とある水曜日のジャーナル ~北御門~

 振り返ってみればこの二日間、結構感情の起伏激しかった。
 それなりに穏便に解決はしたものの、八つ当たりしてしまった両親には申し訳なかったという感情が今でもあった。
 許してはもらえたけど、言った言葉は取り消せない訳だし、多分母さんはあれをずっと傷にしてこれから生きて行かなければならないんだと思う。
 その一生ものの傷をつけた事に対して、俺はこれから一生かけて謝って行く心づもりでいる。
 じゃないと俺の気が済まないし、何より父さんが怖い。
(可愛い、何でも許せる、ねえ……)
 あの後、昨日父さんが言っていた母さんに対する感情を、俺は何度も頭の中で反芻した。
 それこそ、風呂に入っている時も、勉強している時も、寝る直前まで。
 でも、結論はやっぱり俺にはその感情はまだ分からない、だった。
 父さんみたいに心広くカッコよく一人の女性を想うなんて、今の所出来そうにない。
 それは俺がまだまだ未熟だからなのか。うん、多分そうなんだろう。
 だけど、いつか父さんみたいな――あんな人になりたいな、とはとても思う。
 いや、今の俺には分からないんだけど。
 そんな事を考えながら、俺は一人、帝東高校の校門を抜けて昇降口に向かって歩いていた。
 とてもいい天気で、空が青い。しかも朝一番の空気は澄んでて清々しい。
 制服を着た生徒がぞろぞろと今日も学校生活を始める為に、次々と校舎の入口に吸い込まれていく。
 おはよー、と飛び交う挨拶。雑談。笑い声。
 そんなざわめきの中、
「きたみー!!」
 と一際エネルギーの高い声が俺の名前を呼んだ。
 耳に馴染み過ぎている声だ。
「だからそのきたみー呼びはやめて下さい」
 多分言っても無駄だろうと分かっているけど、やっぱり嫌な物は嫌なので、それをアピールする為にも俺はいつも通り形だけの注意をしておく。
 がばり、と背後から突撃してきて腕を絡めて来た城咲先輩に、俺ははあ、と息を一つついた。
 仕方ないか。この人はこういう人だし。もうこっちが諦めるしかない。
 まあ、別に心底悪い気はしないし。きたみー呼びが嫌なのは本当だけど。
「ねえ、昨日ごめんね」
 突然そう言われて、俺は面食らった。
 予想外の言葉過ぎたから。
「え? 何がですか?」
 意味が分からないで、俺はぱちぱちと瞬きをしてそう返すしかなかった。
「いや、昨日何か怒ってたから。私が家の事とか変な話したからかなーって」
 なんて、的外れな発言を城崎先輩はして来て、つくづく俺を驚かせた。
「違います。全然そんなんじゃないです」
 一から説明したいけど、俺自身にもそこは良く分からない気持ちの部分だった。
 上手く分かるように伝えられる自信がない。
 て言うか、そんな事よりも腕組んでるのやめて欲しい。変な誤解させる。
 ――多分、誰にでも普通にこういう事やってるんだろうな、この人。
「……ちょっと昨日、俺も両親とやり合って」
 何となく、俺は昨日起こった事件を話し始めていた。
 家庭の話題という点で繋がりがあったからかもしれない。
「えー!? きたみーが?」
 城咲先輩が目を丸くした。
 別にそんな驚かれる程の事じゃないと思うけど。
 どれだけ俺、城咲先輩の中で『良い子』の印象だったんだろうか。
「意外……」
 呟かれた一言で、ああ、やっぱり城咲先輩は俺の事をそう思ってたんだな、と実感する。
「何でですか」
「きたみーは優しいからそんな感じじゃない。きたみーはそんな子じゃない」
「結構頻繁に怒鳴ってるじゃないですか」
 原因は主にあなただけど、と言うのは一応やめておいた。
「……そうだけど」
 同意してきた城咲先輩に俺はいやそこは否定してくれ形だけでも、と思ったけど、それも言うのをやめておく。
 この人に振り回されてペース乱されていつも怒鳴ってるのは確かだ。
 珍しくそこで城咲先輩も口を閉ざしたので、俺達の間にしては珍しく沈黙が流れた。
 でもそれは本当に少しの間だけで。
「そっか。そうなんだ」
 やがて城咲先輩は俺の発言の内容を噛み締めるようにして、一人勝手に納得していた。
「それで? 仲直り出来たの?」
「……多分」
 結局は母さんがどうなのかが問題なのだから俺が判断できることじゃないんだけど、とりあえずはそう言っていいと思う。
「そっか。えらいえらい。偉いぞ、きたみー」
 わしゃわしゃと頭を撫でられて、俺はやめて下さい、とその手の攻撃から身をどかして逃れる。
「先輩こそどうなんですか。あんまりうまくいってないって」
 昨日知ったばかりの事実だけど、俺の方も大分そこの所知られてしまったし、等価交換という形で知っておきたい。
