限りでは穏やかなひと時だった。しかし、その穏やかな時間とは裏腹に、それぞれ胸の中では新しい物語への扉が開こうとしていた。

冬の冷たい風が、教室の窓を揺らしていた。外では灰色の空が広がり、時折ちらちらと雪が舞っている。奏は教科書を開きながらも、どこか集中できないでいた。窓の外に目を向けるたびに、心の中に小さなざわめきが広がる。空のことが気になって仕方がなかった。
その時だった。教室の後ろで誰かが「八神くん、大丈夫?」と声を上げた。振り返ると、空が机に突っ伏している姿が目に入った。その肩は小刻みに震えていて、顔は見えないが、その様子から明らかに体調が悪いことが伝わってきた。
「八神くん、大丈夫ですか?」
担任の高橋先生も気づき、急いで駆け寄った。クラスメイトたちの視線が一斉に空に集まる中、奏は胸の奥で何か鋭いものに刺されたような感覚を覚えた。
「保健室へ行きましょう」
先生の言葉に促されて、空はゆっくりと立ち上がった。その顔は蒼白で、いつもの柔らかな笑顔などどこにもなかった。奏はその姿を見つめながら、胸の中で不安が膨らんでいくのを感じていた。 授業が終わり、昼休みになると、担任の先生から声をかけられた。「桐島さん、学級委員として八神くんの様子を見てきてもらえるかな?」
その言葉に、奏は小さく頷いた。理由は学級委員という名目だったが、本当は自分自身も空の様子を知りたかった。それ以上に、彼のそばにいたいという気持ちがあった。
保健室へ向かう廊下は静まり返っていた。冬特有の冷たい空気が漂い、その中を歩く奏の足音だけが響いている。保健室の扉を開けると、中には養護教諭の先生と数枚の白いカーテンだけが目に入った。
「ああ、八神くんなら奥で休んでいますよ」
養護教諭の先生は優しく微笑みながら指差した。その先には、一枚のカーテンで仕切られたベッドがあった。
「ちょっと職員室に行ってくるので、八神くんのこと見ててくれますか?」
「あ、はい」
奏は小さくお辞儀をして、そのカーテンへと近づいた。カーテン越しには何も見えない。ただ、その向こう側には確かに空がいる。その事実だけで、胸の奥からじんわりと温かさと緊張感が広がっていった。 「空...大丈夫かな」
小さな声で呟きながら、奏はカーテン越しに立ち尽くした。彼女は一歩踏み出すべきかどうか迷っていた。その距離はほんの数十センチしかないはずなのに、その一歩が果てしなく遠いものに感じられた。
カーテン越しには微かな寝息だけが聞こえてくる。それは規則正しいものではなく、ときおり途切れるような浅い呼吸だった。それでも、その音だけで空がそこにいることを感じ取ることができた。
(こんなにも近くにいるのに...)
奏は手を伸ばせば触れられる距離にいる空を前にして、不思議な感覚に囚われていた。カーテン一枚隔てただけなのに、その存在はどこか遠い宇宙の向こう側にあるような気持ちになった。その距離感は物理的なものではなく、心と心との間にある見えない壁のようだった。 奏はそっと椅子を引き寄せて座り込んだ。そしてカーテン越しに静かに語りかけるような声で言った。「空、本当に無理してない?」
もちろん返事など返ってこない。彼女もそれを期待していたわけではなかった。ただ、自分自身の心を整理するためにも、この言葉を口にする必要があった。
(どうしてこんなにも無理をするんだろう...)
天文台で過ごした夜々の記憶が頭をよぎる。星座について語る時の情熱的な表情。そしてその裏側には隠しきれない疲労感。それでも無理して笑顔を作り続ける彼。それら全てが今、この保健室という静寂の中で鮮明によみがえってきた。 ふと、カーテン越しから微かな動きが伝わってきた。寝返りでも打ったのだろうか。その音だけで奏の心臓は跳ね上がるようだった。この狭い空間には自分と空しかいない。その事実だけでも胸が高鳴る。
(もっと近づいてもいいんだろうか...)
そんな思いと同時に、自分には踏み込む資格などないという思いも湧き上がる。それでも奏はそっと手を伸ばし、カーテン越しに自分の指先をそっと触れさせた。その布越しから伝わる温度や感覚など何もない。ただ、それでもその行為自体になぜか安心感を覚えた。 その時、不意に養護教諭が戻ってきた。「桐島さん、八神くん大丈夫そうですか?」
その声にはっと我に返った奏は慌てて椅子から立ち上がった。「はい、多分大丈夫だと思います」
養護教諭からのお礼を受けつつ、奏は保健室を後にした。しかし、その足取りにはまだ迷いや不安、それ以上に何とも言えない温かな余韻も残されていた。 教室へ戻る途中、廊下から見える冬の日差しは弱々しく、それでも透明感ある輝きを放っていた。その光景を見るだけで少しだけ心が軽くなる気もした。しかし同時に、自分自身への問いも浮かび上がってきた。
(私は空に支えられて生きているけど、私は空を支えられているんだろうか...)
