とある火曜日のジャーナル ~北御門その➁~

 尾根。谷と谷の間に形成されている、山地の最高部。特に等高線において対象の意味を持つ谷と混乱・混同しやすい。
 おね。言わずと知れた成り上がりの有名戦国武将で天下人である、豊臣秀吉の正妻。
 城崎先輩の言葉は支離滅裂だけど、答えが分かると確かに全てがちゃんと繋がっていたのが分かる。
 要するに、城咲先輩の目にはゴルフのコースレイアウトが地図の等高線に見えた、という事だ。
 そんなもの分かるか、と言いたいのに、実際に分かった人が傍にいたから反論の余地がなくなる。
 俺の理解力が不足していた訳じゃない。絶対そうじゃない。
 そう思いたいのに、単純にそれを呑み込んで消化できない自分がいる。
 あの後二人と別れて適当に時間を潰して帰宅した俺は、昨日に引き続いて部屋にこもっていた。
 今日は特別に生徒会の仕事があったとか、そういう事情は無い。
 着替えを済ませて、ただもやもやとした気分を抱えたままベッドの上に寝転んでいた。
「ペル君、ご飯出来たよ~」
 下の階から今日も声が掛かったけど、食欲なんて全く湧いてない。
 何だかいつも以上にそのペル君呼びがイライラして、俺はその呼びかけを無視した。
 すると、これもまた昨日と同じくぱたぱたと階段を登って来る足音がする。
 ああもう、とその時点で俺はまた不機嫌のメーターが上昇していくのを感じていた。
 とりあえず今は声を掛けて欲しくない。一人にしておいて欲しいのに。
 そんな俺の望みも虚しく、遠慮なく俺の部屋の扉は開かれた。
「ペル君、聞こえた~?」
 いつも愛用のキャラもののエプロンを身に着けての登場。
 だけど、いつも以上に何だかそれがイライラした。
 ペル君という舌ったらずなその話し方も、全部が。
「……分かったから」
 短く答えて、俺はごろんとベッドの上で転がって、背中を向ける。
 でも、それだけでは俺の今の気持ちは伝わらなかった様だった。
 分かってた事だけど、母さんはとことんこういう所に鈍い。
「今日はね、ハンバーグ! 模試の結果が届いたの! ペル君今回も一位だったからお祝い! ペル君好きでしょ?」
 断片的な喋り方は、やっぱり城崎先輩と似ているな、と思った。
 昨日発表された模試の結果が、今日郵送されてきて俺が一位だったという結果を知った、という事か。
「この間の塾のテストでも一位だったでしょ? もう、本当に母さん嬉しくて」
 次々にされる発言に、うんざりしてくる。
 そんな話題、どうでもよかった。
 そんな今まで溜めていた不満が溢れそうになった。
 いや、溢れた。
「うるさい! 何でそうなってると思ってるんだよ! あんたの子供に生まれて来なきゃこんないらない苦労しなくて済んだよこっちは!」
 上半身を起こして、俺は枕をバン、とベッドの上に叩きつけた。
 怒鳴りつけたその言葉がかなりのダメージを与えるものだったのだと気付いた時には遅かった。
 母さんは無言だった。
 ただ無表情で入口に立ち尽くしていた。
「……ごめんね」
 ぽつりと零して、ドアを閉めて去って行った母さんにやってしまった、とすぐに後悔が襲って来た。
 子供みたいにただ関係のない不満をぶつけただけだ。
 取り返しのつかない言葉を吐いたのだと自己嫌悪に陥っていると、すぐにまた足音が聞こえて来た。
「歴世守。入るぞ」
 予想していた通り父さんが姿を現して、俺に話しかけて来た。
「母さんと何かあったか」
 のほほんとしたいつもの表情ではなく、真剣な顔でそう訊ねてくる。
 あれだけ大声を出していたんだから話は聞こえていたはずだろうと言いたかったけど、それをさせないだけの圧力があった。
「母さんが何かしたのか?」
 もう一度、問いを投げかけてくる。
 今までの中でもう十分すぎる位分かっていた。
 だけど、俺は改めて今それを実感している。
 父さんは母さんの味方なのだ。唯一絶対的に、損得勘定も無く。
 ただの、愛する人の盾になる一人の男なんだ。
 ――カッコよく見えた。
「……何もしてない」
 俺はそう言うしかなかった。だって、それが事実なんだから。
「そうか。じゃあ、母さんに謝ろう」
 父さんはそれ以上は特に追及しなかった。
 俺はこくりと頷いてねえ、と今度はこっちから疑問を投げかける。
「何で俺を歴世守なんて名前にしたの?」
 前にも訊いた質問を、また投げかける。
 まともな返答が返ってくるのを期待してはいなかったけど、その予想は外れた。
「ああ。母さん、お前を生むときに死にかけたんだよ。意識を失ってね。その時、ペルセウス座が見えて、それが下りてきて、お前を守ってくれたんだってさ。――父さんにもよくわからないけどね」
 俺がお前を生んだ訳じゃないし、と父さんは苦笑いをした。
「それで、ペルセウスはお前の守り神だって。きっとお前を一生守ってくれるって。そう言ってたよ」
 初めて聞いた経緯に、俺は罪悪感が膨らんでいくのを感じた。
 父さんは俺の隣に腰を下ろして来る。
「父さんは母さんのどこが好きになったの?」
 少なくとも、俺にはあの母さんを一生の相手にするなんて無理だ。無理だと思う。
 ずっと訊いてみたかった疑問かもしれない。
 俺がそう言うと、父さんはあははと本当におかしそうに笑った。
「そうだなあ。母さんはあったかいよ。一緒にいるとハラハラするのに、ホッとする。そのハラハラも嫌じゃないな、父さんが上にいて絶対守ってあげたいね。全部が良い。可愛くて許せる。――まあ、さすがにお前の名前を歴世守にするって言い出した時にはびっくりしたけどね」
 思いっきり惚気られて、俺はげんなりしそうになった。
 いや、俺が突っ込んで訊いたんだけど。
 俺にはやっぱりあまりよく分からない感情かもしれない。
「お前は頭が良いから、改名しようと思えば出来るって知ってるだろう。――だけど、しなかった。優しい子だな」
 にっこりと父さんが微笑む。
「さあ、行こう。腹が減ってるだろう。ハンバーグだぞ」 
 立ち上がった父さんに誘導されて、俺も腰を上げる。
 正直、腹が減ってる感覚は今もない。
 でも入れれそうな気分はした。
 一緒階段を降りて、リビングまで辿り着くと、母さんは俺に向かってにっこりと微笑んだ。
 飯を茶碗によそって、テーブルに並べて行く。
「……母さん、ごめん」
 食事の支度の整ったテーブルに父さんと着いて、母さんも椅子に座ったタイミングで、俺は告げた。
 途端に、それまで普通にしていた母さんの目から涙がぱたぱたと溢れ出した。
「あんな事思ってない。母さんの子供で良かった」
 素直にそう告げると、母さんはうん、と首を縦に振って
「分かってる。ペル君優しいもんね」
 父さんと同じ事を言って来た。
「ショックだった。もう、あんな事言わないで」
「うん。もう絶対言わない」
「じゃあ、今日だけ。今日だけ許すね」
 ご飯食べよう、と母さんは涙を指で拭った。それから三人で食卓を囲んで、頂きますと両手を合わせる。
 口にした好物のハンバーグは、やっぱり甘い味がした。