 城咲先輩は唇を持ち上げただけだった。
「うちはもう、とっくに諦めてるから。昨日も言ったけど」
 そう言った城咲先輩は、さっぱりした顔をしていた。
 見栄でも虚勢でもなく、本心からそう思っているのだと伝わってくる。
 先輩は家庭という場所に本当に全く執着がない。
 それが理解出来ない俺は、ある意味幸せ者なのかもしれない。
「でも、あの人達の想い通りになってやるつもりもないからね。その為に今は出来る事はやっとく」
 あの人達と言うのは、多分家族の事なのだろう。
 しがみつかないでそう切り捨てる強さを持っているのは心底凄いと思う。
 昨日、俺はこの人を家族の犠牲になっているアンドロメダだと思った。
 だけど、そうじゃない。
 この人は誰かに流されて終わるような人じゃない。
 一見何も考えてなくて、いい加減で、適当に見えるけど、それはきっと表面上でしかなくて。
 この人はもっともっと興味深い人だ。
 そしてその見えてない部分を、俺はもっと知りたいと思っている。
 なかなかこの人が相手だと難しそうだけど。
「よー、二人とも元気かー」
 城咲先輩と歩いていると、突然また背後から声を掛けられた。
 誰かはもう分かっている。
「おはようございます」
 無難な挨拶を返して、俺はそれに応えた。
 一昨日からやけによくばったり会うな。
 想像していた通りの人物――佐久間先輩は、城咲先輩とは逆隣に並ぶと、来易く肩を組んで来る。
「おはよー。どうよ調子は?」
 そして開口一番、意味の分からない事を聞いて来た。
「別に普通ですよ」
 いちいち反応するだけ面倒になるだけだ。
 差し障りのない返答をして、俺は誤魔化す。
「そうかー。昨日急ーに帰ったりしたから、何かあったのかと思ったぞー」
 いちいちまた嫌な所を突いて来る。
 ていうか、これさっき城咲先輩に訊かれて答えたばかりなんだけど。
 同じ事何回も訊いてくるなと言いたくなる。
 たまたまタイミング悪くそうなっただけだったから、責める訳にもいかないけど。
「それ私も訊いたー。別に何もなかったって! 私のせいじゃなかった!」
 ほらほら、と城咲先輩は佐久間先輩にどや顔を作る。
 人のせいにしちゃいけません、駄目ですー、と城崎先輩は佐久間先輩に文句をつけている。
 あの後、二人は俺の事について色々話していたんだろう。
 自分の知らない所でそうやって気を使われていたって事で、何か恥ずかしい。
 上をいかれている気分だ。
「おー城咲はよーっす。今度の日曜、二人でカラオケ行かんー?」
「おはよー。行かない―」
 通り過ぎがてらに、一人の男子高校生が城咲先輩に声を掛けて行って、そして城咲先輩は驚いた様子もなく会話の一つとしてそれをニコニコと袖にする。
 同級生だろうか。がっちりした体型の、結構な男前だ。
 ちぇーっ、と悔しそうに唸り声を上げて、すぐにそいつは側にいた友人の所に紛れ込んでいく。
 何お前また城咲にフラれてんの? とからかわれてる姿が見えた。
「嫌じゃないんだったら一回くらい付き合ってやったら?」
 その背中を見て、佐久間先輩が城咲先輩にしみじみと言う。
「余計なお世話ですー」
 一切興味なさげで容赦もないのが凄い。
 変な感心をしつつ歩いていると、駐車場に停めてあった車の中から、一人の男性教師が姿を現した。
「あ、意地悪教師だー!」
 一昨日の事をまだ根に持っているのか、そんな表現をして、城咲先輩は俺から組んでいた腕を離すと、倉茂先生の所へと方向転換をして絡みに行く。
 意地悪教師ー意地悪教師ー、と何度も言って今度は城咲先輩の方が軽くあしらわれて袖にされているのが見えた。
 自分のやった事は自分に返って来るものだ、と痛感する。
「……お前も大変だよな」
 同情する様に佐久間先輩がぽんぽん、と俺の肩を叩いた。
「何がですか」
 本当にこの人の発言は意味が分からない。
 でも結構これで周り見ている人だし、頭も良いので、この発言にも意味が無くはないのではないか。
 意味のない発言なら意味のない発言だとこっちが分かる様に、この人は言ってくる。
「いや、何か……うん、とにかく頑張れ。俺は応援してる」
「気持ち悪い事言わないで下さい」
「今のは失礼だぞきたみー。歴世守」
「うるさいですよ」
 こんな軽口を笑って許してくれるこの人は、何だかんだで俺にとっていい先輩なのだろう。
 とりあえず今の”きたみー”と”歴世守”発言は、日頃の感謝の意味も込めて聞かなかった事にしてやろうと思った。
 そう、城咲先輩がアンドロメダじゃなかったとしても、俺は正真正銘、ペルセウス。
 北御門歴世守。
 ――それが、俺なのだ。