その問いへの答えはまだ見つからない。それでも、恩返しのために、自分なりのできることを探していこうという決意だけは胸の中で静かに芽生えていた。そしてその決意こそ、この日保健室で感じ取ったものなのだと思えた。 冬の日差しと冷たい風。それら全てが混ざり合うこの季節。その中で奏と空との関係性もまた少しずつ変化していこうとしていた。それはまだ形にならないものだったとしても、それでも確実な何かだった。そしてその何かこそ、この先二人だけしか知らない物語への扉となるものなのだろうと思えた。
冬の冷たい風が、教室の窓を揺らし、微かな震えをもたらしていた。窓ガラスに触れる冷気が、奏の指先にまで届くような気がした。彼女は机に向かいながら、空の席をじっと見つめていた。そこには3日前から誰も座っていない。その空席は、まるで奏の心の中にぽっかりと空いた穴のようだった。
高橋先生から聞かされた「体調不良」という言葉が、奏の耳の中で何度もこだまする。それ以上の情報は得られず、先生も多くを語ろうとはしなかった。ただ、その一言だけで、奏の胸には不安が渦を巻いていた。窓の外では灰色の空が広がり、時折舞い落ちる雪が、奏の心の中にある寂しさを映し出しているようだった。
(空の家、どこにあるんだろう...)
その思いが、胸を締め付ける。自分から聞き出さなかったことを後悔する気持ちが、胸の奥で重くのしかかっていた。下心があるように思われたくない。そんな些細な恐れが、今となっては大きな障壁となっていた。
教室の空気は重く感じられた。クラスメイトたちが談笑する声も、どこか遠くで聞こえているようだった。黒板に書かれた文字もぼんやりとしか見えない。全ての焦点が空の不在に向けられているかのようだった。 放課後、奏は重い足取りで家路についた。街路樹の枝々は雪に覆われ、その白さが夕暮れ時の街を幻想的に彩っていた。しかし、その美しさも奏には空虚に映った。ただ一人、空との思い出が詰まった天文台へと向かう。
天文台に着くと、そこには誰もいなかった。当たり前のことなのに、奏は深い失望感を覚えた。冷たい風が頬を撫で、その冷たさが心の中まで染み渡るようだった。
星空を見上げると、そこにはいつもと変わらない星々が輝いていた。しかし、空がいないその光景はどこか色あせて見えた。星々は変わらずそこにあるという事実だけが、逆に彼女を切なくさせた。
「空、元気かな...」
小さく呟いたその言葉は夜空へ吸い込まれていった。返事など返ってくるはずもない。それでも奏はその静寂に耳を澄ませていた。星々はただ黙って輝いている。それなのに、その光には何か語りかけてくるものがあるような気がした。 家に帰ると、母親が待ち構えていた。その表情からして、良い話ではないことはすぐに分かった。最近返却されたテスト結果を見せながら、「塾に通うべきだ」と言われた瞬間、奏の心臓は跳ね上がった。
「夜に佐藤さんの家で勉強しているんでしょう? なんで成果が出ないの? 実は遊んでいるんじゃないの?」
母親から投げかけられる言葉は鋭く刺さった。その一つ一つが、自分自身への責任感や罪悪感を呼び起こす。
「そんなことないよ……茉莉と一緒に勉強してるから」
「だったらなんで成果が出ないのって聞いているのよ!」
母親の声には苛立ちと失望が混じっていた。その視線から逃れるようにして俯きながらも、奏は自分自身を奮い立たせるように言葉を絞り出した。
「次の試験では平均90点以上を取ります」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど強い決意を感じた。それでも、不安も同時に胸を占めていた。この約束を守れなければどうなるだろう。母親との関係だけでなく、自分自身への信頼も崩れてしまうかもしれない。
母親は少し驚いた表情を浮かべたものの、「それならいいわ」とだけ言って部屋を出て行った。その背中を見送りながら、奏は自分自身への責任感とプレッシャーを感じていた。 夜になり、ベッドに横たわりながら天井を見つめていた。目を閉じれば浮かぶのは空との思い出ばかりだった。星座について語り合った時間。声優になる夢について話したこと。そして何より、「自分らしく生きて」と語りかけてくれたあの日の優しい声。
(空、早く元気になって...)
その祈りだけが胸いっぱいに広がっていた。それでも答えなど得られるわけではなく、不安と期待だけが入り混じったまま眠りについた。 翌朝早く目覚めた奏は、一つ決意したことがあった。少し遠回りしてでも、空の家につながる手掛かりを探そうと思った。朝もや立ち込める街並み。その中で懸命に探し続けても、それらしい場所には辿り着けなかった。ただ歩き続ける足音だけが、自分自身への焦燥感として響いていた。

放課後、奏は図書館へ向かった。母親との約束を守るため、そして空が戻ってきたときに胸を張って会えるように。冷たい風が校舎の窓を叩き、冬の夕暮れが静かに街を包み込んでいく中、奏は重い足取りで図書館の扉を開けた。
中は暖房の効いた温かな空気に満ちていたが、それでも奏の心には冷たいものが残っていた。静寂に包まれた空間には、ページをめくる音や鉛筆が紙を擦る音だけが響いている。奏は窓際の席に座り、カバンからノートと教科書を取り出した。
目の前には解かなければならない問題が並んでいる。しかし、その文字列はどこか遠くにあるように感じられた。頭の中では、空のことばかりが渦巻いている。
(空、今何をしているんだろう...)
その思いが、何度も何度も胸の中で繰り返される。体調不良と聞いてから3日間。彼がどんな状態なのかもわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。その無力感が、奏の心を締め付けていた。
窓の外を見ると、夕焼けが街を赤く染めていた。その光景は美しいはずなのに、奏にはどこか切なく映った。空と一緒に見た星空を思い出す。あの日々の輝きが、今は遠い記憶のように感じられる。
(もっと早く聞いておけばよかった...)
空の家の場所を知らない自分への後悔。あの日、「家どこなの?」と軽く尋ねていれば、今こんなにも悩むことはなかっただろう。しかし、その時はそんなことを聞く勇気もなかった。下心があると思われたらどうしようという小さなプライド。それが今、大きな壁となって自分を苦しめている。
「次の試験では平均90点以上を取ります」という母親との約束。その言葉だけが今、自分を支えているようだった。この約束を守ることで、自分自身に価値を見出せる気がした。そして、それが空との再会への一歩になるような気もしていた。 ノートに目を戻し、問題を解こうとする。しかしペンを握る手は止まり続けた。頭では理解しているはずなのに、心は別の場所にある。それでも奏は必死に集中しようとした。母親との約束だけではない。これは自分自身への挑戦でもあると思ったからだ。
ふと窓越しに夜空を見ると、一番星が輝き始めていた。その光は小さくても力強く、まるで奏に語りかけているようだった。
(頑張らなくちゃ...)
その星の輝きを見つめながら、奏は深呼吸した。そしてペンを握り直し、一つずつ問題に向き合い始めた。その動作はぎこちなくても、一歩ずつ進んでいる感覚があった。 図書館を出る頃には、街はすっかり夜の帳に包まれていた。雪道には街灯の明かりが反射し、淡い光の道筋を作っている。その光景はどこか幻想的で、美しくも儚げだった。
奏は星空を見上げた。そこには無数の星々が瞬いている。その一つ一つに空との思い出が重なるようだった。
(きっと空も、この星空を見ているよね...)
そう思うだけで少しだけ心が温かくなる。同じ星空を見ることで、自分たちが繋がっているような気持ちになれる。それだけでも十分だと思おうとした。 家路につく途中、奏はふと天文台へ足を向けた。そこには誰もいないことなどわかっている。それでも、その場所へ行きたいという衝動に駆られた。
天文台へ続く道は雪で覆われており、その上についた自分の足跡だけが続いていく。その足跡を見るたびに、自分自身の孤独さを感じる。それでもその先には、大切な思い出が詰まった場所がある。それだけで足取りは少し軽くなった。
天文台に着くと、一面に広がる星空が迎えてくれた。その光景はいつも通り美しく、それだけで心が洗われるようだった。しかし、その美しさとは裏腹に、胸には切なさも広がっていた。
「空...早く元気になって戻ってきて」
小さな声で呟いたその言葉は、夜空へ吸い込まれていった。その静寂の中で耳を澄ませても、返事など返ってこない。それでも、その言葉を口にすることで少しだけ心が軽くなった気がした。 家へ帰る途中、奏はふと思った。(もう少し頑張ろう)それは勉強だけではなく、自分自身への励ましでもあった。この冬という厳しい季節を乗り越えるためには、自分自身も強くならなくてはいけない。そう思うことで、小さな希望の光が胸の中に灯った気がした。
家へ着き、自室へ入ると真っ先に窓辺へ向かった。そこから見える夜空には、一番星から広がる無数の星々。その光景を見るだけで、不思議と心が落ち着いていった。
(明日はもっといい日になるよね)
そう自分に言い聞かせながらベッドへ横たわった。そして目を閉じると同時に浮かんできたのは、やっぱり空との思い出だった。その記憶一つ一つが、自分自身への力となっていることを感じながら眠りについた。 この冬という季節。その冷たさや厳しさの中にも、小さな温もりや希望が隠されていること。それら全てを抱えながら、奏の日々は続いていく。そしてその先には必ず、新しい朝、新しい出会い、新しい物語が待っていることを信じながら――。
夕暮れの空が赤く染まり始めた頃、桐島奏は家の玄関に立っていた。重い足取りで靴を脱ぎながら、彼女の心臓は不安に早鐘を打っていた。今日も嘘をついてしまった。その罪悪感が、彼女の胸の奥深くで渦を巻いていた。
「ただいま」
奏の声は、いつもより少し小さかった。返事を待つ間、廊下の壁に掛かった家族写真が、彼女を責めるように見つめているような気がした。その写真の中の奏は、まだ嘘を知らない、純真な笑顔を浮かべていた。
「おかえり」
母の声が台所から聞こえてきた。その声には、いつもの温かさが欠けていた。奏は胸の奥で何かが凍りつくような感覚を覚えた。
リビングに入ると、母が立っていた。窓から差し込む夕日の光が、母の横顔を赤く照らしていた。その姿は、まるで審判を下す女神のようだった。
「夜どこに行ってるの?」
母の問いかけは、静かでありながら鋭い刃物のように奏の心を突き刺した。奏は咄嗟に目を逸らし、床の模様を見つめた。その模様が、彼女の混乱した心のように渦を巻いて見えた。
「どこって……茉莉の家……だよ」
奏の声は震えていた。嘘をつく度に、自分の中の何かが少しずつ崩れていくような感覚があった。
「嘘おっしゃい」
母の言葉は、冷たい雨のように奏の心に降り注いだ。奏は必死に言い訳を探そうとしたが、頭の中は真っ白だった。
「嘘じゃな……」
言葉が喉につまった。その瞬間、奏は自分の声が、まるで遠くから聞こえてくるかのように感じた。
「今日ね、スーパーで茉莉ちゃんと弟さんと会ったのよ。茉莉ちゃんが変な反応だったから、急いで捕まえたわよ。そしたらあなた……一度も茉莉ちゃんの家には行ったことがないそうじゃない!」
母の言葉一つ一つが、奏の心に深く刻まれていった。窓の外では、夕日が沈みかけていた。その赤い光が、まるで奏の心の中の炎のように見えた。
「……!」
奏は言葉を失った。茉莉がバラしたのだろうか。そう思った瞬間、友人を疑った自分に嫌悪感を覚えた。
「弟さんが教えてくれたわよ。茉莉おねえちゃんのお友達は誰一人として一度も家に来たことがないってね」
母の言葉に、奏は自分の世界が音を立てて崩れていくのを感じた。嘘の上に築いた城が、砂のように崩れ落ちていく。
「……」
奏は黙ったまま、窓の外を見つめた。夕日は完全に沈み、空は紫色に染まり始めていた。その色が、奏の心の中の混乱を表しているかのようだった。
「奏、あんた、親に嘘までついてどこに行っているの?」
母の声には怒りと悲しみが混ざっていた。奏は、その声の中に失望の色を感じ取った。それは、彼女の心を更に深く傷つけた。
「こっちを見なさい! まさか自分の娘がそんな嘘つきだとは知らなかったわ。私の育て方が悪かったのでしょうね。情けない」
母の言葉は、奏の心に深く突き刺さった。自分が母を失望させてしまったという事実が、彼女の胸を締め付けた。
「お母さん……ごめんなさい……私……」
奏の声は震えていた。言葉にならない感情が、彼女の喉をつまらせた。
「言い訳なんか聞きたくないわ!」
母の声は、まるで雷のように響いた。その瞬間、奏の脳裏に空の声が浮かんだ。『いつでも奏の味方だから』その言葉が、彼女に勇気を与えた。
「お母さん聞いて、私……夢が……」
奏は必死に言葉を紡ごうとした。その瞬間、彼女の心の中で何かが動き出した。長い間押し殺してきた自分の想いが、今まさに溢れ出そうとしていた。
「夢? 今更何を言っているのよ! あんたのような平凡な娘が夢なんか語ってんじゃないわよ!」
母の言葉は、鋭い刃物のように奏の心を切り裂いた。その瞬間、奏の中で何かが壊れた。長年積み重なってきた思いが、一気に溢れ出した。
奏は、自分でも驚くほどの勢いで玄関に向かって走り出した。靴を履く間も惜しんで、素足のまま外に飛び出した。
夜の空気が、奏の肌を刺すように冷たかった。街灯の光が、彼女の涙を照らしていた。奏は、ただひたすら走り続けた。どこに向かうのかも分からないまま、ただ前に進み続けた。
足の裏が痛んでも、息が上がっても、奏は止まらなかった。走りながら、彼女の頭の中では様々な思いが渦を巻いていた。母への申し訳なさ、自分の弱さへの怒り、そして何より、自分の夢を否定された悲しみ。
街の喧騒が遠ざかり、奏の耳には自分の荒い息遣いだけが聞こえていた。

夜の闇が街を包み込み始めた頃、桐島奏の足は公園へと向かっていた。街灯の光が彼女の涙で濡れた頬を照らし出し、その姿は影絵のように揺れ動いていた。冷たい夜風が彼女の髪を乱し、まるで奏の心の中の混乱を表現しているかのようだった。
公園に着くと、奏はベンチに腰を下ろした。木々の葉が風に揺れる音が、彼女の小さな啜り泣きに寄り添うように聞こえた。月明かりが地面に落とす影は、奏の心の中の闇を映し出しているようだった。
悔しさと悲しみが波のように押し寄せてきた。自分が平凡だということは、痛いほど分かっていた。それは、鏡に映る自分の姿を見るたびに感じる現実だった。何者かになりたい。その思いは、胸の奥深くで燃え続ける小さな炎のようだった。しかし同時に、きっとなれないまま一生を終える「その他大勢」の一人だということも、うすうす気づいていた。その認識は、冷たい雨のように彼女の心に降り注いでいた。
奏は顔を上げ、夜空を見上げた。星々が瞬いている。それぞれの星が、何百光年も離れた場所で輝いているという事実が、彼女の心に響いた。一つ一つの星は小さく見えるけれど、実際はとてつもなく大きな存在なのだ。その思いが、彼女の中に小さな希望の種を蒔いた。
「なりたいものになりたい」
その言葉を、奏は静かに夜風に乗せた。一度きりの人生だから、やらずに後悔したくない。その思いは、彼女の心の中で次第に大きくなっていった。しかし、その一方で現実という重みが彼女を押しつぶそうとしていた。
両親との関係。その言葉が頭をよぎった瞬間、奏の胸が締め付けられるような痛みを感じた。両親と絶縁してまで追いかける夢なのだろうか。その問いに、奏は答えを見出せずにいた。両親を捨てる覚悟まではもてていない。その事実が、彼女の心を更に苦しめた。
公園の砂場に目をやると、昼間に子供たちが作ったであろう砂の城が、今にも崩れそうになっているのが見えた。それは奏の夢のようだった。大切に育ててきたけれど、現実という波に押し流されそうになっている。
奏は立ち上がり、その砂の城に近づいた。そっと手を伸ばし、崩れそうな部分を直す。砂は冷たく、しっとりとしていた。一つ一つの砂粒が、彼女の人生の一瞬一瞬のように思えた。
「どうすればいいの?」
その問いかけは、夜の静けさの中に吸い込まれていった。答えは簡単には見つからない。しかし、砂の城を直しながら、奏は少しずつ何かを感じ始めていた。
夢を追うことと、両親との関係を大切にすることは、必ずしも相反するものではないのかもしれない。両方を大切にしながら、少しずつ前に進んでいく。その道は険しいかもしれないが、それこそが自分の人生なのだと。
風が少し強くなり、奏の髪を優しく撫でた。その風に乗って、遠くから誰かの笑い声が聞こえてきた。夜の公園でも、確かに生きている人がいる。その事実が、奏の心に温かさをもたらした。
奏は砂の城から離れ、再びベンチに座った。膝を抱え、深呼吸をする。夜の空気が、彼女の肺を満たしていく。その瞬間、奏は決意した。
「一歩ずつでいい。でも、前に進もう」
その言葉には、これまでにない力強さがあった。平凡かもしれない。でも、その平凡な日々の中で、少しずつ夢に向かって進んでいく。両親との関係も大切にしながら、自分の道を歩んでいく。
奏は立ち上がった。
公園を出る前、奏は最後にもう一度夜空を見上げた。星々は、まるで彼女に微笑みかけているかのようだった。そして、一つの流れ星が夜空を横切った。
奏は目を閉じ、小さな願いを込めた。
「私の夢が、いつか叶いますように」
その願いは、星空の彼方へと飛んでいった。
ポケットを探ると小銭がいくつかあった。家に靴を取りに戻る気になれなくて、コンビニで一番安いゴムスリッパを一足購入した。脱いだ靴下は破れ、ところどころ血がにじんでいた。
やがて、彼女の足は自然とあの場所に向かっていた。天文台だ。

夜の帳が降りた天文台は、静寂に包まれていた。星々の光が、冷たい冬の空気を通して、かすかに地上を照らしている。桐島奏は、息を白く吐きながら、一人でその場に立っていた。空の欠席が続いていることが、彼女の心に重くのしかかっていた。
奏は首を傾げ、夜空を見上げた。星座を探そうとする彼女の目は、不安と期待が入り混じった複雑な感情を映し出していた。「あれはオリオン座……あれが……カシオペア座?」彼女の声は、冷たい空気の中で小さく震えていた。
指で星座をなぞりながら、奏の心の中には空との思い出が次々と浮かんでいた。彼の笑顔、星について熱心に語る姿、そして二人で過ごした静かな時間。それらの記憶が、今の孤独感をより一層際立たせていた。
突然、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。「あれは冬の大三角形だよ。ベテルギウス、シリウス、プロキオンの3つの星で作られているんだ」
奏は驚いて振り返った。「空!」その声には、喜びと驚きが同時に込められていた。
そこに立っていたのは確かに空だったが、いつもの彼とは少し違っていた。私服姿の空を初めて見た奏は、一瞬戸惑いを覚えた。しかし、すぐにその姿の異変に気づいた。冬の寒さにもかかわらず、空の額には汗が浮かんでいた。顔色は蒼白で、体全体が小刻みに震えている。
「大丈夫なの?」奏の声には、心配と不安が滲んでいた。
「うん……」空の返事は弱々しく、その言葉とは裏腹に体の震えは止まらなかった。
「嘘……こんなに……震えてるじゃない……」奏は思わず空に近づき、その肩に手を置いた。触れた瞬間、空の体の冷たさと震えの激しさに、奏は心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
言葉にならない感情が奏の胸の中で渦巻いていた。心配、不安、そして何より、会えた喜び。「でも」と奏は言葉を紡ぎ出した。「逢いたかった……」その言葉には、これまで抑えていた感情のすべてが込められていた。
二人は夜空の下で、静かに、そっとハグをした。その瞬間、周りの世界が消えてしまったかのようだった。星々の光だけが、二人を優しく包み込んでいた。
空は弱々しく笑いながら言った。「さあ、星を眺めてお芝居の練習をしようか」その言葉には、いつもの空の明るさが垣間見えた。しかし、その声の裏には、何か隠された痛みのようなものが感じられた。
二人は並んで夜空を見上げた。星々は、二人の秘密を見守るように、静かに輝いていた。しかし、その平和な時間は長くは続かなかった。
突然、空の体がぐらりと揺れた。奏は咄嗟に空を支えた。「空」奏の声には、恐怖と焦りが混ざっていた。
「大丈夫……」空は言葉を絞り出すように言ったが、その声は苦しげで、顔はさらに蒼白になっていた。
「大丈夫じゃないよ」奏の声は震えていた。目の前で苦しむ空を見て、奏の心は激しく動揺していた。何かをしなければ、という焦りと、どうすればいいのかわからない不安が、彼女の中で衝突していた。
「おうちの人に連絡するからスマホを貸して」奏は決意を込めて言った。しかし、その言葉に空は弱々しく抵抗した。
「そんなことをしたら……」空の言葉は途切れがちだった。奏には、その言葉の裏にある空の思いが痛いほど伝わってきた。二人の秘密の場所、二人だけの時間。それを守りたいという空の気持ち。しかし今は、それよりも大切なものがあると奏は感じていた。
「空の身体のほうが大事だよ」奏の声には、揺るぎない決意が込められていた。その瞬間、奏は自分の中に芽生えた新しい強さを感じた。これまで「いい子」を演じることに縛られていた自分が、今は空を守るために、自分の意志で行動しようとしていた。
「奏……ありがとう……でも」空の言葉は、かすかな息遣いとともに消えていった。そして、空の体が奏の腕の中でぐったりとした。
「空!空!」奏の叫び声が、静寂の夜に響いた。星々は相変わらず静かに輝き続け、二人を見守っているようだった。奏の頬を伝う涙が、冷たい夜気に触れて凍りつきそうだった。
奏は震える手でスマートフォンを取り出した。緊急連絡先を探す指が震えている。頭の中では様々な思いが渦巻いていた。空の家族に連絡すれば、二人の秘密は暴かれてしまう。でも、それよりも空の命が大事だ。
画面に映る数字をぼんやりと見つめながら、奏は決意を固めた。「ごめんね、空。でも、あなたに生きていてほしいの」そう呟きながら、奏は電話をかけ始めた。
夜空には、新しい星が瞬き始めていた。それは、奏の中に生まれた新しい勇気の輝きのようだった。天文台を包む静寂の中、奏の声だけが響いていた。「もしもし、救急車をお願いします。場所は……」
その夜、星々は二人の運命の転換点を静かに見守っていた。奏の中で何かが大きく変わり始めた瞬間だった。これまで誰にも言えなかった本当の気持ち、空への想い、そして自分自身への誠実さ。それらが全て、この危機的状況の中で、一つの強い意志となって現れたのだ。
救急車のサイレンが遠くから聞こえ始めた。奏は空を抱きしめたまま、その音に耳を傾けた。「大丈夫だよ、空。きっと大丈夫だから」その言葉は、空に向けてだけでなく、自分自身に向けても言っているようだった。
星々は静かに輝き続け、新たな朝の訪れを待っていた。その光は、奏の心に芽生えた新しい希望の光のようにも見えた。
夜の病院の空気は、昼間とはまったく異なるものだった。廊下に響く足音はどこか冷たく、蛍光灯の白い光が奏の影を長く引き伸ばしていた。救急車に乗ってからの時間は、まるで夢の中を漂っているようだった。空が担架に乗せられ、医師や看護師たちが慌ただしく動き回る様子を見ているうちに、現実感が薄れていった。
奏は、スマートフォンを握りしめたまま椅子に腰を下ろしていた。母への着信履歴が画面に並んでいる。何度もかけたが、母は一度も電話に出てくれなかった。仕方なく父に電話をしたときの、あの重い沈黙と強い口調が耳に残っている。
「説明しなさい」
父の声はいつも通り低く、冷静さを装っていたが、その裏には苛立ちが滲んでいた。それでも奏は、「後できちんと説明します」とだけ言って電話を切った。その瞬間、自分がどれだけ無責任なことをしているのか分かっていた。それでも、今は空のそばにいることしか考えられなかった。
救急車の中で見た空の顔が、目を閉じたまま静かだったことが頭から離れない。普段はあんなにも自由で、自分にはないものを持っているように見えた彼が、今はただ無防備で脆い存在に見えた。彼の額には冷たい汗が滲み、唇は青白かった。その姿が、奏の胸に深い痛みを刻み込んだ。
総合病院に着いたときも、空は一度も目を覚まさなかった。医師たちは淡々と処置を進め、その後すぐに入院手続きをするよう言われた。奏は病院の受付で書類を書きながら、自分が何をしているのか分からなくなる瞬間があった。空の家族は来ない。いや、呼ぶべきなのだろうか。でも、それは空との秘密を裏切ることになる気がした。
時計を見ると夜中の12時を過ぎていた。病院内はさらに静まり返り、遠くから聞こえるナースステーションの話し声だけが響いていた。奏は立ち上がり、窓際へと歩いた。窓ガラス越しに外を見ると、小さな雪片がゆっくりと舞い降りているのが見えた。
雪だ。
その白い結晶は街灯に照らされて輝きながら落ちていく。それを見つめるうちに、奏は自分自身もどこか遠くへ落ちていくような感覚に襲われた。この雪はどこから来て、どこへ向かうのだろう。そして自分自身は、この先どこへ向かうべきなのだろう。
病室へ戻ると、空はまだ眠ったままだった。その横顔には微かな安らぎすら感じられたけれど、それでも彼が目を開けない事実が恐ろしく思えた。ベッド脇の椅子に座りながら、奏はそっと彼の手を見る。その指先まで冷たいような気がして、自分の手で包み込んだ。
「空……」小さな声で名前を呼んだ。でも返事はない。ただ機械音だけが規則的に響いていた。
ふと、自分自身について考え始める。どうしてここまでしてしまったんだろう、と。家族への嘘、夜中まで病院で過ごす自分。そして目覚めない空を見ることで感じる、このどうしようもない孤独感。それでも彼女にはわかっていた。この瞬間、自分にはここしか居場所がないということを。
「私……何やってるんだろう」
呟きながら顔を覆った。その手には冷たい涙が触れていた。泣いてはいけないと思った。でも涙は止まらなかった。自分自身への苛立ちと無力感。そして空への心配。それらすべてが混ざり合い、一つになって胸の中で暴れていた。
しばらくして看護師から「今日は帰宅してください」と優しく促された。奏は名残惜しそうに空の顔をもう一度見つめ、「また来るね」と心の中で呟いて病室を後にした。
病院を出ると、一層雪が激しく降り始めていた。地面にはまだ積もっていないけれど、その白さが夜道をほんの少し明るくしているようだった。寒さで頬が刺されるようだったけれど、それ以上に心の中では何か温かなものも感じていた。それはおそらく、この雪景色によるものではなく、自分自身への小さな決意だった。
家路につく途中、奏はふと思った。「明日になればまた何か変わるかもしれない」。その思いだけが彼女を支えていた。そしてその思いだけでも、この夜を生き抜く理由になった。
雪片は静かに降り続け、街全体を白く染めていった。その光景だけが、この長い夜をほんの少しだけ美しいものに変えてくれているようだった。そしてその美しさだけでも、この夜を忘れられないものとして刻む理由になる気がした。
家についた頃には雪はさらに積もり始めていて、小さな足跡だけが玄関まで続いていた。その足跡を見ることで、自分自身も確かにこの世界で生きているという実感を得た気がした。そしてその実感こそ、この夜最も必要だったものなのかもしれないと思った。
「ただいま」
誰にも届かない小さな声で呟いて玄関ドアを閉めた。その瞬間、自分自身との新しい戦いが始まる予感だけが胸の中で静かに燃えていた。

雪が静かに降り続く夜、桐島奏の足音だけが静寂を破っていた。玄関に近づくにつれ、彼女の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。小さな明かりが玄関を照らし、その光が雪に反射して、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
奏は一瞬立ち止まり、深呼吸をした。冷たい空気が肺に入り込み、それと同時に胸の奥で何かが締め付けられるような感覚があった。玄関に手をかけた瞬間、廊下で引き返そうかという思いが頭をよぎった。しかし、その迷いを振り払う間もなく、リビングの扉が勢いよく開いた。
母親の姿が目に入った。その表情は、奏が今まで見たことのないほど激しい怒りに満ちていた。まるで鬼のような形相で、母の目は奏を睨みつけていた。その視線は、奏の心を直接刺すかのように鋭かった。
「いつからあんたは不良娘になったの!」
母の声は震えていた。怒りと悲しみが入り混じったその声は、奏の耳に痛いほど響いた。母はヒステリー状態で、その姿を見るのは奏にとって初めてのことだった。
リビングの奥では、父親も厳しい表情で立っていた。いつもは温厚な父の顔に浮かぶ失望の色が、奏の胸を更に締め付けた。
「お母さん、聴いて……」
奏の声は震えていた。説明したい、理解してほしいという思いが溢れ出そうとしていたが、言葉にならない。
「言い訳なんか聞きたくないって言っているでしょう! 両親をだまして、夜遊びして。さぞかし楽しかったでしょうね?!」
母の言葉は刃物のように鋭く、奏の心を切り刻んでいった。その声には、信頼を裏切られた悲しみと怒りが混ざっていた。
「お母さん……」
奏の目から涙が溢れ出した。それは反射的なものだった。母の乱れた姿、その目に宿る怒りと悲しみ、そのすべてが奏の心を引き裂いていった。
「これからあんたとお母さんは親子の縁を切ります! あんたなんかうちの子じゃない! 出て行け!」
その言葉は、奏の世界を一瞬にして崩壊させた。今まで当たり前だと思っていた家族との絆が、一瞬で断ち切られる感覚。それは、奏の存在そのものを否定されたかのような痛みだった。
「お父さん……」
最後の望みを託すように、奏は父親を見た。しかし、父の目には冷たさしかなかった。これまで一度も、父が奏の味方をしてくれたことはなかった。今回も例外ではなかった。
奏は泣きながら家を飛び出した。雪の中を裸足で走り出す。冷たい雪が足の裏を刺すように痛かったが、その痛みは心の痛みに比べれば何でもなかった。
夜の街は静寂に包まれていた。雪は静かに降り続け、奏の足跡だけが白い地面に刻まれていく。街灯の光が雪に反射して、幻想的な光景を作り出していたが、奏の目にはそれすら映らなかった。
ふらふらと歩き続ける奏の足は、気がつけば天文台に向かっていた。それは、空との思い出の場所。今の奏にとって、唯一の安らぎを感じられる場所だった。
天文台に着くと、奏はようやく立ち止まった。息は荒く、体は冷えきっていた。しかし、心の痛みはまだ激しく燃えていた。奏は天文台の壁に寄りかかり、ゆっくりと体を滑らせて座り込んだ。
雪は静かに降り続けている。奏の髪や肩に、小さな雪の結晶が積もっていく。寒さで体は震えていたが、それ以上に心が震えていた。家族に拒絶された痛み、自分の行動への後悔、そして空への心配。それらすべてが混ざり合って、奏の中で渦を巻いていた。
天文台の窓から見える夜空は、雲に覆われて星一つ見えなかった。それは今の奏の心そのもののようだった。希望の光が見えない暗闇。しかし、その中でも奏は空のことを考えていた。
「空……私、どうすればいいの?」
その呟きは、雪の中に吸い込まれていった。返事はない。ただ、静かに降り続ける雪だけが、奏の問いかけに応えているようだった。
時間が経つにつれ、奏の体はどんどん冷えていった。しかし、動く気力すらなかった。ただ、天文台の壁に寄りかかったまま、虚空を見つめ続けた。
やがて、東の空が少しずつ明るくなり始めた。夜が明けようとしている。新しい一日の始まり。しかし、奏にとってはまだ長い夜が続いているようだった。
朝日が雪に反射して、幻想的な光景を作り出す。その美しさに、奏は少しだけ心を動かされた。そして、ふと気づいた。この美しい光景を、空に見せたいと思った瞬間があったのだ。
その小さな思いが、奏の心に小さな光を灯した。まだ何も終わっていない。これからどうすればいいのか、まだ分からない。でも、少なくとも空のことを心配する気持ちは、奏の中で確かに生きていた。
奏はゆっくりと立ち上がった。体は冷え切っていて、動くのも辛かった。しかし、その小さな希望の光が、彼女を前に進ませた。
「空、待っていて。きっと、また会いに行くから」
その言葉を胸に、奏は雪の積もった道を歩き始めた。新しい一日が始まろうとしていた。


朝陽が東の空を染め始める頃、桐島奏は病院の緊急通用口の前に立っていた。夜通し歩き続けた足は重く、冷たい空気が体の芯まで染み込んでいる。それでも、彼女の心を凍らせているのは寒さではなく、空に会えないかもしれないという不安だった。
通用口には無表情な警備員が立っている。制服の襟元がきちんと整えられたその姿は、冷たく硬い壁のように感じられた。奏は何度も事情を説明しようとしたが、「関係者以外立ち入り禁止」という言葉が返ってくるだけだった。その言葉は冷たい刃物のように彼女の心を切り裂き、何度も繰り返されるうちに、奏の心は少しずつ砕けていった。
朝もやが漂う中、病院の白い壁が徐々に明るさを増していく。その光景をぼんやりと眺めながら、奏はどうすればいいのか途方に暮れていた。冷たい朝の空気が頬を撫でるたびに、昨夜の記憶が鮮明によみがえる。家を飛び出し、天文台で一晩を過ごした自分。それはまるで別人のようにも思えた。
ふと、一台のタクシーが病院前に滑り込むように止まった。エンジン音が静寂を破り、車内から派手な格好をした40代くらいの女性が降りてきた。赤いコートにハイヒール、その姿は、この静かな朝には不釣り合いなほど華やかだった。女性から漂う酒の匂いが冷たい空気に混ざり、不思議な存在感を放っていた。
女性は急ぎ足で通用口へ向かおうとしていたが、奏の姿に気づくと足を止めた。その目には怪訝そうな色が浮かんでいる。奏は思わず視線を逸らした。女性は一瞬だけ奏を見遣ると、小さく首を傾げ、そのまま通用口へ向かった。
「連絡を受けました。八神空の母です」
その声に、奏は反射的にはじかれるように振り返った。心臓が激しく鼓動を打ち始める。「八神空の母」。その言葉が彼女の中で大きく響いた。
女性は通用口を通り抜けようとしていた。その背中を見つめながら、奏の中で何かが弾けた。
「ま、待ってください!」
その声は、自分でも驚くほど大きかった。静かな朝の空気を切り裂くように響き渡る。女性と警備員が同時に振り返り、不思議そうな目で奏を見る。その視線に耐えきれず、それでも勇気を振り絞って奏は言葉を絞り出した。
「八神……八神、空くんに……逢いに来ました……」
言葉と共に涙が溢れ出した。昨夜から積み重ねてきた疲れ、不安、そして希望。それらすべてが一気に押し寄せてきて、奏はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
涙で曇った視界の中、女性と警備員の姿がぼんやりと見える。二人とも驚いた様子で立ち尽くしていた。しかし次第に女性が近づいてきて、その場にしゃがみ込むと優しく声をかけた。
「空に……空に逢いに来てくれたのね?」
その声には驚きと共に温かさが滲んでいた。その一言だけで、奏の胸につかえていたものが少しだけ軽くなる気がした。彼女は言葉にならず、ただ何度も首を縦に振った。涙は止まらない。それでも、その涙には少しだけ安堵も混じっていた。
女性はそっと奏の肩に手を置いた。その手から伝わる温もりが、凍えた心を少しずつ溶かしていく。
「あなた……昨日から外にいたの?」
女性の声には心配と驚きが入り混じっていた。奏はまた首を縦に振る。それ以外できることなどなかった。
「まあ……」女性は息を呑むような小さな声を漏らした。「こんな寒い中、一人で……」
女性は一瞬だけ遠くを見るような目をして、それから優しく微笑んだ。その表情には息子への愛情と同時に、この少女への感謝も浮かんでいるようだった。
「警備員さん」女性が毅然とした声で言った。「この子、中へ入れてあげてもいいですか?」
警備員は戸惑った様子だった。しかし女性の真剣な眼差しを見ると、小さく頷いた。
「ありがとう」女性は奏に手を差し伸べた。「さあ、一緒に行きましょう。空のところへ」
その言葉は魔法のようだった。奏の心に、小さな希望の光が灯った。震える手で女性の手を取り、よろよろと立ち上がる。その瞬間、自分自身もまた救われた気持ちになる。
朝日が病院の窓ガラスに反射して眩しいほど輝いている。その光景は、新しい一日の始まりを告げているようだった。その光景の中で、二人はゆっくりと歩き始めた。不安や緊張、それでもどこか胸奥には小さな期待——それらすべて抱えながら進む足取りだった。
病院内は静まり返っている。廊下には消毒液特有の匂いが漂い、その無機質な香りすら今だけは安心感として感じられた。窓から差し込む朝日によって白い壁には柔らかな影が落ちている。その光景すべてが現実なのだと思わせてくれる。
エレベーターから降りると、女性は立ち止まり振り返った。「ここみたいよ」と静かにつぶやく。その声には微かな震えも含まれていた。
ドア越しから聞こえてくる機械音。それだけでも空との距離感を痛感する。それでもドアノブへ伸ばされた手には迷いなどなかった。そしてドア越しから聞こえてきた母親として息子への想い溢れる一言——
「空? 会いに来てくれた人よ。」
「空……」
奏の声が空中で分解する。
奏を出迎えたのは、数時間前に別れたときとは違い大きな機械に繋がれて、まるで無機物のように横たわっている空の姿だった。

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